第177話「古い石橋の向こう側と、賢者が見つけたもう一つの道」
旅に出てから四十日目の朝、ルシルは馬車の外で靴紐を結び直しながら、北の丘へ続く道を眺めていた。
昨夜は雨が降らなかったらしく、街道脇の草地には朝露が残っているものの、土の表面は昨日より乾いている。オルダから借りた厚手の雨よけは風で緩んだ箇所もなく、馬車の横に設けた支柱の間で静かに張られていたが、布の下にある地面まで完全に乾いたわけではなかった。
栗毛のトルクは朝食を終えたばかりで、まだ何か食べられるのではないかと期待するように、ルシルの手元を覗き込んでいる。一方、濃灰色のベルクは少し離れた場所で身体を休めており、右後ろ脚に体重をかけるのを避ける様子は昨日から大きく変わっていなかった。
「トルク、残念だけど僕の靴紐は食べられないよ」
ルシルが笑いながら鼻先を押し戻すと、トルクは不満そうに鼻を鳴らした。どうやら靴紐そのものより、ルシルが何かを持っていることの方が気になっていたらしい。
「ルシル様、その調子ですと、いずれトルクは鞄を開ける方法まで覚えてしまいそうですね」
背後から声をかけてきたシモンは、いつもの紺色の外套を羽織り、片手に革表紙の帳面を持っていた。眼鏡の奥に浮かぶ表情は穏やかだったが、もう一方の手には、昨日ルシルがリナの祖父から写させてもらった古い地図が握られている。
「それは困るなあ。僕の荷物まで食べられちゃったら、旅日記を買う前に鞄を買い直さないといけなくなるよ」
「その場合、鞄を買い直すより先に、トルクの食事管理を見直すべきでしょう」
「シモン君、それは違うよ!」
馬車の扉から顔を出したモモが、なぜか真剣な表情で割り込んできた。
「トルク君が鞄を開けられるようになったら、まずは私のお菓子を別の場所へ隠さないと!」
ルシルは思わず笑ってしまったが、シモンは眼鏡の位置を直しながら、妙に真面目な顔で答えた。
「モモ嬢。そもそも、馬が届く場所にお菓子を置かなければよいのではありませんか」
「……それを言われると、何も言い返せないね」
モモは少し悔しそうに唇を尖らせたあと、すぐに笑顔へ戻った。
ここ数日、三人の会話はベルクの負傷や馬車の修理に関するものが多かった。もちろん、解決しなければならない問題ではあるものの、こうしてくだらない話で笑える時間が戻ってきたことを、ルシルは嬉しく感じていた。
昨日は散歩の途中で迷子になっていた少女リナを助け、彼女の祖父から古い荷運び道の存在を教えてもらった。その地図には、現在の街道とは別に北の丘を回る経路が描かれており、途中には今も残っているかもしれない石橋が記されている。
今日、三人が確かめたいのは、その道が実際に利用できるかどうかだった。
「シモン、地図を見て何か分かった?」
ルシルが尋ねると、シモンは地図を広げ、街道から北へ延びる細い線を指さした。
「古い道の入口と思われる場所は、現在の街道からそれほど離れていません。ただし、途中の道幅や勾配、石橋の状態については、実際に確認しなければ判断できませんね」
「うん。ベルトさんなら、最近の様子を知っているかもしれないって、オルダさんも言ってたよね」
「ええ。まずはベルトさんへ相談するのがよいでしょう。特に、ガランを借りる可能性がある以上、所有者であるベルトさんの判断を抜きに進めることはできません」
ルシルは頷いた。
ベルトの所有する大きな農耕馬ガランは、馬車を移動させるための候補として名前が挙がっている。しかし、ガランは本来農作業に使われている馬であり、二頭立ての馬車を一頭で牽引できるかどうかは、馬具の適合や車体の重量を確かめなければ分からない。
それに、ベルクはまだ長く歩かせられる状態ではなかった。
今日、古い道が使えると分かったとしても、それだけで旅を再開できるわけではない。
けれど、道の問題を一つでも解決できれば、次に取れる行動は確実に増えるはずだった。
「じゃあ、朝ご飯が終わったらベルトさんのところへ行こう。僕、地図を見せて相談してみたいんだ」
「承知しました。ただし、全員で出かけるわけにはいきませんから、馬たちの世話についても決めておきましょう」
その言葉を聞いたモモが、勢いよく手を挙げた。
「はい! 私、今日はベルク君とトルク君のお留守番をする!」
ルシルは少し驚いて彼女を見た。
「いいの? 昨日は一緒に散歩したばかりなのに」
「うん。昨日は私が出かけたから、今日はシモン君も外へ行った方がいいと思うんだ。それに、ベルク君のことも気になるしね」
