第168話「町へ向かう荷車と、残された二人が守るもの」
朝露の残る草地に、馬の鼻息が白く薄く漂っていた。ルシルが馬車の外へ出ると、東の丘の向こうから昇ったばかりの陽が街道を照らし始めており、昨夜まで暗い影に沈んでいた轍の深さが、朝の光の中ではっきりと見えていた。
馬車の近くでは、シモンがベルクの様子を確かめていた。濃灰色の馬は落ち着いて立っているものの、右後ろ脚を少し動かす際には、やはり慎重な仕草を見せている。昨日、長年馬を扱ってきたオルダに見てもらったことで、無理に歩かせない方がよいという判断は確かなものになったが、原因そのものは分からないままだった。
「おはよう、シモン。ベルクはどう?」
ルシルが近づくと、シモンはベルクの首筋から手を離し、眼鏡を直した。
「おはようございます、ルシル様。今朝も大きな変化はありません。立っている間は落ち着いていますが、脚を動かす際のためらいは残っていますので、今日も馬車を引かせるべきではないでしょう」
「うん。昨日オルダさんに見てもらって、僕もそう思ったよ。無理に動かして悪くなったら、もっと困るからね」
ルシルはベルクの額を撫で、温かな鼻息を手の甲に受けた。すぐ隣ではトルクが首を伸ばしてきたため、彼にも同じように手を伸ばすと、栗毛の馬は満足そうに耳を動かした。
水を補給できたことで、二頭の世話には少し余裕が戻っている。けれど、その水も無限にあるわけではなく、長くここに留まるなら、再び近くの農家に頼ることになるだろう。
「今日はオルダさんが、町へ向かう荷車がないか聞いてくれるんだったね」
「はい。昨日のお話では、近くの農家の方がハルミナへ用事で向かう可能性があるとのことでした。ただし、まだ決まったわけではありませんので、まずは連絡を待ちましょう」
シモンはそう答え、馬車の方へ視線を移した。
「もし荷車が見つかれば、私が先に町へ向かい、馬を診られる方を探すつもりです。ベルクをこちらへ連れてくる方法についても、専門の方に相談できればと思っています」
ルシルはその言葉を聞き、胸の奥に小さな不安が生まれるのを感じた。
シモンが町へ向かえば、ベルクのために必要な情報を得られるかもしれない。しかし、その間はルシルとモモの二人で馬車と二頭の馬を守ることになる。
旅を始めてから、三人が別々に行動することは何度かあった。それでも、今回のように馬車を動かせない状態で仲間が離れるのは、これまでとは違う緊張を伴っていた。
「……シモンが行くなら、僕たちはここを守るよ」
ルシルが静かに言うと、シモンは彼へ目を向けた。
「ありがとうございます。ただし、無理をして何かを解決しようとはなさらないでください。私が不在の間にベルクの状態が変わった場合は、まず安全を確保し、必要であればオルダさんへ相談してください」
「分かってる。勝手に馬車を動かしたり、ベルクを歩かせたりはしないよ」
ルシルはそう答え、もう一度ベルクの首筋を撫でた。
その時、馬車の入口からモモが顔を出した。
「二人とも、おはよう! 朝ご飯の準備できたよ!」
桃金色の髪が朝の光を受けて柔らかく輝き、白い外套の裾が風に揺れている。モモは二人の姿を見つけると嬉しそうに笑ったが、ベルクの方へ目を向けた途端、少しだけ表情を引き締めた。
「ベルク君、今朝もまだ脚が気になるみたいだね」
「うん。でも、昨日より悪くなった様子はないみたいだよ」
ルシルが答えると、モモはほっとしたように頷いた。
「それならよかった。今日は無理しないで、ゆっくり休んでもらおうね」
三人は馬たちの様子を確かめてから、馬車のそばへ戻った。
◇
朝食には、保存していたパンと乾燥野菜を使った温かい汁物が並んでいた。昨日までの水不足を思えば、温かな食事を用意できること自体がありがたく、ルシルは湯気の立つ器を両手で包みながら、静かに息を吐いた。
モモは自分の器を手に取り、少し考え込んだあと、シモンへ顔を向けた。
「シモン君、もし今日ハルミナへ行けることになったら、いつ戻ってこられるの?」
「それは、荷車の予定と町での用事によります。獣医の方を見つけられたとしても、すぐにこちらへ来ていただけるとは限りませんから、帰りの手段も含めて確認する必要があります」
「そっか……。じゃあ、今日中に戻ってくるって決まってるわけじゃないんだね」
モモは器の中を見つめ、少しだけ眉を下げた。
