↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
178/180

第178話 曲がり角の先にあった答えと、元王子の思いがけない交渉



 旅に出てから四十一日目の朝、ルシルは馬車の前にしゃがみ込み、昨日シモンと測った車輪の幅をもう一度確認していた。


 昨夜のうちに帳面へ書き写した数字が間違っていないか確かめるためだったが、車輪の外側に巻尺を当てようとするたび、すぐ隣にいるトルクが興味津々といった様子で鼻先を伸ばしてくる。巻尺を食べ物だと思っているのか、それとも単にルシルの作業へ参加したいのかは分からないものの、馬の大きな顔が視界を塞ぐたびに測り直す羽目になっていた。


「トルク、お願いだから少しだけ待っててくれないかな。これ、食べてもおいしくないと思うよ」


 ルシルが困ったように笑いながら言うと、トルクは返事の代わりに鼻を鳴らし、今度は彼の髪へ顔を近づけた。柔らかな鼻先が頬に触れたところで、馬車の後ろからシモンの声が聞こえてくる。


「ルシル様。巻尺を使う前に、トルクを柵の反対側へ移した方が早いのではありませんか」


「うん。僕も今、そう思い始めたところ」


「昨日も同じことを申し上げた気がしますが」


「昨日より仲良くなれたから、今日は大丈夫かなって」


 シモンは眼鏡の位置を直し、トルクとルシルを交互に見た。


「仲がよくなることと、作業の邪魔をされなくなることは、必ずしも同じではありません」


 あまりにも真面目な口調だったため、ルシルは笑ってしまった。


 その笑い声に気づいたのか、馬車の扉が開き、白い外套を羽織ったモモが顔を出した。彼女は二人の様子を見たあと、ルシルの肩越しにいるトルクへ目を向け、何かを理解したように大きく頷いた。


「なるほど。トルク君、今日もお仕事のお手伝いをしてるんだね!」


「手伝っているというより、仕事を増やしていますね」


「ええっ、そんなことないよ! きっとルシル君が寂しくないようにしてくれてるんだよ!」


「それなら、少々気遣いが過剰です」


 モモはトルクの鼻先を優しく撫でながら、彼を柵の向こう側へ誘導した。食べ物がないと分かると少し不満そうな様子を見せたものの、トルクは素直に移動し、用意されていた干し草へ顔を向ける。


「はい、これで大丈夫! ルシル君、続けていいよ!」


「ありがとう、モモ」


 ようやく落ち着いて作業できるようになったルシルは、巻尺の端を車輪へ当て直した。


 今日の目的は、昨日見つけた丘の麓の畑道を詳しく調べることだった。


 古い石橋へ続く荷運び道は、橋の向こう側で斜面が崩れており、馬車を通すことができないと分かっている。しかし、そこから引き返す途中で見つけた畑道には最近の車輪跡が残っており、現在の街道で最も深い轍ができている区間を避けられる可能性があった。


 問題は、その途中にある狭い曲がり角だった。


 馬車の幅だけでなく、車体の長さや車輪の位置によっても曲がれる範囲は変わるため、実際の道を測り、ガランの所有者であるベルトと相談する必要がある。


「シモン、昨日と同じ数字になったよ」


 ルシルが巻尺を見せると、シモンは帳面へ視線を落とした。


「ありがとうございます。では、車体の幅については確認できましたね。次は曲がり角の外側に必要な余裕を調べましょう」


「それって、車輪が通れればいいってわけじゃないんだよね?」


「はい。車輪が曲がれても、車体の角が柵や樹木に接触することがあります。それに、牽引する馬が方向を変えるための空間も必要です」


 ルシルは馬車の前方を眺めた。


 これまで何度も乗ってきた四輪馬車だったが、こうして一つずつ確かめていくと、単に車輪が回れば動くというものではないことが分かる。


「僕たちの馬車、思っていたより場所を使うんだね」


「ええ。特に今回は、二頭立てを前提とした車両をどう動かすかという問題もあります。道が通れると分かっても、牽引方法の確認は別に必要です」


 シモンはそう言い、測定した数字を帳面の別の頁へ書き込んだ。


 ベルクはまだ右後ろ脚をかばっており、獣医エリサから許可が出るまでは不要な歩行をさせられない。ガランを借りる話も候補の段階であり、馬具の調整や実際の牽引が可能かどうかは、まだ決まっていなかった。


