第174話「蹄の奥に隠れていた痛みと、旅を止める勇気」
旅に出てから三十七日目の朝、ルシルはベルクの前に置いた水桶を見つめながら、昨夜から続いている小さな変化について考えていた。
濃灰色の馬は普段どおり水を飲み、用意した餌にも口をつけている。しかし、身体の向きを変えようとした時、右後ろ脚を地面へ置くまでに以前より長い間があり、体重を左側へ逃がすような動きを見せた。
ルシルはベルクを無理に歩かせず、手綱を緩く保ったまま、その様子を確かめた。
「……昨日より、少し痛そうに見えるね」
ベルクは返事の代わりに鼻を鳴らし、ルシルの肩へ顔を寄せてきた。首筋を撫でると落ち着いた様子を見せるものの、脚の状態まで良くなったわけではない。
昨日、獣医のエリサから届いた伝言では、今日の午後に再び街道まで来られる可能性があるという話だった。ただし、町で急な診療が入れば予定は変わるため、三人はエリサの到着を確定したものとして考えないようにしていた。
「ルシル様、ベルクの様子はいかがですか」
シモンが馬車の方から歩いてきた。手には昨夜までの観察内容を記した帳面があり、眼鏡の奥の目はベルクの後ろ脚へ向けられている。
「食欲はあるよ。水も飲んでる。でも、右後ろ脚に体重をかけるのを、昨日より嫌がってる気がするんだ」
ルシルが答えると、シモンは帳面を開いた。
「昨日の夕方は、立ち上がったあとに脚の位置を変える程度でした。今朝は、立ったままでも体重を移す回数が増えているようですね」
「うん。僕もそう思う」
「では、その変化を記録しておきましょう。エリサさんが来られた時に、昨日との違いを正確に伝えられるようにしたいと思います」
シモンは日時と観察内容を書き留めたあと、ベルクの蹄へ視線を向けた。
前回の診察で、エリサは右後ろ脚の蹄の外側に気になる部分があると話していた。ただし、その時点では原因を断定できず、関節や筋肉の問題も含めて慎重に判断する必要があるという説明だった。
「シモン、あの時エリサさんが見ていた場所、僕たちでも確かめた方がいいのかな」
「外から見える範囲で異常がないか確認することはできますが、蹄を無理に持ち上げたり、傷のように見える部分へ道具を入れたりするのは避けましょう」
「そうだね。僕たちが余計なことをして、ベルクを痛がらせたら困るもんね」
ルシルは頷き、ベルクの首筋をもう一度撫でた。
その時、馬車の扉が開き、モモが顔を出した。
「二人とも、朝ご飯の準備ができたよ! ……あれ、ベルク君、どうかしたの?」
モモはルシルたちの表情に気づいたらしく、すぐに馬車から降りてきた。白い外套の裾を押さえながら近づくと、ベルクの立ち方を見て、少しだけ眉を寄せる。
「昨日より、右の脚を浮かせてる時間が長い気がする」
「モモもそう思う?」
「うん。昨日の夕方は、もう少し普通に立ってたと思うんだけど……」
モモはベルクへ手を伸ばしかけたが、すぐに動きを止めた。
「ねえ、ルシル君。私、ベルク君の痛いところを少しでも楽にしてあげたいんだけど、勝手に魔法を使わない方がいいよね」
ルシルは彼女へ顔を向けた。
モモには、かつて聖女と呼ばれていた頃からの力がある。しかし、その力は何でも治せるものではなく、使えば必ず望んだ結果が得られるわけでもない。
「うん。エリサさんが何を調べようとしているのか、まだ分からないからね。今は先生の診察を待とう」
モモは少しだけ唇を結び、それから頷いた。
「分かった。じゃあ、私にできることは、ベルク君が落ち着いて休めるようにすることだね」
「そうだね。いつもありがとう、モモ」
ルシルが笑いかけると、モモも小さく笑った。
ベルクはそんな三人を見つめるように耳を動かし、やがて静かに首を下げた。
◇
朝食を終えたあと、シモンは馬車の荷物を確認し、ルシルはオルダの農家へ向かう準備を始めた。
昨日、ベルトとオルダの協力で馬車の牽引部分にあった緩みは修理された。傷んだ木の部分を補強し、新しい留め具へ交換したことで、少なくとも目に見える問題の一つは解消している。
