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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第179話 草に埋もれた道と、元王子が見つけたもう一つの選択肢


 旅に出てから四十二日目の朝、ルシルが目を覚ました時、馬車の外から聞こえてきたのは、いつもの鳥の声ではなく、何かを一生懸命に引きずるような音だった。


 木の板が地面を擦るような音に混じって、時折、小さな掛け声まで聞こえてくる。まだ朝食の支度を始めるには少し早い時間だったため、ルシルは寝台から身を起こし、隣で眠っているシモンを起こさないように馬車の扉を開けた。


 外へ出ると、薄い朝霧の残る草地で、モモが長い木の枝を両手で抱えていた。


 どうやら昨夜の風で落ちた枝を片づけているらしく、彼女は自分の背丈より長い枝を引きずりながら、野営地の端へ運ぼうとしている。ところが、枝の先が草の根元に引っ掛かるたびに足を止め、向きを変えては再び引っ張るという作業を繰り返していた。


「よいしょ……あと少し……あっ、また引っ掛かった!」


 モモが困った顔で枝を持ち上げようとしたところで、ルシルは思わず声をかけた。


「おはよう、モモ。何をしてるの?」


「あっ、ルシル君! おはよう!」


 モモは枝を抱えたまま振り返り、嬉しそうに笑った。


「今日は道のお掃除をするんでしょう? だから、先にこっちのお掃除をしておこうと思ったんだ!」


「なるほど。それはいい考えだけど、その枝、ずいぶん大きいね」


「うん! 思ってたより重かった!」


 ルシルは笑いながら近づき、枝の反対側を持ち上げた。


 二人で運べば、それほど苦労せずに移動できる。野営地から少し離れた場所へ枝を置くと、モモは満足そうに手を払った。


「ありがとう! これで馬車の周りも歩きやすくなったね!」


「そうだね。でも、朝から無理をしなくてもよかったのに」


「だって、今日は私も何か役に立ちたかったんだもん」


 モモはそう言って、馬車の横にいるベルクへ視線を向けた。


 濃灰色の馬はまだ右後ろ脚をかばっており、昨夜から大きな変化は見られない。食欲は保っているものの、獣医エリサの許可が出るまでは不要な歩行をさせられないため、野営地を離れることはできなかった。


「ベルク君のお世話も大事だけど、ルシル君たちが毎日頑張ってるのを見てたら、私も何かしたくなっちゃって」


 モモは少し照れくさそうに笑った。


 ルシルはその言葉を聞き、彼女が昨日の調査に同行できなかったことを気にしていたのだと気づいた。


「それなら、今日は一緒にできることを考えよう。ベルクを一人にしないようにしながらでも、モモにお願いできることはあると思うよ」


「本当?」


「うん。例えば、昨日見つけた道の地図を整理するとか、必要な道具を準備するとか」


 モモは少し考えたあと、ぱっと顔を明るくした。


「じゃあ、私、みんなのお昼ご飯も用意する!」


「それは助かるなあ」


「任せて! 今日は絶対に全部食べちゃわないから!」


 胸を張って宣言するモモを見て、ルシルは思わず笑ってしまった。


 そこへ馬車の扉が開き、寝起きとは思えないほどきちんとした姿のシモンが顔を出した。


「モモ嬢。その宣言は大変ありがたいのですが、できれば今後は特別な決意を必要としない習慣にしていただきたいですね」


「ええっ、シモン君、いつから聞いてたの!?」


「枝を引きずる音で目が覚めたところからです」


 モモは驚いた顔でルシルを見た。


「もしかして、私、うるさかった?」


「少しだけね」


 ルシルが正直に答えると、モモは両手で頬を押さえた。


「ごめんなさい! 次からは静かにお掃除する!」


「それよりも、重い物を一人で運ばないようにしてください」


 シモンは穏やかに言いながら、野営地の端に置かれた枝を確認した。


「枝の先で足を傷つけることもありますし、馬が驚く可能性もあります。作業する時は、周囲の安全を確かめてからにしましょう」


「うん、分かった!」


 モモが素直に頷くと、シモンは少しだけ表情を和らげた。


 ルシルは二人のやり取りを聞きながら、今日の予定を思い浮かべた。


 昨日、丘の麓の畑道を調べたことで、現在の街道で深い轍が続く区間を避けられる可能性が見えてきた。しかし、その途中には狭い曲がり角があり、古い荷車の待避場所を使わなければ、四輪馬車を通すのは難しそうだった。


 土地の持ち主であるエダから草刈りと利用の許可は得られている。


 今日はベルトと協力し、草に覆われた地面を確かめる予定だった。


 ただし、道が使えるようになったとしても、ベルクの負傷や牽引方法の問題が解決するわけではない。


 そのため、ルシルは今日の作業で何を確かめ、何をまだ判断しないのか、朝食の前に整理しておくことにした。


     ◇


 朝食を終える頃、農家のベルトが約束どおり野営地へやってきた。


 昨日と同じ作業着に丈夫な手袋を身につけ、肩には二本の草刈り鎌を掛けている。片手には細長い木の棒を持っており、草を刈ったあとの地面を確かめるために用意してきたらしかった。


