第166話「動けない馬車に届いた助けと、畑から続く水の道」
夜明けの少し前、ルシルは馬車の外で交わされる低い声に気づき、眠りの浅いところからゆっくりと意識を浮かび上がらせた。昨夜は街道脇の草地で休むことになったが、ベルクの右後ろ脚と残り少ない水のことが気にかかり、いつもほど深く眠れなかったらしい。入口の布を持ち上げると、冷えた空気とともに、シモンが馬の様子を確かめる声が聞こえてきた。
空はまだ青黒く、東の丘の輪郭だけが薄く明るくなっている。草地の端には昨日見つけた乾いた溝があり、その向こうをハルミナへ続く街道が緩やかに曲がっていた。馬車は溝から十分に離れた固い場所に固定され、トルクとベルクはその近くで夜を過ごしていた。
「シモン、おはよう。ベルク、どうだった?」
ルシルが近づくと、シモンは馬の右後ろ脚から視線を上げ、眼鏡の位置を直した。ベルクは落ち着いて立っていたものの、身体の向きを変えようとした時には、問題のある脚を動かすまでにわずかな間があった。
「おはようございます、ルシル様。昨夜から大きな変化は見られません。ただ、今朝も右後ろ脚を動かす際にためらいがありますので、馬車を引かせるのは避けたいところです」
「昨日、坂を下りた時より悪くなってる?」
「私が見た範囲では、明らかに悪化したとは言えません。しかし、良くなったとも言えませんね。原因が分からない以上、休ませることが必要なのか、別の処置が必要なのかも判断できません」
シモンはベルクの首筋を撫で、馬が自分から動く様子を慎重に見守った。ルシルも隣に立ったが、脚に触れて確かめることはせず、濃灰色の毛並みを撫でながら、その呼吸が落ち着いていることを確認した。
「ハルミナまで連れて帰れれば、詳しい人に相談できるんだけどね」
「ええ。ただ、そこへ向かうためにベルクを歩かせ続けては本末転倒です。今日は移動を前提にせず、別の方法で水を確保できないか考える必要があります」
ルシルは街道の先へ目を向けた。昨日出会った小荷馬車の男性は、この先で畑仕事をしている人を見かけたと話していたが、その人物が今もいるかどうかも、水を分けてもらえるかどうかも分かっていない。
(誰かがいるかもしれない場所まで、僕たちだけで行ってみることはできる。でも、ベルクとトルクを置いたまま、どこまで離れていいんだろう)
その考えを口にすると、シモンはすぐに否定することなく、街道と馬車の位置を見比べた。
「私も同じことを考えていました。馬車を動かさず、人だけで情報を探す方法です。ただし、昨日の御者が畑を見た場所は正確には分かりません。歩いて探すにしても、引き返す時刻と探索する範囲を先に決めなければなりませんね」
「モモにも相談しよう。二人だけで決めるより、きっといい考えが出るよ」
ルシルがそう答えると、シモンは穏やかに頷いた。トルクが二人の方へ首を伸ばし、話に加わりたそうに鼻を鳴らしたため、ルシルは栗毛の額を撫でてから、まだ眠っているモモを起こしに馬車へ戻った。
◇
モモは水の容器を並べた途端、いつもの明るい表情を少しだけ引き締めた。
朝食には水をほとんど使わない保存食を選んだが、それで問題が解決するわけではない。人間三人の飲み水に加えて、二頭の馬にも十分な水が必要であり、特に馬の分を削って移動を続けるような方法は取れなかった。
「昨日の御者さんが見た畑の人を探すんだよね?」
モモは地図を覗き込み、シモンが指で示した街道の曲がり角を見つめた。そこから先は低い丘と木立が続いているが、畑の位置を示す印はない。
「はい。ただ、見つけられる保証はありません。私が街道を進んで確認し、ルシル様とモモ嬢にはここで待っていただく方法も考えています」
「シモン君一人で?」
モモの声に心配が混じると、シモンは小さく頷いた。
「一人であれば、馬車の警戒に二人残れますから。しかし、知らない道を一人で進む危険もあります。今はそれも含めて考えているところです」
ルシルは地図から顔を上げ、少し考えてから口を開いた。
「僕は、シモンと二人で行く方がいいと思う。モモには申し訳ないけど、トルクとベルクを見ていてほしいんだ」
「私は大丈夫だよ。でも、二人とも遠くまで行っちゃ駄目だからね」
モモはすぐに頷いたものの、ルシルの顔をじっと見つめて続けた。
「昨日も畑の人がいたっていうだけなんでしょう? 見つからなかったら、ちゃんと帰ってきて。ルシル君、気になるものを見つけると、もう少しだけって思っちゃうことがあるから」
