第65話 小さな風車の村で、昼ごはんを食べます
フェルナ村の共同馬繋ぎは、思っていたより広かった。
街道に面した小さな広場の一角にあり、長い木製の横棒が二列。その脇には馬用の水槽も設けられている。今は村人らしい一頭立ての荷車が一台停まっているだけで、トルクとベルクをほかの馬から離して繋ぐには十分な余裕があった。
「ここならベルクも大丈夫そうだな」
ルシルが馬車を停める。
「そうですね。端を使いましょう」
シモンが先に降り、周囲を確認した。
村へ入る直前まで御者をしていたルシルも手綱を置いて降りる。モモは馬車の反対側から外へ出ると、最初に食事処ではなく二頭のところへ向かった。
「お疲れさまです。まだお昼ですけど、朝から結構走りましたからね」
モモがトルクの首筋を撫でる。
トルクは落ち着いている。
ベルクも広場の反対側にいる馬へ一度視線を向けただけで、特に警戒を強めることはなかった。
シモンが二頭の脚を順番に確認する。
「問題ありません。水を飲ませて、しばらく休ませましょう」
「じゃあ俺、水汲んでくる」
「私も行きます」
ルシルとモモが水槽へ向かう。
村の中央にある井戸から水槽へ水を運ぶ仕組みらしく、脇には共同の桶が置かれていた。ただし三人は桶の状態を確認してから使う。
水は澄んでいる。
嫌な匂いもない。
「札は?」
ルシルが探す。
「ここにはありませんね」
シモンが答えた。
「じゃあ水そのものを見る」
「はい」
ルシルは水面を覗き込んだ。
以前なら、井戸があれば使えるものだと思っていたかもしれない。
今は違う。
道。
風。
馬。
水。
馬車。
見るものが増えた。
それを面倒だとは思わない。
(こういうのも、いつの間にか普通になってきたな)
自分でそう思ったところで、ルシルは小さく笑った。
「どうしました?」
モモが桶を持ったまま尋ねる。
「いや、何でもない。水、大丈夫そう」
「ですね」
二人で水を運ぶ。
トルクとベルクが飲み始めると、ようやく三人も食事処へ意識を向けた。
向かいの建物から漂ってくる匂いは、先ほどよりはっきりしている。
焼いた肉。
香草。
それから、青い葉物を火へ通したときの少し青臭い香り。
モモが鼻を小さく動かした。
「行きます?」
「行こう」
「まだ馬具を――」
「外します」
ルシルとモモの返事が同時だった。
シモンは眼鏡の位置を直した。
「食事に関してだけ、返事が妙に早いですね」
◇
食事処の看板には、『風穂亭』と書かれていた。
村に多い小型風車と、畑の穂を組み合わせた絵が添えられている。
建物は平屋。
入口脇には木製の長椅子が置かれ、泥のついた靴を簡単に落とせるよう、小さな刷毛まで用意されていた。
三人が中へ入ると、外から見た印象より奥行きがあった。
四人掛けの卓が六つ。
壁際には二人用の小卓が三つ。
客は半分ほど入っている。
畑仕事の途中らしい男女。
荷運びの男たち。
街道を使う旅人らしい二人組。
華やかさはない。
けれど、昼時の店らしい活気がある。
「いらっしゃい!」
奥から声をかけてきたのは、三十代後半ほどの女性だった。
栗色の髪を頭の後ろでまとめ、生成りの前掛けを着けている。
「三人?」
「はい」
「窓際空いてるよ。好きなところ座って」
案内された卓へ向かう。
窓からは共同広場が見える。
トルクとベルクの様子も確認できた。
「ここいいですね」
モモが嬉しそうに座る。
「ベルクも見える」
ルシルも窓の外を確認した。
シモンは店内を軽く見回してから、二人の向かいへ腰を下ろす。
「何食べる?」
「壁に書いてあります」
モモが指を差す。
大きな木板に、その日の料理が並んでいた。
焼き豚と細葉菜の炒め物。
