第167話「馬の脚を見つめる古い農夫と、帰り道を変える小さな約束」
朝の光が街道沿いの草地へ差し込み始めた頃、ルシルは馬車の脇で水桶を洗っていた。昨日、畑仕事をしていたミレナたちの協力によって水を補給できたおかげで、今朝は二頭の馬に必要な水を用意することができている。それでも、ベルクの右後ろ脚が良くなったわけではなく、馬車を動かせない状況は続いていた。
少し離れた場所では、シモンがベルクの様子を確認していた。濃灰色の馬は落ち着いた表情で立っているものの、身体の向きを変える時には右後ろ脚の運び方が不自然になり、シモンはその動きを見逃さないよう注意深く観察している。
「シモン、今朝はどう?」
ルシルが水桶を置いて近づくと、シモンはベルクから少し距離を取り、眼鏡の位置を直した。
「おはようございます、ルシル様。昨夜から大きく悪化した様子はありません。ただ、右後ろ脚の動きには依然として違和感がありますので、馬車を引かせる判断はできません」
「そうか……。昨日、ミレナさんが話してくれた人に会えるといいね」
「ええ。馬の扱いに慣れた方であれば、私たちが見落としていることに気づくかもしれません。ただし、その方が獣医ではないことも忘れてはいけませんね」
シモンの言葉に、ルシルは頷いた。原因が分からないまま無理をさせないという方針は、三人で何度も確認してきたことだったが、実際に動けない馬車を前にすると、どうしても早く何とかしたい気持ちが生まれてしまう。
ベルクはルシルの気配に気づき、ゆっくりと首を向けた。ルシルが額へ手を伸ばすと、馬は静かに鼻先を近づけてきたため、彼はその温かな息を感じながら毛並みを撫でた。
「おはよう、ベルク。今日も無理はしないからね」
ベルクが小さく鼻を鳴らすと、近くにいたトルクまで首を伸ばしてきた。栗毛の馬は自分も撫でてもらいたいらしく、ルシルの肩へ鼻先を寄せてくる。
「分かってるよ、トルクもおはよう。君は相変わらず元気だね」
ルシルが笑いながらトルクの額を撫でると、シモンも少しだけ表情を和らげた。
その時、馬車の向こうからモモの声が聞こえてきた。
「ルシル君、シモン君! 朝ご飯の準備できたよ!」
振り返ると、モモが簡単な食事を並べたところだった。昨日までは水の残量を気にして食事の準備にも制限があったが、今朝は温かい飲み物を少し用意することができている。
「ありがとう、モモ。今行くよ」
ルシルは二頭へもう一度声をかけ、シモンと一緒に馬車の方へ戻った。
◇
朝食の間、三人の話題は自然とベルクのことになった。
モモは保存食を小さく分けながら、昨日ミレナが話してくれた人物について尋ねた。
「馬のことに詳しい人って、どんな人なんだろうね。優しい人だといいなあ」
「農耕馬の世話を長くしている方だと聞いていますが、それ以上のことは分かりません。ミレナさんが相談してくださるとのことでしたので、まずは返事を待ちましょう」
シモンが答えると、モモは頷いた。
「そうだね。でも、もし来られなかったらどうするの?」
「その場合は、別の方法を考える必要があります。ベルクを無理に歩かせずにハルミナへ戻る方法があるか、近くの農家へ相談することも考えています」
ルシルは温かい飲み物を口にしながら、二人の話を聞いていた。ハルミナへ戻れば、以前泊まった「旅人の休み家」のマリナにも相談できるだろうし、町には馬を診られる人がいるかもしれない。
しかし、そこへ戻るための道が問題だった。
昨日、水を運んだ時に見た街道の轍は深く、荷車を押して通るだけでも苦労した。ベルクに馬車を引かせれば、脚へ余計な負担をかける可能性が高い。
「ねえ、シモン」
ルシルが声をかけると、シモンは顔を上げた。
「何でしょうか、ルシル様」
「もしベルクがしばらく馬車を引けないなら、馬車だけ別の方法で動かせないかな」
「別の方法、ですか」