その指摘に、ルシルは返事をする前に苦笑した。以前、古い水場へ続いていたかもしれない道を見つけた時も、草に覆われた先を確かめたい気持ちがあったことを思い出したからだ。
「うん。今日は水の情報を探すだけにする。途中で面白そうなものがあっても、寄り道しないよ」
「本当に?」
「本当に。シモンにも止めてもらうから」
「それなら安心かな!」
モモがようやく笑顔を浮かべると、シモンは探索の条件を具体的に決め始めた。街道から外れないこと、見通しの悪い場所へ入らないこと、決めた時刻までに畑が見つからなければ引き返すこと、そして何より、野営地に残る二頭の水を優先することだった。
ルシルは荷台の中から小さな水筒を取り出したが、その軽さに思わず手を止めた。残量の少なさを頭では理解していても、実際に持ち上げると、これから歩いて人を探すという判断の重さが違って感じられた。
「モモの分も、ちゃんと残しておくからね」
「私のことはいいから、二人も飲んでよ。歩いてる途中で倒れちゃったら、困るのは私なんだから」
モモはそう言って、水筒へ必要な分を移す作業を手伝った。ルシルが遠慮して量を減らそうとすると、彼女は眉を寄せたため、結局シモンが決めた量をそのまま持っていくことになった。
準備が整うと、シモンは馬車の固定具をもう一度確かめた。トルクとベルクは馬具を緩められた状態で休んでおり、モモが二頭のそばに立っている。
「では、行ってまいります。何か異変があれば、馬車を動かそうとせず、まず安全を確保してください」
「分かった! 二人とも気をつけてね」
モモが手を振ると、ルシルも振り返した。まだ朝の早い時間だったが、日差しは少しずつ強くなっており、街道の土は昨日より乾いて見えた。
◇
馬車を離れて歩き始めると、ルシルは普段より自分の足音が大きく聞こえることに気づいた。車輪の軋みも、トルクの鼻息もない街道では、靴底が固い土を踏む音と、草を揺らす風の音がよく響いていた。
シモンは少し前を歩きながら、時折振り返ってルシルの様子を確かめた。道の右側には深い轍が続き、左側には低い草と小石の混じる斜面が広がっている。
「昨日の御者が言っていた、低い木立の手前の轍でしょうか」
「そうかもしれないね。馬車で来なくてよかった」
ルシルは右側の轍を覗き込み、車輪が深く沈んだ跡を確かめた。雨が降った直後ではないらしく、表面は乾いているものの、底には固まった泥が残っている。
「ここに車輪が入ったら、ベルクにかなり負担がかかりそうだね」
「ええ。道の中央にも比較的浅い部分はありますが、馬車を安全に通せるかどうかは別問題です。戻ったら、地図に記しておきましょう」
二人は轍の位置を確認し、さらに先へ進んだ。
やがて街道が緩やかに左へ曲がる場所で、風に混じって土の匂いが変わった。乾いた草の匂いの奥から、湿った土と青い葉の匂いが漂ってきたのである。
ルシルは足を止め、街道の向こうを見渡した。低い丘の裾に、周囲より色の濃い一角が見える。
「シモン、あそこ、草原じゃないみたい」
シモンも目を細め、しばらくその場所を観察した。
「畑かもしれませんね。整った列のようなものが見えます。ただ、人の姿までは確認できません」
ルシルは胸の奥に期待が膨らむのを感じたが、足を速めることはしなかった。畑があるからといって、水を分けてもらえるとは限らず、誰かが暮らしている場所なのかも分からない。
さらに歩くと、土を耕した跡がはっきり見えるようになった。街道から少し離れた場所に細長い畑が広がり、低い木柵の向こうには葉の大きな野菜が並んでいる。
その端で、一人の女性が鍬を持っていた。
年齢は四十代ほどだろうか。日差しを避けるための広いつばの帽子をかぶり、袖を肘までまくっている。女性は畑の端へ土を寄せていたが、二人の足音に気づくと作業を止め、警戒するようにこちらへ顔を向けた。
シモンは木柵の手前で立ち止まり、相手の作業場所へ踏み込まない位置から声をかけた。
「お仕事中に失礼いたします。私たちはハルミナへ向かう旅人です。少しだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」
女性は鍬を持ったまま二人を見比べた。ルシルの服装とシモンの眼鏡、そして二人が馬車を連れていないことを確かめるように視線を動かしたあと、木柵へ近づいてきた。
「旅人さん? こんな朝から歩いてきたのかい」
「はい。少し手前の街道脇に馬車を止めています。馬の脚の調子が悪く、動かせなくなってしまいまして」
シモンが事情を説明すると、女性の表情が変わった。
「馬が歩けないのかい?」
