第170話「獣医が見つけた小さな異変と、三人の帰り道をつなぐ約束」
ハルミナの町に朝の鐘が響いた頃、シモンは「旅人の休み家」の食堂で、温かな朝食を前にしていた。窓の外では商人たちが店を開く準備を始め、荷車の車輪が石畳を通る音が聞こえている。いつもならルシルとモモが向かいに座り、その日の予定について話し合っている時間だったが、今朝の卓にはシモン一人しかいなかった。
宿の女主人マリナは、焼いたパンと野菜の煮込みを運んでくると、シモンの前へ丁寧に置いた。
「おはよう、シモンさん。昨夜は眠れた?」
「おはようございます、マリナさん。おかげさまで、十分に休むことができました」
「それならよかったわ。今日は獣医の先生のところへ行くんでしょう?」
「はい。昨日お話を伺ったエリサさんが、街道まで来られるかどうか、今朝お返事をいただくことになっています」
マリナは頷き、少しだけ心配そうな表情を浮かべた。
「ベルク君、早く診てもらえるといいわね。ルシル君たちも、きっと心配しているでしょうし」
「ええ。私も、できるだけ早く状況をお伝えしたいと思っています」
シモンはそう答え、朝食へ手を伸ばした。
温かな食事は身体に染み渡ったが、気持ちまで落ち着いたわけではなかった。獣医が見つかったことは大きな前進であるものの、エリサが街道まで来られるかどうかはまだ分からず、仮に診察が実現したとしても、ベルクの脚がすぐに良くなる保証はない。
それでも、今できることは明確だった。
専門家の診察を受け、原因を調べ、無理のない移動方法を考える。
シモンはその順序を頭の中で確認し、食事を終えると鞄を手に取った。
「マリナさん、行ってまいります」
「ええ。気をつけてね。先生が来られることになったら、帰り道のことも忘れずに相談するのよ」
「承知しました。ありがとうございます」
マリナに見送られ、シモンは朝の通りへ出た。
昨日の夕方とは違い、町には活気が満ちていた。パン屋の前には焼きたてのパンを求める人々が並び、井戸の周囲では水を汲む住民たちが言葉を交わしている。
シモンはその光景を横目に見ながら、西側の診療所へ向かった。
◇
診療所の前へ到着すると、昨日見た木柵の向こうで、一人の男性が荷車を整えていた。
シモンが声をかけると、男性は顔を上げ、すぐに彼のことを思い出したようだった。
「ああ、昨日の旅人さんか。先生なら、もう来ているよ」
「ありがとうございます。お約束していた件で伺いました」
「聞いてるよ。少し待ってな」
男性が建物の中へ声をかけると、ほどなくしてエリサが姿を現した。
昨日と同じように髪を後ろでまとめ、作業用の上着を着ている。手には診療道具を確認するための小さな帳面を持っていた。
「おはよう、シモンさん。時間どおりね」
「おはようございます、エリサさん。昨日はお忙しいところ、ありがとうございました」
「こちらこそ。馬の状態が気になっていたから、朝の予定を調整してみたの」
エリサは帳面を開き、指で予定を確かめた。
「午前中の診療を少し早めに終えられれば、昼過ぎには出発できそうよ。ただ、街道まで行くには荷車が必要だから、そこだけ確認したいの」
シモンは顔を上げた。
「それでしたら、昨日私を町まで乗せてくださったダリオさんに相談できるかもしれません。近くの農家で働いている方で、こちらの診療所とも面識があると伺いました」
「ええ、ダリオなら知っているわ。ちょうど昨日、荷物を届けに来ていたはずね」
エリサは少し考え、建物の奥へ目を向けた。
「診療所にも小さな荷車はあるけれど、あの道を通るなら地元の人に案内してもらった方が安心ね。まずはダリオに連絡を取ってみましょう」
「ありがとうございます。私もできることがあれば、お手伝いいたします」
「そうね。では、道具の準備を手伝ってもらえるかしら。馬の診察に必要なものを持っていくから、荷物が少し多くなるの」
シモンは頷き、エリサの指示に従って診療道具を運び始めた。
木箱の中には、清潔な布や包帯、蹄を確認するための道具、記録用の帳面などが整然と収められていた。シモンは一つずつ確認しながら荷車へ運び、移動中に揺れないよう固定していく。
