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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第163話「丘の向こうの古い作業小屋と、分けてもらえなかった水の理由」


 朝日が丘の稜線を越えた頃、ルシルは馬車の荷台から降り、昨夕に見つけた屋根の方角へ目を向けた。夜の間に冷えた空気はまだ草地に残っており、足元には薄い朝露が光っている。昨日は遠くに小さな屋根がいくつか見えただけだったが、今朝は空がよく晴れているため、丘の向こうに続く木立の形まで確かめられた。


 ただし、建物そのものは野営地から直接見える位置にはなかった。街道が丘の斜面に沿って緩やかに曲がっているため、もう一度坂を上り、少し先まで進まなければならない。ルシルはその道筋を目で追いながら、昨日の夕方に感じた期待が、今朝になっても胸の中に残っていることに気づいた。


(誰かが住んでいる場所だったらいいな。でも、屋根があるからって、水を分けてもらえるとは限らないんだよね)


 旅を始めた頃なら、建物を見つけたというだけで喜んでいたかもしれない。しかし、今のルシルは水の残量も、ベルクの脚の状態も、無視できない問題だと分かっている。期待することと、確かな情報として扱うことは別なのだと、シモンから何度も教わってきた。


 馬車の前では、栗毛のトルクが朝の餌を待ちきれない様子で首を伸ばしていた。その隣に立つ濃灰色のベルクは、少し離れた草地へ鼻先を向けている。二頭とも落ち着いているように見えたが、ベルクが右後ろ脚へ体重を移す時には、まだわずかな慎重さが残っていた。


「おはよう、二人とも。今日もよろしくね」


 ルシルが声をかけると、トルクはすぐに顔を寄せてきた。鼻先で上着の袖を押され、思わず笑ってしまう。


「分かってるよ。朝ご飯が欲しいんでしょう? でも、勝手にあげたらシモンに怒られちゃうから、もう少し待ってね」


 トルクは言葉を理解したのかどうか、耳を動かしてから再び鼻を鳴らした。一方のベルクは静かにルシルを見つめ、額を撫でられるとゆっくりと目を細めている。


 そこへ、馬具を抱えたシモンが歩いてきた。


「おはようございます、ルシル様。今朝も早いですね」


「おはよう、シモン。昨日見えた屋根のことが気になって、少し早く起きちゃったんだ」


「お気持ちは分かります。ただ、まずはベルクの状態を確認しましょう。昨日は坂道も通りましたから、今朝の動きを見てからでなければ、出発を決められません」


 シモンはそう言いながら馬具を脇へ置き、ベルクの首筋へ手を添えた。呼吸や身体の様子を確認してから、右後ろ脚の周囲を慎重に調べていく。ルシルはその作業を邪魔しない位置に立ち、ベルクが不快そうな反応を見せないか注意していた。


 しばらくして、シモンはベルクを平らな草地へ誘導し、短い距離を歩かせた。直線では比較的落ち着いているものの、方向を変える時には右後ろ脚の運びがわずかに遅れる。昨日までと比べて目立った悪化は見られなかったが、普段どおりの歩き方へ戻ったわけでもなかった。


「どうかな?」


 ルシルが尋ねると、シモンはベルクを止め、少し考えてから答えた。


「大きな変化はありませんね。腫れや目立った傷も見られませんが、脚の運びにはまだ気になるところがあります。今日も短い距離を進む程度にとどめたいと思います」


「うん。あの建物まで行けるかどうかも、道を見て決めよう」


「そのとおりです。近くに見えても、実際の道が遠回りになっている可能性がありますから」


 ルシルは頷き、ベルクの額を撫でた。


 昨夜から気になっている建物へ早く近づきたい気持ちはあった。しかし、ベルクが無理をして歩くことになれば、そこで水を見つけられたとしても、素直に喜べないだろう。


 馬車の荷台から布の擦れる音が聞こえたのは、その少し後だった。


「おはよう、ルシル君、シモン君! あれ、もうベルク君の確認が終わったの?」


 白い外套を肩へかけたモモが顔を出し、眠そうな目を瞬かせながら二人を見つめている。桃金色の髪は寝起きらしく少し乱れていたが、ルシルと目が合うと、すぐに明るい笑顔を浮かべた。


