第173話「動かない馬車に見つかった答えと、借り物ではない俺たちの決断」
旅に出てから三十六日目の朝、ルシルは馬車の前部にしゃがみ込み、昨日ベルトが指摘した金具を眺めていた。
夜の間に雨は降らなかったらしく、草地は前日より乾いていたものの、車輪の下に敷いた板の周囲には湿った土が残っている。朝日が濃茶色の車体を斜めから照らし、牽引部分の金具に付いた細かな擦り傷を浮かび上がらせていた。
ルシルは金具へ手を伸ばしかけたが、途中で動きを止めた。昨日、ベルトから取り付け部分に緩みがあるかもしれないと指摘されたばかりであり、構造を理解しないまま触って状態を変えてしまうのは避けたかった。
「見ているだけでは、何が悪いのか分からないね」
思わず呟くと、背後から聞き慣れた声が返ってきた。
「それが分かるようでしたら、馬車の修理を専門にしている方々は仕事を失ってしまいますよ」
振り返ると、シモンが帳面を片手に立っていた。朝食前に馬たちの状態を確認してきたらしく、紺色の外套の裾には少しだけ草の葉が付いている。
「おはよう、シモン。今のは、ちょっと意地悪な言い方じゃない?」
「おはようございます、ルシル様。失礼しました。ただ、私たちだけで判断しないという意味では、よい選択をされていると思います」
シモンは隣へしゃがみ、ルシルが見ていた金具へ視線を向けた。
「昨日、ベルトさんとオルダさんが確認された際には、ここを無理に締め直すべきではないというお話でした。今日は、必要な道具と修理方法を相談するところから始めましょう」
「うん。でも、その前に一つ聞いてもいい?」
「何でしょうか」
ルシルは金具から手を離し、シモンへ向き直った。
「もしガランを借りられることになっても、ベルクをここへ残したまま僕たちだけ町へ行くわけにはいかないよね。馬車を動かすことばかり考えていたけど、順番を間違えたら困るんじゃないかな」
シモンはすぐには答えず、少し離れた場所で休んでいる二頭へ目を向けた。
栗毛のトルクは朝の餌を待ちきれない様子で耳を動かしているが、ベルクは右後ろ脚へ体重をかける位置を慎重に調整している。食欲や飲水に大きな問題は見られないものの、獣医のエリサが指摘した歩き方の異常は、まだ解消していなかった。
「おっしゃる通りです。馬車を移動できても、ベルクの安全な休養場所が確保できなければ、問題の一部を別の場所へ移すだけになってしまいます」
「じゃあ、先にベルクのことを決めた方がいいよね」
「はい。ただし、馬車の修理は並行して進められます。ベルクの状態を確認する間に修理を終えられれば、その後の選択肢も増えるでしょう」
ルシルは頷き、馬車の向こうに見える畑へ目を向けた。
昨日はベルトという農夫と出会い、ガランという大きな馬を借りられる可能性が生まれた。だが、費用は銀貨二枚、期間は基本的に一日であり、馬車の構造と道の安全を確認したうえでなければ、正式に借りることはできない。
その条件を聞いた時、ルシルは初めて、自分の言葉で誰かの大切な働き手を借りる責任について考えた。
今日は、その約束を本当に実行できるものへ変えなければならない。
「シモン、今日は僕も修理の相談に参加したいんだ。分からないことは多いけど、ちゃんと聞いて、自分で判断できるところは判断したい」
シモンは少しだけ目を細め、穏やかに頷いた。
「承知しました。ただし、判断に必要な情報が足りない時は、その場で結論を出さず、確認することも大切です」
「うん。それも覚えておくよ」
二人が立ち上がったところで、馬車の扉が開いた。
「ルシル君、シモン君! 朝ご飯の前に、ちょっと見てほしいものがあるんだけど!」
顔を出したモモは、桃金色の髪を朝の光に輝かせながら、両手で小さな木の器を抱えていた。
「何を持ってるの?」
ルシルが尋ねると、モモは得意げに器を差し出した。
中には薄く切った乾燥果物が入っており、少量の温かい湯で戻したらしく、甘い香りが漂っている。
「昨日の夜、保存食を確認してたら見つけたの。少し硬くなってたから、朝ご飯に使えないかなって思って!」
