第176話「雨上がりの迷子と、三つの鐘が描かれた古い道標」
旅に出てから三十九日目の朝、ルシルは馬車の窓から差し込む光に目を覚ました。
昨日の夕方に降った雨は夜半にはすっかり上がり、窓の向こうでは、濡れた草の葉が朝日を受けて銀色に輝いている。野営地の端に設けた雨よけも大きく崩れた様子はなく、布の低い側から落ちた水は、ベルクが休んでいる場所とは反対方向の浅い窪みに集まっていた。
ルシルは寝台から身体を起こすと、隣で畳まれている自分の外套を手に取った。外套の袖には、昨日オルダの農家で木箱を運んだ際についた小さな擦れ跡が残っており、それを見つけたルシルは、思わず口元を緩めた。
(王宮にいた頃だったら、こんな汚れがついたらすぐに着替えさせられていただろうな。でも、今は自分で洗えばいいだけだし、これも旅の思い出になるね)
外へ出ると、モモがトルクの水桶を確認しているところだった。
桃金色の髪を後ろで緩くまとめた彼女は、白い外套の裾が濡れないように持ち上げながら、栗毛の馬へ何やら真剣な顔で話しかけている。
「だからね、トルク君。私の朝ご飯と君の朝ご飯は別なの。昨日も説明したでしょう?」
トルクは彼女の言葉を理解しているのかいないのか、耳を動かしながら鼻先を伸ばした。
「そんなにかわいい顔をしても駄目! 干した果物は私たちの分なんだから!」
「おはよう、モモ。朝から交渉しているの?」
ルシルが声をかけると、モモは勢いよく振り返った。
「ルシル君、おはよう! 聞いてよ、トルク君ったら、私が果物を持ってるって分かった途端に、ずっとこっちを見てくるんだよ!」
「それは、モモが果物を持ったまま話しかけているからじゃないかな」
「……あっ」
モモは自分の手元を見下ろした。
そこには、朝食用に取り分けた乾燥果物が一切れ握られている。
「なるほど。私が悪かったんだね」
「悪いというほどじゃないけど、トルクには期待させちゃったかもしれないね」
ルシルが笑うと、モモもつられて笑い出した。
そんな二人のやり取りを聞きつけたのか、馬車の反対側からシモンが姿を現した。眼鏡の位置を直しながら近づいてきた彼は、二頭の様子を確認すると、いつもの落ち着いた声で朝の挨拶をした。
「おはようございます、ルシル様、モモ嬢。ベルクの状態を確認しましたが、昨夜から急激に悪化した様子は見られません。ただし、右後ろ脚への負担を避ける立ち方は続いています」
「そっか。よくなっているかどうかは、まだ分からないんだね」
「はい。エリサさんからも、短期間で回復を判断しないようにと言われています。今日も無理に歩かせず、状態を記録しておきましょう」
ルシルは頷き、少し離れた場所にいるベルクへ視線を向けた。
濃灰色の馬は落ち着いて餌を食べているものの、右後ろ脚を地面へ置く位置には慎重さが残っている。昨日整えた雨よけは弱い雨を防ぐ役には立ったが、長く使える設備ではないため、今後の天候次第では別の対応が必要になるだろう。
それでも、今朝のルシルには、馬車の修理や移動のことばかり考えるつもりはなかった。
ベルクを休ませることは大切だ。
しかし、自分たちまで何もせず、ただ時間が過ぎるのを待つ必要はない。
「シモン、朝ご飯が終わったら、少し周りを歩いてみてもいいかな」
ルシルが尋ねると、シモンは顔を向けた。
「どちらへ行かれるおつもりですか」
「遠くへ行くつもりはないよ。昨日、オルダさんの農家から戻る時に、畑の向こうへ続く細い道が見えたんだ。あの辺りがどうなっているのか、ちょっと気になって」
シモンは少し考えたあと、頷いた。
「周辺の道を把握しておくことは、今後の移動にも役立つでしょう。ただし、ベルクとトルクを残して全員で出かけるわけにはいきませんから、私がここに残ります」
「じゃあ、私もルシル君と行きたい!」
モモがすぐに手を挙げた。
シモンは彼女を見て、少しだけ眉を上げる。
「モモ嬢、道の状態によっては、泥で外套が汚れるかもしれませんよ」
「大丈夫! 昨日も汚れたし、もう慣れたもん!」
「慣れることと、気をつけなくてよいことは別ですよ」
「分かってるってば!」
モモは頬を膨らませたが、その目は楽しそうに輝いていた。
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、久しぶりに胸が弾むのを感じていた。
大きな町を目指すわけでも、珍しい遺跡を探すわけでもない。
それでも、知らない道の先へ行ってみるというだけで、旅を始めた頃の気持ちが少し戻ってくる。
◇
朝食を終えたルシルとモモは、水筒と簡単な携帯食を持ち、畑の外側を通る小道へ向かった。
シモンには行き先と戻る目安を伝えてあり、昼までに帰らなければ、まずオルダの農家へ連絡を取ることになっている。道はまだ湿っていたが、畑の脇には人が通った跡が残っており、少なくとも農家の人々が日常的に利用している場所らしかった。
「ねえ、ルシル君。こうして二人で歩くの、なんだか久しぶりだね」
モモは足元の小さな水溜まりを避けながら、楽しそうに話しかけてきた。
「そうだね。最近は馬車のことばかりだったから、散歩する余裕もなかったもんね」
「うん。もちろんベルク君のことは心配だけど、ずっと難しい顔をしてると、私まで難しい顔になっちゃうんだよ」
モモはそう言うと、わざと眉間へ皺を寄せ、シモンのように背筋を伸ばした。
「ルシル様、こちらの道は安全確認が必要です。なお、モモ嬢のおやつについては、厳格な管理が求められます」
妙に真面目な口調で言われ、ルシルは思わず吹き出した。