「おはよう、モモ。ベルクは昨日と大きく変わらないみたいだよ」


「そっか。悪くなってないならよかったけど、まだ心配だね」


 モモは荷台から降りると、ベルクのそばへ歩いてきた。首筋を撫でながら様子を確かめ、静かに鼻を鳴らしたベルクへ優しく声をかける。


「今日もゆっくり行こうね。もし疲れちゃったら、ちゃんと休もう」


 その様子を見ていたシモンは、二人へ朝食の準備を頼んだ。彼自身は水と飼料の残量を確認する必要があるため、三人で手分けをした方が早い。


 モモは保存食の包みを取り出しながら、昨日の屋根について話し始めた。


「ねえ、あの建物って何だと思う? 普通のお家かな。それとも、旅人が休むところだったりするのかな?」


「僕も気になってるんだ。昨日は屋根しか見えなかったから、何とも言えないけどね」


「もしお店だったら、何か買えるかもしれないよね! 焼きたてのパンとか、温かいスープとか!」


 モモは楽しそうに想像を膨らませたが、すぐに自分たちの食料袋へ目を向け、少し照れたように笑った。


「……でも、こんな街道の途中にパン屋さんがあるとは限らないか」


「うん。あったら嬉しいけど、まずは何の建物なのか確かめないとね」


 ルシルが答えると、モモは素直に頷いた。


 朝食は水をほとんど使わずに済む保存食を中心にした。以前なら温かな料理を用意することも多かったが、今は飲み水の残量を考え、必要なところへ優先して使っている。モモはそのことを残念に思いながらも、三人が無事にハルミナへ戻るためなら、しばらく我慢するつもりだった。


 食事を終えると、シモンは地図と帳面を広げ、今日の移動について説明した。


「まず、昨日屋根を見つけた丘の上まで進みます。そこで建物までの道を確認し、安全に近づけるようなら、無理のない範囲で進みましょう」


「もし道が悪かったら?」


 ルシルが尋ねると、シモンは迷わず答えた。


「馬車を進めるのは諦めます。建物があるというだけで、ベルクへ余計な負担をかけるわけにはいきません」


「分かった。僕も道の状態をよく見るよ」


「私も! 昨日は遠くから見ただけだから、今日は周りの地面もちゃんと確認するね」


 モモが元気よく答えると、シモンは小さく微笑んだ。


 準備を整えた三人は、馬車に乗らず、二頭の歩幅に合わせて街道へ戻った。


     ◇


 丘へ続く道は、昨日の夕方に通った坂よりも緩やかだった。街道の中央には古い車輪の跡が残っていたものの、深く沈み込んでいる場所は少なく、乾いた土の上には小石が点々と転がっている。ルシルはベルクの右側を歩きながら、時折その足取りを確かめていた。


 モモは馬車の後方から車輪の動きを見守り、シモンは手綱を持って二頭の歩調を調整している。三人とも昨日までの経験から、自分の役割を少しずつ理解するようになっていた。


 坂の途中で一度休憩を挟み、ベルクの呼吸が落ち着いていることを確かめてから、再び歩き始める。


 やがて丘の上へ出ると、昨日は遠くにしか見えなかった屋根が、木立の向こうにはっきりと姿を現した。


「あっ、見えた!」


 モモが嬉しそうに声を上げ、ルシルも思わず顔を明るくした。


 建物は三棟ほど並んでいるように見えた。中央にあるものが最も大きく、灰色がかった屋根の片側には古い煙突らしい突起がある。その隣には低い小屋があり、さらに奥には屋根の一部が崩れた建物が見えていた。


