第175話「雨をしのぐ屋根と、自由な旅人の初めての仕事」
旅に出てから三十八日目の朝、ルシルは馬車の扉を開けたところで、いつもと違う空の色に気づいた。
東の空には薄い朝日が残っていたが、畑の向こうには灰色の雲が低く広がり、木立の上を流れる風も昨日より湿っている。街道の轍に溜まった水はようやく減り始めていたものの、地面が完全に乾くにはまだ時間がかかりそうだった。
ルシルは外套を羽織り、馬車の前方へ歩いていった。
栗毛のトルクは彼の足音に気づくと耳を立て、いつものように鼻先を伸ばしてくる。一方、濃灰色のベルクは静かに立っていたが、身体の向きを変える時には右後ろ脚へ体重をかけるのをためらっていた。
昨日、獣医のエリサが再び診察してくれたことで、蹄の外側にある圧迫された部分が痛みと関係している可能性が高いと分かった。ただし、原因が完全に確定したわけではなく、内部の状態を慎重に見極める必要があるため、ベルクを無理に歩かせないという方針は変わっていない。
「おはよう、ベルク。昨日は先生が来てくれてよかったね」
ルシルが首筋を撫でると、ベルクは小さく鼻を鳴らした。
その反応に安心しながらも、ルシルは足元へ視線を落とした。
草地の表面は乾き始めているが、少し深いところには湿り気が残っている。今日の雲行きを見る限り、再び雨が降る可能性もありそうだった。
「……このまま雨が降ったら、困るよね」
ルシルはベルクを見つめながら呟いた。
オルダの農家には、床板の修理を終えた馬小屋がある。しかし、そこへ続く道にはまだぬかるんだ場所が残っており、エリサも昨日の診察では移動を勧めなかった。
馬小屋が使える状態になっていても、ベルクを安全に連れていけなければ意味がない。
だからといって、今いる草地で雨に濡れ続けるのも避けたい。
ルシルが考え込んでいると、背後からシモンが声をかけてきた。
「ルシル様、おはようございます。今朝は少し冷えますね」
「おはよう、シモン。うん。それに、雨が降りそうなんだ」
シモンは空を見上げ、雲の流れを確認した。
「確かに、昨日より雲が厚くなっていますね。風向きも少し変わっています」
「ベルクを馬小屋へ移せないなら、ここで雨をしのげるようにした方がいいんじゃないかな」
ルシルが尋ねると、シモンは少し考えた。
「そうですね。ただし、屋根を作る場合には、風で飛ばされないことと、馬が驚かないことを考える必要があります」
「うん。僕たちだけで無理に作るのは危ないかな」
「馬の近くへ設置するものですから、オルダさんに相談した方がよいでしょう。農家で使っている簡易的な雨よけがあれば、参考になるかもしれません」
ルシルは頷いた。
これまでは、ベルクをどうやって馬小屋へ移すかばかり考えていた。しかし、今すぐ移動できないのであれば、今いる場所を少しでも安全にする方法を探すべきだった。
「じゃあ、今日はその相談をしよう。ベルクを動かせないなら、僕たちができることを考えたいんだ」
シモンは穏やかに微笑んだ。
「承知しました。まずは朝食を済ませ、必要なものを確認しましょう」
◇
朝食の準備をしていたモモは、ルシルから話を聞くと、すぐに空を見上げた。
「本当だ。昨日より雲が多いね」
彼女は桃金色の髪を耳にかけ、馬車の外に並べた器を片づけながら、少しだけ眉を寄せた。
「ベルク君、雨に濡れちゃうの?」
「まだ降ると決まったわけじゃないけどね。でも、今のうちに準備しておいた方が安心だと思うんだ」
ルシルが答えると、モモは頷いた。
「それなら、私も手伝う! でも、屋根ってどうやって作るの?」
「それをオルダさんに相談しようと思ってるんだ」
「そっか。じゃあ、今日は屋根作りの日になるかもしれないんだね!」
モモは少し楽しそうに笑った。
その表情を見て、ルシルも自然と笑顔になった。
「うん。でも、作れるかどうかはまだ分からないよ」
「分かってるよ。ちゃんと相談してからだよね」
モモはそう答えたあと、少し考え込んだ。
「ねえ、ルシル君。私たちの馬車にある布じゃ駄目なのかな?」
ルシルは荷台の方へ目を向けた。
旅の途中で使ってきた布や外套はあるが、馬一頭を雨から守れるほど大きく、風にも耐えられるものとなると限られている。