モモはそう言いながら、ベルクの方へ視線を向けた。
「でも、お昼までには帰ってきてね。私、一人で二人分のお昼ご飯を食べるのは、さすがに大変だから」
「モモ嬢。なぜ私たちの分まで食べることが前提になっているのですか」
「だって、残したらもったいないでしょう?」
「帰ってくるまで残しておけばよいのです」
シモンが当然のように答えると、モモはしばらく考え込んだ。
「……なるほど。そういう方法もあるんだね」
「モモ、今までどうしてたの?」
ルシルが尋ねると、モモは明るい笑顔で答えた。
「おいしくいただいてたよ!」
シモンが額に手を当て、ルシルはとうとう声を上げて笑った。
◇
朝食後、ルシルとシモンはオルダの農家へ向かった。
モモには十分な水と食料を残し、ベルクの様子が急に変わった場合には、近くの農家へ助けを求めるよう確認してある。馬車の荷物も整理済みで、二人が戻るまではトルクを馬車につなぐ必要もなかった。
畑の脇を歩いていると、昨日までに片づけた石や落ち葉が道端にまとめられているのが見えた。小さな作業ではあったが、そのおかげで水の流れが少し改善されており、ルシルは自分たちの手で変えられたものが確かに残っていることを実感した。
「シモン、昨日の地図を見て思ったんだけど、昔の道って、どうして使われなくなっちゃったんだろうね」
ルシルが尋ねると、シモンは少し考えてから答えた。
「理由はいくつか考えられます。現在の街道の方が町へ直接向かいやすいのかもしれませんし、荷車が大型化したことで古い道幅では足りなくなった可能性もあります」
「なるほど。昔は便利だった道でも、今の馬車には合わないかもしれないんだ」
「はい。それに、石橋が残っていたとしても、橋の前後の地面が崩れていれば通れません。道そのものの状態だけでなく、実際に利用する車両との相性も重要です」
ルシルは頷いた。
昨日、古い道の存在を知った時には、深い轍を避けられるかもしれないという期待が先に立っていた。しかし、昔の道が現在の街道より安全だとは限らず、むしろ長く使われていないことで危険な場所が増えている可能性もある。
「じゃあ、今日は使える道を探すというより、使えない理由もちゃんと確かめる日だね」
「その考え方がよいと思います。安全でないと分かることも、十分に意味のある成果ですから」
シモンはそう答え、歩く速度を少し緩めた。
農家の庭先には、朝の作業を終えたらしいオルダが立っていた。
ルシルたちの姿を見つけると、年配の農夫は手にしていた縄を棚へ置き、穏やかに声をかけてきた。
「おはよう。今日は二人か」
「おはようございます、オルダさん。モモは馬たちを見てくれています」
「そうか。ベルクの具合はどうだ?」
「昨日から大きく変わっていません。食欲はありますが、右後ろ脚をかばう様子は続いています」
オルダは頷いた。
「なら、引き続き休ませるしかないな。焦って歩かせるより、先生の指示を守る方がいい」
「はい。僕たちもそう考えています」
ルシルは地図を取り出し、昨日教えてもらった古い荷運び道について説明した。
オルダは地図を覗き込み、北の丘へ続く線を指先でたどった。
「なるほど。今日はこの道を確かめたいわけか」
「はい。でも、僕たちだけでは馬車が通れるか判断できないので、ベルトさんにも相談したいんです」
「それなら、ちょうどいい。あいつは今朝、ガランを使って畑の道具を運んでいたはずだ。もう仕事を終えている頃だろう」
オルダは農家の裏手へ目を向けた。
「わしも少し付き合おう。昔の道なら、覚えている場所があるかもしれん」
ルシルは嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます!」
◇
ベルトの農家へ到着すると、庭先では大きな栗毛の馬が干し草を食べていた。
ガランはトルクよりもひと回り大きく、太い首と頑丈そうな脚を持っている。ルシルたちの姿に気づくと耳を動かしたが、すぐに干し草へ顔を戻し、落ち着いた様子で食事を続けた。
ベルトは納屋の前で馬具を手入れしていた。
「おう、オルダ。それに旅人たちか。今日はどうした?」
ルシルは挨拶を済ませると、古い地図を広げた。
「実は、昨日リナという女の子を助けた時に、その子のおじいさんから昔の荷運び道について教えてもらったんです」
「リナ? ああ、サーラの娘か。足を痛めたって聞いたぞ」
