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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第169話「宿屋で見つけた獣医への道と、離れた場所で交わす約束」



 ハルミナの通りには、夕方の仕事を終えた人々の声が行き交っていた。店先では商品を片づける商人が客と最後のやり取りを交わし、石畳の上を荷車がゆっくりと通り過ぎていく。シモンはその賑わいの中を歩きながら、鞄の中に収めた地図とメモを確かめ、以前利用した宿屋へ向かっていた。


 ダリオの荷車に乗せてもらえたおかげで、予定より体力を残して町へ到着することができた。しかし、ベルクを診られる人物が見つかるかどうかはまだ分からず、ルシルとモモが街道脇で待っていることを思えば、安心して休んでいるわけにはいかなかった。


 通りを曲がると、見覚えのある木製の看板が目に入った。


 旅人が腰を下ろして休む姿を彫ったその看板には、「旅人の休み家」という文字が刻まれている。以前訪れた時と変わらない外観を見て、シモンはわずかに肩の力を抜いた。


「まずは、こちらで相談してみましょう」


 小さく呟いて扉を開くと、温かな料理の匂いが漂ってきた。食堂には数人の客が座っており、奥の受付では宿の女主人であるマリナが帳簿を開いている。


 シモンが近づくと、マリナは顔を上げた。


「あら、いらっしゃい。お泊まりですか?」


「ご無沙汰しております、マリナさん。以前、ルシル様とモモ嬢とともにお世話になりました、シモンです」


 名前を聞いたマリナは、眼鏡を掛けた青年の顔をじっと見つめたあと、驚いたように目を丸くした。


「ああ! あの三人組の旅人さんね。覚えているわよ。今日はお一人なの?」


「はい。実は、少々事情がありまして」


 シモンが答えると、マリナは受付の奥へ視線を向けた。


「それなら、こちらへどうぞ。立ち話より、座って聞いた方がよさそうね」


 彼女は食堂の端にある小さな卓を示し、シモンが腰を下ろすと、自分も向かい側の椅子へ座った。


「それで、何があったの?」


 マリナの問いかけに、シモンは街道で起きた出来事を順序立てて説明した。


 ハルミナへ戻る途中、ベルクの右後ろ脚の動きに異常が見られるようになったこと。水の補給が難しくなり、街道脇で足を止めたこと。ミレナという農婦と井戸の管理者に助けられ、現在は必要な水を確保できていること。そして、農耕馬の扱いに慣れたオルダにベルクを見てもらったものの、原因は分からず、専門家の診察が必要だと判断したことを伝えた。


 マリナは途中で口を挟まず、真剣な表情で話を聞いていた。


「それは大変だったわね……。ルシル君とモモちゃんは、今も街道で待っているの?」


「はい。ベルクとトルク、それに馬車を守りながら待機していただいています。私は獣医を探すため、農家の方の荷車に同乗させてもらいました」


「そうだったの。水が手に入ったのはよかったけれど、馬の脚が心配ね」


 マリナは少し考え込み、食堂の窓から外を眺めた。


「獣医なら、町の西側に家畜を診ている人がいるわ。ただ、今も仕事を続けているかどうかは、最近確認していないのよね」


 シモンは顔を上げた。


「西側ですか。道を教えていただけますか」


「もちろん。でも、もう夕方だから、今日は診療を終えているかもしれないわ」


「承知しています。それでも、場所だけでも確認しておきたいのです」


 マリナは頷き、紙を一枚取り出した。


 彼女は町の主要な通りを簡単に描き、そこから西へ向かう道を指で示した。途中にある石造りの小さな橋と、古い穀物倉庫が目印になるらしい。


「橋を渡って、倉庫の前を右に曲がるの。そこから少し進むと、家畜を診る人が使っていた建物があるはずよ」


「ありがとうございます。大変助かります」


 シモンが頭を下げると、マリナは少しだけ眉を寄せた。


「でも、シモンさん。今日はここに泊まるんでしょう?」


「はい。帰りの荷車が確保できておりませんので、今夜は宿泊させていただきたいと考えています」


「それなら安心したわ。夜の街道を一人で戻るなんて言い出したら、止めようと思っていたのよ」


 マリナの言葉に、シモンは小さく微笑んだ。


「ご心配ありがとうございます。私も、無理な移動は避けるつもりです」


 そう答えながら、シモンはルシルとモモの顔を思い浮かべた。


 自分が町へ向かう前、二人は何度も無理をしないよう声をかけてくれた。普段は自分が注意する側であることが多かっただけに、その言葉は思った以上に心へ残っている。


(お二人との約束を守るためにも、今夜は確実に休める場所を確保しておきましょう)