 それでも、昨日より確かな情報は増えている。


 ルシルは巻尺を巻き取りながら、馬車の向こうで静かに休むベルクへ目を向けた。


「ベルク、今日は僕たちが道を調べてくるからね。君はここでゆっくりしていて」


 馬は耳を動かしたものの、特に返事をする様子もなく、落ち着いて立っていた。


 その姿を見て、ルシルは少しだけ安心した。


     ◇


 朝食を終えた頃、ベルトが野営地へやってきた。


 肩には丈夫な縄を掛け、片手には長い木の棒を持っている。昨日の約束どおり、畑道の調査に付き合ってくれるらしい。


「おはよう。準備はできてるか?」


「はい。馬車の寸法も確認しました」


 ルシルが答えると、ベルトは満足そうに頷いた。


「よし。今日は道の幅だけじゃなくて、地面の固さも見るぞ。荷車が通った跡があるからって、お前たちの馬車が安全に通れるとは限らんからな」


 シモンは帳面を閉じ、丁寧に頭を下げた。


「よろしくお願いします。こちらでも測定の準備は整えています」


 ベルトは二人の後ろにいるモモへ目を向けた。


「今日は嬢ちゃんも行くのか?」


「ううん。私はベルク君とトルク君のお留守番! でも、今日はちゃんとお昼ご飯を残しておくよ!」


 モモは胸を張って答えた。


 ベルトは一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、シモンが小さく首を振ったため、それ以上は尋ねなかった。


「そうか。馬たちを頼むな。何かあったら、オルダのところへ知らせに行くんだぞ」


「うん、任せて!」


 ルシルはモモへ水と食料の場所を改めて伝え、ベルクに変化があれば無理に動かさず、近くの農家へ助けを求めるよう確認した。


 モモは真剣な顔で頷いたあと、ルシルの袖を軽く引いた。


「ねえ、ルシル君。今日は道を調べるんでしょう?」


「うん。昨日見つけた畑道だよ」


「じゃあ、危ないところがあったら、ちゃんと引き返してね」


 いつもの明るい口調だったが、その目には少しだけ心配そうな色が浮かんでいた。


 ルシルは彼女の表情を見て、柔らかく微笑んだ。


「もちろん。道を見つけるために怪我をしたら、意味がないからね」


「うん。それならよし!」


 モモは安心したように笑い、二人を見送った。


     ◇


 丘の麓へ続く畑道には、朝の柔らかな日差しが差し込んでいた。


 昨日見つけた入口は現在の街道から少し離れた場所にあり、低い草の間を抜けるように細い道が続いている。遠くには畑の境を示す石積みが見え、その向こうには緩やかな斜面が広がっていた。


 ベルトは入口へ立つと、持ってきた木の棒を地面へ当てた。


「まずはここからだな。入口そのものは問題なさそうだが、奥へ行くほど狭くなる」


 シモンは巻尺を取り出し、ルシルと協力して道幅を測った。


 入口付近には十分な余裕があり、車輪の外側が草へ触れる程度なら通れそうだった。しかし、数十歩ほど進んだ場所では、片側の石積みが道へ張り出しており、馬車の車体が接触する可能性があった。