「小さな雨なら少しは役に立つかもしれないけど、風が強かったら飛ばされちゃうかもしれないね」
「そっかあ。じゃあ、ちゃんとしたものが必要なんだ」
モモは納得したように頷き、朝食の準備へ戻った。
シモンはその間に、馬たちの餌と水の残量を確認していた。
「水は今日の分を確保できていますが、長く滞在する場合には、また農家の井戸を利用させていただく必要があります。食料も、そろそろ補充を考えたいところです」
ルシルはその言葉を聞き、少しだけ考えた。
ベルクの脚を休ませるために足止めされている間、三人は何度も周囲の農家に助けてもらっていた。
ミレナは井戸を使わせてくれるよう取り計らい、オルダは馬小屋の修理を進め、ダリオは町との往復や伝言を引き受けてくれた。ベルトも馬車の修理に協力し、ガランを借りる可能性まで考えてくれている。
その助けがなければ、今の状況を乗り越えることは難しかっただろう。
「シモン、僕たち、ずいぶんいろんな人に助けてもらってるよね」
「ええ。本当にありがたいことです」
「お礼はしてるけど、それだけでいいのかなって思うんだ」
シモンは帳面から顔を上げた。
「と、おっしゃいますと?」
「僕たちにも何かできることがあるなら、手伝いたいんだ。もちろん、勝手に仕事を増やしたり、迷惑をかけたりするのは違うけど」
シモンはしばらく考えたあと、静かに頷いた。
「よいお考えだと思います。ただし、相手が必要としていない手伝いを押しつけないよう、まずは相談しましょう」
「うん。そうするよ」
ルシルは頷き、朝食の席へ戻った。
◇
午前中、ルシルとシモンはオルダの農家を訪れた。
モモは野営地に残り、ベルクとトルクの様子を見ながら、馬車の周囲を片づけることになった。
農家へ続く小道は、以前より歩きやすくなっていた。
ルシルとモモが拾った小石は道の脇へまとめられ、落ち葉を取り除いた浅い溝には、少量の水が流れている。しかし、途中の低い場所にはまだ湿った土が残っており、ベルクを歩かせるには慎重な判断が必要だった。
オルダは馬小屋の前で敷き藁を整えていた。
「おはようございます、オルダさん」
ルシルが声をかけると、年配の農夫は顔を上げた。
「おお、ルシルとシモンか。今日はどうした?」
「実は、雨が降りそうなので、ベルクが今いる場所で雨をしのげる方法がないか相談したくて来ました」
ルシルが説明すると、オルダは空を見上げた。
「なるほどな。確かに、今日は雲が重い」
オルダは少し考えたあと、農家の裏手へ目を向けた。
「使っていない古い雨よけの布があったはずだ。農具を置く時に使っていたものだが、まだ使えるかもしれん」
ルシルは顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ。ただし、古いものだからな。破れていないか確認する必要がある」
オルダはそう言って、二人を農家の裏手へ案内した。
そこには木製の棚があり、農具や予備の縄、古い布などが整理されていた。オルダは棚の奥から厚手の布を取り出し、地面へ広げた。
布は暗い茶色で、ところどころに泥の跡が残っている。しかし、大きな破れは見当たらず、端には縄を通すための輪が付いていた。
「これなら、使えるかもしれんな」
オルダは布の端を確かめながら呟いた。
シモンは近づき、布の厚さと輪の状態を確認した。
「かなり丈夫そうですね。ただ、これだけでは屋根になりません」
「そうだな。支えるための柱と、風で飛ばされないようにする固定が必要だ」
オルダは頷き、庭の端に積んである木材へ目を向けた。
「使える木材があるか見てみよう。ただし、馬の近くに立てるなら、倒れないようにしなければならん」
ルシルは布を見つめながら、少し考えた。
「ベルクのすぐ上に屋根を作るんじゃなくて、少し離れた場所に作って、必要な時に使えるようにするのはどうでしょうか?」
オルダはルシルへ顔を向けた。
「ほう。どういうことだ?」
「ベルクが今いる場所に大きな柱を立てたら、驚かせてしまうかもしれません。だから、まずは近くに雨よけを作って、使える状態にしておくんです」
ルシルはそこで一度言葉を区切った。
「ただ、ベルクを動かすことになるなら、先生に相談しないといけませんけど」
オルダはしばらく考えたあと、頷いた。
