↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
69/99

第69話 旅の相棒にも、手入れは必要です



 鉄樫車房の作業場には、木と鉄、それから車軸へ使う油の匂いが混ざっていた。


 開け放たれた大扉から午後の日差しが斜めに差し込み、点検台へ移された三人の馬車の下まで細長く照らしている。少し離れた作業台では若い職人が外した金具を布で拭き、さらに奥では別の馬車へ木槌を当てる乾いた音が、一定の間隔を置いて響いていた。


 ルシルは作業区域を示す床の線より外側に立ち、ドランが屈み込んでいる前輪付近を見つめていた。


「長く乗るなら、少し手を入れたほうがよさそうな場所が一つある」


 先ほど告げられた言葉が、耳に残っている。


 壊れてはいない。


 今すぐ走れなくなるわけでもない。


 それでも、これまで山道も草原も森も赤土の道も一緒に越えてきた馬車についての話となれば、聞き流す気にはなれなかった。


「どこ?」


 ルシルが尋ねると、ドランはすぐには答えず、前輪の内側へ手を伸ばした。指先で金属部分をなぞり、それから車体の下へ視線を移して、別の箇所と見比べる。


「前側の軸受けだ。正確に言えば、軸そのものじゃなくて、軸を受けてる部分の当たり方が少し偏ってる」


「偏ってる?」


「ああ。ただ、まず勘違いするなよ。壊れてるって話じゃない」


 ドランは立ち上がると、作業台に置かれていた細長い木片を一本取った。説明に使うつもりらしく、木片を車軸に見立てて両手で水平に持つ。


「車輪が回れば、当然こいつも動く。普通の馬車なら、走ってるうちに多少の癖が出るのは珍しくない。こいつの場合は車体が少し重い上に、足回りが普通よりよく動く構造になってるから、受け側にかかる力も少し違うんだろうな」


 木片の片側をわずかに押し下げ、ドランは続けた。


「今は油も切れてないし、削れ方もひどくない。だが、このまま何か月も長い道を走るなら、受けの位置を調整して、擦れてるところを整えておいたほうがいい。ついでに油も入れ直す」


「それをやれば大丈夫?」


「少なくとも、今見えてる範囲じゃな」


 断言しすぎない答えだった。


 ルシルは馬車の前輪を見る。外から眺めただけでは、昨日までと何も違わない。車輪が傾いているわけでもなく、金具が外れかけているようにも見えなかった。


(見ただけじゃ分からないんだな)


