第66話 古い石風車の朝は、少しだけ賑やかです
石風車の休み場で迎えた朝は、馬の嘶きと車輪の軋む音から始まった。
夜明けからそれほど時間は経っておらず、東の空には淡い橙色が残っている。昨夜まで白灰色だった街道は朝露をわずかに含んで色を濃くし、その向こうでは羽根を失った古い石風車が、長い影を休み場の端まで伸ばしていた。
ルシルが馬車から外へ出たとき、先客だった三台の馬車のうち一台はすでに出発準備を終えていた。商人らしい男が荷紐を締め直し、連れの女性が馬の水桶を片づけている。
「おはようございます」
ルシルが声をかけると、荷紐を確認していた男が顔を上げた。
「おはよう。そっちも西南かい?」
「はい。そのつもりです」
「なら途中までは同じだな。今日は風も弱いし、走りやすそうだ」
男はそう言って空を見上げた。昨夜は石風車の周囲を抜けていた風も今朝はかなり穏やかで、近くの草がわずかに揺れる程度だった。
「この先も、昨日みたいな白い道ですか?」
「しばらくはな。ただ、昼まで走れば土の色は普通に戻ってくるよ。あとは緩い丘が続くくらいだ」
「ありがとうございます」
「いやいや。俺たちは途中で西へ折れるから、その先までは知らないけどな」
商人は笑って荷台へ戻った。
名前を聞く必要はなさそうだった。今朝たまたま同じ休み場から出発する旅人であり、互いに知っている道のことを少し話しただけである。
ルシルが石風車のほうへ目を向けると、その向こうからモモが歩いてきた。白い外套の前を留めながら、まだ少し眠そうに目を細めている。
「おはようございます。早いですね」
「俺も今起きたところ。向こうの人たちはもう出るみたい」
「本当ですね。私たちは?」
「まず馬じゃない?」
「ですね」
二人が馬繋ぎへ向かうと、すでにシモンがトルクとベルクを確認していた。紺色の外套の裾をしゃがんだ膝の脇へ寄せ、ベルクの右後脚を丁寧に見ている。
「おはよう、シモン」
「おはようございます。お二人とも起きたなら、ちょうどいいですね」
シモンは立ち上がると、ベルクの首筋へ一度手を添えた。
「二頭とも問題ありません。昨日の白い粉が蹄の周囲に残っていますが、異常はありませんし、ベルクの右後脚も大丈夫です」
「よかった」
ルシルは自然にトルクの側へ回った。自分でも脚や蹄を確かめ、毛並みや目の様子まで見ていく。
トルクは確認されることに慣れたのか、特に気にする様子もない。それより朝の飼葉が気になるらしく、何度も餌を準備している場所へ鼻先を向けていた。
「元気そうだな」
「トルク君、そっちばかり見てますね」
モモが笑いながら近づくと、今度はトルクの鼻先が彼女へ向いた。
「私じゃありません。ご飯はあっちです」
「モモから何か出てくると思ってるんじゃない?」
「出しませんよ。朝ごはん前ですから」
「朝ごはん後でも勝手に与えないでくださいね」
シモンが念を押すと、モモは少し不満そうに振り返った。
「分かってます。最近はちゃんと聞いてるじゃないですか」
「ええ。ですから確認だけです」
「それならいいです」
モモはトルクの額を撫でてからベルクにも声をかけた。ベルクはシモンの近くから動かなかったものの、彼女が近づいても警戒することなく耳を動かしている。
こうした朝の確認も、三人にとって特別な作業ではなくなっていた。
王城を離れたばかりの頃なら、ルシルは馬の脚をどこまで見ればいいのかも知らなかった。今でも専門家には遠く及ばないが、少なくとも毎朝何を確認し、何か変化があれば誰に相談すべきかは分かる。
(全部できる必要はないんだよな。変だって気づければ、その先はシモンに聞いたり、町で詳しい人を探したりできる)
以前なら、自分でできないことを少し悔しく思ったかもしれない。