「まったく歩けないわけではありません。ただ、右後ろ脚の動きがおかしく、これ以上馬車を引かせるのは避けたいと考えています」
「それは困ったねえ。ここからハルミナまでは、まだ馬車で進む道があるのに」
女性は鍬の柄を地面へ立て、しばらく考え込んだ。ルシルはその間、畑の端に置かれた木桶と、土の表面に残る湿り気を見つめていた。
畑の作物には水が与えられているらしい。
ただし、その水がどこから運ばれてきたものなのかは分からなかった。
「あの、もう一つお聞きしてもいいですか」
ルシルが声をかけると、女性は彼へ顔を向けた。
「何だい?」
「僕たち、水も少なくなっているんです。もしこの近くに、旅人が水を分けてもらえる場所があれば教えていただきたいんですが……」
言い終える前に、女性の眉が少し上がった。
「水まで足りないのかい。それじゃあ、馬を休ませてるだけでも大変だろう」
「はい。馬が二頭いるので、僕たちだけの分を考えればいいわけじゃなくて」
ルシルが答えると、女性は畑の奥へ目を向けた。
「この畑の水は、向こうの井戸から汲んでるんだ。ただし、私の畑だけの井戸じゃないよ。近くの農家が何軒かで使ってる共同の井戸なんだ」
ルシルは思わずシモンへ目を向けた。水場があるという話は、これまでにも何度か聞いているが、実際に使われている井戸の存在を聞けたのは大きな違いだった。
シモンはすぐに喜ぶのではなく、慎重に尋ねた。
「現在も使われている井戸なのですね。水量や利用の決まりについて、教えていただくことはできますか」
「使ってはいるよ。でも、勝手に誰でも汲んでいいわけじゃない。畑の水も必要だし、家で使う分もあるからね」
女性はそう言ってから、二人の表情を見比べた。
「ただ、馬が二頭いて、水が足りないんだろう? 事情を聞けば、少しくらい融通できるかもしれない。私一人で決められることじゃないから、井戸の管理をしている人に相談しないといけないけどね」
ルシルの胸に、温かなものが広がった。
水をもらえると決まったわけではない。
それでも、相談できる相手がいる。
その事実だけで、今朝から抱えていた重苦しさが少し和らいだ。
「ありがとうございます。相談していただけるだけでも、本当に助かります」
ルシルが頭を下げると、女性は慌てたように手を振った。
「まだ分けられるって決まったわけじゃないんだから、そんなに頭を下げなくてもいいよ。それより、馬車はどの辺りに置いてきたんだい?」
シモンは地図を取り出し、昨日下った坂と、街道脇の草地の位置を説明した。女性は道の形を聞きながら頷き、低い木立の手前で一度顔をしかめた。
「ああ、あの轍のある坂を越えたところか。あそこは荷車でも気をつけないといけない場所だね」
「やはり、そうなのですね」
「うちの荷車も、雨の後には通さないようにしてるよ。馬の脚が悪いなら、なおさら無理をさせちゃ駄目だ」
女性は畑の奥へ目を向け、少し考え込んだあと、二人へ向き直った。
「井戸のことを聞きに行くなら、私も一緒に行くよ。顔を知らない旅人がいきなり訪ねるより、私が事情を説明した方が話は早いだろうから」
「お仕事の途中なのに、よろしいのですか」
シモンが尋ねると、女性は鍬を持ち上げて笑った。
「畑は逃げないからね。それに、馬が水を飲めなくて困ってるって聞いたら、知らん顔もしにくいよ」
その言葉を聞いたルシルは、もう一度丁寧に礼を述べた。
◇
女性は鍬を畑の端へ片づけると、木柵の外へ出てきた。
「私はこの畑を世話しているミレナだよ。あんたたちは?」
ルシルは一瞬だけ言葉を選んだ。
旅先で本当の身分を明かすつもりはない。元王子であることを知られず、一人の旅人として人と関わることは、彼が自分で選んだ旅の大切な部分だった。
「僕はルシルです。こちらはシモン。馬車にはもう一人、モモという仲間が待っています」
「ルシルにシモンだね。分かったよ。じゃあ、井戸まで案内するからついておいで」
ミレナは歩き始めたが、二人が疲れていないか気にするように、ときどき振り返った。畑の奥へ続く小道は固く踏み締められており、両側には低い木柵と作物の列が続いている。
しばらく進むと、木立の向こうに二軒の農家が見えてきた。どちらも大きな建物ではなかったが、屋根はよく手入れされ、庭先には薪や農具が整然と置かれている。
その間の少し開けた場所に、石で囲まれた井戸があった。
井戸の周囲には水をこぼした跡が残り、木製の滑車には丈夫そうな縄が掛かっている。近くには桶を置くための台があり、その下の地面は長年の使用によって固く踏み締められていた。
