第68話 朝市には、知らないものが多すぎます
ルーヴェルの朝は、日の出より少し遅れて本格的に動き始めた。
麦車亭の二階にある客室で目を覚ましたルシルは、窓の外から聞こえてくる車輪の音に気づき、寝台の上でゆっくり身体を起こした。昨夜も遅い時間まで馬車の音が残っていたが、今朝のそれは明らかに数が多く、一定の方向へ流れているというより、町のあちこちから一斉に動き始めているように聞こえる。
窓を開けると、少し冷たい朝の空気と一緒に、乾いた土と馬、それからどこかで焼いているパンの匂いが入ってきた。
通りではすでに二台の荷馬車がすれ違っている。向かいの馬具店はまだ扉を開けていないものの、その隣にある工房では職人らしい男が外へ車輪を運び出していた。
(昨日とはまた違うな)
夜のルーヴェルも動いていた。
だが朝は、町そのものが仕事へ向かって起き上がっているように見える。
ルシルは身支度を整え、部屋を出た。
廊下へ出ると、ちょうど隣の扉が開く。
「おはようございます」
モモだった。
長い桃金色の髪はすでに整えられ、白い外套も身につけている。手には例の小さな帳面があった。
「おはよう。早いな」
「市場ですから」
「それだけで?」
「朝のほうが店が多いって聞いたじゃないですか」
「俺も同じ理由で起きた」
二人は一瞬だけ顔を見合わせた。
どちらからともなく笑う。
「シモン君、もう下ですかね」
「たぶん」
階段を下りると、予想通りだった。
シモンは一階の食堂近くにある卓へ座り、宿で用意された温かい飲み物を口にしていた。二人を見つけると、驚くこともなくカップを置く。
「今日は早いですね」
「市場だから」
「市場ですから」
また二人の答えが重なる。
シモンは少しだけ間を置いた。
「分かりましたから、まず朝食を食べてください」
◇
朝食は麦パンと卵、それに薄く切った燻製肉だった。
中央市場で何か食べる可能性も考え、三人とも満腹になるほどは食べない。特にルシルとモモは市場へ向かう気持ちが先に立っているのか、普段より食事が早かった。
「急いで食べても市場は逃げませんよ」
シモンが言うと、ルシルは咀嚼していたパンをきちんと飲み込んでから答えた。
「急いでないって」
「いつもより早いです」
「市場で何か食べたいので、お腹に余裕を残してるんです」
モモが説明する。
「それは食べる量の話であって、速度の話ではありません」
「シモン君、朝から細かいですね」
「喉に詰まらせるよりいいでしょう」
モモは反論しかけたものの、それ以上は言わずに食べる速度を少し落とした。
ルシルもつられてゆっくり食べる。
食後は厩舎へ向かった。
トルクとベルクはどちらも落ち着いている。宿の厩務員によれば、夜間にも特に問題はなく、ベルクも隣の空き馬房を保ってもらえたことで他馬を気にする様子は少なかったという。
今日は町を歩く予定なので、二頭は宿で休ませる。
「今日は休みだぞ」
ルシルがトルクの首を撫でると、トルクは朝の飼葉を食べながら耳だけを動かした。
「聞いてる?」
「食事中ですから」
モモが笑う。
ベルクはシモンが近づくと顔を寄せた。
シモンは首筋を撫でながら身体の様子を確認し、問題がないことを確かめる。
「では、今日は宿にお願いしましょう。昼頃には一度戻ってきてもいいですし」
「市場、案内所、それから馬車だっけ?」
「馬車の点検は、案内所でこの先の道を確認してから決めます」
「分かった」
昨日決めた順番は変わらない。
市場で何か面白いものを見つけても、その後の予定を忘れない。
少なくとも出発時点では、三人ともそのつもりだった。
◇
馬車宿区から中央市場までは、歩いてそれほど遠くなかった。
昨日確認した町の案内板に従って北東へ進むと、建物の種類が少しずつ変わっていく。厩舎付きの宿や馬具店が減り、代わりに食料品店、衣料品店、雑貨店が増えた。
朝の通りには人も多い。
仕事へ向かう者。
荷を運ぶ者。
買い物籠を持つ住民。
旅装のまま歩く者。