「はい。今は家で休んでいるそうです。僕たちが知りたいのは、この北の丘を通る道なんです」
ベルトは地図を受け取り、しばらく眺めた。
最初は何気ない表情だったが、やがて眉を寄せ、地図の一角を指さした。
「……ああ、この道か。確かに残ってるぞ。ただし、全部が通れるわけじゃない」
ルシルは顔を上げた。
「最近も行かれたことがあるんですか?」
「去年の秋にな。畑の境を確認するために、石橋の手前まで歩いたことがある。橋そのものは残っていたが、向こう側の道は草が伸びていた」
ベルトは地図の線を指先でたどった。
「それに、この辺りは丘の斜面が少し崩れていたはずだ。人なら通れても、馬車には厳しいかもしれん」
シモンはすぐに帳面を開いた。
「なるほど。では、石橋までの道と、その先の状態を確認する必要がありますね」
「そうだな。ただし、今朝はガランの仕事が一段落してる。午後までなら、俺も案内できるぞ」
ルシルは驚いて顔を上げた。
「いいんですか?」
「ああ。どうせ畑の境も見ておきたかったところだ。それに、ガランを貸す話がある以上、どの道を通るのか知らないままじゃ困るからな」
ベルトはそう答え、ガランの首筋を軽く叩いた。
「ただし、今日は馬車を動かすつもりはないぞ。まずは人間の足で道を確かめる。それで危なそうなら、無理に通す話はなしだ」
「はい。僕たちも、そのつもりです」
ルシルが頷くと、ベルトは満足そうに笑った。
「よし。じゃあ、出かける前に少し準備しよう」
四人は必要な道具を確認し、昼までに戻る予定で北の丘へ向かうことになった。
◇
北の丘へ続く道は、畑の端から緩やかに上っていた。
現在の街道よりも幅は狭いものの、地面には古い石が並び、雨水が流れやすいように中央がわずかに高くなっている。ところどころ草が伸びていたが、完全に道が消えているわけではなかった。
ルシルは石の並びを見つめながら、昨日リナと出会う前に見つけた道と似ていることに気づいた。
「やっぱり、昨日の小道と同じ作り方なんですね」
オルダは頷いた。
「昔はこの辺りを荷車が通っていたからな。今ほど大きな馬車じゃなかったが、石を敷いて道を固めていたんだ」
「なるほど。だから、雨が降っても土が流れにくいんですね」
ルシルが感心すると、ベルトは少し笑った。
「そういうことだ。ただし、石があるからって安心するなよ。古い石は浮いていることもあるし、雨のあとは滑りやすい」
ルシルは足元を確認しながら頷いた。
道の両側には低い草が広がり、ところどころに小さな花が咲いている。畑から離れるにつれて人の気配は薄くなったが、遠くには農家の屋根が見え、完全な山道というわけではなかった。
しばらく進むと、道幅が少し広くなった場所へ出た。
そこには古い石柱が一本立っており、表面には風化した文字が刻まれている。
「これが昔の道標だ」
オルダが足を止めた。
ルシルは近づき、石柱の表面を確かめた。
文字の大部分は読めなくなっていたが、上部には小さな鐘のような模様が三つ並んでいる。
昨日、木立で見つけた石と同じ印だった。
(……やっぱり、ここにもあるんだ)
ルシルは胸の奥に小さな緊張を覚えた。
白い部屋。
黒い長方形。
三つの鐘の音。
ガルド・ネイマンという名前。
それらの断片が一瞬だけ頭をよぎったが、今は道の調査が目的だ。
ルシルは気持ちを落ち着かせ、石柱へ目を向けた。
「この印、昨日も見たんです。リナが迷っていた木立の近くに、同じような石がありました」
オルダは頷いた。
「ああ。昔の道にはいくつか残っている。道が分かれる場所に置かれていたらしいな」
「三つの鐘には、何か意味があるんでしょうか」
ルシルが尋ねると、ベルトは少し考えた。
「さあな。昔からある印だってことは知ってるが、詳しい由来までは聞いたことがない」
オルダも首を横に振った。
「わしも同じだ。昔の荷運び道を示す印だとは聞いているが、それ以上は知らんな」
ルシルは頷き、石柱の形を覚えるように眺めた。
今は、分からないことを無理に埋める必要はない。
ただ、同じ印が複数の場所に残っていることは、確かな事実だった。
◇
石柱を過ぎると、道は少しずつ狭くなっていった。
左右から草が伸び、石の隙間には土が溜まっている。ベルトは先頭を歩きながら足元を確かめ、時折立ち止まって地面の状態を確認した。
「この辺りまでは、昔の道が残ってるな。ただ、馬車を通すなら草を刈る必要がある」
ルシルは周囲を見回した。
