第164話「古い水場へ続く道と、ルシルが見つけた消えかけの印」
作業小屋の屋根から朝露が落ちる音が、静かな野営地へ小さく響いていた。
ルシルが目を覚ました時、馬車の外ではすでにシモンが動き始めていた。荷台の布越しに聞こえるのは、金具を確かめる音と、トルクが餌を催促するように鼻を鳴らす声だった。昨夜は街道脇の平らな草地で休んだため、車輪の傾きに悩まされることもなく、比較的落ち着いて眠ることができた。
外へ出ると、冷たい朝の空気が頬に触れた。東の空は薄い金色に染まり始めているものの、木立の間にはまだ夜の名残がある。少し離れた場所に建つ古い作業小屋は、昨日よりも輪郭がはっきり見え、壁板の継ぎ目や屋根の傷みまで確かめられた。
ルシルはその建物を眺めながら、昨日出会った年配の男性の言葉を思い返した。
小屋には井戸がある。しかし、水の出が悪く、旅人へ十分に分けられる余裕はない。
代わりに教えてもらったのは、ハルミナ方面の街道から少し外れたところに、古い共同の水場があったという話だった。
場所も現在の状態も確かではない。それでも、男性から渡された木片には簡単な道筋が描かれており、今の三人にとっては無視できない手がかりになっていた。
(今日は、あの水場について何か分かるといいな。でも、見つかったからって、すぐに使えるとは限らないんだよね)
期待と不安を抱えながら馬車の前へ向かうと、シモンがベルクの右後ろ脚を確認しているところだった。
「おはよう、シモン。ベルクの様子はどう?」
「おはようございます、ルシル様。今朝も大きな悪化は見られませんが、右後ろ脚の動きにはまだ慎重さがあります。今日も長い距離を歩かせることは避けたいですね」
シモンはベルクの首筋を撫でながら答えた。濃灰色の馬は落ち着いていたが、向きを変える際には右後ろ脚を運ぶまでにわずかな間が生じる。目立った腫れや傷がないからといって、安心できる状態ではなかった。
「昨日も少ししか進んでないけど、まだ休ませた方がいいのかな」
「そうですね。水場を探すことも大切ですが、ベルクに無理をさせるわけにはいきません。今日は馬車をここに置いたまま、まず道の状態を確認する方法を考えています」
「馬車を動かさずに?」
「ええ。昨日いただいた木片の道筋が正しければ、水場へ向かう分かれ道は、ここからそれほど遠くない可能性があります。ただ、正確な距離は分かりませんから、探索する範囲を先に決める必要があります」
ルシルは頷き、シモンの手元へ目を向けた。
木片は馬車の荷台に保管されている。細い線で街道らしいものが描かれ、その途中から横へ伸びる短い線の先に、小さな丸印がついていた。作業小屋の男性は、その丸印が昔の水場を示していると説明してくれたが、目印になる建物や道の状態までは分からないという。
「だったら、僕が少し見に行こうか?」
ルシルがそう提案すると、シモンはすぐには答えなかった。
「お気持ちはありがたいのですが、単独での探索は避けたいところです。街道から外れる場所ですし、古い道には足場の悪いところもあるでしょう」
「そっか。じゃあ、シモンと一緒なら?」
「それも一つの方法ですね。ただ、モモ嬢と馬たちを残すことになりますから、まずは全員で相談しましょう」
シモンの言葉に、ルシルは素直に頷いた。
以前なら、自分が役に立てると思った時点で行動を始めていたかもしれない。けれど今は、何かをする前に仲間たちの状況を確かめることが自然になりつつあった。
ベルクが不調を抱え、水も不足している。そんな時だからこそ、一人の思いつきで動いてはいけない。
ルシルはベルクの首筋へ手を伸ばし、柔らかな毛並みをゆっくりと撫でた。
「今日も無理しないでね。ちゃんと休めるようにするから」
ベルクは鼻先をわずかに寄せ、彼の手に触れた。
その隣ではトルクが不満そうに耳を動かしている。自分だけ構ってもらえないのが気に入らないらしく、ルシルの袖を鼻先で押してきた。
「もちろん、トルクも大事だよ。そんな顔しなくても分かってるって」
ルシルが笑いながら栗毛の首筋を撫でると、トルクは満足したように鼻を鳴らした。
その様子を見ていたシモンは、眼鏡の奥で少しだけ目を細めた。
