第171話「動かせない馬車と、王子だった俺が選んだ仕事」
旅に出てから三十四日目の朝、ルシルは馬車の車輪に取り付けた止め具を確かめながら、街道の向こうに広がる畑を眺めていた。昨夜のうちに弱い雨が降ったらしく、草の葉には細かな水滴が残り、低い木立の手前にある深い轍には薄く水が溜まっている。雲の切れ間から差し込む朝日がその水面を照らしていたが、ルシルにとっては美しい景色というより、馬車を動かす際に避けなければならない場所の目印になっていた。
少し前までは、旅先で見つけた景色を眺めることが何より楽しかった。もちろん今でもその気持ちは変わらないものの、ベルクの脚を痛めてからは、道の傾斜や土の硬さ、馬が足を置く場所にまで自然と目が向くようになっている。
「ルシル様、車輪止めに問題はありませんか」
背後から声をかけられ、ルシルは振り返った。シモンは水の容器を確認し終えたところらしく、手元の帳面を閉じながら近づいてくる。
「うん。昨日と同じ位置で、緩みもなさそうだよ。それより、夜の雨で道が少しぬかるんでるみたいだね」
「私も確認しました。特に木立の手前は水が残っていますので、今日も馬車を動かすのは避けるべきでしょう」
「そうだね。でも、いつまでもここに置いておくわけにもいかないよね」
ルシルは濃茶色の馬車を見上げた。旅の間ずっと三人を運んできた車体には、青波村で手に入れた青い風魚の布が大切にしまわれ、潮凪村で拾った三つの貝殻も荷物の中に残っている。何日も同じ場所に停まっているせいか、今朝はその馬車が少しだけ寂しそうに見えた。
「その件について、今日は具体的な方法を考えたいと思っています」
シモンはそう言って、馬車の前方へ視線を向けた。
「エリサさんから、ベルクに重い馬車を引かせないよう指示を受けています。ならば、ベルクを休ませる場所の確保と、馬車そのものの移動を別々に考える必要があります」
「別々に、か……」
「はい。今までは二頭と馬車を一緒に動かすことを前提にしていましたが、今はその前提を変えるべきでしょう」
ルシルはその説明を聞き、ゆっくりと頷いた。
ベルクが馬車を引けないのなら、馬車を動かす方法を変えればいい。言葉にすれば簡単なことだったが、実際には馬具の問題もあれば、手伝ってくれる人の都合もあり、費用だって必要になる。
それでも、何日もベルクの回復を待つだけでは、何も変わらない。
「じゃあ、今日は馬車をどうするか決めよう。ベルクの脚を治すのはエリサさんに相談しながら進めるとして、僕たちができることは別にあるはずだから」
シモンは一瞬だけ目を細め、それから穏やかに頷いた。
「承知しました。私も、その方針がよいと思います」
その時、馬車の反対側からモモの声が響いた。
「ルシル君! シモン君! ちょっと来てくれる?」
二人が回り込むと、モモはトルクの前に立ち、困ったような顔をしていた。栗毛の馬は彼女の外套の裾へ鼻先を寄せ、何かを期待するように耳を動かしている。
「トルク君がね、私の服をずっと気にしてるの。何か付いてるのかな?」
ルシルが外套を見ると、裾の内側に乾いた草が一本引っかかっていた。どうやらトルクはそれを食べ物だと思ったらしく、ルシルが取り除くと、今度は彼の手元へ鼻先を伸ばしてくる。
「君は本当に食べることが好きだね。モモの外套まで食べちゃ駄目だよ」
「ええっ、私の外套って食べられそうに見えるの!?」
モモが大げさに驚くと、シモンは眼鏡の位置を直しながら、口元をわずかに緩めた。
「モモ嬢の外套ではなく、付着していた草に興味を持ったのでしょう。もっとも、トルクが食欲旺盛なのは否定できませんが」
「よかったあ。私、馬のおやつになっちゃうところだったのかと思ったよ」
「さすがにそれはないと思うけどね」