道幅は人が二人並んで歩ける程度で、場所によってはもう少し広い。しかし、二頭立ての馬車を通すには狭く感じられ、車輪が石の端へ乗り上げる可能性もありそうだった。
「シモン、僕たちの馬車って、ここを通れるかな」
ルシルが尋ねると、シモンは慎重に答えた。
「現時点では判断できません。車輪の幅だけでなく、車体の外側が草や枝へ接触しないかも確認する必要があります」
「そうだよね。思ったより狭いなあ」
「ええ。ただし、まだ道全体を見ていませんから、今の段階で結論を出すのは早いでしょう」
シモンはそう言い、地図へ目を落とした。
道はこの先で小さな谷を越え、石橋へ続いているはずだった。
四人は慎重に歩き続けた。
やがて木々の間から、灰色の石造りの橋が見えてきた。
橋は小さな谷に架かっており、下には細い水の流れがある。欄干は低く、表面には苔が生えていたが、遠目には大きく崩れた様子は見られなかった。
「……あれが石橋なんですね」
ルシルが呟くと、オルダは頷いた。
「ああ。昔からある橋だ。わしが子どもの頃にも、ここを荷車が通っていた」
ベルトは橋の手前で足を止めた。
「ここから先は、慎重に見よう。橋そのものが残っていても、車輪を乗せて大丈夫かどうかは別の話だからな」
ルシルは頷き、橋の周囲を見渡した。
石橋は想像していたより小さかった。
それでも、古い道の途中に確かに残っているその姿は、長い時間を越えて人々の往来を支えてきたものなのだろう。
◇
ベルトは橋の手前へしゃがみ込み、石の継ぎ目を確認した。
シモンも少し離れた位置から橋全体を観察し、欄干の高さや道幅を帳面へ記録している。オルダは橋の下を覗き込める場所へ移動し、石積みの状態を確かめた。
ルシルは三人の作業を見守りながら、橋の入口に残る古い溝へ目を向けた。
そこには、車輪が何度も通ったような二本の筋が刻まれている。
「これって、昔の荷車が通った跡ですか?」
ルシルが尋ねると、オルダは顔を上げた。
「そうだろうな。長い間、同じ場所を車輪が通れば、石も少しずつ削れるからな」
「すごいですね。こんなに長く残っているなんて」
ルシルは感心しながら、溝の幅を目で追った。
しかし、シモンはその溝を見て、少しだけ眉を寄せた。
「ルシル様、この溝の間隔は、私たちの馬車の車輪幅とは一致しない可能性があります」
「えっ、そうなの?」
「はい。正確な寸法を測らなければ断定できませんが、少なくとも同じ規格の車両が通っていたとは限りません」
ベルトも頷いた。
「昔の荷車は、今の旅馬車より小さいものが多かったからな。橋が残っているからって、どんな馬車でも通れるわけじゃない」
ルシルは橋を見つめ直した。
古い道が使えるかもしれないという期待は、少しずつ現実的な問題へ変わっていく。
しかし、それは失望ではなかった。
むしろ、何が問題なのかが具体的に分かることで、次に取るべき行動が見えてくる。
「じゃあ、ここを通るなら、まず馬車の幅を測って、それから橋の幅と比べないといけないんですね」
「その通りです」
シモンは頷いた。
ベルトは橋の入口に立ち、向こう側の道を眺めた。
「それと、もっと大きな問題があるかもしれんぞ」
ルシルは顔を上げた。
「大きな問題?」
「橋の向こうを見てみろ」
ベルトが指さした先には、草に覆われた道が続いていた。
しかし、その少し先で、道の一部が大きく崩れている。
斜面から流れた土が積もり、石の並びが途中で途切れていた。
「……あれは」
ルシルが息を呑むと、オルダは低い声で答えた。
「去年より崩れているな。雨の影響だろう」
ベルトは頷いた。
「ああ。あそこは馬車を通せる状態じゃない」
ルシルは崩れた場所を見つめた。
橋そのものは残っている。
しかし、その先の道が通れなければ、馬車を進めることはできない。
古い道を使って深い轍を避けるという考えは、少なくとも今のままでは実現できそうになかった。
◇
四人は橋を渡らず、手前の安全な場所から崩れた斜面を確認した。
ベルトは周囲の地形を見比べ、どこから土が流れ込んでいるのかを説明した。
「上の方に雨水が集まる場所があるんだろう。長い間手入れされていなかったせいで、少しずつ道が削られたんだ」
シモンは地図へ印を付けた。
「つまり、古い道をそのまま使うことは難しいということですね」
「そうだな。少なくとも、俺はガランを連れてここを通るつもりはない」
ベルトの言葉ははっきりしていた。
ルシルは頷いた。
「分かりました。無理に通るのはやめましょう」