今は違う。
分からないことがあれば聞く。それも旅を続けるために必要なことだと、いつの間にか自然に考えられるようになっていた。
「ルシル様?」
シモンに呼ばれ、ルシルは顔を上げた。
「何?」
「トルクの脚を持ったまま考え込まないでください」
「あ、ごめん」
慌てて脚を下ろすと、トルクが鼻を鳴らした。
「怒った?」
「呆れられたんじゃないですか?」
「馬に?」
「可能性はあります」
モモが笑いを堪えきれず、肩を揺らした。
◇
朝食は簡単に済ませた。
硬めのパンに保存肉を合わせ、昨夜使わなかった煎り土房豆を少量ずつ食べる。温かい湯も用意したが、朝の空気が思ったほど冷えていなかったこともあり、三人とも昨夜ほど湯気をありがたがることはなかった。
食事をしながら、シモンが地図を広げる。
「昨日ガレオさんから聞いた情報と、手元の地図を合わせると、今日はしばらく西南街道をそのまま進めます」
ルシルはパンを手にしたまま地図を覗き込んだ。
「しばらくって、どれくらい?」
「少なくとも午前中は分岐を気にする必要はなさそうです。午後に小さな脇道がいくつかありますが、農地や採石場へ向かう道でしょう」
「じゃあ間違えにくい?」
「標識を確認すれば、ですが」
「確認します」
先に答えたのはモモだった。
彼女は食事を終えると、小さな帳面を取り出したものの、すぐには開かなかった。
「今日はどこまで行くんでしょう」
「決めすぎなくてもいいでしょう。二頭の状態と道、それから途中で得られる情報次第です」
シモンが答えると、ルシルも頷いた。
「昨日みたいに休める場所があればそこで止まってもいいし、村があれば寄ってもいいしな」
「海は?」
モモが尋ねる。
「それは西南へ進んでれば近づいてる……はず」
「最後だけ自信ないですね」
「地図では近づいてますよ」
シモンが淡々と補足した。
「ほら」
「シモン君に助けてもらいましたね」
「いいんだよ、合ってるなら」
モモは笑いながら帳面を開き、昨日書いたページを確認した。
フェルナ村。
風車。
白灰色の道。
石風車の休み場。
写真についての記述はない。
新しい夢も、奇妙な言葉もなかった。
昨夜は普通に眠り、朝も普通に目覚めた。
ルシル自身、そのことを特別には考えなかった。黒い四角い物や、色の多い明るい場所について無理に思い出そうともしていない。
「今日は何か書けるといいですね」
モモが帳面を閉じる。
「何もなかったら?」
「何もなかった日でもいいですけど、たぶん何かありますよ」
「なんで?」
「今まで大体ありましたから」
モモは当然のように答えた。
シモンが地図を畳みながら小さく笑う。
「それは事件が起きるという意味ではなく、モモ嬢が何かしら見つけるという意味でしょうね」
「もちろんです。美味しいものでも、変な木でも、知らない景色でもいいんです」
「じゃあ俺も探そう」
「競争ではありませんよ?」
「分かってるって」
朝食を終える頃には、先ほどの商人の馬車はすでに休み場から姿を消していた。
残る二台も出発準備を進めている。
三人も荷物を整え、馬車の状態を確認した。
白灰色の粉はまだ車体の下部に残っている。昨夜、可動部や確認に必要な箇所だけは軽く落としてあるため、走行に支障はない。
「今日は誰から?」
ルシルが尋ねると、シモンが御者台を見る。
「午前中は私がやりましょう。昨日はモモ嬢が午後を担当しましたし、白い路面がどこまで続くか確認したいので」
「じゃあ頼む」
「お願いします」
役割はすぐに決まった。
◇
石風車の休み場を出てしばらくは、昨日と同じ白灰色の街道が続いていた。
ただ、朝露の影響なのか、昨日ほど粉は舞わない。車輪が通ったあとに薄く白い筋が残る程度で、風が吹いても視界を遮るほどではなかった。