ただし、馬車を実際に動かすには、まだ確認しなければならないことが残っていた。
ガランという農耕馬を借りる場合の馬具の適合。
雨で深くなった轍を避ける経路。
ベルトが付き添える日程。
そして何より、ベルクを安全な場所へ移せるかどうかだった。
ルシルは地図を広げ、昨日シモンと整理した内容を見直した。
「ねえ、シモン。もしエリサさんが今日来られなかったら、ベルクはもう一晩ここで休ませることになるよね」
「そうですね。状態が悪化している可能性がある以上、自己判断で馬小屋へ移すことは避けたいと思います」
「でも、雨が降ったら、この草地ももっと湿っちゃうかもしれない」
ルシルが言うと、シモンは少し考えた。
「その点は私も気になっています。馬車の周囲には水が流れる場所がありますが、ベルクが休んでいる場所は比較的平らです。ただ、長期間同じ場所を使うには向いていません」
「じゃあ、先生が来るまでの間に、何かできることはないかな」
シモンは地図から顔を上げ、ルシルへ目を向けた。
「オルダさんの馬小屋を使えるように準備していただいていますが、移動の可否はまだ分かりません。まずは、ベルクを今いる場所でできるだけ快適に休ませる方法を相談してみましょう」
ルシルは頷いた。
「分かった。僕がオルダさんに聞いてくるよ」
「お一人で行かれますか?」
「うん。ここから農家までは道も分かってるし、何か決める時はちゃんと相談してからにするよ」
シモンは少しだけ考えたあと、頷いた。
「承知しました。では、私はモモ嬢と一緒に馬たちを見ております。何か新しい情報があれば、戻ってから教えてください」
「うん。行ってくるね」
ルシルは水筒を持ち、畑の脇を通る小道へ向かった。
昨日までに拾い集めた小石は道の端へ寄せられ、浅い溝にはわずかな水が流れている。まだぬかるんだ場所は残っていたが、以前より歩きやすくなっていることは確かだった。
ルシルはその道を進みながら、ふと自分の靴へ目を向けた。
王宮にいた頃なら、泥の付いた靴で歩くことなど、ほとんどなかっただろう。けれど今は、泥を避けながら歩くことにも慣れ、必要なら自分の手で石を拾い、道を整えることもできる。
それが特別な成長なのかどうかは分からない。
ただ、今の自分には、以前より少しだけ多くのことが見えているように感じられた。
◇
オルダの農家へ到着すると、庭先には新しい敷き藁が積まれていた。
古い馬小屋の扉は開け放たれ、内部には乾いた木材と藁の匂いが漂っている。床板の修理は終わっており、壁際に置かれていた農具も別の場所へ移されていた。
ルシルが声をかけると、オルダは馬小屋の奥から姿を現した。
「おお、ルシルか。今日は一人なんだな」
「おはようございます、オルダさん。シモンとモモは、ベルクたちを見ています」
「そうか。それで、何かあったのか?」
ルシルは今朝のベルクの様子を説明した。
右後ろ脚へ体重をかけるのを、昨日よりためらっているように見えること。食欲と飲水は保たれていること。そして、エリサが今日来られるかどうかは、まだ分からないことを伝える。
オルダは最後まで聞くと、少しだけ眉を寄せた。
「それなら、ますます無理に歩かせない方がいいな」
「はい。僕たちもそう考えています」
「先生が来られるなら、状態を見てもらうのが一番だ。ただ、今日中に来られるかどうかは、まだ返事がないんだろう?」
「そうなんです。だから、先生を待つ間に、ベルクが少しでも楽に休めるようにしたくて」
オルダはしばらく考え込んだあと、馬小屋の中へ目を向けた。
「乾いた藁なら少し分けられるぞ。ただし、今の草地へ敷くなら、濡れた土の上にそのまま置かない方がいい。すぐ湿ってしまうからな」
「どうすればいいでしょうか?」
「まず、ベルクが今立っている場所の状態を確認したい。地面が柔らかくなっているなら、無理に何かを敷くより、周囲の水を逃がす方法を考えた方がいいかもしれん」
ルシルは頷いた。
「それなら、一度見に来ていただけますか?」