ルシルはその横顔を見ながら、彼女も自分と同じことを考えているのだと気づいた。シモンが離れることを不安に思っているのは、自分だけではないらしい。
「モモ、僕たちでできることはちゃんとやろう。シモンが町で頑張ってくれるなら、僕たちもここで馬たちを守ればいいんだから」
ルシルがそう言うと、モモは顔を上げた。
「うん! そうだよね。私たちがしっかりしてれば、シモン君も安心して行けるもんね!」
彼女は明るく笑ったが、その声には少しだけ力が入っていた。
シモンは二人の様子を見つめ、穏やかに口を開いた。
「お二人なら大丈夫だと信じています。ただ、何か困ったことがあれば、必ず近くの農家へ助けを求めてください。昨日と同じように、私たちだけで解決しようとしなくてもよいのです」
「うん。分かった」
ルシルは頷き、モモも同じように返事をした。
朝食を終えると、シモンは地図を広げ、ハルミナまでの道と現在地を改めて確認した。昨日オルダが話していた荷車のことを考えると、街道の轍が深い場所を通る必要があるが、地元の人が普段使っている道であれば、通行しやすい場所を知っている可能性が高い。
「それにしても、町へ戻るだけなのに、こんなにいろいろ考えることになるなんてね」
ルシルが苦笑すると、シモンは地図から顔を上げた。
「旅では、予定通りに進めないこともあります。ですが、今回のように足を止めたからこそ、周囲の方々に助けていただく機会もありました」
「うん。ミレナさんもオルダさんも、すごく親切だったよね」
モモが頷きながら言った。
「ハルミナに戻れたら、何かお礼をしたいなあ。お菓子とか、パンとか!」
ルシルはその言葉を聞いて笑った。
「モモらしいね。でも、食べ物のお礼っていいかもしれない。ミレナさんたちが喜んでくれるものを考えよう」
「うん! それまでに、ベルク君も元気になってくれるといいな」
三人はそんな話をしながら、午前の時間を過ごした。
◇
昼前、街道の向こうから荷車の車輪が軋む音が聞こえてきた。
ルシルが顔を上げると、昨日会ったオルダが一人の男性とともに歩いてくるのが見えた。男性は三十代ほどで、丈夫そうな作業着を着ており、後ろには小型の荷車が続いている。
「ルシル、シモン、モモ。待たせたな」
オルダは三人へ声をかけると、隣の男性を紹介した。
「こいつは近くの農家で働いているダリオだ。今日、ハルミナへ荷物を届ける用事があるそうでな。事情を話したら、一人なら乗せていけると言ってくれた」
ダリオは三人を見渡し、軽く頭を下げた。
「ダリオです。町へ行く途中なら、一人くらい乗せても問題ありません。ただし、荷物も積んでいるので、あまり広くはないですが」
シモンはすぐに一歩前へ出て、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。私はシモンと申します。ハルミナで馬を診られる方を探したいと考えていますので、同乗させていただけるなら大変助かります」
ダリオは頷き、荷車の方へ目を向けた。
「町までは何度も行ってますから、道のことは心配しなくていいですよ。ただ、途中に轍の深い場所があるので、少し遠回りするかもしれません」
「承知しました。時間については問題ありません」
シモンが答えると、ダリオは安心したように笑った。
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、胸の奥に安堵が広がるのを感じた。徒歩で町へ向かうよりも、地元の人が運転する荷車に乗せてもらえる方が、安全面でも体力面でも負担を減らせるだろう。
「ダリオさん、本当にありがとうございます。シモンをよろしくお願いします」
ルシルが頭を下げると、ダリオは少し驚いたように手を振った。
「いやいや、そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ。困った時はお互いさまですから」
オルダも頷き、ベルクの方へ目を向けた。
「それで、馬の様子はどうだ?」
「今朝も大きな変化はありません。ただ、右後ろ脚の動きはまだ不自然です」
シモンが答えると、オルダはゆっくりと頷いた。
「そうか。なら、やはり獣医に見てもらうのが一番だな。町で相談できる相手が見つかるといいが」
「はい。できるだけ早く情報を集めてまいります」
シモンはそう答え、馬車の方へ戻った。