「ここは少し狭いですね」


 シモンが言うと、ベルトは石積みを眺めた。


「ああ。ただ、これは畑の境を示す石だから、勝手に動かすわけにはいかん。持ち主に話を通す必要がある」


「なるほど。道が通れそうでも、他の人の土地に関わるんですね」


 ルシルが言うと、ベルトは頷いた。


「当たり前のことだが、旅人には分かりにくいかもしれんな。ここらの畑は、道を挟んで持ち主が違うこともある。勝手に石をどけたら、後で揉めるぞ」


 ルシルは石積みへ目を向けた。


 王宮にいた頃、土地の境界について学んだことはあった。しかし、こうして実際の畑の前に立つと、地図の上に引かれた線が人々の生活と直接つながっているのだと分かる。


「じゃあ、ここは持ち主を確認してからですね」


「そういうことだ」


 ベルトは満足そうに答え、さらに先へ歩き始めた。


 道はしばらく緩やかに続いていたが、やがて大きく右へ曲がる場所へ出た。


 そこには低い石垣と一本の古い木があり、道はその間を抜けるように曲がっている。人が歩くには十分な幅だったものの、長い馬車が曲がるには窮屈に見えた。


「ここか……」


 ルシルは足を止め、曲がり角を見つめた。


 昨日、ベルトが心配していた場所だった。


 シモンは道の内側へしゃがみ込み、石垣から木の幹までの距離を測った。


「確かに、かなり狭いですね。車輪の幅だけなら通る可能性がありますが、車体の長さを考えると、曲がる途中で外側が接触するかもしれません」


 ベルトも腕を組んだ。


「それに、馬が曲がる時には頭と肩を振るからな。ガランほど大きな馬だと、余裕がない場所は危ない」


 ルシルは曲がり角の内側へ回り、地面の様子を確かめた。


 そこには古い車輪跡が残っていたが、どれも小さな荷車のものらしく、現在の馬車より狭い間隔で刻まれている。


「……やっぱり、僕たちの馬車には難しいのかな」


 ルシルが呟くと、シモンはすぐには答えなかった。


 彼は木の幹から少し離れた場所へ歩き、周囲の地形を観察している。


「ルシル様。こちらを見ていただけますか」


 呼ばれて近づくと、木の向こう側には草に覆われた平らな場所があった。


 そこは畑ではなく、古い作業場の跡のように見える。地面には石がいくつか並び、中央には車輪が回ったような広い跡が残っていた。


「ここ、何かあったのかな」


 ルシルが尋ねると、ベルトは少し考え込んだ。


「……ああ、思い出した。昔はここに荷車の待避場所があったんだ」


「待避場所?」


「荷車同士がすれ違う時に、一方がここへ入って待っていたらしい。今は草が伸びているが、地面は固めてあったはずだ」


 ルシルは目を丸くした。


「じゃあ、ここを使えば曲がれるかもしれないんですね!」


「可能性はある。ただし、勝手に使える場所かどうかは確認しないとな」


 ベルトは周囲を見回した。


「この辺りの土地は、確か東側の農家が管理していたはずだ。今も同じ持ち主なら、話を聞けば分かるだろう」


 シモンは帳面へ印を付けた。


「では、まず所有者を確認しましょう。通行の許可が得られれば、待避場所を利用した旋回が可能かどうか、改めて調べられます」


 ルシルは頷いた。


 昨日まで、曲がり角は単なる障害だと思っていた。


 しかし、昔の人々もここを通るために工夫していたのだと分かり、その知恵が今も役立つかもしれない。


「昔の道って、ちゃんと考えて作られてるんですね」


 ルシルが言うと、ベルトは笑った。


「そりゃそうだ。昔の人間だって、荷車が曲がれなきゃ困っただろうからな」


 その言葉に、ルシルも笑った。


     ◇


 待避場所の調査を終えた三人は、さらに道の先へ進んだ。


 道は丘の斜面に沿って緩やかに下り、やがて現在の街道へ近づいていく。途中には浅い水路があり、小さな石橋が架かっていたが、こちらは昨日見た古い橋とは違い、比較的新しく補修された跡が残っていた。


 ベルトは橋の手前で立ち止まり、石の状態を確かめた。


「ここは去年、近くの農家が直した場所だな。俺も少し手伝ったから覚えてる」


 シモンは橋の幅を測り、慎重に頷いた。


「幅は問題なさそうですが、荷重については確認が必要ですね」


「ああ。普段は農具を積んだ荷車が通ってるから、軽い荷なら問題ないはずだ。ただ、お前たちの馬車がどれくらい重いかは知らん」


 ルシルは馬車の荷物を思い浮かべた。


 旅に必要な道具の一部は魔法収納へ入れているため、車体へ積んでいる荷物はそれほど多くない。しかし、馬車そのものの重さは変わらず、橋へかかる負担を軽く考えるわけにはいかなかった。


「じゃあ、ここも確認が必要ですね」


「そうだな。だが、橋の持ち主に話を聞けば、どんな荷車が通っているか分かるはずだ」


 ベルトはそう答え、先へ進んだ。


 やがて木々の間から現在の街道が見えてきた。


 そこは、ルシルたちが野営している場所より少し高い位置にあり、地面も比較的乾いている。深い轍が続く低い区間を避けて街道へ戻れることが分かり、ルシルは思わず足を止めた。