「ああ。午前の仕事が片づいたら行こう」
オルダはそう答えたあと、ルシルへ顔を向けた。
「それと、ダリオが今朝、町へ行ったそうだ。エリサ先生がこちらへ来られるかどうか、分かれば伝えてくれるはずだ」
「ありがとうございます。ダリオさんにも、ずいぶん助けてもらっていますね」
「そうだな。あいつは昔から、困っている人を放っておけない性格なんだ」
オルダは少しだけ笑った。
「ただし、ダリオにも仕事がある。何度も頼るなら、こちらもできる範囲で礼をしないとな」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「はい。僕たちも、ちゃんと考えます」
オルダは満足そうに頷き、午前の作業へ戻った。
◇
野営地へ戻ると、モモが馬車のそばで旅帳面を開いていた。
彼女はルシルの姿を見つけると、すぐに立ち上がった。
「おかえり! オルダさん、何て言ってた?」
「午前の仕事が終わったら、ベルクが休んでいる場所を見に来てくれるって。乾いた藁も分けてもらえるかもしれないけど、まずは地面の状態を確認してからだって」
ルシルが説明すると、モモは嬉しそうに頷いた。
「よかった! ベルク君、少しでも楽に休めるといいね」
「うん。でも、勝手に何かを敷くのはやめておこう。地面が湿っていると、かえってよくないこともあるみたいだから」
「分かった。オルダさんが来てからにする!」
モモはそう答え、旅帳面を閉じた。
シモンは馬車の前部で昨日修理した金具を確認していたが、ルシルが戻ったことに気づくと、すぐに近づいてきた。
「お帰りなさいませ。オルダさんにはお会いできましたか」
「うん。午前中の仕事が終わったら来てくれるって。それと、ダリオさんが今朝町へ行ったそうだから、エリサさんの予定も分かるかもしれない」
シモンは頷き、帳面へ書き留めた。
「承知しました。では、午前中は今の場所でベルクを休ませながら、必要な準備を進めましょう」
ルシルは頷き、馬車の周囲へ目を向けた。
昨日までに整理した荷物は、湿気を避けるために布で包み、馬車の荷台へ戻してある。移動する場合にすぐ取り出せるよう、必要なものとそうでないものを分けて積み直していた。
ただし、馬車を軽くするために荷物を先に運ぶ方法については、まだ実行していない。
「シモン、荷物のことなんだけど、今のうちに農家へ預けられるか相談しておいた方がいいかな」
ルシルが尋ねると、シモンは少し考えた。
「それも一つの方法ですが、預ける場合には保管場所と期間を決める必要があります。勝手に荷物を置いていくわけにはいきませんからね」
「うん。だから、オルダさんが来た時に聞いてみようと思う」
「承知しました。必要なら、私からも説明いたします」
ルシルは頷き、馬車の荷台へ上がった。
そこには、旅の途中で手に入れた品々が丁寧にしまわれている。
青波村の青い風魚の布。
潮凪村で拾った三つの貝殻。
モモの旅帳面とは別に、三人で使うための小さな道具類。
それらを見つめていると、ルシルはふと、ハルミナへ戻ったら自分の旅日記を買おうと思っていたことを思い出した。
まだ買えていない。
けれど、今はそれを残念に思うより、書きたいことが増えているのが少し嬉しかった。
ベルクの脚を痛めたことは、決して楽しい出来事ではない。
それでも、その出来事を通じて出会った人々や、学んだことは確かにあった。
ルシルは小さく息を吐き、荷物を整え直した。
◇
昼前、オルダが野営地を訪れた。
年配の農夫はベルクの立っている場所を確認すると、地面へしゃがみ込み、土の状態を指先で確かめた。昨日の雨で湿っていた部分は少し乾いていたが、草の根元にはまだ水分が残っている。
「ふむ。ここなら、今すぐ大きく手を加える必要はなさそうだな」
オルダはそう言い、ベルクの足元へ目を向けた。
「ただ、同じ場所で長く休ませるなら、乾いた場所を確保したい。先生が来て、馬小屋へ移せると判断してくれれば、それが一番いいんだが」
ルシルは頷いた。
