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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第165話「残り少ない水と、街道で下した三人の決断」



 夜明け前、ルシルは馬車の外から聞こえてきた低い鼻息で目を覚ました。


 最初はトルクが餌を催促しているのかと思ったが、耳を澄ませると、いつもより短い間隔で地面を踏む音が混じっている。荷台の中はまだ薄暗く、隣ではモモが外套を掛けたまま眠っていた。ルシルは彼女を起こさないよう身を起こし、入口の布をそっと持ち上げた。


 外には冷たい朝の空気が漂い、作業小屋の屋根も街道沿いの木々も、まだ灰色の影に包まれていた。


 馬車の前ではシモンがベルクのそばに立ち、その右後ろ脚を注意深く見つめている。


「シモン、おはよう。何かあったの?」


 ルシルが声をかけると、シモンは顔を上げた。


「おはようございます、ルシル様。ベルクが立つ位置を何度か変えていましたので、少し様子を確認していたところです」


「脚が悪くなったの?」


「今のところ、そう断定できる変化はありません。ただ、右後ろ脚へ体重をかける際に、少しためらう様子があります。昨夜より痛みが強くなったのか、それとも長く同じ姿勢でいたためなのか、私には判断できません」


 シモンの声は落ち着いていたが、ルシルには、その言葉を選ぶ慎重さが伝わってきた。


 ベルクは濃灰色の首を下げ、静かに地面を見つめていた。目立った傷も腫れもない。それでも、右後ろ脚の動きが普段と違うことは、もう何日も続いている。


 ルシルは近づいて首筋を撫でた。


「おはよう、ベルク。今日は少しでも楽だといいんだけど」


 ベルクは鼻先を寄せ、ルシルの肩へ軽く触れた。


 その温かさに安心しながらも、胸の奥の不安は消えなかった。


 昨日、三人は古い共同水場へ続いていたかもしれない道を見つけた。しかし、木立の奥は草に覆われ、足元も確認できなかったため、探索を打ち切っている。


 水場が今も存在するかどうかさえ分からない。


 作業小屋の井戸は水量が少なく、管理している男性にも余裕がない。


 そして、馬車に積んでいる水は、日に日に減っていた。


(ベルクを休ませたい。でも、水がなくなったら、休んでいるだけじゃどうにもならない)


 ルシルはベルクの首筋から手を離し、荷台の方へ目を向けた。


「シモン。今日は本当に出発できるかな?」


「その判断をするために、もう少し確認が必要です。ですが、今の場所へ長く留まることも難しくなっています」


 シモンはそう答え、馬車の後方へ歩き始めた。


「水の残量を、一緒に確認していただけますか」


「うん」


 二人は荷台の固定具を外し、水の容器を一つずつ調べた。


 底にわずかな水が残るもの。持ち上げると、中で水が揺れる感触が伝わるもの。まだ空ではないが、満たされていた頃とは明らかに重さが違うもの。


 シモンは容器ごとの状態を帳面へ記し、必要な分をどこから取り出すか整理していった。


「思っていたより少ないね」


 ルシルが呟くと、シモンは頷いた。


「ええ。特に問題なのは、次の補給場所が確定していないことです。残量だけでなく、いつ補給できるか分からない点が、判断を難しくしています」


「昨日の古い水場へ、もう一度行ってみるのはどうかな」


 そう口にしてから、ルシルはすぐに首を振った。


「……ごめん。昨日、無理に探さないって決めたばかりだったね」


「謝る必要はありませんよ。状況が変われば、以前見送った方法を改めて検討することもあります。ただ、あの水場については、今も使えるという確かな情報がありません」


 シモンは帳面を閉じ、ルシルへ向き直った。


「仮に私たちがもう一度探索へ向かったとしても、時間と水を使うことになります。その間、馬たちはここで待たなければなりません。見つからなかった場合の負担も考える必要があります」


