第172話「借りる馬の値段と、元王子が初めて結んだ約束」
夜明け前に降った雨は、朝の光が街道へ届く頃にはすっかり上がっていた。ルシルが馬車の扉を開けると、湿った土と若草の匂いが冷たい空気に混じって流れ込み、低い木立の向こうでは雲の切れ間から細い陽光が差し込んでいる。馬車の車輪は昨夜と同じ位置に留まり、地面へ食い込まないよう敷いた板の周囲には、小さな水溜まりができていた。
旅に出てから三十五日目の朝だった。ベルクの右後ろ脚に異常が現れてから、すでに何日も同じ場所で過ごしているが、昨日はオルダの馬小屋へ続く小道を整え、馬車の荷物も仕分けることができた。まだ何も動かせてはいないものの、今朝は待つだけの一日にはしたくなかった。
ルシルは外套の襟を整え、馬車の前方へ歩いていった。栗毛のトルクは彼の足音に気づくと耳を立て、何か食べ物を持っていないか確かめるように鼻先を伸ばしてくる。
「おはよう、トルク。残念だけど、まだ朝ご飯じゃないよ」
ルシルが笑いながら首筋を撫でると、トルクは不満そうに鼻を鳴らした。その隣で休んでいたベルクも顔を上げたが、立ち位置を変える時には右後ろ脚へ体重をかけるのをためらっており、昨日の診察から大きく改善した様子はなかった。
ベルクの蹄の外側には、獣医のエリサが気にしていた部分がある。原因はまだ確定しておらず、素人判断で歩かせたり、馬車を引かせたりすることはできない。
「ベルクもおはよう。今日は君のために、もう少し具体的なことを決めたいと思ってるんだ」
濃灰色の馬はルシルの手へ鼻先を寄せ、静かに息を吐いた。ルシルはその温かさを感じながら、できるだけ早く乾いた場所で休ませてやりたいと考えた。
背後から足音が近づき、シモンが水桶を持って現れた。
「おはようございます、ルシル様。今朝も早いですね」
「おはよう、シモン。馬たちの様子を見てたんだ。ベルクは、まだ脚が気になるみたいだね」
「ええ。昨夜から急な悪化は見られませんが、改善したとも言えません。オルダさんの馬小屋へ移すことについては、エリサさんの判断を待ちましょう」
シモンは水桶を所定の位置へ置き、ベルクの立ち方を注意深く観察した。診察の際に教わった確認事項を帳面へ書き留めているが、専門家ではない自分たちが判断できる範囲は限られている。
「昨日、オルダさんがダリオさんへ伝言を頼めるかもしれないって言ってたよね」
「はい。今日ハルミナへ向かう用事があるそうですから、エリサさんへ現状を伝えていただける可能性があります。ただし、伝言を受けていただけるかどうかは、まだ確認できていません」
「それなら、午前中にオルダさんのところへ行ってみようか。馬車の移動についても相談したいし」
シモンは頷いたが、すぐに手元の帳面を開いた。
「その前に、少し確認しておきたいことがあります。昨日整理した荷物の量と、馬車を動かすために必要な条件についてです」
ルシルが帳面を覗き込むと、そこには馬車の重量、馬具の状態、道の幅、借りる馬の候補、必要な人手などが整然と並んでいた。どの項目にも未確認の印が付いており、簡単に決められることではないと分かる。
「全部確認してからじゃないと、動かせないんだね」
「そうですね。ですが、すべてが分からなければ何もできないというわけではありません。今日は、借りられる馬がいるかどうかと、費用や条件を具体的に確認したいと思っています」
ルシルは頷き、帳面の端へ視線を落とした。
そこには、旅のために用意していた資金の残額を確認する欄もあった。王宮にいた頃なら、馬車の手配や費用の支払いは誰かが行ってくれていたが、今は自分たちの持つ金銭の範囲で決めなければならない。
「……シモン、費用のことも僕に相談してね」
ルシルが言うと、シモンは少し驚いたように顔を上げた。
「もちろんです。ただ、細かな支払いについては、私が管理しておりますので」
「うん。それは助かってる。でも、今回は僕たち全員の旅に関わることだから、僕もちゃんと考えたいんだ」
ルシルはまっすぐシモンを見た。
「お金が足りないなら、何を諦めるかも考えないといけないでしょう? それをシモン一人に任せるのは違うと思う」
シモンはしばらく黙っていたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「……承知しました。では、今日の相談にはルシル様にも同席していただきましょう」
「ありがとう。僕も、できることを頑張るよ」