「似てる! でも、シモンはそんなにおやつのことばかり言わないよ」
「ええっ、結構言ってると思うけどなあ」
「それはモモが、おやつの話をたくさんするからじゃない?」
モモはしばらく考えたあと、納得したように頷いた。
「……確かに、それは否定できないかも」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
畑の向こうには低い丘があり、その斜面には細い木々がまばらに生えている。街道沿いの深い轍とは違い、こちらの小道は土が比較的固く、ところどころに平たい石が埋め込まれていた。
ルシルはその石の並びに気づき、足を止めた。
「モモ、ちょっと見て。ここだけ、道の作り方が違うみたいだよ」
モモはしゃがみ込み、地面を覗き込んだ。
「本当だ。石が並んでるね。誰かが置いたのかな?」
「たぶんね。しかも、ずいぶん古そうだ」
ルシルは石の表面に残る摩耗を見つめた。
いくつもの石が同じ幅で並び、土の中へ半分ほど埋まっている。自然に転がってきた石とは考えにくく、かつて人や荷車が通るために整えられた道の一部なのかもしれない。
「昔の道だったりするのかな」
「昔の道?」
「うん。今の街道ができる前に、別の場所を通っていた道があってもおかしくないでしょう?」
ルシルが説明すると、モモは興味深そうに目を輝かせた。
「じゃあ、昔の旅人もここを歩いたかもしれないんだ!」
「そうかもしれないね。ただ、まだ分からないから、勝手に決めつけないようにしないと」
「えへへ。ルシル君、こういうの見つけると嬉しそうだよね」
モモに指摘され、ルシルは少し照れたように笑った。
「だって、知らないことが分かるのって楽しいから」
その時だった。
木立の向こうから、かすかな声が聞こえてきた。
「……だれか、いませんか……?」
ルシルは顔を上げた。
モモも笑顔を消し、声がした方向へ耳を澄ませる。
「今、誰か呼んだよね」
「うん。子どもの声みたいだった」
二人は小道の先へ目を向けた。
木立はそれほど深くないものの、雨で濡れた草が膝の高さまで伸びており、道から少し外れると足元が見えにくい。声はその奥から聞こえているようだった。
「だれか……!」
今度は、先ほどよりはっきりと聞こえた。
ルシルはモモへ顔を向けた。
「行ってみよう。でも、足元には気をつけて」
「うん!」
二人は声のする方へ向かい、木々の間を慎重に進んだ。
◇
木立の奥には、雨水が流れた跡のある浅い窪地が広がっていた。
斜面の途中には倒れた枝がいくつも絡まり、その向こうに、小さな人影が見える。茶色い髪を二つに結んだ少女が、木の根元に腰を下ろし、膝を抱えていた。
年齢は十歳前後だろうか。
粗末ではないが使い込まれた服を着ており、片方の靴には泥が厚く付いている。足元には小さな籠が転がり、中に入っていたらしい野草が周囲へ散らばっていた。
「大丈夫?」
ルシルが声をかけると、少女はびくりと肩を震わせた。
しかし、二人の姿を確かめると、泣きそうな顔で口を開いた。
「……お兄ちゃんたち、道を知ってる?」
「うん。僕たちは畑の方から来たんだ。君は、どうしてここにいるの?」
ルシルは少女を驚かせないよう、少し離れた場所でしゃがんだ。
モモも隣に腰を落とし、穏やかな声で話しかける。
「どこか痛いところはない? 立てそう?」
少女は首を横に振り、それから自分の左足首を見つめた。
「石のところで滑っちゃって……。立てるけど、歩くと痛いの」
ルシルは少女の足元へ目を向けた。
靴の周囲には泥が付いていたが、外から見える範囲では大きな出血はない。ただし、足首を痛めている可能性があり、無理に歩かせるべきではなさそうだった。
「分かった。じゃあ、今は無理に立たなくていいよ。僕はルシル、こっちはモモ。君の名前を教えてくれる?」
「……リナ」
「リナだね。よろしく。どこから来たのか、分かるかな?」
少女は涙を拭いながら頷いた。
「東の畑の……赤い屋根のおうち。お母さんに、裏の畑から薬草を取ってきてって頼まれたの」
ルシルは少し考えた。
この辺りには農家が点在しているが、赤い屋根の家については知らない。オルダに聞けば分かるかもしれないが、今は少女の安全を確保することが先だった。
「そっか。じゃあ、まずは家の人へ知らせないとね」
ルシルが言うと、リナは慌てて顔を上げた。
「でも、怒られる……。道から外れちゃ駄目って言われてたのに、籠が転がって……」
少女の声が震え、再び涙がこぼれ始めた。
モモは彼女の隣へ移動し、目線を合わせた。
「リナちゃん、怖かったね。でも、今は怒られることより、ちゃんと帰ることの方が大事だよ」
「……うん」
「お母さんも、きっと心配してると思う。だから、私たちと一緒に、どうやって帰るか考えよう?」
モモが優しく話しかけると、リナは小さく頷いた。
ルシルは周囲の地形を確認した。
小道からここまでは緩い下り坂になっているが、雨で土が滑りやすくなっている。少女を背負って戻ることも考えられるものの、足元の悪い斜面で転倒すれば、さらに危険な状況になりかねない。
(僕たちだけで無理に運ぶより、まず助けを呼んだ方がいい。シモンなら周囲の地形を確かめられるし、オルダさんなら近くの農家も知っているはずだ)
ルシルはモモへ顔を向けた。
「モモ、お願いがあるんだ。僕はここでリナと一緒に待つから、さっきの小道を戻って、オルダさんに知らせてきてくれる?」
モモは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かった。ルシル君たちは、ここから動かないんだね」