荷車を押す商人。
ルシルたちは流れを邪魔しないよう、通りの端を歩いた。
「人、多いですね」
モモが周囲を見る。
「王都ほどじゃないけど、昨日の夕方より多いな」
「市場へ向かう人もいるのでしょう」
シモンが前方を見る。
少し先から、人々の声が重なって聞こえてきた。
まだ市場そのものは見えない。
だが、野菜の名前や値段を呼ぶ声が混じっている。
「近い」
ルシルが自然に歩調を速めかける。
すぐ隣を荷物を抱えた女性が通ったため、慌てて速度を戻した。
「危なかった」
「町中では周りも見てくださいね」
「分かってる。今のは反省した」
シモンはそれ以上言わなかった。
角を一つ曲がる。
そこで視界が一気に開けた。
「おお……」
今度はルシルだけではなかった。
モモも足を止めかける。
中央市場は、大きな広場を丸ごと使って開かれていた。
中央には屋根付きの常設店舗が並び、その周囲へ簡易な露店が何列も広がっている。布を張っただけの店もあれば、荷車そのものを店にしている者もいた。
野菜。
果物。
穀物。
干し肉。
魚の干物。
香辛料。
布。
食器。
木工品。
旅道具。
焼き菓子。
さらに、何に使うのか一目では分からない品まで並んでいる。
声も匂いも多かった。
焼いた肉の香りの向こうから甘い匂いが流れ、少し離れた場所では乾燥香草の強い香りが鼻をくすぐる。店主の呼び声に客の値段交渉が重なり、その間を籠を持った人々が行き交っていた。
「……どこから見る?」
ルシルが尋ねる。
モモは答えなかった。
彼女の視線はすでに右側の露店へ向いている。
そこには小さな焼き菓子が並んでいた。
「モモ?」
「聞いてます」
「絶対聞いてなかっただろ」
「聞いてました。どこから見るかですよね」
「うん」
「右から」
「菓子があるから?」
「順番です」
「何の?」
「右からです」
シモンが二人の間から市場全体を見る。
「では右側から回りましょう。ただし、食べ物だけで終わらせないでくださいね」
「分かってます」
モモの返事だけが妙に早かった。
◇
最初の焼き菓子屋には、掌より小さな丸い菓子が並んでいた。
表面は淡い茶色で、中央に赤紫色のものが一粒埋め込まれている。
「これは何ですか?」
モモが店主へ尋ねる。
四十代ほどの女性が、籠へ菓子を並べながら答えた。
「木苺蜜の焼き玉だよ。麦粉に木の実粉を混ぜて、真ん中に蜜煮した木苺を入れてある」
「甘いですか?」
「そりゃ菓子だからね。でも蜜は控えめだよ。朝に食べる人も多い」
モモがルシルを見る。
「俺を見るなよ」
「買います?」
「モモが食べたいなら」
「ルシル様は?」
「食べたい」
「じゃあ二つ」
「三つにしてください」
シモンが横から言った。
二人が同時に彼を見る。
「シモン君も食べるんですか?」
「私が食べてはいけませんか?」
「いえ。珍しいなって」
「朝食を控えめにしたのは私も同じです」
「じゃあ三つ!」
モモは嬉しそうに注文した。
店主が紙に包んで渡してくれる。
三人は市場の流れを邪魔しない場所へ移動し、一つずつ受け取った。
ルシルが半分に割る。
中から濃い赤色の木苺が見えた。
「いただきます」
口に入れると、最初に香ばしい木の実の風味が広がった。
あとから木苺の酸味。
蜜の甘さは確かに控えめで、朝でも重くない。
「うまい」
「美味しいです」
モモは一口ずつ大切そうに食べている。
シモンも味を確かめるようにゆっくり食べた。
「甘味より酸味が強いですね。保存向けの菓子ではなさそうです」
「今日食べればいいんですよ」
「今食べています」
「追加は?」
モモが尋ねる。
シモンは店を見る。
「市場を一周してから考えましょう」
「はい」
モモは意外なほど素直だった。
店主の女性は、少し離れたところから三人のやり取りを見て笑っていた。
旅人らしい若者たちが、たった一つの菓子で真剣に相談している。
それ以上でも、それ以下でもない。
彼らが以前どんな立場にいたのかを想像する理由などなかった。