その返事を聞いたベルトは、少しだけ表情を和らげた。
「そう言ってくれるなら助かる。馬車を動かしたい気持ちは分かるが、危ない道へ馬を入れるわけにはいかんからな」
ルシルは橋の向こうをもう一度見つめた。
期待していた道が使えないと分かったことは、残念ではある。
しかし、実際に確かめたからこそ、危険を避けられる。
それだけでも、今日ここまで来た意味はあった。
「じゃあ、今の街道を使う方法を考え直すしかないのかな」
ルシルが呟くと、シモンは少し考え込んだ。
「必ずしも、そうとは限りません」
「えっ?」
ルシルが顔を向けると、シモンは地図を広げ、古い道と現在の街道が近づく場所を指さした。
「ここを見てください。古い道は石橋を越えてハルミナへ向かっていますが、途中で現在の街道と接近する場所があります」
「うん。それがどうしたの?」
「古い道を最後まで使う必要はないのではありませんか」
ルシルは目を瞬かせた。
シモンは続けた。
「例えば、現在の街道で最も深い轍がある区間だけを避け、途中から別の道へ入ることができれば、危険な場所を通らずに済む可能性があります」
ベルトが顔を上げた。
「……なるほど。全部を通るんじゃなくて、一部だけ使うってことか」
「はい。ただし、実際に接続している道があるかどうかは、まだ分かりません」
オルダはしばらく地図を眺めたあと、何かを思い出したように声を上げた。
「待てよ。その辺りなら、昔の畑道があったはずだ」
ルシルは顔を上げた。
「畑道?」
「ああ。北の丘の麓から、今の街道へ抜ける細い道だ。今はほとんど使っていないが、昔は農具を運ぶ時に通っていた」
ベルトも少し考え込んだ。
「……ああ、あそこか。確かに道は残ってるはずだ。ただ、今も荷車が通れるかどうかは知らんぞ」
シモンは頷いた。
「それなら、帰り道に入口だけでも確認してみませんか。危険な場所へ無理に入る必要はありませんが、接続の有無を確かめる価値はあると思います」
ルシルは地図を見つめ、少しずつ考えがまとまっていくのを感じた。
古い道を全部使うことはできない。
しかし、使える部分だけを利用する方法なら、まだ可能性が残っている。
「うん。僕も見てみたい。でも、時間は大丈夫かな」
ベルトは空を見上げた。
「まだ昼前だ。入口を見るくらいなら間に合うだろう」
オルダも頷いた。
「それなら、戻りながら確かめよう」
四人は石橋をあとにし、来た道を引き返し始めた。
◇
畑道の入口は、北の丘から少し下った場所にあった。
現在の街道へ向かって緩やかに続くその道は、古い荷運び道ほど石が敷かれていないものの、地面は比較的固く、ところどころに車輪の跡が残っている。周囲には低い草が生えていたが、道そのものが完全に塞がれているわけではなかった。
ベルトは入口で足を止め、地面を確かめた。
「……ここなら、最近も誰かが通ってるな」
ルシルは周囲を見回した。
「そうなんですか?」
「ああ。草が踏まれているし、車輪の跡も新しい。たぶん、近くの畑へ行く荷車が使ってるんだろう」
シモンはしゃがみ込み、轍の幅を確認した。
「少なくとも、完全に放置された道ではないようですね」
オルダは少し先を指さした。
「この道を進めば、街道の低い場所を避けて、少し高いところへ出られるはずだ。ただし、途中に狭い曲がり角がある」
ルシルは頷いた。
「じゃあ、その曲がり角が問題になるかもしれないんですね」
「そういうことだ。馬車の長さによっては、曲がりきれないかもしれん」
ベルトは腕を組み、道の先を眺めた。
「だが、さっきの崩れた道よりは見込みがあるな」
ルシルは少しだけ胸が高鳴った。
最初に考えていた古い道は使えなかった。
しかし、その調査を通じて、別の道が見つかった。
しかも、こちらは最近も荷車が通っている可能性がある。
「シモン、これって、ちゃんと調べれば使えるかもしれないってことだよね」
「はい。ただし、まだ入口しか確認していません。曲がり角や道幅、地面の状態を調べる必要があります」
「うん。分かってる」
ルシルは頷いた。
今度こそ、期待だけで判断しないようにしよう。
そう考えながらも、自然と笑顔が浮かんでしまう。
ベルトはその様子を見て、少しだけ笑った。
「ずいぶん嬉しそうだな」
「はい。だって、使えない道を見つけたと思ったら、別の道が見つかったんですから」
「まあ、そういうこともある。道ってのは、一本だけじゃないからな」
ベルトはそう言い、ガランのことを思い出したように腕を組んだ。