「……本当に、つながってるんだ」


 シモンも周囲を確認し、静かに頷いた。


「ええ。少なくとも、人が歩く経路としてはつながっています」


 ベルトは街道の地面を靴で軽く踏んだ。


「ここなら、雨が降ったあとでも下の道よりはましだろう。だが、問題は途中の曲がり角と小橋だな」


 ルシルは頷いた。


 道は確かにつながっていた。


 しかも、現在の街道で最も危険な区間を避けられる位置へ出ている。


 ただし、まだ馬車を通せると決まったわけではない。


 その違いを忘れないようにしながら、ルシルは地図へ新しい線を書き込んだ。


「シモン、これで調べる場所がはっきりしたね」


「はい。曲がり角の待避場所と、小橋の通行条件。この二つを確認できれば、経路としての可能性をかなり絞り込めます」


 ルシルは嬉しそうに頷いた。


 その時、ベルトが街道の向こうへ目を向けた。


「……ん? あれは、もしかして」


 ルシルが顔を上げると、街道の先から小さな荷車が近づいてきていた。


 荷車を引いているのは灰色の小柄な馬で、御者台には年配の女性が座っている。荷台には空の木箱が積まれており、町から戻る途中らしかった。


 ベルトは手を上げた。


「おーい、エダ婆さん!」


 女性は声に気づくと、馬をゆっくり止めた。


「おや、ベルトじゃないか。こんなところで何をしてるんだい?」


 ベルトは笑いながら近づいた。


「ちょっと道を調べててな。婆さん、あの畑道を最近も使ってるか?」


 女性はルシルとシモンへ目を向けたあと、少しだけ首を傾げた。


「使ってるよ。うちの畑へ行く時は、あっちの方が近いからね」


 ルシルは思わず顔を上げた。


 ベルトは頷き、曲がり角の待避場所について尋ねた。


「あそこの古い待避場所、今も使えるのか?」


「使えるけど、草が伸びてるだろう。昔は荷車を回す場所だったんだけどね」


「持ち主は今も婆さんのところか?」


「そうだよ。あの辺りは、うちの畑の端だからね」


 ルシルはシモンと顔を見合わせた。


 思いがけず、土地の持ち主に出会えたのだった。


     ◇


 ベルトから事情を聞いたエダは、しばらく考え込んだ。


「なるほどねえ。旅の馬車を通したいのかい」


「はい。ただ、まだ安全に通れるか分からないので、まずは確認したいんです」


 ルシルが答えると、エダは彼をじっと見つめた。


「若いのに、ずいぶん慎重だね」


「馬が怪我をしていて、今は無理に動かせないんです。それに、道を壊したり、誰かの畑へ迷惑をかけたりしたくありませんから」


 エダは少しだけ目を細めた。


「そうかい。それなら、話を聞こうじゃないか」


 ルシルは丁寧に頭を下げた。


 そして、馬車の幅や長さ、畑道の曲がり角で困っていることを説明した。


 エダは最後まで話を聞くと、腕を組んだ。


「待避場所を使うだけなら、別に構わないよ。ただし、草を刈るなら畑の境を壊さないこと。それから、石積みは勝手に動かさないでおくれ」


「もちろんです」


 ルシルはすぐに頷いた。


 しかし、エダは続けた。


「それと、あの場所は雨が降ると水が溜まりやすいんだ。今は乾いてるけど、馬車を入れるなら気をつけた方がいいね」


 シモンは帳面へ記録した。


「ありがとうございます。地面の状態も確認します」


 エダは少し考えたあと、ルシルへ目を向けた。


「そうだ。あんたたち、道を使う前に、少し手伝ってくれないかい?」


「お手伝い、ですか?」


「うちの畑の端にある水路が、落ち葉で詰まってるんだよ。あれを片づければ、待避場所へ水が溜まりにくくなるはずなんだけど、婆さん一人じゃなかなか大変でね」


 ルシルはシモンを見た。


 シモンは少し考えたあと、静かに頷いた。


「作業範囲と安全を確認できるのであれば、協力することは可能だと思います」


 ルシルはエダへ向き直った。


「ぜひ手伝わせてください。ただ、僕たちも道を使わせてもらう立場なので、勝手なことはしません。どこを片づければいいか、教えていただけますか?」


 エダは嬉しそうに笑った。


「もちろんさ。そういう話なら大歓迎だよ」


 ベルトは二人のやり取りを見て、感心したように頷いた。


「よし。じゃあ、俺も手伝うか。どうせ今日は道を調べるつもりで来たんだしな」


 ルシルは笑顔になった。


「ありがとうございます!」


 エダは手綱を持ち直し、荷車を街道脇の広い場所へ寄せた。


「じゃあ、案内するよ。そんなに遠くないからね」


     ◇


 水路は待避場所の外側を通り、丘の下へ続いていた。


 幅はそれほど広くなかったが、落ち葉と細い枝が溜まり、水の流れが悪くなっている。完全に塞がっているわけではないものの、雨が降れば水があふれ、待避場所の地面へ流れ込む可能性がありそうだった。


 エダは水路の端へ立ち、詰まっている場所を指さした。


「ここだよ。去年まではもう少し流れてたんだけどね」


 ベルトは木の棒で落ち葉の深さを確かめた。


「なるほど。大きな石が詰まってるわけじゃないな。これなら、上から落ち葉を取り除けば流れが戻るかもしれん」


 シモンは周囲の地面を確認した。


「ただし、水路の底を掘り返すのは避けましょう。石積みの下を崩してしまう可能性があります」


「ああ。そこは触らん方がいい」


 ベルトは頷き、持ってきた縄を近くの木へ掛けた。


 作業中に足を滑らせないよう、斜面の端を確認するためだった。


 ルシルはエダから借りた小さな熊手を持ち、水路の上に積もった落ち葉を少しずつ取り除き始めた。


 濡れた葉は思っていたより重く、枝と絡まっているため、一度に引き上げることはできない。無理に引っ張れば下の石まで動かしてしまいそうだったので、ルシルは絡まった枝を一本ずつ外し、落ち葉をまとめていった。