「おはよう。今日は天気も悪くなさそうだな」


「おはようございます、ベルトさん。よろしくお願いします」


 ルシルが頭を下げると、ベルトは軽く手を振った。


「そんなにかしこまらなくていい。昼までには畑へ戻りたいから、さっそく始めよう」


 シモンは昨日の測定結果を書いた帳面を持って近づいた。


「その前に、作業範囲を確認させてください。エダさんから許可をいただいたのは、待避場所の草刈りと利用です。石積みや木には手を加えず、地面を掘り返すこともしないという理解でよろしいですね」


「ああ、それでいい。草を刈ったあと、地面に大きな穴がないか確かめるくらいだな」


 ベルトは頷き、持ってきた鎌を見せた。


「それと、鎌を使うのは俺とシモンでいいだろう。ルシルは刈った草を集める方を頼む。刃物に慣れていないなら、無理に使う必要はない」


 ルシルは少しだけ残念そうな顔をした。


「僕も草刈りを覚えてみたかったんですけど……」


「覚えるのはいいが、今日の目的は練習じゃないからな。刃物は慣れないうちが一番危ない」


 ベルトの言葉に、ルシルは素直に頷いた。


「分かりました。じゃあ、草を集める方を頑張ります」


 その時、モモが勢いよく手を上げた。


「はい! 私も草を集めるの、得意だよ!」


 シモンは彼女へ目を向けた。


「モモ嬢。ベルクとトルクの世話はどうなさるおつもりですか?」


「それはちゃんとするよ! だから、今日はお昼ご飯を届ける係にする!」


 モモは少し考えながら答えた。


「それなら、馬たちの様子を見てから、ルシル君たちのところへ行けるでしょう?」


 シモンはすぐには答えず、ベルトへ視線を向けた。


 ベルトは野営地と畑道の位置関係を思い浮かべるように、丘の方角を眺めた。


「歩いて行ける距離ではあるが、馬を置いて長く離れるのはよくないな。オルダのところに声をかけて、見回りを頼めるなら別だが」


 ルシルはモモへ向き直った。


「今日は無理に来なくてもいいよ。帰ってきたら、どんな場所だったか詳しく話すから」


 モモは少しだけ頬を膨らませたものの、やがて頷いた。


「うん。じゃあ、私はベルク君たちを見てるね。でも、お昼ご飯はちゃんと用意しておくから!」


「ありがとう。楽しみにしてるよ」


 ルシルが笑顔で答えると、モモも嬉しそうに笑った。


 ベルトはそのやり取りを見てから、草刈り鎌を持ち直した。


「よし。それじゃあ、行くか」


 三人は必要な道具を持ち、昨日調べた畑道へ向かった。


     ◇


 待避場所へ到着した時、朝露はまだ草の葉に残っていた。


 道の曲がり角には古い木が立ち、その根元から石垣へ向かって背の高い草が広がっている。昨日は草に隠れてよく見えなかったものの、近づいてみると、待避場所の外側に低い石の縁が続いていることが分かった。


「まずは入口からだな」


 ベルトは鎌を下ろし、地面を指さした。


「ここから順番に刈っていく。ルシルは刈った草を道の外へ運んでくれ。ただし、畑の中へは入れないこと。それと、水路にも落とすなよ」


「はい」


 ルシルは手袋をはめ、草を集めるための縄を準備した。


 シモンはベルトから鎌の扱い方を確認し、十分に距離を取って作業を始める。二人の刃が草の根元を払うたび、湿った葉が音を立てて倒れ、隠れていた地面が少しずつ姿を現した。


 ルシルは刈られた草を束ね、縄で軽くまとめてから道の端へ運んだ。


 最初は手際よく進んでいたが、しばらくすると草の中に細い蔓が絡まっていることに気づいた。無理に引っ張ると周囲の草まで持ち上がり、石の隙間から土が崩れそうになるため、ルシルは作業を止めてベルトへ声をかけた。


「ベルトさん、この蔓はどうしたらいいですか?」


 ベルトは近づき、絡まった部分を確かめた。


「ああ、こいつは根が石の間へ入り込んでるな。引っ張らずに、上だけ切っておこう」


「分かりました」


「こういう場所は、見た目をきれいにするより、下の石を動かさないことが大事なんだ」


 ベルトはそう言い、蔓の上部だけを慎重に切り取った。


 ルシルはその様子を見ながら、作業の意味を考えていた。


 草を刈るだけなら、力任せに片づけることもできるかもしれない。しかし、道を使えるようにするためには、地面や石積みを傷つけず、後から困ることが起きないようにしなければならない。


「なるほど。全部なくせばいいわけじゃないんですね」


「そういうことだ。道は一度通れりゃいいってもんじゃないからな」


 ベルトは笑い、再び作業へ戻った。


 ルシルも草を集めながら、周囲の地面を注意深く見るようになった。


 しばらくして、待避場所の入口が広く開けてきた。


 草の下から現れたのは、土を固めた平らな地面だけではなかった。ところどころに拳ほどの石が埋め込まれ、車輪が通る場所を支えるように並んでいた。


 シモンは作業を止め、石の配置を確かめた。


「これは……思っていたよりしっかりした造りですね」


 ベルトも近づき、石を靴の先で軽く押した。


「昔は荷車が何台も使ってた場所だからな。今でも残ってるとは思わなかったが」


 ルシルは石の並びを眺めた。


 そこには、長い年月の間に草へ覆われながらも、人々が道を使うために残した工夫があった。


「この石があるから、車輪が沈みにくかったんでしょうか」


「おそらくな。ただ、全部が同じ状態とは限らん。奥まで確かめてみよう」


 ベルトの言葉に、三人は作業を続けた。


     ◇


 太陽が少し高くなった頃、待避場所の半分ほどが見えるようになった。


 入口から奥へ向かって広がる地面には、古い車輪跡が緩やかな弧を描いている。昨日は草に隠れて分からなかったが、荷車が一度奥へ入り、向きを変えて道へ戻るための空間が確保されていたらしい。