◇
次にルシルが足を止めたのは野菜の店だった。
菓子ではない。
籠の中に、見たことのない黄色い野菜が積まれていたからだ。
細長く、先端へ向かって少し曲がっている。表面には浅い筋が入り、一本がルシルの前腕ほどの長さだった。
「これ何?」
店番をしていた若い男性が答える。
「黄角瓜だよ。知らない?」
「初めて見た」
「南のほうじゃ珍しくないけどな。ここらだと今の時期から増える」
「どうやって食べるんですか?」
モモも近づく。
「生でも食える。薄く切って塩でもいいし、酢漬けにもする。火を通すなら厚めに切ったほうがいい」
「甘い?」
ルシルが尋ねる。
「甘くはないな。水気が多くて、ちょっと青い味がする」
「保存は?」
今度はシモンだった。
「傷がなけりゃ数日は持つ。旅なら一本くらいでいいんじゃないか?」
店主は三人の荷物を見て、長旅の途中だと判断したらしい。
シモンが一本を手に取らず、外側から状態を見る。
「では一本お願いします」
「買うんだ」
ルシルが言う。
「野菜は昨夜の細葉菜を使い切っていますからね。土鈴根が一個残っていますが、種類が違うものを少量持つのは問題ありません」
「やった」
「ルシル様が喜ぶところですか?」
「知らない野菜食べられるじゃん」
「そこなんですね」
黄角瓜を一本購入する。
モモは帳面を取り出しかけたが、周囲の人通りを見てやめた。
「あとで書きます」
「忘れない?」
「名前くらい覚えてます」
「黄角瓜」
「はい」
「黄角瓜」
「ルシル様は何で二回言ったんです?」
「俺も覚えようと思って」
店主の若者が笑う。
「そんな難しい名前じゃないだろ」
「初めてだから」
「じゃあ今日で覚えたな」
「たぶん」
店を離れてから、モモが小さく笑った。
「たぶんなんですね」
「帳面あるし」
「最初から私に頼る気じゃないですか」
◇
市場の奥へ進むにつれて、食料品以外の店も増えていった。
革袋。
小型の鍋。
折り畳める木製の台。
補修用の布。
旅用の簡易ランタン。
小瓶。
縄。
馬車の荷台へ固定するための金具。
ルシルは一つ一つに興味を示したものの、今のところ買う必要がないものには手を出さなかった。
その代わり、使い方が分からない物は店主へ尋ねる。
「これ何?」
次に手ではなく視線で示したのは、木製の短い棒だった。
片側が二股に分かれ、もう一方には小さな穴がある。
「荷紐締めだよ」
店主の老人が答えた。
「荷物を縄で縛ったあと、これを挟んで捻って締める。荷車じゃよく使う」
「うちの馬車でも使える?」
「荷を外へ積むならな。中へ収まってるなら、無理に使うもんじゃない」
「じゃあいらないか」
「いらない物を買わないのはいいことだ」
老人はあっさり言った。
「売る側なのに?」
「必要ない奴に売っても、次に来たとき買ってもらえんだろ」
「なるほど」
ルシルは妙に納得した。
シモンもその店では何も買わない。
三人が離れたあと、老人は隣の店主へ「素直な兄ちゃんだ」と笑っていたが、ルシルたちには聞こえていなかった。
◇
市場の中央近くまで来たところで、今度はモモではなくシモンが足を止めた。
「少し見てもいいですか?」
ルシルとモモが振り返る。
「シモンが?」
「何ですか、その反応は」
「いや、珍しいから」
店には紙類が並んでいた。
旅人向けの簡易地図。
帳面。
封筒。
紐。
筆記具。
油紙。
荷札。
シモンが見ていたのは、小さな紙束だった。
「紙?」
「耐水処理された荷札ですね」
店主へ確認すると、薄く油を染み込ませた紙で、普通の紙より水や汚れに強いらしい。
「荷物に付けるんですか?」
モモが尋ねる。
「本来はそうですね。ただ、濡れる可能性がある場所で簡単な情報を書いておくのにも使えます」
「買う?」
ルシルが尋ねる。
「少量なら。山道で使った紙札より水に強そうです」
シモンは十枚ほどの小束を一つ購入した。
「シモン君の買い物って感じです」
モモが言う。
「どういう意味ですか?」