「そうだね。見つかるかもしれないってだけで、全部を賭けるわけにはいかないんだ」


 ルシルは静かに頷いた。


 作業小屋の向こうから、木の扉が開く音が聞こえてきた。


 年配の男性が朝の作業を始めたらしく、建物の脇へ置いていた道具を運んでいる。彼は馬車の方へ一度目を向けたが、こちらの作業を邪魔することなく、静かに建物の中へ戻っていった。


 ルシルはその姿を見送りながら、昨日までの会話を思い出した。


 水を分けられないと告げた時、男性は申し訳なさそうにしていた。


 けれど、あの井戸の水も、男性が暮らし、作業を続けるために必要なものだった。


 自分たちが困っているからといって、相手の生活を犠牲にしていい理由にはならない。


 そう考えるようになったことを、ルシルは少し不思議に感じていた。


 王宮にいた頃は、水を手に入れるために誰かがどれほど苦労しているのか、深く考えたことがなかった。


 飲みたい時には水があり、食事の時間には温かな料理が用意されていた。


 その当たり前が、今はどれほど多くの人の働きによって支えられていたのか、少しずつ分かり始めている。


「ルシル様?」


 シモンの声に、ルシルは顔を上げた。


「ごめん。ちょっと考え事をしてた」


「何か気になることが?」


「うん。昔は、水が足りなくなることなんて考えたこともなかったなって」


 シモンは一瞬だけ表情を和らげた。


「そうですね。暮らす場所が変われば、見えてくるものも変わります」


「僕、まだ知らないことがたくさんあるんだね」


「それを知るための旅でもあるのでしょう」


 ルシルはその言葉を聞き、小さく笑った。


「うん。そうだったね」


     ◇


 モモが目を覚ました頃には、東の空が明るくなり始めていた。


 荷台から降りてきた彼女は、二人が水の容器を確認しているのを見ると、すぐに事情を察したらしい。いつものように明るく挨拶したあと、少し真剣な顔で近づいてきた。


「おはよう、二人とも。お水、やっぱり少ない?」


「おはよう、モモ。うん。思っていたより減ってるみたい」


「そっか……」


 モモは容器へ目を向け、しばらく黙っていた。


 彼女には強い魔法の力がある。しかし、だからといって、何もないところから安全な飲み水を好きなだけ作り出せるわけではない。


 以前なら、何か魔法で解決できないかと考えていたかもしれない。


 けれど、今はその限界を彼女自身が理解していた。


「私の魔法で何とかできたらいいんだけどね」


 モモは小さく呟いた。


 ルシルはその横顔を見つめ、静かに答えた。


「モモが悪いわけじゃないよ。僕だって、水を見つけられてないんだから」


「うん。でも、こういう時って、何かできないかなって思っちゃうんだ」


「それなら、一緒に考えてほしいな。僕たち、まだ今日どうするか決めてないんだ」


 ルシルがそう言うと、モモは顔を上げた。


「一緒に?」


「うん。シモンだけに任せるんじゃなくて、三人で考えたいんだ」


 モモは少し驚いたように目を瞬かせたあと、嬉しそうに笑った。


「もちろん! 私もちゃんと考えるよ!」


 シモンは二人のやり取りを見守り、静かに頷いた。


「では、朝食を終えたら、今日の方針を決めましょう。水の残量とベルクの状態、それから街道の情報を整理したいと思います」


 三人は朝食の準備を始めた。


 今日は火を使わずに食べられる保存食を選び、飲み水の使用量を抑えることにした。モモは少し残念そうだったが、保存食を食べやすい大きさに分け、三人の皿へ丁寧に並べていく。