「うん。もしオルダさんがいなかったら、野営地のシモンへ知らせて。道が滑りやすいから、急ぎすぎないでね」
「任せて!」
モモはリナへ笑いかけた。
「リナちゃん、すぐに大人の人を呼んでくるからね。ルシル君が一緒にいてくれるから、安心して待ってて」
リナは小さく頷いた。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
その言葉を聞いたモモは、ぱっと表情を明るくした。
「お姉ちゃん! うん、任せて!」
彼女は勢いよく立ち上がりかけたが、すぐに足元を確認し、慎重に斜面を登っていった。
ルシルはその後ろ姿を見送り、リナのそばへ腰を下ろした。
◇
モモが去ったあと、木立には風が葉を揺らす音だけが残った。
リナはまだ不安そうに膝を抱えていたが、ルシルが水筒を差し出すと、遠慮がちに受け取った。水を少し飲んだことで落ち着いたのか、少女は先ほどよりもはっきりした声で話し始めた。
「お兄ちゃんたち、旅の人なの?」
「うん。今は少し離れた街道で休んでいるんだ。馬が脚を痛めちゃってね」
「お馬さん、かわいそう……」
「そうだね。でも、先生にも診てもらっているし、僕たちもできるだけ休ませているよ」
ルシルは少女の様子を確かめながら、ゆっくりと話を続けた。
「リナは、よくこの辺りへ来るの?」
「ううん。いつもはお母さんと一緒。今日は、すぐそこだから一人でも大丈夫って言われたんだけど……」
リナは自分の籠へ目を向けた。
籠は斜面の下へ転がり、取っ手の片側が折れている。周囲に散らばった野草の中には、踏まれて傷んでしまったものもあった。
「籠を落としたの?」
「うん。石のところで滑って、籠が転がっちゃったの。拾おうとしたら、もっと下まで来ちゃって……」
ルシルは頷いた。
小道から離れてしまった理由は分かったが、リナがどの程度歩けるのかはまだ分からない。足首の痛みについても、専門家に診てもらえるならその方がよいだろう。
「籠はあとで拾えるかもしれないけど、今はリナの足の方が大事だね」
「……でも、お母さんに頼まれたのに」
少女は俯き、唇を噛んだ。
ルシルは少し考えたあと、静かに口を開いた。
「僕もね、誰かに頼まれたことをちゃんとできなかったら、がっかりさせちゃうんじゃないかって思うことがあるよ」
リナが顔を上げた。
「お兄ちゃんも?」
「うん。でも、失敗したことを隠して、もっと大変なことになる方が困るでしょう? だから、今は助けてもらおうと思うんだ」
少女はしばらく考え込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「……うん」
ルシルは安心したように微笑んだ。
その時、リナの足元に落ちていた小さな石が目に入った。
灰色の石は半分ほど土に埋まっており、表面には人工的な線が刻まれている。周囲の石とは明らかに違う形をしていたため、ルシルは少女から離れない範囲で身を乗り出し、その模様を確かめた。
石の表面には、円を三つ重ねたような図柄が残っていた。
ただし、風化が進んでいるため、何を表しているのかまでは分からない。
「……変わった石だね」
ルシルが呟くと、リナは少しだけ顔を向けた。
「それ、鐘の石だよ」
ルシルの指先が止まった。
「鐘の石?」
「うん。おじいちゃんが、昔の道には鐘の絵があるって言ってた」
少女は石を見つめながら、少しだけ首を傾げた。
「でも、何の鐘かは知らない。おじいちゃんも、昔の人が使ってた道だって言ってただけだから」
ルシルはもう一度、石の模様を確かめた。
円のように見えた三つの形は、よく見ると下の部分が少し広がっており、確かに小さな鐘を並べたようにも見える。
その瞬間、胸の奥で、何かがかすかに揺れた。
白い壁。
黒い長方形。
遠くから響く、三つの鐘の音。
そして、思い出そうとすると途切れてしまう、ガルド・ネイマンという名前。
(……三つの鐘? どうして、こんな場所で……)
ルシルは息を詰めた。
以前から断片的に浮かぶ不思議な記憶と、目の前の石に刻まれた模様が関係しているのかどうかは分からない。単に似た図柄を見ただけなのかもしれず、今ここで結論を出せる材料は何もなかった。
「お兄ちゃん?」
リナの声に、ルシルは我に返った。
「あっ、ごめんね。ちょっと珍しい模様だったから、気になっちゃって」
「お兄ちゃん、石が好きなの?」
「石そのものというより、昔のものが好きなんだ。どうしてここにあるのか考えると、面白いでしょう?」
ルシルが笑うと、リナも少しだけ表情を和らげた。
「おじいちゃんも、昔の道の話が好きだよ」
「そうなんだ。いつか、お話を聞いてみたいな」
そう答えながらも、ルシルは石の模様から目を離せなかった。
しかし、今はそれを詳しく調べる時ではない。
リナを安全に家へ帰すことが、何より先だった。
◇
一方、モモは小道を戻りながら、何度も後ろを振り返りたい気持ちを抑えていた。
リナが泣きそうな顔で座っている姿を思い出すと、今すぐ駆け出したくなる。しかし、雨上がりの斜面で自分まで転んでしまえば、助けを呼ぶのが遅れてしまう。
(急ぎたいけど、転んじゃ駄目。ルシル君が言ってたとおり、ちゃんと足元を見ないとね)
モモは水溜まりを避け、石の並ぶ小道へ戻った。
畑の端まで来たところで、向こうから農具を持った男性が歩いてくるのが見えた。見覚えのある顔だったため、モモは手を振りながら声をかけた。
「オルダさん!」
年配の農夫は足を止め、少し驚いたように顔を上げた。