「役に立つもの」
「モモ嬢も帳面を買ったでしょう」
「あれは役に立ってます」
「なら同じです」
「でも私のは可愛いです」
シモンが言葉に詰まった。
ルシルが紙束とモモの帳面を見比べる。
「シモンの紙も可愛くすれば?」
「しません」
「端に絵描く?」
「描きません」
「木馬とか」
「やめてください」
シモンの返事がいつもより早かった。
モモが笑う。
「絶対描かれたくないんですね」
「用途が違います」
「じゃあ勝手に描かない」
ルシルは素直に諦めた。
シモンは少し警戒したように紙束をしまった。
◇
市場の中央には、小さな飲食用の区画があった。
立ったまま食べられる店。
簡素な長椅子を置いた店。
持ち帰り専門の店。
朝食を済ませてきた三人も、焼き菓子一つだけではさすがに何も気にならないというわけにはいかなかった。
特に、一軒の店から漂う香りが強かった。
薄い生地を鉄板で焼き、その上へ刻んだ肉と野菜を載せている。
「……昼には早いですよね」
モモが言う。
「早いな」
ルシルも同意する。
「まだ朝です」
シモンが念を押す。
三人は店を見る。
店主がこちらを見る。
「一枚を三人で分ける?」
ルシルが提案した。
「それなら」
モモがすぐ乗った。
二人の視線がシモンへ集まる。
「……一枚だけですよ」
結局買った。
焼きたての薄い生地には、細かく刻んだ鶏肉と淡緑色の野菜、それに酸味のある白いソースが載っている。店主が三つに切ってくれたため、その場で一切れずつ受け取った。
「これ、うまい」
ルシルは一口食べてすぐに言った。
「野菜、何でしょう」
モモが中を見る。
「葉物じゃないですね。茎?」
店主が鉄板の向こうから答えた。
「白茎菜だよ。近くの畑で採れるやつ。火を通すと甘くなる」
「昨日から知らない野菜ばっかりだな」
「南へ来ていますからね」
シモンも食べながら答える。
「地域が変われば作物も変わります」
「海に近づいたから?」
「それだけが理由とは限りません。標高、土、雨量、栽培方法、流通など複数の要因があります」
「いっぱいある」
「だから一つに決めないでください」
「分かった」
ルシルは素直に頷き、残りを食べる。
モモは味を覚えるようにゆっくり噛んでいた。
「これも帳面?」
「全部書いてたら食べ物帳になります」
「もう半分くらいそうじゃない?」
「そんなことありません」
「確認してみる?」
「しません」
モモは帳面をしっかり抱えた。
◇
飲食区画を離れると、市場の端に近い一角で人だかりができていた。
騒ぎではない。
十人ほどが一つの荷車を囲み、店主の説明を聞いている。
ルシルも何となく近づいた。
荷車に積まれていたのは、大小さまざまな籠だった。
普通の籠に見える。
しかし店主が一つを持ち上げると、側面を押して平たく畳んだ。
「おお」
ルシルが反応する。
モモも目を丸くした。
「畳めるんですか?」
「旅籠って呼んでるよ!」
店主の男が周囲へ聞こえる声で説明する。
「使うときは広げて、使わないときは潰して積める! 荷馬車の商人に人気だ!」
籠の側面が特殊な編み方になっているらしい。
広げると普通の籠。
押し畳むと厚みが半分以下になる。
「これ馬車にあったら便利じゃない?」
ルシルがシモンを見る。
「何を入れるのですか?」
「……何か」
「その『何か』が決まってから考えましょう」
「はい」
モモが笑う。
「今のは危なかったですね」
「買ってないから」
「でも欲しそうでした」
「面白かったんだよ」
「それは分かります」
三人は実演だけ見て、その場を離れた。
必要になればまた探せばいい。
ルーヴェルには店が多い。
今日見つけたものを、今日すべて手に入れる必要はなかった。
◇
市場を一周する頃には、朝の人出がさらに増えていた。
最初に通った焼き菓子店の前にも客が並んでいる。
モモは少しだけそちらを見たが、列へ向かうことはなかった。
「追加しないの?」
ルシルが尋ねる。