ルシルが笑うと、モモもつられて笑い出した。ベルクの脚のことで気を張る日が続いていたため、こんな何でもないやり取りが、今朝はいつも以上にありがたく感じられた。
ベルクは少し離れた場所で落ち着いて立っている。昨日エリサが診察した右後ろ脚には、まだ目に見える大きな変化はなく、身体の向きを変える時には慎重な動きが残っていた。
ルシルはその様子を確認すると、二頭に水を与える準備を始めた。
◇
朝食を終えた三人は、馬車の荷台から荷物を一つずつ降ろし始めた。
ただし、馬車をすぐに動かすためではない。何をどこに積んでいるのかを改めて確認し、移動する場合に必要なものと、いったん降ろせるものを分けるためだった。
シモンが地面に布を敷き、荷物を置く場所を決めると、モモは保存食の包みを抱えてやってきた。
「これは軽い方だよね?」
「ええ。ただ、湿気を避けたいので、こちらの布の上へお願いします」
「はーい。じゃあ、これはこっち!」
モモは包みを丁寧に置き、次の荷物を取りに戻った。
ルシルは馬車の奥から予備の馬具を取り出し、シモンへ渡した。革の表面には旅の途中で付いた細かな擦れ跡があり、金具の一部には土が入り込んでいる。
「これ、オルダさんにも見てもらった方がいいかな」
「そうですね。別の馬を借りることになった場合、馬具が合うかどうかは重要です。私たちだけで判断せず、扱いに慣れた方の意見を聞きましょう」
シモンは馬具を受け取り、傷みのある部分を確認した。
ルシルはその手元を見つめながら、ふと思いついたことを口にした。
「ねえ、シモン。馬車を動かす前に、必要な荷物だけ別に運ぶのはどうかな」
「と、おっしゃいますと?」
「全部積んだままだと重いでしょう? だったら、食べ物や衣類みたいに運びやすいものを先に移して、馬車を軽くするんだ。そうすれば、別の馬に引いてもらう場合も負担が減ると思うんだけど」
シモンはすぐには答えず、積み荷の量と馬車の大きさを見比べた。
「理にかなった考えです。ただし、荷物を降ろしたからといって、馬車そのものが軽くなるわけではありません。四輪の車体は相応の重量がありますし、轍の深い場所では車輪が取られる危険も残ります」
「うん。だから、軽くしたら大丈夫って決めつけるつもりはないよ」
「それなら、検討する価値があります。積み荷を減らすことで必要な牽引力が変わる可能性はありますが、実際に動かすかどうかは、馬と道の両方を確認してから判断しましょう」
ルシルは頷き、荷物の仕分けを続けた。
モモは二人の会話を聞きながら、少し考え込んでいたが、やがて青い風魚の布を取り出して広げた。
「じゃあ、これはどうする? 大事なものだから、馬車から降ろしておいた方がいいかな」
ルシルはその布を見ると、青波村の風を思い出した。
海から吹く強い風に髪を乱されながら、三人で笑った日のこと。旅の途中で手に入れた布には、ただの荷物とは違う意味があった。
「それは、すぐに使わないなら大切にしまっておこう。汚れないように、別の包みに入れておくといいかもしれないね」
「うん。じゃあ、貝殻も一緒にしておく!」
モモは嬉しそうに頷き、三つの貝殻を小さな布で包み直した。
シモンはその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「お二人とも、旅の思い出はずいぶん大切にされていますね」
「もちろんだよ。だって、同じものはもう手に入らないかもしれないから」
ルシルが答えると、モモも勢いよく頷いた。
「そうそう! 物は小さくても、思い出は大きいんだよ!」
「……なるほど。よい言葉ですね」
シモンが感心したように言うと、モモは得意げに胸を張った。
「えへへ。今の、旅帳面に書いておこうかな!」
ルシルは笑いながら、荷物の仕分けを再開した。