 ルシルは巻尺を取り出し、シモンと協力して幅を測った。


「シモン、昨日の数字より余裕がありそうだね」


「ええ。草の外側を境界だと思っていましたが、実際にはもう少し広いようです」


 シモンは帳面へ新しい数字を書き込み、車体の長さと照らし合わせた。


「これなら、車体だけを考えれば旋回できる可能性は高くなりました。ただし、馬が前方で向きを変える空間については、まだ確認が必要です」


 ベルトは古い車輪跡を眺めながら、腕を組んだ。


「ガランなら、ここへ入ってからゆっくり向きを変えられるかもしれん。ただ、お前たちの馬車は俺の荷車より長いからな。実際に動かす前に、もう少し余裕を見ておきたい」


 ルシルは頷いた。


 昨日まで、曲がり角は通れるかどうかも分からない場所だった。


 しかし、今は具体的な寸法が分かり、どの部分を確認すればよいのかも見えてきている。


 その時、ルシルは待避場所の奥にある石の並びが、途中で不自然に途切れていることに気づいた。


「……あれ?」


 彼は草の束を置き、少し離れた場所へ歩いた。


 そこには浅い窪みがあり、周囲の石より低くなっている部分へ、乾いた泥が溜まっていた。


「シモン、こっちを見て」


 呼ばれたシモンが近づき、地面を確認した。


「これは……車輪が沈んだ跡でしょうか」


 ベルトも木の棒を持ってやってきた。


 彼は窪みの端へ棒を当て、力を入れすぎないようにしながら地面の固さを確かめた。


「いや、ちょっと違うな。下が柔らかくなってる」


 ベルトは眉をひそめた。


「昨日、水路の詰まりを片づけただろう? あれで水は流れるようになったが、ここは以前から水が溜まってた場所かもしれん」


 ルシルは窪みを見つめた。


 見た目には乾いているものの、木の棒を当てた部分は周囲より簡単に沈んでいる。


「じゃあ、ここへ車輪が乗ったら危ないですね」


「ああ。下手をすると片側だけ沈んで、車体が傾く」


 ベルトは真剣な表情で答えた。


 シモンは帳面へ位置を書き込み、周囲の石を確認した。


「この部分を避けて旋回できるかどうか、改めて測りましょう。無理に通すことはできません」


 ルシルは頷いた。


 草を刈ったことで、道が広いと分かった。


 しかし同時に、草に隠れていた危険な場所も見つかったのだった。


 彼は少しだけ残念に思ったものの、すぐに考えを切り替えた。


(……今見つかってよかった。馬車で来てから気づいたら、もっと大変だったはずだ)