 周囲には背の高い草が伸びていたが、建物へ続く細い道だけは、ところどころ地面が露出している。


「思っていたより大きいね」


 ルシルが呟くと、シモンは建物の周囲を慎重に見渡した。


「ええ。ただ、使われていない建物も混じっているようです。煙が上がっている様子はありませんが、だからといって無人とは限りません」


 モモは目を凝らし、中央の建物の前を指さした。


「ねえ、あそこ。何か布みたいなのが干してない?」


 ルシルも視線を向けると、建物の脇に立てられた木の枠へ、薄い色の布が掛けられているのが見えた。風に揺れている様子からすると、長い間放置されたものではなさそうだった。


「本当だ。誰かが使ってるのかな?」


「可能性はありますね。ただし、まだ決めつけないようにしましょう」


 シモンはそう答え、建物へ続く道の状態を確かめることにした。


 細い道は街道から分かれ、緩やかな斜面を下って木立の間へ続いていた。入口付近の地面は比較的固かったが、途中には雨水が流れたような溝が残り、馬車の車輪を通すには注意が必要そうだった。


 三人は馬車を街道脇の平らな場所へ止め、まずは歩いて周囲を確認することにした。ただし、二頭を残して全員が離れるわけにはいかないため、シモンとルシルが道の入口付近を調べ、モモは馬車のそばで待つことになった。


「ルシル君、気をつけてね。あんまり遠くまで行っちゃ駄目だよ」


「うん。すぐ戻るから」


 モモは少し心配そうに見送ったが、ベルクの首筋を撫でながら二人の姿を見守っていた。


 ルシルとシモンが細い道へ入ると、足元の土は思っていたより固かった。ところどころ草が伸びているものの、人が通った跡らしい部分もあり、完全に使われなくなった道ではないように見える。


 しかし、少し進んだところで、ルシルは道の端に残る深い溝へ気づいた。


「シモン、ここは車輪が通ると危なそうだね」


「ええ。片側だけ沈む可能性があります。馬車を通すなら、別の位置を選ぶ必要がありそうです」


 シモンは溝の深さを確認し、周囲の地面を見渡した。道幅にはある程度余裕があったが、ベルクの脚の状態を考えると、無理に馬車を通すべきではない。


「この先へ進む前に、建物の方へ声をかけてみましょう。もし人がいるなら、馬車を安全に止められる場所があるか聞けるかもしれません」


 ルシルは頷き、シモンと一緒に道の先へ声をかけた。


「すみません。どなたかいらっしゃいますか?」


 返事はすぐにはなかった。


 木々の間を風が抜け、古い屋根の端が小さく軋む音が聞こえる。ルシルは少し待ってから、もう一度声をかけようとした。


 その時、中央の建物の扉が内側から開いた。


「誰だい?」


 姿を現したのは、白髪交じりの短い髪をした年配の男性だった。厚手の作業着を着ており、片手には木の柄がついた道具を持っている。突然の訪問者を警戒しているのか、扉の前に立ったまま二人を見つめていた。