「ただし、実際に馬車を動かすなら、俺も一緒に確認するぞ。ガランを危ない場所へ連れていくわけにはいかんからな」
「もちろんです。よろしくお願いします」
ルシルは深く頭を下げた。
◇
昼前、四人はベルトの農家へ戻った。
ガランは庭先でのんびりと干し草を食べており、ルシルたちが戻ってきたことに気づくと、少しだけ耳を動かした。ベルトは馬の首筋を撫でながら、今日の調査結果を整理した。
「まず、古い石橋の道は使わない。橋の向こうが崩れているからな」
シモンは帳面へ記録した。
「はい。あの経路は、現時点では馬車の通行候補から外します」
「それから、丘の麓の畑道は、もう少し詳しく調べる価値がある。ただし、曲がり角が狭いから、馬車の寸法を確認してからだ」
ルシルは頷いた。
「分かりました。馬車の幅と長さは、今日の午後にシモンと確認します」
「それがいい。俺も明日なら少し時間が取れるから、必要なら一緒に見に行こう」
ルシルは嬉しそうに顔を上げた。
「ありがとうございます!」
ベルトは少し照れたように笑った。
「礼を言うのは、ちゃんと道が使えると分かってからにしてくれ。まだ何も決まっちゃいないんだからな」
ルシルは頷いた。
確かに、まだ馬車を動かせると決まったわけではない。
それでも、今日の調査で分かったことは多かった。
古い石橋の道は、崩落のため使えない。
しかし、丘の麓には最近も利用されている可能性のある畑道が残っている。
そして、その道が現在の街道の危険な区間を避ける経路になるかもしれない。
ルシルは地図を畳み、鞄へしまった。
◇
野営地へ戻ると、モモが馬車の前で待っていた。
二人の姿を見つけた途端、彼女は嬉しそうに駆け寄ってきた。
「おかえり! どうだった? 古い道、見つかった?」
「うん。見つかったよ」
ルシルが答えると、モモの顔がぱっと明るくなった。
「本当!? じゃあ、馬車を動かせるの?」
「それがね、古い道は途中で崩れていて、使えないことが分かったんだ」
モモは一瞬だけ目を丸くした。
「ええっ!? じゃあ、駄目だったの?」
「でも、別の道が見つかったんだよ」
ルシルが続けると、モモは首を傾げた。
「別の道?」
「うん。丘の麓に、今も荷車が通っているかもしれない畑道があるんだ。まだ調べる必要はあるけど、深い轍を避けられる可能性があるんだって」
モモはしばらく考えたあと、嬉しそうに笑った。
「そっか! じゃあ、最初の道は駄目だったけど、別の道を見つけたんだね!」
「そういうこと」
ルシルが頷くと、モモは両手を握りしめた。
「すごい! なんだか宝探しみたい!」
シモンは苦笑しながら眼鏡を直した。
「宝探しというより、安全な経路の確認ですが……まあ、新しい選択肢が見つかったという意味では、似ているかもしれませんね」
「でしょう? だから、やっぱり宝探しだよ!」
モモは得意げに笑った。
ルシルもつられて笑いながら、馬車の横へ向かった。
ベルクは落ち着いた様子で休んでおり、トルクは相変わらず食べ物を探すように鼻先を動かしている。
ルシルは二頭の様子を確かめ、モモへ尋ねた。
「留守の間、何か変わったことはなかった?」
「うん。ベルク君はずっと落ち着いてたよ。ご飯も食べたし、水も飲んだ。ただ、右の後ろ脚はまだ痛そうだから、無理に動かしてない」
「ありがとう、モモ」
ルシルが礼を言うと、モモは嬉しそうに笑った。
「えへへ。任せてくれてありがとう!」
◇
昼食を終えたあと、シモンは馬車の寸法を確認するため、道具箱から巻尺を取り出した。
ルシルは馬車の前方へ回り、昨日修理した牽引部分の状態を確認した。金具の緩みは見られず、補強した木材にも新たな傷みはないようだったが、実際に荷重をかけて動かしたわけではないため、完全に安全だと判断することはできない。
「ルシル様、まずは車体の幅を測りましょう」
シモンが声をかけると、ルシルは頷いた。
「うん。僕はどこを持てばいい?」
「こちらの端を押さえていただけますか。車輪の外側から反対側まで、できるだけ正確に確認したいと思います」
ルシルは指示された位置へ移動し、巻尺の端を固定した。
シモンは反対側へ回り、車体の幅を確認する。
そのあと、馬車の長さと車輪の間隔も測り、帳面へ記録した。
「これで、畑道の幅と比較するための情報は揃いました」
シモンはそう言い、巻尺を片づけた。
ルシルは馬車を見上げた。
旅を始めてからずっと乗ってきた馬車だが、こうして寸法を測るのは初めてだった。