 これまで自分でも車輪や連結部分を確認してきたし、購入時には基本的な点検方法も教わっている。しかし、それで職人と同じところまで分かるわけではない。


「走ってて何か変な感じはなかったか?」


 ドランに聞かれ、ルシルはすぐに答えようとしてから、一度考えた。


「俺が運転したときは……特にないと思う。山道とか赤土の道も走ったけど、急に片側へ寄るとか、変な音がするとかはなかった」


「私も明確な異常は感じていません」


 シモンが補足する。


「長い下り坂や荒れた路面では速度を抑えていますし、途中で車輪や連結部も確認しています。軸周辺から異音が出た記憶もありません」


「なら、早めに見つけられたと思っていい」


 ドランは頷いた。


「異音が出るところまでいったら、調整だけじゃ済まないこともあるからな」


 モモが馬車の下を覗こうとして少し身体を傾ける。


「今直してもらったら、どのくらいかかりますか?」


「調整だけなら今日中だ。受けを一度緩めて位置を合わせる。削れたところも軽く整えるが、部品交換までは必要ない」


「今日中……」


 ルシルがシモンを見る。


 シモンはすでに時間と予定を考えていたらしく、少しだけ視線を上へ向けてから答えた。


「明朝出発する予定でしたから、今日中に終わるのであればお願いしていいと思います。費用を確認してからですが」


「そこ大事だな」


「大事です」


 ドランが金額を伝える。


 ルシルには、それが高いのか安いのか即座には判断できなかった。


 シモンは少し考えたものの、値切ろうとはしなかった。


「調整、油の入れ直し、それから残りの点検まで含んだ金額ですか?」


「ああ。もし別に交換が必要なところが見つかったら、勝手にやらず先に言う」


「では、お願いします」


「分かった」


 話が決まると、ドランは近くの職人を呼んだ。


 作業が始まる。


 ルシルはその場に残ろうとしたが、ドランが一度振り返った。


「兄ちゃん、本当にずっと見る気か?」


「邪魔?」


「そこにいる分には邪魔じゃない。ただ、調整は地味だぞ」


「見たい」


「そうか」


 ドランは笑い、もう止めなかった。


 ◇


 作業は、ルシルが想像していたよりもずっと静かに進んだ。


 何かを豪快に叩き直すわけではない。職人二人が車体の前側を支え、荷重を抜いた状態で金具を確認し、少しずつ固定を緩めていく。


 外された小さな部材は、作業台へ順番に並べられた。


 ドランはその一つを布で拭き、摩耗した部分をルシルたちにも見えるように傾ける。


「ここだ」


 金属の表面に、薄く色の違う部分があった。


「……これ?」


「そう。片側だけ当たりが強い」


「すごく削れてるようには見えないけど」


「だから今なら調整で済む」


 ドランは隣の正常な側と比べて見せた。


 言われてから見れば違いが分かる。


 しかし、何も知らずに二つを渡されたなら、ルシルには同じ部品にしか見えなかっただろう。


「毎回ここまで見る必要ある?」


「旅人が?」


「うん」


「ない」


 即答だった。


 ルシルは少し驚いた。


「見なくていいの?」


「日常点検でここまで外してたら、逆に壊すぞ」


「ああ……」


「普段は車輪のがたつき、妙な音、油漏れ、金具の緩み、車体の傾き、その辺を見ておけばいい。走ったあとは手で触れる場所の熱を確かめるのも役に立つが、回転部にはすぐ触るなよ」


「熱?」


「左右で妙に差があったり、触れないくらい熱くなってたりしたら、どこかが余計に擦れてる可能性がある」


 ルシルは真剣に聞いていた。


 モモも隣で頷いている。


「帳面に書きます?」


 彼女が小声で尋ねた。


「書いてほしい」


「じゃああとで」


「今じゃなくていいの?」


「作業を見たいので」


 モモもかなり興味を持っているらしい。


 シモンはそんな二人を横から見ていた。


 以前なら、こうした実務的な知識を整理して覚えるのは自分の役割だと考えていただろう。実際、今でも細かな管理は自分が最も得意であり、二人より多くを把握しておく必要もある。


