第67話 ルーヴェルは、馬車の町でした
丘の上から見えていたルーヴェルは、近づけばすぐに着けるような距離ではなかった。
西南街道は平地へ下りたあとも緩やかな曲線を描きながら続き、途中には畑や牧草地が広がっている。遠くからひとまとまりに見えていた建物も、進むにつれて手前の農家や倉庫、街道沿いの作業小屋へ分かれて見えるようになり、町の中心部まではまだかなり距離が残っていた。
午後の日差しは少しずつ傾いているものの、夕暮れを心配するには早い。
御者台で手綱を握るルシルは、前方だけでなく時折トルクとベルクの様子にも意識を向けていた。二頭の歩調は乱れておらず、午前から続いた丘道を越えたあとも疲労が急に強まった様子はない。
「シモン、今の感じなら町まで行けそう?」
隣へ座るシモンは、すぐには答えなかった。
二頭の耳や首の動き、足運びをしばらく確認してから、街道の先へ目を向ける。
「今の状態が続くなら問題ないでしょう。ただし、町が近づけば荷馬車も増えるはずです。距離だけで判断せず、流れが遅くなればそれに合わせてください」
「分かった。暗くなる前に着くために急ぐ、はなしだな」
「はい。今から無理をする必要はありません」
以前ならシモンから言われていたことを、ルシルが先に口にした。
シモンはそれを指摘せず、眼鏡の位置を直して前へ向き直る。言葉にして褒めなくても、もう何度も同じことを確認する必要はない。
車内から外を見ていたモモが、二人の間へ顔を出した。
「さっきより馬車が増えてません?」
「増えてる」
ルシルも気づいていた。
反対方向から来る荷馬車が、丘を下りた直後より明らかに多い。二頭立ての大型荷馬車もあれば、小さな一頭立ての荷車もあり、荷台に積まれているものも木箱、麻袋、樽、薪束とさまざまだった。
少し先では、同じ方向へ進む三台の荷馬車が間隔を空けながら連なっている。
「街道町というだけはありそうですね」
シモンが言う。
「ルーヴェルへ運ぶ荷と、ルーヴェルから出てきた荷の両方があるのでしょう」
「市場、大きいかな」
ルシルが口にすると、モモがすぐ反応した。
「食べ物ですか?」
「いや、まだ何も言ってないだろ」
「顔がそうでした」
「今日みんな俺の顔読むなあ」
「分かりやすいんですよ」
昨日から何度か聞いた気がする言葉に、ルシルは少しだけ頬を膨らませた。
それでも視線は街道沿いへ戻る。
畑には見慣れた麦に似た作物だけでなく、背の低い葉物も植えられていた。何を育てているのかまでは分からないが、フェルナ村の周辺より畑の区画が大きく、街道へ向かう農作業用の細道も多い。
「町の近くって感じしてきた」
「そうですね」
モモも窓から景色を眺める。
「でも、まだ門は見えません」
「町が見えてからが長いな」
「遠くから大きく見える場所ほど、そういうことはあります」
シモンの返事を聞きながら、ルシルは前方の荷馬車との距離を保った。
急がない。
追いつきすぎない。
町は逃げない。
そんなことをわざわざ言葉にする必要もなく、手綱を通じて二頭の歩調を整えていった。
◇
さらに半刻ほど進んだところで、街道脇にこれまでより大きな標識が現れた。
太い木柱を二本使った頑丈なもので、上部には大きく『ルーヴェル』と刻まれている。その下には町までの距離と、荷馬車用の待機場、共同水場、宿泊区画を示す矢印が並んでいた。
「やっとちゃんと名前が出た」
ルシルは速度を落とさずに標識を見る。
「町まであと少しですね」
シモンも内容を確認した。
「ただ、入口の前に馬車待機場があるようです」
「待機場?」
後ろからモモが尋ねる。
「町へ入る馬車が多い場合、入口付近へ集中させないための場所でしょう。荷物の確認や行き先の整理にも使うのかもしれません」
「俺たちも寄る?」
「標識に一般旅客馬車は係員の指示に従うよう書かれています。入口で確認しましょう」
「了解」
標識を通り過ぎる。
そこからは道幅がさらに広くなった。