「ここだよ。今朝も私が畑の水を汲んだから、井戸は使える」
ミレナはそう説明したが、ルシルが近づこうとすると、先に片手を上げた。
「ただし、使うのは話をしてからだよ。ここは何軒かで管理してるからね」
「はい。勝手には触りません」
ルシルが答えると、ミレナは満足そうに頷いた。
彼女は近くの家へ向かい、戸口から中へ声をかけた。少しして出てきたのは、白髪の混じった髭を持つ年配の男性だった。
男性はミレナの話を聞きながら二人を見比べ、やがて井戸の前まで歩いてきた。
「旅人が水に困っていると聞いたが、馬が二頭いるのか」
「はい。馬車を引く二頭で、片方は右後ろ脚の調子が悪く、今は街道脇で休ませています」
シモンが答えると、男性は腕を組んだ。
「馬二頭となると、少しの水じゃ足りんだろうな。人間三人の分だけならともかく、馬に飲ませるとなれば、それなりの量が必要になる」
「承知しています。こちらの事情だけで、必要な量を無理にお願いするつもりはありません。分けていただける範囲と、運ぶ方法について相談できればと思っています」
男性はシモンの言葉を聞き、少しだけ表情を和らげた。
「ふむ。勝手に汲ませろと言うわけじゃないんだな」
「はい。こちらにも水を入れる容器はありますが、今は馬車に積んであります。井戸から運ぶには、別の方法を考える必要があります」
ミレナはその説明を聞き、男性へ目を向けた。
「それなら、うちの小さな荷車を使えないかい? 畑へ水を運ぶ時に使ってるやつだよ」
「荷車か……。確かに、あれなら桶をいくつか載せられるな」
男性は井戸の方へ目を向け、しばらく考え込んだ。
「だが、道が悪い。馬車を止めているのは、あの坂の向こうなんだろう?」
「はい。街道から少し外れた、平らな草地です」
ルシルが答えると、男性は眉を寄せた。
「水を載せた荷車を引いて、あの轍を通るのは楽じゃないぞ」
「それでも、馬車を動かすよりは安全かもしれません」
シモンがそう答えると、男性は彼の顔をじっと見つめた。
「お前さん、馬のことをちゃんと考えてるんだな」
「私たちの大切な旅の仲間ですから」
その言葉に、ルシルは静かに頷いた。
ベルクもトルクも、ただ馬車を引くための存在ではない。旅の途中で一緒に景色を見て、雨や風を越え、何度も助けられてきた仲間だった。
男性はしばらく考えたあと、ゆっくりと口を開いた。
「分かった。井戸の水は、今日使う分を確認したうえで、いくらか分けよう。ただし、何日分も持っていけるほどの量は出せん。馬に必要な水を運ぶなら、荷車を使うしかないだろうな」
ルシルは思わず息を呑んだ。
「本当ですか?」
「ああ。ただし、井戸の管理をしている家にも話を通す。それと、水を運ぶのはあんたたちにも手伝ってもらうぞ」
「もちろんです! 僕たちにできることなら、何でも手伝います!」
勢いよく答えたルシルを見て、ミレナが笑った。
「何でもって言うと、畑仕事まで頼まれちゃうかもしれないよ?」
「えっ、あ、それは……」
ルシルが慌てると、男性も口元を緩めた。
「冗談だ。まずは水を運ぶことを考えよう。畑仕事はその後でいい」
ルシルは頬を少し赤くしながら笑い、シモンも小さく息を漏らした。
◇
井戸の水を分けてもらう話がまとまると、次は運搬方法を考えることになった。
ミレナが使っている荷車は、人が押したり引いたりする小型のもので、木桶を二つ載せられるようになっていた。大きな車輪は付いているものの、満水の桶を載せれば相当な重さになる。
シモンは荷車の車輪と軸を確認し、街道の轍を越えられるかどうかを考えた。ルシルも隣で荷台の幅を確かめ、桶が動かないよう固定する場所を探した。
「一度にたくさん運ぶより、無理なく動かせる量にした方がよさそうですね」
シモンが言うと、ミレナは頷いた。
「そうだね。水をこぼしたら、せっかく汲んだ意味がなくなるし、荷車を壊しても困るから」
男性は井戸の滑車を確かめながら、二人へ声をかけた。
「まずは桶を半分ほどにして運んでみるといい。道の状態を見て、次にどうするか決めればいいだろう」
「ありがとうございます。その方法でお願いします」
シモンは丁寧に頭を下げた。
井戸から水を汲む作業は、男性とミレナが行った。二人とも慣れた手つきで桶を下ろし、滑車を回して引き上げる。
ルシルはその様子を見ながら、井戸の深さと縄の重さに驚いていた。王宮にいた頃は、水がどこから運ばれてくるのかを考えることも少なかったが、目の前では一桶の水を得るために、いくつもの動作と力が必要だった。