「悪くない考えだ。ただし、馬を動かさずに使える位置を考える必要があるな。今いる場所の近くで、風を避けられるところがあればいいんだが」
シモンも頷いた。
「まずは野営地の地形を確認し、どこへ設置できるか考えましょう。馬車の近くに固定する場合も、車体へ無理な力がかからないよう注意が必要です」
オルダは二人を見比べ、少しだけ笑った。
「よし。なら、午後に一度見に行こう。使えるものを持っていくから、そこで考えればいい」
ルシルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
◇
相談が一段落したあと、ルシルはオルダへもう一つのお願いをした。
「オルダさん、僕たちにも何か手伝える仕事はありませんか?」
オルダは少し驚いたように顔を上げた。
「仕事?」
「はい。いつも助けてもらってばかりなので、僕たちにもできることがあれば手伝いたいんです」
ルシルが答えると、オルダはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「気持ちはありがたいが、農作業は慣れていないと危ないものもあるぞ」
「はい。だから、難しいことは無理にやろうと思っていません。できる範囲で構いません」
シモンも静かに頷いた。
「私たちも、オルダさんのご負担を増やすようなことは避けたいと思っています。必要な作業があれば、指示に従ってお手伝いします」
オルダは二人を見つめたあと、少し考え込んだ。
「……そうだな。なら、一つ頼んでもいいか?」
ルシルは顔を上げた。
「もちろんです!」
「馬小屋の裏に、古い木材と使わなくなった道具が残っている。雨が降る前に片づけたいと思っていたんだが、ほかの仕事もあって手が回らなくてな」
オルダは農家の裏手を指さした。
「あそこを整理してもらえるなら助かる。ただし、釘が出ている木材もあるから、勝手に触らず、わしが確認したものだけ運んでくれ」
ルシルは頷いた。
「分かりました。オルダさんが確認したものだけ運びます」
「それなら、お願いしよう」
オルダはそう答え、二人を馬小屋の裏手へ案内した。
◇
馬小屋の裏には、古い板や木箱、使わなくなった農具が積まれていた。
長い間そのままにされていたらしく、木材の表面には土埃が積もり、ところどころに枯れ草が絡まっている。オルダは一つずつ状態を確認し、安全に運べるものと、触らない方がよいものを分けていった。
「この木箱は大丈夫だ。中身は空だから、納屋の横へ運んでくれ」
「はい」
ルシルは木箱を持ち上げ、シモンと一緒に指定された場所へ運んだ。
箱は見た目より重かったが、二人で持てば無理なく動かせる程度だった。シモンは足元を確認しながら歩き、ルシルは箱の角を壁へぶつけないよう注意した。
「ルシル様、少し右へ寄ってください」
「うん。これくらい?」
「はい。そのまま進めば大丈夫です」
二人は息を合わせ、木箱を納屋の横へ置いた。
ルシルは額の汗を拭いながら、小さく息を吐いた。
「ふう。思ったより重かったね」
「ええ。ですが、無理なく運べました」
シモンはそう答え、少しだけ微笑んだ。
そのあとも、オルダが確認した木材や空の容器を運び、使えるものと処分するものを分けていった。
作業は地味だったが、ルシルには不思議と楽しく感じられた。
自分の手で物を動かし、散らかっていた場所が少しずつ整っていく。
その変化が目に見えることが、嬉しかった。
王宮にいた頃、こうした仕事をしたことはほとんどない。
何かを片づける必要があれば、使用人たちがいつの間にか終わらせていた。
しかし今は、自分で手を動かさなければ何も変わらない。
(こういう仕事も、悪くないね。むしろ、少し楽しいかもしれない)
ルシルはそう考えながら、次の木箱へ手を伸ばした。
◇
午前の作業が終わる頃には、馬小屋の裏手がかなり片づいていた。
古い木材は種類ごとにまとめられ、使える道具は納屋の中へ運ばれている。釘が出ている板や傷んだ農具は、オルダが後で処理するために別の場所へ分けられていた。
オルダは片づいた場所を見渡し、満足そうに頷いた。
「いやあ、助かったよ。これだけ片づけば、雨が降っても道具が濡れずに済む」