 ルシルは窪みの位置を覚え、シモンの測定を手伝うことにした。


     ◇


 作業を再開してしばらくすると、待避場所の外側から声が聞こえてきた。


「おや、ずいぶんきれいになったねえ」


 振り返ると、昨日出会ったエダが小さな籠を持って立っていた。


 灰色の髪を後ろでまとめ、昨日と同じように丈夫な靴を履いている。籠には布が掛けられており、中から焼きたてのパンの香りが漂っていた。


「エダさん、おはようございます」


 ルシルが頭を下げると、エダは笑顔で頷いた。


「おはよう。昨日は水路を片づけてくれてありがとうね。今日は草刈りをしてるって聞いたから、少し差し入れを持ってきたんだよ」


 ルシルは驚いた。


「そんな、昨日は僕たちも道を使わせてもらうために手伝ったんですから」


「いいんだよ。私が持ってきたくて持ってきたんだから」


 エダはそう言い、籠の布をめくった。


 中には小ぶりの丸いパンがいくつも並んでいた。


「畑仕事の合間に食べるつもりで焼いたんだけど、少し多くできちゃってね。よかったら食べておくれ」


 ベルトはパンを見て、嬉しそうに笑った。


「おお、ありがたい。ちょうど腹が減ってきたところだ」


 シモンは丁寧に礼を言い、作業の区切りがついたところで休憩することにした。


 三人は鎌を安全な場所へ置き、手を洗ってからパンを受け取った。


 ルシルが一口かじると、外側は少し硬いものの、中は柔らかく、ほのかな甘みが広がった。


「おいしいです!」


 思わず声を上げると、エダは嬉しそうに笑った。


「そうかい。それならよかった」


 ベルトはパンを食べながら、待避場所の奥を指さした。


「エダ婆さん、ちょっと聞きたいことがあるんだが、あそこの地面が柔らかくなってるのは昔からか?」


 エダは指さされた場所へ目を向けた。


「ああ、あそこかい。昔はもっと固かったんだけどねえ」


 彼女は少し考え込んだ。


「そういえば、何年か前に大雨が降った時、あの辺りの石が少し沈んだことがあったよ。それから荷車を入れる人も減ったから、直さないままだったんだ」


 シモンは顔を上げた。


「その時、石を積み直したりはしなかったのですか?」


「いや、誰も手をつけてないはずだよ。あの場所を使う必要がなくなってたからね」


 ルシルは窪みへ視線を向けた。


 長い年月の間に道が使われなくなり、傷んだ場所がそのまま残っていた。


 それなら、表面だけを見て判断するのは危険だ。


「エダさん、あの場所を避けて通ることはできそうなんですが、もし無理だったら、地面を直す必要があるかもしれません」


 ルシルが説明すると、エダは頷いた。


「そうだねえ。でも、勝手に石を動かすのは困るよ。畑の水の流れも変わるかもしれないからね」


「はい。だから、まずは安全に避けられるか確かめたいと思っています」


 エダはルシルを見つめ、少しだけ微笑んだ。


「それがいいだろうね。道は使う人だけのものじゃないから」


 その言葉に、ルシルは静かに頷いた。


 エダはしばらく作業の様子を眺めていたが、やがて籠を持ち直した。


「私は畑へ戻るよ。無理しないでおくれ」


「ありがとうございました!」


 三人が礼を言うと、エダは手を振って畑の方へ歩いていった。


     ◇


 休憩を終えたあと、ルシルたちは待避場所の残りの草を刈り、地面の状態を確かめていった。


 作業が進むにつれて、古い石の並びは想像以上にはっきりと見えるようになった。中央には比較的固い地面が残っており、柔らかくなっている部分を避けても、荷車が向きを変えられるだけの幅がありそうだった。


 ただし、四輪馬車の長さを考えると、余裕が十分とは言い切れない。


 シモンは帳面に書かれた寸法を確認しながら、何度も位置を変えて測定した。


「ルシル様、こちらへ来ていただけますか」


 ルシルが近づくと、シモンは地面へ細い棒を置き、馬車の車輪が通る位置を示した。


「仮にこの位置から入ると、後輪が窪みへ近づきすぎます。もう少し外側から入る必要がありますね」


「でも、外側には石垣がありますよね」


「ええ。そこで、進入する角度を変える必要があります」


 ルシルは地面の棒を見つめた。


 馬車が曲がる時、前輪と後輪は同じ軌道を通らない。


 前輪が安全な場所を通っても、後輪が内側へ寄ってしまえば、柔らかい地面へ乗り上げる可能性がある。


「……なるほど。前だけ見てたら駄目なんだ」


「そのとおりです」


 シモンは頷いた。


 ベルトも二人の測定を見ながら、腕を組んで考えていた。


「ガランを連れてくる前に、まずは棒で車体の動きを確かめた方がよさそうだな」


 ルシルは顔を上げた。


「棒で、ですか?」


「ああ。馬車の長さに合わせて目印を置いて、どの辺りを車輪が通るか確かめるんだ。もちろん、実際の馬車とは違うから、それだけで安全とは言えんがな」


 シモンは少し考えたあと、頷いた。


「事前確認としては有効ですね。車体の寸法と車輪の位置を使えば、危険な部分へ近づきすぎる経路を除外できます」


 ルシルは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、それをやってみましょう!」


 三人は作業を分担し、地面へ目印を置いていった。


 ルシルは馬車の幅に合わせて二本の細い棒を並べ、シモンは車輪の位置を帳面と照らし合わせる。ベルトは馬が進む方向を確認しながら、無理のない曲がり方になるように位置を調整した。


 最初に考えた経路では、後輪の位置が窪みへ近づきすぎた。


 次の経路では、車体の外側が石垣へ接触する可能性があった。


 しかし、入口から少し大きく回り込み、待避場所の中央で向きを変える形にすると、危険な場所を避けられる余地が見えてきた。


「……これなら、どうでしょう?」


 ルシルが尋ねると、シモンは慎重に答えた。


「寸法上は、先ほどより余裕があります。ただし、実際の馬車はこの棒のように自由に動かせません。車輪の向きや馬の動きも考える必要があります」


 ベルトも頷いた。


「そうだな。でも、少なくとも最初から無理な道ではなさそうだ」


 ルシルは地面の目印を見つめた。


 確実に通れると決まったわけではない。


 それでも、昨日より一歩進んだことは確かだった。


 彼は思わず笑顔になった。


「よかった……!」


 ベルトはそんなルシルを見て、少しだけ笑った。


「まだ喜ぶには早いぞ。次は馬具の確認だ」


「はい!」


 ルシルは元気よく返事をした。


     ◇


 昼前、三人は草刈りと測定を終えた。


 待避場所は昨日とは見違えるほど開けており、古い石の並びや地面の起伏がはっきりと分かるようになっていた。刈った草は水路へ落ちないようにまとめ、エダから許可された範囲の外へは出さず、作業に使った道具も忘れずに集めた。