引き上げられた水は澄んでおり、男性は普段から家で使っている水だと説明した。ただし、旅人が飲む分については、念のため煮沸するよう勧められた。
シモンはその助言を受け、飲用分と馬に与える分を分けて扱うことにした。
荷車へ桶を載せると、ルシルは木製の取っ手を握り、少し持ち上げてみた。
「……思ってたより重いね」
水を入れる前には簡単に動いた荷車が、今は地面へしっかりと重みを預けている。ルシルが力を込めると車輪は動いたが、少し方向を変えただけで桶の水面が揺れた。
「無理に速く動かさないでください。特に坂では、荷車の重さが一気にかかります」
シモンが横から支えながら言った。
「うん。ゆっくり行こう」
ミレナも一緒に街道まで来てくれることになった。男性は井戸の管理を続けるために残り、三人が安全に戻れるよう、荷車の固定具を確かめてくれた。
ルシルは出発前にもう一度頭を下げた。
「本当にありがとうございます。水を分けてもらえるだけでも助かるのに、荷車まで貸していただいて」
「礼なら、無事に戻ってからでいい。馬を待たせてるんだろう?」
男性の言葉に、ルシルは頷いた。
「はい。仲間が見てくれています」
「なら、急ぎすぎずに行くんだな。水を運ぶ時ほど、足元をよく見ないといかんぞ」
ルシルはその言葉を胸に留め、荷車の取っ手を握り直した。
◇
帰り道は、行きよりもずっと時間がかかった。
空の桶を運ぶだけなら簡単だっただろう。しかし、水を入れた荷車は少しの傾きにも影響を受け、車輪が小石へ乗り上げるたびに、ルシルは腕へ伝わる重さを感じた。
シモンは荷車の後ろ側から支え、ミレナは道の先を歩きながら、通りやすい場所を教えてくれた。畑から街道へ出る小道は比較的平らだったが、街道の轍が深くなる場所では、三人とも慎重にならざるを得なかった。
「ここから先は、右へ寄りすぎない方がいいよ」
ミレナが指さした場所には、乾いた泥が深く固まった轍が残っていた。ルシルは荷車の向きを少し変えようとしたが、水の重さで思うように動かせず、シモンの助けを借りて車輪を安全な位置へ戻した。
「ありがとう、シモン。水って、運ぶだけでも大変なんだね」
「ええ。特に、容器が大きくなるほど重さも増します。無理に一度で運ぼうとすれば、転倒や破損の危険がありますから」
シモンはそう答え、荷車の取っ手を握るルシルの手元を確認した。
「少し休みましょう。腕に力が入りすぎています」
「まだ大丈夫だよ」
「大丈夫なうちに休むのです。疲れてからでは、荷車を支えきれなくなるかもしれません」
その言葉に、ルシルは反論しかけた口を閉じた。ベルクを無理に歩かせないと決めたばかりなのに、自分が無理をして荷車を壊してしまえば、何のために慎重に行動しているのか分からなくなる。
「……うん。少し休もう」
ルシルが取っ手を下ろすと、ミレナは近くの石へ腰を下ろした。
「いい判断だよ。水運びは、力任せにやるものじゃないからね」
「ミレナさんは、いつもこんなふうに運んでるんですか?」
「畑へ運ぶ時は、もっと近い道を使うんだよ。それでも、暑い日は何度も往復するから、なかなか大変だけどね」
ルシルはミレナの手を見つめた。指の付け根には硬くなった部分があり、日焼けした手の甲には細かな傷が残っている。
彼女はそれを気にする様子もなく、帽子のつばを持ち上げて空を見た。
「今年は雨が少ない時期もあったから、水の使い方には気をつけてるんだ。だから、旅人さんにも好きなだけ汲んでいいとは言えないんだけどね」
「はい。分かっています」
ルシルは静かに答えた。
「僕たちのために分けていただけるだけで、本当にありがたいです」
ミレナは少し驚いたように彼を見たあと、穏やかに笑った。
「そう言ってもらえるなら、手伝った甲斐があるよ」
短い休憩を終えると、三人は再び荷車を動かした。
深い轍のある場所では、シモンが車輪の位置を確かめながら進み、ルシルは取っ手を握って重さを支えた。ミレナは少し前から道を見守り、危ない場所があればすぐに声をかけてくれる。
やがて昨日下った坂が見えてきた。
その向こうには、モモと二頭の馬が待つ草地がある。
ルシルは胸の奥に安堵が広がるのを感じたが、最後まで気を抜かないよう、荷車の動きを慎重に保った。
◇
草地へ近づくと、最初に二人へ気づいたのはトルクだった。
栗毛の馬が耳を立て、街道の方へ首を伸ばす。その動きに気づいたモモが顔を上げ、荷車を引いて戻ってくるルシルたちを見つけた。
「ルシル君! シモン君!」
モモは馬車のそばから大きく手を振ったが、すぐに荷車へ視線を向けた。