 シモンは宿泊の手続きを済ませると、マリナから教わった場所へ向かうことにした。


     ◇


 町の西側へ続く道は、中心部よりも人通りが少なかった。


 店の数が減るにつれて、住宅や倉庫が増え、遠くから家畜の鳴き声が聞こえてくる。シモンはマリナの描いた簡単な地図を確かめながら、石造りの橋を渡った。


 橋の下には細い水路が流れており、その水面には夕陽が反射している。


 シモンは一瞬だけ足を止めた。


 つい昨日まで、水を確保するために苦労していたことを思えば、町の中を水が流れている光景はどこか不思議に感じられた。しかし、ここに水があるからといって、街道で困っている旅人が簡単に利用できるわけではない。


 水場の位置を知ること。


 そこへ安全に近づけること。


 そして、必要な量を運ぶ手段があること。


 そのすべてが揃って初めて、補給は成立するのだと、今回の旅で思い知らされていた。


「今後の行程にも、必ず反映させなければなりませんね」


 シモンはそう呟き、再び歩き始めた。


 古い穀物倉庫の前を右へ曲がると、道の先に木柵で囲まれた建物が見えてきた。入口には馬の蹄と小さな薬瓶を組み合わせた印が掲げられている。


 シモンはその印を見て、足を速めた。


 建物の前には荷車が一台止まっており、年配の男性が木箱を運び込んでいる。シモンが近づくと、男性は作業を止めて顔を向けた。


「何か用かい?」


「突然失礼いたします。こちらでは、馬を診ていただくことは可能でしょうか」


 男性はシモンの服装を見てから、建物の奥へ目を向けた。


「馬の診療か。ここは家畜を診る診療所だが、今日はもう診療が終わっているんだ」


「そうでしたか。では、明日改めて伺うことはできますか」


「それは先生に聞いてみないと分からんな。明日は朝から予定が入っているかもしれん」


 男性は少し考えたあと、木箱を地面へ置いた。


「ただ、急ぎの相談なら、話だけでも聞いてもらえるかもしれない。馬はどこにいるんだ?」


「ハルミナへ向かう街道の途中です。右後ろ脚の動きが不自然になり、現在は馬車を引かせず休ませています」


 シモンが答えると、男性の表情が引き締まった。


「街道で足止めか。それは困ったな」


「はい。外から見える大きな傷や腫れは確認できませんでしたが、原因は分かりません。農耕馬を長く扱ってきた方にも見ていただきましたが、専門家の診察が必要だろうとのことでした」


 男性は頷き、建物の扉を開いた。


「少し待ってな。先生に話してくる」


 シモンは丁寧に礼を述べ、入口の脇で待つことにした。


 建物の中からは、器具を片づける音と、誰かが話す声が聞こえてくる。しばらくして、先ほどの男性が一人の女性を連れて戻ってきた。


 女性は三十代後半ほどに見え、濃い茶色の髪を後ろでまとめていた。作業用の上着を着ており、手には薄い革の手袋を持っている。


「あなたが、街道で馬を休ませている旅人さん?」


「はい。シモンと申します」


 シモンが頭を下げると、女性は落ち着いた声で名乗った。


「私はエリサ。ここで家畜の診療をしているわ。もう診療時間は終わっているけれど、事情だけなら聞けるから、少し話してちょうだい」


「ありがとうございます」


 シモンはすぐに鞄からメモを取り出した。


 ベルクの年齢が六歳であること、濃灰色の馬であること、右後ろ脚の動きに異常が見られること、特に方向転換や下り坂でためらう様子があることを説明する。さらに、目立った外傷や腫れは確認できず、休ませている間も完全には改善していないことを伝えた。