「おや、モモじゃないか。どうした、そんなに急いで」
「大変なの! 木立の奥で女の子が足を痛めて動けなくなってるの。名前はリナちゃんで、東の畑の赤い屋根のおうちに住んでるって!」
オルダの表情が変わった。
「リナだと? もしかして、茶色い髪を二つに結んだ子か?」
「うん! 知ってるの?」
「ああ。東の畑に住んでいる娘さんの子だ。今朝、母親が探していたと聞いたばかりだぞ」
モモは目を見開いた。
「じゃあ、早く知らせないと!」
「そうだな。だが、まず場所を教えてくれ。歩けないなら、運ぶ手段も考えなきゃならん」
オルダは農具を道の脇へ置き、モモから詳しい場所を聞いた。
木立の入口からどの方向へ進んだのか。
斜面はどのくらい急なのか。
リナは自分で立てるのか。
モモは見たことを順番に説明し、分からないことについては無理に答えなかった。
「なるほど。あそこなら、畑の裏手から回った方が近いかもしれん」
オルダは少し考えたあと、モモへ顔を向けた。
「わしはリナの家へ知らせて、母親と一緒に向かう。モモは野営地へ戻って、シモンに事情を伝えてくれるか?」
「分かった!」
「それと、ルシルには無理に動かさないよう伝えてくれたんだな?」
「うん。ルシル君が一緒に待ってるよ」
「それなら安心だ。急いで向かおう」
オルダは畑の向こうへ歩き出し、モモも野営地へ向かって足を速めた。
◇
ルシルとリナが木立で待ち始めてから、しばらく時間が経っていた。
少女は最初より落ち着きを取り戻していたが、足首の痛みは変わらないらしく、身体を動かそうとするたびに眉を寄せている。ルシルは無理に立たせず、水を少しずつ飲ませながら、家族や畑の話を聞いていた。
「リナのおじいちゃんは、昔の道のことをよく知っているんだね」
「うん。おじいちゃん、若い頃は荷物を運ぶ仕事をしてたんだって」
「荷物を運ぶ仕事?」
「そう。町と村の間を、馬車で行ったり来たりしてたって。今は足が悪いから、あんまり遠くへ行かないけど」
ルシルは興味を引かれた。
古い街道の話を知っているだけでなく、実際に荷車で各地を回っていた人物なら、今の地図には載っていない道についても何か知っているかもしれない。
「それなら、いろいろな場所を見てきたんだろうね」
「うん。お話は長いけど、面白いよ」
リナは少しだけ笑った。
「でも、お母さんは、同じ話を何回もするって言うの」
「それは、きっと大切な思い出なんだろうね」
ルシルが答えると、リナは不思議そうに首を傾げた。
「大切だから、何回も話すの?」
「そういうこともあると思うよ。僕だって、楽しかった旅のことなら、何度も話したくなるかもしれない」
少女は少し考えたあと、頷いた。
「じゃあ、おじいちゃんのお話、ちゃんと聞いてあげようかな」
ルシルは微笑んだ。
その時、木立の向こうから人の声が聞こえてきた。
「リナ! リナ、どこにいるの!」
少女は勢いよく顔を上げた。
「お母さん!」
立ち上がろうとしたリナが痛みに顔を歪めたため、ルシルはすぐに声をかけた。
「リナ、ここで待っていよう。お母さんが来てくれるから」
少女は唇を噛みながら頷き、木立の向こうへ声を張り上げた。
「お母さん! ここ!」
ほどなくして、オルダと一人の女性が姿を現した。
女性は三十代ほどで、茶色い髪を後ろでまとめ、農作業用の前掛けを身につけている。娘の姿を見つけた途端、彼女は足元に気をつけながら斜面を下り、リナの前へ膝をついた。
「リナ! よかった……本当によかった!」
女性は娘を抱きしめたが、すぐに足を痛めていることを思い出したのか、身体を離して様子を確かめた。
「どこが痛いの? 歩けないの?」
「左の足……。ごめんなさい、お母さん。籠を落としちゃって……」
リナの目から涙がこぼれた。
母親は娘の頬へ手を添え、首を横に振った。
「籠なんてどうでもいいの。あなたが帰ってこないから、どれだけ心配したと思っているの」
「……ごめんなさい」
「無事でいてくれてよかった。それだけで十分よ」
女性はもう一度娘を抱きしめた。
ルシルは少し離れた場所でその様子を見守り、胸の奥に温かなものが広がるのを感じていた。
やがて女性はルシルへ顔を向け、深く頭を下げた。
「娘を見つけてくださって、ありがとうございます。私はリナの母のサーラと申します」
「ルシルです。偶然声が聞こえただけですから、そんなに気にしないでください」
「いいえ。もし誰にも見つけてもらえなかったらと思うと……」
サーラは言葉を詰まらせた。
オルダは彼女の肩へ手を置き、落ち着いた声で言った。
「まずはリナを家へ連れて帰ろう。話はそのあとだ」
ルシルも頷いた。
「そうですね。足を痛めているみたいなので、無理に歩かせない方がいいと思います」
オルダはリナの様子を確認したあと、サーラと相談した。
幸い、畑の裏手には比較的平らな道があり、そこまでなら大人二人で慎重に支えながら移動できそうだった。ただし、足首の状態は分からないため、家へ戻ったら詳しく確認してもらう必要がある。
「わしが背負おう。サーラは足元を見てくれ」
オルダが申し出ると、ルシルはすぐに口を開いた。
「僕も手伝います。道の先を確認して、危ない場所があれば知らせますね」
「助かる。じゃあ、頼むぞ」
ルシルは頷き、先に斜面の状態を確かめた。
木の根が露出している場所や滑りやすい石を避け、足を置ける場所を一つずつ確認していく。オルダはリナを背負い、サーラが隣で支えながら、ゆっくりと斜面を登った。
時間はかかったが、誰も転ぶことなく小道へ戻ることができた。