 ルシルは食器を運びながら、モモの手元へ目を向けた。


「モモ、僕の分は少し少なくてもいいよ」


 その言葉を聞いたモモは、ぴたりと手を止めた。


「駄目だよ、ルシル君」


「え?」


「ちゃんと食べないと、歩けなくなっちゃうでしょう?」


「でも、食料も節約した方がいいかなって」


「節約するのと、必要な分を食べないのは違うよ」


 モモは珍しく真剣な顔で言った。


「私たちが元気じゃなかったら、トルク君とベルク君のお世話もできないんだから。無理して我慢するのは駄目!」


 ルシルは少し驚いたあと、素直に頷いた。


「……そうだね。ごめん」


「分かればよろしい!」


 モモは得意そうに胸を張ったが、すぐにいつもの笑顔へ戻った。


 その様子を見ていたシモンも、穏やかに口を開く。


「モモ嬢の言うとおりです。必要な食事や水分まで削れば、判断力や体力に影響します。節約は大切ですが、身体を壊してしまっては意味がありません」


「うん。気をつけるよ」


 ルシルは皿を受け取り、二人と一緒に朝食を取った。


 食べながら、昨夜のことを思い返す。


 作業小屋の男性は、無理をすれば後で困ると話していた。


 あの言葉は、馬や旅の道筋だけでなく、自分たちの身体にも当てはまるのだろう。


 ルシルは保存食をゆっくりと噛み、今日も歩くために必要な食事を終えた。


     ◇


 朝食のあと、三人は馬車の脇へ地図を広げた。


 シモンは現在地を示し、ハルミナへ続く街道を指でたどった。


「まず、今の状況を整理します。ベルクの右後ろ脚には、まだ不自然な動きがあります。水の残量は少なく、次の補給場所も確定していません。そして、古い共同水場へ続く可能性のある道は見つかりましたが、現在も使えるかどうかは分かりません」


 ルシルとモモは頷いた。


「そのうえで、考えられる方法は大きく分けて三つあります。ここでさらに休息を取ること。古い水場の探索を続けること。そして、街道を進みながら補給先を探すことです」


「僕は、三つ目がいいと思う」


 ルシルは少し考えてから答えた。


「ベルクのことは心配だけど、ここにずっといたら水が減るだけでしょう? 古い水場も、使えるかどうか分からないし」


 シモンは頷いた。


「ええ。私も、今のところは街道を進む方法が最も現実的だと考えています。ただし、ベルクの状態によっては途中で止まる必要があります」


 モモは地図を見つめながら、少しだけ眉を寄せた。


「でも、途中で止まったら、またお水が減っちゃうよね?」


「そうですね。だからこそ、出発前に必要な準備を整え、できるだけ無駄な移動を避ける必要があります」


 シモンは街道の先へ指を動かした。


「この先には、以前通った道が続いています。ただ、当時と同じ状態とは限りません。特に、道の端が柔らかくなっている場所や、深い轍が残っている場所には注意が必要です」


「昨日の荷馬車みたいに、車輪が沈んじゃったら大変だもんね」


 モモが言うと、ルシルも頷いた。


「うん。あの時は何とか動かせたけど、僕たちの馬車で同じことが起きたら、ベルクに無理をさせちゃうかもしれない」


「そのとおりです。ですから、今日は移動距離を決めるよりも、安全に進める範囲を確認しながら行動しましょう」


 三人はしばらく地図を見つめ、今後の方針を相談した。


 その中で、モモが一つの提案をした。


「ねえ、もし途中で人に会ったら、お水のことだけじゃなくて、ハルミナまでの道の様子も聞いてみない?」


 ルシルは顔を上げた。


「道の様子?」


「うん。ベルク君が歩きやすい場所があるかもしれないし、逆に危ないところがあるなら、先に知っておきたいなって」


 シモンは少し考えてから、穏やかに頷いた。


「よい提案ですね。水場の情報だけに気を取られず、道の状態も確認することは大切です」


「えへへ。役に立った?」


「もちろんです」


 シモンが答えると、モモは嬉しそうに笑った。


 ルシルも頷き、モモへ目を向けた。


「僕も、その方がいいと思う。水を探すことばかり考えてたけど、ベルクが歩ける道かどうかも大事だもんね」


「そうそう! だから、両方聞けたらいいなって」


 三人は方針を決め、出発の準備を始めた。


 ただし、すぐに馬車を動かすわけではなかった。


 シモンはまずベルクを平らな地面へ誘導し、短い距離を歩かせて状態を確認した。右後ろ脚の動きには依然として不自然さが残るものの、朝より明らかに悪くなっている様子は見られない。