作業を進めるうちに、エリサがふと顔を上げた。
「そういえば、ベルクは普段から二頭で馬車を引いているのよね?」
「はい。もう一頭はトルクという栗毛の馬です。現在のところ、トルクに異常は見られません」
「二頭の歩き方や馬具の使い方も、できれば確認したいわ。脚の異常が直接の原因とは限らないけれど、馬車を引く時の負担が関係している場合もあるから」
「承知しました。馬具はすべて馬車に積んでありますので、ご確認いただけます」
エリサは頷き、帳面へ何かを書き留めた。
「それと、診察の時にはベルクを無理に歩かせないでね。必要なら私が指示するから、それまでは休ませておいて」
「はい。ルシル様とモモ嬢にも、そのように伝えてあります」
シモンはそう答えたあと、少しだけ表情を和らげた。
「お二人とも、ベルクを大切に思っていらっしゃいますので、無理をさせることはないと思います」
エリサはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「それなら安心ね。馬を大切にしている人たちなら、きっと診察にも協力してくれるでしょう」
◇
昼前、ダリオが診療所へ姿を見せた。
昨日シモンを乗せてくれた男性は、エリサから事情を聞くと、少し驚いたように眉を上げた。
「先生まで街道へ行くんですか?」
「ええ。馬の脚の状態を確認したいの。無理に町まで歩かせるより、こちらから行った方が安全だと思うから」
エリサが答えると、ダリオは腕を組んで考え込んだ。
「それなら、昨日使った道を通れば行けると思います。ただ、診療道具を載せるなら、少し荷物を減らした方がいいかもしれませんね」
「そうね。必要なものだけにしておくわ」
シモンは二人のやり取りを聞きながら、地図を取り出した。
「野営地は、街道の坂を下った先にある平らな草地です。昨日、私たちが水を運んだ場所からも、それほど離れていません」
ダリオは地図を覗き込み、すぐに頷いた。
「ああ、分かります。あの辺りなら、荷車を止められる場所がありますね」
「では、そこまでお願いできるかしら」
エリサが尋ねると、ダリオは笑った。
「もちろんです。馬が困っているなら、放っておけませんから」
シモンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。昨日に続いてお世話になり、申し訳ありません」
「気にしないでください。どうせ午後は農家へ戻る予定でしたから、少し寄り道するだけですよ」
ダリオはそう答え、荷車の準備を始めた。
診療道具を載せ終えると、エリサは最後に荷物の固定を確認し、シモンへ顔を向けた。
「では、行きましょう。ベルクの状態を実際に見てから、次のことを考えるわ」
「はい。よろしくお願いいたします」
シモンは荷車へ乗り込み、ハルミナの町を後にした。
◇
同じ頃、街道脇の草地では、ルシルとモモが馬たちの世話を終えたところだった。
今朝もベルクの右後ろ脚には不自然な動きが残っており、二人は無理に歩かせず、平らな場所で休ませていた。トルクは相変わらず元気で、ルシルが水桶を運ぶと、待っていたように首を伸ばしてきた。
「トルク、そんなに急がなくても大丈夫だよ」
ルシルが笑いながら声をかけると、トルクは鼻を鳴らし、水桶へ顔を近づけた。
モモはその様子を見ながら、旅帳面へ小さな絵を描いていた。
「トルク君って、いつも元気だよね。ベルク君の分まで頑張ろうとしてるのかな?」
「どうだろう。でも、トルクが元気でいてくれるのはありがたいね」
ルシルはそう答え、ベルクの方へ目を向けた。
濃灰色の馬は静かに立っており、時折草を食んでいる。食欲があることは少し安心できる材料だったが、脚の原因が分からない以上、楽観することはできなかった。
「シモン、今頃どうしてるかな」
ルシルが呟くと、モモは顔を上げた。
「きっと先生を探してくれてるよ。シモン君なら、ちゃんと話を聞いて、必要なことを確認してくれると思う」
「うん。そうだね」
ルシルは頷き、馬車の方へ戻った。
水の容器を確認し、残量を記録する。シモンが普段行っている作業を二人で分担するようになってから、ルシルは旅の準備に必要なことを以前より細かく考えるようになっていた。