「えっ、それ、お水!?」
「うん! 畑の人に会えて、井戸の水を分けてもらえることになったんだ!」
ルシルが答えると、モモは目を大きく見開いた。
彼女は駆け寄りかけたものの、荷車がまだ動いていることに気づくと、少し離れた場所で足を止めた。ルシルたちが安全な草地へ荷車を移動させ、車輪を固定するまで待ってから、ようやく近づいてきた。
「本当に? よかったあ……!」
モモの声は、最後の方で少し震えていた。
ルシルはその表情を見て、胸の奥が温かくなった。いつも明るく振る舞っていたモモも、水のことをずっと心配していたのだと、改めて気づいたからだ。
「待たせてごめんね。途中で荷車を運ぶのに時間がかかっちゃった」
「そんなの全然いいよ! ちゃんと戻ってきてくれたし、お水まであるんだもん!」
モモはそう言って笑ったが、目元にはわずかに涙が浮かんでいた。ルシルが何か言おうとすると、彼女は慌てて袖で目元を拭い、隣に立つミレナへ向き直った。
「あっ、初めまして! 私、モモです。お水を分けてくれて、ありがとうございます!」
ミレナは少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「私はミレナだよ。畑を世話してるんだ。あんたが馬たちを見てくれてたんだね」
「はい! トルク君もベルク君も、いい子にしてました!」
モモは誇らしげに答えたが、すぐにベルクへ目を向けた。
「ベルク君、まだ脚の動きは変わらないみたいです。でも、ここで休んでる間は落ち着いてました」
シモンはその報告を聞き、ベルクの様子を確認した。
濃灰色の馬は静かに立っており、右後ろ脚には依然として不自然な動きが残っている。目立った腫れや傷は確認できないが、今すぐ馬車を引かせられる状態だとは判断できなかった。
「ありがとうございます、モモ嬢。おかげで安心して水を探せました」
「うん。でも、これからどうするの?」
モモが尋ねると、シモンは荷車の方へ目を向けた。
「まずは二頭へ水を与えましょう。その後で、残りの水を容器へ移し、必要であれば追加の運搬について相談します」
ミレナも頷いた。
「そうだね。馬は一度に必要なだけ飲めるようにしてあげたいから、足りなければもう一度運ぶことを考えよう」
ルシルはその言葉を聞き、すぐに馬用の水桶を取り出した。
シモンと協力して水を移し、二頭が落ち着いて飲める位置へ置く。トルクは水の匂いを確かめると、すぐに鼻先を下げて飲み始めた。
ベルクも少し遅れて桶へ近づき、ゆっくりと水を飲んだ。
ルシルはその様子を見守りながら、ようやく肩の力を抜いた。
(よかった。少なくとも、今は二頭に水を飲ませてあげられる)
けれど、その安堵は長く続かなかった。
二頭が飲む水の量を見ているうちに、運んできた分だけでは十分な余裕がないことが分かったからだ。
シモンも同じことを考えたらしく、桶の残量を確かめてからミレナへ向き直った。
「申し訳ありません。可能であれば、もう一度水を運ばせていただけないでしょうか。もちろん、井戸の管理に支障がない範囲で構いません」
ミレナは少し考えたあと、頷いた。
「井戸の人にも話してあるし、今日分けられる量の範囲なら大丈夫だよ。ただ、今度は私も畑へ戻らないといけないから、荷車を返す時は二人で来てもらえるかい?」
「はい。必ずお返しします」
シモンが答えると、ミレナは安心したように笑った。
◇
二度目の水運びは、最初よりも少しだけ手際よく進んだ。
ルシルとシモンは荷車を空にして井戸へ戻り、男性へ事情を説明したうえで、分けてもらえる範囲の水を改めて汲んでもらった。井戸の管理者は二頭の馬が水を飲めたと聞くと、ほっとしたように頷き、残りの水を運ぶための桶を用意してくれた。
帰り道では、ルシルが荷車を引き、シモンが後ろから支えた。
最初の運搬で危ない場所を覚えていたため、深い轍を避ける位置も分かっている。それでも水の重さは変わらず、坂を越える頃にはルシルの腕が疲れていた。
「ルシル様、少し交代しましょう」
シモンが声をかけると、ルシルは素直に取っ手を譲った。
「ありがとう。最初は僕が全部運ぼうと思ってたけど、やっぱり一人じゃ大変だね」
「ええ。ですが、二人で分担すれば負担を減らせます。無理をして一人で抱え込む必要はありません」
ルシルはその言葉を聞き、少しだけ笑った。
「旅に出てから、そういうことを何度も教えてもらってる気がするよ」
「それだけ、いろいろな経験をしているということでしょう」
シモンは穏やかに答え、荷車を慎重に進めた。