 それでも、シモンは慎重だった。


「今日の移動は、少しでも状態が悪くなれば中止します。水のことが気になっても、その判断は変えません」


「うん。分かった」


 ルシルは頷き、ベルクの首筋を撫でた。


「無理しなくていいからね。ゆっくり行こう」


 ベルクは静かに鼻を鳴らした。


     ◇


 出発前、三人は作業小屋の男性へ挨拶することにした。


 男性は建物の前で木材を整理しており、馬車の準備を進めている三人に気づくと、作業の手を止めた。


「おや、今日は出発するのかい?」


「はい。ベルクの状態を見ながら、少しずつハルミナへ向かおうと思います」


 ルシルが答えると、男性は頷いた。


「そうか。水のこともあるだろうし、いつまでもここにいるわけにはいかんだろうな」


「はい。でも、無理はしないつもりです」


「それがいい」


 男性はそう言って、馬車の方へ目を向けた。


「昨日の石柱の話だが、あの道を無理に進まないと決めたのなら、それでよかったと思うぞ。古い道は、昔と同じように使えるとは限らんからな」


 ルシルは頷いた。


「ありがとうございます。教えてもらったことは、ちゃんと記録しておきます」


「そうしておくれ。いつか別の旅人の役に立つかもしれん」


 男性は少し笑い、シモンへ視線を移した。


「馬の脚はどうだい?」


「まだ完全には戻っていません。大きな悪化は見られませんが、慎重に進む必要があります」


「そうか。なら、坂道と道の端には気をつけるんだな。特に、荷車の轍が深い場所は避けた方がいい」


「ありがとうございます。十分に注意します」


 シモンが礼を言うと、男性は頷いた。


 モモも一歩前へ出て、明るい声で礼を述べた。


「いろいろ教えてくれて、ありがとうございました! お水は分けてもらえなかったけど、道のことを教えてもらえて助かりました!」


 その言葉に、男性は少し驚いた顔をした。


 そして、ゆっくりと笑った。


「そう言ってもらえると、こちらも気が楽になるよ。水を分けられなくて悪かったな」


「いえ。大切なお水ですから」


 ルシルが答えると、男性は静かに頷いた。


「……あんたたち、いい旅をしてるんだな」


 ルシルは少しだけ目を瞬かせた。


「そうでしょうか?」


「ああ。困ったことがあっても、ちゃんと話し合って決めている。そういう旅なら、きっと得るものも多いだろう」


 男性の言葉に、ルシルは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


「ありがとうございます。僕たちも、そういう旅を続けたいと思っています」


 男性は満足そうに頷き、三人を見送った。


 ルシルたちはもう一度礼を述べ、馬車へ戻った。


     ◇


 街道へ出ると、朝の風が草原を渡ってきた。


 昨日までの野営地が少しずつ遠ざかり、作業小屋の屋根が木立の向こうへ隠れていく。


 トルクは歩き始めると少し元気を見せたが、シモンが手綱を調整すると、すぐに落ち着いた歩調へ戻った。ベルクも隣に並んで進んでいるものの、右後ろ脚の動きにはまだ慎重さが残っている。