西南街道そのものは二台の大型荷馬車が余裕を持ってすれ違える幅があるが、左右に土を固めた細い帯が追加されている。徒歩の者や小型荷車がそちらを利用しており、荷馬車同士の流れを邪魔しにくい構造になっていた。
「道まで変わった」
モモが感心したように言う。
「人が多いからかな」
「おそらく。交通量に合わせて整備しているのでしょう」
シモンの声にも少し興味が混じっている。
やがて、前方の三台の荷馬車が速度を落とした。
その先に大きな広場がある。
町の門ではない。
柵で区切られた広い土地に何台もの荷馬車が停まり、係員らしい者たちが行き先を確認していた。
「ここだな」
ルシルもゆっくり速度を落とした。
入口には二人の係員がいる。
一人が前の荷馬車へ何かを尋ね、もう一人は通行する小型馬車を別の列へ案内していた。
ルシルたちの番になると、灰色の上着を着た中年の男が近づいてくる。
「こんにちは。ルーヴェルへ入る旅の方ですか?」
「はい。三人です。二頭立ての旅馬車で、荷物は自分たちのものだけです」
ルシルが答える。
男は荷台をざっと見たあと、馬の様子にも目を向けた。
「商売用の大量荷物はなし、と。町で荷下ろしの予定もありませんね?」
「ありません」
「でしたら待機場へ入らず、そのまま旅客用の道を進んでください。宿を探すなら南寄りの馬車宿区画が便利ですよ」
「馬車宿区画?」
「馬車を置ける宿が集まってる場所です。ここは荷馬車が多い町なんで、普通の宿だと馬車置き場が小さいところもありますから」
シモンが少し身を乗り出す。
「二頭を預けられる厩舎もありますか?」
「大抵は。ベルク――」
ルシルは一瞬だけ驚きかけたが、係員はもちろん馬の名前を知っているわけではなく、視線を黒灰色の馬へ向けただけだった。
「そっちの馬、ほかの馬との距離を取りたい感じですか?」
「ええ。少し気難しいところがあります」
シモンが答える。
「なら南端の宿を探すといいですよ。あっちは厩舎が広いところが多い。混んでても間を空けてもらいやすいはずです」
「助かります」
「あと、町中は荷車が多いので速度は落としてください。交差する場所では誘導員がいるところもあります」
「分かりました」
必要な説明を受け、ルシルは礼を言った。
係員は三人の素性について尋ねない。
旅人か商人か。
大量の荷を持っているか。
馬車をどこへ向かわせるか。
町へ入るために必要なのはそれだけらしい。
「じゃあ、まっすぐで?」
「はい。二つ目の大きな交差路を左へ。馬車宿区画の標識が出てます」
「ありがとうございます」
ルシルは二頭を進ませた。
待機場を抜けると、その先にようやくルーヴェルの町がはっきりと姿を現した。
◇
高い城壁はなかった。
代わりに町の外周には腰より少し高い石垣と木柵が続き、街道が入る場所だけ大きく開かれている。門というより、町と街道の境目を示す入口に近かった。
その先には建物が並んでいる。
二階建ての店。
倉庫。
宿。
食堂。
馬具屋らしい看板。
車輪を描いた看板。
大きな樽を積んだ店。
さらに奥には、遠くから見えた背の高い屋根もある。
「うわ……」
ルシルは思わず声を漏らした。
「馬車、多いですね」
モモも目を丸くする。
町へ入って最初に感じるのは、人より馬車だった。
道の端には荷下ろし中の荷車が停まり、倉庫の前では男たちが麻袋を運んでいる。向かい側からは空になった大型荷馬車がゆっくり進み、その後ろを小型の荷車がついてくる。
馬の蹄音。
車輪の音。
荷物を運ぶ者の掛け声。
店先から聞こえる呼び込み。
それらが重なり、町全体が絶えず動いているようだった。
「ここ、今までの町と全然違うな」
「街道交通を中心に発展した町なのでしょうね」
シモンも周囲を見ている。
ただし観察へ夢中になりすぎず、前方の馬車や歩行者の動きを確認していた。
「ルシル様、右から荷車が出てきます」
「見えてる」
倉庫の間から一頭立ての荷車が出てくる。