 エリサは一つ一つ確認しながら、必要なところで質問を挟んだ。


「最初に異常へ気づいた時、転倒したり、何かに脚をぶつけたりする場面を見た?」


「いいえ。少なくとも、私たちが確認している範囲では、そのような出来事はありませんでした」


「食欲や水を飲む様子は?」


「現在は落ち着いています。ただ、数日前までは水の補給が難しく、十分な量を確保することに苦労していました。昨日、近くの農家の方々に協力していただき、補給できています」


 エリサはその説明を聞き、少しだけ眉を寄せた。


「水不足もあったのね。それなら、全身の状態も確認した方がいいわ。ただし、今聞いた情報だけで脚の原因を決めつけることはできない」


「承知しています」


 シモンが答えると、エリサは頷いた。


「右後ろ脚だけの問題に見えても、別の場所をかばって歩いている可能性もあるからね。蹄や関節、筋肉の状態を実際に見なければ判断できないわ」


 彼女は少し考え込み、壁に掛けられた予定表へ目を向けた。


「明日の午前中は、町の中で診る予定があるの。午後なら時間を作れるかもしれないけれど、街道のどの辺りにいるの?」


 シモンは地図を広げ、現在の野営地を指さした。


 エリサはその位置を見て、しばらく考えた。


「この辺りなら、農家がいくつかあるわね。近くに目印になる建物は?」


「少し手前に、古い作業小屋が三棟あります。現在はそこからハルミナ側へ進んだ、街道脇の平らな草地で休んでいます」


「なるほど。道が悪い場所ね」


 エリサは地図を見つめ、指で街道の曲がり角をなぞった。


「診療道具を運ぶ必要があるから、馬車か荷車を使いたいところだけれど、あの轍が深い道は避けたいわ」


「地元の方が、別の道を使ってハルミナへ向かっていると聞いています。今日、私を乗せてくださった農家の方も、轍を避けながら進んでくださいました」


 シモンが説明すると、エリサは顔を上げた。


「その人の名前は?」


「ダリオさんです。近くの農家で働いている方だと伺いました」


「ああ、ダリオね。知っているわ。何度か荷車の馬を診たことがあるの」


 エリサは少しだけ笑った。


「それなら話が早いかもしれない。ダリオが使っている道なら、診療道具を載せた荷車でも通れる可能性があるわ」


 シモンは胸の奥に安堵が広がるのを感じた。


「では、ベルクを診ていただける可能性があるのですね」


「ええ。ただし、明日の予定を調整してからよ。それに、実際に行くには荷車と人手も必要だから、今ここで確約はできないわ」


「もちろんです。ご検討いただけるだけでも、大変ありがたく思います」


 エリサは頷き、手元の紙へ何かを書き留めた。


「明日の朝、もう一度ここへ来てくれる? 予定を確認しておくから。その時に、同行できるかどうか返事をするわ」


「承知しました。必ず伺います」


 シモンは深く頭を下げた。


     ◇


 診療所を出る頃には、空が赤く染まり始めていた。


 シモンは町の通りを歩きながら、エリサとの会話を頭の中で整理していた。獣医が見つかったことは大きな前進だったが、まだ診察を受けられると決まったわけではない。


 明日の朝、予定を確認する必要がある。


 そのうえで、診療道具を運ぶ荷車を確保し、街道脇まで同行してもらえるかどうかを判断することになる。


 さらに、ベルクの状態によっては、ハルミナへ戻る方法を改めて考えなければならない。


「一つずつ、確実に進めるしかありませんね」


 シモンはそう呟き、宿へ戻る道を歩いた。


 途中、パン屋の前を通りかかると、焼きたてのパンの香りが漂ってきた。


 看板には、以前ルシルとモモが立ち寄った店の名前が記されている。店先には数人の客が並んでおり、奥では店主のエルナが忙しそうに働いていた。


 シモンは少しだけ足を止めた。


 ルシルもモモも、ハルミナへ戻れたらこの店へ立ち寄りたいと言うかもしれない。特にモモなら、焼きたてのパンを見つけた途端、嬉しそうに目を輝かせるだろう。


 その姿を想像すると、シモンの口元に自然と笑みが浮かんだ。


(お二人が戻られる時には、安心して町を歩ける状態にしておきたいものです)