「美味しかったですけど、ほかにも見たいものがありますから」
「昨日の菓子屋?」
「そこもあります」
「やっぱり」
「でも今じゃないです」
シモンが懐中時計代わりの携帯用時刻器具を確認する。
「そろそろ案内所へ向かいましょう。市場には十分いました」
「どれくらい?」
「思っているより長いですよ」
ルシルは空を見上げた。
市場へ来たときより太陽が高い。
「本当だ」
「だから言ったでしょう」
「でも楽しかった」
「それは否定していません」
市場を出る前に、モモが人の流れから外れた場所で帳面を開いた。
「黄角瓜だけ書いていいですか?」
「忘れそう?」
「忘れないですけど、保存のことも聞いたので」
短く記録する。
『黄角瓜。黄色く細長い。生でも食べられる。水気が多く、少し青い味。傷がなければ数日。一本購入。』
その下へ木苺蜜の焼き玉について書こうとして、少し迷う。
「書けば?」
ルシルが言う。
「食べ物帳になるって言ったの、ルシル様ですよ」
「でも美味かったじゃん」
「……じゃあ一行だけ」
結局書いた。
シモンは何も言わなかった。
モモが何を残すかは、彼女自身が決めればいい。
◇
街道案内所と荷運び組合は、中央市場から西へ二本ほど通りを進んだ場所にあった。
大きな二階建ての建物で、正面には荷車の車輪と道標を組み合わせた紋章が掲げられている。入口脇には現在の主要街道情報が板へ張り出され、何人もの商人や御者が内容を確認していた。
「ここか」
ルシルが掲示板へ近づく。
紙が何枚もある。
北街道。
東街道。
西南街道。
周辺農道。
橋。
工事。
休み場。
ルシルは西南街道の文字を探した。
「あった」
シモンとモモも横へ並ぶ。
最新の日付が付いた紙には、ルーヴェル以西南の道路状況が簡潔にまとめられていた。
『西南街道・ルーヴェル~セレナス方面。通行可。』
ルシルの視線が止まる。
「セレナス?」
「この先の地名でしょう」
シモンが地図を取り出す。
これまで使ってきた地図にも、小さく名前が載っていた。
「ありました。ここです」
ルーヴェルからさらに西南。
距離は一日では届かない。
その途中には複数の休み場と、小さな集落を示す印がある。
「大きい町?」
「地図上ではルーヴェルより小さいですね。ただ、街道上の主要な中継地点にはなっているようです」
「海は?」
モモが地図へ顔を寄せる。
シモンの指がさらに西南へ移動する。
地図の端に近い。
海岸線はまだ先だ。
「セレナスを越えても、すぐ海というわけではありません」
「まだかあ」
ルシルは落胆というより、単純に距離を確認するように言った。
「でも方向は合ってる?」
「合っています」
「ならいいや」
そのまま掲示の続きを読む。
途中の休み場の一つで井戸の補修が行われている。
ただし完全に使えないわけではなく、仮設の水桶が設置されているらしい。
別の区間では路肩工事。
通行止めではない。
大型荷馬車は速度を落とすよう注意書きがある。
「これ、詳しく聞いたほうがいいな」
「ええ」
シモンも同意した。
三人は建物の中へ入った。
◇
内部は冒険者ギルドとはまったく違う雰囲気だった。
依頼掲示板や武装した冒険者はいない。
代わりに壁一面へ地図が貼られ、長い受付台の向こうでは数人の職員が商人や御者の質問へ答えている。
荷物の運賃表。
街道ごとの平均所要時間。
共同倉庫の利用案内。
馬車修理店の登録一覧。
旅人にも使える施設らしい。
三人は空いている受付へ向かった。
対応したのは、焦茶色の髪を短く整えた三十代ほどの男性だった。
「西南街道について聞きたいんですが」
ルシルが切り出す。
「ルーヴェルから先ですね?」
「はい。二頭立ての旅馬車です。セレナス方面へ進む予定です」
職員は手元の地図を広げた。
「現在、通行そのものに問題はありません。今日の朝に入った報告でも、通行止めになるような事故や崩落はなし。ただ、ここから一日ほどの位置にある『三枝井戸の休み場』で井戸枠の補修をしています」