こうして一つずつ確かめてみると、馬車には思っていた以上に多くのものが積まれていた。限られた魔法収納へ入れられるものもあったが、何でも無制限に収められるわけではないため、必要なものを選ばなければならない。
シモンは荷物の種類と量を帳面へ記録し、ルシルは運びやすいように包みをまとめた。モモは食料と日用品を分け、途中で使う可能性のあるものを取り出しやすい場所へ置いていく。
昼前には、馬車の積み荷の大部分を確認できた。
ルシルは汗を拭いながら、地面に並んだ包みを見渡した。
「こうして見ると、僕たち、ずいぶんいろいろ持ってたんだね」
「旅が長くなれば、必要なものも増えますからね。ただし、今後は荷物の量を定期的に見直した方がよいでしょう」
シモンが答えると、モモは少しだけ困った顔になった。
「えっ、じゃあ、お土産を買う時も考えないと駄目?」
「もちろんです。特に大きなものや重いものは、馬車への負担も考慮する必要があります」
「そっかあ……。じゃあ、食べられるお土産なら、途中でなくなるから大丈夫かな?」
シモンは一瞬だけ言葉に詰まり、ルシルは思わず吹き出した。
「モモ、それは食べる前提なんだね」
「だって、おいしいものは旅の楽しみだもん!」
「否定はしませんが、食べるためだけに大量に買うのは別の問題です」
シモンが真面目に答えると、モモは少し考えたあと、にっこり笑った。
「じゃあ、三人で分けられる量にする!」
その答えに、シモンは小さく息を吐いた。
「……それなら、よろしいでしょう」
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、自然と笑顔になった。
馬車が動けなくなっても、旅の楽しさまでなくなったわけではない。むしろ、普段は気づかなかったことを知る機会が増えているのかもしれなかった。
◇
昼過ぎ、オルダが野営地を訪れた。
年配の農夫は使い込まれた帽子をかぶり、手には小さな木槌と革の手袋を持っていた。馬車の周囲に並べられた荷物を見ると、少し驚いたように眉を上げた。
「おや、引っ越しでも始めたのか?」
ルシルは笑いながら首を振った。
「いえ、馬車を軽くできないか考えて、荷物を整理していたんです」
「なるほどな。確かに、荷物が少なければ馬への負担も減る。だが、あの轍を通るなら、別の問題もあるぞ」
オルダはそう言って、街道の方へ目を向けた。
ルシルは頷き、シモンと話し合った内容を説明した。馬車を動かす方法とベルクを休ませる方法を分けて考えていること、別の馬を借りる可能性があること、そして道の状態を確認する必要があることを伝える。
オルダは最後まで聞くと、ゆっくりと頷いた。
「考え方は悪くない。ただ、馬を借りるなら、相手の馬のことも考えなきゃならん。農家の馬は毎日仕事をしているし、知らない馬車を引かせるには慣れが必要だ」
「はい。無理にお願いするつもりはありません」
ルシルが答えると、オルダは少しだけ表情を和らげた。
「それなら、まずは馬車を見せてもらおうか。どんな馬具を使っているのか、確認しておきたい」
シモンは予備の馬具を持ってきて、オルダの前へ並べた。
オルダは革の長さや金具の位置を確かめ、馬車の前部へ回って牽引部分の構造を見た。時折シモンへ質問しながら、二頭で引く場合の力のかかり方を確認していく。
「ふむ。これなら、馬の体格が合えば使えるかもしれん。ただし、実際につないでみないと分からんな」
「やはり、そうですか」
「それに、馬車を引く馬を借りられたとしても、ベルクをどうするかが残る。馬小屋の準備は進んでいるが、昨日の雨で小道が少し柔らかくなっているんだ」
オルダはそう説明し、畑の方を指さした。
「小石はある程度片づけたが、まだ安全に歩けるかどうか確認したい。エリサ先生からは、今日の移動を許可されたわけじゃないんだろう?」