草地へ戻ると、モモが水を受け取る準備を整えて待っていた。
三人は協力して水を容器へ移し、飲用分と馬に与える分を分けて管理した。馬たちは必要な水を飲み、残った分も今後のために保管できた。
水の問題が完全に解決したわけではない。
ハルミナへ戻るまでには、まだ道が続いている。
しかし、今朝のように、次の一口さえ心配しなければならない状態からは抜け出すことができた。
ルシルは水の容器を固定し終えると、馬車の脇へ腰を下ろした。
「……よかった」
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
モモが隣へ座り、ルシルの顔を覗き込む。
「ルシル君、疲れた?」
「うん。ちょっとだけ。でも、それより安心したかな」
ルシルはそう答え、トルクとベルクへ目を向けた。
「二頭がちゃんと水を飲めたのを見たら、なんだか力が抜けちゃった」
モモはしばらく彼の横顔を見つめたあと、静かに笑った。
「私もだよ。二人が戻ってくるまで、ずっと心配してたんだから」
「ごめんね」
「謝らなくていいよ。ちゃんと戻ってきてくれたし、私も二頭のお世話ができたから」
モモはそう言って、少しだけ胸を張った。
「それに、今日は三人とも頑張ったでしょう? だから、ちゃんと休まないとね」
ルシルは頷き、彼女の言葉に従って水を飲んだ。
冷たい水が喉を通る感覚は、いつも以上にありがたく感じられた。
◇
午後になると、ミレナが畑仕事の合間を縫って、もう一度草地へ様子を見に来てくれた。
彼女はトルクとベルクが落ち着いていることを確かめ、荷車が無事に戻ってきたと聞くと、安心したように頷いた。ルシルたちは改めて礼を述べ、借りた荷車を返したことと、分けてもらった水を大切に使うつもりであることを伝えた。
「それで、これからどうするつもりなんだい?」
ミレナが尋ねると、シモンはベルクへ目を向けた。
「今のところ、すぐに出発するつもりはありません。水を補給できたので、まずはベルクを休ませたいと考えています」
「それがいいだろうね。脚の調子が悪いまま馬車を引かせるのは心配だよ」
ミレナは頷いたあと、少し考え込んだ。
「そういえば、近くの農家に馬を扱うのが上手な人がいるよ。獣医というわけじゃないけど、農耕馬の世話を長くしてる人なんだ」
ルシルは顔を上げた。
「馬のことに詳しい人がいるんですか?」
「ああ。ただ、今も家にいるかどうかは分からないし、脚の原因まで分かるかは別の話だよ。それでも、見てもらえれば何か助言をもらえるかもしれない」
シモンはその言葉を聞き、慎重に尋ねた。
「その方へ相談することは可能でしょうか」
「私から話をしてみようか。あんたたちがここにいることを伝えて、来られるようなら来てもらうよ」
ルシルは思わず立ち上がりかけたが、すぐに姿勢を整えた。
「ありがとうございます。でも、ミレナさんにもお仕事がありますよね。無理はしないでください」
ミレナは少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「大丈夫だよ。畑仕事の帰りに寄れる場所だからね。ただし、今日中に来られるとは限らないから、期待しすぎないでおくれ」
「はい。それでも、相談していただけるだけで助かります」
シモンが答えると、ミレナは頷いた。
彼女は三人へ別れを告げ、畑の方へ戻っていった。
その背中を見送りながら、ルシルは静かに息を吐いた。
朝には、水をどこで補給できるのかさえ分からなかった。
今は水を分けてもらい、さらにベルクのことを相談できるかもしれない人の存在まで知ることができた。
けれど、すべてが解決したわけではない。
馬の脚がどうして不自然に動くのか、その原因はまだ分からないし、ハルミナへ戻るための方法も決まっていない。
ルシルはそのことを理解したうえで、少しだけ前向きな気持ちになっていた。
「シモン、今日は本当に助かったね」
「ええ。ミレナさんと井戸の管理をしている方のおかげです」
「僕たちだけだったら、きっとここまでできなかったと思う」
シモンはルシルへ目を向け、穏やかに答えた。
「ですが、ルシル様が畑の人へ声をかけ、水のことを尋ねたからこそ、今回の話につながりました。助けを求めることも、旅では大切な行動ですよ」
ルシルはその言葉を聞き、少し照れたように笑った。
「そうかな。でも、シモンが一緒にいてくれたから、ちゃんと話せたんだと思う」
「それなら、お互いに役に立てたということですね」
シモンがそう言うと、ルシルは嬉しそうに頷いた。
◇