シモンは一定の速度で二頭を進ませる。
ルシルは御者台の隣に座り、モモは最初こそ車内にいたものの、しばらくすると後ろから顔を出した。
「昨日より白くならないですね」
「路面が少し湿っているからでしょう。日が高くなれば乾いてきます」
「じゃあ今のうちに抜けたい?」
ルシルが尋ねる。
「そのために二頭へ無理をさせる必要はありません。普通に進めば十分です」
「了解」
街道の左右には低い草地が広がっている。
昨日まで目立っていた赤い岩はほとんどなくなり、ところどころに白っぽい石が地面から顔を出していた。そのさらに向こうでは緩やかな丘が重なり、朝の光を受けて輪郭を淡く浮かび上がらせている。
派手な景色ではない。
けれど、昨日までの赤い土地とは明らかに違う。
ルシルは前方を眺めながら、時折街道脇の景色へ視線を移した。
「石風車、もう見えなくなったな」
「振り返ればまだ見えるかもしれませんよ」
モモに言われ、ルシルはすぐには振り返らなかった。
「いいや。次見る」
「珍しいですね」
「何が?」
「ルシル様なら振り返るかと思いました」
シモンまでそんなことを言う。
「俺、そんなに何でも見る?」
「見ますね」
「見ます」
二人に同時に言われ、ルシルは少し考えた。
「じゃあ、今日は見ない練習」
「何の練習ですか?」
「分からない」
モモの笑い声が後ろから聞こえた。
それにつられてルシルも笑う。
結局、石風車を振り返ることはなかった。
◇
一刻ほど進むと、街道脇に石柱が現れ始めた。
人の腰ほどの高さしかない細い柱で、一定の間隔を空けて道の片側へ並んでいる。表面には数字と、簡単な矢印のような印が刻まれていた。
「これ、昨日あった?」
ルシルが最初の一本を通り過ぎてから尋ねた。
「フェルナ村の先にも数本ありました。ただ、赤土で下部が汚れていて目立ちにくかったですね」
シモンが速度を変えずに答える。
「何の数字?」
「距離標でしょう。新道の整備時に設置されたものだと思います」
「どこからの距離ですか?」
モモも身を乗り出さない範囲で窓から確認する。
「基準地点が分からないので、今の段階では断定できません。次の標識か、休み場に説明があれば分かるでしょう」
「全部知らないんですね、シモン君」
「当然です」
シモンは少しも気を悪くした様子を見せなかった。
「私も初めて通る道ですから」
その言葉を聞き、ルシルは隣を見る。
シモンはいつも通り前方へ視線を向けている。
王国の制度や外交、魔法、街道事情まで何でも知っているように見える彼でも、知らない道では知らないことがある。
以前から分かっていたはずなのに、こうして同じ景色を初めて見ると少し面白い。
「じゃあ、シモンも初めて見るもの探せるな」
「私だけ除外されていたんですか?」
「いや、何となくシモンは知ってる側だと思ってた」
「知識があることと、何でも知っていることは別ですよ」
「うん。最近それ分かってきた」
ルシルは街道脇を通り過ぎる次の石柱を見た。
先ほどより数字が一つ増えている。
「でも、あれが何かは気になる」
「私もです」
シモンがわずかに笑った。
◇
さらに進むと、白灰色の路面は徐々に茶色へ変わっていった。
境目がはっきり存在するわけではない。白い小石が減り、その間から普通の土が増え、気づけば車輪の後ろへ舞う粉もほとんどなくなっていた。
「終わった?」
休憩のため馬車を停めたとき、モモが後輪を覗き込む。
「たぶん、白い区間は抜けましたね」
シモンが答える。
「馬車の色は?」
ルシルも隣から見る。
昨日までの赤土に白い粉が重なり、さらに今日の茶色い土が薄く付いている。
「増えた」
「何がです?」
「色」