◇
出発の準備は、思ったよりも時間がかかった。
シモンは荷物を最小限にまとめながら、地図と必要な金銭、飲み水、保存食を確認していた。町へ着いたあと、どこへ相談に行くかも考えておく必要があり、ルシルはその隣で手伝えることを探していた。
「シモン、僕にも何かできる?」
「ありがとうございます。では、こちらの小さな包みをお願いします。町で必要になるかもしれない書類やメモをまとめていますので、鞄の中へ入れていただけますか」
「うん、分かった」
ルシルは包みを受け取り、シモンの鞄へ丁寧に収めた。
モモはその間に、水筒へ水を入れていた。昨日補給した水を無駄にしないよう、必要な量を確認しながら注ぎ、蓋をしっかり閉めている。
「シモン君、これ持っていってね。途中で喉が渇いたら、ちゃんと飲むんだよ」
「ありがとうございます、モモ嬢。大切に使わせていただきます」
シモンが水筒を受け取ると、モモは少しだけ真剣な顔になった。
「それと、無理しないでね。町に着いたからって、全部一人で何とかしようとしなくていいんだから」
その言葉に、シモンは少し驚いたように目を瞬かせた。
普段は自分が二人へ注意することが多いだけに、モモから同じような言葉をかけられるのは新鮮だった。
「……承知しました。お二人に心配をかけないよう、慎重に行動します」
シモンが穏やかに答えると、モモはようやく笑顔を浮かべた。
ルシルはその様子を見ながら、少しだけ胸が温かくなった。
三人で旅を続けてきた時間の中で、互いに気遣うことが自然になっている。誰かが困れば、残りの二人が手を差し伸べる。
それは、王宮で暮らしていた頃には知らなかった、旅の中で得た大切なものだった。
「シモン、僕たちのことは心配しすぎなくていいからね」
ルシルがそう言うと、シモンは静かに笑った。
「ありがとうございます、ルシル様。ただ、心配しないというのは難しいかもしれませんね」
「えっ、どうして?」
「お二人とも、困っている方を見かけると放っておけませんから」
その言葉に、ルシルとモモは顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に苦笑した。
「……確かに、そうかもしれないね」
「でも、困ってる人がいたら助けたいもん!」
モモが胸を張って答えると、シモンは少し困ったように笑った。
「そのお気持ちは素晴らしいと思います。ただし、ご自身の安全を最優先にしてください」
「はーい!」
モモが元気よく返事をすると、ルシルも頷いた。
◇
出発の時刻が近づくと、ダリオが荷車の準備を整えた。
荷台には農作物の入った木箱がいくつか積まれており、その横に一人分の座る場所が確保されている。シモンは荷物の固定を確かめ、ダリオの指示に従って乗り込んだ。
ルシルは荷車の脇に立ち、シモンへ顔を向けた。
「気をつけてね、シモン」
「はい。ルシル様も、どうか無理をなさらないでください」
「うん。モモと一緒に、ベルクとトルクを見てるよ」
シモンは頷き、少しだけ表情を引き締めた。
「もし何かあれば、オルダさんへ相談してください。馬車を動かす必要が生じても、私が戻るまで独断では判断しないようお願いします」
「分かった。約束する」
ルシルが答えると、シモンは安心したように微笑んだ。
モモも荷車へ近づき、シモンへ手を振った。
「シモン君、いってらっしゃい! ちゃんと帰ってきてね!」
「もちろんです。お二人もお元気で」
ダリオが手綱を握ると、荷車はゆっくりと動き始めた。
車輪が土を踏み締める音が響き、荷車は街道の曲がり角へ向かって進んでいく。シモンは振り返り、二人へ軽く手を上げた。
ルシルとモモは、その姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
やがて荷車が木立の向こうへ消えると、草地には再び静かな風の音が戻ってきた。
ルシルはしばらく街道を見つめていたが、隣に立つモモが小さく息を吐いたことに気づき、顔を向けた。
「モモ、大丈夫?」
モモは少し驚いたように彼を見たあと、笑顔を浮かべた。
「うん! 大丈夫だよ。ただ、シモン君がいないと、なんだか静かだなあって思って」
「そうだね。いつもは、何かあるとすぐに相談できるから」
ルシルはそう答え、馬車の方へ目を向けた。
トルクとベルクは変わらず草地で休んでいる。