 シモンはすぐに一歩前へ出て、丁寧に頭を下げた。


「突然お声がけして申し訳ありません。私たちはハルミナへ向かっている旅人です。街道から建物が見えたため、少しお尋ねしたいことがありまして」


 男性はシモンの顔を見たあと、ルシルへ視線を移した。


「旅人か。こんなところへ来るのは珍しいな。何か用かい?」


「はい。水を補給できる場所を探しているんです。この辺りに、使える井戸や水場がないかご存じでしょうか」


 ルシルが尋ねると、男性はすぐには答えなかった。


 代わりに、二人の後ろへ続く道を見つめ、それから遠くに止めてある馬車へ目を向ける。


「馬を連れているのか?」


「はい。二頭います」


「そうか……。なら、水もそれなりに必要だろうな」


 男性は少し考え込んだあと、持っていた道具を扉の脇へ立てかけた。


「井戸ならある。ただし、今は好きなだけ使える状態じゃないんだ」


 その言葉を聞いたルシルは、思わず顔を上げた。


「井戸があるんですか?」


「ああ。昔からある井戸だよ。ただ、ここしばらく水の出が悪くてな。汲み上げられる量も安定しない。悪いが、通りがかりの旅人に好きなだけ分けられるほど余裕はないんだ」


 男性の声には申し訳なさがあったが、同時に、簡単には譲れない事情があることも伝わってきた。


 ルシルは胸の奥に浮かんだ期待が少ししぼむのを感じた。それでも、すぐに何かを頼もうとはせず、男性の言葉を受け止める。


「そうなんですね。教えてくださってありがとうございます」


 男性は少し意外そうに目を瞬かせた。


「それだけかい?」


「はい。水が足りないのは僕たちだけじゃないですから。ここで暮らしている人が困るようなことは、したくありません」


 ルシルが答えると、男性はしばらく黙っていた。


 シモンも隣で頷き、丁寧に礼を述べた。


「事情を知らずにお尋ねしてしまい、申し訳ありません。もし差し支えなければ、ハルミナまでの間に別の補給場所があるか、ご存じの範囲で教えていただけないでしょうか」


 男性は少し考え、建物の奥へ目を向けた。


「それなら、話せることはあるかもしれん。ただ、ここで立ち話をするより、まず馬を連れてきた方がいい。街道の端に長く止めておくのもよくないだろう」


 シモンはすぐに頷いたが、細い道の溝について説明した。


「ありがとうございます。ただ、こちらの馬が一頭、脚を痛めているようでして。道の状態によっては、馬車を動かすのを避けたいと考えています」


「そうか。なら、無理にこっちへ入れない方がいいな」


 男性は道の方を見つめ、少しだけ眉を寄せた。


「あの溝は、前に雨が降った時にできたものなんだ。直そうと思っていたが、なかなか手が回らなくてな。馬車なら街道沿いの平らな場所へ止めておく方が安全だろう」


「分かりました。では、仲間へ事情を伝えてから、改めて伺ってもよろしいでしょうか」


「ああ。構わんよ。急ぐ必要もない」


 男性はそう答え、二人を見送った。


     ◇


 馬車のそばへ戻ると、モモがすぐに顔を上げた。トルクは彼女の隣で落ち着いており、ベルクも静かに立っている。二人が戻ってきたことに安心したのか、モモは小さく息を吐いてから笑顔を浮かべた。


「おかえり! どうだった?」


「人がいたよ。年配の男性が一人、建物から出てきたんだ」


 ルシルが答えると、モモは嬉しそうに目を輝かせた。


「本当? じゃあ、お水のことも聞けた?」


「うん。井戸はあるみたい。でも、水の出が悪くて、今は余裕がないんだって」


 その言葉を聞いたモモは、少しだけ肩を落とした。


「そっか……。それなら、無理にお願いできないね」


「うん。僕もそう思った」


 ルシルは頷き、男性が別の補給場所について何か知っているかもしれないと話してくれたことを伝えた。


 シモンは馬車の位置を確認し、街道脇の平らな場所へ少しだけ移動させることにした。細い道へ入る必要はなく、地面の状態も比較的安定している。二頭を落ち着かせ、車輪を固定してから、三人は今後の行動について相談した。