ルシルが笑うと、シモンは静かに頷いた。
その時、馬車の中からモモの声が響いた。
「二人ともー! 朝ご飯できたよ! 今日はパンをちょっとだけ焼き直してみたんだ!」
ルシルは思わず笑い、シモンと顔を見合わせた。
「まずは朝ご飯だね」
「ええ。モモ嬢をお待たせするわけにはいきませんから」
二人は馬たちの水を確認してから、馬車の方へ戻った。
◇
朝食の席で、ルシルは今日の予定をモモへ説明した。
オルダの農家へ行き、馬車を動かすための馬を借りられるか相談すること。必要な費用と人手を確認すること。そして、ベルクを馬小屋へ移す判断について、エリサへ伝言を届けられるか確かめることだった。
モモは焼き直したパンを頬張りながら、真剣な顔で話を聞いていた。
「じゃあ、今日はルシル君とシモン君が行くの?」
「うん。モモには、トルクとベルクを見ていてもらえるかな」
ルシルが尋ねると、モモはすぐに頷いた。
「もちろん! 二頭とも私に任せて!」
元気な返事にルシルは安心したが、シモンは少しだけ眉を寄せた。
「モモ嬢、お一人で何かを解決しようとはなさらないでください。ベルクの状態が変わった場合は、まず安全な距離を保ち、必要であれば近くの農家へ助けを求めてください」
「分かってるよ。ベルク君を無理に歩かせたりしないし、トルク君も勝手に連れ出したりしないからね」
モモはそう答えたあと、少しだけ頬を膨らませた。
「それに、私だってちゃんと考えてるんだよ。昨日も水の量を確認したし、馬車の周りも見たんだから」
シモンは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく頭を下げた。
「失礼しました。モモ嬢がきちんと取り組んでくださっていることは、私も承知しています」
「えへへ。分かってくれたならいいよ!」
モモはすぐに笑顔へ戻り、残りのパンを口へ運んだ。
ルシルはそのやり取りを見ながら、三人の役割が少しずつ変わっていることを感じていた。以前はシモンがほとんどの準備を整え、ルシルとモモがそれを手伝うことが多かったが、今はそれぞれが自分で考えて動く場面が増えている。
食事を終えると、ルシルとシモンは必要な帳面と地図を持ち、オルダの農家へ向かう準備を整えた。モモは二人を見送る前に、水筒を差し出してきた。
「これ、持っていってね。途中で喉が渇いたら飲むんだよ」
「ありがとう、モモ」
ルシルが受け取ると、モモは嬉しそうに笑った。
「それと、オルダさんによろしく伝えてね!」
「うん。ちゃんと伝えるよ」
二人はモモへ手を振り、畑の脇を通る小道へ向かった。
◇
オルダの農家へ着くと、庭先では年配の農夫が木製の道具を修理していた。
昨日まで馬小屋の床板を取り替えていたため、周囲には切り落とした木片がいくつか残っている。建物の扉は開け放たれ、中からは乾いた藁の匂いが漂っていた。
「おはようございます、オルダさん」
ルシルが声をかけると、オルダは手を止めて顔を上げた。
「おお、ルシルとシモンか。今日はどうした?」
「馬車を動かす方法について、もう少し詳しく相談したくて来ました」
ルシルが答えると、オルダは頷き、二人を庭先の長椅子へ案内した。
「そうか。なら、座って話そう。わしも少し考えていたところだ」
シモンは帳面を開き、昨日整理した条件を説明した。
ベルクに馬車を引かせないこと、トルク一頭だけでは重い車体を安全に動かせるか分からないこと、別の馬を借りる場合には馬具の適合と道の状態を確認する必要があることを伝える。
オルダは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「馬を借りる話なら、一つ心当たりがある」
ルシルは顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ。隣の農家に、荷車を引くのに慣れた馬がいる。名前はガランと言ってな、体格も大きく、力もある。ただし、普段は農作業に使っているから、簡単に借りられるとは限らん」
オルダはそう言い、畑の向こうにある建物を指さした。
「あそこに住んでいるベルトという男が飼っている馬だ。わしから話をしてみることはできるが、借りるなら条件をきちんと決める必要がある」
シモンは頷き、帳面へ名前を書き留めた。
「ガランという馬と、飼い主のベルトさんですね。承知しました」
ルシルは少し考えたあと、オルダへ尋ねた。
「馬を借りる場合、どんなことを確認した方がいいですか?」