「はい。僕たちも、そう考えています」
オルダは少し考えたあと、馬車の近くにある水の流れを確認した。
「ここは、雨が降ると水が集まりやすい。ベルクを動かさずにできる範囲で、周囲の落ち葉を片づけておこう。水が溜まりにくくなるかもしれん」
「分かりました。僕たちも手伝います」
ルシルが答えると、モモも元気よく頷いた。
「私もやる!」
シモンは作業する範囲を確認し、ベルクの足元を掘ったり、馬を驚かせたりしないよう注意した。
三人はオルダの指示に従い、草地の端に溜まっていた落ち葉を取り除いた。大きく地面を変えることはせず、雨水の流れを妨げている部分だけを整える。
作業は短い時間で終わったが、ルシルは周囲の状態を見て、少しだけ安心した。
「これで、少しはよくなるかな」
ルシルが尋ねると、オルダは頷いた。
「大きな変化はないかもしれんが、何もしないよりはいい。ただし、雨が強く降れば別の対策も必要になるから、様子は見ておこう」
「はい。ありがとうございます」
ルシルは頭を下げた。
オルダはそのあと、ベルクの様子を少し離れた場所から観察した。
右後ろ脚へ体重をかけるのをためらう動きは、経験のある農夫にも気になるようだった。
「……やはり、昨日より少し痛そうだな」
オルダが呟くと、ルシルは顔を上げた。
「オルダさんも、そう思いますか?」
「ああ。だが、原因が分からない以上、わしが勝手に何かするわけにはいかん。先生の判断を待とう」
ルシルは静かに頷いた。
◇
午後になっても、エリサからの連絡は届かなかった。
シモンは時折街道の方へ目を向けていたが、荷車が通るたびに確認するようなことはせず、馬たちの世話と帳面の整理を続けていた。ルシルも、待つことだけに時間を使わないよう、昨日修理した馬車の金具や荷物の状態を確認した。
モモはベルクのそばで旅帳面を開き、今日の様子を絵と短い言葉で記録していた。
右後ろ脚へ体重をかける時間が短くなっていること。
食欲と水を飲む様子は変わらないこと。
無理に歩かせていないこと。
それらを記録し終えると、モモは少しだけ眉を寄せた。
「ねえ、ベルク君。早く楽になるといいね」
ベルクは彼女の声に反応するように耳を動かした。
モモはその様子を見て、少しだけ笑った。
「大丈夫。先生が来てくれたら、ちゃんと相談するからね」
その時、街道の向こうから荷車の音が聞こえてきた。
モモは顔を上げた。
曲がり角の向こうから現れたのは、見覚えのある荷車だった。
手綱を握っているのはダリオで、その隣には作業用の上着を着た女性が座っている。
「……あっ!」
モモは立ち上がり、馬車の方へ声をかけた。
「ルシル君! シモン君! 先生が来たよ!」
ルシルとシモンはすぐに顔を上げ、街道の方へ向かった。
荷車は野営地の近くでゆっくりと止まり、ダリオが手綱を引いた。
「お待たせしました。先生を連れてきましたよ」
ダリオが笑うと、エリサは荷車から降り、三人へ顔を向けた。
「こんにちは。遅くなってしまってごめんなさい。町で急な診療が入って、出発が予定より遅れたの」
ルシルは深く頭を下げた。
「いえ、来ていただけただけで十分です。本当にありがとうございます」
エリサは穏やかに微笑んだが、すぐにベルクへ視線を向けた。
「今朝から、脚の状態が少し変わったと聞いたわ。まずは、その様子を確認させてちょうだい」
シモンは帳面を開き、今朝からの観察内容を説明した。
エリサは最後まで聞くと、真剣な表情で頷いた。
「分かったわ。では、ベルクを無理に歩かせず、今の場所で診てみましょう」
◇
エリサは診療道具を取り出し、ベルクへゆっくりと近づいた。
濃灰色の馬は彼女の姿を覚えていたのか、少し耳を動かしただけで落ち着いている。エリサは首筋を撫でながら声をかけ、まず身体全体の状態を確認した。
「いい子ね。今日も少し触らせてちょうだい」
ベルクは小さく鼻を鳴らした。
エリサは右後ろ脚だけでなく、他の脚や身体の状態も確認したあと、蹄の周囲へ目を向けた。
「前回より、右後ろ脚へ体重をかけるのを嫌がっているわね」