「うん。トルク一頭だけで引かせるのは負担が大きいだろうし、僕たちが押すにしても、あの道じゃ難しいよね。だったら、馬車を運ぶのを手伝ってもらうとか、ベルクを安全な場所で休ませてもらうとか……」
ルシルは言葉を探しながら、自分の考えを説明した。
シモンはすぐには答えず、少し考え込んだあと、ゆっくりと頷いた。
「選択肢としては考えられます。ただ、馬車を運ぶための人手や馬を借りるには、相手の都合もありますし、費用も必要になるでしょう。ベルクを預ける場合も、信頼できる場所かどうか確認しなければなりません」
「そうだよね。でも、何も考えずにここで待つよりは、できることを探したいんだ」
ルシルがそう言うと、モモが明るく頷いた。
「私も賛成! 昨日だって、畑の人に声をかけたからお水を分けてもらえたんだもん。今日も、できることを探してみようよ!」
シモンは二人の顔を見比べ、穏やかに微笑んだ。
「分かりました。では、まずベルクの状態を詳しく見てもらい、そのうえで移動方法を考えましょう。先に結論を出すより、確かな情報を増やすことが大切です」
三人はその方針を確認し、朝食を終えた。
◇
午前の陽が高くなり始めた頃、街道の向こうから人の声が聞こえてきた。
最初に気づいたのはモモだった。彼女は馬車のそばで旅帳面を開いていたが、遠くから聞こえる話し声に顔を上げ、街道の曲がり角へ目を向けた。
「あれ? 誰か来るみたい」
ルシルも顔を上げると、昨日会ったミレナが一人の年配の男性を連れて歩いてくるのが見えた。男性は背が高く、日焼けした顔に深い皺が刻まれており、肩には使い込まれた革の鞄を掛けている。
「ミレナさん!」
ルシルが声をかけると、ミレナは笑顔で手を振った。
「おはよう、ルシル。昨日はちゃんと休めたかい?」
「はい! おかげさまで、水の心配をせずに休めました」
「それならよかったよ。今日は、話していた人を連れてきたんだ」
ミレナは隣の男性へ顔を向けた。
「こちらは、近くで長く馬の世話をしてきたオルダさんだよ。農耕馬のことなら、私たちよりずっと詳しいんだ」
男性は三人を見渡し、ゆっくりと頷いた。
「オルダだ。馬の脚がおかしいと聞いたが、どの馬だ?」
低く落ち着いた声だった。
ルシルはすぐにベルクの方へ目を向けた。
「こちらの濃灰色の馬です。名前はベルク。右後ろ脚の動きが少しおかしくて、今は馬車を引かせずに休ませています」
オルダはベルクを見つめたあと、ルシルへ視線を戻した。
「いつからだ?」
「何日か前からです。最初に気づいた時から、歩き方が少し不自然で……。特に、曲がる時や坂を下る時に気になります」
ルシルが説明すると、シモンも補足した。
「目立った腫れや傷は確認できませんでした。ただ、私たちには原因が分からず、これ以上負担をかけないようにしています」
オルダは頷き、ベルクへゆっくりと近づいた。
「まずは、触ってもいいか?」
「はい。お願いします」
ルシルが答えると、オルダはベルクの首筋へ手を伸ばし、落ち着いた声で話しかけた。
「よしよし、少し見せてもらうぞ」
ベルクは最初こそ耳を動かしたが、オルダが急に近づかず、ゆっくりと身体へ触れるのを感じると、落ち着いて立っていた。
オルダは脚の外側を観察し、蹄の周囲や関節の動きを慎重に確かめた。強く押したり、無理に曲げたりすることはせず、ベルクが嫌がる様子を見せないか注意している。
ルシルは少し離れた場所から、その様子を見守った。
自分たちが何度も見てきた脚だったが、オルダの視線は違っていた。
彼は右後ろ脚だけでなく、反対側の脚や身体全体の立ち方まで確認している。
「ふむ……」
オルダは小さく声を漏らし、シモンへ顔を向けた。
「少しだけ、平らな場所を歩かせてもらえるか。無理はさせん。嫌がるようならすぐに止める」
「承知しました」
シモンはベルクの手綱を取り、草地の中でも特に平らな場所へゆっくりと誘導した。
ベルクは数歩進んだが、右後ろ脚を前へ出す時にわずかなためらいを見せた。オルダはその動きをじっと見つめ、すぐに手を上げた。