「トルクは相変わらずですね。ベルクの分まで元気があるようです」
「元気なのはいいことだけど、もう少し落ち着いてくれてもいいのにね」
「ええ。ただ、こうして普段どおりの様子を見せてくれるのは、安心材料でもあります」
二人が話していると、荷台の入口からモモが顔を出した。
「おはよう! あれ、二人とももう馬のお世話してるの?」
桃金色の髪を手で整えながら、モモは軽やかに地面へ降りた。朝の冷たさに肩をすくめたものの、トルクとベルクを見つけると、すぐに笑顔を浮かべて近づいてくる。
「おはよう、モモ。今日は水場のことを調べる方法を相談しようと思ってたんだ」
「昨日の木の板に描いてあった場所だよね?」
「うん。馬車はここで休ませて、僕たちだけで道を確認するのはどうかなって」
ルシルが説明すると、モモは少し考え込み、ベルクへ目を向けた。
「それならベルク君は休めるね。でも、誰かが馬車に残らないといけないんでしょう?」
「そうですね。そこで、私とルシル様が短い範囲を確認し、モモ嬢には馬車と二頭をお願いできないかと考えています」
シモンが答えると、モモは一度目を瞬かせた。
「私が二頭のお留守番?」
「ええ。ただし、長時間離れるつもりはありません。危険な場所へ入ることも避けますし、道が分からなければすぐに戻ります」
モモはベルクの首筋を撫でながら、しばらく考えていた。
彼女も一緒に水場を探してみたい気持ちはあった。古い道や建物を見るのは好きだし、もし面白いものが見つかれば、旅帳面に描いておきたい。しかし、ベルクが休息を必要としていることも、トルクが知らない人や物音に反応することも分かっている。
「うん。じゃあ、私がお留守番するね。でも、あんまり遠くまで行っちゃ駄目だよ?」
「ありがとう、モモ。ちゃんと戻ってくるよ」
「それと、何か危ないものがあったら無理しないこと! 古い水場って、足元が崩れてたりするかもしれないんだから」
モモはいつになく真剣な表情で言った。
ルシルが頷くと、シモンも丁寧に頭を下げた。
「承知しています。私たちも、今日は水を汲むことより、道と場所を確認することを優先します」
「うん。それなら安心!」
モモは笑顔を取り戻し、朝食の準備を始めるために荷台へ戻っていった。
◇
朝食を終えた三人は、木片に描かれた道筋を改めて確認した。
シモンは地図を広げ、昨日の男性から聞いた説明と照らし合わせながら、街道の曲がり方や周囲の地形を確かめていく。木片の線は大まかなものだったが、作業小屋からハルミナ方面へ進んだところで、街道から右手へ分かれる古い道があるらしい。
「ただ、この線が現在の道を正確に示しているとは限りません。昔の道筋が変わっている可能性もありますから、見つからなければ無理に探さず戻ります」
シモンはそう説明し、ルシルへ目を向けた。
「それから、今日の探索では二つのことを守ってください。一つは、私から見えない場所へ一人で進まないこと。もう一つは、水場らしいものを見つけても、勝手に近づいたり中を覗き込んだりしないことです」
「分かった。古い井戸だったら、周りの地面が弱くなってるかもしれないもんね」
「そのとおりです。水があるかどうかより、安全に近づけるかどうかが先です」
ルシルは頷いた。
モモは二人のために小さな食料の包みを用意していたが、シモンは長時間の探索を予定していないため、必要な分だけを持つことにした。飲み水についても、持ち出す量と野営地へ残す量を確認し、二頭の分が不足しないようにする。
「ねえ、シモン君。もし途中でお水を見つけても、そのまま持って帰ってきちゃ駄目なんだよね?」
モモが尋ねると、シモンは頷いた。
「ええ。安全に使える水かどうか分かりませんから。見た目が澄んでいても、飲み水として適しているとは限りません」
「そっか。じゃあ、今日は本当に調べるだけなんだね」
「そう考えてください。もちろん、確かな情報が得られれば今後の判断に役立ちますが、無理をしてまで確認するつもりはありません」
モモは納得したように頷き、ルシルへ小さく手を振った。
「じゃあ、気をつけて行ってきてね。私はトルク君とベルク君と一緒に待ってるから!」
「うん。よろしくね」
ルシルとシモンは必要な道具を持ち、街道へ向かった。