モモは一度車体を眺め、それから小さく笑った。
「本当ですね。綺麗かって聞かれたら困りますけど」
「旅してる感じはするだろ?」
「します」
シモンは二人の会話には加わらず、車輪と軸周りを確認している。
その様子を見ていたルシルが近づいた。
「何かある?」
「いいえ。確認しているだけです。白い細石が挟まっていないか見ていましたが、問題ありません」
「じゃあ俺、反対側見る」
「お願いします」
自然に役割を受け取り、ルシルは反対側へ回った。
車輪。
軸周り。
目立つ異物。
触れていい場所と、動いた直後なので気をつける場所。
購入した町で教わったことを思い出しながら確認する。
「こっちも大丈夫そう」
「はい。では馬も見てから休ませましょう」
シモンが答える。
少し離れた場所では、先に休んでいた二人組の旅人がその様子を眺めていた。
一人は中年の女性で、もう一人は若い男性だった。二人とも徒歩ではなく、小さな一頭立ての荷車を使っている。
「若いのに慣れてるねえ」
女性が声をかけてきた。
ルシルは顔を上げる。
「まだそんなに慣れてないですよ」
「そうかい? ちゃんと車輪まで見てるじゃないか」
「教えてもらったので」
ルシルはシモンを見た。
女性もつられて視線を向け、納得したように笑う。
「なるほど。いい先生がいるんだね」
「先生ではありません」
シモンが即座に訂正した。
「でも教えてるんだろ?」
「必要なことを共有しているだけです」
「それを先生っていうこともあるさ」
女性は楽しそうだった。
シモンは何か言おうとして、結局やめた。
モモが口元を押さえている。
「笑わないでください、モモ嬢」
「まだ笑ってません」
「顔が笑っています」
「じゃあ、ちょっとだけ」
女性は三人のやり取りを見て、さらに笑った。
「仲間で旅してるのかい?」
「はい」
今度はルシルが迷わず答えた。
女性はそれ以上、関係を細かく聞かなかった。
「西南へ行くなら、もう少し先に水場があるよ。新道ができたときに整備されたところで、屋根はないけど馬を休ませるには十分だ」
「距離標みたいな石柱について、何か知っていますか?」
シモンが尋ねる。
「ああ、あれかい。道の起点からの距離だって聞いたことはあるけど、どこが起点かまでは知らないねえ」
隣にいた若い男も首を横へ振った。
「俺も知らないです。ただ、休み場の場所を説明するときに『何番石の先』って言う人はいますよ」
「目印としても使われているんですね」
「そうみたいです」
新しい情報ではあるが、核心まで分かったわけではない。
シモンは礼を言い、そこで質問を終えた。
モモも帳面を出さない。
まだ書くほど確定していないと判断したらしい。
◇
休憩を終えたあとは、ルシルが御者を担当した。
道は平坦で、視界も広い。
先ほど聞いた水場までは一刻もかからないらしいため、そこで昼食を取ることにしている。
手綱を持つルシルの隣にはシモンが座り、モモは車内で帳面を整理していた。
午前の終わりが近づくにつれて日差しは強くなったものの、暑いというほどではない。乾いた風が草地を渡り、街道脇の背の低い草を同じ方向へゆっくり倒していく。
しばらく走ったところで、ルシルが前方に何かを見つけた。
「シモン、あれ」
「見えています」
道の左側。
低い丘の上に、細長い木の柱が立っている。
風車ではない。
柱の上部には横棒が取り付けられ、その先から細長い布が何本も垂れていた。
赤。
黄。
白。
かなり色褪せている。
風が吹くたび、それらが同じ方向へ流れていた。
「何だろ」
「道の施設に見えますが……」
シモンもすぐには答えない。
近づく。
柱の根元には低い石囲いがあり、その横に小さな板が立っていた。