ルシルは頷いた。
「はい。今朝から、少し目立つようになりました」
「分かったわ。蹄の外側をもう一度詳しく確認する必要がありそうね」
エリサは道具箱から清潔な布と小さな器具を取り出し、ベルクの反応を確かめながら慎重に作業を始めた。
ルシルたちは少し離れた場所で見守っていた。
エリサは蹄の表面に付いた泥を取り除き、前回気にしていた部分を確認した。そこには、外から見ただけでは分かりにくい小さな変化が現れていた。
「……ここね」
エリサは低い声で呟き、さらに慎重に状態を調べた。
ルシルは思わず身を乗り出しかけたが、シモンが静かに手で制した。
「ルシル様、先生の作業を妨げないようにしましょう」
「あっ、うん。ごめん」
ルシルは頷き、元の位置へ戻った。
エリサはベルクの蹄を無理に持ち上げず、必要な範囲で確認を続けた。
しばらくして、彼女は小さく息を吐いた。
「……少し、原因が見えてきたかもしれないわ」
ルシルは顔を上げた。
「本当ですか?」
「ええ。ただし、まだ断定はしないでね。蹄の外側に、圧迫されたような部分があるの。そこが痛みの原因になっている可能性があるわ」
エリサはそう説明し、道具を置いた。
「前回は表面からはっきり分からなかったけれど、今日は少し変化が出ている。蹄の内部で炎症が起きている可能性も考えられるわ」
モモは心配そうにベルクを見つめた。
「それって、すごく悪いことなんですか?」
エリサはすぐに首を振った。
「今の段階で、必要以上に怖がることはないわ。ただし、痛みが続いているのは確かだから、慎重に対応する必要があるの」
ルシルは静かに頷いた。
「僕たちにできることはありますか?」
「まずは、ベルクを無理に歩かせないこと。蹄を清潔に保ち、乾いた場所で休ませること。それから、状態が変わったらすぐに知らせてほしいわ」
エリサはそう答え、ベルクの脚へ目を向けた。
「今すぐ馬車を引かせることは、もちろん勧められない。馬小屋へ移すことについても、もう少し確認してから判断したいわ」
ルシルは頷き、胸の奥にあった期待を静かに落ち着かせた。
原因が少し見えてきたことは嬉しい。
けれど、だからといってすぐに動けるわけではない。
今は、ベルクの身体を優先するべきだった。
◇
エリサは診察を続けながら、オルダが用意している馬小屋について詳しく尋ねた。
シモンが道の状態を説明し、昨日までに小石を片づけたことや、ぬかるんだ場所が残っていることを伝える。エリサはその内容を聞き、しばらく考え込んだ。
「馬小屋が使える状態になっているのは、よいことね。ただし、そこまで歩かせるには、まだ慎重な判断が必要だわ」
ルシルは頷いた。
「はい。無理に動かすつもりはありません」
「それなら、まずは今の場所でできる処置を進めましょう。蹄の状態を見ながら、必要なら別の方法を考えることもできるわ」
エリサはそう言い、清潔な布を取り出した。
ベルクの蹄の周囲を丁寧に整え、汚れが残らないように確認する。作業の途中でベルクが少し脚を引こうとすると、エリサはすぐに手を止め、落ち着くのを待ってから再開した。
ルシルはその様子を見ながら、専門家の仕事とはこういうものなのだと感じていた。
無理に急がない。
馬の反応を確かめる。
分からないことを分かったふりで済ませない。
そして、必要な時には作業を止める。
その一つ一つが、ベルクの身体を守るために必要なのだろう。
「ルシル君、先生ってすごいね」
隣でモモが小さく呟いた。
「うん。僕たちだったら、どこを見ればいいのかも分からなかったと思う」
モモは頷き、ベルクへ目を向けた。
「私も、もっといろんなことを知りたいな。誰かが困ってる時に、ちゃんと助けられるように」
ルシルはその言葉を聞き、少しだけ微笑んだ。
「モモは、もう十分助けてくれてるよ」
「でも、まだできないこともいっぱいあるもん」
「それは僕も同じだよ。だから、一緒に覚えていけばいいんじゃないかな」
モモは少し考えたあと、嬉しそうに頷いた。