 ただ、ルシルはもう説明を聞くだけではなかった。


 自分で見て、疑問を持ち、必要な範囲を尋ねている。


 モモも同じだった。


 シモンはそれをわざわざ言葉にはしなかった。三人で旅を続けるなら、それぞれが知っていることが少しずつ増えるのは、ごく自然なことなのだろう。


「シモン?」


 ルシルが振り返る。


「どうした?」


「いえ。続けて見ていてください」


「うん」


 シモンも作業へ視線を戻した。


 ◇


 軸受けの調整が続いている間、別の職人が後輪と制動部分の点検を始めた。


 ドランの許可を得て、三人は少し離れた位置からそちらも見る。


「後ろは問題なさそうだな」


 職人が車輪を回しながら言った。


 ドランが確認する。


「制動具は?」


「減ってはいるけど、まだ交換はいらない。左右差も大きくない」


「山道を走ったそうだ」


「ならこんなもんだろ」


 職人同士の会話は短いが、迷いがない。


 ルシルは制動具の位置を見ながら、自分たちが山を下ったときのことを思い出した。長い下りではシモンが速度を抑え、途中で休ませながら進んだ。


「あのとき、ずっとブレーキ使わなかったのって、これのため?」


「それもあります」


 シモンが答える。


「制動具を使い続ければ熱も持ちますし、摩耗も進みます。馬への負担との兼ね合いもありますから、下りでは速度を上げないこと自体が重要です」


「なるほどなあ」


 今になって、当時の判断と目の前の部品が繋がる。


 知識として聞くのと、実物を見るのでは印象が違った。


 モモも車輪の横から見える部品へ目を向けている。


「私が運転するときも、長い下りはシモン君に代わってもらったほうがいいですか?」


「必ずというわけではありません。経験が少ない道や状況なら交代したほうが安全ですが、緩い下りまで全部私が担当する必要はないでしょう」


「じゃあ、分からないときに聞きます」


「それが一番です」


 モモは納得したように頷いた。


 無理に一人でできるようになる必要はない。


 できることは増やす。


 分からないことは聞く。


 危ないと思えば交代する。


 旅の中で身についた判断は、いつの間にかそういう形になっていた。


 ◇


 点検開始からしばらくすると、トルクが水を飲み終えた。


 工房脇には来客用の馬繋ぎ場があり、二頭は十分な間隔を取って休んでいる。ベルクも周囲の馬を多少気にしてはいるものの、騒ぐ様子はない。


 シモンが二頭のところへ向かったため、モモも一緒についていく。


 ルシルはもう少し作業を見ていた。


 ドランが調整した部材を元へ戻し、固定位置を確認している。


「その馬車、気に入ってるんだな」


 作業を続けたまま、ドランが言った。


「うん」


 ルシルは迷わず答えた。


「買ってから、ずっとこれで移動してるから」


「新品だったのか?」


「ほとんど。作った人が試しに走らせたくらいだって聞いた」


「それでこの造りか。誰が作ったかは知らんが、変わった職人だな」


「悪い?」


「逆だ。よく考えてる」


 ドランは固定具へ工具を当てながら続ける。


「ただ、変わった造りってのは、良いところだけじゃない。壊れたときに誰でも直せるとは限らん。あんたらもそこは聞いてるんだろ?」


「うん」


「ならいい」


 工具を回す手が止まり、ドランは固定位置を目で確認した。


「丈夫な物ほど、壊れないと思って無茶する奴がいる。そっちのほうが厄介なんだ」


「俺たちは……たぶん、そこまで無茶してないと思う」


「見りゃ分かる」


「分かるの?」


「車輪と底を見ればな。荒い使い方なら傷の付き方が違う」


 ルシルは少しだけ嬉しくなった。


 褒められたのは自分ではなく、馬車の使い方だ。


 それでも、自分たちがこれまで気をつけてきたことが、目に見える形で残っているのだと思うと悪い気はしなかった。


(これからもちゃんと見よう)