「もういい。止めてくれ」
シモンはベルクを止め、ゆっくりと元の場所へ戻した。
オルダはしばらく考え込んだあと、三人へ向き直った。
「はっきりしたことは言えん。だが、今の歩き方を見る限り、無理に馬車を引かせるべきじゃないな」
ルシルはその言葉を聞き、胸の奥が少し重くなるのを感じた。
「やっぱり、そうですか……」
「ああ。外から見える大きな傷はないが、それだけで中の状態が分かるわけじゃない。蹄や関節、筋の問題かもしれんし、別の原因かもしれん。わしは長く馬を扱ってきたが、獣医ではないから断定はできん」
オルダはそう言って、ベルクの方へ目を向けた。
「ただ、これ以上無理をさせれば、今より悪くなる可能性はある。少なくとも、重い馬車を引かせて街道を進むのは避けた方がいい」
シモンは深く頷いた。
「私たちも同じ判断をしていました。専門の方に診てもらうまでは、できるだけ負担を減らしたいと考えています」
「それがいいだろうな」
オルダは頷き、ルシルへ視線を戻した。
「この馬、何歳だ?」
「六歳です。名前はベルクといいます」
「六歳か。まだ若いな。だからこそ、今のうちにきちんと見てもらった方がいい」
その言葉に、ルシルは静かに頷いた。
◇
ベルクの状態を確認したあと、オルダは馬車の方へ歩いていった。
四輪の荷車を見回し、車輪や荷台の構造、二頭の馬をつなぐための馬具を確かめる。シモンはその隣で、これまでの旅で使ってきた装備について必要な範囲で説明した。
「なるほど。二頭で引く馬車か」
オルダは馬車の前部へ目を向けた。
「もう一頭は元気そうだな」
「はい。トルクは今のところ問題ありません。ただ、一頭だけでこの馬車を引かせるつもりはありません」
シモンが答えると、オルダは満足そうに頷いた。
「それがいい。荷物を減らせば動かせるかもしれんが、あの街道の轍を考えると、無理はさせん方がいい」
ルシルはその言葉を聞き、昨日水を運んだ時のことを思い出した。
「僕たちも、昨日あの道を荷車で通りました。水を載せただけでも、かなり大変だったんです」
「ああ、ミレナから聞いたよ。井戸の水を運んだそうだな」
オルダはミレナへ目を向け、少し笑った。
「お前さんも、よく手伝ったな」
「馬が水を飲めなくて困ってるって聞いたら、放っておけないだろう?」
ミレナは肩をすくめて答えた。
オルダは小さく笑い、再び馬車へ目を向けた。
「問題は、ここからどうやってハルミナへ戻るかだな」
「はい。そこを相談したいと思っていました」
シモンが答えると、オルダは腕を組んで考え込んだ。
「この馬車をそのまま動かすなら、別の馬を借りる方法がある。だが、馬具が合うかどうかも確認しなければならんし、道の状態も考えないといけない」
「別の馬を借りる……」
ルシルは思わず声を漏らした。
「そういうこともできるんですか?」
「できる場合もある、という話だ。近くの農家には荷車を引く馬がいるが、農作業に使っているから、いつでも貸せるわけじゃない。それに、知らない馬をいきなり旅の馬車につなぐのは危険だ」
オルダはそう説明し、ベルクへ視線を向けた。
「もう一つは、この馬を近くの農家で休ませておいて、先に町へ助けを呼びに行く方法だな。ただし、それにも預かる場所と世話をする人が必要になる」
ルシルはその話を聞きながら、頭の中でいくつもの可能性を考えた。
ベルクをここに置いたままハルミナへ向かうのは、できれば避けたかった。
しかし、馬車を動かすために無理をさせることもできない。
シモンはオルダの説明を聞き終えると、慎重に尋ねた。
「オルダさんのご経験から見て、今の状況ではどちらが現実的でしょうか」
オルダは少し考え、ゆっくりと答えた。
「まずは、馬を休ませられる場所を確保することだろうな。ここは街道脇だから、天気が崩れれば困るし、長く留まるには向いていない。近くに屋根のある場所があれば、馬も人も落ち着ける」