「まずは、何日借りるのかだな。それから、どこまで動かすのか、誰が馬を扱うのか、途中で怪我をした場合はどうするのか。馬具が合うかどうかも重要だし、持ち主が納得していなければ話にならん」
オルダは指を折りながら、一つずつ説明した。
ルシルはその話を聞き、思っていた以上に考えることが多いと感じた。
ただ馬を借りて馬車を引いてもらえばいい、という単純な話ではない。
借りる馬にも生活があり、飼い主にも仕事がある。
自分たちの都合だけで動かしてよいものではなかった。
「……分かりました。僕たちの事情だけじゃなくて、相手の都合もちゃんと考えないといけないんですね」
ルシルが言うと、オルダは少しだけ笑った。
「そういうことだ。だが、そこまで考えてくれるなら、話はしやすい」
シモンも頷いた。
「私たちとしても、無理なお願いをするつもりはありません。必要な費用についても、きちんと確認したいと思っています」
オルダはその言葉を聞き、少し考え込んだ。
「なら、ベルトのところへ行ってみるか。今日は畑の仕事をしているはずだが、昼前なら少し話せるだろう」
ルシルは顔を上げた。
「今から行ってもいいんですか?」
「ああ。わしも一緒に行こう。ただし、借りられると決まったわけじゃないからな」
「はい。分かっています」
ルシルは頷き、シモンとともに立ち上がった。
◇
ベルトの農家は、オルダの家から畑を一つ挟んだ場所にあった。
広い庭には農具が並び、木製の荷車が一台置かれている。馬小屋の前には大きな栗毛の馬が立っており、首筋の筋肉がしっかりと発達していた。
「あれがガランだ」
オルダが指さすと、ルシルは思わず足を止めた。
トルクよりも一回り大きく見えるその馬は、落ち着いた様子で草を食んでいる。近づいてくる三人へ一度だけ顔を向けたが、すぐに食事へ戻った。
「大きい馬ですね」
ルシルが呟くと、オルダは頷いた。
「力はあるが、気性は穏やかな方だ。ただし、知らない馬車を引かせるなら、慣らす時間が必要になるだろう」
その時、庭の奥から一人の男性が歩いてきた。
四十代ほどに見える男性で、日に焼けた顔と太い腕が印象的だった。手には農具を持っており、三人の姿を見つけると少し驚いたように眉を上げた。
「オルダさん、どうしたんですか?」
「ベルト、少し相談があってな。こちらは街道で馬車を止めている旅人たちだ」
オルダが紹介すると、ルシルとシモンは丁寧に頭を下げた。
「初めまして。ルシルと申します」
「シモンです。突然お邪魔して申し訳ありません」
ベルトは二人を見比べ、農具を壁際へ立てかけた。
「馬車を止めてる旅人? ああ、ミレナさんが話してた人たちか」
「はい。ベルクという馬の脚を痛めてしまい、現在は街道脇で休ませています」
シモンが答えると、ベルトは少しだけ表情を引き締めた。
「それは大変だな。それで、今日は何の用だ?」
ルシルは一歩前へ出た。
「実は、馬車をハルミナへ戻すために、別の馬を借りられないか相談したくて来ました。オルダさんから、ガランという馬がいると伺ったんです」
ベルトはすぐには答えず、馬小屋の前にいるガランへ目を向けた。
「……ガランを借りたいってことか」
「はい。ただし、無理にお願いするつもりはありません。仕事の都合もあると思いますし、馬車を引けるかどうかも確認が必要だと聞いています」
ルシルがそう続けると、ベルトは腕を組んだ。
「なるほどな。事情は分かった。ただ、ガランはうちの大事な働き手だ。何日も貸すわけにはいかないし、知らない馬車を引かせるのも心配だ」
ルシルは頷いた。
「はい。その気持ちは分かります」
ベルトは少し驚いたようにルシルを見た。
「分かるのか?」
「僕たちも、ベルクとトルクを大切にしています。だから、ガランを大事にしているベルトさんの気持ちも、ちゃんと考えたいんです」
ルシルはまっすぐベルトを見つめた。
「もし借りられるなら、条件を守ります。難しいなら、別の方法を考えます」
ベルトはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうか」
オルダは二人のやり取りを見守りながら、少しだけ口元を緩めていた。
ベルトはガランの方へ歩き、首筋を撫でた。
「こいつは力があるが、何でも引けるわけじゃない。特に、四輪の大きな馬車となると、普段の荷車とは勝手が違う」
「はい。ですから、まずは馬車と馬具を見ていただきたいと思っています」