 王子だった頃、馬車は用意されるものだった。


 乗れば目的地へ着く。


 どこで整備され、誰が車輪を見て、誰が馬を休ませていたのか。知識として理解していた部分はあっても、自分が毎日のように気にすることはなかった。


 今は違う。


 明日もこの馬車で進みたいなら、今日の状態を知っておく必要がある。


 それは面倒というより、ルシルには面白かった。


「よし」


 ドランが身体を起こした。


「前はこれでいい。次、底を見るぞ」


「二重底?」


「そこも含めてだ」


 ルシルはすぐにモモたちを呼びに行こうとした。


 しかし振り返ると、二人はすでに戻ってきていた。


「呼ぼうと思った」


「顔を見れば分かります」


 モモが言う。


「……今、顔って言った?」


「言いましたけど?」


「いや、何でもない」


 ルシルはそれ以上広げなかった。


 ◇


 二重底の点検では、すぐに問題は見つからなかった。


 外側には旅の跡が残っている。


 細かな石傷。


 乾いた泥。


 赤土が薄く入り込んだ隙間。


 森の道で付いたらしい小さな擦り傷。


 しかし板そのものに大きな割れはなく、固定部も緩んでいない。


「赤いな」


 ドランが底を見て笑う。


「しばらく赤土の道だったから」


「南西の新道か?」


「通ったことある?」


「俺はない。馬車は来る」


 ドランは指先に付いた赤い粉を払った。


「ここへ来る荷車を見てりゃ、どの道を走ってきたか何となく分かることもある。白っぽい粉が多けりゃ東寄り、赤土なら南西、黒い泥なら北の低地を疑うって程度だけどな」


「馬車に道が残るんだ」


「洗えば消えるけどな」


 ルシルは底に残った赤土を見る。


 写真のことは浮かばなかった。


 記録として残す方法を考えるより、今は単純に、自分たちが走ってきた道の土がここに付いていることが面白い。


「全部落とします?」


 モモが尋ねる。


「汚れが溜まる場所だけ掃除する。無理に磨く必要はない」


 ドランはそう言い、隙間に入り込んだ土だけを刷毛で落としていった。


 ◇


 点検はさらに続いた。


 連結部。


 車体の固定。


 窓枠。


 荷台内部の棚。


 寝台として使える簡易設備。


 特殊な構造だからこそ、ドランも一つずつ確かめている。


 途中、車内へ入った彼が前方の棚を見て止まった。


「木馬?」


 そこにはトルクとベルクを模した二つの木製馬 figurine と、セイラで買った小さなヤマアカノドの木彫りが置かれている。


「旅の途中で買った」


「こっちは鳥か」


「たぶんヤマアカノド」


「たぶん?」


「店でそういう鳥だって聞いた。でも、俺たちが山で見た鳥と同じかは分からない」


「なるほどな」


 ドランは鳥の木彫りには触れず、棚の固定を手で確認した。


「棚は問題ない。これくらいの物なら走行中に落ちないようにだけしておけばいい」


「革が付いてるから滑りにくい」


「考えてあるな」


 モモが車内へ顔を出す。


「お菓子の棚も大丈夫ですか?」


「菓子専用なのか?」


 ドランが聞き返した。


「一段だけです」


「誰が決めた?」


「みんなで」


「そうか」


 ドランは深く追及しなかった。


 しかし口元が少しだけ緩んでいる。


 作業場の外にいた若い職人は会話を聞いていたらしく、こちらを見て笑いを堪えていた。


 モモは気づいていない。


 ルシルは気づいたが、別に恥ずかしいとも思わなかった。


「旅には菓子いるだろ」


「まあ、長旅なら楽しみはあったほうがいいな」


 ドランが普通に肯定した。


「ほら」


「何が『ほら』なんです?」


 シモンが呆れたように言う。


「職人も必要だって」


「楽しみが必要だと言ったのであって、専用棚が必須だとは言っていません」


「でも否定されなかった」


「勝ち負けではありませんよ」


 モモが小さく笑い、棚の中を確認する。


 朝に買ったものではなく、宿へ戻る途中で買った木の実の焼き菓子は、今は彼女の手荷物の中にある。


「点検終わったら食べましょうね」


「忘れてなかったんだ」


「忘れませんよ」


「そこは絶対忘れないな」


 ◇


 作業が始まってから一刻半ほど経った頃、ドランが最後の確認を終えた。


 調整した前側の軸受けには新しい油が入れられ、固定も済んでいる。


 その他の部分に交換が必要な損傷はなかった。


「終わりだ」


 ドランは手を布で拭きながら、三人を呼んだ。