文字が読める距離まで来ると、ルシルは馬車の速度を少し落とした。
「『横風注意、布の向きを見よ』」
読み上げたあと、もう一度上を見る。
細長い布は西から東へ向かって流れている。
「風を見るため?」
「そのようですね」
シモンが周囲の地形を確認する。
「この先は丘の間を抜けるようです。場所によって横風が強くなるので、布で風向きを視覚化しているのでしょう」
「これ、新道だからあるのかな」
「可能性は高いですが、断定はできません」
ルシルは頷いた。
道を作る。
休み場を作る。
距離を示す石柱を置く。
危険な場所には、風を見るための目印を置く。
ただ地面を平らにしただけではない。
誰かがここを通る人間のことを考えて、一つずつ必要なものを加えている。
「便利だな」
「ですね」
シモンは布の向きを見ながら答えた。
「今はそれほど強くありませんが、先へ進む間は注意しましょう」
「了解」
ルシルは速度を戻した。
後ろからモモが顔を出す。
「今の、何だったんですか?」
「風を見る布」
「そんなのあったんですか?」
「帳面に書けるぞ」
「見たかったです」
「次にあったら呼ぶ」
「お願いします」
少し残念そうなモモの声を聞き、ルシルは笑った。
◇
次の風見布は、思ったより早く現れた。
今度はルシルが見つけた時点で速度を少し落とし、モモを呼ぶ。
モモは御者台の後ろから上半身だけを覗かせ、布が風に流れる様子をじっと見た。
「分かりやすいですね」
「だろ?」
「風そのものは見えませんけど、布なら見えます」
その言葉に、ルシルは一瞬だけ何かが引っかかるような感覚を覚えた。
見えないものを、別の何かで見る。
以前なら、その感覚から写真のことへ意識が向いたかもしれない。
だが今回は違った。
(旗とか煙とか、そういうのと同じか)
浮かんだのは、この世界で普通に知っているものだった。
それ以上の言葉も、知らない景色も出てこない。
「ルシル様?」
シモンが横から呼ぶ。
「うん?」
「どうかしましたか?」
「いや、布って便利だなって思っただけ」
ルシルはそのまま答えた。
嘘ではない。
シモンも少しだけルシルの表情を確認したが、違和感がないと判断したのか、それ以上は尋ねなかった。
モモは帳面へ短く記録する。
『新道の丘道。横風が強くなる場所の前に、風向きを見る細長い布がある。』
それだけだった。
写真のページには何も増えない。
◇
昼前、教えてもらった水場へ到着した。
屋根はないが、街道から少し離れた場所に広い平地があり、石で囲まれた水場と馬繋ぎが設けられている。低い木が数本生えており、その下なら人が休む程度の影は確保できそうだった。
先客は一台だけ。
二頭立ての荷馬車が木陰に停まっている。
ルシルは十分な距離を取って馬車を停め、トルクとベルクを休ませた。
「午前はここまでか」
「順調ですね」
シモンが二頭の様子を確認する。
「昼食後も問題なく進めそうです。ただし、丘道で風が強くなる可能性がありますから、午後は距離より状況を優先しましょう」
「分かった」
モモが荷物を確認する。
「お昼、どうします?」
「パンと保存肉でいいんじゃない?」
「土鈴根は?」
その一言で、ルシルの顔が変わった。
「あった」
「忘れてたんですか?」
「忘れてない。夜に食べると思ってた」
「私は今でもいいです」
モモはシモンを見る。
「二個とも使う必要はありませんよ」
シモンが先に答えた。
「一個だけ焼きますか。昼食としては少し時間がかかりますが、今日は急ぐ必要もありません」
「やった」
ルシルはすぐに調理道具を出す準備へ向かった。
「ルシル様、食べ物の話になると本当に早いですね」
「シモン君も昨日食べて美味しいって思ったでしょう?」
「それとこれは別です」