ミレナはその言葉を聞き、何か思い出したように顔を上げた。
「それなら、オルダさんのところの古い馬小屋はどうだい? 今は使ってない場所があっただろう?」
オルダはミレナへ目を向けた。
「ああ、あるにはある。だが、長く使っていないから、掃除が必要だぞ」
「掃除なら、私たちも手伝えます!」
ルシルがすぐに答えると、オルダは少し驚いたように彼を見た。
「お前さんたちが?」
「はい。ベルクを安全な場所で休ませられるなら、僕たちもできることをしたいです」
ルシルは真剣な表情で答えた。
オルダはしばらく彼を見つめたあと、ゆっくりと頷いた。
「ふむ。なら、一度見に来るか。使えるかどうかは、実際に確かめてから決めよう」
その言葉に、ルシルの胸が少し軽くなった。
「ありがとうございます!」
「まだ決まったわけじゃないぞ。馬小屋の状態も見なきゃならんし、そこまでベルクをどう連れていくかも考えないといけない」
「はい。分かっています」
ルシルは頷き、シモンとモモへ目を向けた。
二人も同じように、慎重な表情をしていた。
◇
昼前、三人は今後の行動について話し合った。
オルダの農家は、ミレナの畑からそれほど離れていない場所にあるという。ただし、ベルクを連れて行くには街道から畑の方へ入る必要があり、途中の道の状態を確認しなければならなかった。
「まずは、私が馬小屋と道を見に行きましょう」
シモンが提案すると、ルシルは少し考えてから頷いた。
「うん。僕も一緒に行っていい?」
「もちろんです。ただし、ベルクとトルクを見ている人が必要ですので、モモ嬢にはここで待っていただくことになります」
モモはすぐに頷いた。
「大丈夫! 二頭のお世話は任せて!」
その言葉に、ルシルは笑顔を浮かべた。
「ありがとう、モモ。戻ってきたら、ちゃんと様子を教えるね」
「うん! でも、あんまり無理しないでね」
モモはそう言って、ルシルの袖を軽くつまんだ。
ルシルが顔を向けると、彼女は少しだけ真剣な表情をしていた。
「昨日も水を運ぶのに頑張ったでしょう? 今日はちゃんと休みながら行ってね」
「分かった。無理はしないよ」
ルシルが答えると、モモは安心したように笑った。
オルダとミレナは先に道を案内し、ルシルとシモンはその後を歩いた。
草地を離れて街道へ出ると、昨日水を運んだ時に通った道が見えてきた。ルシルは足元の轍を見つめながら、荷車を引いた時の重さを思い出していた。
しかし、今日は水を運ぶためではなく、ベルクが安全に休める場所を探すために歩いている。
その違いが、ルシルには大きく感じられた。
◇
オルダの農家は、ミレナの畑から少し奥へ入った場所にあった。
周囲には低い木柵が巡らされ、家の隣には大きな納屋が建っている。その奥に、古い木造の馬小屋が見えた。
屋根はところどころ色が変わっていたが、大きく崩れた様子はない。入口の扉には古い金具が付いており、オルダが力を込めて開くと、乾いた木と藁の匂いが漂ってきた。
「ここだ。昔は二頭ほど入れていたんだが、今は使っていない」
ルシルは入口から中を覗き込んだ。
床には古い藁が残り、壁際には使われなくなった木桶が置かれている。窓は小さいものの、外の光が差し込んでおり、内部は思ったより明るかった。
「ここなら、ベルクを休ませられそうですね」
ルシルが言うと、シモンはすぐに頷くことなく、床や壁の状態を確認した。
「屋根があるのはありがたいですが、床の状態と換気を確かめる必要があります。古い釘や割れた板があれば、馬が怪我をする可能性もありますから」
「そうだな。わしも、使うなら一度きちんと見直した方がいいと思っていた」
オルダはそう答え、入口の近くに置かれていた古い道具を片づけ始めた。
ルシルも手伝おうとしたが、シモンに止められた。
「まずは危険なものがないか確認しましょう。古い道具には錆びた金具が付いているかもしれません」
「分かった。じゃあ、僕は入口の外にあるものから片づけるよ」