作業小屋の近くでは、昨日の年配の男性が壁板を調べていた。二人に気づくと手を止め、軽く顎を上げる。
「おや、もう出発かい?」
「いえ。昨日教えていただいた古い水場について、道の入口だけでも確認しようと思いまして」
シモンが答えると、男性は少し考え込んだ。
「そうか。なら、街道を少し進んだところに、古い石の目印が残っているかもしれん。昔はそこから脇道へ入れたらしいが、今は草が伸びているだろうな」
「石の目印ですか?」
ルシルが尋ねると、男性は頷いた。
「ああ。ただ、俺も最近は見ていない。見つからなかったら、無理に探すんじゃないぞ。古い道は、見た目より危ないことがあるからな」
「ありがとうございます。気をつけます」
ルシルが礼を言うと、男性は少しだけ笑った。
「若いのに、ずいぶん慎重だな」
「僕一人の旅じゃありませんから」
そう答えたルシルに、男性は一瞬だけ目を細めた。
「そうか。それなら、なおさら無事に戻ってこいよ」
ルシルは頷き、シモンとともに街道を歩き始めた。
背後では、作業小屋の男性が再び木材を扱う音が聞こえ始めていた。乾いた木を叩く音が少しずつ遠ざかるにつれ、周囲には風と鳥の声だけが残っていく。
街道は緩やかな下り坂になっており、両側には低い草が広がっていた。昨日通った場所と似た景色だったが、馬車を連れていないため、ルシルは足元や道端の細かなものへ目を向けやすくなっていた。
シモンは一定の間隔で立ち止まり、街道の形と木片の線を見比べている。
「この辺りから右側を注意して見ましょう。石の目印が残っているなら、草の中に埋もれている可能性があります」
「うん。僕は道の端を見ておくね」
ルシルは頷き、街道の右側へ視線を向けた。
最初に見つかったのは、背の低い草の間に転がる小石だった。次に、風雨で削られた木の根が地面から露出している場所があり、その先には古い車輪の跡らしい浅い溝が残っていた。
しかし、石の目印らしいものはなかなか見つからない。
しばらく歩いたところで、ルシルは道端に生えている草の高さが、周囲と少し違うことに気づいた。街道のすぐ脇だけが低くなっており、その奥には背の高い草が帯のように続いている。
「シモン、あそこだけ草の生え方が違うね」
ルシルが指さすと、シモンは足を止めた。
「確かに。人や荷車が通っていた跡かもしれませんが、自然にできたものという可能性もあります」
「じゃあ、少しだけ近くで見てみる?」
「ええ。ただし、草の中へ踏み込む前に地面を確かめましょう」
二人は街道から大きく離れない範囲で、草の帯の入口を調べた。
地面は比較的固かったが、奥へ進むにつれて草が深くなり、道らしい形は分かりにくくなっていた。ルシルは周囲を見渡し、何か目印になるものがないか探した。
その時、草の陰に灰色の角が見えた。
「……シモン、あれは石かな?」
ルシルが指さすと、シモンも視線を向けた。
草の間から覗いているのは、平らな面を持つ灰色の石だった。自然の岩にしては角が整っており、地面から少しだけ突き出している。
シモンは慎重に近づき、周囲の草を手で分けた。
現れたのは、膝ほどの高さがある古い石柱だった。表面は風雨で傷み、苔が薄く付着している。正面には何かを刻んだ跡があったが、長い年月の間に削れてしまったらしく、遠目にはただの傷にしか見えなかった。
「これが、あの男性の言っていた目印でしょうか」
シモンが呟くと、ルシルは石柱の前へしゃがみ込んだ。
「そうかもしれないね。でも、何が書いてあるのか分からないな」
「無理に触らず、見える範囲で確認しましょう」
ルシルは頷き、石の表面へ目を凝らした。
刻まれているのは文字ではなく、何かの形を表した印のようだった。上部には短い横線があり、その下に曲がった線が続いている。さらに下の部分には、円の一部らしい傷が残っていた。
最初は意味が分からなかったが、少し角度を変えて見ると、曲線の形が水の流れを示しているようにも見えた。
「ねえ、シモン。これって、水を表す印だったりするのかな?」
シモンは石柱の表面を見つめ、慎重に答えた。
「可能性はあります。ただ、古い道標の印は地域によって異なりますし、今の状態では断定できません」
「うん。僕も、そう見えるってだけなんだけどね」