「でも食べますよね?」
「もちろん食べます」
モモが笑った。
◇
土鈴根は、ガレオに教わった通りよく洗った。
皮は全部剥かず、傷んでいる場所と厚い部分だけを落とす。半分に切って中を確認すると、風穂亭で食べたものと同じ淡い黄色が現れた。
「弱火でしたよね」
モモが確認する。
「そう言ってた」
ルシルが答える。
「焦らず火を通しましょう」
シモンも調理へ加わった。
三人で交代しながら様子を見る。
時々向きを変え、表面だけが焦げないようにする。火のそばには土と石を用意し、風向きが変わればすぐ対応できるようにもしていた。
焼けるまでの時間は、何もせず待つには少し長い。
ルシルは椅子へ座り、木陰から街道を眺めた。
荷馬車が一台通り過ぎる。
少し間を置いて、今度は馬に乗った二人組が反対方向から来る。
誰もこちらを気にしない。
ただの旅人たちだ。
「いい匂いしてきました」
モモが火のそばで鼻を動かす。
「まだ?」
「もう少しでしょう」
シモンが串を使って硬さを確認する。
「ガレオさんが生焼けは硬いって言ってたもんな」
「覚えてたんですね」
「食べ物だから」
「そこだけは信用できます」
モモの言葉に、ルシルは少し複雑な顔をした。
「もっとほかでも信用してよ」
「してますよ。御者とか」
「あと?」
「馬のお世話」
「あと?」
「食べること」
「戻ったじゃん」
シモンが堪えきれずに小さく笑った。
その笑い声を聞いたモモも笑う。
「冗談です。ちゃんといろいろ頼りにしてます」
「最初からそれ言ってくれればいいのに」
「最初から言ったら面白くないじゃないですか」
「モモ、最近シモンより俺の扱い上手くなってない?」
「以前からでは?」
シモンが平然と返した。
「味方いないなあ」
そう言いながらも、ルシルは笑っていた。
◇
焼き上がった土鈴根は、風穂亭のものほど均一ではなかった。
一方は少し焼き色が濃く、もう一方は中心部分にもう少し火を入れてもよかったかもしれない。それでも生焼けというほどではなく、塩を軽く振って食べれば十分に美味しい。
「甘い」
ルシルはゆっくり噛みながら頷いた。
「昨日の店のほうが上手ですけど、これも美味しいです」
モモも満足そうだった。
「当然でしょう。向こうは普段から調理しているんですから」
シモンは自分たちの出来と店を競わせる気はないらしい。
「でも次はもっと上手くできそう」
「火の距離を少し変えたほうがいいですね」
「シモン君、次も焼く気ですよね?」
「もう一個残っていますから」
モモは嬉しそうに頷いた。
昼食を終えたあと、使った道具を片づける。
土鈴根は残り一個。
細葉菜は昨夜使い切っている。
煎り土房豆もまだ少量残っている。
保存食全体には余裕があるため、急いで補充する必要はない。
馬たちにも十分な休憩を取らせた。
午後の出発前、シモンが空と風見布の方向を確認する。
「少し風が強くなっていますね」
ルシルも近くの草を見る。
午前より揺れが大きい。
「御者、交代する?」
「最初は私がやりましょう」
「午前もシモンだっただろ?」
「丘道の風を確認するまでです。安定していれば交代します」
「分かった」
ルシルは素直に任せた。
できることが増えたからといって、何でも自分でやる必要はない。
その判断も、もう悔しくはなかった。
◇
午後の街道は、午前より起伏が増えた。
急な坂ではないものの、緩やかに上っては下り、また次の丘へ向かう。道幅は十分にあり、対向する馬車とすれ違っても余裕があった。
問題は風だった。
丘の斜面に入ると弱まり、頂上近くでは横から強く吹く。
風見布が設置されている場所では、布がほぼ真横へ伸びていた。
「これなら分かりやすいな」
ルシルが御者台の隣から見る。