水がどれだけ残っているか。
保存食は何日分あるか。
馬たちの様子に変化はないか。
馬車の固定具に緩みはないか。
どれも地味な作業だったが、一つでも見落とせば、旅の安全に関わることだった。
「シモンって、毎日こんなにたくさん確認してくれてたんだね」
ルシルが言うと、モモは頷いた。
「うん。帰ってきたら、いっぱいありがとうって言おうね!」
「そうだね。きっと照れると思うけど」
二人は顔を見合わせて笑った。
その時、遠くから荷車の車輪が軋む音が聞こえてきた。
ルシルは顔を上げ、街道の曲がり角へ目を向けた。
最初は通りすがりの荷車だと思ったが、近づいてくるにつれて、見覚えのある姿が見えてきた。
「……あれ?」
ルシルは目を細めた。
荷車の上には、眼鏡を掛けた黒髪の青年が座っている。
「シモン!」
ルシルが声を上げると、モモも勢いよく立ち上がった。
「えっ、本当!?」
二人は街道の方へ駆け出しかけたが、荷車がまだ動いていることに気づき、草地の端で足を止めた。
荷車がゆっくりと近づき、ダリオが手綱を引いて停止させる。
その隣から、シモンが顔を上げた。
「ルシル様、モモ嬢。ただいま戻りました」
その声を聞いた瞬間、モモの顔がぱっと明るくなった。
「シモン君! おかえりなさい!」
ルシルも笑顔で頷いた。
「おかえり、シモン。無事でよかった!」
シモンは荷車から降りると、二人の前へ歩いてきた。
「お二人とも、お変わりありませんか?」
「うん。僕たちは大丈夫だよ。ベルクもトルクも、無理をさせずに休ませてた」
ルシルが答えると、シモンは安心したように頷いた。
「ありがとうございます。お二人が守ってくださったおかげで、安心して町へ行くことができました」
モモは嬉しそうに笑い、シモンの鞄へ目を向けた。
「それで、先生は見つかったの?」
「はい。こちらにいらっしゃるエリサさんが、ベルクを診てくださることになりました」
シモンが荷車の方へ手を向けると、エリサがゆっくりと降りてきた。
ルシルとモモは驚いたように目を丸くした。
「えっ、先生が来てくれたの?」
ルシルが尋ねると、エリサは穏やかに微笑んだ。
「初めまして。獣医のエリサです。ベルクという馬の脚を診に来ました」
ルシルは慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。
「初めまして、ルシルです。わざわざ来ていただいて、本当にありがとうございます」
「私はモモです! ベルク君のこと、よろしくお願いします!」
モモも丁寧に頭を下げた。
エリサは二人の様子を見て、少しだけ笑った。
「そんなにかしこまらなくても大丈夫よ。まずは馬の状態を確認しましょう」
◇
エリサは診療道具を取り出す前に、ベルクの様子を遠くから観察した。
濃灰色の馬は落ち着いて立っており、トルクも近くで静かにしている。エリサは二頭の位置と地面の状態を確認し、ルシルたちへいくつか質問をした。
「ベルクは、今朝も食事と水を取っていた?」
「はい。食欲はありますし、水も飲んでいます」
ルシルが答えると、エリサは頷いた。
「脚の状態は、昨日から変わった?」
「大きな変化はありません。ただ、右後ろ脚を動かす時に、少しためらう様子があります」
シモンが説明すると、エリサは帳面へ書き留めた。
「分かったわ。では、まず身体の状態を確認させてね」
彼女はベルクへゆっくりと近づき、首筋へ手を伸ばした。
ベルクは少し耳を動かしたが、エリサが落ち着いた声で話しかけると、静かに立っていた。
「いい子ね。少し触らせてちょうだい」
エリサはベルクの身体を丁寧に確認し、脚の周囲や関節の状態を慎重に調べた。
ルシルは少し離れた場所で見守りながら、胸の奥に緊張が広がるのを感じていた。
オルダが見てくれた時もそうだったが、専門家が脚へ触れる様子を見ていると、今まで気づかなかった問題が見つかるのではないかという不安が生まれてくる。
エリサは右後ろ脚だけでなく、左後ろ脚や前脚の状態も確認した。
そのあと、蹄の周囲を注意深く観察し、シモンへ声をかけた。