◇
東の畑にある赤い屋根の家は、木立から少し離れた場所に建っていた。
家の前には小さな菜園があり、干した薬草の束が軒下に吊るされている。サーラが扉を開けると、室内から白髪交じりの老人が杖をついて現れた。
「リナ!」
老人は孫の姿を見つけると、驚いたように目を見開いた。
「どこへ行っておったんだ。みんなで探していたんだぞ」
「おじいちゃん……ごめんなさい」
リナはオルダの背中から降ろしてもらうと、椅子へ座らせられた。
サーラは娘の靴を慎重に脱がせ、足首の状態を確認し始める。老人も心配そうに近づいたが、オルダから事情を聞くと、まずはルシルへ深く頭を下げた。
「孫を助けてくださったそうで、本当にありがとうございます」
「いえ。僕たちも、たまたま近くを歩いていただけです」
ルシルが答えると、老人は少しだけ目を細めた。
「それでも、あの木立で迷った子どもを見つけるのは簡単ではありません。昔から、雨のあとは足元が悪くなる場所ですからな」
ルシルは頷いた。
「確かに、石が滑りやすくなっていました。リナも、籠を拾おうとして道から外れたみたいです」
老人は深く息を吐き、孫へ目を向けた。
「無事でよかった。今度から、あの道へ一人で行ってはいかんぞ」
「……うん」
リナは小さく頷いた。
サーラは娘の足首を見ながら、少しだけ眉を寄せていた。
「腫れが出てきているわ。今日は歩かせない方がよさそうね」
オルダも頷いた。
「町の先生に診てもらえるなら、その方がいい。無理に動かさず、様子を見て判断しよう」
サーラは頷き、リナの足を楽な位置へ置いた。
ルシルはその様子を見て、少しだけ安心した。
リナは家へ戻れた。
母親と祖父も、無事を確かめることができた。
足の状態についてはまだ分からないことがあるが、少なくとも木立の中で一人きりになっている状況は解消された。
その時、老人がルシルへ声をかけた。
「ところで、あなたは旅人だそうですな」
「はい。仲間と一緒に旅をしています」
「ほう。どちらへ向かわれる途中で?」
「今はハルミナへ戻ろうとしているところです。ただ、馬が脚を痛めてしまって、街道沿いで休んでいるんです」
老人の表情が変わった。
「馬が脚を?」
「はい。獣医のエリサさんにも診てもらっているんですが、まだ無理に歩かせない方がいいと言われています」
老人はしばらく考え込んだあと、オルダへ顔を向けた。
「もしかして、街道で止まっている二頭立ての馬車というのは、この方たちのものか?」
「ああ。わしも何度か手伝っているんだ」
オルダが答えると、老人はゆっくりと頷いた。
「なるほど。それなら、少し役に立てる話があるかもしれませんな」
ルシルは顔を上げた。
「どんなお話ですか?」
老人は杖を手に取り、壁際の棚へ向かった。
「わしは若い頃、この辺りで荷運びをしておりましてな。今の街道が整備される前から、いくつもの道を通っておりました」
老人は棚の引き出しを開け、古い布包みを取り出した。
布の中には、黄ばんだ紙が何枚か重ねられている。
「今の道は荷車が通りやすくなりましたが、雨が降ると低い場所に水が集まるでしょう。昔は、もう少し高いところを通る道も使われていたんです」
ルシルは思わず身を乗り出した。
「それって、畑の向こうに石が並んでいた道のことですか?」
老人は驚いたように顔を上げた。
「おや、よくご存じですな」
「今朝、歩いている時に見つけたんです。古い石が並んでいて、昔の道だったのかなと思って」
老人は嬉しそうに笑った。
「その通りです。あれは古い荷運び道の一部ですよ」
ルシルの胸が高鳴った。
偶然見つけた石の並びが、実際に昔の道だったと分かった。
それだけでも十分嬉しかったが、老人はさらに興味深い話を続けた。
「ただし、今も荷車が通れるとは限りません。長い間使われていない場所もありますし、木が倒れているところもあるでしょう」
「そうですよね。昔の道だからといって、今も安全とは限らないですもんね」
ルシルが答えると、老人は満足そうに頷いた。
「その通り。ですが、道の位置を知っていれば、今の街道を直す時にも役立つことがあります」
老人は古い紙を一枚広げた。
そこには、手描きの地図が残されていた。
◇
地図には、ハルミナへ続く街道と周辺の畑、低い丘、木立の位置が描かれていた。
現在使われている道とは別に、丘の縁を通る細い線があり、いくつかの場所には小さな印が付けられている。老人はその一つを指さし、昔の荷運び道について説明した。
「ここが、あなたたちの馬車が止まっている辺りでしょう。今の街道はこの低地を通りますが、昔の道は少し北へ回っていたんです」
ルシルは地図を見つめた。
今まで、馬車を動かすなら深い轍のある街道を通るしかないと思っていた。しかし、別の道が存在したのであれば、移動方法を考える際の選択肢が増えるかもしれない。
「この道は、今も使えるんでしょうか」
老人は首を横に振った。
「そこまでは分かりません。わしが最後に通ったのも、もう何年も前のことですからな」
ルシルは頷いた。
「そうですよね。確認しないまま馬車を通すわけにはいきませんね」
「ええ。ただ、北側の丘の下にある石橋は、昔から丈夫な造りでした。橋そのものが残っているなら、周辺を調べる価値はあるでしょう」
老人は地図の一角を指さした。
そこには、小さな橋の印が描かれている。
ルシルは位置を覚えようとしたが、すぐに考え直した。
「もしよければ、この地図の内容を写させてもらえませんか? 仲間にも見せたいんです」
老人は少し驚いたように目を瞬かせたあと、笑った。