ルシルはそう答え、もう一度石柱を眺めた。
石柱の上部には、かつて何かを示していたらしい浅い溝が残っている。その向きは街道ではなく、草の帯が続く方向へ伸びていた。
「もしこれが道標だったら、あっちへ進めって意味なのかな」
「その可能性はありますね。ただし、石柱が元の位置から動いていないとも限りません。周囲の地面を確認しながら、道の痕跡が続いているか見てみましょう」
二人は石柱の位置を覚え、そこから先の地面を調べた。
草の帯は木立の方へ続いていたが、ところどころ土が露出し、古い道の名残らしい平らな部分が見える。ルシルは足元を慎重に確かめながら進み、シモンは少し後ろから周囲を確認していた。
やがて、木立の入口付近で道幅が狭くなった。
そこには細い枝が落ち、枯れ葉が積もっている。長い間、荷車が通っていないことは明らかだったが、人が歩いた跡のようなものはわずかに残っていた。
「ここから先は、少し危なそうだね」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「ええ。地面の状態が分かりにくくなっています。今日はここまでにして、いったん戻ることも考えましょう」
その言葉を聞いたルシルは、木立の奥へ目を向けた。
もう少し進めば、何か見つかるかもしれない。そんな期待が胸の中に浮かんだが、同時に、モモと二頭の馬が待っていることも思い出した。
(ここまで来たんだから、もう少しだけ……って考えたくなるけど、それで危ない目に遭ったら意味がないよね)
ルシルはゆっくりと息を吐き、シモンへ向き直った。
「うん。今日はここまでにしよう。石の目印が見つかっただけでも、前より分かったことが増えたし」
シモンはその答えを聞き、穏やかに微笑んだ。
「よい判断だと思います。水場そのものは確認できませんでしたが、道の入口らしい場所を見つけられました。次にどうするか考える材料にはなります」
ルシルは頷き、石柱の方へ視線を戻した。
風雨で削れた小さな印は、今も草の中に残っている。
それが本当に水場へ続く道を示しているのか、まだ分からない。しかし、誰かが昔、この場所に石を立て、何かを伝えようとしたことだけは確かなように思えた。
ルシルはその形を忘れないように目に焼きつけ、シモンとともに街道へ戻ることにした。
◇
野営地へ戻る道では、二人とも最初ほど多くは話さなかった。
ルシルは石柱の印について考えていたし、シモンは今後の水の残量と移動距離を頭の中で整理していた。木立の間から吹く風は朝より少し暖かくなっており、街道には細い影がいくつも落ちている。
しばらく歩いたところで、ルシルはシモンへ声をかけた。
「ねえ、シモン。もしあの石柱が本当に水場の目印だったとしても、今は使えないかもしれないんだよね?」
「ええ。水場が埋まっている可能性もありますし、水が残っていても飲用に適しているとは限りません」
「じゃあ、見つけたとしても、すぐには安心できないんだね」
「そうですね。ただ、情報が増えること自体には意味があります。使えない場所だと分かれば、そこへ向かうために無理をする必要がなくなりますから」
ルシルはその言葉を聞き、少し考え込んだ。
何かを見つけることばかりが成果ではない。使えないと分かることも、次の判断につながる。
それは本を読んでいる時とは少し違う、旅の中で学ぶ知識だった。
「僕、最初は水場を見つけられたらいいなって思ってたけど、今は少し考えが変わったかもしれない」
「どのようにですか?」
「水があるかどうかだけじゃなくて、そこへ安全に行けるかとか、使っていい場所なのかとか、そういうことも大事なんだなって」
シモンはルシルへ視線を向け、穏やかに頷いた。
「ええ。旅では、目的地へ到着することだけでなく、そこまでの過程も大切です。特に、今の私たちは馬たちの状態を考えなければなりませんから」
ルシルは頷き、少しだけ笑った。
「うん。ベルクを無理させてまで水場へ行くのは、やっぱり違うよね」
「そのとおりです」
二人は街道を進み、やがて作業小屋の屋根が見える場所まで戻ってきた。
野営地では、モモが馬車のそばに座り、旅帳面へ何かを描いていた。トルクは近くで落ち着いており、ベルクも木陰で静かに休んでいる。