土鈴根と豆の煮込み。
鶏肉と麦の汁物。
焼きパン。
それから、昼限定らしい『風穂定食』。
「細葉菜ある」
ルシルが言った。
「土鈴根もあります」
モモも続く。
「さっき買ったものが両方ありますね」
シモンが木板を見る。
「ちょうどいいじゃん。どう料理するか分かる」
「確かに参考にはなります」
「風穂定食って何だろ」
モモの視線はすでに一番下へ移っている。
先ほどの女性が水を三つ運んできた。
「決まった?」
「風穂定食って、何が入ってるんですか?」
モモが尋ねる。
「今日のは焼き豚と細葉菜の炒め物、土鈴根の塩焼き、麦入りの汁物。パン付きだよ」
三人が黙る。
女性が笑った。
「旅の人は大体それ頼むよ。この辺のものを一度に食べられるから」
「じゃあ、それ三つ」
ルシルが即答した。
「はいよ」
女性が去る。
シモンがルシルを見る。
「決めるのが早いですね」
「でもシモンも止めなかっただろ?」
「内容に問題がありませんから」
「じゃあいいじゃん」
「悪いとは言っていません」
モモが窓の外を見る。
「土鈴根、どうやって焼いてあるんでしょうね」
「塩焼きって言ってたから、単純なんじゃない?」
「単純だからこそ違いが分かります」
「料理する気満々だな」
「せっかく買ったんですから」
その会話を、隣の卓に座っていた老人が聞いていたらしい。
灰色の髪を短く刈った、小柄な男性だった。
「土鈴根を買ったのかい?」
突然声をかけられ、三人が顔を向ける。
「はい。村へ来る少し前の街道沿いで」
ルシルが答える。
「ああ、ロッテさんとこだな」
どうやら朝の女性は村でも知られた農家らしい。
「焼くなら皮は全部剥かなくていいぞ。よく洗って、厚いところだけ少し落としゃいい」
「そうなんですか?」
モモが興味を示す。
「皮の近くがうまいんだ。火は弱めにな」
「ありがとうございます」
「ただし生焼けは硬いぞ」
「そこ大事ですね」
「大事だ」
老人は満足そうに頷き、自分の汁物へ戻った。
ルシルが小声で言う。
「聞いてないのに料理の情報増えた」
「ありがたいです」
モモはもう覚える気でいる。
「帳面に書く?」
「食べてからです」
「そこは慎重なんだ」
「美味しくなかったら困りますから」
隣から老人の笑い声が聞こえた。
「嬢ちゃん、正直だな!」
モモは少しだけ頬を赤くした。
「聞こえてました?」
「この距離なら聞こえるよ」
「すみません」
「いいって。食ってみな」
店の中に笑いが広がる。
ほかの客まで大げさに反応することはないが、近くにいた何人かが口元を緩めていた。
モモは恥ずかしそうに水を飲む。
「旅先の店って、たまにこうなりますよね」
「モモ嬢が普通に話すからでしょう」
「シモン君だって話しますよ」
「必要なことは」
「私は必要じゃないことも話します」
「知っています」
「それ、褒めてます?」
「事実です」
ルシルが吹き出した。
◇
風穂定食は、ほどなく運ばれてきた。
最初に目を引いたのは細葉菜だった。
朝に買ったものと同じ細長い葉が、食べやすい長さに切られ、薄切りの豚肉と一緒に炒められている。火が通ったことで緑色は少し濃くなり、表面には肉の脂が薄く絡んでいた。
その横には、半分に切った土鈴根。
皮をほとんど残したまま焼かれ、切り口に粗い塩が少量振られている。
「いただきます」
三人がそれぞれ食べ始める。
ルシルは最初に土鈴根を選んだ。
木の匙で切る。
思ったより柔らかい。
中は淡い黄色だった。
「熱っ」
「気をつけてください」
「分かってる」
息を吹きかけてから口へ運ぶ。
ほくりと崩れる。
甘い。
強い甘さではなく、噛んでいるうちにじわじわ広がる。
「これ、うまい」