シモンが答えると、ベルトは頷いた。
「それなら、話だけは聞いてもいい。ただし、今日すぐに貸すとは言えないぞ」
「もちろんです」
ルシルは頭を下げた。
◇
ベルトは庭先の長椅子へ三人を案内し、馬車を動かす場合の条件について話し始めた。
ガランを貸すなら、基本的には一日だけにしたいこと。
馬を扱うのはベルト自身、もしくは彼が認めた人物に限ること。
馬車の構造と馬具を確認し、危険だと判断した場合は貸さないこと。
そして、移動中にガランへ無理な負担をかけないこと。
ルシルは一つずつ聞き、シモンが帳面へ書き留めていくのを見守った。
「費用については、どのくらいになりますか?」
シモンが尋ねると、ベルトは少し考えた。
「一日だけなら、銀貨二枚でどうだ。俺が付き添うなら、その分の仕事も止めることになるからな」
ルシルは思わずシモンへ目を向けた。
銀貨二枚が旅の資金にとってどの程度の負担になるのか、正確な残額はシモンの帳面に記されている。決して軽い金額ではないが、馬車を動かせる可能性があるなら、検討する価値はある。
シモンは帳面を確認し、静かに頷いた。
「条件としては理解できます。ただし、実際にお願いするかどうかは、馬車と道の確認を終えてから判断させてください」
「もちろんだ。俺も、見ないうちから引き受けるつもりはない」
ベルトはそう答え、ルシルへ目を向けた。
「それで、あんたはどう思う?」
突然問いかけられ、ルシルは少し驚いた。
「僕、ですか?」
「ああ。さっきから、そっちの眼鏡の兄さんが細かい話をしてるが、最初に相談したのはあんただろう。馬車をどうしたいのか、あんたの考えを聞きたい」
ルシルは一瞬だけ言葉に詰まった。
王宮にいた頃なら、自分の考えを述べることに慣れていたはずだった。しかし、あの頃は自分の言葉がどれだけの人を動かすのか、深く考えたことがなかった。
今は違う。
自分の判断で、ベルトの仕事が止まるかもしれない。
ガランへ負担をかけるかもしれない。
そして、仲間たちの旅の資金を使うことになる。
ルシルはゆっくりと息を吸い、ベルトへ向き直った。
「僕は、ベルクを無理に動かしたくありません。でも、馬車をこのまま街道へ置き続けるのも、いいことだとは思っていません」
ベルトは黙って聞いていた。
「だから、ベルクを安全な場所で休ませながら、馬車をハルミナへ戻す方法を探しています。そのためにガランの力を借りられるなら、お願いしたいです。でも、ガランが危険な目に遭うなら、別の方法を考えます」
ルシルはそこで一度言葉を区切り、シモンへ目を向けた。
シモンは何も言わず、静かに頷いた。
「僕たちの旅を続けるために、別の馬を傷つけるようなことはしたくありません」
ルシルがそう言うと、ベルトはしばらく黙っていた。
やがて、彼は小さく笑った。
「……なるほどな。若いのに、ずいぶん真面目な考え方をするじゃないか」
ルシルは少し照れたように笑った。
「そうでしょうか」
「ああ。普通なら、何とかして貸してくれって頼むところだろうに」
ベルトはそう言って、ガランの方へ目を向けた。
「分かった。今日の午後、時間を作って馬車を見に行こう。そこで問題がなければ、具体的な話を進めてもいい」
ルシルは顔を上げた。
「本当ですか!」
「ああ。ただし、まだ決定じゃないぞ。馬車の状態と道を見てからだ」
「はい。ありがとうございます!」
ルシルは深く頭を下げた。
シモンも丁寧に礼を述べ、帳面へ予定を書き留めた。
オルダはその様子を見ながら、満足そうに頷いていた。
◇
農家を出たあと、ルシルとシモンは街道へ戻る道を歩いていた。
畑の脇には昨日片づけた小石の山が残っており、浅い溝には雨水が細く流れている。道のぬかるみは完全には消えていなかったが、少なくとも水が溜まり続ける場所は減っているように見えた。
「ルシル様、先ほどは立派なお話でした」
シモンが静かに言うと、ルシルは少し驚いたように顔を向けた。
「えっ、そうかな?」
「はい。相手の事情を考えたうえで、ご自身の希望を伝えていらっしゃいました。ベルトさんも、その姿勢を評価されたのだと思います」
ルシルは少しだけ頬をかいた。
「でも、僕は当たり前のことを言っただけだよ。ガランだって大事な馬なんだから、無理をさせたくないって思っただけで」
「その当たり前を、きちんと言葉にすることが大切なのです」
シモンは穏やかに微笑んだ。
「以前のルシル様なら、相手の事情を考える前に、まずご自身で何とかしようとされたかもしれませんね」