ルシルは早めに速度を落とし、相手を先に通した。
荷車を操っていた若い男が片手を上げる。
ルシルも軽く手を上げて返した。
「町の中、こっちのほうが難しいな」
「障害物が多いですからね。道そのものが良くても、人と馬車の動きは一定ではありません」
「シモン、必要なら代わるぞって言って」
「今のところ必要ありません」
それだけだった。
ルシルは少しだけ口元を緩め、再び前へ集中する。
◇
二つ目の大きな交差路には、確かに標識があった。
『南馬車宿区』
矢印は左。
さらに『共同厩舎』『車輪修理』『馬具』『飼料』という文字まで並んでいる。
「すごい」
モモが車内から標識を見る。
「馬車のための町みたいです」
「宿探す前に全部見たくなるな」
「先に宿です」
シモンが即座に止める。
「分かってるよ」
「ルシル様が今、車輪修理の看板を見ていたので」
「見るだけならいいだろ?」
「もちろんです。ただし馬車を停めてからにしてください」
「はーい」
交差路を左へ曲がる。
中心部の賑わいから少し離れると、道沿いの建物が大きくなった。
宿の前には広い馬車置き場があり、奥に厩舎が見える。宿泊客だけでなく馬や馬車そのものを受け入れることを前提に造られているようだった。
最初の宿は、入口に大型荷馬車が何台も並んでいた。
ベルクには少し窮屈そうだ。
二軒目も混んでいる。
三軒目へ進む。
木造二階建ての建物で、横に広い敷地がある。看板には、車輪と麦穂を組み合わせた絵とともに『麦車亭』と書かれていた。
「ここ、広い」
ルシルが速度を落とす。
厩舎は建物の裏手まで続いており、馬車置き場にもまだ余裕がある。馬同士の間隔も、最初の二軒より広かった。
「確認してみましょう」
シモンが先に降りた。
ルシルは馬車を入口脇の一時停車場所へ寄せる。
「俺も行く」
「私も」
「全員で行く必要はありません。お二人は馬車を見ていてください」
シモンが宿へ向かう。
ルシルは御者台に座ったまま、その背中を見送った。
「こういうのはシモンが早いな」
「ルシル様も聞けるでしょう?」
「聞けるけど、確認すること多いじゃん。部屋、厩舎、ベルクの間隔、馬車置き場、水、料金……」
「ちゃんと分かってるじゃないですか」
「分かるのと、シモンより上手く聞けるのは別」
モモが少し笑った。
「それ、いいと思います」
「何が?」
「できるけど、得意な人に任せるの」
「そう?」
「はい。私も帳面は私が書いてますし」
「それはモモが始めたからじゃない?」
「でもシモン君に毎日書いてって言われたら嫌です」
「私も嫌ですよ」
いつ戻ってきたのか、シモンが馬車の横に立っていた。
モモが驚いて振り返る。
「早いですね」
「受付が空いていましたから」
「どうだった?」
「部屋は三人それぞれ取れます。馬車置き場も空きあり。厩舎は奥側ならベルクの隣を一枠空けてもらえるそうです」
「ここにしよう」
ルシルは即答した。
「料金も問題ありません」
「じゃあ決まりですね」
モモも頷いた。
こうしてルーヴェルでの宿は、町へ入ってそれほど時間をかけずに決まった。
◇
麦車亭の厩舎は、外から見た以上に奥行きがあった。
中央に広い通路があり、その両側へ馬房が並んでいる。宿泊客の馬だけでなく、短時間預ける者もいるらしく、入口近くは出入りが多い。
シモンは宿の係員と相談し、トルクとベルクを奥の静かな区画へ入れることにした。
「こっちなら隣を空けておけますよ」
案内した厩務員の男が言う。
「今夜は大型隊商の予約もないんで、急に埋まることもないと思います」
「助かります」
シモンが礼を言う。
ベルクは最初こそ周囲の馬の匂いを気にして耳を動かしていたが、トルクが隣に入り、反対側が空いていると分かると落ち着いた。
ルシルもその様子を確認する。
「大丈夫そう?」
「ええ。しばらく様子を見ますが、問題ないでしょう」
「トルク君は……」
モモが隣を見る。