「本当ですか?」
モモも食べる。
目が少し大きくなる。
「美味しいです。見た目より甘い」
「でしょう?」
なぜか隣の老人が得意そうだった。
「おじいさんが作ったんですか?」
「いや、俺は風車の面倒を見るほうだ」
「じゃあ何でそんなに得意そうなんです?」
「村のものが褒められりゃ嬉しいだろ」
「ああ」
ルシルは納得した。
その答えが気に入った。
次に細葉菜を食べる。
こちらは朝の女性が言っていた通り、わずかな苦みがある。
だが豚肉の脂と一緒になると、その苦みがちょうどいい。
「こっちもいいな」
「保存肉でも合いそうです」
モモが言う。
「脂の量が違いますから、同じにはならないでしょう」
シモンは食べながら味を確かめている。
「少量の油があれば近づけられます。塩は強くしすぎないほうがよさそうですね」
「シモン君も作る気じゃないですか」
「買った食材を無駄にしないためです」
「料理したいって言えばいいのに」
「そういう話ではありません」
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、麦入りの汁物を飲んだ。
こちらは優しい味だった。
鶏の出汁。
細かな根菜。
柔らかく煮えた麦。
旅の途中で食べる昼食としては十分すぎる。
「これなら夕方まで走れるな」
「食べすぎなければ、ですが」
「普通に食べてるよ」
「ルシル様は美味しいと少し早くなります」
「そう?」
「なります」
モモまで頷く。
「二人ともよく見てるな……」
ルシルは少しだけ食べる速度を落とした。
◇
食事の後半、店内の客が少しずつ入れ替わり始めた。
畑仕事の者たちは先に出ていき、代わりに街道から来たらしい二人組が入ってくる。
入口の扉が開くたび、外の風と一緒に土の匂いが流れ込んだ。
モモは残っていた土鈴根を食べながら、窓の外に見える小型風車を眺めていた。
羽根がゆっくり回っている。
「そういえば、あれって何してるんでしょう」
隣の老人が顔を上げた。
「風車か?」
「はい。村にいくつもありますよね」
「水だよ」
「水?」
「畑へ送ってる」
老人は匙を置き、窓の外を指差した。
「この辺は雨が多い土地じゃない。井戸や地下の水を汲み上げて、水路へ流すのに風を使ってるんだ。全部じゃないけどな」
「なるほど」
ルシルも窓を見る。
村へ入ったときに見た細い水路。
畑の間を流れていた水。
それと風車がつながった。
「風で水を上げるんだ」
「そうだ。風が弱い日は別のやり方もするし、貯めてある水も使う。風車だけで全部どうにかしてるわけじゃない」
シモンが尋ねる。
「昔からこの方式なのですか?」
「俺がガキの頃にはもうあった。ただ、今の形とは少し違ったな。壊れにくくしたり、羽根の角度を変えたり、ちょこちょこ直してきた」
「おじいさんが?」
「俺だけじゃない。村の連中でだよ」
老人は胸を張るというより、当たり前のことを話すような口調だった。
モモが小さく頷く。
「だから風車の面倒を見るほうなんですね」
「今じゃ若いのに任せることも増えたけどな」
「名前、聞いてもいいですか?」
「俺か?」
「はい。帳面に風車のことを書きたいので、教えてくれた人の名前も残していいかなって」
老人は少し驚いたあと、笑った。
「ガレオだ。ガレオ・バンズ。好きに書きな」
「ありがとうございます、ガレオさん」
モモは帳面を取り出した。
フェルナ村。
小型風車。
地下水などを汲み上げ、畑の水路へ送るために利用。
風車だけですべてを賄うわけではない。
村で長く改良されてきた。
教えてくれた人――ガレオ・バンズ。
書き終えたところで、ガレオが帳面を覗き込もうとはせずに笑う。