「うん! そうだね!」
◇
診察を終えたエリサは、三人へ今後の方針を説明した。
「今のところ、蹄の外側にある圧迫された部分が、痛みと関係している可能性が高いわ。ただし、内部の状態まではここで完全に確認できないから、経過を見ながら判断する必要があるの」
シモンは帳面を開き、内容を書き留めた。
「承知しました。では、ベルクを馬小屋へ移すことについては、まだ保留ということでしょうか」
「そうね。少なくとも今日すぐに動かすのは避けたいわ。今朝から痛みが強くなっているようだから、無理に歩かせる理由はないもの」
ルシルは静かに頷いた。
「分かりました。ベルクには、ここで休んでもらいます」
エリサはその返事を聞き、少しだけ表情を和らげた。
「それがいいと思うわ。馬小屋が準備できているのは心強いけれど、移動すること自体が負担になる場合もあるからね」
モモは少しだけ心配そうに尋ねた。
「じゃあ、ベルク君はいつ頃よくなるんですか?」
エリサはすぐには答えなかった。
「それは、今の段階でははっきり言えないわ。原因が一つとは限らないし、回復の速さも馬によって違うから。ただ、今できることを続けて、状態の変化を見ていくことが大切よ」
モモは少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かりました。私たちも、ちゃんと見ておきます」
エリサは微笑み、三人へ視線を向けた。
「あなたたちが丁寧に観察してくれているから、前回との違いも分かりやすかったわ。これからも、気づいたことは記録しておいてちょうだい」
ルシルはその言葉を聞き、胸の奥に小さな安堵を感じた。
自分たちが続けてきたことは、無駄ではなかった。
ベルクの様子を見守り、変化を書き留め、無理に動かさないようにしてきたことが、診察の助けになっている。
それなら、これからも続けていこう。
ルシルはそう考え、静かに頷いた。
◇
夕方が近づく頃、エリサは診療道具を片づけ始めた。
ダリオは荷車のそばで待っており、帰り道の準備を整えている。町まで戻るには時間がかかるため、これ以上長く引き留めるわけにはいかなかった。
シモンは診療費について確認し、必要な支払いを済ませた。
「エリサさん、今日は本当にありがとうございました」
ルシルが頭を下げると、エリサは穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ。ベルクのことを大切にしているのが伝わってくるわ。焦らず、できることを続けてあげてね」
「はい。そうします」
モモも深く頭を下げた。
「先生、また何かあったら相談してもいいですか?」
「もちろんよ。ただし、急に状態が悪くなった時は、できるだけ早く知らせてちょうだい。待っていれば必ずよくなるとは限らないからね」
「分かりました!」
モモは真剣な表情で頷いた。
エリサは最後にベルクへ目を向け、静かに声をかけた。
「もう少しだけ、頑張ってね」
ベルクは小さく鼻を鳴らした。
エリサが荷車へ乗り込むと、ダリオは三人へ手を振った。
「それじゃあ、また何かあればオルダさんを通じて知らせてください。町へ行く用事がある時なら、伝言くらいはできますから」
シモンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。何度もお世話になり、申し訳ありません」
「気にしないでください。馬が元気になるのが一番ですから」
ダリオはそう言って笑い、手綱を引いた。
荷車はゆっくりと街道を進み、やがて曲がり角の向こうへ姿を消した。
◇
夕食の準備を始める前に、ルシルはシモンとモモへ一つの提案をした。
「ねえ、二人とも。馬車を動かす準備は続けたいけど、ベルクがよくなるまでは、ハルミナへ戻ることを急がない方がいいと思うんだ」
シモンは静かに頷いた。
「私も同じ考えです。馬車の修理が終わったからといって、すぐに移動しなければならないわけではありません」
モモも頷いた。