トルクはすでに飼葉桶のほうを気にしていた。
「大丈夫ですね」
「判断早いな」
「分かりやすいので」
厩務員が笑う。
「栗毛のほうは食いしん坊かい?」
「かなり」
ルシルが答える。
「よく食う馬は頼もしいよ。ただ、やりすぎには気をつけないとな」
「はい。そこはシモンが厳しいです」
「必要な管理です」
シモンが訂正する。
厩務員は三人のやり取りを聞きながら、トルクの体つきを見る。
「旅が長い割に二頭とも状態いいな。蹄鉄もまだ問題なさそうだ」
「途中の町で見てもらっています」
「なるほど。西南へ抜けるなら、この先も馬を診られるところはあるが、町を出る前に一度軽く見てもらう旅人も多いよ。ここは馬具屋も蹄鉄屋も多いから」
シモンが反応した。
「この先、しばらく大きな町が少ないのですか?」
「いや、そういう意味じゃない。単純にここは選べる店が多いってことさ。急ぎじゃなきゃ無理にやる必要はないよ」
「分かりました」
シモンはそこで話を広げなかった。
今すぐ必要な整備ではない。
選択肢として覚えておけば十分だった。
◇
荷物を部屋へ運び、最低限の整理を終えた頃には、午後の光がだいぶ柔らかくなっていた。
三人の部屋は二階。
廊下を挟んで近い位置にあり、窓からは馬車宿区の一部が見える。
ルシルは自分の部屋へ荷物を置くと、すぐ窓際へ寄った。
眼下を荷車が通る。
向かいには馬具店。
少し先には、車輪を立てかけた工房らしい建物がある。
「……見たい」
誰もいない部屋で、思わず声に出た。
すぐに扉が叩かれる。
「ルシル様、準備できましたか?」
モモだった。
「できた」
扉を開けると、モモはすでに白い外套を整えている。片手には小さな帳面を持っていた。
「シモン君が下で待ってます」
「どこ行く?」
「まず町の案内板を見ようって」
「市場じゃなく?」
「宿の人に聞いたら、中央市場は明日の朝のほうが店が多いそうです」
ルシルの足が一瞬止まる。
「明日?」
「はい」
「今日行っても?」
「開いてる店はあるそうですよ。でも朝のほうが多いって」
ルシルは考えた。
今すぐ行けば何かは見られる。
だが明日のほうが店が多い。
(だったら今日は別のところ見たほうがいいか)
「じゃあ今日は馬車の町を見る」
「やっぱり気になってたんですね」
「こんなに店あるんだぞ」
「私も気になります」
二人で階段を下りる。
受付近くではシモンが宿の主人から町の簡単な案内を聞いていた。
「ちょうどよかった。今日のうちに必要なことだけ確認しておきましょう」
「市場は明日なんだろ?」
「聞きましたか」
「モモから」
「中央市場は日の出後から昼前が最も店が多いそうです。今日は馬車宿区と、その周辺を見る程度で十分でしょう」
「賛成」
ルシルの返事は早かった。
「ただし、買う必要のない物を片端から買わないでくださいね」
「まだ何も買うって言ってない」
「先に言っておきます」
「信用されてない……」
「見ることに関しては信用しています。買うことに関しては別です」
モモが隣で笑った。
◇
ルーヴェルの馬車宿区は、歩いてみるとさらに面白かった。
馬具店だけでも数軒ある。
革製の手綱や鞍を中心に扱う店。
金具を並べた店。
荷台用の布や縄を扱う店。
車輪専門らしい工房では、大小さまざまな木製車輪が壁際に並べられていた。
ルシルは店先で何度も足を止める。
「これ、うちのと形違う」
指差したのは、鉄輪の幅が太い車輪だった。
店先で作業していた職人が顔を上げる。
「荷運び用だよ。重い荷を積む馬車向けだ」
「太いほうが丈夫?」
「丈夫さもあるが、使う道との相性だな。何でも太けりゃいいってもんじゃない」
五十代ほどの職人は、手を止めることなく答えた。
削っているのは車輪の外周へ使う木材らしい。
「旅馬車かい?」
「はい」
「なら今付いてるやつを大事にしな。見たところ悪い物じゃない」
ルシルは少し離れた場所に置いてきた自分たちの馬車を思い出した。