「結論から言えば、状態はいい。前の軸受けだけ調整したが、ほかは今すぐ直すところはない」


「よかった」


 ルシルの肩から力が抜ける。


 心配しすぎていたわけではない。


 それでも、実際に職人から問題ないと言われると安心する。


「車輪の摩耗は?」


 シモンが尋ねる。


「均等だ。まだ十分使える。鉄輪も大きな変形なし。制動具は使ってる分だけ減ってるが、交換時期じゃない」


「軸受けは、次にいつ見てもらうべきですか?」


「同じくらいの距離を走る前に一度見てもらえれば安心だが、道次第だな。異音、振動、片寄り、妙な熱が出たら距離に関係なく止めて見ろ」


「分かりました」


 シモンは頷く。


 モモも帳面を開いた。


「書いていいですか?」


「俺に聞くのか?」


 ドランが笑う。


「教えてもらったことなので」


「好きに書け」


 モモは作業台から少し離れ、邪魔にならない場所で要点だけを記した。


『馬車点検。前の軸受けを調整。壊れてはいない。異音、振動、片寄り、熱に注意。普段は無理に分解しない。』


 書き終えてから、少し考える。


 その下へもう一行。


『状態は良い。』


 ルシルが横から覗く。


「最後の大事だな」


「はい」


「よかったって書かないの?」


「それは私の感想です」


「帳面なんだから書いてもいいじゃん」


「じゃあ……」


 モモは少し迷い、『よかった。』と小さく付け足した。


「書いた」


「書きました」


 シモンは二人のやり取りを止めず、ドランへ料金を支払っている。


 点検と調整。


 予定外の出費ではあるが、旅を続けるために必要な範囲だ。


「これで明日出られるな」


 ルシルが言う。


「馬の状態と天候に問題がなければ」


 シモンが答える。


「道も通れるって確認したし」


「ええ。ただし、三枝井戸では水を当てにしすぎないようにしましょう」


「手前で補給」


 モモが帳面を閉じる。


「覚えてます」


 ◇


 馬車を作業場から出す前に、ドランがもう一つだけ教えてくれた。


「西南へ行くなら、明日は南門じゃなく西南門を使え。名前のまんまだが、旅人がたまに間違える」


「南門もあるの?」


「ある。南門から出ても途中で繋がる道はあるが、農道を挟むから遠回りだ」


「聞いてよかった」


「案内板にも書いてあるぞ」


「それでも聞いてよかった」


 ルシルが笑う。


 ドランも笑い返した。


「それと、朝は荷馬車が多い。急いで抜こうとするなよ」


「分かった」


「二頭も悪くなさそうだし、馬車もこれなら大丈夫だろ」


 ドランの視線がトルクとベルクへ向く。


 トルクは知らない職人に見られても気にせず、休憩中にもらった水の残りを飲んでいる。


 ベルクは少し離れた位置からドランを見ていたが、シモンが近くにいるため落ち着いていた。


「いい馬だな」


「兄弟なんだ」


「へえ。どっちが兄だ?」


「こっちの栗毛がトルク。七歳で兄。こっちの濃い灰色がベルクで六歳」


「名前まで聞いてねえぞ」


「あ」


 ルシルは一瞬黙ったあと、笑った。


「まあいいか」


「大事にしてるのは分かった」


 ドランはそれ以上二頭へ近づかなかった。


 特にベルクが慎重な性格だということは、立ち方だけでも多少察したらしい。


 ◇


 鉄樫車房を出た頃には、午後の日差しが少し柔らかくなっていた。


 シモンが御者台へ座り、調整後の感触を確かめながらゆっくり馬車を進める。


 最初の角を曲がるまでは、ルシルもモモも静かだった。


「どう?」


 角を抜けたところでルシルが尋ねる。


「今のところ問題ありません」


「変わった?」


「劇的には変わりません。もともと不具合を感じていたわけではありませんから」


「そっか」


「ただ、前側の動きは少し滑らかになったようにも感じます。先入観かもしれませんので、断定はしません」


「じゃあ明日、俺も運転したら分かるかな」


「違和感がなければ、それで十分です」


 ルシルは頷いた。


 直したから何か大きく変わる必要はない。


 壊れる前に整える。


 その結果、何も起きずに旅が続くなら、それが一番いい。


 馬車は町の中を静かに進んだ。


 通りの両側には、朝とは違う人の流れがある。


 市場から戻る住民。


 荷を降ろした商人。


 工房の前を掃除する職人。


 町へ入ってくる馬車。


 明日、自分たちは反対にこの町から出ていく。


 ルシルは御者台の後ろから街並みを眺めた。


(まだ見てない場所、いっぱいあるんだろうな)