ルシルは笑顔で答えた。
「よかったです。僕たちにもできることがあって」
「十分助かったとも。二人とも、よく働いてくれた」
オルダはそう言い、少しだけ考え込んだ。
「そうだな。今日の手伝いのお礼に、雨よけの布は貸してやろう。使い終わったら返してくれればいい」
ルシルは驚いて顔を上げた。
「えっ、いいんですか?」
「ああ。もともと使っていなかったものだしな。ただし、破れたり壊れたりしたら、その時は相談してくれ」
ルシルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。大切に使います」
シモンも丁寧に礼を述べた。
「お借りする条件については、私の帳面へ記録しておきます。返却する際には、状態を確認していただきます」
オルダは少しだけ笑った。
「そこまできっちりしなくてもいいんだがな」
「いえ。借りたものは、きちんと返したいので」
シモンが答えると、オルダは満足そうに頷いた。
「そういうことなら、安心して貸せるよ」
ルシルはそのやり取りを聞きながら、少しだけ嬉しくなった。
今まで、オルダには何度も助けてもらっていた。
もちろん、これまでの手伝いも無駄ではなかったが、今日は自分たちの仕事が相手の役に立ち、その結果として必要なものを借りられることになった。
それは、ただ助けてもらうだけとは少し違う経験だった。
◇
昼過ぎ、ルシルとシモンは野営地へ戻った。
モモは二人の姿を見つけると、すぐに駆け寄ってきた。
「おかえり! どうだった?」
「オルダさんが、午後に雨よけの布を持ってきてくれることになったよ」
ルシルが答えると、モモの顔がぱっと明るくなった。
「本当!? よかった!」
「うん。それと、農家の片づけを少し手伝ってきたんだ」
「えっ、いいなあ! 私も手伝いたかった!」
モモは少しだけ頬を膨らませた。
ルシルは思わず笑った。
「モモには、ベルクとトルクを見ていてもらってたでしょう? それも大事な仕事だよ」
「それはそうだけど……」
モモは少し考えたあと、にっこり笑った。
「じゃあ、午後の雨よけ作りは私も手伝う!」
「うん。できることがあれば一緒にやろう」
ルシルが頷くと、モモは嬉しそうに胸を張った。
シモンはその様子を見ながら、帳面を開いた。
「ただし、作業する場所と役割は、オルダさんの指示に従って決めましょう。馬たちを驚かせないことが最優先です」
「分かってるよ!」
モモは元気よく返事をした。
そのあと、三人は簡単な昼食を取り、午後の作業に備えた。
◇
午後の半ば頃、オルダが農家から雨よけの布と木材を運んできた。
布は厚手で、端には縄を通す輪が付いている。木材は長さの揃ったものが数本あり、支えとして使えるかどうかを確認する必要があった。
オルダはまず、ベルクが休んでいる場所と馬車の位置を見比べた。
「ふむ。ここなら、馬車の横へ簡単な雨よけを作れるかもしれんな」
ルシルは顔を上げた。
「ベルクを動かさずに使えますか?」
「そこが難しいところだ。今いる場所の真上へ大きなものを作ると、作業中に馬を驚かせるかもしれん」
オルダは少し考えたあと、馬車の側面へ目を向けた。
「馬車の横に布を張って、雨が吹き込む方向を少しでも防ぐ方法なら、できるかもしれん。ただし、風が強い時には外す必要がある」
シモンは頷いた。
「馬車の車体へ無理な力がかからないよう、固定方法も確認したいですね」
「そうだな。馬車に直接強く引っ張る力をかけるのは避けたい。独立した支えを使う方が安全だろう」
オルダはそう答え、木材の位置を考え始めた。
ルシルはその様子を見ながら、少しだけ考えた。
「オルダさん、馬車から少し離れた場所に支えを立てて、布を斜めに張るのはどうでしょうか?」
オルダはルシルへ顔を向けた。
「ほう。どういうことだ?」
「雨が流れる方向を決めておけば、布の上に水が溜まりにくくなると思うんです。それに、ベルクの近くで作業する時間も減らせるかもしれません」
オルダはしばらく考えたあと、頷いた。
「悪くない。ただし、布がたるまないようにする必要があるし、風の向きも考えなきゃならん」
シモンも頷いた。
「支えを立てる位置を先に決め、馬たちから十分距離を取って作業しましょう」