馬車も、荷物も、水の容器も、すべてそこにある。
けれど、三人のうち一人が離れただけで、いつもの景色が少し違って見えた。
「でも、僕たちも頑張ろう。シモンが戻ってきた時に、ちゃんと守れたって言えるように」
ルシルがそう言うと、モモは大きく頷いた。
「うん! じゃあ、まずは馬たちのお世話だね!」
二人は顔を見合わせて笑い、馬車の方へ戻った。
◇
シモンが出発したあと、ルシルとモモは馬たちの様子を改めて確認した。
トルクは相変わらず元気で、ルシルが近づくと鼻先を伸ばしてくる。ベルクは静かに立っていたが、右後ろ脚の動きは依然として慎重であり、無理に歩かせることは避けた。
「ベルク君、今日もゆっくり休もうね」
モモはそう言って、ベルクの首筋を撫でた。
ルシルは水桶を運び、二頭が飲めるように準備した。水を補給できたとはいえ、長くここに留まる可能性もあるため、残量を確認しながら必要な分を分けている。
モモはその作業を手伝いながら、ふと顔を上げた。
「ねえ、ルシル君」
「どうしたの?」
「シモン君が町へ行ってる間、私たちも何かできることないかな」
ルシルは少し考えた。
「馬たちのお世話と、荷物の整理くらいかな。あとは、オルダさんが準備してくれてる馬小屋のことも気になるけど……」
「そうだよね。昨日、床の板が傷んでるって言ってたもんね」
モモは少し考え込んだあと、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ、私たちも馬小屋のお掃除を手伝いに行く?」
ルシルはその提案にすぐ頷きかけたが、シモンと交わした約束を思い出し、少しだけ考え直した。
「手伝いたいけど、二頭を置いたまま行くのは心配だね。それに、オルダさんが修理してる場所へ勝手に入るのもよくないと思う」
「そっか……。じゃあ、今はここでできることをやろうか」
モモは素直に頷いた。
ルシルはその様子を見ながら、少しだけ安心した。
モモは困っている人を放っておけない性格だが、無理に何かをしようとするわけではない。今できることと、できないことを考えながら行動しようとしている。
「うん。まずは馬車の中を整理しよう。シモンが戻ってきた時に、必要なものをすぐ出せるようにしておきたいんだ」
「いいね! じゃあ、私も手伝う!」
二人は馬車の中へ入り、荷物の整理を始めた。
◇
馬車の中には、旅の途中で集めたさまざまなものが積まれていた。
保存食や衣類、調理道具のほかに、青波村で手に入れた青い風魚の布や、潮凪村で拾った三つの貝殻も大切にしまわれている。モモはそれらを見つけるたびに、懐かしそうな声を上げた。
「わあ、これ! 青波村の布だね!」
モモが青い布を広げると、ルシルも顔を向けた。
「うん。あの村で見た海、きれいだったね」
「そうそう! 風が強くて、髪がぐちゃぐちゃになっちゃったんだよね!」
モモは楽しそうに笑い、布を丁寧に畳み直した。
ルシルはその様子を見ながら、旅の途中で出会った人たちの顔を思い浮かべた。
海辺の村で交わした言葉。
道中で見つけた小さな景色。
何気ない出来事の一つ一つが、今では大切な記憶になっている。
「旅って、いろんなものが増えていくんだね」
ルシルが呟くと、モモは顔を上げた。
「うん! 荷物も増えるけど、思い出も増えるよね!」
彼女はそう言って、旅帳面を取り出した。
そこには、これまでに描いてきた景色や人々の姿が並んでいる。青い花、古い石垣、街道の轍、そして最近描いたミレナやオルダの姿もあった。
「これ、全部見返すと、すごく長い旅をしてきた気がするよ」
モモは頁をめくりながら、少し照れたように笑った。
ルシルはその隣へ座り、帳面を覗き込んだ。
「本当だね。僕も、ハルミナに戻ったら日記を買おうと思ってるんだ」
「覚えてるよ! ルシル君、前から言ってたもんね」
モモは嬉しそうに頷いた。
「どんな日記にするの?」
「うーん……。持ち歩きやすくて、たくさん書けるものがいいかな。あとは、雨に濡れても大丈夫なように、丈夫な表紙があると嬉しいね」
「いいね! 私も一緒に選びたいなあ」
ルシルはその言葉を聞き、自然と笑顔になった。
「もちろん。モモにも見てもらいたいよ」
モモは嬉しそうに笑い、旅帳面を胸へ抱えた。
その時、馬車の外からトルクの鼻息が聞こえてきた。