「おいしそうだね。でも、僕たちの分は足りる?」
「もちろん! 三人で分けられるようにしたよ」
モモは笑顔で答えたあと、少しだけ声を落とした。
「それとね、ベルク君が食べられるものも増やしたいなって思ったんだけど、勝手に変えるのはよくないでしょう? だから、馬たちの餌はいつもどおりにしておいたよ」
シモンはその言葉を聞き、感心したように頷いた。
「よい判断です。ベルクは脚の状態を診てもらっている途中ですから、食事を大きく変える必要があるかどうかも、専門家に確認した方が安心でしょう」
「えへへ。私だって、ちゃんと考えてるんだから!」
モモは嬉しそうに胸を張った。
ルシルはそんな彼女を見て笑い、朝食の準備を手伝うために馬車へ戻った。
◇
朝食を終えた三人は、今日の作業を分担した。
ルシルとシモンはオルダの農家へ向かい、金具の修理方法とベルトの予定を確認する。モモは野営地に残って二頭の世話を続け、ベルクの立ち方や食欲に変化があれば記録することになった。
「何かあったら、すぐに農家の人を呼ぶんだよね」
モモは確認するように言い、シモンから渡された帳面を開いた。
「はい。ですが、まずはご自身の安全を優先してください。ベルクが急に暴れたり、立てなくなったりした場合、無理に支えようとなさらないでくださいね」
「分かってるよ。私は先生じゃないんだから、できることとできないことを間違えないようにする!」
その返事を聞いて、シモンは安心したように頷いた。
ルシルは水筒を外套の内側へ収め、モモへ手を振った。
「それじゃあ、行ってくるね。お昼までには一度戻るつもりだよ」
「いってらっしゃい! オルダさんにもよろしくね!」
二人が小道へ向かうと、モモは馬車のそばへ戻り、トルクの水桶を確認した。
昨日までなら、誰かが出かけるたびに少し寂しく感じていたかもしれない。しかし、今は自分にも任された仕事があることを理解している。
モモは旅帳面を開き、今日の日付の下へ小さな文字を書き込んだ。
『ベルク君の様子をよく見ること。トルク君におやつをねだられても、勝手に増やさないこと。』
そこまで書いたところで、トルクが彼女の肩越しに鼻先を伸ばしてきた。
「ちょっと、トルク君! 今書いたばっかりなんだから、そんな顔しても駄目だよ!」
モモが笑いながら振り返ると、トルクは何も知らないとでも言いたげに耳を動かした。
その様子を見て、モモは思わず声を上げて笑った。
◇
オルダの農家では、すでに朝の作業が始まっていた。
庭先には新しい敷き藁が積まれ、古い馬小屋の扉は大きく開け放たれている。昨日まで修理していた床板の周囲には木片が残っていたが、建物の内部はきれいに掃除され、以前よりずっと使いやすそうになっていた。
「おはようございます、オルダさん」
ルシルが声をかけると、馬小屋の奥から年配の農夫が顔を出した。
「おお、来たか。ちょうどよかった。こっちも話したいことがあったんだ」
オルダは二人を庭先へ招き、作業台の上に置いていた小さな紙を取り上げた。
「ダリオが今朝、町へ向かう前に寄ってくれた。エリサ先生へ伝言を届けてもらえることになったぞ」
ルシルは顔を上げた。
「本当ですか!」
「ああ。昨日整えた小道のことと、馬小屋の床板を取り替えたことを伝えてもらう。ベルクを移動させていいか、先生の意見を聞きたいからな」
シモンは頷き、鞄から自分のメモを取り出した。
「それでしたら、ベルクの今朝の状態も追記していただけますか。食欲と飲水は保たれていますが、右後ろ脚の動きにはまだ違和感があります」
「もちろんだ。まだダリオは出発していないから、今なら間に合う」
オルダは紙を作業台へ置き、シモンが説明した内容を書き加えた。
ルシルはその様子を見ながら、少しだけ安心した。
エリサは町で診療を続けているため、いつでも街道まで来られるわけではない。それでも、必要な情報を届ける方法ができたことで、ベルクを無理に動かさずに相談を続けられるようになった。