モモは三人の話を聞きながら、少しだけ首を傾げた。
「ねえ、雨が降った時に、布の端から水が落ちるでしょう? その水がベルク君の足元へ流れたら困らない?」
ルシルは顔を上げた。
「……確かに、そうだね」
オルダも頷いた。
「よく気づいたな。水が落ちる場所も考えないといけない」
モモは嬉しそうに笑った。
「えへへ。昨日、道の水の流れを見たから、ちょっと気になったんだ!」
ルシルはその言葉を聞き、少しだけ感心した。
モモは普段、食べ物や旅先の面白いものに目を向けることが多い。
しかし、最近は馬たちの世話や道の状態にも気を配るようになっていた。
それは、ベルクの脚を痛めたことで、彼女なりに考えることが増えたからなのだろう。
「モモ、すごいね。僕はそこまで考えてなかったよ」
ルシルが言うと、モモは少し照れたように笑った。
「えへへ。役に立てたなら嬉しい!」
◇
作業は、馬たちを驚かせないよう慎重に進められた。
まず、オルダとシモンが支えを立てる位置を確認し、ルシルは必要な木材を運んだ。モモは縄や布を整理し、作業の邪魔にならない場所へ置いていく。
ベルクとトルクは少し離れた位置で落ち着いていたが、大きな音が出そうな作業をする時には、必ず一度手を止めて様子を確認した。
オルダは支えを固定し、布を張る角度を調整した。
「ここは少し高くしておこう。雨水が流れるようにするためだ」
ルシルは頷き、指示された位置へ木材を運んだ。
シモンは縄の張り具合を確認し、風で大きく揺れないよう調整した。
「この位置なら、馬車の側面へ強い力がかかることはなさそうですね」
「そうだな。ただし、強い風が吹いたら布を外す必要がある。固定したまま放っておくのは危ないぞ」
オルダが念を押すと、ルシルは頷いた。
「分かりました。天気が悪くなったら、まず安全を確認します」
モモも真剣な表情で頷いた。
「私も、風が強くなったらすぐに知らせるね!」
作業を続けるうちに、馬車の横へ簡易的な雨よけが形になっていった。
厚手の布は斜めに張られ、雨水がベルクの足元へ流れ込まないよう、端の位置も調整されている。完全な馬小屋の代わりにはならないが、弱い雨や風を少しでも避けるための場所としては役立ちそうだった。
ルシルは完成した雨よけを見上げ、思わず笑顔になった。
「……できたね」
モモも嬉しそうに頷いた。
「うん! すごい! ちゃんと屋根みたいになってる!」
オルダは布の張り具合を最後に確認し、満足そうに頷いた。
「これなら、しばらくは使えるだろう。ただし、強い雨や風には限界がある。無理に使い続けず、危ないと思ったら外すんだぞ」
「はい。ありがとうございます!」
ルシルは深く頭を下げた。
シモンも丁寧に礼を述べ、借りた布と木材の数を帳面へ記録した。
◇
作業が終わった頃、空から小さな雨粒が落ち始めた。
最初は頬に触れる程度だったが、しばらくすると草の葉を濡らすほどの雨になった。
ルシルは空を見上げ、少しだけ驚いた。
「本当に降ってきたね」
オルダは頷いた。
「ちょうどよかったな。これで雨よけの様子も確認できる」
三人はベルクを無理に動かさず、雨よけの布がどのように水を流すかを見守った。
布の表面を伝った雨水は斜めに流れ、端から地面へ落ちていく。モモが心配していたベルクの足元へ水が流れ込む様子は、今のところ見られなかった。
「よかった……!」
モモは胸を撫で下ろした。
ルシルも静かに頷いた。
「うん。ちゃんと水が流れてるね」
ただし、雨よけがあるからといって、ベルクが完全に濡れずに済むわけではない。
風向きによっては雨が吹き込む可能性もあり、地面の湿り気も残っている。
それでも、何もない状態よりは少し安心できた。
オルダはしばらく様子を確認したあと、ルシルへ顔を向けた。
「今日はこれで十分だろう。雨が強くなるようなら、無理に布を張り続けないようにしてくれ」
「はい。分かりました」
ルシルは頷いた。
オルダはそのあと、農家へ戻る準備を始めた。
「それじゃあ、わしは戻るよ。何かあったら知らせてくれ」
「今日は本当にありがとうございました」
ルシルが頭を下げると、オルダは少しだけ笑った。
「こちらこそ、午前中は助かったよ。馬小屋の裏が片づいて、わしも気持ちがいい」