「ずいぶん真面目に旅してるんだな」
「真面目でしょうか?」
「普通は飯がうまかった、景色がよかったで終わる奴も多い」
「それも書いてます」
「書いてるのか」
「全部じゃないですけど」
モモは帳面を閉じる。
「忘れたくないものだけです」
ガレオは一瞬だけ目を細めた。
「それでいいんじゃないか。何でも残そうとしたら、旅するより書くほうが忙しくなる」
「はい」
モモは素直に頷いた。
ルシルはその会話を横で聞いていた。
写真のことは浮かばなかった。
残すという言葉を聞いても、新しい記憶が湧くことはない。
それで構わなかった。
今は風車がどうやって水を運ぶのか、それを知れたことのほうが面白い。
◇
食事を終えたあと、三人はガレオに先の道について尋ねた。
店の外。
共同広場の端で、ガレオは西南へ伸びる街道を指差す。
「石風車の休み場なら、ここから普通の馬車で三刻ちょっとってところだな」
「今からなら、夕方前には着けますか?」
シモンが太陽の位置を確認しながら尋ねる。
「あんたらの馬が普通に走れるなら余裕はある。途中に急な坂はない。ただ、村を出て一刻半くらい行ったところで、道がちょっと白っぽくなる」
「白く?」
ルシルが反応する。
「石が変わるんだよ。赤土が減って、白灰色の細かい石が増える。滑るほどじゃないが、乾いてる日は粉が舞う」
「また馬車が違う色になる」
モモが言う。
「赤の次は白か」
「掃除の話ですか?」
シモンが二人を見る。
「まだ何も言ってない」
「顔に出ています」
ガレオが笑う。
「旅の馬車なんて汚れるもんだ。壊れなきゃいい」
「それはそうですね」
ルシルは自分たちの馬車を見る。
下部には赤土。
この先では白い粉まで付くかもしれない。
最初に買った頃の綺麗な焦茶色とは、少しずつ違ってきている。
だが、不思議と嫌ではなかった。
「石風車っていうのは、本当に石でできた風車なんですか?」
モモが尋ねる。
「全部じゃない。土台が石なんだ。昔、街道の水汲みに使ってた風車が残ってる。今は水汲みには使ってないが、休み場の目印になってるよ」
「動くんですか?」
「羽根は外してある。危ないからな」
「なるほど」
「今の井戸は普通に汲める。小屋もあるし、馬を繋ぐ場所も広い。今夜泊まるなら悪くない」
シモンが頷いた。
「では、今日はそこまでを目安にします」
「そうするといい」
ガレオは三人の馬へ目を向ける。
トルクは落ち着いている。
ベルクも他馬から距離があるため問題ない。
「二頭立てなら十分だろ。ただ、白石のところで前の馬車に近づきすぎるなよ。粉をまともに浴びるから」
「ありがとうございます」
必要な情報は揃った。
ガレオはそれ以上、どこから来たのかも、何のために旅をしているのかも聞かなかった。
「じゃあ気をつけてな」
「ガレオさんも、ありがとうございました」
モモが頭を下げる。
「土鈴根、弱火だぞ」
「覚えてます!」
「そこが一番大事なんだ」
ルシルが笑う。
ガレオは手を上げ、そのまま風穂亭の中へ戻っていった。
◇
出発前に、三人は村の小さな雑貨店にも立ち寄った。
大がかりな補充ではない。
食料も馬の飼料も十分にある。
必要なのは、この先で不足しそうなものがないか確認する程度だった。
シモンが塩や油の残量を確認し、少量の調理油だけ購入する。
「これで細葉菜を炒められますね」
モモが嬉しそうに言う。
「そのためだけではありません」
「でも使えますよね?」
「使えます」
「じゃあ大事です」
ルシルは店の棚を見ていたが、余計なものには手を伸ばさなかった。
以前なら、見たことのない道具があればすぐに尋ねていたかもしれない。
今でも興味はある。