「特殊な造りなんです」
「そうなのか?」
「ちょっと重くて、車高が高くて、軸も普通と違うって聞きました」
職人の手が一度止まった。
「へえ。どこの工房だ?」
ルシルが購入した町と店について話すと、職人は知らないらしく首を傾げた。
「遠いな。そりゃ知らん。特殊な部品があるなら、壊れる前に構造を分かってる奴へ見せとくのは大事だぞ」
「簡単な修理道具と説明は受けてます」
「ならいい。旅先じゃ同じ部品が手に入るとは限らんからな」
シモンが横から尋ねる。
「一般的な部品で代用できるかどうかも、事前に確認しておくべきでしょうか」
「できるならな。ただ、実物を見ないと何とも言えん」
職人はそこで初めて手を止め、三人を見た。
「別に今持ってこいって話じゃないぞ。調子がいいなら無理にばらす必要もない。ただ、長旅なら『壊れたら考える』より、『壊れたとき何が困るか知っておく』ほうが楽だ」
ルシルはその言葉を少し考えた。
「それ、覚えとく」
「そうしな」
職人はまた作業へ戻った。
名前を聞くほどの関係ではない。
三人も礼を言い、店を離れた。
「馬車、明日見てもらう?」
ルシルが尋ねる。
「今のところ不調はありません」
シモンは歩きながら答える。
「ただ、ルーヴェルは店を選べます。今後の道を確認して、大きな町がしばらくないようなら、予防的に簡単な点検を頼む価値はありますね」
「じゃあ道を調べてから?」
「そのほうがいいでしょう」
「了解」
ルシルはすぐ納得した。
何か面白そうなものを見つけても、すぐ買う。
何か心配なことを聞いても、すぐ修理する。
そうしなくてもいい。
必要な情報を揃えてから決めればいい。
旅を始めた頃より、その感覚はずっと自然になっていた。
◇
モモは少し後ろを歩きながら、二人の会話を聞いていた。
ルシルは相変わらず何にでも興味を持つ。
知らない道具があれば見たがるし、変わった食べ物があれば食べたがる。景色が変われば窓から眺め、知らない鳥がいれば名前を知りたがる。
そこはあまり変わっていない。
けれど、興味を持ったもの全部へ手を伸ばすわけではなくなった。
(ルシル様、ちゃんと旅を続ける人になってきたんですね)
言葉にすると少し変な気がして、モモは口には出さなかった。
王城で暮らしていた頃の彼を、モモはすべて知っているわけではない。それでも、自分たちと旅を始めたばかりの頃より、今のほうがずっと自然に道の上へ立っているように見える。
「モモ?」
前を歩いていたルシルが振り返った。
「どうした?」
「何でもありません」
「帳面書かないの?」
「今はまだ」
「じゃあ何見てた?」
「ルシル様です」
ルシルが足を止めかける。
「俺?」
「はい」
「何で?」
「何となくです」
今度はルシルが首を傾げた。
シモンは二人の横をそのまま通り過ぎる。
「道の真ん中で立ち止まらないでください」
「あ、ごめん」
「すみません」
二人は慌てて歩き出した。
モモは小さく笑う。
帳面へ書くほどではない。
忘れても困らない。
それでも今のルシルの顔は、たぶんしばらく覚えているだろうと思った。
◇
馬車宿区の端には、小さな広場があった。
中央には町の案内板があり、ルーヴェルの主要な区画が簡単な図で示されている。
北側は倉庫と荷受け場。
中央は市場と商店。
東側には職人街。
南側が今いる馬車宿区。
西側には住宅と、町を抜ける西南街道の出口。
「結構大きい」
ルシルが案内板を見る。
「全部回るのは一日じゃ無理ですね」
モモも隣に立った。
「回る必要もありません」
シモンが必要な場所を確認する。
「まず明日の朝に中央市場。街道情報は……こちらですね」
案内板の一角に『街道案内所・荷運び組合』と書かれている。
「荷運び組合?」
「商人や御者向けの情報を扱っているのでしょう。冒険者ギルドより、今回はこちらのほうが適しているかもしれません」
「明日行く?」
「ええ。市場のあとでもいいでしょう」