「なんだか、馬車のことを少しずつ知っていく感じがするね」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「ええ。普段は問題なく使えているものでも、いざ修理や移動の方法を考えるとなると、知らなかったことが多いものです」
「そうだね。僕、今まで馬車が動くのは当たり前だと思ってたけど、いろんな人の知識や仕事があって初めて動いてるんだって分かったよ」
シモンは少しだけ微笑んだ。
「そのことに気づかれたのは、よい経験だと思います」
ルシルは頷いた。
王宮にいた頃、馬車はいつも用意されていた。
乗る時間になれば扉が開き、目的地まで運んでもらえる。
しかし、その裏側には馬の世話をする人、車体を整備する人、道を管理する人がいたのだろう。
今になって、ようやくその一つ一つが見えてきた気がした。
◇
午後の作業が終わる頃、オルダが野営地へ立ち寄った。
手には小さな布包みを持っており、ルシルたちの姿を見つけると、少しだけ笑顔を浮かべた。
「おう、ちょうどよかった。リナの家から伝言を預かってきたぞ」
ルシルは顔を上げた。
「リナのことですか?」
「ああ。足首の腫れはまだ残っているが、家で休ませているそうだ。明日、町へ行く人に頼んで、先生へ相談する予定らしい」
ルシルは安堵した。
「そうですか。よかったです」
「それと、これを渡してほしいと言われた」
オルダは布包みを差し出した。
中には、小さな紙片が入っていた。
紙には、子どもらしい文字で短い言葉が書かれている。
『たすけてくれて、ありがとう。おにいちゃんとおねえちゃんへ。リナ』
ルシルは思わず目を細めた。
モモも隣から覗き込み、嬉しそうに声を上げた。
「わあ! リナちゃんからのお手紙だ!」
ルシルは紙片を丁寧に持ち、文字をもう一度読んだ。
たった一行の短い手紙だったが、そこには少女の気持ちが込められている。
「……嬉しいね」
ルシルが呟くと、モモは何度も頷いた。
「うん! すごく嬉しい!」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「大切に保管しておきましょう」
ルシルは頷き、紙片を鞄の内側へしまった。
そのあと、オルダへ今日の調査結果を改めて確認した。
古い石橋の道は崩れていて使えないこと。
丘の麓の畑道には、まだ利用できる可能性があること。
そして、明日ベルトと一緒に道幅や曲がり角を確認する予定であること。
オルダは満足そうに頷いた。
「それなら、少しずつ前へ進んでいるな」
ルシルは笑った。
「はい。まだ馬車は動かせませんけど、できることが増えてきました」
「それでいい。急いで失敗するより、確かめながら進む方がいいからな」
オルダはそう言い、農家へ戻っていった。
◇
夕方、ルシルは馬車の外で古い地図を広げていた。
今日確認した場所には、シモンが書き込んだ印が残っている。
石橋の先にある崩れた道。
丘の麓へ続く畑道。
現在の街道へ戻る可能性のある接続地点。
それぞれの場所が、昨日までよりもはっきりとした意味を持つようになっていた。
ルシルは地図の端に描かれた三つの鐘へ目を向けた。
今日、古い道標でも同じ印を見つけた。
少なくとも、この地域では昔の荷運び道を示す印として使われていたらしい。
しかし、それが自分の中に浮かぶ奇妙な記憶と関係しているかどうかは、まだ分からない。
(……三つの鐘。どうして、あの記憶にも同じものがあるんだろう)
ルシルは目を閉じた。
白い部屋。
黒い長方形。
見知らぬ景色。
そして、ガルド・ネイマンという名前。
断片的な光景は浮かぶものの、その先へ進もうとすると、いつも霧がかかったように曖昧になってしまう。
ルシルは小さく息を吐き、地図を畳んだ。
今は、無理に答えを出す必要はない。
確かなことを一つずつ積み重ねていけば、いつか何かが分かるかもしれない。
その時、背後からモモの声が聞こえてきた。
「ルシル君、何してるの?」
振り返ると、モモが旅帳面を抱えて立っていた。
「今日の地図を見てたんだ。古い道と新しい道がどうつながっているのか、ちょっと気になってね」
「そっか。ねえ、私も見ていい?」
「もちろん」
ルシルは地図を広げ、今日確認した場所を説明した。
モモは興味深そうに覗き込み、崩れた道の印を見て少しだけ眉を寄せた。
「ここは駄目だったんだよね」
「うん。でも、こっちの畑道はまだ可能性があるんだ」