ルシルたちの姿に気づくと、モモはすぐに立ち上がった。
「おかえり! どうだった? 何か見つかった?」
「ただいま、モモ。水場までは行けなかったけど、古い石の目印を見つけたよ」
ルシルが答えると、モモは目を輝かせた。
「石の目印? どんなの?」
「膝くらいの高さの石柱で、表面に何かの印が彫ってあったんだ。水を表してるようにも見えたけど、はっきりとは分からなかったよ」
「へえ! それ、見てみたかったなあ」
モモは少し残念そうに言ったが、すぐに笑顔を戻した。
「でも、ちゃんと戻ってきてくれてよかった。トルク君もベルク君も、いい子にしてたよ!」
ルシルは二頭へ目を向け、安心したように息を吐いた。
「ありがとう、モモ。何も変わったことはなかった?」
「うん。トルク君が何回かおやつを欲しそうにしてたけど、勝手にはあげてないよ。ベルク君も静かに休んでたし、大丈夫だったと思う」
シモンは二頭の様子を確認し、モモへ丁寧に礼を述べた。
「ありがとうございます。おかげで安心して道を確認できました」
「えへへ。私もちゃんと役に立てたなら嬉しいな!」
モモは少し照れたように笑った。
三人は馬車の脇へ集まり、見つけた石柱の位置を地図へ書き込むことにした。シモンは街道の曲がり方と木立の位置を確認し、木片に描かれた線と照らし合わせながら、目印を見つけた場所を記録した。
ルシルは石柱の形を思い出し、紙の端へ簡単な絵を描いた。
「こんな感じだったかな。上の方に短い線があって、その下が少し曲がってたんだ」
モモは隣から覗き込み、興味深そうに目を細めた。
「なるほど。確かに、水が流れてるみたいにも見えるね」
「うん。でも、削れてたから、本当は違う形だったのかもしれない」
「そっか。じゃあ、分からないところは分からないまま描いておいた方がいいね」
モモはそう言って、自分の旅帳面にも石柱の形を写し始めた。
ルシルはその様子を見ながら、少しだけ嬉しくなった。自分が見つけたものを、こうして仲間と共有できることが楽しい。しかも、ただ面白いものを見つけたというだけでなく、今後の旅に役立つかもしれない情報なのだ。
シモンは二人の絵を確認し、帳面へ短い説明を書き加えた。
「これで、次に確認する時も場所を見失いにくくなるでしょう。ただし、今日はもう探索を続けません。昼食を取って、午後は休息を優先したいと思います」
「うん。僕も賛成だよ」
「私も! それじゃあ、お昼ご飯を準備しようかな」
モモは旅帳面を閉じ、食料の袋へ手を伸ばした。
◇
昼食を終えた後、ルシルは作業小屋の方へ目を向けた。
年配の男性は朝から修理を続けているらしく、時折、木材を動かす音が聞こえてくる。昨日は水を分けてもらえなかったが、その代わりに古い水場の情報を教えてくれた。今日も石柱について追加の話を聞けたことを考えると、もう一度礼を伝えたい気持ちがあった。
「シモン、あの人に今日見つけた石柱のことを話しておいた方がいいかな?」
ルシルが尋ねると、シモンは少し考えた。
「そうですね。男性が覚えていることと一致するかもしれません。ただ、作業の邪魔にならないよう、短くお伝えするのがよいでしょう」
「うん。じゃあ、僕が行ってきてもいい?」
「私も同行します。モモ嬢には引き続き馬たちをお願いすることになりますが、よろしいでしょうか」
モモはすぐに頷いた。
「もちろん! 今度は近いところだし、私はここで待ってるね」
ルシルは礼を言い、シモンとともに作業小屋へ向かった。
建物の前では、男性が古い板を外し、新しい板と並べているところだった。二人に気づくと手を止め、少し驚いたように顔を上げた。
「おや、戻ってきたのか。どうだった?」
「はい。街道の先で、古い石柱を見つけました」
ルシルが答えると、男性は興味深そうに目を細めた。
「石柱か。まだ残っていたんだな」
「ご存じなんですか?」
「ああ。昔、道の分かれ目に立っていたという話は聞いたことがある。ただ、俺が若い頃には、もうあまり使われていなかったはずだ」
男性はそう言いながら、手に持っていた板を地面へ置いた。
「それで、印は残っていたかい?」
「はい。でも、かなり削れていました。水の流れみたいな形にも見えたんですけど、はっきりとは分からなくて」