「水は使えるんですか?」
シモンが尋ねる。
「仮設桶があります。毎朝、近くの管理小屋から補給されています。ただし馬車が集中すると減る可能性があるので、手前で水を確保しておいたほうが安全です」
「なるほど」
シモンは情報を覚える。
モモも帳面を出したが、受付の邪魔にならないよう端で必要な部分だけ書いている。
「その次に泊まりやすい場所は?」
「三枝井戸からさらに西南へ半日ほど行くと、『麦角の休み場』があります。こちらは井戸、小屋、馬繋ぎあり。野営場所も広いです」
「村は?」
「途中に小さい農村が二つありますが、街道から少し外れます。買い物目的なら寄れますが、宿を期待する場所ではありません」
ルシルが地図を見る。
「じゃあ普通に行くなら、休み場を使う感じか」
「旅馬車ならそうですね」
「道は?」
「ルーヴェルを出てしばらくは平坦。そのあと緩い下りが増えます。路面は整っていますが、二日目あたりから森が増えるので、夕方以降は無理に進まないほうがいいでしょう」
「魔物?」
モモが尋ねる。
「特別増えているという報告はありません。単純に見通しが悪くなるからです。野生動物もいますしね」
「分かりました」
必要以上に危険を煽る話ではない。
普通の旅で注意すべきこと。
それが分かれば十分だった。
「それと、馬車について聞いてもいいですか?」
シモンが続ける。
「どうぞ」
「この先、修理を頼める町はありますか?」
「セレナスならあります。ただ、ルーヴェルほど店は多くありません。途中の村にも簡単な修理ができる職人はいますが、特殊部品までは期待しないほうがいいですね」
三人の視線が自然に合った。
昨日、車輪職人から聞いた言葉を思い出す。
壊れたとき何が困るか知っておく。
「簡単な点検、してもらってから出る?」
ルシルが尋ねた。
「そうですね」
シモンは今度は迷わなかった。
「急ぎではありませんが、今のうちに一度見てもらいましょう。異常がないことを確認するだけでも意味があります」
「じゃあ今日はもう一泊?」
モモが尋ねる。
「点検をいつ受けられるか次第です。今日中に終わるなら、明日出発できます」
「宿の延長も確認しないとな」
「はい」
職員は三人の相談がまとまるまで待ってから、登録されている修理工房を二軒教えてくれた。
一軒は大型荷馬車中心。
もう一軒は旅馬車や特殊構造の馬車も比較的多く扱う。
「後者がよさそうですね」
「俺もそっち」
「私もです」
三人の意見は一致した。
工房の名前は『鉄樫車房』。
馬車宿区から東へ少し行った職人街の端にあるという。
「ありがとうございます」
「いえ。よい旅を」
受付を離れる。
◇
建物の外へ出ると、太陽はすでに朝の高さではなかった。
「市場、長かったんだな」
ルシルが改めて実感する。
「だから言ったでしょう」
シモンが答える。
「でも案内所もちゃんと来た」
「ええ。予定は守れています」
モモが帳面を確認する。
「三枝井戸、麦角の休み場、セレナス。名前が一気に増えましたね」
「全部書いた?」
「必要なところだけです」
「井戸が工事中なのは大事だな」
「はい。水は手前で多めに確認する、と」
モモが一行加える。
シモンは周囲を確認しながら言った。
「次は鉄樫車房へ行きましょう。今日点検できるかだけ確認します」
「昼飯は?」
ルシルが尋ねる。
シモンが一度空を見る。
「……その前に食べましょうか」
「やった」
「朝から食べ物ばっかりですね」
モモが言う。
「モモも食べるだろ?」
「食べます」
「じゃあ同じ」
「同じですね」
二人はあっさり納得した。
シモンも否定しなかった。
◇
昼食は案内所近くの小さな食堂で取った。
市場ほど選択肢はないが、旅人や商人が多く利用する店らしく、注文してから料理が出てくるまでが早い。
三人が選んだのは、麦飯の上へ煮込んだ肉と豆を載せたものだった。
「こういうの初めてだな」
ルシルが匙ですくう。
「別々じゃなくて、最初から上に載ってる」
「食べやすいですね」