 しかし、今は寄り道をする時間ではなかった。


 シモンは店先を通り過ぎ、宿へ向かった。


     ◇


 宿へ戻ると、マリナが受付で待っていた。


「おかえりなさい。どうだった?」


「獣医の方にお会いできました。エリサさんという方で、明日の朝、街道まで来られるかどうか返事をいただけることになりました」


 シモンが答えると、マリナは嬉しそうに顔をほころばせた。


「あら、それはよかったわ! エリサ先生なら、家畜の診療を長く続けている人よ。腕も確かだと聞いているわ」


「そうなのですね。少し安心しました」


「でも、まだ診てもらえると決まったわけじゃないのね」


「はい。明日の予定を確認していただくことになっています」


 マリナは頷き、少し考え込んだ。


「それなら、明日の朝は早めに食事を用意しておくわ。診療所へ行く前に、ちゃんと食べていきなさいね」


「ありがとうございます。お気遣いに感謝いたします」


 シモンが頭を下げると、マリナは笑った。


「そんなにかしこまらなくてもいいのよ。以前も三人で泊まってくれたんだもの。困っている時くらい、少しは力になりたいわ」


 その言葉に、シモンは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 旅の途中で出会った人々の親切が、今も自分たちを支えてくれている。


 水を分けてくれたミレナ。


 馬小屋を用意しようとしてくれているオルダ。


 町まで乗せてくれたダリオ。


 そして、こうして宿で迎えてくれるマリナ。


 その一つ一つがなければ、今の状況までたどり着くことはできなかっただろう。


「……本当に、ありがとうございます」


 シモンは改めて礼を述べた。


 マリナは少し照れたように笑い、夕食の準備ができていることを伝えた。


     ◇


 一方その頃、街道脇の草地では、ルシルとモモが夕食を終え、馬たちの様子を確認していた。


 シモンが町へ向かってから、初めて迎える夜だった。


 普段なら、食事のあとにシモンが水の残量や翌日の予定を確認し、ルシルとモモがそれを聞きながら話し合う。しかし、今夜はその役割を二人で分担しなければならなかった。


「ルシル君、水の容器、全部確認できた?」


 モモが尋ねると、ルシルは手元のメモへ目を向けた。


「うん。馬たちの分も、僕たちの分も確認したよ。昨日補給した水があるから、今夜は大丈夫そうだね」


「よかった! じゃあ、次は馬車の固定具かな?」


「そうだね。風が強くなるかもしれないし、ちゃんと見ておこう」


 二人は馬車の周囲を歩き、車輪止めや荷物の固定を確認した。


 ルシルはシモンが普段行っている作業を思い出しながら、一つずつ慎重に確かめていく。いつもは簡単そうに見えていたことでも、自分でやってみると確認する場所が多く、思った以上に時間がかかった。