「オルダさん、ありがとうございます。僕たちだけだったら、町へ何度も行く必要があったと思います」
ルシルが頭を下げると、オルダは笑った。
「礼ならダリオにも言ってやってくれ。あいつも忙しいのに、よく引き受けてくれる」
「はい。次に会った時、必ず伝えます」
そのあと、ルシルは昨日ベルトが指摘した金具について相談した。
オルダは話を聞くと、作業台の引き出しから数種類の工具を取り出した。使い込まれた金属製の工具には細かな傷が付いていたが、どれも丁寧に手入れされている。
「馬車の前の金具だったな。昨日見た限りでは、留め具の一つが少し緩んでいた。だが、あれは単純に締めればいいというものでもない」
「どうしてですか?」
ルシルが尋ねると、オルダは工具を並べながら説明した。
「金具が緩む原因はいくつかある。留め具そのものが傷んでいる場合もあれば、木の部分が擦り減っていることもある。もし木が傷んでいるなら、金具だけ締めても、また緩むかもしれん」
シモンは頷き、帳面へ書き留めた。
「では、取り付け部分を外して確認する必要があるのですね」
「そういうことだ。ただし、わし一人で判断するより、ベルトにも見てもらった方がいい。あいつは荷車の修理を自分でやることも多いからな」
ルシルは少し考えたあと、口を開いた。
「僕たちにも手伝えることはありますか?」
オルダはルシルを見て、少しだけ笑った。
「あるとも。ただ、最初から難しいことを任せるわけにはいかん。道具を運んだり、外した部品をなくさないように並べたり、そういう仕事からだな」
「それで十分です。僕も、できることを覚えたいので」
ルシルが答えると、オルダは満足そうに頷いた。
「よし。なら、ベルトが来るまでに道具を揃えておこう」
◇
午前の作業が一段落した頃、ベルトが農家へ姿を見せた。
日に焼けた顔には少し疲れが見えたが、ルシルたちを見ると気さくに手を上げた。
「おはよう。昨日の馬車の件だな」
「おはようございます、ベルトさん。今日もお時間をいただいて、ありがとうございます」
ルシルが頭を下げると、ベルトは片手を振った。
「まだ何もしてないんだから、礼は早い。それより、金具のことをオルダさんから聞いたぞ」
ベルトは作業台の工具を確認し、オルダと短く話し合った。
その結果、まずは馬車の前部を詳しく調べ、必要なら留め具を外して状態を確認することになった。ただし、作業中に車体が動かないよう、車輪止めと支えを確実に確認する必要がある。
「馬車を持ち上げるような大きな修理じゃないが、牽引部分に触る以上、慎重にやるぞ」
ベルトが言うと、ルシルは頷いた。
「はい。僕たちも指示に従います」
シモンも同意し、三人は必要な工具を持って野営地へ戻ることになった。
道中、ベルトはルシルへいくつか質問した。
「そういえば、あんたたちはどこまで旅をするつもりなんだ?」
「まだ、はっきりした終着点は決めていません。いろいろな町や村を見て回りたいと思っています」
「へえ。ずいぶん気ままな旅だな」
ベルトは少し驚いたように笑った。
「俺なんか、この辺りの畑から離れることもほとんどない。町へ行く時だって、用事を済ませたらすぐ戻るくらいだ」
ルシルは畑の向こうへ目を向けた。
「でも、毎日同じ場所で暮らしているからこそ、分かることもたくさんあるんですよね」
「どういうことだ?」
「僕たちは、この道が雨でぬかるみやすいことも、どの農家に馬がいるのかも知りませんでした。でも、ベルトさんたちは当たり前のように知っています。旅人には見えないことが、ここで暮らす人には見えているんだと思います」
ベルトはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……面白いことを言うな、あんた」
ルシルは少し照れたように笑った。
「そうでしょうか」
「ああ。俺は自分の仕事を特別だと思ったことなんてなかったが、旅人から見ると違うのかもしれんな」
その言葉に、ルシルは頷いた。