「はい。昨日は、無理に動かさず、状態を見ながら判断するように言われました」
シモンが答えると、オルダは頷いた。
「なら、勝手に動かすのはやめておこう。わしも、馬の脚を悪くさせるようなことはしたくない」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
オルダは長く馬を扱ってきた人だが、自分の経験だけで何でも判断しようとはしない。その慎重さが、ルシルにはとても頼もしく感じられた。
「オルダさん、馬小屋の修理はどうなっていますか?」
ルシルが尋ねると、オルダは少しだけ胸を張った。
「床板は取り替えたぞ。古い藁も片づけたし、壁際にあった道具も別の場所へ移した。あとは新しい敷き藁を用意すれば、馬を休ませる場所として使えるはずだ」
「本当ですか!」
モモが嬉しそうに声を上げた。
「すごい! オルダさん、ありがとうございます!」
オルダは少し照れたように帽子のつばを触った。
「いや、まだベルクを入れられると決まったわけじゃないからな。使うなら、先生にも見てもらった方がいい」
ルシルは頷き、改めて頭を下げた。
「それでも、準備してくださってありがとうございます。僕たちも何か手伝えることがあれば、ぜひやらせてください」
オルダはしばらくルシルを見つめたあと、少し考えるように顎へ手を当てた。
「そうだな……。なら、頼みたいことが一つある」
「何でしょうか?」
「馬小屋へ続く小道の脇に、雨で流れてきた石がいくつか残っている。大きなものはわしが片づけたが、小さな石を拾う作業なら手伝ってもらえるだろう」
ルシルはすぐに頷いた。
「もちろんです!」
「ただし、馬たちを置いたまま全員で行くわけにはいかん。誰か一人はここに残ってくれ」
シモンはその言葉を聞き、ルシルへ目を向けた。
「では、私が馬車と二頭を見ていましょう。ルシル様とモモ嬢は、オルダさんの指示に従って作業をお願いします」
「分かった。無理はしないよ」
ルシルが答えると、モモも元気よく頷いた。
「私も頑張る!」
オルダは二人を見て、少しだけ笑った。
「よし。じゃあ、行こうか」
◇
オルダの農家へ続く小道は、街道から畑の脇へ入った場所にあった。
道幅は人が並んで歩くには十分だったが、馬車を通すには狭く、途中には雨で流れてきた小石が散らばっている。ルシルは足元を確かめながら歩き、ベルクをここへ連れてくる場合にどこが危険になるのかを考えていた。
「この辺りは、昨日より少し土が柔らかいですね」
ルシルが言うと、オルダは頷いた。
「ああ。雨が降ると、畑の方から水が流れてくるんだ。普段は農作業の荷車が通るから、それほど問題にはならんが、脚を痛めた馬には気をつけたい場所だな」
モモは足元の石を拾いながら、少し考え込んだ。
「じゃあ、石を片づけるだけじゃなくて、水が溜まらないようにした方がいいのかな?」
オルダはその言葉に顔を上げた。
「ほう。よく気づいたな」
「えへへ。だって、石を拾っても、また雨が降ったら流れてきちゃうかもしれないでしょう?」
「その通りだ。だから、道の脇に浅い水の通り道を作っておくといい。畑の方へ水が流れ込まないように、向きも考えなきゃならんがな」
ルシルはその説明を聞き、道の脇を見渡した。
小さな溝のようなものが途中まで続いていたが、落ち葉と土で埋まりかけている。水が流れる場所を整えれば、道のぬかるみを減らせるかもしれなかった。
「オルダさん、あの溝を掃除するのはどうですか?」
ルシルが指さすと、オルダは近づいて確認した。
「そうだな。ここが詰まっているせいで、水が道へあふれているのかもしれん。ただ、勝手に深く掘ると畑へ水が流れるから、まずは落ち葉だけ取り除こう」
「はい。分かりました」
ルシルは頷き、オルダの指示に従って作業を始めた。