夕方、モモは旅帳面を開き、今日の出来事を描き始めた。
そこには、畑の端に立つミレナの姿と、石で囲まれた井戸、それから二人で水を運んだ小さな荷車が描かれている。実際に井戸まで行ったわけではないモモは、ルシルとシモンから形や周囲の様子を聞きながら、少しずつ絵を完成させていた。
「井戸って、こんな感じだった?」
モモが帳面を見せると、ルシルは隣から覗き込んだ。
「うん。石の囲いはもう少し低かったかな。それと、滑車が上についてたんだ」
「なるほど。じゃあ、ここを直して……」
モモは楽しそうに筆を動かした。
ルシルはその様子を見ながら、自分もハルミナへ戻ったら旅の日記を買いたいと思った。今日のような出来事は、時間が経つと細かな部分を忘れてしまうかもしれない。
水を運んだ時の重さ。
ミレナが笑った時の表情。
井戸の滑車が回る音。
そして、トルクとベルクが水を飲んでいる姿を見た時の安心感。
そうしたものを、できるだけ自分の言葉で残しておきたかった。
「ルシル君も、何か描いてみる?」
モモが尋ねると、ルシルは少し考えてから笑った。
「僕は、日記を買ってからにしようかな。絵はモモの方が上手だし」
「そんなことないよ! ルシル君の絵も見てみたいなあ」
モモはそう言って、帳面の端を指さした。
「ここ、少し空いてるから、何か描いてみる?」
ルシルは少し迷ったあと、モモから筆を借りた。
描いたのは、二頭の馬が並んで水を飲んでいる姿だった。
トルクの耳は少し大きくなりすぎ、ベルクの脚は思ったような形にならなかったが、モモはそれを見て嬉しそうに笑った。
「かわいい! トルク君、すごく元気そう!」
「本当? ちょっと変な形になっちゃったけど」
「そんなことないよ。今日のトルク君って、こんな感じだったもん!」
モモは楽しそうに笑い、絵の下へ小さく日付を書き添えた。
ルシルはその文字を眺めながら、今日という日が、ただ水を補給しただけの日ではなくなったように感じた。
困っている時に助けを求めたこと。
知らない人が、自分たちの事情を聞いて手を貸してくれたこと。
そして、仲間たちと一緒に、少しずつ問題を乗り越えようとしていること。
そのすべてが、旅の大切な記憶になっていくのだろう。
◇
夕食を終える頃には、草地の向こうに夕闇が広がり始めていた。
シモンは水の容器を改めて確認し、今日補給した分を今後どのように使うか整理していた。ルシルとモモもその作業を手伝い、馬たちの分と三人の分を分けて保管した。
水が増えたことで、今夜は必要以上に切り詰めずに済む。
それでも、次の補給場所が確定しているわけではないため、無駄遣いをするつもりはなかった。
ルシルは容器の蓋を閉め、シモンへ目を向けた。
「明日はどうする?」
シモンは少し考え、ベルクの方へ視線を移した。
「まずは、ミレナさんが話してくださるという方の返事を待ちたいと思います。馬の状態について助言をいただけるなら、その内容を踏まえて今後の移動を考えましょう」
「うん。ベルクが無理なく動ける方法を探したいね」
モモも頷き、濃灰色の馬へ目を向けた。
「ベルク君、早く元気になってほしいなあ。でも、焦らずにちゃんと休ませようね」
ルシルはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。
今日、三人は水を手に入れることができた。
それは大きな前進だったが、同時に、次に考えるべき問題がはっきりした日でもあった。
水が足りないから進まなければならない、という切迫した状況は少し和らいだ。
だからこそ今度は、ベルクの脚に無理をさせず、どうすればハルミナへ戻れるのかを落ち着いて考えることができる。
ルシルは夜空へ目を向け、静かに息を吐いた。
(今日、畑の人に声をかけてよかった。知らない人に助けを求めるのは少し緊張したけど、何もしなかったら、きっと今も水のことばかり心配してたんだろうな)
草地を渡る風は、朝よりも少し冷たくなっていた。
遠くでは夜鳥が鳴き、街道を通る人の気配も少なくなっている。トルクとベルクは水を飲み終え、馬車の近くで落ち着いて休んでいた。
モモは旅帳面を閉じ、シモンは見張りの準備を整えている。
ルシルは二人の姿を眺めながら、今日も一緒に旅を続けられることをありがたく思った。
ハルミナへの道は、まだ終わっていない。
ベルクの脚のことも、これからどう進むかも、答えは出ていない。
それでも、今日は確かに一つの問題を前へ進めることができた。
ルシルは馬車のそばへ戻り、仲間たちとともに夜の休息へ入った。