「……これ、見た目より大変ですね」


 ルシルが息を吐くと、ベルトは笑った。


「農家の仕事なんて、だいたいそんなもんだ。簡単そうに見えることほど、やってみると手間がかかる」


 シモンは水路の下流側で、流れてきた落ち葉を拾い上げていた。


「ルシル様、こちらへ流れてきた分は私が回収します。無理に一度で取り除こうとせず、少しずつ進めてください」


「うん、分かった」


 ルシルは頷き、作業を続けた。


 しばらくすると、落ち葉の下から細い水の流れが見え始めた。


 最初はほとんど動いていなかった水が、詰まりを取り除くにつれて少しずつ流れ始める。


「おっ、流れてきたぞ」


 ベルトが声を上げた。


 ルシルは手を止め、水路を覗き込んだ。


 濁った水がゆっくりと動き、落ち葉の間を抜けて下流へ流れていく。


「本当だ!」


 思わず笑顔になると、エダも嬉しそうに頷いた。


「助かったよ。これなら、次に雨が降っても少しはましになるだろうね」


 シモンは水の流れを確認し、慎重に答えた。


「詰まりはかなり改善しました。ただし、大雨の時に十分な排水ができるかどうかは、まだ分かりません」


「そうだね。そこは様子を見ながらだよ」


 エダは納得したように頷いた。


 ルシルは熊手を置き、額の汗を拭った。


 道を調べに来たはずが、いつの間にか水路の掃除をしている。


 けれど、その作業は単なる寄り道ではなかった。


 待避場所の水はけがよくなれば、馬車を通す時の危険も減る。


 そして、エダの畑にとっても役立つ。


 ルシルは水の流れを見つめながら、少しだけ嬉しくなった。


     ◇


 水路の掃除を終えたあと、エダは三人を待避場所へ案内した。


 草に覆われた平らな場所は、近くで見ると想像していたより広く、地面には古い石が規則的に埋め込まれていた。草を少し分けると、荷車の車輪が通ったらしい跡も見つかった。


「昔はここで荷車を回してたんだよ」


 エダは懐かしそうに言った。


「私が若い頃は、町へ行く荷車がよく通ってね。道が狭いから、ここで順番を待ったり、向きを変えたりしてたんだ」


 ルシルは周囲を見回した。


 古い道は、ただ人が通るためだけに作られていたわけではない。


 荷車がすれ違える場所を設け、水路を整え、石を敷いて地面を固める。


 そうした工夫が積み重なって、一つの道として使われていたのだ。


「すごいですね。昔の人たちも、いろいろ考えていたんだ」


 ルシルが言うと、エダは笑った。


「そりゃあ、困ることは今も昔も同じだからね」


 シモンは待避場所の幅を測り、帳面へ数字を書き込んだ。


 ベルトは木の幹と石垣の位置を確認し、馬が向きを変える時の動きを想像するように歩いている。


「……ふむ。ここを使えば、曲がれる可能性はあるな」


 ベルトが呟くと、ルシルは顔を上げた。


「本当ですか?」


「ああ。ただし、草を刈って地面を確認しないと駄目だ。それに、ガランを連れてくるなら、実際に馬具を合わせてからじゃないとな」


 シモンも頷いた。


「車体の寸法から見ても、待避場所を利用すれば旋回できる余地はありそうです。ただし、現時点では通行可能と断定できません」


 ルシルは笑顔で頷いた。


「分かりました。まずは草を片づけて、地面を確認するところからですね」


 エダは少し考えたあと、口を開いた。


「草を刈るくらいなら、私が許可するよ。ただし、石を動かしたり、木を切ったりするのは駄目だよ」


「はい。ありがとうございます」


 ルシルは丁寧に頭を下げた。


 すると、エダは少し照れたように笑った。


「そんなに頭を下げなくてもいいよ。水路を片づけてもらったんだから、お互い様さ」


 ルシルは顔を上げた。


 その言葉が、妙に心へ残った。


 王宮にいた頃、何かを頼む時には立場や身分が先にあった。


 しかし、ここでは違う。


 困っていることを話し、相手の事情を聞き、自分にできることをする。


 そうすることで、少しずつ協力できる関係が生まれていく。


(……こういうの、いいな)