モモは道の上に散らばった小石を拾い、ルシルは溝を塞いでいた落ち葉を取り除く。オルダは二人の作業を見守りながら、必要な場所だけ手を加えていった。
作業は思ったよりも地味だった。
大きな石を動かすわけでも、魔法で道を整えるわけでもない。小さな石を一つずつ拾い、落ち葉を集め、足元の土を確かめながら進むだけだった。
それでも、作業を続けるうちに、道の表面は少しずつ歩きやすくなっていった。
「ルシル君、こっち見て!」
モモが声をかけると、ルシルは顔を上げた。
彼女は道の脇にしゃがみ込み、小さな石を手に持っていた。
「この石、ちょっと変わった形してるよ!」
ルシルが近づくと、モモの手の中には、丸みを帯びた灰色の石があった。表面には細い線がいくつも走っており、よく見ると貝殻のような模様にも見える。
「本当だ。自然にできた模様なのかな」
「分からないけど、なんだか面白いよね!」
モモは嬉しそうに石を眺めたあと、少し考えてから元の場所へ戻した。
「でも、今日は道をきれいにする日だから、これは持って帰らないでおこうかな」
ルシルは少し驚いて彼女を見た。
「珍しいね。モモなら、旅帳面に描くために持って帰るかと思った」
「えへへ。私だって、何でも持って帰るわけじゃないよ。今は荷物を減らしたいんでしょう?」
モモはそう言って、得意げに胸を張った。
ルシルは思わず笑った。
「そうだね。ありがとう、モモ」
二人のやり取りを聞いていたオルダは、少し離れた場所で小さく笑っていた。
「旅人ってのは、面白いものだな。道の石一つでも、そんなに楽しめるのか」
ルシルは振り返り、笑顔で答えた。
「はい。旅をしていると、今まで見たことのないものがたくさんあるんです。小さなものでも、見つけると嬉しくなります」
「そうか。わしはこの辺りで長く暮らしているから、道の石なんて気にしたこともなかったよ」
オルダはそう言い、少しだけ遠くの畑へ目を向けた。
「だが、同じ場所にいても、見方を変えれば新しいものがあるのかもしれんな」
その言葉に、ルシルは静かに頷いた。
◇
作業を始めてしばらくすると、小道の途中にある低い場所で水が溜まっていることに気づいた。
そこは畑の端から流れてきた水が集まる場所らしく、地面が柔らかくなっている。ルシルが足を置くと、靴の底がわずかに沈んだ。
「ここは、ちょっと危ないですね」
ルシルが言うと、オルダは近づいて地面を確かめた。
「ああ。ベルクを歩かせるなら、ここは避けたいな」
モモは少し考えたあと、道の脇へ目を向けた。
「じゃあ、こっちの少し高いところを通れないかな?」
彼女が指さした場所は、畑の端に沿ってわずかに盛り上がっている。草が生えており、地面も比較的硬そうだったが、幅はそれほど広くない。
オルダはその場所を見て、しばらく考え込んだ。
「通れないことはないが、馬が安心して歩ける幅があるかどうかだな。それに、畑の中へ踏み込まないようにしなきゃならん」
ルシルは頷き、地面の幅を目で確かめた。
「じゃあ、ここは無理に通そうとしない方がいいですね」
「そうだな。先生に相談するまでは、候補として覚えておくだけにしよう」
オルダはそう答え、道の状態を帳面へ簡単に記録した。
ルシルはその様子を見ながら、少しだけ考え込んだ。
これまで自分は、旅の道を進む時、どこへ向かうかばかり考えていた。けれど、実際には道を通れるかどうか、誰がその道を使うのか、どんな負担がかかるのかまで考えなければならない。
王宮にいた頃なら、移動の準備は誰かが整えてくれていた。
馬車が用意され、道が確認され、必要な人手が揃えられる。
自分はただ、決められた時刻に乗り込めばよかった。
しかし、今は違う。
誰かが用意してくれるのを待つだけでは、旅は進まない。