王宮にいた頃、自分の周囲で働いていた人々のことを思い出す。
料理を運ぶ人、馬車を整える人、廊下を掃除する人、書類を運ぶ人。彼らの仕事がなければ王宮は成り立たなかったはずなのに、当時の自分はその一つ一つを深く考えたことがなかった。
今なら、少しだけ分かる気がする。
誰かが当たり前に続けている仕事は、別の誰かにとって大きな助けになるのだ。
◇
野営地へ戻ると、モモがすぐに駆け寄ってきた。
「おかえり! あれ、ベルトさんも一緒なんだね!」
ベルトは軽く手を上げた。
「昨日の金具を見に来たんだ。馬車を動かす前に、ちゃんと確認しておかないとな」
「ありがとうございます! 私も何か手伝えますか?」
モモが尋ねると、ベルトは少し考えた。
「そうだな。工具を使う場所には近づかず、外した部品を置く布を用意してくれるか?」
「はい!」
モモは元気よく返事をし、馬車から丈夫な布を取り出した。
シモンは車輪止めと支えを確認し、馬たちが作業の音に驚かないよう、少し離れた安全な場所で落ち着かせた。ベルクを無理に歩かせることは避け、作業する側が馬車の位置に合わせて動くことにした。
準備が整うと、ベルトとオルダは馬車の前部へしゃがみ込んだ。
「まず、この留め具を外してみよう」
ベルトは工具を当て、慎重に力を加えた。
金属が小さく軋む音がして、留め具が少しずつ動く。ルシルはすぐそばで見守りながら、外した部品を受け取る準備をしていた。
やがて、金具が取り外されると、その下に隠れていた木の部分が現れた。
ベルトは指先で表面を確かめ、少しだけ眉を寄せた。
「……やっぱりな」
ルシルは思わず顔を上げた。
「何か分かったんですか?」
「金具だけじゃない。木の穴が少し広がっている。長い間、引く力がかかって、少しずつ削れたんだろう」
オルダも覗き込み、頷いた。
「これなら、締め直すだけじゃ駄目だな。木の部分を補強する必要がある」
シモンはすぐに帳面へ記録した。
「修理は可能でしょうか」
ベルトは少し考えたあと、頷いた。
「できると思う。ただし、今ある部品だけでは足りない。補強用の木片と、新しい留め具が必要だ」
ルシルはその説明を聞き、胸の奥が少し重くなるのを感じた。
馬車を動かすための準備を進めてきたが、ここでも新しい問題が見つかった。しかし、原因が分かったということは、修理する方法も考えられるということだった。
「その部品は、どこで手に入りますか?」
ルシルが尋ねると、ベルトはオルダへ目を向けた。
「木片なら、ここの余り材で使えるものがあるかもしれん。留め具は、俺のところに予備があったはずだ」
オルダは頷いた。
「馬小屋の修理で使わなかった木材がある。大きさが合うか見てみよう」
ルシルは顔を上げた。
「それなら、今日中に修理できる可能性があるんですね」
「材料が合えばな。ただし、修理が終わったからといって、すぐ馬車を動かしていいわけじゃないぞ」
ベルトは念を押すように言った。
「直した部分がしっかり固定されているか、力をかけて確認する必要がある。それに、ガランへ馬具を合わせる作業も残っているからな」
「はい。分かっています」
ルシルは頷き、深く頭を下げた。
「それでも、原因が分かってよかったです。ありがとうございます」
ベルトは少しだけ笑った。
「礼は、ちゃんと直ってからにしてくれ」
◇
昼過ぎ、ベルトが予備の留め具を取りに戻り、オルダは使えそうな木材を探しに農家へ向かった。
その間、ルシルたちは馬車の周囲を片づけ、作業を再開しやすいように準備を整えた。
モモは外した金具を布の上に並べながら、少しだけ不思議そうな顔をしていた。
「ねえ、ルシル君。こんな小さなところが傷んでるだけで、馬車って動かせなくなるんだね」
ルシルは隣へしゃがみ、木の穴を見つめた。
「そうだね。僕も、もっと大きな部品が壊れないと問題にならないと思ってた」
「でも、見つかってよかったよね。知らないまま動かしてたら、もっと大変だったかもしれないし」
「うん。本当にそう思う」
ルシルは静かに頷いた。