「少しだけ、平らな場所を歩かせてもらえるかしら。無理はさせないで、数歩だけでいいわ」
「承知しました」
シモンは手綱を取り、ベルクをゆっくりと誘導した。
ベルクは数歩進んだが、右後ろ脚を前へ出す時にわずかなためらいを見せた。
エリサはその動きをじっと見つめ、すぐに手を上げた。
「もういいわ。止めてちょうだい」
シモンはベルクを止め、元の場所へ戻した。
エリサはしばらく考え込んだあと、右後ろ脚の蹄をもう一度確認した。
「……なるほど」
小さく呟き、彼女は道具箱から細い金属製の器具を取り出した。
ルシルは思わず身を乗り出しかけたが、シモンが静かに手で制した。
「ルシル様、少し離れて見守りましょう」
「あっ、うん。ごめん」
ルシルは頷き、元の位置へ戻った。
エリサは蹄の周囲を慎重に調べ、泥や小石が残っていないか確認した。
そして、蹄の外側にある小さな傷のような部分を見つけると、眉を寄せた。
「ここね……」
エリサはベルクの反応を確かめながら、さらに詳しく観察した。
ルシルは胸の奥がどきりとするのを感じた。
「何か、見つかったんですか?」
エリサは顔を上げ、落ち着いた声で答えた。
「蹄の外側に、少し気になる部分があるわ。ただ、これが歩き方の異常の原因だとは、まだ断定できない」
「そうなんですね……」
「ええ。小さな傷や圧迫でも歩き方が変わることはあるけれど、関節や筋肉の問題が隠れている場合もあるからね。今は、いくつか可能性を考えながら確認しているところよ」
エリサはそう説明し、再びベルクの脚へ目を向けた。
彼女は無理に蹄を削ったり、強く押したりすることはせず、必要な範囲で状態を確かめていった。
しばらくして、診察を一度区切ると、エリサは三人へ向き直った。
「今の段階では、右後ろ脚に負担がかかっていることは確かね。ただし、原因が一つとは限らないし、ここで詳しい検査をするには限界があるわ」
ルシルは静かに頷いた。
「じゃあ、ベルクはまだ馬車を引けないんですね」
「そう考えた方がいいわ。少なくとも、今すぐ重い馬車を引かせることは勧められない」
エリサの言葉に、三人は顔を見合わせた。
予想していた答えではあったが、専門家から改めて聞くと、その重みは違って感じられた。
◇
エリサは診療道具を片づけながら、今後の方針について説明した。
「まずは、ベルクを無理に歩かせず、休ませることが大切ね。蹄の状態も気になるから、できれば清潔で乾いた場所に移したいところだけれど、移動そのものが負担になる可能性もあるわ」
シモンは頷き、オルダが用意している馬小屋について説明した。
「近くの農家に、古い馬小屋があります。現在、床板の修理と掃除を進めていただいているところです。ただ、そこまでベルクを歩かせるべきか判断できず、まだ移動していません」
エリサはその話を聞き、少し考え込んだ。
「距離と道の状態を確認したいわね。平らな道を短く歩くだけなら可能な場合もあるけれど、今の状態では慎重に判断する必要があるわ」
ダリオが隣から口を開いた。
「オルダさんの農家なら、ここから畑の脇を通る道があります。荷車は通れますが、馬車には少し狭いですね」
「そうなのね。では、あとで道を見せてもらえるかしら」
エリサが尋ねると、ダリオは頷いた。
「もちろんです」
ルシルは二人の話を聞きながら、少しだけ希望を感じていた。
馬小屋へ移動できれば、ベルクを雨風から守りながら休ませることができる。
しかし、無理に歩かせることはできない。
その判断を専門家と一緒に考えられることが、今は何よりありがたかった。
「エリサさん、ベルクを町へ連れていく方法はありますか?」
ルシルが尋ねると、エリサは少し考えた。
「馬を運ぶための専用の荷車があれば可能かもしれないけれど、この辺りで使えるものがあるかは分からないわ。それに、乗せる時にも負担がかかるから、状態を見ながら判断する必要がある」
「そうですか……」
「でも、今すぐ町へ連れていかなければならないと決まったわけではないのよ。まずは安全な場所で休ませて、必要な処置を続ける方法もあるわ」
エリサはそう言い、ルシルへ穏やかに微笑んだ。
「焦らなくて大丈夫。できることを一つずつ考えましょう」