ただ、全部を一度に知る必要はない。
今日は風車のことを知った。
新しい野菜も買った。
それだけでも十分に面白い。
店を出る。
広場へ戻る途中、朝に見たものより少し大きな風車が回っていた。
羽根の回転に合わせ、根元から規則的な木の音が聞こえる。
コトン。
コトン。
昨日の風食岩が鳴らした不規則な音とは違う。
人が作った仕組みの音。
「昨日は石が鳴って、今日は風車が鳴ってる」
ルシルが言う。
「風っていろんな音を作るんですね」
モモが答える。
「正確には、風そのものの音と、風で動かされた物が出す音は分けたほうが――」
「シモン君」
「何です?」
「今はそれでいいです」
「……そうですか」
シモンは説明を途中で止めた。
ルシルが笑う。
「でも後で教えて」
「聞くんですか?」
「気になるから」
「では移動中にでも」
そんな会話をしながら、三人は馬車へ戻った。
◇
午後。
フェルナ村を出る。
今度の御者はモモだった。
村の中では速度を抑え、畑へ向かう村人や荷車を優先する。
朝に見た小型風車が、今度はすぐ近くを通り過ぎた。
羽根。
木製の軸。
その下へ続く機構。
全部を理解できたわけではない。
それでも、ただの景色だったものに役割が加わった。
「水を上げてるんですね」
モモが言う。
「そう聞いたあとだと、見え方変わるな」
ルシルは車内から風車を見る。
「昨日だったら、ただ回ってるなって思って終わってた」
「知ると面白いですね」
「全部知ろうとするとシモンになるけど」
「どういう意味ですか」
御者台の隣に座るシモンが振り返った。
「褒めてる」
「今の言い方で?」
「たぶん」
「たぶんなんですか」
モモが笑う。
村の最後の家を通り過ぎる。
畑はまだ続いている。
細い水路。
小さな風車。
働く人々。
やがてそれらも少しずつ後方へ流れていった。
モモは振り返らない。
前を見る。
次の道があるからだ。
◇
一刻ほど進むと、ガレオの言っていた通り、赤土がさらに薄くなった。
最初は街道の端だけだった。
白灰色の小石が少しずつ増えていく。
さらに進むと、車輪が踏む道そのものにも白っぽい部分が現れた。
「来た」
ルシルが窓から外を見る。
「白いですね」
モモも速度を少し落とす。
風が吹くたび、路面の細かな粉が低く舞う。
赤土の砂より軽い。
前方には一台の荷馬車が見えた。
かなり距離がある。
「ガレオさんの言った通り、近づかないほうがよさそうですね」
「はい。今の距離を維持しましょう」
シモンが答える。
前の荷馬車が通ったあと、白い粉がしばらく空中に残っている。
近ければ、まともに浴びただろう。
モモは無理に追いつかない。
相手が少し速くなれば離れ、坂で遅くなればこちらも速度を調整する。
「上手いな」
ルシルが言う。
「何がです?」
「距離」
「見れば分かりますから」
「シモンみたいなこと言った」
「えっ」
モモが一瞬だけ隣を見る。
シモンは眼鏡を押し上げた。
「前を見てください」
「はい」
今度はルシルが笑う番だった。
◇
白灰色の道は、一刻ほど続いた。
周囲の景色も変わる。
赤い岩丘はほとんど見えなくなり、代わりに低い草原と、ところどころ露出した白っぽい岩が増えていく。
遠くには林。
その向こうに、さらに低い丘。
空の色は変わらない。
だが地面が変わるだけで、世界そのものが切り替わったように感じる。
「昨日の朝は、ずっと赤い場所を走ってたのにな」
ルシルが呟く。
「一日で結構変わりますね」
モモが答える。
「だから地図だけじゃ分からないんだな」
シモンが少しだけ口元を緩めた。
「それは以前よりよく理解されたようですね」
「褒めた?」