 ルシルは二頭の右側を歩き、モモは馬車の後方から車輪の状態を見守っていた。


 街道の中央には古い轍が残っていたが、比較的固い地面が続いている。シモンは道の端へ寄りすぎないよう注意し、必要に応じて馬車を止めて地面を確認した。


 しばらく進んだところで、ルシルは道端に小さな白い花が咲いていることに気づいた。


「モモ、あそこに花が咲いてるよ」


 ルシルが声をかけると、モモは顔を上げた。


「本当だ! かわいいね!」


 彼女は嬉しそうに笑ったが、すぐに馬車の車輪へ視線を戻した。


「でも、今日はちゃんと見張りをしないとね。あとで覚えてたら描こうかな」


「うん。今は道の方が大事だね」


 ルシルは頷き、前方へ視線を向けた。


 花を見つけて楽しむ余裕がまったくないわけではない。


 けれど、今の三人には、何を優先するべきか考える必要があった。


 そのことを、ルシルは以前より自然に受け止められるようになっていた。


 午前の半ば頃、街道の先に小さな下り坂が見えてきた。


 坂自体はそれほど急ではなかったが、右側の地面には深い轍が残り、左側には細い溝が続いている。シモンは馬車を止め、二人へ周囲の確認を頼んだ。


「ここは慎重に進みましょう。右側の轍へ車輪を落とすと、抜け出すのが難しくなるかもしれません」


「分かった。僕は右側を見ておくね」


「じゃあ、私は左側!」


 モモは元気よく答えたが、足元へ十分に注意しながら移動した。


 三人は道の状態を確認し、車輪が通れる位置を慎重に選んだ。


 シモンは二頭の歩調を整え、ゆっくりと坂を下り始める。


 トルクは落ち着いて進んでいたが、ベルクは途中で一度、右後ろ脚の運びをためらった。


「シモン、ベルクが……」


 ルシルが声をかけるより早く、シモンは馬車を止めていた。


「ええ。少し休ませましょう」


 三人はその場で動きを止め、ベルクの様子を確認した。


 ベルクは大きく暴れることもなく、静かに立っていた。しかし、右後ろ脚を地面へ置く時の動きには、やはり違和感がある。


 シモンはしばらく観察したあと、慎重に口を開いた。


「ここから先は、無理に進まない方がよさそうですね」


 ルシルは坂の下へ目を向けた。


 そこには比較的平らな道が続いていたが、今いる場所から馬車を動かすには、まだ少し距離がある。


「でも、ここで止まってても大丈夫かな?」


「まずは、安全に馬車を止められる場所を探しましょう。ベルクの状態を見ながら、必要最小限の移動にとどめます」


 モモも心配そうにベルクへ近づいた。


「ベルク君、大丈夫? 痛いのかな……」


 彼女は首筋を撫でながら、静かに声をかけた。


 ルシルはその様子を見つめ、胸の奥に重いものを感じた。


 水を探すために進まなければならない。


 けれど、ベルクがこれ以上無理をすることは避けたい。


 その二つの事情が、今まで以上にはっきりと目の前に現れていた。


     ◇


 幸い、坂を少し下ったところに、街道から離れた平らな草地が見つかった。


 シモンは地面の状態を慎重に確認し、車輪が沈みにくいことを確かめてから、馬車を移動させることにした。


 ルシルとモモは左右から車輪の動きを見守り、ベルクの歩調が乱れないよう注意した。


 短い距離ではあったが、三人にとっては長く感じられる移動だった。


 やがて馬車が平らな場所へ到着すると、シモンはすぐに二頭を止め、馬具を緩めた。


「今日はここで休息を取ります」


 その言葉を聞いたルシルは、少しだけ息を吐いた。


「うん。ベルクを休ませよう」


 モモも頷き、二頭のそばへ歩いていった。