 ベルトは鎌を布で拭きながら、ルシルたちへ声をかけた。


「よし。今日はここまでだな」


「ありがとうございました、ベルトさん」


 ルシルが頭を下げると、ベルトは軽く手を振った。


「いいってことよ。俺も久しぶりにこの道を見られて面白かったしな」


 シモンは帳面を閉じ、慎重に尋ねた。


「ベルトさん。次に確認すべきことは、ガランの馬具と牽引方法でよろしいでしょうか」


「ああ。ただし、俺の荷車とお前たちの馬車じゃ、繋ぎ方が違う可能性がある。まずは馬車を見ながら考えよう」


 ルシルは頷いた。


「それなら、野営地へ戻ってから確認できますね」


「そうだな。午後は畑の仕事があるが、夕方なら少し時間を取れるかもしれん」


 ベルトはそう言い、持ってきた道具を肩へ掛けた。


「ただ、今日は無理にガランを連れてこないぞ。まずは馬具を見て、必要な物が揃っているか確認するだけだ」


「分かりました」


 ルシルは素直に答えた。


 その時、シモンが少しだけ眉を寄せた。


「もう一つ、確認しておきたいことがあります」


「何だ?」


「仮にガランで馬車を動かせるとしても、ベルクをどう移動させるかという問題が残ります。現在の状態では歩かせられませんし、牽引させることもできません」


 ベルトは真剣な顔で頷いた。


「ああ。それはそのとおりだ。道が通れるようになっても、馬を置いていくわけにはいかんからな」


 ルシルも表情を引き締めた。


 ここ数日、道を探すことに集中していた。


 しかし、旅を再開するためには、馬車だけでなく、ベルクも安全に移動できなければならない。


「……そうですね」


 ルシルは静かに頷いた。


「ベルクが歩けるようになるまでは、出発できないですね」


 ベルトは少し考えたあと、口を開いた。


「いや、必ずしもそうとは限らんぞ」


 ルシルは驚いて顔を上げた。


「えっ?」


「もちろん、今すぐ動かせるって意味じゃない。だが、怪我をした馬を運ぶ方法がまったくないわけじゃないんだ」


 シモンも興味を示した。


「それは、どのような方法でしょうか」


 ベルトは腕を組み、慎重に答えた。


「町には、家畜を運ぶための荷車を持ってる人間がいる。馬を乗せられる大きさのものがあるかどうかは分からんが、もし使えるなら、歩かせずに運ぶ方法を考えられるかもしれん」


 ルシルは目を丸くした。


「そんな荷車があるんですか?」


「ああ。もっとも、馬を乗せるとなれば簡単じゃない。乗せる時にも降ろす時にも危険があるし、怪我の状態によっては使えないこともある」


 ベルトはそこで言葉を切り、ルシルへ真剣な視線を向けた。


「だから、エリサ先生に相談するのが先だ。勝手に試すようなことはするなよ」


「もちろんです」


 ルシルは強く頷いた。


 シモンも帳面へ新しい項目を書き加えた。


「家畜運搬用の荷車について、エリサさんへ相談する。必要であれば、所有者や使用条件も確認する……ということですね」


「ああ。あとは費用もかかるだろうし、そもそも馬を安全に乗せられるか分からん。候補の一つとして考えておけばいい」


 ルシルはしばらく考え込んだ。


 ベルクが歩けるようになるまで待つ。


 それが最も自然な選択だと思っていた。


 しかし、回復に時間がかかる場合には、別の方法を考える余地もあるのかもしれない。


 もちろん、ベルクへ負担をかけるようなことはしたくない。


 だからこそ、専門家へ相談する必要がある。


「ありがとうございます、ベルトさん。僕、その方法も調べてみたいです」


 ベルトは満足そうに頷いた。


「そうしろ。選択肢を知っておくのは悪いことじゃないからな」


     ◇


 野営地へ戻ると、モモが昼食の準備を終えて待っていた。


 馬車の横には小さな布が広げられ、その上にパンと干し肉、野菜を使った簡単な料理が並んでいる。ベルクとトルクの水桶も新しくされており、二頭は落ち着いた様子で休んでいた。