「もちろん構いませんよ。古いものですから、破れないように気をつけてください」
「ありがとうございます!」
ルシルは鞄から紙と筆記具を取り出した。
地図の線を一つずつ確認し、街道と丘、石橋の位置を書き写していく。細かな地名や道幅については老人へ尋ね、現在も確かめられている場所と、昔の記憶に基づく場所を区別して記録した。
その途中で、ルシルの目が地図の端に止まった。
三つの小さな鐘が、横に並んで描かれていた。
木立で見つけた石と同じような図柄だった。
「……この印は、何ですか?」
ルシルが尋ねると、老人は地図へ顔を近づけた。
「ああ、それですか。昔の道標に刻まれていた印ですな」
「道標……?」
「ええ。旅人が道を間違えないように、石へ印を刻んでいたんです。三つの鐘の印があるところは、古い荷運び道の分かれ道だったと聞いています」
ルシルは静かに息を吸った。
木立で見つけた石の模様と、地図に描かれた三つの鐘。
偶然似た図柄だったわけではなく、少なくともこの地域では、昔の道を示す印として使われていたらしい。
「その印には、何か特別な意味があったんでしょうか」
老人は少し考え込んだ。
「さあ……。わしが若い頃には、もう古い印でしたからな。道の名前に関係しているという話も聞きましたが、詳しいことは分かりません」
「そうなんですね」
ルシルは頷き、地図の端へ三つの鐘を書き写した。
老人はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「あなたは、古い道にずいぶん興味があるようですな」
「はい。歴史や昔の人の暮らしを知るのが好きなんです」
「それはよいことです。昔の道を知ると、今の道がどうしてそこにあるのかも分かることがありますからな」
ルシルは嬉しそうに頷いた。
しかし、胸の奥には別の感情も残っていた。
三つの鐘。
白い部屋。
黒い長方形。
ガルド・ネイマンという名前。
それらが一つの意味へつながるのかどうかは、まだ分からない。
(今は、道標の印だと分かっただけ。でも、もし僕が思い出しかけているものと関係があるなら、いつか確かめてみたいな)
ルシルはその考えを胸の内へ留め、地図を書き写す作業を続けた。
◇
地図を書き終える頃、家の外から聞き慣れた声がした。
「ルシル君!」
振り返ると、モモとシモンが入口に立っていた。
モモはリナの姿を見つけると、ほっとしたように笑顔を浮かべた。
「リナちゃん! ちゃんとおうちに帰れたんだね!」
「お姉ちゃん!」
リナは椅子に座ったまま嬉しそうに手を振った。
シモンは室内へ入る前にサーラへ挨拶し、ルシルの無事を確かめた。
「ルシル様、お怪我はありませんか」
「うん、大丈夫だよ。リナも家へ戻れたし、今はお母さんが足を見てくれているんだ」
ルシルが説明すると、シモンは安堵したように息を吐いた。
「それは何よりです。モモ嬢から事情を聞き、オルダさんの案内でこちらへ参りました」
サーラは二人にも礼を述べ、リナを見つけてもらった経緯を改めて確認した。
モモは木立での出来事を説明しながら、少女が一人で待っていたことを思い出したのか、少しだけ表情を曇らせた。しかし、リナが無事に家へ戻っている姿を見ると、安心したように笑った。
「本当によかった。私、リナちゃんが泣いてるのを見た時、どうしたらいいか分からなくなりそうだったんだ」
モモが言うと、リナは小さく首を横に振った。
「お姉ちゃん、すぐに助けを呼んでくれたよ」
「うん。でも、もっと早く戻ってこられたらよかったなって」
その言葉を聞いたシモンは、穏やかな声で答えた。
「モモ嬢は、必要な情報を正確に伝えてくださいました。慌てて道を間違えたり、転倒したりせずに助けを呼べたことは、とても大切です」
モモは少し驚いたように顔を上げた。
「……そうかな?」
「はい。おかげで、オルダさんも迷わず現場へ向かえたのでしょう」
モモはしばらくシモンを見つめたあと、嬉しそうに笑った。
「えへへ。じゃあ、ちゃんと役に立てたんだね!」
ルシルも頷いた。
「もちろん。モモが助けを呼んでくれなかったら、僕一人ではリナを安全に帰せなかったと思うよ」
モモは照れたように頬をかいた。
その様子を見て、リナも笑った。
サーラは三人へ温かい飲み物を用意しようとしたが、ルシルは長居を避けるため、丁寧に断った。リナの足の状態を確認する必要もあり、家族が落ち着いて過ごせる時間を邪魔したくなかったからだ。
ただし、出発する前に、ルシルは老人から写させてもらった地図についてシモンへ説明した。
「シモン、実は昔の荷運び道があったことを教えてもらったんだ。今の街道とは別に、丘の縁を通る道があったみたいでね」
シモンは地図を受け取り、慎重に目を通した。
「なるほど。現在の道とは異なる経路ですね。ただ、通行できるかどうかは確認が必要です」
「うん。だから、今すぐ馬車を動かそうとは思ってないよ。でも、ベルトさんにも見てもらえたら、何か分かるかもしれない」
シモンは頷いた。
「それは有益な情報です。特に、深い轍を避けられる経路があるなら、ガランへ負担をかけずに移動できる可能性があります」
ルシルは少しだけ嬉しくなった。
ただの散歩のつもりで出かけた先で、迷子の少女を助けることになった。
そして、その少女の家で、今まで知らなかった古い道の存在を知った。
旅先の出来事は、何が次につながるか分からない。
その予想できなさが、ルシルにはたまらなく面白かった。
◇