ベルクの脚に異常がなければ、この金具の傷みに気づかないまま旅を続けていたかもしれない。そう考えると、今回の足止めは決して嬉しい出来事ではなかったが、馬車の状態を見直す機会にはなっていた。
シモンは二人の会話を聞きながら、馬車の側面を確認していた。
「今後は、馬具だけでなく牽引部分の取り付け状態も、定期的に確認する必要がありますね」
「うん。僕も覚えておくよ」
ルシルが答えると、シモンは少しだけ微笑んだ。
「ルシル様がそこまで関心を持ってくださるとは、旅を始めた頃には想像しておりませんでした」
「えっ、そう?」
「はい。以前は、馬車の構造よりも、次に訪れる町の歴史や名所の方に興味をお持ちでしたから」
ルシルは少しだけ頬をかいた。
「それは今でもそうだよ。でも、馬車が動かないと次の町へ行けないでしょう? だったら、ちゃんと知っておかないとね」
シモンは頷いた。
「その考え方は、とても大切だと思います」
モモは二人のやり取りを聞きながら、楽しそうに笑った。
「じゃあ、ルシル君は歴史にも詳しくて、馬車にも詳しい旅人になるんだね!」
「まだ詳しいって言えるほどじゃないよ」
「でも、これから覚えればいいんだよ!」
モモはそう言って、嬉しそうに胸を張った。
ルシルはその言葉を聞き、自然と笑顔になった。
「そうだね。これから覚えていけばいいんだ」
◇
午後の半ば頃、ベルトとオルダが材料を持って戻ってきた。
補強に使えそうな木片と、新しい留め具が揃い、二人は寸法を確かめながら修理を始めた。ルシルは指示された工具を渡し、モモは外した部品が混ざらないように並べ、シモンは作業の順序と使った材料を帳面へ記録していく。
ベルトは木片の形を整え、傷んだ部分へ慎重に合わせた。
「ここは、力がかかる向きを考えて取り付けないといけない。見た目だけ合わせても、すぐに緩むからな」
ルシルはその説明を聞き、木片の向きを確かめた。
「同じ大きさでも、向きが違うと駄目なんですね」
「ああ。木には繊維の向きがある。無理な力がかかると割れることもあるから、そこを考えないといけないんだ」
ベルトはそう言い、木片を固定した。
オルダは隣で金具の位置を確かめ、留め具が正しく入るか確認していく。作業は決して派手ではなかったが、二人の手つきには長年の経験が感じられた。
ルシルはその様子を見ながら、以前王宮で見た職人たちのことを思い出していた。
王宮の家具や扉を修理する職人たちは、いつも静かに作業をしていた。自分はその仕事を眺めることはあっても、何を考えて手を動かしているのか、尋ねたことはほとんどなかった。
今なら、少しだけ興味を持てる。
どんな材料を使うのか。
どこへ力がかかるのか。
なぜその形でなければならないのか。
そうした一つ一つの理由が、物を安全に使うために必要なのだと分かってきた。
(王宮にいた頃の僕は、完成したものしか見ていなかったんだな。こうして作る人の仕事を知ると、同じ馬車でも見え方が変わるね)
ルシルは静かに息を吐き、ベルトの作業を見守った。
しばらくして、最後の留め具が取り付けられた。
ベルトは工具を置き、補強した部分を慎重に確認した。
「よし。取り付けはできたな」
モモがぱっと顔を上げた。
「直ったの!?」
「まだ確認が残ってる。ここからが大事だ」
ベルトはそう答え、オルダとともに牽引部分の状態を調べた。
車体を不用意に動かさない範囲で金具の固定を確かめ、木材に不自然な動きがないか確認する。何度か角度を変えて調べたあと、ベルトはようやく頷いた。
「少なくとも、さっきまでの緩みはなくなった。あとは実際に馬具を合わせて、無理な力がかからないか確認する必要があるな」
ルシルは胸の奥に広がる安堵を感じた。
「ありがとうございます!」
ベルトは少しだけ笑った。
「まだ馬車を動かせると決まったわけじゃないぞ。でも、修理の一つは終わった」
その言葉に、ルシルはしっかりと頷いた。
「はい。それだけでも、大きな前進です」
◇
修理が終わったあと、シモンはベルトへ費用を確認した。