 三人は馬車の固定を確認し、必要な荷物を取り出して休息の準備を始めた。


 シモンはベルクの右後ろ脚を改めて確認したが、目立った腫れや傷は見られなかった。ただ、動きに不自然さが残っている以上、これ以上歩かせるべきではないと判断した。


「ハルミナに戻ったら、必ず詳しい方に診てもらいましょう」


「うん。マリナさんに相談すれば、馬のことに詳しい人を紹介してもらえるかもしれないね」


 ルシルが言うと、シモンは頷いた。


「ええ。まずは町へ戻ることが必要ですが、そのためにも今は無理を避けましょう」


 モモはベルクの首筋を撫でながら、少しだけ表情を曇らせた。


「早く元気になってほしいなあ」


 ルシルは隣へ立ち、静かに頷いた。


「僕もだよ」


 しばらくの間、三人は言葉を交わさず、ベルクの様子を見守っていた。


 やがてシモンが水の容器を取り出し、二頭に必要な分を与える準備を始めた。


 ルシルはその様子を見ながら、残量がさらに減っていくことを考えた。


 水は必要だ。


 ベルクにもトルクにも、飲ませなければならない。


 しかし、次にどこで補給できるかは、まだ分からない。


 ルシルは思わず唇を結んだ。


 その表情に気づいたモモが、そっと声をかけた。


「ルシル君、心配?」


「……うん。水のことも、ベルクのことも」


「私も心配だよ」


 モモは正直に答えた。


「でも、今はベルク君を休ませるって決めたんでしょう? だったら、まずはそれをちゃんとやろうよ」


 ルシルは彼女へ目を向けた。


「そうだね。決めたことを、ちゃんとやらないとね」


「うん。それに、まだできることはあると思うんだ」


「できること?」


「例えば、シモン君と一緒に地図を見直したり、ここから見える範囲に人がいないか確かめたり。無理に歩き回らなくても、考えられることはあるでしょう?」


 ルシルは少し驚いたあと、ゆっくりと笑った。


「モモ、すごいね」


「えっ、何が?」


「僕、ベルクが歩けなくなったらどうしようって、そればかり考えてた。でも、モモはちゃんと次にできることを考えてるんだね」


 モモは少し照れたように頬を緩めた。


「えへへ。私だって、少しは成長してるんだから!」


 その言葉に、ルシルは自然と笑顔になった。


     ◇


 昼食を終えたあと、三人は地図を広げ、現在地を確認した。


 シモンは午前中に通った坂と、馬車を止めた草地の位置を書き込んだ。


「ここから先へ進むには、ベルクの状態が改善する必要があります。ただ、水の残量を考えると、長く待つことも難しいでしょう」


 ルシルは地図を見つめながら、少し考えた。


「シモン、僕たちだけで近くの道を見に行くのはどうかな。馬車は動かさずに、誰か住んでる場所がないか確かめるんだ」


「その方法も考えられます。ただし、今日はすでに移動していますし、今から長い距離を探索するのは避けたいですね」


「うん。無理に遠くまで行くつもりはないよ」


 モモも地図を覗き込んだ。


「じゃあ、今日はここから見える範囲だけ確認して、明日の朝にどうするか決めるのは?」


 シモンは少し考えてから頷いた。


「それがよいでしょう。まずは安全な範囲で周囲を確認し、必要な情報を整理しましょう」


 三人は役割を決め、馬車から離れすぎない範囲で周囲を見渡すことにした。


 ルシルは草地の端まで歩き、街道の先へ目を向けた。


 緩やかな丘がいくつか続き、その間を道が曲がりながら伸びている。


 遠くには木立が見えたが、建物らしいものは確認できなかった。