野営地へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
トルクは三人の姿を見つけると耳を立て、いつものように餌を期待する顔で近づいてきた。ベルクも落ち着いた様子で立っており、出発前と比べて目立った変化は見られなかった。
シモンはまず二頭の状態を確認し、留守の間に問題が起きていないことを確かめた。
ルシルは馬車のそばへ腰を下ろし、写してきた地図を広げた。
モモは隣から覗き込み、興味深そうに指を動かした。
「ねえ、ルシル君。この線が昔の道なんだよね?」
「うん。おじいさんの話では、丘の縁を通っていたらしいよ」
「じゃあ、今の街道より高いところにあるんだ」
「そうみたい。ただ、今も通れるかどうかは分からないから、確かめないとね」
モモは頷いたあと、地図の端に描かれた三つの鐘へ目を向けた。
「これ、何の絵?」
ルシルは一瞬だけ言葉を選んだ。
自分の中に浮かぶ不思議な記憶については、まだモモにもシモンにも話していない。確かなことが分からない以上、今ここで曖昧な記憶を説明しても、かえって混乱させるかもしれなかった。
「昔の道標に刻まれていた印なんだって。三つの鐘に見えるでしょう?」
「本当だ! かわいいね」
モモは素直に感心し、旅帳面を取り出した。
「これも描いていい?」
「もちろん。昔の道の印だってことも書いておくと、あとで見返した時に分かりやすいかもね」
「うん!」
モモは嬉しそうに筆記具を動かし始めた。
シモンは地図をもう一度確認し、街道と古い道が近づく場所を指さした。
「ルシル様、この地点なら、現在の街道から比較的近いようですね。ただし、実際の地形は古い地図と変わっている可能性があります」
「そうだね。今度ベルトさんに会ったら、相談してみよう」
「はい。ただし、ベルクの移動については、引き続きエリサさんの判断が必要です。古い道が使えるとしても、その問題とは分けて考えましょう」
ルシルは頷いた。
「うん。ベルクを無理に動かすつもりはないよ」
シモンはその返事を聞き、少しだけ微笑んだ。
その後、三人は遅めの昼食を取りながら、リナの家での出来事を話し合った。
モモは少女が無事に家へ戻れたことを何度も喜び、シモンは救助の際に危険な行動を避けられた点を確認した。ルシルは古い道の話を思い出しながら、旅の途中で出会った人々が持つ知識の豊かさについて考えていた。
◇
夕方、オルダが野営地を訪れた。
リナの家から戻る途中で立ち寄ったらしく、手には小さな布包みを持っている。
「ルシル、モモ、シモン。今日は本当に助かったよ」
オルダはそう言って、三人へ顔を向けた。
「サーラも、リナが無事に帰ってきて安心していた。足首は腫れているが、今は家で休ませているそうだ。明日、町へ行く人に頼んで、先生へ相談するつもりらしい」
ルシルは安堵した。
「そうですか。よかったです」
「ああ。それでな、サーラからこれを預かってきた」
オルダは布包みを差し出した。
中には、小さな焼き菓子がいくつか入っていた。
「家にあった材料で焼いたものだそうだ。大したものではないが、お礼に受け取ってほしいと言っていたよ」
モモの目が輝いた。
「焼き菓子!」
しかし、すぐにルシルへ顔を向ける。
「……受け取ってもいいのかな?」
ルシルは少し考えたあと、頷いた。
「サーラさんの気持ちだから、ありがたくいただこう。あとで、お礼も伝えてもらおうね」
「うん!」
モモは嬉しそうに笑った。
オルダは三人の様子を見て、満足そうに頷いた。
ルシルはそのあと、古い荷運び道の地図について話した。
「オルダさん、リナのおじいさんから、昔の道のことを教えてもらったんです」
地図を広げると、オルダは少し驚いたように目を細めた。
「ほう。これは懐かしいな」
「ご存じなんですか?」
「ああ。わしが若い頃には、まだ一部を使っていた。だが、今はほとんど通らなくなったからな」
オルダは地図を見つめながら、指先で一つの場所を示した。
「この石橋なら、今も残っているはずだ。ただし、橋の手前は草が伸びているし、荷車が通れるかどうかは分からん」
ルシルは頷いた。
「やっぱり、実際に見てみないと駄目ですね」
「そうだな。ベルトなら、最近の様子を知っているかもしれん。あいつは畑の境を確認するために、北の丘へ行くこともあるからな」
シモンはその情報を書き留めた。
「では、明日ベルトさんにお会いできれば、道の状態を確認してみましょう」
オルダは頷いた。
「それがいい。古い道を使えるなら、今の街道の深い轍を避けられるかもしれんからな」
ルシルは地図へ目を落とした。
馬車を動かす方法について、今までとは違う可能性が生まれた。
それはまだ確定した答えではないが、実際に調べる価値のある情報だった。
◇
オルダが帰ったあと、三人は焼き菓子を分け合った。
素朴な甘さの菓子は、外側が少し香ばしく、中には細かく刻んだ乾燥果物が混ぜ込まれている。モモは一口食べた途端、幸せそうに目を細めた。
「おいしい……! ルシル君、これすごくおいしいよ!」
「本当だね。果物の甘さがちょうどいい」
ルシルが答えると、シモンも小さく頷いた。
「保存食とは違う、家庭で作られた味ですね。ありがたいことです」
モモは菓子をもう一口食べ、少しだけ考え込んだ。
「ねえ、ルシル君。今日、リナちゃんを助けられてよかったね」
「うん。本当によかった」
「私ね、最初は怖かったんだ。足を痛めてる子が一人で座ってて、どうしたらいいのか分からなくて」
モモは菓子を持つ手を膝の上へ置いた。
「でも、ルシル君が落ち着いて話しかけてくれたから、私も何をすればいいか考えられたんだと思う」