ルシルはその言葉を聞き、少し考え込んだ。
確かに、旅を始めたばかりの頃は、困ったことがあれば自分で解決しなければならないと思っていた。王宮を離れた以上、誰かに頼るのはよくないことだと、どこかで考えていたのかもしれない。
けれど、旅を続けるうちに、その考えは少しずつ変わってきた。
「……そうかもしれないね」
ルシルは静かに笑った。
「でも、今は分かる気がするんだ。誰かに助けてもらうことと、何も考えずに任せることは違うんだって」
シモンは頷いた。
「その通りです」
二人はしばらく黙って歩いた。
遠くには馬車が見え、白い外套を着たモモが二頭の馬のそばに立っている。
ルシルはその姿を見つけると、自然と足を速めた。
◇
野営地へ戻ると、モモがすぐに駆け寄ってきた。
「おかえり! どうだった?」
ルシルは笑顔で頷いた。
「ベルトさんっていう農家の人が、午後に馬車を見に来てくれることになったよ!」
「本当!?」
モモの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、馬車を動かせるかもしれないんだね!」
「うん。でも、まだ決まったわけじゃないよ。馬車と道を見て、安全に動かせるか確認してからなんだ」
ルシルが説明すると、モモは真剣な表情で頷いた。
「そっか。じゃあ、私たちも準備しておかないとね」
シモンは頷き、馬車の方へ目を向けた。
「はい。午後の確認に備えて、馬具と車輪の状態をもう一度見ておきましょう。ただし、ベルクを動かす必要はありません」
「分かった!」
モモは元気よく返事をし、ルシルとともに馬車の周囲を確認し始めた。
シモンは帳面を開き、ベルトから聞いた条件を改めて整理した。
ガランを借りる場合の費用は銀貨二枚。
期間は基本的に一日。
馬を扱うのはベルト自身、または彼が認めた人物。
馬車と馬具、道の状態を確認してから最終判断。
どれも、まだ確定した契約ではない。
しかし、少なくとも馬車を動かすための具体的な候補が一つ見つかったことは、大きな前進だった。
ルシルは馬車の車輪へ手を置き、静かに息を吐いた。
(まだ動けると決まったわけじゃない。でも、何をすればいいのか、少しずつ分かってきた)
その時、モモが馬車の反対側から顔を出した。
「ルシル君! こっちの金具、ちょっと気になるんだけど!」
ルシルはすぐに回り込み、モモが指さす場所を確認した。
そこには、馬車の前部に取り付けられた金具があり、表面に細かな傷が付いている。大きく曲がっているようには見えなかったが、馬車を動かす前に確認しておいた方がよさそうだった。
「シモン、ちょっと来てくれる?」
ルシルが声をかけると、シモンはすぐに近づいてきた。
金具の状態を確かめたあと、彼は少しだけ眉を寄せた。
「確かに、擦れた跡がありますね。ただ、これが使用上の問題になるかどうかは、私たちだけでは判断できません」
「じゃあ、ベルトさんが来た時に見てもらおう」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「そうしましょう。馬具と合わせて確認していただくのがよいと思います」
モモは少しだけ安心したように笑った。
「よかった。見つけた時、ちょっと心配だったんだ」
「気づいてくれてありがとう、モモ」
ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに胸を張った。
「えへへ。私だって、ちゃんと役に立つんだから!」
ルシルは笑いながら頷いた。
「うん。すごく助かってるよ」
◇
午後、ベルトとオルダが野営地を訪れた。
ベルトは馬車の周囲を一通り見渡すと、まず車輪と牽引部分を確認した。オルダも隣で説明を加えながら、馬具の長さや金具の状態を確かめていく。
ルシルたちは少し離れた場所で見守り、必要な時だけ質問に答えた。
「なるほど。二頭引きの馬車か」
ベルトは前部の構造を見ながら呟いた。
「ガラン一頭で引くには、少し工夫が必要かもしれんな」
シモンは頷いた。
「やはり、そうですか」
「力だけなら問題ないかもしれんが、馬具の取り付け方が違う。無理に合わせると、馬の身体へ負担がかかるからな」
ベルトはそう言い、モモが見つけた金具へ目を向けた。
「それに、ここの金具も確認した方がいい。傷そのものは大したことがないかもしれんが、取り付け部分に少し緩みがあるように見える」
ルシルは顔を上げた。