モモも一口食べる。
濃いめの味付けが麦飯とよく合う。
シモンは食事をしながら、先ほど得た情報を整理していた。
「馬車点検で問題がなければ、明日の朝に出発できます。三枝井戸まで一日で必ず行く必要はありませんから、途中の休み場の情報も工房か宿で聞いておきましょう」
「分かった」
「今日中に点検できなかったら?」
モモが尋ねる。
「明日まで待つか、点検せず出るかをその時点で判断します。現状、不調があるわけではありませんから」
「絶対やらなきゃいけないわけじゃないんだな」
「ええ。予防です」
ルシルは頷く。
予定が一つ増えたからといって、それが絶対の義務になるわけではない。
状況を見て変える。
それでいい。
食事を終えると、三人は馬車宿区へ直接戻らず、職人街へ向かった。
◇
鉄樫車房は、音で場所が分かった。
木槌が木を叩く低い音。
金属を打つ高い音。
さらに、何か大きなものを転がす音が混じっている。
職人街の端へ近づくと、広い作業場が見えた。
正面に大きな両開きの扉。
横には屋根付きの作業場。
敷地には修理途中らしい馬車が三台停まっている。
看板には黒い樫の葉と鉄輪の絵。
『鉄樫車房』
「ここですね」
モモが看板を見る。
作業場の入口にいた若い職人へ声をかけると、奥から責任者らしい男性が出てきた。
四十代後半ほど。
短い灰褐色の髪。
腕が太く、革製の作業前掛けを着けている。
「旅馬車の点検?」
「はい。今のところ不具合はないんですが、少し特殊な造りなので、この先へ進む前に見てもらえればと思って」
ルシルが説明する。
「実物は?」
「麦車亭です」
「構造はどの辺が特殊なんだ?」
シモンが説明を引き継ぐ。
一般的な中型二頭立てより少し重いこと。
車高が高いこと。
厚めの車輪。
鉄芯を使った軸。
二重底。
揺れを抑える特殊な構造。
交換部品の一部が一般的ではない可能性。
男性は途中から腕を組んだ。
「なるほどな。口で聞くより見たほうが早そうだ」
「今日、お願いできますか?」
「今入ってる仕事が二台ある。大修理じゃなく点検だけなら、午後の後半には見られるぞ」
「本当?」
ルシルの顔が明るくなる。
「ただし、持ってきてもらう必要がある。馬ごとでもいいし、宿で引き馬を借りられるならそれでもいい」
「二頭の状態はいいので、馬車ごと持ってきます」
シモンが答えた。
「分かった。じゃあ申込だけしておけ」
男性は受付用の板を持ってくる。
「俺はこの車房を任されてるドラン・エッケルだ。点検だけなら、車輪、軸、足回り、連結、制動まわりを一通り見る。特殊部分は構造次第だな。分解しないと見えない場所まで勝手に開けたりはしない」
「お願いします」
ルシルが答えた。
ドラン・エッケル。
今後馬車の状態について話す可能性があるため、覚えておく必要がある名前だった。
「じゃあ午後、持ってきます」
「ああ。急がなくていい。前の二台が終わってなけりゃ待たせることになる」
「分かりました」
工房を出る。
ルシルは少し嬉しそうだった。
「何で楽しそうなんです?」
モモが尋ねる。
「馬車の中、ちゃんと見られるんだぞ」
「点検ですよ?」
「でも見たい」
「ルシル様、修理されるところとか好きですよね」
「知らない仕組み見るの面白いじゃん」
「分かりますけど」
シモンが二人の後ろから言う。
「作業の邪魔だけはしないでくださいね」
「聞くくらいは?」
「職人が答えてくれる範囲なら」
「よし」
「遊びではありませんよ」
「分かってるって」
ルシルの足取りは、少しだけ軽かった。
◇
麦車亭へ戻る途中、三人は朝に見た菓子店の前を通った。
昨日は『本日分終了』だった店だ。
今日は開いている。
窓際には小さな焼き菓子が並んでいた。
モモが歩きながら店を見る。
一歩。
二歩。
そのまま通り過ぎた。
「寄らないの?」
ルシルが尋ねる。
「馬車を持っていかないと」
「時間はあるぞ?」
「……あります?」
モモがシモンを見る。