ルシルが指さすと、モモは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、明日はそこを調べるんだね!」
「そうだね。ベルトさんにも来てもらう予定だよ」
モモは少し考えたあと、にっこり笑った。
「ねえ、ルシル君。私、今日の話を聞いて思ったんだけどさ」
「うん?」
「道って、一つじゃないんだね」
ルシルは目を瞬かせた。
モモは地図を見つめながら続けた。
「最初の道が駄目でも、別の道があるかもしれないでしょう? それって、旅だけじゃなくて、いろんなことにも言える気がするんだ」
ルシルはしばらく彼女を見つめたあと、ゆっくりと笑った。
「……うん。そうかもしれないね」
王位を継ぐことだけが、自分の人生ではなかった。
王宮を出て、モモとシモンに出会い、知らない場所を旅する道を選んだ。
その選択が正しかったかどうかを、誰かに証明する必要はない。
ただ、今こうして笑い合える時間があることを、ルシルは大切に思っていた。
「モモ、ありがとう」
ルシルが言うと、モモは不思議そうに首を傾げた。
「えっ、何が?」
「ううん。なんでもないよ」
「ええっ、気になる!」
モモは頬を膨らませたが、ルシルが笑うと、すぐにつられて笑い出した。
◇
夜、シモンは馬車の中で今日の調査結果を整理していた。
ルシルはその隣へ座り、明日の予定を確認する。
「シモン、明日は畑道の曲がり角を見に行くんだよね」
「はい。ベルトさんの都合がつけば、道幅と地面の状態を確認したいと思います」
「それで使えるって分かったら、次はどうするの?」
シモンは少し考えた。
「まず、馬車の重量と牽引方法を改めて確認します。ガランを借りる場合には、ベルトさんの付き添いと適切な馬具が必要ですし、ベルクの移動についてはエリサさんの判断を待たなければなりません」
ルシルは頷いた。
「うん。そこは変わらないね」
「ええ。ただし、今日の調査によって、少なくとも危険な経路を一つ除外できました。明日の確認で畑道が使えると分かれば、移動計画を具体的に立てられるようになります」
ルシルは少しだけ笑った。
「そっか。じゃあ、ちゃんと前に進んでるんだね」
シモンは穏やかに頷いた。
「はい。目に見える距離は進んでいなくても、判断できることは増えています」
ルシルはその言葉を聞き、静かに息を吐いた。
馬車はまだ、同じ草地に止まっている。
ベルクの脚も、すぐに治るわけではない。
それでも、今日の調査で分かったことは確かにあった。
古い道は、途中で崩れていて使えない。
しかし、その調査を通じて、別の畑道が見つかった。
そして、その道が使えるかどうかを確かめるための準備も整いつつある。
ルシルは地図を丁寧に畳み、鞄へしまった。
その時、馬車の外からモモの声が響いた。
「ルシル君! シモン君! ちょっと来て!」
二人は顔を見合わせ、すぐに外へ出た。
モモは雨よけの近くに立ち、何やら嬉しそうな顔をしている。
「どうしたの、モモ?」
ルシルが尋ねると、モモはベルクの方を指さした。
「見て! ベルク君、さっきより少し楽そうに立ってる気がするの!」
ルシルはすぐにベルクへ目を向けた。
濃灰色の馬は落ち着いた様子で立っており、右後ろ脚を地面へ置いている。ただし、それだけで痛みが軽くなったと判断することはできず、ルシルは無理に動かさず、しばらく様子を見守った。
「……確かに、今は落ち着いてるね」
シモンも頷いた。
「ただし、一時的な変化かもしれません。明日の朝も確認し、継続して状態を記録しましょう」
モモは真剣な表情で頷いた。
「うん。分かってる。でも、ちょっと嬉しくなっちゃったんだ」
ルシルは微笑んだ。
「僕も嬉しいよ。少しでも楽になってくれてたらいいね」
三人はしばらくベルクの様子を見守った。
トルクはそんな三人を不思議そうに眺めたあと、何かを期待するように鼻先を伸ばしてきた。
「……トルク君、今はおやつの時間じゃないよ」
モモが言うと、トルクは不満そうに鼻を鳴らした。
ルシルは思わず笑い、シモンも小さく肩をすくめた。
馬車が動き出す日は、まだ決まっていない。
けれど、今日見つけた畑道は、確かに新しい可能性を示していた。
ルシルは北の丘がある方角へ目を向けた。
明日、あの道の先を確かめれば、今までとは違う答えが見つかるかもしれない。
その期待を胸に、ルシルは仲間たちとともに、明日の準備を進めることにした。