ルシルはその言葉を聞き、胸の奥にあった焦りが少し和らぐのを感じた。
「……はい。ありがとうございます」
◇
診察を終えたあと、エリサはオルダの農家へ向かうことになった。
シモンとダリオが同行し、馬小屋とそこまでの道を確認する。ルシルとモモはベルクとトルクを見守るため、野営地に残ることになった。
「ルシル様、少しの間、こちらをお願いいたします」
シモンが言うと、ルシルは頷いた。
「うん。任せて。ベルクもトルクも、無理に動かさないようにするよ」
モモも元気よく頷いた。
「私もちゃんと見てるね!」
シモンは安心したように微笑み、エリサたちとともに歩き始めた。
ルシルはその背中を見送りながら、ベルクの方へ目を向けた。
濃灰色の馬は静かに立っており、トルクも近くで草を食んでいる。
エリサに診てもらえたことで、少なくとも無理に馬車を引かせるべきではないという判断は確かなものになった。
それでも、ベルクの脚がすぐに治るわけではない。
ルシルはその現実を受け止めながら、ゆっくりとベルクへ近づいた。
「ベルク、もう少しだけ休もうね」
ベルクは小さく鼻を鳴らし、ルシルの方へ顔を寄せた。
モモも隣へ来て、優しく首筋を撫でた。
「先生が来てくれてよかったね。きっと、これからどうしたらいいか分かるよ」
ルシルは頷き、モモへ微笑んだ。
「うん。僕たちも、できることをちゃんとやろう」
二人はそのあと、馬たちの水と餌を確認し、馬車の周囲を整えた。
◇
午後の陽が傾き始めた頃、シモンたちが野営地へ戻ってきた。
エリサは馬小屋と道を確認した結果を、三人へ説明した。
「馬小屋は、修理が終われば使えそうね。床の傷んだ部分も直しているし、換気もできる。ただし、ベルクを移動させるなら、道の状態をもう少し整えた方がいいわ」
ルシルは顔を上げた。
「道を整える、ですか?」
「ええ。途中に小石が多い場所があるから、そこを片づけて、できるだけ平らにしておきたいの。ベルクが歩く距離を短くすることも考えましょう」
シモンは頷き、地図を広げた。
「オルダさんとも相談し、馬小屋までの道を確認してきました。馬車を通すことは難しいですが、ベルクだけなら、状態を見ながら慎重に移動できる可能性があります」
「ただし、今日すぐに動かす必要はないわ」
エリサはそう付け加えた。
「まずは休ませて、明日もう一度状態を確認しましょう。そのうえで、移動できるかどうか判断したいの」
ルシルは深く頷いた。
「分かりました。無理はさせません」
エリサは満足そうに微笑んだ。
「それがいいわ。馬の状態は、焦って判断するとかえって悪くなることがあるからね」
モモも真剣な表情で頷いた。
「ベルク君が安心して休めるように、私たちも頑張ります!」
エリサはその言葉を聞き、少しだけ笑った。
「ええ。あなたたちがそばにいてくれるなら、ベルクも落ち着いていられるでしょう」
◇
夕方、エリサとダリオが帰る準備を始めた。
シモンは診療にかかった費用を確認し、必要な支払いを済ませた。エリサは受け取った金額を帳面へ記録し、明日以降の相談方法について説明した。
「私は明日も町で診療があるけれど、必要ならオルダさんを通じて連絡をもらえるようにしておくわ。急に状態が悪くなった場合は、無理に動かさず、できるだけ早く知らせてちょうだい」
「承知しました。ありがとうございます」
シモンが頭を下げると、エリサはルシルとモモへも顔を向けた。
「ベルクのこと、よく見ていてあげてね。食欲や水を飲む様子、立ち方に変化があれば、記録しておくと役に立つわ」
「はい!」
ルシルとモモは揃って返事をした。
エリサは微笑み、荷車へ乗り込んだ。
ダリオが手綱を握ると、荷車はゆっくりと街道を進み始めた。
三人はその姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
◇
夜、三人は久しぶりに揃って夕食を取った。
シモンが戻ってきたことで、馬車のそばにはいつもの賑やかさが戻っていた。モモは温かな料理を分けながら、シモンがハルミナで見たものについて次々と質問した。
「シモン君、マリナさん元気だった?」
「はい。お変わりなく、お元気でしたよ」