ルシルは少し驚いた。
「そうだったんだ」
「うん。それでね、オルダさんを見つけた時は、すごく安心したの」
モモは照れたように笑った。
「私一人で何とかしなきゃって思わなくていいんだって、分かったから」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「僕も同じだよ。リナを見つけた時、最初はどうすればいいか迷った。でも、モモが助けを呼んでくれるって分かったから、落ち着いて待てたんだ」
シモンは二人の話を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「お二人とも、適切な判断をされたと思います。誰かを助ける時には、自分だけでできることと、ほかの人の力が必要なことを見極めるのが大切ですから」
モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! 次に困ってる人を見つけた時も、ちゃんと考えて動く!」
ルシルは笑った。
「でも、次は迷子の子がいない方がいいね」
「それはそうだね!」
三人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
◇
食事を終えたあと、ルシルは一人で馬車の荷台へ上がった。
青波村で手に入れた青い風魚の布と、潮凪村で拾った三つの貝殻が、いつもの場所にしまわれている。旅の途中で増えた小さな品々を眺めながら、ルシルは今日写してきた地図を取り出した。
古い荷運び道。
北の丘に残る石橋。
そして、三つの鐘が描かれた道標。
その一つ一つが、今まで知らなかったこの土地の姿を教えてくれている。
ルシルは地図の端に描いた鐘の印へ指を添えた。
すると、胸の奥に、あの奇妙な感覚が再び浮かんだ。
白い部屋の中にいるような、現実とは違う光。
黒い長方形の表面に映る、見知らぬ景色。
遠くから響く三つの鐘の音。
そして、誰かが口にしたような気がする、ガルド・ネイマンという名前。
(……僕は、これをどこで見たんだろう)
ルシルは目を閉じた。
思い出そうとすると、記憶はいつも途中で途切れてしまう。
その先に何があるのか。
なぜ自分がそんな光景を覚えているのか。
今は、まだ何も分からない。
しかし、今日見つけた道標の印は、少なくとも実際に存在するものだった。
夢のように曖昧な記憶とは違い、古い石に刻まれ、地図にも残されている。
それが偶然なのか、それとも何かのつながりなのか。
ルシルは地図を丁寧に畳み、鞄へしまった。
(急いで答えを出す必要はない。でも、確かめられるものがあるなら、少しずつ調べてみたいな)
その時、馬車の外からモモの声が聞こえてきた。
「ルシル君! シモン君が、明日の予定を相談したいって!」
ルシルは顔を上げた。
「今行くよ!」
地図を鞄へ収め、馬車から降りる。
外ではモモとシモンが待っており、少し離れた場所ではトルクが餌を食べ、ベルクが静かに休んでいた。
ルシルは二人へ歩み寄り、明日の予定について話し始めた。
ベルトに古い道の状態を尋ねること。
馬車を動かす場合の安全な経路を確認すること。
ベルクの回復を急がせず、必要な休養を続けること。
そして、リナの足の具合についても、オルダを通じて様子を聞くこと。
話し合いを終えたところで、モモが突然、楽しそうに笑った。
「ねえ、ルシル君。今日って、最初はただの散歩だったんだよね?」
「うん。そうだったね」
「なのに、迷子の子を助けて、おいしいお菓子をもらって、昔の道まで見つけちゃった!」
モモは両手を広げ、嬉しそうに続けた。
「やっぱり、旅って何が起こるか分からないね!」
ルシルは彼女の笑顔を見つめ、思わず笑った。
「本当にそうだね。だから、僕は旅が好きなんだと思う」
シモンは二人を見比べ、少しだけ肩をすくめた。
「ただし、明日も同じように迷子の方を見つける必要はありませんからね。できれば、穏やかな一日をお願いしたいところです」
モモはくすくすと笑った。
「シモン君、それは私たちに言われても困るよ!」
「それもそうですね」
シモンが小さく笑うと、ルシルも声を上げて笑った。
馬車はまだ動かない。
ベルクの脚も、すぐに治るわけではない。
それでも、今日という一日は、確かに新しい出来事で満たされていた。
ルシルは夕暮れの畑へ目を向けた。
遠くの丘の向こうには、まだ見たことのない古い石橋がある。
その先へ続く道が、今も使えるかどうかは分からない。
しかし、いつかそこへ足を運ぶ時には、今日助けた少女のことも、彼女の家で聞いた昔の話も、きっと思い出すだろう。
モモがルシルの袖を軽く引いた。
「ねえ、ルシル君。明日は、もっと面白いものが見つかるかな?」
ルシルは少し考えたあと、笑顔で答えた。
「どうだろう。でも、何も見つからなくても、三人で一緒にいられたら楽しいと思うよ」
モモは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「うん! それは絶対そうだね!」
シモンは二人のやり取りを聞きながら、静かに微笑んだ。
そしてルシルは、鞄の中にしまった古い地図のことを思い出していた。
三つの鐘が描かれた道標。
それが何を意味するのか、今はまだ分からない。
けれど、今日という偶然の出会いが、これからの旅を少しだけ違う方向へ導くことになるかもしれない。
ルシルはそんな予感を胸に抱きながら、仲間たちとともに夕食の準備を始めた。