ルシルはそう答え、床に散らばっていた小さな木片を拾い集めた。
オルダはその様子を見ながら、少し感心したように頷いた。
「若いのに、よく働くな」
「いえ、そんなことは……。僕たちのために場所を貸していただくかもしれないので、できることはしたいんです」
ルシルが答えると、オルダは静かに笑った。
「そうか。なら、無理のない範囲で頼むよ」
しばらくして、シモンが床の一部に傷んだ板を見つけた。
彼はその場所を指さし、オルダへ確認を求めた。
「こちらの板は、少し沈むようです。馬を入れるなら、修理が必要かもしれません」
オルダは近づいて板を踏み、顔をしかめた。
「ああ、これは駄目だな。古くなっている。替えの板は納屋にあるから、直しておこう」
ルシルはそのやり取りを聞きながら、馬小屋を使うためには思った以上に準備が必要なのだと感じていた。
それでも、何もない街道脇で休ませるよりは、ずっと安心できる場所になるかもしれない。
◇
馬小屋の確認を終えると、オルダは三人を外へ案内した。
彼は農家の裏手へ続く道を指さし、街道から直接入るよりも、畑の脇を通る小道の方が平らだと説明した。ただし、その道は荷車が通るためのものであり、馬車を通せる幅はない。
「ベルクだけなら、ゆっくり歩かせて来られるかもしれん。ただ、今の脚の状態を考えると、無理はさせたくないな」
オルダが言うと、シモンは頷いた。
「私たちも同じ考えです。距離が短くても、痛みがある状態で歩かせることには慎重であるべきでしょう」
ルシルは道の先を見つめた。
平らに見える小道だったが、途中には小さな石が転がっており、ところどころ土が柔らかくなっている。ベルクが歩くには、慎重に状態を確かめる必要がありそうだった。
「オルダさん、もしベルクをここへ連れてくるなら、どうしたらいいと思いますか?」
ルシルが尋ねると、オルダはしばらく考えた。
「まずは、無理に動かさず、獣医に相談することだろうな。ハルミナには馬を診る者がいるはずだが、今も同じ場所で仕事をしているかは分からん。町へ行って確かめるのが一番だ」
「ハルミナに……」
ルシルはその言葉を繰り返した。
町へ戻ることができれば、ベルクを診てもらえるかもしれない。
しかし、馬車を動かせない以上、誰かが先に町へ行く必要がある。
シモンはその可能性を考えていたらしく、静かに口を開いた。
「それなら、私が先にハルミナへ向かい、獣医や馬車の移動を手伝ってくださる方を探す方法もあります」
ルシルは驚いてシモンを見た。
「シモンが一人で?」
「はい。徒歩であれば、馬車よりも移動しやすいでしょう。ただし、町までの距離や道の状態を確認してから判断する必要があります」
オルダは頷いた。
「それが現実的かもしれんな。だが、今日すぐに決める必要はない。まずは馬小屋を使える状態にして、ベルクをどうするか考えよう」
ルシルはその言葉を聞き、少しだけ安心した。
すぐに誰かが離れなければならないわけではない。
今は、できることを一つずつ進めればいい。
◇
午後、ルシルとシモンは野営地へ戻った。
モモは二人の姿を見つけると、すぐに駆け寄ってきた。
「おかえり! どうだった?」
「馬小屋はあったよ。少し古いけど、掃除と修理をすれば使えるかもしれないって」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに目を輝かせた。
「本当? じゃあ、ベルク君をそこで休ませられるかもしれないんだね!」
「うん。でも、まだ決まったわけじゃない。床の板を直さないといけないし、そこまでベルクをどう連れていくかも考えないと」
モモは頷き、ベルクへ目を向けた。
濃灰色の馬は静かに草を食んでいたが、右後ろ脚の動きは相変わらず慎重だった。
「ベルク君、早く元気になってほしいなあ」
モモはそう呟き、馬の首筋を撫でた。
ルシルも隣に立ち、ベルクの様子を見守った。