 ルシルは胸の奥が温かくなるのを感じた。


     ◇


 午後になり、三人はエダへ礼を言って野営地へ戻ることにした。


 エダは荷車へ戻る前に、ルシルたちへ声をかけた。


「そうだ。あんたたち、明日も来るなら、草刈りの道具を貸してあげるよ」


「いいんですか?」


「ああ。ただし、使ったらちゃんと返しておくれ。それと、刈った草は水路へ落とさないようにね」


 ルシルは笑顔で頷いた。


「もちろんです。ありがとうございます!」


 ベルトもエダへ礼を言い、三人は来た道を引き返した。


 帰り道、ルシルは今日の出来事を思い返していた。


 畑道は、確かに現在の街道へつながっていた。


 途中の曲がり角には古い待避場所があり、その持ち主であるエダから利用と草刈りの許可を得られた。


 さらに、水路の詰まりを取り除いたことで、待避場所へ水が溜まりにくくなる可能性も生まれた。


 昨日までは、地図の上に描かれた細い線でしかなかった道が、少しずつ現実の選択肢へ変わっている。


「シモン、今日はかなり進んだ気がするね」


 ルシルが言うと、シモンは頷いた。


「ええ。少なくとも、道の接続と土地の所有者については確認できました。利用の許可も得られましたし、次に必要な作業が明確になりましたね」


「うん。あとは草を刈って、地面を確認して、それから馬車が通れるかどうか……」


「その前に、ガランの牽引方法と馬具の確認も必要です」


 シモンが付け加えると、ルシルは苦笑した。


「そうだった。まだやることはいっぱいあるね」


「ですが、一つずつ進めればよいのです」


 シモンは穏やかに答えた。


 その言葉を聞いたルシルは、少しだけ笑った。


「うん。そうだね」


 ベルトは二人の会話を聞きながら、前を歩いていた。


 やがて、野営地が見える場所まで戻ってくると、彼は足を止めた。


「そうだ。明日は俺も少し手伝えるぞ。草刈りなら、午前中に済ませられるかもしれん」


 ルシルは驚いて顔を上げた。


「本当ですか?」


「ああ。ただし、畑の仕事があるから、昼までだ。それでもよければな」


「十分です! ありがとうございます!」


 ベルトは笑った。


「礼はまだ早いって言っただろう。まあ、今日は水路の掃除もしたし、少しは役に立ったな」


 ルシルは頷いた。


 そして、今日一日で何度も感じたことを、改めて口にした。


「僕たちだけだったら、きっとここまでできませんでした」


 ベルトは少しだけ目を細めた。


「そういう時は、誰かに頼ればいいんだよ。旅ってのは、全部一人でやるもんじゃないだろう?」


 ルシルはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。


「……はい。そうですね」


     ◇


 野営地へ戻ると、モモが馬車の横で洗った食器を拭いていた。


 ルシルたちの姿を見つけると、彼女は布を置き、嬉しそうに駆け寄ってきた。


「おかえり! どうだった? 道、通れそうだった?」


 ルシルは笑顔で答えた。


「うん。まだ確定じゃないけど、かなりいいところまで分かったよ」


「本当!?」


「畑道はちゃんと街道へつながっていたし、曲がり角には昔の荷車が使っていた待避場所があったんだ」


 モモは目を輝かせた。


「待避場所? じゃあ、そこで馬車を曲げられるかもしれないんだね!」