シモンは工房で聞いた時間を考える。
「一つ買う程度なら問題ありません」
モモが止まった。
「じゃあ一つだけ」
「俺も」
「では私も一つにします」
結局、三人で店へ戻った。
売っていたのは、薄く焼いた生地へ砕いた木の実を混ぜ、表面に蜜を薄く塗った菓子だった。
朝の木苺蜜の焼き玉とはまったく違う。
モモは一枚だけ買い、その場では食べずに包んでもらった。
「食べないの?」
「あとで食べます」
「珍しい」
「馬車の点検見ながら食べたら怒られますから、終わってからです」
「ちゃんと分かってるじゃん」
「私を何だと思ってるんです?」
「お菓子好き」
「間違ってないですけど」
三人は笑いながら宿へ戻った。
◇
午後。
休んでいたトルクとベルクを馬車へ繋ぎ、鉄樫車房へ向かう準備を整えた。
二頭とも状態は良好。
長距離を走らせるわけではなく、町の中を移動するだけだ。
今度の御者はシモンが担当する。
ルシルとモモは車内ではなく、混雑の少ない場所では御者台近くから町の様子を眺めた。
ルーヴェルへ到着した昨日は、町へ入ることだけで精一杯だった。
今日は少し違う。
どの道に荷馬車が多いのか。
どこに誘導員がいるのか。
どの店が何を扱っているのか。
昨日より少しだけ分かる。
「一日いるだけでも変わるな」
ルシルが言う。
「何がです?」
「昨日は全部知らない場所だったけど、今日は市場があっちで、案内所が向こうで、工房がこの先って分かる」
「明日にはもっと分かりますね」
モモが答える。
「でも出発するかも」
「それでもいいんじゃないですか?」
「うん」
全部知ってから出る必要はない。
この町で暮らすわけではない。
必要なことを知り、面白いものを少し見て、また次へ進む。
それが今の三人にはちょうどよかった。
◇
鉄樫車房へ着くと、午前中にあった二台のうち一台はすでに姿を消していた。
もう一台も作業の終盤らしく、職人たちが工具を片づけ始めている。
ドランが馬車を見つけ、作業場から出てきた。
「それか?」
「はい」
ルシルが答える。
ドランは最初に馬車全体を見る。
次に車高。
車輪。
車体下。
後部。
前部。
少しずつ表情が変わった。
「確かに普通じゃないな」
「悪い意味?」
「まだ何も見てない。面白い造りだって意味だ」
ルシルの顔が明るくなる。
「分かる?」
「何がだ」
「面白いって」
「職人だからな」
ドランは笑った。
シモンが二頭を外して休ませる準備をする。
工房の者が水を用意してくれた。
「点検には少しかかる。あんたら、見てくか?」
「見たい」
ルシルの返事は一瞬だった。
モモも手を上げる。
「私も見ます」
「邪魔にならない場所からですよ」
シモンが念を押す。
ドランは三人を見て笑った。
「好きにしな。ただし工具には触るなよ」
「はい」
三人は作業場の端へ移動する。
馬車がゆっくりと点検位置へ運ばれていった。
買ってからずっと三人を乗せ、石畳も、草原も、森も、山道も、赤土も、白い石の道も走ってきた馬車。
目立った故障は一度もない。
それでも、何も起きていないから何もしなくていいわけではない。
ルシルは職人たちが車輪の状態を確認し始めるのを、興味深そうに見つめた。
その隣ではモモも静かに作業を追い、シモンは職人がどこを確認しているのかを確かめている。
ドランが前輪の一つへ手を添え、少し動かした。
次に下へ屈み込み、軸の周辺を覗く。
しばらくして立ち上がると、別の職人へ工具を取るよう指示した。
「何かあった?」
ルシルが思わず尋ねる。
ドランはすぐに不安を煽るようなことは言わなかった。
「今のところ壊れてる場所はない。ただ――」
彼は車体の下へ視線を戻した。
「長く乗るなら、少し手を入れたほうがよさそうな場所が一つある」
ルシル、モモ、シモンの視線が、同時に馬車へ向いた。
故障ではない。
今すぐ走れないわけでもない。
それでも、これからさらに西南へ進む三人にとって、聞いておくべき話が始まろうとしていた。