「シモンって、毎日こんなにいろいろ見てくれてたんだね」


 ルシルが呟くと、モモは隣で頷いた。


「うん。私たちが気づかないところまで、ちゃんと考えてくれてるんだよね」


 モモは少しだけ笑った。


「帰ってきたら、ありがとうって言わないとね」


「そうだね。僕もそう思う」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。


 その時、ベルクが小さく鼻を鳴らした。


 ルシルが振り返ると、濃灰色の馬は静かに立っていたが、右後ろ脚を少し動かしたあと、再び体重をかける位置を調整している。


「ベルク、大丈夫?」


 ルシルはゆっくりと近づき、首筋を撫でた。


 ベルクは落ち着いていたものの、脚の動きに違和感が残っていることは変わらなかった。


 モモも隣へ来て、心配そうにベルクを見つめた。


「早く先生に診てもらえるといいね」


「うん。シモンが町で探してくれてるから、きっと何か分かると思う」


 ルシルはそう答えたが、心の中では不安も感じていた。


 獣医が見つかったとしても、ベルクの脚がすぐに治るとは限らない。


 長く休ませる必要があるかもしれないし、馬車を動かす方法を別に考えなければならないかもしれない。


 それでも、今できることは、ベルクを無理に動かさず、落ち着いて休ませることだった。


「今日はゆっくり休もうね、ベルク」


 ルシルが声をかけると、ベルクは小さく耳を動かした。


     ◇


 夜が深まるにつれて、草地を渡る風が少し冷たくなってきた。


 ルシルとモモは馬車のそばに座り、温かい飲み物を少しずつ口にしていた。空には星が広がり、遠くの丘の輪郭が夜の闇に溶け込んでいる。


「シモン君、今頃どうしてるかなあ」


 モモが空を見上げながら呟いた。


 ルシルも同じ方向へ目を向けた。


「たぶん、宿を探して休んでるんじゃないかな。ハルミナには『旅人の休み家』があるし、マリナさんに相談してるかもしれないね」


「そうだね! マリナさんなら、きっと親切にしてくれるよね」


 モモは少し安心したように笑った。


 ルシルはその横顔を見ながら、静かに考えた。


 シモンが町で頑張ってくれている間、自分たちもここでできることを続けている。


 離れていても、三人の目的は同じだった。


 ベルクを助け、無事にハルミナへ戻ること。


 そして、また三人で旅を続けること。


「モモ、明日もよろしくね」


 ルシルが声をかけると、モモは少し驚いたように彼を見た。


「え? どうしたの、急に?」


「ううん。シモンがいない間、モモと一緒に頑張れてよかったなって思って」


 ルシルは少し照れたように笑った。


「僕一人だったら、きっともっと不安だったと思う」


 モモは一瞬だけ目を丸くしたあと、嬉しそうに微笑んだ。


「私もだよ。ルシル君がいてくれるから、安心していられるんだもん」


 その言葉に、ルシルの胸が少し温かくなった。


 二人はしばらく何も言わず、夜空を眺めていた。


 風が草を揺らし、遠くで夜鳥が鳴いている。


 馬車の近くでは、トルクとベルクが静かに休んでいた。


 ルシルはその光景を見ながら、旅を始めた頃のことを思い出していた。


 王宮を離れた時、自分がどこへ向かうのか、何を見つけるのか、はっきりとした答えはなかった。


 ただ、自由に旅をしたいと思っていた。


 誰かに決められた道ではなく、自分で選んだ道を歩いてみたかった。


 けれど、実際の旅は楽しいことばかりではなかった。


 道に迷うこともあれば、水が足りなくなることもある。


 仲間が怪我をすることもあれば、予定を変えなければならないこともある。


 それでも、ルシルはこの旅を後悔していなかった。


 困った時に助けてくれる人がいる。


 一緒に悩み、考えてくれる仲間がいる。


 そして、自分自身も誰かのために行動できる。


 そうした経験は、王宮で暮らしていた頃には得られなかったものだった。


(自由に旅をするって、好きな場所へ行くだけじゃないんだね。困った時にどうするかも、自分たちで考えて決めることなんだ)


 ルシルは静かに息を吐いた。


 隣では、モモが少し眠そうに目をこすっていた。


「モモ、そろそろ休もうか」


「うん……。ちょっと眠くなってきちゃった」


 モモは小さく笑い、立ち上がった。


 二人は最後に馬たちの様子を確認し、馬車の中へ戻った。


     ◇


 ハルミナの宿屋では、シモンが部屋の机に地図とメモを広げていた。


 夕食を終えたあと、明日の予定を整理しているところだった。


 エリサが街道まで来られるかどうかは、明日の朝にならなければ分からない。


 もし来られることになれば、診療道具を運ぶ方法を確保し、ルシルたちが待つ草地へ案内する必要がある。


 来られない場合は、別の獣医を探すか、ベルクを安全に移動させる方法を考えなければならない。


 シモンはその可能性を一つずつ書き出し、必要な確認事項を整理した。


 そして、最後にルシルとモモのことを思い浮かべた。


 おそらく二人は、今頃馬車の中で休んでいるだろう。


 ベルクとトルクの世話をしながら、互いに協力して過ごしているはずだ。


 シモンは静かに微笑んだ。


「……お二人なら、きっと大丈夫でしょう」


 そう呟き、メモを閉じた。


 明日は、ベルクを助けるための重要な一日になるかもしれない。


 だからこそ、今夜はしっかり休まなければならない。


 シモンは窓の外へ目を向けた。


 町の灯りが、夜の通りを穏やかに照らしている。


 遠く離れた街道脇では、ルシルとモモが同じ夜空の下で休んでいる。


 シモンはそのことを思いながら、静かに灯りを落とした。


 ハルミナへの帰り道は、まだ終わっていない。


 けれど、三人がそれぞれの場所で進めた小さな行動は、確かに次の一歩へつながり始めていた。

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