「おかえり! みんな、お腹空いたでしょう?」


 モモは嬉しそうに手を振った。


 ルシルは食事を見て、思わず笑顔になった。


「わあ、ありがとう! すごくおいしそうだね」


「えへへ。今日はちゃんと人数分あるよ!」


 シモンは料理を確認し、静かに頷いた。


「それは何よりです。モモ嬢、準備をありがとうございます」


「どういたしまして!」


 モモは満足そうに笑った。


 ベルトは昼食の誘いを受けたものの、畑の仕事があるため、エダからもらったパンの残りを持って自分の家へ戻ることになった。


「夕方、時間が取れたら馬具を見に来るよ」


「はい。よろしくお願いします」


 ルシルが礼を言うと、ベルトは手を振って歩き出した。


 三人は食事を取りながら、今日の作業について話した。


 ルシルが待避場所の草刈りや地面の状態を説明すると、モモは興味深そうに耳を傾けた。


「へえ! 草を刈ったら、昔の石が出てきたんだ!」


「うん。思っていたより広い場所だったよ」


「じゃあ、馬車も曲がれそう?」


「可能性は高くなったけど、まだ確定じゃないんだ。地面が柔らかい場所も見つかったから、そこを避けられるか確認しないとね」


 モモは真剣な顔で頷いた。


「そっか。見えないところに危ない場所があるんだね」


 シモンは食事の手を止め、補足した。


「ええ。草を刈ったことで、むしろ危険な部分を発見できました。実際に馬車を動かす前に分かってよかったと思います」


 モモは少し考えたあと、ルシルへ目を向けた。


「でも、道が通れるようになったら、すぐに出発できるの?」


 ルシルは首を横に振った。


「まだだよ。ベルクの脚が治っていないし、馬車を引く方法も決まっていないからね」


 そして、ベルトから聞いた家畜運搬用の荷車について説明した。


 モモは驚いたように目を丸くした。


「ベルク君を荷車に乗せるの?」


「そういう方法があるかもしれないって話だよ。でも、安全にできるか分からないから、エリサさんに相談してからじゃないと駄目なんだ」


 モモはベルクへ視線を向けた。


 濃灰色の馬は静かに干し草を食べている。


「……ベルク君、怖がらないかな」


 モモが小さく呟いた。


 ルシルはその言葉を聞き、すぐには答えられなかった。


 確かに、馬を大きな荷車へ乗せるとなれば、怪我の痛みだけでなく、恐怖や不安もあるだろう。


「そうだね。だから、無理に乗せるつもりはないよ」


 ルシルは穏やかに答えた。


「エリサさんが危険だと言ったら、別の方法を考える。それに、ベルクが落ち着いて乗れるかどうかも大事だと思うんだ」


 モモは少し安心したように頷いた。


「うん。それならいいと思う」


 シモンも静かに口を開いた。


「今の段階では、運搬用の荷車はあくまで候補です。まずはエリサさんに現在の状態を診てもらい、移動そのものが可能かどうかを確認しましょう」


 ルシルは頷いた。


 道を見つけることも大切だが、ベルクを安全に連れていくことは、それ以上に大切だった。


     ◇


 午後、ルシルはシモンと一緒に馬車の前方を調べていた。


 以前、ベルトとオルダが修理してくれた金具の周辺は、見た目にはしっかり固定されている。しかし、修理後は馬車を実際に牽引していないため、負荷をかけた時に問題がないかどうかはまだ分からなかった。


 シモンは金具の位置を確認しながら、馬具の取り付け部分を指さした。


「ルシル様。こちらをご覧ください」


「うん?」


「この馬車は二頭で引くことを前提に作られています。ガラン一頭で引く場合、現在の馬具をそのまま使えるとは限りません」


 ルシルは馬車の前方を見つめた。


 これまで、トルクとベルクが並んで馬車を引く姿を当たり前のように見ていた。


 しかし、一頭だけで引くとなれば、馬へかかる力の方向も変わる。


「じゃあ、ガランが強い馬でも、簡単には引けないんだね」


「そのとおりです。力が足りるかどうかだけでなく、馬具が安全に取り付けられるか、車体が安定するかという問題もあります」


 ルシルは頷いた。


 ベルトはガランを一日銀貨二枚で貸す可能性を示していたが、所有者である彼が同行することが条件だった。まだ正式な契約はしておらず、牽引方法が安全に成立するかどうかも未確認である。


「……考えることが多いなあ」


 ルシルが小さく笑うと、シモンもわずかに口元を緩めた。


「旅とは、そういうものかもしれませんね」


「シモンでも、最初から全部分かってるわけじゃないんだね」


「当然です。私は馬具の専門家ではありませんし、分からないことを分かったつもりで進める方が危険です」


 その答えに、ルシルは少しだけ驚いた。


 シモンはいつも冷静で、旅の準備や交渉、危険への対応まで、何でもそつなくこなしているように見える。


 しかし、彼にも知らないことはある。


 そして、それを隠そうとはしない。


「……そういうところ、シモンらしいね」


 ルシルが言うと、シモンは不思議そうに眉を上げた。


「そうでしょうか」


「うん。分からないことをちゃんと分からないって言えるのは、すごいことだと思う」


 シモンは一瞬だけ言葉を失ったように見えた。


 それから、眼鏡の位置を直し、静かに答えた。


「ありがとうございます。ですが、それはルシル様にも言えることですよ」


「僕?」


「ええ。以前のルシル様なら、ご自分で何とかしようとするお気持ちが先に立っていたかもしれません。しかし今は、必要な時に人へ相談し、助けを求めることを自然に選ばれています」