「設置場所も考えられていますね。特に風が抜けやすい地点に置かれているようです」
シモンは速度を少し落とした。
馬車の重さがあるため、多少の風ですぐ不安定になるわけではない。それでも不用意に速度を上げる理由はなかった。
後ろのモモも今日は静かだった。
怖がっているわけではない。
風が強い場所で余計な声をかけず、シモンの判断を邪魔しないようにしている。
丘を一つ越える。
斜面を下り始めると風が弱まった。
「ここなら大丈夫そうですね」
シモンが言う。
「交代する?」
「次の平坦な場所で休憩してからにしましょう。走行中に急いで替わる必要はありません」
「了解」
そのまま次の休める場所まで進む。
小さな石の広場が街道脇にあり、馬車一台なら余裕を持って停められた。
そこで二頭の呼吸や脚を確認する。
異常はない。
「じゃあ次、俺?」
「お願いします。ただし風見布が強く流れている場所では、早めに速度を落としてください」
「分かった」
「無理だと思ったら?」
「止まれる場所を探して交代」
「はい」
確認はそれだけだった。
ルシルが御者台へ上がる。
シモンが隣へ座る。
モモは後ろから二人を見ていた。
以前なら、シモンがもっと細かな注意を重ねていたかもしれない。
ルシルも一つ一つ確認していたかもしれない。
今は必要なところだけで済む。
(ルシル様、本当に御者らしくなりましたね)
モモはそう思ったものの、口には出さなかった。
言えばきっと嬉しそうにする。
それも悪くないが、今は出発前だ。
「ルシル様」
「何?」
「頑張ってください」
「急に?」
「言いたくなったので」
「おう」
ルシルは少し不思議そうにしながら、それでも笑った。
シモンが横目でモモを見る。
彼女は何も説明せず、車内へ戻っていった。
◇
午後の御者は、ルシルにとって思った以上に面白かった。
風見布を見つける。
向きを確認する。
草の揺れも見る。
前を走る馬車があれば距離を取る。
上りでは二頭の歩調を優先し、下りでは速度が出すぎないようにする。
一つ一つは特別なことではない。
けれど、それらを自分で組み合わせて進む。
(最初の頃は、手綱を持つだけで頭がいっぱいだったんだよな)
今は道の先を見る余裕がある。
横風が強い場所ではシモンへ確認し、必要なら速度を落とす。問題がなければそのまま進む。
やがて、丘の頂上へ近づいた。
そこには風見布がない。
代わりに街道脇へ低い石壁が設けられていた。
「何だろう、あれ」
「風除けかもしれませんね」
シモンが答える。
石壁は道と平行にしばらく続いている。
その区間へ入ると、確かに横から吹いていた風が弱くなった。
「おお」
「完全には防げませんが、効果はありますね」
「新道、いろいろあるな」
「整備にかなり手を入れているのでしょう」
石壁を抜ける。
そして丘の頂上へ出た。
ルシルは前方を見たまま、少しだけ手綱を引いた。
「……シモン」
「はい。見えています」
急停止するほどではない。
けれど自然に速度を落としたくなる景色だった。
眼下に広い土地が開けている。
丘の連なりはここで一度途切れ、その先には緩やかな平地が広がっていた。
畑。
木立。
細い川らしき銀色の筋。
そして、そのさらに遠く。
建物が集まっている。
「町?」
後ろからモモも顔を出した。
「大きいですね」
村ではない。
遠目でも、これまで立ち寄った小さな集落より明らかに建物が多い。
中心付近には背の高い屋根がいくつかあり、その周囲へ家々が広がっている。
街道もそこへ向かっているようだった。
「地図だと……」
シモンが折り畳んだ地図を取り出し、現在地を確かめる。
ルシルは馬車を街道脇へ寄せることはせず、ゆっくり進ませながら待った。