ベルトは使った留め具と木材を見比べ、少し考え込んだ。
「材料代は銅貨で十分だ。細かい額は、オルダさんと相談して決めよう。今日はガランを貸したわけじゃないから、銀貨二枚の話とは別だぞ」
シモンは頷いた。
「承知しました。作業のお時間もいただいておりますので、その分についてもお支払いしたいと思っています」
ベルトは少しだけ眉を上げた。
「そこまで気にしなくてもいいんだがな」
「いえ。私たちのために農作業の時間を使っていただいています。お礼を曖昧にしたくありません」
シモンが丁寧に答えると、ベルトはしばらく考えたあと、小さく笑った。
「……分かった。なら、材料代と手間賃をまとめて相談しよう。ただし、無理な額にはしないから安心してくれ」
ルシルはそのやり取りを聞きながら、少しだけ考え込んだ。
昨日、ベルトへ馬を借りる相談をした時、自分は相手の事情を考えることが大切だと話した。しかし、実際に誰かの力を借りるとなると、言葉だけでは足りない。
相手が使った時間や材料、仕事を止めたことで生じる負担まで考えなければならない。
「ベルトさん、僕からも一つお願いしていいですか?」
ルシルが声をかけると、ベルトは顔を向けた。
「何だ?」
「今日の修理代は、きちんとお支払いさせてください。それと、もしガランを借りることになったら、昨日聞いた条件をもう一度確認してからお願いしたいです」
ベルトは少し驚いたようにルシルを見た。
「昨日、銀貨二枚って話はしただろう?」
「はい。でも、実際に馬車を見てもらったら、修理が必要なことも分かりました。道の状態や馬具の調整も残っていますし、条件が変わるかもしれないと思ったんです」
ルシルはそこで一度言葉を区切った。
「だから、最初に聞いた金額だけで決めたつもりになりたくありません」
ベルトはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「……なるほどな。あんた、昨日より少し話がうまくなったじゃないか」
ルシルは思わず笑った。
「そうでしょうか?」
「ああ。昨日は気持ちの話が中心だったが、今日は実際の仕事のことまで考えてる」
ベルトはそう言い、ガランのいる農家の方へ目を向けた。
「なら、俺もはっきり言っておこう。ガランを貸すなら、俺が一緒に行く。馬車の状態と道を確認して、危険だと思ったら途中でもやめる。それでよければ、明日以降の予定を考えてもいい」
ルシルは頷いた。
「はい。その条件でお願いします」
ただし、ベルトはすぐに首を振った。
「まだ正式な約束じゃないぞ。ベルクのことも決まってないんだろう?」
「はい。エリサさんの判断を待っています」
「なら、それが分かってからだな。馬車を動かすために、別の問題を増やす必要はない」
ルシルはその言葉を聞き、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。僕も、そう思います」
◇
夕方が近づいた頃、オルダは一度農家へ戻り、ダリオからの伝言が届いていないか確認することになった。
ベルトも明日の農作業の予定を調整するため、自分の農家へ帰る準備を始めた。ルシルたちは二人を見送り、修理に使った工具や布を片づけていく。
モモは外した古い留め具を見つめながら、少しだけ不思議そうな顔をしていた。
「これ、もう使えないのかな?」
シモンは手元を確認し、答えた。
「今回の牽引部分には使わない方がよいでしょう。ただし、処分するかどうかは、修理してくださった方へ確認してからにしましょう」
「そっか。じゃあ、勝手に捨てない方がいいね」
モモは頷き、古い部品を別の布へ包んだ。
ルシルはその様子を見ながら、今日の出来事を思い返していた。
朝には、何が悪いのかも分からなかった金具。
昼には、傷んでいた木の部分が見つかった。
そして今は、補強と留め具の交換が終わり、少なくとも目に見える緩みはなくなっている。
馬車を動かせるようになったわけではないが、修理すべき問題の一つは確かに解決した。