 一日や二日では、町の全部を見ることなどできない。


 それでも市場へ行った。


 知らない野菜を買った。


 案内所で次の道を調べた。


 馬車を点検してもらった。


 それで十分だった。


 ◇


 麦車亭へ戻ると、三人は明日の出発を宿へ伝えた。


 朝食は早めに用意できるという。


 厩舎も今夜まで引き続き同じ場所を使える。


 馬車を定位置へ戻し、トルクとベルクを外して休ませる。


 点検で町中を少し移動しただけなので、二頭に疲れは見えない。


 夕方までにはまだ少し時間があった。


「どうする?」


 ルシルが尋ねる。


「必要な買い物はほぼ終わっています」


 シモンが答える。


「黄角瓜もありますし、土鈴根も一個残っています。乾燥食料、水、馬の飼料も明日の出発には問題ありません」


「じゃあ自由時間?」


「夕食までなら」


 モモが手を上げた。


「お菓子食べましょう」


「それ自由時間の最初にやるんだ」


「朝から持ってますから」


 三人は宿の中庭にある長椅子へ移動した。


 午後の日差しが壁に遮られ、ちょうど日陰になっている。


 モモが包みを開く。


 木の実を混ぜた薄い焼き菓子。


 一枚だけ。


「一枚だけだったな」


 ルシルが言う。


「ちゃんと一枚です」


「三人で分けるの?」


「これは私のです」


「え?」


「ルシル様も買ってましたよね?」


「……買った」


「シモン君も」


「ありますよ」


 三人とも一枚ずつ持っていた。


 ルシルは自分の荷物から包みを出す。


「何で分けると思ったんだろ」


「朝に三人で分けたからじゃないですか?」


「ああ」


 シモンも自分の分を取り出した。


「今度は一人一枚ですね」


 三人で同時に食べる。


 薄い生地はぱりっとしており、木の実の香ばしさのあとに、表面へ塗られた蜜の甘さが残る。


「朝のと違う」


「こっちのほうが甘いですね」


「でも薄いから重くない」


 モモは満足そうだった。


「ルーヴェル、お菓子多いですね」


「市場も店も多いからじゃない?」


「それだけで決まるものではありませんよ」


 シモンが言う。


「麦や木の実が集まりやすい土地なのかもしれませんし、荷運びの途中で買える携帯食として発達した可能性もあります。ただ、調べていませんから推測です」


「じゃあ、うまいってことだけ覚えとく」


「それは事実ですね」


 ルシルは残りを食べる。


 モモも帳面を出さなかった。


 何でも書かなければならないわけではない。


 食べて、美味しかった。


 それだけで終わるものがあってもいい。


 ◇


 夕方になると、宿の食堂は昨日より少し早く混み始めた。


 明朝に出発する商人が多いらしく、食事をしながら道の情報を交換している者もいる。


 三人は壁際の卓へ座った。


 今夜の料理は、焼いた川魚と豆の煮込み、それに柔らかい麦パンだった。


 市場で買った黄角瓜はまだ使わない。


 宿の食事があるうちは、持っている野菜を無理に減らす必要もない。


「明日、どこまで行く?」


 食事の途中でルシルが尋ねた。


「まずは町を出てからの進み具合を見ます」


 シモンが答える。


「三枝井戸の休み場は一日ほど先とのことですが、出発時刻や街道の混雑、二頭の状態次第では手前で泊まります」


「三枝井戸まで行くって決めない?」


「決めません」


「分かった」


 ルシルはそれで納得した。


 目的地があるからといって、毎日そこまで届かなければならないわけではない。


 今までの旅で何度も経験してきた。


「西南門を出たら、しばらく平らなんですよね」


 モモが言う。


「案内所ではそう聞きました。緩い下りが増えるのはその先です」


「私も運転します」