二人は顔を見合わせ、すぐに荷物の整理を中断した。
「トルク君、どうしたのかな?」
「ちょっと見てこよう」
ルシルは馬車の外へ出て、二頭の様子を確認した。
トルクは水桶の近くで首を伸ばしており、どうやら水を飲みたかったらしい。ベルクも落ち着いて立っていたため、ルシルはほっと息を吐いた。
「なんだ、水が欲しかったんだね」
ルシルが笑うと、モモも隣で頷いた。
「よかったあ。何かあったのかと思っちゃった」
二人は水桶を整え、馬たちが落ち着いて飲めるようにした。
◇
午後になると、オルダが再び野営地を訪れた。
彼は馬小屋の床板を取り替える作業を進めていることを伝え、明日には使える状態にできるかもしれないと話した。
「ただ、ベルクを動かすかどうかは、獣医の話を聞いてから決めた方がいいな」
オルダはそう言って、ベルクの方へ目を向けた。
「今のところ、無理に歩かせる理由はない。水もあるし、ここで休ませておく方がいいだろう」
ルシルは頷いた。
「はい。シモンが町で相談してくれるので、それまではここで待とうと思っています」
「それがいい。何か困ったことがあれば、遠慮なく声をかけてくれ」
オルダはそう答え、少しだけ表情を和らげた。
モモはその言葉を聞き、嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます! オルダさんも、馬小屋の修理で無理しないでくださいね!」
オルダは少し驚いたように目を瞬かせたあと、低く笑った。
「はは、わしの心配までしてくれるのか。大丈夫だよ。年寄りだからって、まだそこまで弱ってはいない」
「でも、重い板とか持つんでしょう? 気をつけてくださいね!」
モモが真剣に言うと、オルダは困ったように笑った。
「分かった分かった。気をつけるよ」
ルシルはそのやり取りを見ながら、思わず笑みを浮かべた。
オルダは最初、少し厳しそうな人に見えたが、話してみると温かい人だった。馬を大切にする気持ちも強く、ベルクのことを真剣に考えてくれている。
「オルダさん、本当にありがとうございます。僕たち、何度も助けてもらってばかりで……」
ルシルがそう言うと、オルダはゆっくりと首を振った。
「気にするな。馬を大切にしてる旅人を見たら、放っておけんだけだ」
その言葉に、ルシルは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
オルダは軽く手を振り、農家の方へ戻っていった。
◇
一方その頃、シモンを乗せた荷車はハルミナへ向かう街道を進んでいた。
ダリオは慣れた手つきで手綱を操り、轍の深い場所を避けながら進んでいる。荷車の車輪は時折小さく揺れたが、荷物が大きく動くことはなく、シモンはその様子を見ながら道の状態を確認していた。
「この辺りは、雨が降るとかなり通りにくくなるんですよ」
ダリオが前を見ながら言った。
「特に、あの低い木立の手前は土が柔らかくてね。荷車でも車輪が沈むことがあります」
「そうなのですね。私たちも、あの場所を通る際には苦労しました」
シモンが答えると、ダリオは少し驚いたように振り返った。
「馬車で通ったんですか?」
「はい。ただ、ベルクの脚の調子が悪くなってからは、無理に進まないようにしています」
「それがいいでしょうね。あの道で馬に無理をさせると、かえって危ないですから」
ダリオはそう言い、荷車を少し左へ寄せた。
シモンは街道の先を見つめながら、ハルミナで何を確認するべきか整理していた。
まず、馬を診られる専門の人物がいるかどうか。
次に、その人物が街道脇の野営地まで来られるかどうか。
そして、ベルクを無理に歩かせずに町へ戻る方法があるかどうか。
どれも簡単に答えが出る問題ではないが、実際に町へ行けば、少なくとも情報を得ることはできるだろう。
「ハルミナには、馬を診られる人がいると聞いたことはありますか?」
シモンが尋ねると、ダリオは少し考えた。
「馬を扱う人なら何人か知っていますけど、獣医となると……。町の西側に、家畜の世話をしている人がいたはずです。ただ、今も同じ場所にいるかは分かりません」
「ありがとうございます。町へ着いたら、まず確認してみます」
シモンはそう答え、手元のメモへ情報を書き留めた。
ダリオはその様子を見て、少し笑った。
「ずいぶん真面目な人ですね」
「そうでしょうか」