その時、シモンが静かに口を開いた。
「ルシル様、モモ嬢。少し相談があります」
二人が顔を向けると、シモンは地図を取り出した。
「オルダさんのお話を聞いて、ハルミナへ先に向かう方法を考えました。ベルクを無理に動かさず、専門の方へ相談するには、誰かが町へ行く必要があるかもしれません」
ルシルは地図を見つめた。
「シモンが行くつもり?」
「候補の一つです。ただし、私が離れている間、ルシル様とモモ嬢がここで過ごすことになります。安全面も考えなければなりません」
モモは少し考え込んだあと、口を開いた。
「私たちは大丈夫だと思うけど、シモン君が一人で行くのも心配だよ」
「ええ。ですから、すぐに決めるつもりはありません。まずは町までの道の状態や、途中で休める場所があるかを確認する必要があります」
ルシルは二人の話を聞きながら、静かに考えていた。
シモンが町へ行けば、ベルクを診てもらうための方法が見つかるかもしれない。
しかし、仲間が離れて行動することには不安もある。
それでも、ここで待ち続けるだけでは、ベルクの脚が良くなる保証はない。
「……僕は、シモンが町へ行く方法も考えていいと思う」
ルシルがそう言うと、モモとシモンが彼へ目を向けた。
「でも、無理に一人で行ってほしいわけじゃないんだ。ちゃんと安全を確認して、必要ならオルダさんたちにも相談してから決めたい」
シモンはその言葉を聞き、穏やかに頷いた。
「承知しました。私も同じ考えです」
モモも少し安心したように笑った。
「うん。みんなで決めようね」
◇
夕方、オルダが再び野営地を訪れた。
彼は馬小屋の傷んだ床板を取り替える準備を進めていることを伝え、明日には掃除も終えられるだろうと話した。
「ただ、ベルクを連れてくるかどうかは、もう少し考えた方がいいな」
オルダはそう言い、ベルクへ目を向けた。
「今の状態で歩かせるのがいいのか、それともここで休ませた方がいいのか、わしには断定できん。獣医に見てもらうのが一番だ」
シモンは頷いた。
「私たちも、ハルミナへ先に人を向かわせる方法を考えています」
「そうか。それなら、明日、町へ向かう荷車がないか聞いてみよう。近くの農家の誰かが用事で行くかもしれん」
ルシルは顔を上げた。
「荷車に乗せてもらえるかもしれないんですか?」
「まだ分からん。ただ、歩いて行くよりは楽だろうし、道のことを知っている者と一緒なら安心だ」
オルダはそう答え、ルシルの顔を見つめた。
「お前さんたちは、馬を大切にしてるんだな」
突然の言葉に、ルシルは少し驚いた。
「え?」
「普通なら、早く町へ戻りたいからと無理をさせる者もいる。だが、お前さんたちは馬の脚を気にして、ここで足を止めている。そういう旅人は、悪くない」
ルシルは少し照れたように笑った。
「ベルクもトルクも、僕たちの仲間ですから」
オルダはその言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
「そうか。なら、できるだけ力になろう」
その言葉に、ルシルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
オルダは手を軽く振り、夕暮れの街道を農家の方へ戻っていった。
◇
夜、三人は馬車のそばで簡単な夕食を取った。
水の補給ができたことで、温かい食事を用意する余裕が少し戻っている。モモは乾燥野菜を使った簡単な料理を作り、ルシルとシモンへ分けてくれた。
「今日は、昨日よりちょっと豪華だよ!」
モモが嬉しそうに言うと、ルシルは笑った。
「本当だ。温かいものを食べられるって、やっぱりいいね」
「でしょう? お水があるって、すごくありがたいことなんだね」
モモはそう言って、湯気の立つ器を見つめた。
シモンも静かに頷いた。
「ええ。今回のことで、水の補給計画をもっと慎重に立てる必要があると分かりました。今後は、次の補給場所を確認できないまま進みすぎないようにしましょう」