(王子だった頃は、道が安全かどうかなんて、考えたこともなかったな。誰かが見えないところで、こういう仕事をしてくれていたんだ)
ルシルは足元の小石を拾いながら、静かに息を吐いた。
自分が自由に旅をできるのは、何もかも一人でできるからではない。仲間や、道中で出会う人たちの力を借りながら、自分でもできることを探しているからだった。
そう考えると、今手にしている小さな石にも意味があるように思えた。
◇
午後の作業を終える頃には、小道の上に散らばっていた石の大部分を片づけることができた。
ただし、ぬかるんだ場所は残っており、ベルクを歩かせてよいかどうかの判断もまだできていない。ルシルはその状態を確認し、無理に作業を続けるより、今日できたことを整理する方が大切だと考えた。
「オルダさん、今日はここまでにしておきませんか。道の状態はだいぶ分かりましたし、残っている場所は先生に相談してからの方がよさそうです」
ルシルが言うと、オルダは満足そうに頷いた。
「そうだな。よく働いてくれたよ。小石がなくなっただけでも、歩きやすくなった」
モモは手の汚れを払いながら、嬉しそうに笑った。
「よかった! ベルク君が歩くことになっても、少しは安心できるね!」
「ただし、まだ歩かせると決まったわけじゃないぞ」
オルダが念を押すと、モモはすぐに頷いた。
「分かってるよ。先生が大丈夫って言ってからだよね!」
ルシルも頷き、オルダへ頭を下げた。
「今日はありがとうございました。僕たちだけだったら、どこを直せばいいのか分からなかったと思います」
「こちらこそ助かったよ。年寄り一人じゃ、細かい石を拾うだけでも時間がかかるからな」
オルダはそう言って、少しだけ笑った。
「それに、馬小屋の準備も進んでいる。明日、先生へ相談できるようにしておこう」
ルシルはその言葉を聞き、顔を上げた。
「エリサさんに、ですか?」
「ああ。ダリオが明日も町へ行く用事があると言っていたから、伝言を頼めるかもしれん。先生の都合もあるだろうが、少なくとも今の道の状態を知らせることはできる」
ルシルは頷いた。
「それなら、僕たちも伝えたいことをまとめておきます。ベルクの様子と、道の状態、それから馬小屋の準備が進んだことを」
「それがいい。先生も、情報があった方が判断しやすいだろう」
オルダはそう答え、二人を街道まで送ってくれた。
◇
野営地へ戻ると、シモンが馬車のそばで待っていた。
トルクは落ち着いて草を食み、ベルクも静かに休んでいる。二頭の様子に大きな変化はなく、シモンはルシルとモモの姿を見つけると、安心したように微笑んだ。
「お帰りなさいませ。作業はいかがでしたか」
「小石はかなり片づけられたよ。でも、途中にぬかるんだ場所が残ってるから、ベルクを歩かせるかどうかは、まだ決められないんだ」
ルシルが説明すると、シモンは頷いた。
「それでよいと思います。道の状態が分かっただけでも、大きな収穫です」
モモは嬉しそうに手を上げた。
「それとね、道の脇の溝も少し掃除したんだよ! 雨が降った時に、水が溜まりにくくなるかもしれないんだって!」
「なるほど。排水のことまで確認されたのですね」
シモンは感心したように頷き、二人の手元へ目を向けた。
「ただ、かなり土が付いていますね。食事の前に、しっかり洗いましょう」
モモは自分の手を見て、少しだけ笑った。
「えへへ。頑張った証拠だよ!」
「その証拠は、食事の中へ入れないでくださいね」
シモンが真面目に答えると、ルシルは思わず笑い出した。
モモも一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「分かってるよ! 土入りのご飯なんて作らないもん!」
三人はそんなやり取りをしながら、夕食の準備を始めた。
水の残量を確認し、必要な分だけ使う。保存食を取り出し、簡単な料理を作る。