「道路状況を見て交代しましょう」


「はい」


 モモは楽しそうに頷く。


 ルシルも運転したい。


 しかし、誰が最初に御者台へ座るかは明日の朝に決めればいい。


 食堂の向こうでは、別の旅人たちが明日の荷物について話している。


 商人らしい男が「三枝井戸の水は少ないかもしれない」と仲間へ伝えていた。


 案内所で聞いた情報と同じだ。


 シモンもその声には気づいたようだが、会話へ割り込むことはしなかった。


 情報が一致している。


 今はそれで十分だった。


 ◇


 食後、三人は厩舎へもう一度顔を出した。


 明日の出発前に慌てないよう、馬具の位置だけ確認しておく。


 トルクはすでに落ち着いており、ベルクも自分の場所で静かにしている。


「明日また走るぞ」


 ルシルがトルクへ声をかける。


 返事はない。


 ただ、耳が一度こちらへ向いた。


「聞いてるな」


「たぶん」


 モモが答える。


「今日は食べ物持ってないですからね」


「馬の前でそれ言うなよ」


「本当のことです」


 シモンはベルクの馬具を確認してから、二人を見る。


「明日は市場へ寄りませんから、出発前に余計な買い物を始めないでくださいね」


「しないって」


「私も大丈夫です」


「本当に?」


「たぶん」


 モモが答えた。


「そこは断言してください」


 三人の笑い声が、小さく厩舎へ響いた。


 ◇


 夜。


 客室へ戻ったルシルは、窓際の椅子へ座っていた。


 外ではまだ馬車が通る。


 ルーヴェルへ着いたときから変わらない音だ。


 ただ、今夜は少しだけ聞こえ方が違った。


 車輪の音を聞くと、昼間に見た軸受けや制動具を思い出す。


 どの馬車にも、外からは見えない部品がある。


 それを誰かが点検し、油を入れ、削れれば直し、また道へ送り出す。


(知らなかったことばっかりだな)


 王城で学んだことは多い。


 政治。


 歴史。


 外交。


 法律。


 軍事。


 魔法。


 領地。


 それらが無駄だったとは思わない。


 けれど、黄角瓜の味も知らなかった。


 馬車の軸受けがどう削れるのかも、今日初めて見た。


 荷紐を締めるためだけの道具があることも知らなかった。


 ルシルは窓の外を通り過ぎる荷馬車を見送った。


(まだ知らないもの、どれくらいあるんだろう)


 考えても答えは出ない。


 だからこそ、少し楽しみだった。


 明日はまた知らない道へ出る。


 その先にあるセレナスも、まだ名前しか知らない。


 さらに向こうには海がある。


 どんな景色なのか、ルシルはまだ知らない。


 知らないままでいい。


 今は一つずつ見に行けばいい。


 廊下の向こうで扉が開く音がした。


 少しして、控えめに部屋の扉が叩かれる。


「ルシル様、起きてます?」


 モモの声だった。


「起きてるよ」


 扉を開けると、モモが帳面を持って立っている。その後ろにはシモンもいた。


「どうした?」


「明日の出発前に、今日聞いたことを一回だけ確認しようってシモン君が」


「私だけの提案ではありません。モモ嬢も気になったそうです」


「三枝井戸の水です。忘れたら困るので」


「俺も覚えてる。手前で補給」


「はい」


 三人は廊下で立ったまま話すのも何なので、ルシルの部屋へ入った。


 卓の上へ地図を広げる。


 ルーヴェル。


 西南門。


 その先の街道。


 三枝井戸の休み場。


 麦角の休み場。


 さらに先のセレナス。


 シモンが指で順に確認する。


「明日は西南門から出ます。三枝井戸を絶対の到達地点にはしません。水は途中で余裕を持って確認します。路肩工事の区間では速度を落とす。森が増えてからは、夕方に無理をしない」