 モモは反対側を見渡し、低い草の間に続く小さな溝を見つけた。


「ねえ、ここって雨が降った時に水が流れるのかな?」


 ルシルが近づくと、溝の底には乾いた土と小石が残っていた。


「そうかもしれないけど、今は水がないね」


「うん。残念」


 モモは少し肩を落としたが、すぐに顔を上げた。


「でも、雨が降った時に水が流れる場所なら、地面が柔らかくなることもあるよね。馬車を止める時は気をつけた方がいいかも」


「確かに。シモンにも伝えよう」


 二人は溝の位置を覚え、馬車の方へ戻った。


 シモンはその話を聞き、周囲の地面を改めて確認した。


「よく気づいてくださいました。今は乾いていますが、雨が降れば状態が変わる可能性があります。馬車の位置は、このままで問題ないかもう一度確かめておきましょう」


 モモは嬉しそうに笑った。


「えへへ。役に立てた!」


「うん。助かったよ、モモ」


 ルシルも笑顔で答えた。


 小さな発見だったが、今の三人には大切なことだった。


 水を見つけることはできなかった。


 それでも、安全に休める場所を確かめることができた。


 今は、その一つ一つを積み重ねていくしかなかった。


     ◇


 夕方が近づく頃、街道の向こうから小さな車輪の音が聞こえてきた。


 最初に気づいたのはトルクだった。耳を立て、街道の方へ首を向ける。


 ルシルもその動きに気づき、顔を上げた。


「シモン、誰か来るみたい」


 シモンはすぐに街道へ視線を向けた。


 遠くから、一台の小さな荷馬車が近づいてくる。


 馬車はそれほど大きくなく、荷台には布を掛けた箱がいくつか積まれていた。御者台には一人の男性が座っており、こちらの馬車に気づくと、少し速度を落とした。


 ルシルは思わず立ち上がった。


(もしかしたら、水のことを聞けるかもしれない)


 けれど、すぐに声をかけるのではなく、シモンへ目を向けた。


「シモン、あの人に道のことを聞いてみてもいいかな?」


「ええ。ただし、相手も旅の途中です。無理に引き止めることは避けましょう」


 ルシルは頷き、街道から少し離れた位置で待った。


 荷馬車が近づくと、御者台の男性は三人へ軽く手を上げた。


「こんにちは。こんなところで休憩かい?」


「こんにちは。ええ、馬の脚の調子がよくないので、少し休ませているところです」


 シモンが答えると、男性は心配そうに二頭へ目を向けた。


「それは大変だな。どこへ向かっているんだい?」


「ハルミナへ戻るところです」


「ハルミナか。なら、まだ少し道があるな」


 男性はそう言って、街道の先へ目を向けた。


 ルシルはその言葉に少し緊張した。


「この先の道について、何かご存じですか?」


 男性は少し考えたあと、頷いた。


「俺はさっき、向こうから来たところだ。道は通れるが、途中に轍の深い場所がある。特に、低い木立の手前は気をつけた方がいい」


 シモンはすぐに礼を述べ、詳しい場所を尋ねた。


 男性は街道の曲がり方を説明し、深い轍が残る場所の特徴を教えてくれた。


「馬車が通れないほどじゃないが、脚の悪い馬には少し厳しいかもしれん。無理に進まない方がいいぞ」


「ありがとうございます。参考にさせていただきます」


 シモンが答えると、ルシルはもう一つ尋ねた。


「それから、この先に水を補給できる場所はありませんでしたか?」


 男性は少しだけ眉を寄せた。


「水か……。俺が通った範囲では、旅人が自由に使える井戸は見なかったな。ただ、少し先で畑仕事をしている人を見かけた。あの辺りに住んでいる人なら、何か知っているかもしれん」