「馬車の点検は?」
「その情報を確認してからです」
順番が決まる。
市場。
街道案内所。
必要なら馬車点検。
それ以外は時間次第。
「宿、何泊?」
モモが尋ねた。
「まだ一泊分しか取っていません」
シモンが答える。
「明日出るか、もう一泊するかは、情報を見てから決めればいいでしょう」
「それがいいな」
ルシルも異論はなかった。
町へ着いたからといって、何日滞在するかを最初に決める必要はない。
見るものがあれば見る。
必要なら休む。
先へ進みたければ進む。
三人の旅では、それで十分だった。
◇
広場を離れた頃には、夕方の色が町へ降り始めていた。
昼間ほど荷車は多くない。
代わりに仕事を終えたらしい人々が食堂へ入り、宿の前では旅人たちが馬を預けている。
「夕飯、宿?」
ルシルが尋ねる。
「麦車亭でも食べられるそうです」
シモンが答える。
「外にも食堂ありますよ」
モモは周囲を見回した。
肉を焼く匂い。
煮込み料理らしい香辛料の匂い。
パンを焼く香り。
三人の足が少しだけ遅くなる。
「……どうする?」
ルシルが二人を見る。
シモンはため息をつかなかった。
代わりに周囲の店を一度見渡す。
「明日の朝は市場へ行きます。昼も町にいる可能性がありますから、今夜すべて試す必要はありませんよ」
「分かってる」
「では、宿へ戻りましょう。馬の様子ももう一度確認したいです」
「はーい」
モモも素直に従った。
麦車亭へ戻る途中、彼女は一軒の菓子店らしい小さな看板を見つけた。
焼き菓子の絵。
店先には『本日分終了』の札。
モモは二秒ほど見た。
そのまま歩く。
ルシルが気づいた。
「明日?」
「明日です」
「寄る?」
「市場にお菓子がなかったら」
「あると思うけどな」
「じゃあ市場を見てからです」
後ろを歩くシモンは何も言わなかった。
止める必要がないからだ。
◇
麦車亭へ戻ると、最初に厩舎へ向かった。
トルクは落ち着いている。
ベルクも隣の空き馬房のおかげか、特に警戒した様子はなかった。
厩務員によれば、二頭とも水を飲み、飼葉も問題なく食べているという。
「よかった」
ルシルはベルクの首筋を軽く撫でた。
「今日は丘道もあったしな。お疲れ」
ベルクは大きな反応を返さなかったが、嫌がってもいない。
トルクにも声をかける。
「お前は食べすぎるなよ」
トルクが鼻を鳴らした。
「分かってない顔ですね」
モモが笑う。
「分かってるかもしれないだろ」
「分かってて無視してる可能性もあります」
「そっちのほうが悪いじゃん」
厩舎にいた別の旅人が、少し離れた場所でその会話を聞いて笑っていた。
三人が王族や聖女、賢者だったとは思いもしないだろう。
ただ、馬を大切にしている旅人たち。
少し賑やかな仲間。
それだけに見える。
ルシルにとっては、その見られ方が心地よかった。
◇
夕食は麦車亭の一階にある食堂で取った。
宿泊客向けの食事は、麦パンと豆の煮込み、香草を使った鶏肉、それに薄く切った根菜の酢漬けだった。
ルシルは最初に鶏肉を食べ、すぐに頷いた。
「うまい」
「今日も早いですね」
モモが笑う。
「何が?」
「判断です」
「食べたんだから分かるだろ」
「それはそうですけど」
シモンは豆の煮込みを口にしながら、周囲の客の会話へ必要以上に耳を向けないようにしていた。
それでも街道町だけあり、自然と道の話は聞こえてくる。
明日の荷。
西の町。
車輪の修理。
馬の交代。
市場の相場。
どれも三人に直接関係する話ではない。
今夜ここで断片的な噂を拾うより、明日きちんと案内所で確認したほうがいい。
「シモン、何か聞こえた?」
ルシルが尋ねる。
「いろいろ聞こえますが、今のところ私たちに必要な情報はありません」
「そっか」
「明日確認しましょう」
「うん」
ルシルはそれ以上聞かなかった。
モモも食事を続ける。
焦って情報を集めなくても、明日がある。
◇
夕食後、三人は一度だけ宿の外へ出た。