 ルシルは少し考えた。


 確かに、王宮にいた頃の自分は、王子として失敗してはいけないと思っていた。


 何かを知らないことも、誰かに助けを求めることも、どこか恥ずかしいことのように感じていたのかもしれない。


 しかし今は、知らないことを教えてもらうのが楽しい。


 できないことがあれば、できる人に頼る。


 その代わり、自分にできることがあれば手伝う。


 そうした関係の中で、少しずつ旅が進んでいる。


「……ありがとう、シモン」


 ルシルは柔らかく笑った。


 シモンも静かに微笑んだ。


「こちらこそ、ルシル様」


     ◇


 夕方になる少し前、ベルトが再び野営地へやってきた。


 今度は肩に古い革製の馬具を掛け、片手には金属の留め具が入った小さな袋を持っている。


「待たせたな。畑の仕事が早く片づいたから、少し見に来たぞ」


「ありがとうございます!」


 ルシルは嬉しそうに迎えた。


 ベルトは馬車の前方へ回り、現在取り付けられている馬具の位置を確認した。


「ふむ……やっぱり、俺の荷車とは違うな」


 シモンは頷いた。


「はい。二頭立て用の構造ですので、一頭で牽引する場合には調整が必要だと思われます」


 ベルトは持ってきた馬具を地面へ広げ、取り付け部分を見比べた。


「ガランの馬具はこれだ。俺の荷車なら問題なく使えるが、この馬車に合わせるとなると……」


 彼は途中で言葉を止め、金具の位置を確かめた。


 ルシルも隣から覗き込んだが、革紐や金属の部品がどのように組み合わさるのか、すぐには理解できなかった。


「難しそうですね」


「ああ。無理に繋げば動くかもしれんが、それじゃ危ない」


 ベルトは真剣な顔で答えた。


「特に下り坂で馬車が前へ押してくる時、馬具が合ってないとガランが怪我をする。力が強いから大丈夫、なんて話じゃないんだ」


 ルシルは頷いた。


 ガランを借りるとしても、馬を危険にさらすわけにはいかない。


「じゃあ、どうしたらいいでしょう?」


 ベルトは少し考えたあと、口を開いた。


「町に馬具を扱う職人がいる。そいつに見てもらうのが一番確実だな」


 シモンは帳面を開いた。


「職人の方に、こちらまで来ていただくことは可能でしょうか」


「頼めば来てくれるかもしれんが、仕事の都合もあるからな。まずは連絡してみるしかない」


 ルシルは少しだけ考えた。


 町のハルミナまでは、馬車で移動しても数時間かかる。


 すぐに職人を呼べるとは限らないが、専門家に確認してもらわなければ、安全に馬車を動かすことはできない。


「それなら、エリサさんへの相談と一緒に、職人さんにも連絡できる方法を考えましょう」


 シモンは頷いた。


「そうですね。ダリオさんに連絡をお願いできるかもしれません。ただし、先方の予定もありますから、返事を待つ必要があります」


 ベルトは馬具を片づけながら、満足そうに笑った。


「よし。それなら話が早い。俺も職人の名前と場所を教えるから、必要なら伝えてくれ」


「ありがとうございます!」


 ルシルは丁寧に頭を下げた。


 ベルトは笑いながら手を振った。


「だから、そんなに何度も礼を言わなくていいって」


     ◇


 ベルトが帰ったあと、三人は夕食の準備をしながら、今日分かったことを整理していた。


 モモは鍋をかき混ぜながら、ルシルの話に耳を傾けている。


「じゃあ、道はかなりよくなったけど、馬車を動かすにはまだ準備が必要なんだね」


「うん。曲がり角の待避場所は使えそうだけど、実際に馬車を通す前には、もっと確認しないといけないんだ」


 ルシルは頷き、続けた。


「それに、ガランを借りるとしても、馬具を合わせる必要があるし、ベルクの移動方法も考えないとね」


 モモは少しだけ首を傾げた。


「なんだか、問題がいっぱいあるね」


「そうだね。でも、前より何をすればいいか分かってきたよ」


 ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。


「そっか! じゃあ、少しずつ進んでるんだね!」


 シモンは帳面を閉じ、穏やかに頷いた。


「ええ。今日の作業で、待避場所の形状と危険な部分が分かりました。馬具についても、専門家へ相談する必要があると確認できました」


 モモは鍋の中を覗き込みながら、少し考えた。


「……ねえ、ルシル君」


「どうしたの?」


「ベルク君が元気になるまで、ここにいるのも悪くないけど……私、またみんなで旅をしたいな」


 その声は、いつもの明るい調子より少しだけ静かだった。


 ルシルはモモへ目を向けた。


 彼女は鍋をかき混ぜながら、遠くの街道を見つめている。


「私ね、次の町でどんなおいしいものがあるのかも気になるし、知らない景色も見たいんだ。でも、ベルク君を置いていくのは絶対に嫌だから……」


 モモはそこで言葉を止め、少し困ったように笑った。


「だから、早くみんなで出発できる方法が見つかるといいなって思って」


 ルシルは静かに頷いた。


「うん。僕も同じ気持ちだよ」


 そして、ベルクのいる方へ目を向けた。


 馬車の横では、濃灰色の馬が落ち着いた様子で休んでいる。


 トルクもその近くで干し草を食べており、二頭はいつもと変わらない距離を保っていた。


「でも、急いでベルクを苦しめるようなことはしたくない。だから、ちゃんと安全な方法を探そう」


 モモは嬉しそうに頷いた。


「うん!」


 シモンも静かに口を開いた。


「そのために、明日は連絡の手段を整理しましょう。エリサさんの再診と、馬具職人への相談。この二つを進めることができれば、今後の判断材料が増えます」


 ルシルは頷いた。


「分かった。じゃあ、明日はその準備をしよう」


 モモは鍋を持ち上げ、明るい声で言った。


「よーし! その前に、今日はおいしいご飯を食べよう!」


 ルシルは笑った。


「うん。そうしよう」


     ◇


 夕食を終えたあと、ルシルは旅帳面を開き、今日の出来事を書き留めていた。


 草を刈ったことで、古い待避場所の形が分かったこと。


 地面が柔らかくなっている部分を見つけ、そこを避ける経路を考えたこと。


 そして、馬車を動かすためには、道だけでなく馬具やベルクの移動方法も確認しなければならないと分かったこと。


 書き進めるうちに、ルシルはふと手を止めた。


 今日一日で、旅を再開するための準備は確かに進んだ。


 しかし、まだ一つ気になることがあった。


 それは、ベルクがどれほどの期間で回復するのか、誰にも分からないということだった。


 エリサは蹄の外側に痛みがあることを確認していたが、原因はまだ確定していない。


 もし回復に時間がかかるなら、野営地で待ち続けることが最善とは限らない。


 けれど、だからといって無理に移動させるわけにもいかない。


(……やっぱり、エリサさんにもう一度診てもらわないと)