いつもと変わらない作業だったが、今日は少しだけ違う気持ちで取り組めた。
ベルクの脚はまだ治っていない。
馬車も動かせないままだ。
それでも、馬小屋の準備は進み、道の状態も分かり、荷物を整理することで馬車を軽くする方法も見えてきた。
何も変わらない一日ではなかった。
◇
夕食のあと、ルシルはシモンへ今日考えたことを話した。
馬車とベルクを別々に移動させる方法について、もう少し具体的に考えたいこと。必要な荷物を先に運べば、馬車の負担を減らせる可能性があること。そして、ベルクを無理に歩かせずに休ませる場所を確保することが、今は何より大切だということを伝えた。
シモンは最後まで聞いたあと、ゆっくりと頷いた。
「ルシル様のお考えは、十分に検討する価値があります。ただ、馬車を動かすための人手や馬を借りる場合には、相手の都合と費用も考えなければなりません」
「うん。だから、明日はオルダさんに相談して、どんな方法があるか具体的に聞いてみたいんだ」
「承知しました。では、私の方でも必要な条件を整理しておきましょう」
シモンは帳面を開き、いくつかの項目を書き出した。
馬車を動かすために必要な馬の数。
馬具の適合。
道の幅と状態。
荷物を運ぶ手段。
ベルクを休ませる場所。
そして、協力をお願いする場合の費用と日程。
ルシルはその項目を見ながら、少しだけ驚いた。
「こうして書くと、考えることがたくさんあるね」
「ええ。ただ、整理すれば、一つずつ確認できます。すべてを同時に解決する必要はありません」
シモンはそう答え、帳面を閉じた。
モモは隣から覗き込み、少し考えたあと、明るく言った。
「じゃあ、私は馬たちのお世話を頑張るね! それと、必要なら荷物を運ぶのも手伝う!」
「ありがとう、モモ。すごく助かるよ」
ルシルが笑うと、モモは嬉しそうに頷いた。
シモンも穏やかに微笑んだ。
「お二人が協力してくださるなら、私も心強いです」
三人はそのあと、明日の予定を簡単に確認し、休む準備を始めた。
◇
夜が深まる頃、ルシルは馬車の外へ出て、ベルクの様子を確かめた。
濃灰色の馬は静かに立っており、トルクも近くで休んでいる。右後ろ脚の動きにはまだ違和感が残っているが、今夜は少しだけ違う気持ちでその姿を見つめることができた。
昨日までは、ベルクが元気になることを願いながら、ただ待つしかないように感じていた。
けれど、今日は自分たちの手で道を整え、荷物を整理し、これからの移動方法を考えた。
それだけで、何かが少し変わったように思えた。
「ベルク、もう少しだけ待っててね」
ルシルは首筋へ手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。
ベルクは小さく鼻を鳴らし、ルシルの方へ顔を寄せた。
その温かな息を感じながら、ルシルは静かに微笑んだ。
(王子だった頃は、誰かが道を用意してくれていた。でも今は、自分たちで道を作っていくんだね)
ルシルはそう考え、ベルクの額をもう一度撫でた。
背後から足音が聞こえ、振り返るとシモンが立っていた。
「ルシル様、そろそろお休みになった方がよろしいですよ」
「うん。もう少しだけベルクのそばにいたかったんだ」
シモンはベルクへ目を向け、穏やかに頷いた。
「お気持ちは分かります。ただ、明日も考えることが多くなりそうです。今夜はしっかり休みましょう」
「そうだね」
ルシルはベルクへ最後に声をかけ、シモンと一緒に馬車へ戻った。
草地には静かな夜風が吹き、遠くの木立がかすかに揺れていた。
ハルミナへの帰り道は、まだ続いている。
けれど、三人が自分たちの手で進めた小さな行動は、確かに次の一歩へつながっていた。
ルシルは仲間たちの存在を感じながら、明日へ向けて静かに眠りについた。