「事実を述べました」
「それ、シモンの褒め方だよな」
「好きに解釈してください」
ルシルは満足した。
◇
午後の半ばに一度、小さな水場で休憩した。
トルクとベルクに水を飲ませる。
脚も確認する。
白い粉が蹄の周囲へ少し付いているが、異常はない。
「馬車、すごいことになってます」
モモが後輪を見る。
昨日まで付いていた赤土。
その上に今日の白い粉。
完全に混ざっているわけではなく、場所によって赤茶色と白灰色が斑になっていた。
「……汚い?」
ルシルが尋ねる。
モモは少し考える。
「旅してる感じです」
「俺もそう思う」
「洗うのは必要な場所だけにしてください」
シモンが言う。
「全部綺麗にしないの?」
「水を大量に使える場所でなければ、外観のためだけに浪費する必要はありません。可動部や確認が必要な場所を優先します」
「なるほど」
ルシルは車輪を見た。
赤。
白。
焦茶。
買ったときにはなかった色だ。
「このまま色が増えてったら面白いな」
「泥も追加されますよ」
「それはちょっと違う」
「何が違うんです?」
「泥は普通じゃん」
「赤土も白い粉も土と石ですよ」
「気分」
「また気分ですか」
モモが笑った。
休憩を終える。
残りは石風車の休み場まで。
◇
夕方が近づいた頃、前方に大きな石の塊が見えた。
最初は塔かと思った。
近づく。
円筒形に積まれた石。
高さは二階建ての建物ほど。
上部には太い木軸の跡らしい部分が残っているが、羽根はない。
「石風車?」
ルシルが身を乗り出しかけ、途中で止めた。
「たぶんそうですね」
モモが笑う。
「ちゃんと止まりましたね」
「何が?」
「乗り出すの」
「もう言われなくても分かる」
「成長しました」
「今日は素直に褒められた」
シモンが石造りの風車跡を見る。
「休み場もあります」
石風車の周囲には、屋根付きの小屋が二棟。
井戸。
長い馬繋ぎ。
平坦な野営場所。
先客の馬車は三台だった。
十分に空いている。
「今日はここだな」
ルシルが言う。
「はい」
「賛成です」
三人の意見はすぐに一致した。
モモが馬車を休み場へ入れる。
他の馬から距離を取り、ベルクが落ち着ける位置を選ぶ。
馬車が止まる。
一日分の移動が終わった。
◇
石風車は、近くで見るとかなり古かった。
積まれた石の一部は欠け、隙間には小さな草まで生えている。
それでも崩れないよう補修はされているらしく、立入禁止を示す低い柵が周囲に設けられていた。
「昔はこれが回ってたのか」
ルシルが柵の外から見上げる。
「羽根が付いてたんですよね」
モモも隣に立つ。
「ガレオさんの話ではそうですね」
シモンは少し離れた位置から全体を見る。
「今は休み場の目印として残している、と」
「入っちゃ駄目なのかな」
「柵があります」
「聞いただけ」
「顔が入りたそうでした」
「今日は二人とも俺の顔読みすぎじゃない?」
「分かりやすいんですよ」
モモが笑う。
ルシルも笑って、柵から一歩離れた。
入る必要はない。
外から見れば十分だ。
石風車の向こうには、西へ傾いた太陽がある。
羽根はもうない。
回ることもない。
けれど昔はここで風を受け、水を汲み上げていた。
今日フェルナ村で動く風車を見たからこそ、その姿を少し想像できた。
「今日、村で見てから来てよかったな」
ルシルが言う。
「何も知らなかったら、石の塔だと思ったかもしれません」
モモも頷く。
「ガレオさんに聞いたから分かる」
帳面が開かれる。
モモは今日の記録へ最後の数行を書き足した。
フェルナ村。
風穂亭。
土鈴根と細葉菜。
ガレオ・バンズ。
風車で水を汲み上げる村。
白灰色の道。
石風車の休み場。
そして少し考えてから、