「そういうこと。ただ、草を刈って地面を確かめる必要があるんだ」


 ルシルが説明すると、モモは何度も頷いた。


「そっか! じゃあ、明日は私も手伝いたい!」


 シモンは少し考えたあと、穏やかに答えた。


「モモ嬢のお気持ちはありがたいのですが、ベルクの世話をする人も必要です。明日の作業については、役割を相談して決めましょう」


「うん。分かった!」


 モモは素直に頷いた。


 そのあと、ルシルの服へ目を向け、少しだけ首を傾げた。


「ところで、ルシル君。なんでそんなに泥だらけなの?」


 ルシルは自分の袖を見下ろした。


 水路の掃除をしていた時についた泥が、乾いて白っぽく残っている。


「ああ、道の持ち主の人にお願いされて、水路を掃除してきたんだ」


「水路?」


「うん。落ち葉が詰まっていたから、片づけるのを手伝ったんだよ」


 モモは一瞬だけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。


「いいなあ! 私もやりたかった!」


 シモンは苦笑した。


「モモ嬢。水路の掃除は、遊びではありませんよ」


「分かってるよ! でも、みんなで何かをきれいにするのって、楽しいでしょう?」


 ルシルは頷いた。


「うん。大変だったけど、最後に水が流れ始めた時は嬉しかったよ」


 モモは少し羨ましそうに頬を膨らませた。


「むう……。じゃあ、次は私も何かお手伝いする!」


「その時は、お願いするね」


 ルシルが答えると、モモは満足そうに笑った。


     ◇


 夕方、ルシルはベルクの様子を確認していた。


 濃灰色の馬は食欲を保っており、水も飲んでいる。しかし、右後ろ脚をかばう様子は続いており、昨日の夜に少し楽そうに見えたからといって、回復したと判断できる状態ではなかった。


 ルシルは馬の近くへしゃがみ込み、無理に触れないよう注意しながら脚の位置を見た。


「ベルク、今日もお疲れさま」


 馬は耳を動かし、ルシルの方へ顔を向けた。


 その仕草に少しだけ安心しながらも、ルシルはエリサの言葉を思い出していた。


 痛みの原因は、まだ完全には分かっていない。


 蹄の外側に圧迫すると反応する部分があり、内部で炎症が起きている可能性はあるものの、確定した診断ではなかった。


 そのため、無理に歩かせたり、馬車を引かせたりすることはできない。


「……早くよくなるといいね」


 ルシルは小さく呟いた。


 すると、背後からモモの声が聞こえてきた。


「ルシル君、ベルク君の様子はどう?」


 振り返ると、モモが水桶を持って立っていた。


「食欲はあるし、落ち着いてるよ。でも、脚はまだ痛そうだね」


 モモは頷き、ベルクへ目を向けた。


「そっか。じゃあ、今日も無理はさせられないね」


「うん。エリサさんにまた診てもらうまでは、今のまま休ませよう」


 モモは水桶を置き、ベルクの首筋を優しく撫でた。


「ベルク君、焦らなくていいからね。私たち、ちゃんと待ってるよ」


 その声は、いつもの明るさとは少し違っていた。


 ルシルは彼女の横顔を見つめた。


 モモは食べ物の話になるとすぐに目を輝かせ、時にはシモンを困らせるほど自由奔放に振る舞う。しかし、誰かが困っている時には、相手のことを真剣に考えられる優しさを持っている。