「緩み、ですか?」
「ああ。今すぐ壊れるとは言わんが、重い馬車を引くなら、しっかり固定しておきたいところだ」
オルダも頷いた。
「修理できるかどうか、わしの道具で確認してみよう。ただし、無理に締め直して壊しても困るから、構造を見てからだな」
シモンは帳面へ書き留めた。
「ありがとうございます。必要な修理があれば、費用も含めて相談させてください」
ベルトは頷き、今度は街道の方へ目を向けた。
「道の状態も見ておきたい。特に、あの木立の手前が気になるな」
ルシルはすぐに頷いた。
「僕たちも、あそこは危ないと思っていました。雨が降ると轍に水が溜まるんです」
「そうだろうな。あの場所を通るなら、車輪が沈まないように考えないといけない」
ベルトはしばらく考えたあと、ルシルへ顔を向けた。
「一つ提案がある」
「何でしょうか?」
「馬車を動かす前に、荷物をできるだけ減らしておこう。それから、道の悪い場所を避けられるか、もう一度確認したい」
ルシルは頷いた。
「はい。荷物は昨日から整理しています。必要なら、先に運ぶことも考えています」
「それなら話が早いな」
ベルトは少しだけ笑った。
「ただし、ガランを使うかどうかは、まだ決められん。馬具の調整ができるかどうかと、道の安全を確認してからだ」
「分かりました」
ルシルはそう答え、深く頭を下げた。
◇
ベルトたちが帰ったあと、三人は馬車のそばで今日の結果を整理した。
借りられる可能性のある馬が見つかったこと。
費用と条件が明らかになったこと。
馬車の金具に確認すべき部分が見つかったこと。
そして、道の状態を改めて確認する必要があること。
まだ馬車は動かせない。
けれど、何を確認すれば動かせる可能性があるのか、以前よりはっきりしてきた。
「今日は、ちゃんと前に進んだ気がするね」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「はい。特に、ベルトさんから具体的な条件を伺えたことは大きいと思います」
モモも嬉しそうに笑った。
「それに、私が見つけた金具も役に立ったしね!」
「うん。モモのおかげだよ」
ルシルが答えると、モモは照れたように笑った。
シモンは帳面を閉じ、二人へ顔を向けた。
「明日は、エリサさんへの伝言が届くかどうかも確認したいと思います。ベルクを馬小屋へ移す判断と、馬車を動かす準備を並行して進めましょう」
「うん。そうしよう」
ルシルは頷いた。
◇
夜、ルシルは馬車の外で、ベルクの首筋を撫でていた。
濃灰色の馬は静かに立っており、トルクも近くで休んでいる。右後ろ脚の違和感はまだ残っているが、今夜は少しだけ違う気持ちでその姿を見つめることができた。
今日は、初めて自分から馬を借りる相談をした。
相手の事情を聞き、費用を確認し、条件を考えた。
王宮にいた頃なら、こうしたことはすべて誰かが整えてくれていたはずだった。
けれど、今は自分の言葉でお願いし、自分の判断で進めなければならない。
(王位はいらないって決めたけど、責任まで捨てたわけじゃないんだよね)
ルシルは静かに息を吐いた。
自由に旅をするということは、好きな場所へ行くだけではない。
困った時にどうするかを考え、誰かの力を借りるなら、その人の事情も大切にすること。
そして、自分たちの選択に責任を持つこと。
それが、今のルシルにとっての自由だった。
「ベルク、もう少しだけ待っててね」
ルシルは優しく声をかけた。
ベルクは小さく鼻を鳴らし、彼の手へ顔を寄せた。
その温かな息を感じながら、ルシルは静かに微笑んだ。
背後から足音が聞こえ、振り返るとモモとシモンが立っていた。
「ルシル君、そろそろ寝ようよ。明日もやることいっぱいあるんでしょう?」
モモが言うと、ルシルは頷いた。
「うん。そうだね」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「明日は、今日確認した条件をもとに、さらに具体的な準備を進めましょう」
「うん。よろしくね、シモン」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
三人は顔を見合わせ、静かに笑った。
ハルミナへの帰り道は、まだ続いている。
けれど、今日ルシルが交わした小さな約束は、三人の旅を再び動かすための確かな一歩になっていた。
ルシルはベルクへ最後に声をかけ、仲間たちとともに馬車へ戻った。