「ええ。馬のために、そこまで細かく考えてるんですから」
シモンは少しだけ表情を和らげた。
「大切な仲間ですので、できる限りのことをしたいのです」
ダリオは頷き、再び前へ視線を戻した。
「そういう人なら、きっと町でも助けてくれる人が見つかりますよ」
その言葉に、シモンは静かに礼を述べた。
◇
夕方が近づく頃、ハルミナの屋根が遠くに見え始めた。
シモンは荷車の上から町の方角を見つめ、胸の奥に小さな安堵を覚えた。以前訪れた町の景色が少しずつ近づいてくると、ようやく目的地へたどり着けるのだという実感が湧いてきた。
しかし、安心するにはまだ早い。
ベルクは街道脇で休んでおり、ルシルとモモもそこで待っている。
自分だけが町へ戻れたとしても、問題が解決したわけではなかった。
ダリオは町の入口へ近づくと、荷車を少し減速させた。
「もうすぐ着きますよ。どこで降りますか?」
「できれば、町の中心へ向かう道の近くでお願いできますか。以前泊まった宿へも寄りたいと考えています」
「分かりました。それなら、荷物を届ける場所の近くで降ろせますよ」
ダリオはそう答え、荷車を町の中へ進めた。
ハルミナの街並みが近づくにつれ、人々の話し声や店先の音が聞こえてくる。街道脇の静かな草地とは違い、町には多くの人が行き交い、それぞれの生活を送っていた。
シモンはその光景を見ながら、ルシルとモモのことを思い浮かべた。
(お二人とも、今頃は馬たちの世話を終えているでしょうか。無理をせず、落ち着いて過ごしてくださっているとよいのですが)
そう考えたあと、シモンは小さく息を吐いた。
心配しているだけでは、何も変わらない。
自分には、ここでやるべきことがある。
荷車が止まると、シモンはダリオへ深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました。おかげで無事に町へ到着できました」
「いえいえ。帰りのことも、もし困ったら農家の方へ伝えてください。すぐに迎えに行けるとは限りませんが、何か方法を考えられるかもしれません」
「ありがとうございます。その際は、改めて相談させていただきます」
シモンはそう答え、荷車から降りた。
ダリオが荷物を届けるために去っていくと、シモンは町の通りへ目を向けた。
まず向かうべき場所は決まっている。
以前世話になった宿、「旅人の休み家」だった。
宿の主人であるマリナなら、町の事情をよく知っているかもしれない。
シモンは鞄の紐を確かめ、夕方のハルミナの通りを歩き始めた。
◇
その頃、街道脇の草地では、ルシルとモモが夕食の準備を進めていた。
シモンがいないため、いつもより少し静かな時間が流れている。モモは保存食を並べながら、時折街道の方へ目を向けていた。
「シモン君、もう町に着いたかなあ」
モモが呟くと、ルシルは調理道具を整えながら答えた。
「たぶん、そろそろ着いてる頃じゃないかな。ダリオさんが一緒だから、道のことも心配しなくていいと思うよ」
「うん。そうだよね」
モモは頷いたが、少しだけ寂しそうに笑った。
ルシルはその表情を見て、胸の奥に同じような気持ちがあることに気づいた。
三人でいることが当たり前になっていたからこそ、一人がいないだけで、いつもの会話が少し違って感じられる。
「モモ、今日は二人で頑張ったね」
ルシルがそう言うと、モモは顔を上げた。
「うん! トルク君もベルク君も、ちゃんとお世話できたしね!」
「そうだね。シモンが戻ってきたら、ちゃんと報告しよう」
モモは嬉しそうに笑った。
「うん! それと、オルダさんが来てくれたことも話さないとね!」
二人はそんな話をしながら、夕食の準備を続けた。
やがて温かな料理ができあがると、ルシルは器を手に取り、モモへ微笑んだ。
「いただこうか」
「うん! いただきます!」
夕暮れの草地に、二人の声が穏やかに響いた。
少し離れた場所では、トルクとベルクが静かに休んでいる。
ハルミナへ向かう道は、まだ遠い。
けれど、シモンが町へ到着したことで、ベルクを助けるための新しい一歩が始まっていた。
ルシルはそのことを思いながら、温かな食事を口に運んだ。
明日、どんな知らせが届くのかは分からない。
それでも、三人がそれぞれの場所でできることを続けていけば、きっと道は開けるはずだった。
ルシルは静かに息を吐き、モモとともに夜の時間を迎えた。