 ルシルは思わず顔を上げた。


「畑仕事をしている人がいたんですか?」


「ああ。街道から少し離れた場所だったがな。ただ、今もいるかどうかは分からんし、水を分けてもらえるかどうかも知らないぞ」


「はい。それでも、教えてくださってありがとうございます」


 ルシルが礼を言うと、男性は軽く笑った。


「役に立つといいな。じゃあ、俺は先へ行くよ」


 三人はもう一度礼を述べ、荷馬車を見送った。


 車輪の音が少しずつ遠ざかる中、ルシルは街道の先へ目を向けた。


 畑仕事をしている人がいた。


 それは、水を補給できるという確かな情報ではない。


 けれど、今まで何も分からなかった道の先に、人の気配があることだけは分かった。


「シモン、どう思う?」


 ルシルが尋ねると、シモンは少し考えてから答えた。


「明日の判断材料にはなりますね。ただし、畑の場所も正確には分かりませんし、今も人がいるとは限りません。ベルクの状態を確認しながら、慎重に考えましょう」


 モモも頷いた。


「うん。今日はもう休もう。ベルク君も疲れてるだろうし」


 ルシルは二人へ目を向け、静かに頷いた。


「そうだね。明日のことは、明日ちゃんと考えよう」


     ◇


 夕食の準備を始める頃には、空が橙色に染まり始めていた。


 モモは保存食と乾燥野菜を取り出し、残っている香草をほんの少しだけ加えて料理を作った。


 ルシルは必要な分の水を容器から取り出し、残りを丁寧にしまい直した。


 水の残量は、朝よりさらに減っている。


 それでも、今日必要な分を使わずに済ませることはできなかった。


 ルシルは容器の蓋を閉めながら、静かに息を吐いた。


(明日、何か分かるといいな。でも、期待しすぎちゃ駄目なんだよね)


 彼は馬車の外へ出て、ベルクの様子を確認した。


 濃灰色の馬は落ち着いて休んでおり、トルクも隣で静かにしている。


 ルシルは二頭の首筋を撫で、優しく声をかけた。


「今日もありがとう。明日は、もう少し楽に歩けるといいね」


 ベルクは静かに鼻を鳴らした。


 その温かな息を感じながら、ルシルは胸の奥に残る不安を、少しずつ整理しようとした。


 今の自分たちには、解決していない問題がある。


 水のこと。


 ベルクの脚のこと。


 そして、ハルミナまでの道のり。


 どれも簡単には片づかない。


 けれど、だからといって、焦って決めるわけにはいかなかった。


 夕食を囲む頃、三人は今日の出来事を振り返った。


 朝、水の残量を確認したこと。


 ベルクの状態を見ながら、短い距離だけ進んだこと。


 途中で脚の動きが気になり、早めに休息を取ると決めたこと。


 そして、通りがかった旅人から、道の先に畑仕事をしている人がいたという情報を得たこと。


 ルシルは食事を終え、シモンへ目を向けた。


「ねえ、シモン。今日はあまり進めなかったけど、僕はこれでよかったと思う」


 シモンは少しだけ目を細めた。


「そうですか」


「うん。ベルクを無理させずに済んだし、道のことも少し分かったから。何もできなかったわけじゃないよね」


 シモンは穏やかに頷いた。


「ええ。距離だけが旅の成果ではありません。安全に進むための情報を得ることも、大切な一歩です」


 モモも笑顔を浮かべた。


「そうそう! それに、今日は三人でちゃんと考えて決めたもんね!」


 ルシルは二人の顔を見つめ、ゆっくりと笑った。


「うん。ありがとう」


 夜が深まり、街道の向こうに星が見え始めた。


 三人は交代で見張りをする準備を整え、馬車の周囲を確認した。


 ルシルは最後にもう一度、ベルクの様子を見に行った。


 濃灰色の馬は静かに休んでおり、トルクも近くで落ち着いている。


 ルシルは二頭の首筋を撫で、そっと声をかけた。


「明日も、みんなで無事に進もうね」


 その言葉に応えるように、ベルクが小さく鼻を鳴らした。


 ルシルは静かに微笑み、仲間たちのいる馬車へ戻った。


 ハルミナへの帰り道は、まだ続いている。


 水の補給場所も、ベルクの脚がいつ元に戻るのかも、今は分からない。


 それでも、三人は今日、自分たちにできることを考え、無理をしない道を選んだ。


 明日、街道の先で何が待っているのかは分からない。


 けれど、どんな状況でも、三人で話し合いながら進んでいこう。


 ルシルはそう心に決め、静かな夜の中で休息の時間を迎えた。

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