『動いている風車を見てから、動かなくなった古い風車を見ると、昔の姿を少し想像できた。』
そう書いた。
「長いな」
ルシルが横から見る。
「今日は書きたいことが多かったんです」
「飯も?」
「もちろん」
「やっぱり」
モモは気にせず帳面を閉じた。
◇
夕食には、朝に買った細葉菜を使うことになった。
保存肉を薄く切る。
フェルナ村で買った調理油を少量。
細葉菜を加え、塩を控えめにして炒める。
土鈴根はまだ使わない。
「一個くらい焼かない?」
ルシルが尋ねた。
「今日は細葉菜だけにしましょう」
シモンが答える。
「土鈴根は日持ちするって聞きましたし」
モモも同意する。
「じゃあ明日以降か」
「楽しみは残しておきます」
モモが鍋を覗き込む。
細葉菜が油をまとい、少しずつ色を濃くしていく。
「風穂亭と同じ匂いになってきた」
「肉が違うので完全には同じになりません」
「分かってます、シモン君」
「先に言われた」
ルシルが笑う。
完成した料理は、店のものより少しあっさりしていた。
保存肉を使っているため塩気も違う。
それでも十分に美味しい。
「これ好きです」
モモが言う。
「買ってよかったな」
「はい」
「一束全部使ったから、細葉菜はこれで終わりですね」
シモンが確認する。
「またなくなった」
「食べるために買ったんですから当然です」
「でも土鈴根二個ある」
「それは残っています」
「次の野菜も探さないとな」
「もうですか?」
シモンが呆れたように見る。
「今すぐじゃないって」
三人の笑い声が、夕暮れの休み場に混じる。
近くで夕食を取っていた商人が一度こちらを見たが、すぐ自分たちの会話へ戻った。
夜が近づく。
石風車の影が長く伸びる。
その上には羽根がない。
だから風が吹いても、昼にフェルナ村で聞いたような規則的な木の音はしなかった。
代わりに、古い石の表面を風が静かに撫でていく。
◇
食後。
三人は少しだけ外に残った。
トルクとベルクは落ち着いている。
空は晴れていた。
西の端に残っていた夕焼けも、少しずつ夜の色へ変わっていく。
「今日、結構進んだな」
ルシルが言う。
「距離だけなら順調ですね」
シモンが答える。
「赤い土地もだいぶ抜けた」
「明日はもっと景色が変わるでしょうか」
モモが遠くを見る。
「どうだろ」
誰も答えを知らない。
それでよかった。
今日の朝には、フェルナ村という名前さえ知らなかった。
土鈴根も。
細葉菜も。
ガレオも。
風車が畑へ水を送っていることも。
白灰色の道も。
石風車がどんな姿なのかも。
今は知っている。
明日になれば、また知らないものが一つか二つ増えるかもしれない。
「海は?」
ルシルがモモを見る。
モモは西南の暗くなり始めた空を眺めた。
「まだです」
「帳面に書く?」
「今日は書きません」
「よかった」
「でも明日見えたら書きます」
「それは書こう」
シモンが小さく息を吐く。
「海が見えたら、書く前にお二人とも騒ぐと思いますよ」
「シモン君も騒いでいいんですよ?」
「なぜ私まで」
「三人で見たほうが楽しいから」
モモはごく自然に言った。
シモンが一瞬だけ黙る。
眼鏡の奥の視線が、遠くの道へ向いた。
「……そのとき考えます」
「絶対騒がない答えだな」
「まだ見えてもいませんから」
三人は笑った。
やがて夜の冷え込みが少しずつ強くなり、馬車へ戻る時間になる。
明日も新しい西南街道を進む。
石風車の先に何があるのか。
どんな町や村が待っているのか。
海まであとどれほどなのか。
答えはまだ分からない。
古い石風車だけが、何年もそうしてきたように静かな街道のそばへ立ち、三人の旅の一夜を見守っていた。