 ルシルはそう考え、帳面の最後に一行を書き加えた。


 ――ベルクの安全を最優先に、移動方法を相談する。


 その時、隣からモモが顔を覗き込んできた。


「ルシル君、何を書いてるの?」


「今日のことをまとめてたんだ」


「へえ! 見せて見せて!」


 ルシルは帳面を少し傾け、モモにも見えるようにした。


 モモは文字を追いながら、嬉しそうに頷いた。


「すごいね。こうして見ると、今日もいろいろあったんだね!」


「うん。草刈りだけのつもりだったけど、思っていたより大事なことが分かったよ」


 モモは少し考えたあと、旅帳面を取り出した。


「じゃあ、私も今日の絵を描こうかな!」


「何を描くの?」


「もちろん、草を刈ってるルシル君!」


 ルシルは思わず笑った。


「僕、今日は草を集めてただけだよ」


「じゃあ、草を集めてるルシル君!」


 モモは楽しそうに筆を動かし始めた。


 その様子を見ながら、ルシルは小さく微笑んだ。


 旅はまだ再開できていない。


 それでも、こうして仲間と過ごす時間も、確かに旅の一部なのだと思えた。


     ◇


 翌日の準備を終えた頃、シモンが馬車の外から戻ってきた。


 彼はベルクの様子を確認していたらしく、手には水桶を持っている。


「ルシル様、少しよろしいでしょうか」


「うん。どうしたの?」


 シモンは水桶を置き、静かに口を開いた。


「明日、オルダさんへ相談してみようと思います。ダリオさんに連絡を取る方法と、エリサさんへ再診をお願いする手段についてです」


「うん。それがいいと思う」


 ルシルは頷いた。


 シモンは続けた。


「ただし、もう一つ考えておきたいことがあります」


「もう一つ?」


「仮にベルクを安全に運ぶ方法が見つからなかった場合、私たちはここで回復を待つことになります。その間の食料や水、野営地の維持についても、長期的な準備が必要です」


 ルシルは少しだけ考えた。


 確かに、ここ数日は周囲の農家に助けられている。


 しかし、いつまでも無償で頼り続けるわけにはいかない。


「……そうだね。食料も少しずつ減ってるし、水を運ぶのも大変だもんね」


「ええ。必要なら、農家の方々へ仕事を手伝う代わりに物資を分けていただけないか相談することも考えられます」


 ルシルは頷いた。


 昨日、エダの水路を掃除した時のことを思い出した。


 困っている人の手伝いをする。


 その代わり、自分たちも助けてもらう。


 それは、旅を続けるための一つの方法なのかもしれない。


「うん。僕も手伝えることがあれば、ちゃんとやりたい」


 シモンは穏やかに微笑んだ。


「では、明日はその点も相談しましょう」


 ルシルは頷いた。


 そして、馬車の外へ目を向けた。


 薄暗くなった草地の向こうには、丘の影が広がっている。


 その先には、昨日と今日で調べた畑道が続いている。


 まだ馬車を通すことはできない。


 けれど、道の形は分かり、危険な場所も見つかった。


 さらに、ベルクを安全に運ぶ方法についても、新しい選択肢が見えてきた。


 ルシルは静かに息を吐いた。


「……よし。明日も頑張ろう」


 シモンは頷いた。


「はい。ただし、無理はなさらないでくださいね」


 ルシルは笑った。


「分かってるよ」


 その時、馬車の中からモモの声が響いた。


「ルシル君! シモン君! ちょっと見て!」


 二人が振り返ると、モモが旅帳面を掲げていた。


 そこには、大量の草を抱えたルシルが、なぜか山のように大きく描かれている。


「……モモ。これ、僕?」


「うん! 今日のルシル君!」


 ルシルは絵を見つめ、少しだけ首を傾げた。


「僕、こんなに草を運んでたかな……?」


 シモンは眼鏡の位置を直し、真面目な顔で答えた。


「実際の作業量より、かなり多く描かれているようですね」


「ええっ、いいじゃない! 頑張った感じが出てるでしょう?」


 モモは楽しそうに笑った。


 ルシルもつられて笑い、シモンもわずかに口元を緩めた。


 馬車の外では、トルクが短く鼻を鳴らした。


 まるで三人の笑い声に加わるようなその音を聞きながら、ルシルはモモの描いた絵をもう一度眺めた。


 大げさなほど大きな草の山と、その下で笑っている自分。


 実際の姿とはずいぶん違っていたが、今日の出来事を思い出すには、案外ちょうどいい絵なのかもしれなかった。


「……うん。いい絵だね、モモ」


 ルシルがそう言うと、モモは満面の笑みを浮かべた。


「でしょう! じゃあ、次はシモン君も描くね!」


 シモンは一瞬だけ嫌な予感がしたように目を細めた。


「……できれば、実際の姿に近い形でお願いします」


「大丈夫! シモン君は眼鏡を大きく描けば、すぐ分かるから!」


「それは少々、特徴の捉え方に問題があると思いますが」


 ルシルは二人のやり取りを聞きながら、声を上げて笑った。


 旅の再開までには、まだ越えなければならない問題が残っている。


 しかし、少なくとも今日、彼らはその問題を一つずつ確かめ、次に進むための手がかりを得た。


 そして、明日は新しい相談が始まる。


 ルシルは旅帳面を閉じ、仲間たちの笑い声を聞きながら、次に歩く道のことを考えていた。

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