 そのことを、ルシルは旅の中で何度も感じていた。


「モモ、ありがとう」


 ルシルが言うと、モモは不思議そうに首を傾げた。


「えっ、どうしたの?」


「ううん。ベルクのこと、いつも気にかけてくれてるから」


 モモは少しだけ照れたように笑った。


「だって、ベルク君も大事な仲間だもん」


 ルシルは頷いた。


「うん。そうだね」


     ◇


 夕食のあと、三人は馬車の中で明日の予定を確認した。


 シモンは帳面を開き、今日の調査結果を整理している。


 ルシルは地図を広げ、畑道の曲がり角と待避場所に印を付けた。モモはその隣で旅帳面を開き、今日聞いた話をもとに、小さな馬車が曲がり角を通る絵を描いている。


「モモ、それって僕たちの馬車?」


 ルシルが尋ねると、モモは嬉しそうに頷いた。


「うん! でも、ちょっとだけ小さく描いちゃったかも」


 ルシルは絵を覗き込んだ。


 そこには、実際の馬車よりずいぶん丸みのある車体が描かれており、前にはトルクとベルクらしい二頭の馬が並んでいる。


「かわいいね」


「でしょう? でも、ベルク君が元気になるまでは、この絵みたいには動けないね」


 モモは少しだけ寂しそうに笑った。


 ルシルは頷いた。


「うん。でも、いつかまた一緒に走れるようになったらいいな」


 シモンは二人の会話を聞きながら、静かに口を開いた。


「そのためにも、今は準備を進めましょう。明日は待避場所の草を刈り、地面の状態を確認します。その結果を踏まえて、ベルトさんと牽引方法について相談する予定です」


「うん」


 ルシルは頷いた。


 シモンは続けた。


「ただし、ベルクの移動については、エリサさんの判断が必要です。道が使えると分かっても、それだけで出発できるわけではありません」


「分かってるよ」


 ルシルは穏やかに答えた。


「でも、今日みたいに一つずつ問題を解決していけば、いつか出発できる日が来ると思うんだ」


 シモンは少しだけ微笑んだ。


「ええ。その考え方でよいと思います」


 モモは二人の顔を見比べたあと、にっこり笑った。


「じゃあ、明日も頑張ろうね!」


「うん!」


 ルシルが答えると、シモンも頷いた。


「はい。ただし、無理は禁物ですよ」


 モモは元気よく返事をした。


「はーい!」


     ◇


 その夜、ルシルは馬車の外へ出て、北の丘の方角を眺めていた。


 空には雲が少なく、星の光が静かに広がっている。遠くの農家からはかすかな灯りが見え、草地を渡る風には、昼間に刈られた草の匂いが混じっていた。


 ルシルは今日の出来事を思い返した。


 畑道の曲がり角には、昔の荷車が使っていた待避場所があった。


 その土地の持ち主であるエダと出会い、利用の許可を得られた。


 さらに、水路の掃除を手伝ったことで、待避場所の水はけも少し改善した。


 どれも、最初から予定していたことではない。


 けれど、実際に歩き、人と話し、自分たちの手で動いたからこそ得られた結果だった。


(……旅って、こういうことなのかもしれないな)


 ルシルは小さく笑った。


 王宮にいた頃、彼の行く道はいつも誰かが決めていた。


 何時に起き、どこへ行き、誰と会い、何を学ぶのか。


 その一つ一つが、王子としての役割に結びついていた。


 しかし、今は違う。


 道が塞がれていれば、別の道を探す。


 困っている人がいれば、自分にできることを考える。


 そして、誰かの力を借りながら、少しずつ前へ進んでいく。


 それは決して楽なことばかりではないが、ルシルには今の生活が心地よかった。


「……明日も、いい日になるといいな」


 そう呟いた時、背後から足音が聞こえた。


 振り返ると、シモンが馬車の扉から顔を出している。


「ルシル様。そろそろ中へ戻られませんか。明日も朝から作業がありますので」


「うん。今戻るよ」


 ルシルは頷き、もう一度だけ北の丘へ目を向けた。


 あの曲がり角の先には、まだ確かめなければならないことが残っている。


 それでも、今日の調査で新しい道が現実の選択肢になり始めたことは、確かな成果だった。


 ルシルは小さく微笑み、シモンの待つ馬車へ戻っていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。