「モモ、今日のことも旅帳面に描くの?」
ルシルが尋ねると、モモは嬉しそうに頷いた。
「もちろん! ベルトさんとオルダさんが修理してるところ、すごくかっこよかったもん!」
「確かに、手際がよかったね」
「うん。それに、ルシル君が工具を渡してるところも描こうかな!」
ルシルは少しだけ驚いた。
「僕も?」
「だって、ちゃんと手伝ってたでしょう?」
「でも、僕は言われた道具を渡してただけだよ」
モモは首を振った。
「それでも、必要な仕事だったんだよ。誰かが道具を渡してくれたら、作業してる人は助かるでしょう?」
ルシルはその言葉を聞き、少しだけ考えた。
確かに、今日の作業では自分が難しい修理をしたわけではない。しかし、工具を準備し、部品を整理し、必要な時に渡すことで、作業が滞らないように手伝うことはできた。
それは決して大きな仕事ではなかったが、何もしないで見ているだけとは違っていた。
「……そうだね。じゃあ、僕のことも描いてくれると嬉しいな」
ルシルが笑うと、モモは嬉しそうに頷いた。
「任せて!」
◇
日が傾き始めた頃、オルダが野営地へ戻ってきた。
手には小さな紙を持っており、表情はいつもより少し真剣だった。
「ルシル、シモン。エリサ先生から返事が来たぞ」
ルシルはすぐに顔を上げた。
「本当ですか!」
「ああ。ダリオが町で先生に会って、今朝の様子を伝えてくれたらしい」
オルダは紙を開き、内容を確認しながら説明した。
エリサはベルクの歩き方に異常が残っていることを踏まえ、今の段階で長い距離を歩かせることは勧めていない。馬小屋へ移す場合も、道の状態とベルクの反応を直接確認してから判断したいという返事だった。
「先生は、明日の午後ならこちらへ来られる可能性があるそうだ。ただし、町で急な診療が入った場合は遅れるかもしれん」
シモンは頷いた。
「承知しました。では、明日は先生の到着を待ち、ベルクを動かしてよいか判断していただくことになりますね」
「そういうことだ。馬小屋の準備は整っているが、先生が来るまでは移動させない方がいいだろう」
ルシルは静かに頷いた。
「分かりました。ベルクには、もう少しここで休んでもらいます」
モモも真剣な表情で頷いた。
「うん。先生が来るまでは、無理に動かさないようにするね」
オルダは二人の様子を見て、少しだけ表情を和らげた。
「それがいい。焦って悪くするより、確実に進めた方がいいからな」
シモンは紙の内容を帳面へ書き留め、明日の予定を整理した。
エリサの再訪はまだ確約ではない。
ベルクを馬小屋へ移せるかどうかも、診察の結果次第だ。
しかし、今まで曖昧だった判断の時期が、少しずつ具体的になってきた。
ルシルはそのことに安堵しながら、オルダへ深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ダリオさんにも、改めてお礼を伝えてください」
「ああ。伝えておくよ」
オルダはそう答え、農家へ戻っていった。
◇
夕食の準備を始める頃には、空が薄い橙色に染まっていた。
ルシルは馬車の前部へ目を向け、今日修理した金具を静かに眺めた。外から見ただけでは大きな違いは分からないが、補強された部分には新しい木材が使われ、留め具も交換されている。
その小さな変化が、今のルシルにはとても大きなものに感じられた。
「シモン、今日の修理代はどうなった?」
ルシルが尋ねると、シモンは帳面を開いた。
「ベルトさんとオルダさんが相談され、材料代と手間賃を合わせた金額を提示してくださいました。すでに支払いは済ませています」
「そうなんだ。ありがとう」
「いえ。ルシル様が事前に確認してくださったおかげで、条件を整理しやすくなりました」
シモンはそう答え、少しだけ微笑んだ。
「ただし、今後ガランを借りる場合には、別途銀貨二枚の費用が必要になります。旅の資金に余裕があるとは言い切れませんので、慎重に判断しましょう」
ルシルは頷いた。
「うん。必要なことには使いたいけど、無駄遣いはできないね」