「エルナさんのパン屋さんは?」
「店の前を通りましたが、相変わらず賑わっていました」
「いいなあ! 私も早く行きたい!」
モモが嬉しそうに言うと、ルシルは笑った。
「ベルクが元気になったら、またみんなで行こうね」
「うん! 絶対行こう!」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「そのためにも、今はベルクの回復を優先しましょう」
三人は頷き、温かな食事を口に運んだ。
今日、獣医に診てもらえたことで、ベルクの状態について少しだけ分かったことがある。
右後ろ脚に負担がかかっていること。
蹄の外側に気になる部分があること。
そして、無理に馬車を引かせず、休ませる必要があること。
原因はまだ確定していないが、今後の方針は少しずつ見えてきた。
ルシルはそのことを思いながら、静かに息を吐いた。
「シモン、今日は本当にありがとう」
突然の言葉に、シモンは少し驚いたように顔を上げた。
「どうなさいましたか、ルシル様」
「シモンが町へ行ってくれたおかげで、エリサさんに会えたんだよ。僕たちだけだったら、きっとどうしたらいいか分からなかったと思う」
ルシルは真剣な表情で続けた。
「だから、ありがとう」
シモンはしばらくルシルを見つめたあと、穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとうございます。お二人がベルクとトルクを守ってくださったからこそ、私は安心して町へ向かうことができました」
モモも嬉しそうに頷いた。
「そうだよね! 三人で頑張ったんだもん!」
ルシルはその言葉を聞き、自然と笑顔になった。
「うん。そうだね」
◇
夕食を終えると、モモは旅帳面を開いた。
今日の頁には、エリサがベルクの脚を診ている姿と、診療道具を積んだ荷車が描かれている。ルシルはその絵を覗き込み、少しだけ笑った。
「エリサさん、すごく真剣な顔になってるね」
「だって、ベルク君のことを一生懸命見てくれてたんだもん!」
モモはそう言って、筆を動かした。
シモンも隣から帳面を覗き込み、穏やかに頷いた。
「よく描けていますね。今日の出来事が分かりやすく残されています」
「えへへ、ありがとう!」
モモは嬉しそうに笑った。
ルシルはその様子を見ながら、ハルミナへ戻ったら旅の日記を買おうと改めて思った。
今日のような出来事は、きっと忘れたくない。
困っている時に助けてくれる人がいること。
仲間と離れていても、同じ目的のために行動できること。
そして、三人で再び顔を合わせた時の安心感。
そのすべてを、自分の言葉で残しておきたかった。
◇
夜が深まる頃、ルシルは馬車の外へ出て、ベルクの様子を確かめた。
濃灰色の馬は静かに立っており、トルクも近くで休んでいる。右後ろ脚の動きにはまだ違和感が残っているが、今夜は専門家に診てもらえたという安心感があった。
ルシルはベルクの首筋へ手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。
「もう少しだけ、頑張ろうね」
ベルクは小さく鼻を鳴らし、ルシルの方へ顔を寄せた。
その温かな息を感じながら、ルシルは静かに微笑んだ。
(早くハルミナへ戻りたい。でも、ベルクが元気になることの方が大切だよね)
ルシルはそう考え、ベルクの額をもう一度撫でた。
背後から足音が聞こえ、振り返るとシモンが立っていた。
「ルシル様、そろそろお休みになった方がよろしいですよ」
「うん。もう少しだけベルクのそばにいたかったんだ」
シモンはベルクへ目を向け、穏やかに頷いた。
「お気持ちは分かります。ただ、明日も考えることが多くなりそうです。今夜はしっかり休みましょう」
「そうだね」
ルシルはベルクへ最後に声をかけ、シモンと一緒に馬車へ戻った。
草地には静かな夜風が吹き、遠くの木立がかすかに揺れていた。
ハルミナへの帰り道は、まだ続いている。
けれど、三人がそれぞれの場所で進めた小さな行動は、確かに次の一歩へつながっていた。
ルシルは仲間たちの存在を感じながら、明日へ向けて静かに眠りについた。