ルシルが説明すると、男性は少し考え込んだ。
「水の印か……。確かに、昔の水場へ向かう道には、そういう印を使うことがあったらしい。ただ、俺も実物をよく覚えているわけじゃないからな」
「そうなんですね」
ルシルは頷いた。
男性は建物の方へ目を向け、少しだけ表情を曇らせた。
「昔はこの辺りにも、今より人の行き来があったそうだ。荷物を運ぶ馬車が休んだり、旅人が水を汲んだりしていたらしいが、道が変わってからは、使われなくなった場所も多い」
シモンはその話を聞き、慎重に尋ねた。
「道が変わったというのは、街道の位置が変わったということでしょうか」
「そうだな。今の道が整えられる前は、もう少し木立の方を通っていたらしい。俺も詳しいことは知らんが、古い道が残っている場所はある」
ルシルは朝に見つけた草の帯を思い出した。
あの道らしい痕跡は、昔の街道の一部だったのかもしれない。だが、それが本当に水場へ続いているのかは、まだ分からない。
「じゃあ、あの石柱も、昔の道を通る人のために立てられたのかな」
「そうかもしれんな。ただ、長い年月が経っているから、今もその先に水場が残っているとは限らんぞ」
「はい。そこは分かっています」
ルシルが答えると、男性は少しだけ笑った。
「ならいい。若い旅人は、何か見つけるとすぐ先へ進みたがるものだからな」
ルシルは少し照れたように笑い、正直に答えた。
「僕も、もう少し先まで行ってみたいとは思いました。でも、足元が悪くなっていたので、今日は戻ることにしたんです」
「それで正解だろう。古い道は、見た目より危ないことがあるからな」
男性は頷き、作業の途中だった板へ目を向けた。
「それに、馬を連れているなら、なおさら慎重にした方がいい。あんたたちの馬は脚を痛めているんだろう?」
「はい。今は休ませながら、少しずつハルミナへ戻っているところです」
シモンが答えると、男性は静かに頷いた。
「なら、無理に古い道へ入るより、街道を進んだ方がいいかもしれん。水場が見つからなくても、町へ近づけば人に会える可能性はあるからな」
その言葉に、ルシルは少し考え込んだ。
古い水場の情報はありがたい。しかし、そこへ向かうために危険な道を進むことが、本当に今の自分たちにとってよい選択なのかは分からない。
水を探すことと、ハルミナへ戻ること。
どちらも大切だが、今は両方を同時に進められる方法を考える必要がある。
「ありがとうございます。今日見つけた場所のことも含めて、三人で相談してみます」
ルシルが頭を下げると、男性は穏やかに頷いた。
「そうするといい。急ぐ気持ちは分かるが、馬も人も、無理をすれば後で困るからな」
シモンも礼を述べ、二人は作業小屋を後にした。
◇
野営地へ戻ると、モモはトルクの首筋を撫でながら、二人を待っていた。
「おかえり! 何か新しいことが分かった?」
「うん。あの石柱は、昔の道の目印だった可能性があるんだって」
ルシルが説明すると、モモは興味深そうに頷いた。
「へえ! じゃあ、あの道も昔は使われてたのかな?」
「そうかもしれない。でも、今は草が伸びていて、足元もよく分からないんだ」
「そっか。じゃあ、ベルク君を連れて行くのは難しそうだね」
モモはベルクへ目を向け、少しだけ表情を曇らせた。
シモンは地図を広げ、今後の行動について改めて相談することにした。
「今日の探索で、古い水場へ続いていた可能性のある道は見つかりました。ただし、現在も使える水場があるかどうかは未確認です。そして、馬車を通せる状態ではない可能性が高い」
ルシルとモモは頷き、シモンの言葉を聞いた。
「そのため、明日以降の行動は慎重に考える必要があります。水場を探すために古い道へ入るか、それとも街道を進んでハルミナへ戻ることを優先するか。どちらにも利点と不安があります」
ルシルは地図を見つめながら、しばらく考え込んだ。
古い水場が使えるなら、水の問題を少し解決できるかもしれない。しかし、使えなかった場合には、時間と体力を使うだけになる。しかも、ベルクを連れて行けないなら、馬車をどこかへ残さなければならない。
「僕は、無理に古い道へ入るのはやめた方がいいと思う」