「うん。僕もそう思う」
ルシルは器を両手で持ちながら、今日の出来事を振り返った。
オルダにベルクの脚を見てもらい、無理に馬車を引かせない方がいいと改めて確認できた。
古い馬小屋を使えるかもしれないことも分かった。
そして、ハルミナへ先に人を向かわせるという、新しい方法も見えてきた。
まだ何も決まっていない部分は多い。
それでも、昨日までとは違う選択肢が増えている。
ルシルはそのことを、静かに嬉しく思っていた。
◇
夕食を終えると、モモは旅帳面を開いた。
今日の頁には、ベルクの脚を見ているオルダの姿と、古い馬小屋の絵が描かれている。実際に馬小屋へ行っていないモモは、ルシルとシモンから様子を聞きながら、想像を交えて描いていた。
「こんな感じだった?」
モモが帳面を見せると、ルシルは隣から覗き込んだ。
「うん。屋根はもう少し低かったかな。でも、雰囲気はすごく似てるよ」
「よかった!」
モモは嬉しそうに笑い、屋根の線を少し描き直した。
ルシルはその様子を見ながら、自分もハルミナへ戻ったら旅の日記を買おうと思った。
旅の途中で出会った人たちのこと。
助けてもらったこと。
自分たちで考え、悩みながら決めたこと。
そうした出来事を、できるだけ忘れずに残しておきたかった。
「ルシル君、また何か描く?」
モモが尋ねると、ルシルは少し考えてから笑った。
「今日は、オルダさんの顔を描いてみようかな」
「いいね! じゃあ、ここに描いてみて!」
モモは帳面の端を指さし、筆を渡した。
ルシルは慎重に線を引き始めたが、オルダの深い皺を描こうとして、思った以上に難しいことに気づいた。
「……なんだか、すごく怖い顔になっちゃった」
ルシルが苦笑すると、モモは帳面を覗き込んで笑った。
「そんなことないよ! ちょっと真面目そうだけど、優しそうにも見えるよ!」
「本当?」
「うん! だって、ベルク君のことをちゃんと考えてくれた人だもん!」
モモの言葉に、ルシルは静かに微笑んだ。
確かに、オルダは見た目こそ厳しそうだったが、馬を扱う時の手つきは丁寧で、ベルクのことを真剣に考えてくれていた。
ルシルはその姿を思い出しながら、絵の下へ小さく名前を書き添えた。
◇
夜が深まる頃、ルシルは馬車の外へ出て、ベルクの様子を確かめた。
濃灰色の馬は静かに立っており、トルクも近くで休んでいる。二頭の呼吸は落ち着いていたが、ベルクの右後ろ脚については、まだ安心できる状態ではなかった。
ルシルはベルクの首筋へ手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。
「もう少しだけ、待っててね」
ベルクは小さく鼻を鳴らし、ルシルの方へ顔を寄せた。
その温かな息を感じながら、ルシルは静かに目を細めた。
(早くハルミナへ戻りたい。でも、ベルクを無理に歩かせてまで急ぐのは違うよね)
ルシルはそう考え、ベルクの額をもう一度撫でた。
明日になれば、オルダが話していた荷車のことが分かるかもしれない。
馬小屋の準備も進むだろう。
そして、ハルミナへ向かうための新しい方法が見つかる可能性もある。
ルシルはその一つ一つを、焦らず確かめていこうと思った。
背後から足音が聞こえ、振り返るとシモンが立っていた。
「ルシル様、そろそろお休みになった方がよろしいですよ」
「うん。もう少しだけベルクのそばにいたかったんだ」
シモンはベルクへ目を向け、穏やかに頷いた。
「お気持ちは分かります。ただ、明日も考えることが多くなりそうです。今夜はしっかり休みましょう」
「そうだね」
ルシルはベルクへ最後に声をかけ、シモンと一緒に馬車へ戻った。
草地には静かな夜風が吹き、遠くの木立がかすかに揺れていた。
ハルミナへの帰り道は、まだ続いている。
けれど、その道を進むための方法は、少しずつ見え始めていた。
ルシルは仲間たちの存在を感じながら、明日へ向けて静かに眠りについた。