シモンの指が地図上を移動する。
「位置が合っているなら、あれはルーヴェルでしょう」
「ルーヴェル」
ルシルが名前を繰り返す。
「大きい町?」
「この周辺では比較的大きな街道町です。ただ、私が持っている地図では詳しい情報までは分かりません」
「シモン君も行ったことないんですか?」
「ありません」
モモの顔が明るくなる。
「じゃあ三人とも初めてですね」
「そうなるな」
ルシルも笑った。
丘の上から見える町は、まだかなり遠い。
今日中に到着できるかは、これからの道と二頭の状態次第だろう。
急ぐ必要はない。
ただ、目的地らしいものが目に入ると、少しだけ先が楽しみになる。
「海は?」
ルシルが遠くへ目を凝らす。
町の向こう。
さらにその先。
青いものが見える気がして目を細めたが、空と遠景が霞んでいるだけだった。
「まだ見えません」
モモも同じ方向を見ている。
「でも町は見えました」
「うん」
ルシルは手綱を持ち直した。
「じゃあ、まずはあそこだな」
馬車が丘を下り始める。
風は先ほどより弱い。
白い道も、赤い土も、古い石風車も、すでに後ろへ遠ざかっていた。
前方には初めて見る町がある。
それだけで、午後の残りの道が少し違って見えた。
◇
丘を下り切ったところで、三人は短い休憩を取った。
トルクとベルクの状態は変わらず良好だったが、町が見えたからといって、そのまま無理に進ませる理由はない。
水を飲ませ、呼吸が落ち着くのを待つ。
モモはその間に帳面を開いた。
「今日は結構あります」
「何書く?」
ルシルが隣から尋ねる。
「距離標みたいな石柱。風を見る布。風除けの石壁。それからルーヴェル」
「石柱は何なのか確定してないだろ?」
「だから『距離標らしい。起点は不明』って書きます」
「なるほど」
モモは事実と分からない部分を分けて書いた。
『街道脇に数字入りの石柱。道の起点からの距離を示すものらしいが、起点はまだ分からない。休み場などの場所を説明する目印にも使われている。』
次に風見布。
横風が強くなる場所の前に設置されていること。
さらに丘の一部には風除けらしい低い石壁があったこと。
最後に、遠くからルーヴェルの町が見えたこと。
「写真は?」
ルシルが何となく尋ねた。
モモは帳面から顔を上げた。
「今日は何もありませんでしたよね?」
「うん」
「じゃあ書きません」
「だよな」
それで終わった。
ルシルも気にならない。
思い出せないことより、今日見たもののほうが多かった。
シモンは二人の会話を聞きながらも、あえて何も付け加えなかった。
写真に関する現象が起きていない以上、毎日確認する必要はない。夢も体調変化もなく、本人が気にしていないなら、それを意識させ続けるほうが不自然だと考えていた。
代わりに、シモンは遠くの町へ視線を向ける。
「今日中に入るかは、もう少し進んで決めましょう」
「うん」
ルシルがすぐ頷く。
「暗くなる前に余裕持って着けるなら行く。微妙なら手前で止まる」
「それでいいでしょう」
「宿、空いてるといいですね」
モモが帳面を閉じる。
「まだ泊まるって決めてないけどな」
「でも入ったら泊まりたいです」
「俺も」
シモンは二人を見る。
「では、到着できた場合は宿の確認も必要ですね」
「シモンも泊まる気になってる」
「町へ入っておいて、理由もなく外へ戻る必要はないでしょう」
「それもそうだ」
三人は笑った。
休憩を終え、再び馬車へ乗る。
今度もルシルが手綱を握った。
ルーヴェルはまだ遠い。
それでも丘を下りるたび、建物の輪郭は少しずつ大きくなっていく。
夕方までに辿り着けるかどうかは、まだ分からない。
だからこそ三人は先を急がず、トルクとベルクの歩調に合わせて西南街道を進んでいった。