その言葉に、ルシルは嬉しくなった。
「また手伝えることがあれば、言ってください」
「ああ。その時は頼むよ」
オルダはそう答え、雨の中を農家へ戻っていった。
◇
夕方、雨は弱まり、空には薄い光が戻ってきた。
ルシルは馬車の横にできた雨よけを見つめながら、今日の出来事を思い返していた。
朝には、ベルクが雨に濡れることを心配していた。
午前中には、オルダへ相談し、農家の片づけを手伝った。
そして午後には、借りた布と木材を使って、簡易的な雨よけを作ることができた。
ベルクの脚はまだ治っていない。
馬車も動かせないままだ。
けれど、今日の行動によって、少しだけ安心して休める環境を整えることができた。
「ルシル君、今日のこと、旅帳面に描いてもいい?」
モモが隣へやってきた。
手にはいつもの旅帳面があり、表紙には旅の途中で付いた小さな擦れ跡が残っている。
「もちろん。どんな絵にするの?」
「雨よけを作ってるところ! ルシル君が木材を運んで、シモン君が縄を確認して、オルダさんが布を張ってるところを描きたいんだ」
モモは嬉しそうに説明した。
「それとね、ベルク君が雨に濡れないようにしてるところも描く!」
ルシルは笑顔で頷いた。
「いいね。今日の思い出になるね」
モモは嬉しそうに笑い、旅帳面を開いた。
シモンは少し離れた場所で、今日借りたものと返却の条件を記録していた。
ルシルはその姿を見つめながら、少しだけ考えた。
自分たちは旅人だ。
どこか一つの場所へ留まり続けるつもりはない。
けれど、旅の途中で出会った人々と助け合うことは、決して旅の自由を失うことではない。
むしろ、その出会いがあるからこそ、旅は豊かになるのだろう。
◇
夜、ルシルはベルクのそばへ立ち、静かに首筋を撫でた。
雨はすでに上がっており、草地には湿った土の匂いが残っている。簡易的な雨よけは風に大きく揺れることもなく、今のところ問題なく使えていた。
ベルクは落ち着いた様子で立っていたが、右後ろ脚の違和感はまだ残っている。
ルシルはその姿を見つめ、静かに息を吐いた。
「ベルク、今日は少しだけ過ごしやすくなったかな」
ベルクは小さく鼻を鳴らし、ルシルの方へ顔を寄せた。
その温かな息を感じながら、ルシルは微笑んだ。
(早く旅を続けたい気持ちはある。でも、今はベルクが安心して休めることの方が大事だよね)
ルシルはそう考え、雨よけの布へ目を向けた。
今日、自分たちは初めて、農家の仕事を手伝い、そのお礼として必要なものを借りることができた。
王宮にいた頃なら、こうしたやり取りをする機会はほとんどなかっただろう。
けれど、今は違う。
誰かの力を借りるだけではなく、自分たちもできることを探し、相手の役に立つ。
その積み重ねが、旅先での新しい関係を作っていくのかもしれない。
ルシルはベルクの額をもう一度撫で、静かに笑った。
「もう少しだけ、一緒に頑張ろうね」
背後から足音が聞こえ、振り返るとモモとシモンが立っていた。
「ルシル君、そろそろ休もうよ。明日もやることがあるんでしょう?」
モモが声をかけると、ルシルは頷いた。
「うん。そうだね」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「明日は、今日作った雨よけの状態を確認しながら、ベルクの様子を引き続き見守りましょう。必要なものがあれば、早めに準備しておきたいと思います」
「うん。よろしくね、シモン」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
三人は顔を見合わせ、静かに笑った。
ハルミナへの帰り道は、まだ終わっていない。
けれど、今日作った小さな屋根は、三人が自分たちの手で困難を乗り越えようとしている証だった。
ルシルはベルクへ最後に声をかけ、仲間たちとともに馬車へ戻った。
夜の草地には穏やかな風が吹き、遠くの畑からは虫の声が聞こえていた。
明日、ベルクの脚がどれほど変わるかは分からない。
それでも、ルシルは今日、自分たちにも誰かの役に立てる仕事があることを知った。
王位を捨てた自分にも、できることはたくさんある。
そして、その一つ一つを見つけていくことこそが、今のルシルにとっての自由な旅なのだった。