遠くへ行くためではない。
入口前の広い軒下から、夜になり始めた馬車宿区を眺めるためだった。
昼間ほどではないが、まだ荷馬車が通っている。
宿の灯り。
工房から漏れる火の色。
厩舎の奥から聞こえる馬の気配。
石畳ではなく固く締められた土の道を、車輪が低い音を立てながら進んでいく。
「ルーヴェル、夜でも動いてるな」
ルシルが柱へ軽く背を預ける。
「荷運びの町だからでしょうか」
モモは帳面を開いた。
「今日の分、書く?」
「少しだけ」
彼女は軒下の灯りを使い、今日の最後の記録を書いていく。
『ルーヴェル到着。荷馬車がとても多い。町の入口には馬車待機場があり、旅客用と荷運び用で流れを分けている。南側には馬車宿が集まっている。麦車亭に宿泊。』
そこで一度筆を止める。
「あと何書こう」
「車輪いっぱいあった」
ルシルが言う。
「それですか?」
「俺は面白かった」
「じゃあ書きます」
モモは少し笑いながら一行追加した。
『馬具屋と車輪の工房がたくさんある。ルシル様はずっと見ていた。』
「そこまで書く?」
「事実です」
「じゃあモモが菓子屋見てたのも書こう」
「書きません」
「ずるい」
「書く人の特権です」
シモンが二人のやり取りを聞きながら、静かに息を吐いた。
「その帳面が後世に残ったら、ずいぶん偏った記録になりますね」
「後世?」
モモが顔を上げる。
「例えばの話です」
「残さないですよ?」
「ええ。ですから例えばです」
モモは自分の帳面を見る。
まだ表紙に題名はない。
誰かへ見せるために書いているわけでもない。
忘れたくないこと。
あとで三人で思い出したいこと。
必要な情報。
それらを少しずつ書いているだけだ。
「私たちが読めればいいです」
モモが言う。
「そうだな」
ルシルも頷く。
「俺が忘れてても、モモが書いてるし」
「全部は書いてませんよ?」
「じゃあ忘れた分はシモンが覚えてる」
「私を記録装置のように扱わないでください」
「でも覚えてるだろ?」
「ある程度は」
「ほら」
シモンは反論しようとして、やめた。
モモが笑い、帳面を閉じる。
夜風が通りを抜けていった。
風見布はない。
石風車もない。
代わりに馬車の音と、人の声と、宿の明かりがある。
昨日とはまったく違う夜だった。
◇
部屋へ戻る前、明日の予定だけ確認した。
朝は中央市場。
その後、街道案内所と荷運び組合。
そこで西南街道の先を確認する。
馬車の点検を頼むかどうかは、その情報と現在の状態を見て決める。
宿を延長するか、明日のうちに出発するかもまだ決めない。
「市場で時間使いすぎないようにしないとな」
ルシルが言う。
モモが彼を見る。
「ルシル様が?」
「何で俺だけ?」
「私はちゃんと選びます」
「お菓子を?」
「お菓子だけじゃありません」
「二人ともです」
シモンがまとめて止めた。
「市場は見るために行くのですから、時間を使うこと自体は構いません。ただし、そのあと案内所へ行くことを忘れないでください」
「了解」
「分かりました」
返事だけは揃った。
シモンは二人の顔を交互に見たあと、これ以上言っても仕方がないと判断したらしい。
「では、今日は休みましょう」
「おやすみ、シモン」
「おやすみなさい、シモン君」
「はい。おやすみなさい」
三人はそれぞれの部屋へ戻る。
ルシルは寝台へ入る前に、窓から一度だけ外を見た。
町の灯りがいくつも見える。
王都ほど眩しくない。
セイラとも、リュカとも、ハルゼとも、レグナとも違う。
荷を積んだ馬車が集まり、また別の土地へ出ていく町。
(明日の市場、どんなものがあるんだろ)
最初に浮かんだのは、やはり食べ物だった。
自分でも少しおかしくなり、ルシルは小さく笑って窓を閉める。
黒い四角い物も、知らない文字も、夢の中の明るい場所も、その夜は現れなかった。
ルーヴェルでの最初の夜は、遠くから聞こえる車輪の音を残しながら、静かに更けていった。