「うん。ベルク君を置いていくのは嫌だし、無理に歩かせるのも嫌だもん」
ルシルは二人の顔を見つめ、少しだけ微笑んだ。
「ありがとう。僕もそう思う」
そのあと、ルシルは続けた。
「でも、ただ待つだけじゃなくて、今のうちにできることを進めたいんだ。馬車の修理は終わったし、ガランを借りる条件も分かってきた。だから、ベルクが動けるようになるまでに、ほかの準備を整えておこうよ」
シモンは頷き、帳面を開いた。
「承知しました。では、今後の予定を整理しましょう」
三人は馬車のそばに座り、必要なことを確認した。
ベルクの状態を毎日記録すること。
エリサの指示を守り、無理に歩かせないこと。
馬小屋へ移す場合は、専門家の判断を待つこと。
馬車の金具と馬具の状態を定期的に確認すること。
そして、ガランを借りる場合には、ベルトの都合と費用を改めて確認すること。
どれも、今すぐ旅を再開するためのものではない。
しかし、いずれ動き出す時に困らないようにするための準備だった。
ルシルはその内容を聞きながら、静かに頷いた。
◇
夜、ルシルは馬車の外へ出て、ベルクの様子を確かめた。
濃灰色の馬は静かに立っており、トルクも近くで休んでいる。右後ろ脚の違和感はまだ残っているが、今日エリサに診てもらえたことで、痛みの原因について少しだけ分かったことがあった。
蹄の外側に、圧迫されたような部分があること。
そこが痛みと関係している可能性が高いこと。
そして、今は無理に歩かせず、休ませることが大切だということ。
ルシルはベルクの首筋へ手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。
「ベルク、今日は先生が来てくれてよかったね」
ベルクは小さく鼻を鳴らし、ルシルの方へ顔を寄せた。
その温かな息を感じながら、ルシルは静かに微笑んだ。
(早く旅を続けたい気持ちはある。でも、ベルクが痛い思いをしてまで進む必要はないよね)
ルシルはそう考え、少しだけ空を見上げた。
雲の切れ間には星が見え、遠くの畑からは虫の声が聞こえている。
王宮にいた頃、自分の予定はいつも誰かが決めていた。
何時に起き、どこへ行き、誰と会い、何をするのか。
自由に選べることは少なかった。
だからこそ、旅に出た時は、好きな場所へ行けることが何より嬉しかった。
けれど今は、少し違う。
自由に旅をするということは、進むことだけではない。
必要なら立ち止まり、大切なものを守るために予定を変えることも、自分たちで選べるということだ。
ルシルはベルクの額をもう一度撫で、静かに笑った。
「大丈夫。僕たちは、君を置いていったりしないからね」
ベルクは穏やかに鼻を鳴らした。
背後から足音が聞こえ、振り返るとモモとシモンが立っていた。
「ルシル君、そろそろ休もうよ。明日もベルク君のお世話があるんでしょう?」
モモが声をかけると、ルシルは頷いた。
「うん。そうだね」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「明日は、今日の診察内容をもとに、必要な準備を進めましょう。ベルクの状態が変わった場合には、すぐに対応できるようにしておきたいと思います」
「うん。よろしくね、シモン」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
三人は顔を見合わせ、静かに笑った。
ハルミナへの帰り道は、まだ終わっていない。
けれど、今日エリサが見つけた小さな異変は、ベルクの痛みを理解するための大切な手がかりになった。
ルシルはベルクへ最後に声をかけ、仲間たちとともに馬車へ戻った。
夜の草地には穏やかな風が吹き、遠くの木立が静かに揺れていた。
明日、ベルクの脚がどれほど変わるかは分からない。
それでも、ルシルは今日、自分たちが何を優先するべきなのかを改めて確かめることができた。
旅を続けるために、今は立ち止まる。
それは諦めではなく、大切な仲間と一緒に進むための選択だった。