ルシルがそう言うと、モモは少し驚いたように顔を上げた。
「ルシル君、気になってたんじゃないの?」
「うん。気になるよ。でも、今の僕たちにとって一番大切なのは、水場を見つけることだけじゃないでしょう?」
ルシルはベルクへ目を向けた。
「ベルクを無事にハルミナへ連れて帰ることも大事だし、トルクにも無理をさせたくない。だから、危ない道へ入るより、まずは街道を進む方がいいと思うんだ」
モモはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「うん。私もそう思う。水場が見つかったら嬉しいけど、ベルク君が怪我しちゃったら困るもん」
シモンは二人の言葉を聞き、穏やかに頷いた。
「私も同じ考えです。ただし、水の残量を考えると、補給場所を探すこと自体は続ける必要があります。街道沿いで人家や井戸を見つけた場合には、確認するようにしましょう」
「うん。それなら、無理なく探せるね」
ルシルが答えると、モモも笑顔を浮かべた。
「じゃあ、明日はまたハルミナへ向かって進むんだね!」
「ええ。ベルクの状態を見ながら、短い距離ずつ進みましょう」
シモンはそう言って地図を閉じた。
三人は今日見つけた石柱の位置と、古い道について聞いた情報を帳面へ書き留めた。水場の存在は未確認のままだが、いつか別の機会に調べられるかもしれない。今は無理に答えを出さず、必要な情報だけを残しておくことにした。
夕方になると、作業小屋の方から聞こえていた木を打つ音が止み、周囲には静かな風の音だけが残った。
モモは夕食の準備を始め、ルシルも手伝うために立ち上がった。今日は保存食を中心に、残っている乾燥野菜を少し加えた簡単な料理を作ることにした。水を使う量は慎重に決め、必要な分だけを容器から取り出す。
「ハルミナに戻ったら、最初に何を食べたい?」
モモが尋ねると、ルシルは少し考えた。
「エルナさんの焼いたパンかな。前に食べた時、おいしかったから」
「分かる! 私も食べたいなあ。あとは、温かいスープもいいよね!」
モモは嬉しそうに笑い、料理を混ぜる手を動かした。
シモンは二人の会話を聞きながら、馬具の状態を確認していた。ベルクの脚はまだ心配だったが、今日一日休ませたことで、大きな負担をかけずに済んだようだった。
「町へ戻ったら、まず必要な補給とベルクの状態を見てもらうことを優先しましょう。その後で、ゆっくり食事を楽しむ時間を取りたいですね」
「うん。そうしよう」
ルシルは頷いた。
夕食を囲む頃には、空が深い青色へ変わり始めていた。三人は今日の出来事を振り返りながら、温かな料理をゆっくりと食べた。
古い石柱を見つけたこと。
その先に、昔の道らしい痕跡が残っていたこと。
水場そのものは確認できなかったこと。
そして、今の自分たちには、無理に古い道へ入るより、街道を進む方がよいと判断したこと。
どれも大きな事件ではなかったが、ルシルにとっては大切な経験になっていた。
知りたいことがあっても、今すぐ確かめられるとは限らない。
気になる場所があっても、そこへ進むべきではない時がある。
そのことを理解できたのは、旅を続ける中で少しずつ変わってきたからなのだろう。
ルシルは食事を終え、馬車の脇へ腰を下ろした。
少し離れた場所では、トルクとベルクが静かに休んでいる。モモは旅帳面へ今日の石柱を描き足しており、シモンは明日の移動に備えて地図を確認していた。
ルシルはその光景を眺めながら、胸の奥に穏やかな気持ちが広がるのを感じた。
(僕たちは、まだハルミナへ戻れていない。水のことも、ベルクのことも心配だけど……それでも、ちゃんと考えて進んでいけばいいんだよね)
彼は静かに息を吐き、星が見え始めた空へ目を向けた。
古い水場へ続いていたかもしれない道は、今日のところは草の向こうへ消えたままだ。
その先に何が残っているのか、今は分からない。
けれど、ルシルたちは無理に答えを求めることを選ばなかった。
明日もまた、ハルミナへ続く街道を進む。
その道の先で何が待っているのかは分からないが、三人と二頭で無事に帰ることを、今は何より大切にしたかった。
夜の風が草原を渡り、作業小屋の古い屋根を静かに揺らしていた。