モモは隣で料理をかき混ぜながら、少しだけ困った顔をした。
「じゃあ、ハルミナに戻っても、おいしいものをいっぱい買うのは難しいかな?」
ルシルは思わず笑った。
「モモ、それは戻ってから考えようよ」
「ええっ、でも楽しみなんだもん!」
モモは頬を膨らませたが、すぐに笑顔へ戻った。
「でも、ベルク君が元気になる方が大事だよね。おいしいものは、少し我慢する!」
シモンはその言葉を聞き、穏やかに頷いた。
「ありがとうございます、モモ嬢。必要な支出を確認したうえで、余裕があれば楽しみも考えましょう」
「本当!? じゃあ、楽しみにしてる!」
モモは嬉しそうに笑い、料理を器へ分け始めた。
ルシルはその様子を見ながら、三人で旅を続けることの意味を改めて感じていた。
自由に旅をするということは、好きなものを何でも手に入れることではない。
限られたお金と時間の中で、何を大切にするかを決めることでもある。
そして、その決断を一人で抱え込まず、仲間と一緒に考えられることが、今の自分には何より心強かった。
◇
夜、ルシルは馬車の外へ出て、ベルクの様子を確かめた。
濃灰色の馬は静かに立っており、トルクも近くで休んでいる。右後ろ脚の違和感はまだ残っているが、今夜はエリサからの返事を受け取れたことで、少しだけ先の予定が見えるようになっていた。
ルシルはベルクの首筋へ手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。
「ベルク、明日また先生が来てくれるかもしれないんだ。もう少しだけ、ここで休もうね」
ベルクは小さく鼻を鳴らし、ルシルの方へ顔を寄せた。
その温かな息を感じながら、ルシルは静かに微笑んだ。
今日、馬車の金具を修理した。
ベルクの状態を先生へ伝えることもできた。
ガランを借りるための条件も、少しずつ整理されてきた。
まだ馬車は動かせない。
けれど、今まで分からなかったことが一つずつ明らかになり、できることも増えている。
(王位はいらないって決めたけど、誰かに任せるだけの人間にはなりたくない。自分で考えて、できることを見つけて、仲間と一緒に進んでいきたいんだ)
ルシルは静かに息を吐いた。
王宮にいた頃、自分の周囲には多くの人がいた。
けれど、彼らが何を考え、どんな仕事をしているのか、深く知ろうとしたことは少なかった。
今は違う。
農夫が馬を大切にする気持ちも、職人が道具を扱う慎重さも、旅の仲間が互いを支えることの大切さも、少しずつ理解できるようになってきた。
ルシルはベルクの額をもう一度撫で、静かに笑った。
「早く、また一緒に旅をしようね」
背後から足音が聞こえ、振り返るとモモとシモンが立っていた。
「ルシル君、そろそろ休もうよ。明日もやることがあるんでしょう?」
モモが声をかけると、ルシルは頷いた。
「うん。そうだね」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「明日は、エリサさんの判断を待ちながら、馬車を動かすための準備を進めましょう。今日修理した部分についても、もう一度確認しておきたいと思います」
「うん。よろしくね、シモン」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
三人は顔を見合わせ、静かに笑った。
ハルミナへの帰り道は、まだ終わっていない。
けれど、今日見つかった小さな問題を一つ解決したことで、三人の旅は確かに前へ進んでいた。
ルシルはベルクへ最後に声をかけ、仲間たちとともに馬車へ戻った。
夜の草地には穏やかな風が吹き、遠くの畑からは虫の声が聞こえていた。
明日、ベルクを動かせるかどうかはまだ分からない。
それでも、ルシルは今日、自分たちの手で一つの答えを見つけたことを忘れないだろう。
誰かが用意してくれる道を待つだけではなく、自分たちで確かめ、選び、進むための準備をする。
その小さな積み重ねこそが、今のルシルにとっての旅だった。