「馬車は今日点検済み」


 ルシルが付け加える。


「はい。異音、振動、片寄り、熱に注意」


 モモが帳面を見ずに答えた。


「完璧ですね」


「じゃあ大丈夫か」


 ルシルが地図を畳もうとすると、モモが海岸線のあたりを指差した。


「まだ遠いですね」


「うん」


「でも前より近いです」


 その言葉に、ルシルは地図をもう一度見た。


 出発した頃に比べれば、確かに近づいている。


 一直線ではなかった。


 寄り道もした。


 道を変えたこともある。


 何日も同じ町にいたこともある。


 それでも地図の上で見ると、三人の移動した距離ははっきり分かった。


「セレナスもまだ途中か」


「そうですね」


 シモンが答える。


「その先にも道があります」


 モモが帳面を閉じる。


「じゃあ、明日はその途中を見に行きましょう」


「うん」


 ルシルは頷いた。


 大げさな決意は必要なかった。


 明日の朝になったら荷物を載せ、トルクとベルクを馬車へ繋ぎ、西南門へ向かう。


 それだけだ。


 けれど、その当たり前の続きを、自分で選んで進めることが今は心地よかった。


 ◇


 翌朝。


 麦車亭の中庭には、まだ薄い朝靄が残っていた。


 空は明るくなり始めているものの、建物の影には夜の冷たさが少し残っている。


 三人は宿で早めの朝食を済ませ、必要な荷物を確認した。


 黄角瓜一本。


 土鈴根一個。


 乾燥食料。


 水。


 馬の飼料。


 そのほか、普段の旅道具。


 不足はない。


 トルクとベルクも問題なく、馬具を装着する。


 馬車の車輪も確認する。


 昨日調整された前側も異常なし。


「よし」


 ルシルが車輪から立ち上がる。


 宿の厩務員へ礼を言い、馬車を中庭から出す。


 御者台へ最初に座ったのはルシルだった。


「俺からでいい?」


「町を出るまではゆっくりですよ」


 シモンが隣へ座る。


「分かってる」


 モモは車内へ乗り込み、窓を開けた。


「西南門ですよ」


「覚えてるって」


「南門じゃないですよ」


「それも覚えてる」


 ルシルは笑いながら手綱を握った。


 トルクとベルクが歩き始める。


 朝のルーヴェルを、馬車がゆっくり進んでいく。


 市場へ向かう荷車とは途中で道が分かれた。


 昨日歩いた通り。


 遠くに見える案内所の屋根。


 職人街へ続く道。


 それらが少しずつ後ろへ流れていく。


 西南門へ近づくにつれて、同じ方向へ向かう荷馬車が増えた。


 ドランに言われた通りだ。


 ルシルは前の荷馬車との距離を保つ。


 後ろから速い馬車が来ても、無理に競おうとはしない。


 門の手前では順番を待つ。


 やがて三人の番になった。


 簡単な確認を受け、門を抜ける。


 町の建物が途切れた。


 その先には、朝日に照らされた広い街道が西南へ伸びていた。


 路面はよく整えられ、左右には畑が広がっている。


 さらに遠くでは、緩やかな丘が重なっていた。


「出た」


 ルシルが小さく言う。


 モモが窓から顔を出しすぎない程度に外を見る。


「次はセレナス方面ですね」


「まずは今日の道」


 シモンが言った。


「分かってる」


 ルシルは前を見る。


 馬車の動きは滑らかだった。


 昨日までと劇的に違うわけではない。


 だからこそ、それでいい。


 トルクとベルクの歩調に合わせ、ルシルは少しずつ速度を上げた。


 背後では、馬車の町ルーヴェルが朝の光の中へ遠ざかっていく。


 前には、まだ名前すら知らない景色が続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。