「私が男性から話を聞いてきます。ルシル様とモモ嬢は、馬たちのそばで待っていていただけますか」


 シモンがそう言うと、ルシルは少し考えてから答えた。


「僕も一緒に行きたいけど、二頭を残すわけにはいかないもんね。ここで待ってるよ」


「ありがとうございます。長くはかからないと思いますが、何かあれば無理をせず声をかけてください」


「うん。分かった」


 モモも頷き、シモンを見送った。


 シモンの姿が木立の向こうへ消えると、ルシルは馬車の脇へ腰を下ろした。モモも隣に座り、二頭の様子を見守りながら静かに息を吐く。


「井戸があるって聞いた時は、ちょっと嬉しかったんだけどなあ」


 モモが呟くと、ルシルは頷いた。


「僕もだよ。でも、あの人たちにも必要な水なんだろうし、仕方ないよね」


「うん。分かってるんだけど……やっぱり、ちょっと残念」


 モモは膝の上で指を組み、遠くの建物へ目を向けた。


 ルシルはその横顔を見ながら、何か言葉をかけようとした。しかし、無理に明るい話をするより、今はモモの気持ちをそのまま受け止めた方がいいように思えた。


「そうだね。僕も残念だよ」


 そう答えると、モモは少し驚いたように顔を向けた。


「ルシル君も?」


「うん。水のことが解決するかもしれないって期待してたから。でも、期待してたからって、相手に無理をお願いするわけにはいかないでしょう?」


 ルシルはそう言いながら、ベルクへ視線を向けた。


「もし僕たちが水をたくさん持っていて、困っている人が来たとしても、ベルクやトルクの分まで全部渡すことはできないと思うんだ。だから、あの人の気持ちも少し分かる気がする」


 モモはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。


「そっか。そう考えたら、あの人も困ってるんだね」


「うん。僕たちだけじゃないんだと思う」


 モモは少しだけ表情を和らげ、ルシルの肩へ軽く触れた。


「ルシル君、最近そういうことをよく考えるようになったよね」


「そうかな?」


「うん。前から優しかったけど、今は相手の事情とか、私たちのこととか、いろんなことを一緒に考えてる気がする」


 ルシルは少し照れたように笑った。


「まだまだ分からないことばかりだけどね」


「それは私も同じだよ! でも、三人で考えれば、きっと少しずつ分かることが増えると思うな」


 モモの明るい声に、ルシルの胸の奥が少し温かくなった。


 水の問題はまだ解決していない。ベルクの脚も心配なままだ。それでも、こうして仲間と話し合えることが、今の自分には何より心強かった。


     ◇


 シモンが戻ってきたのは、それからしばらく経った頃だった。


 彼は木立の間から姿を現すと、馬車のそばへ歩いてきた。表情は落ち着いていたが、手には小さな木片のようなものを持っている。


「お待たせしました。少し話を聞くことができました」


 ルシルとモモは立ち上がり、シモンの方へ向き直った。


「何か分かった?」


 ルシルが尋ねると、シモンは頷いた。


「まず、あの建物は以前、街道を通る人や荷物のために使われていた作業小屋だそうです。今は男性が一人で管理しており、建物の修理や周囲の整備をしているとのことでした」


「へえ! じゃあ、昔は旅人も休んでたのかな?」


 モモが興味深そうに尋ねると、シモンは少し考えてから答えた。


「そうした使われ方もあったようですが、詳しいことまでは分かりません。男性自身も、昔のことをすべて知っているわけではないそうです」


 ルシルは頷き、遠くの建物へ目を向けた。


「だから、あんなに大きな屋根が残ってたんだね」


「ええ。それから、井戸についても話を聞けました。水がまったく出ないわけではありませんが、汲み上げられる量が以前より減っているそうです。今は建物の管理に必要な分を確保するだけでも苦労しているとのことでした」


 モモは少し残念そうに頷いた。


「そっか。やっぱり、分けてもらうのは難しいんだね」


「そうですね。ただ、別の情報も聞けました」


 シモンはそう言って、手に持っていた木片を見せた。


 それは細長い木の板で、表面には簡単な線と印が描かれていた。文字はほとんどなく、街道と周囲の地形を大まかに示したものらしい。


「男性が、以前この辺りを通った旅人から聞いた話をもとに、簡単な道筋を教えてくれました。ここからハルミナ方面へ進んだ先に、古い共同の水場があったそうです」


 ルシルは思わず身を乗り出した。


「共同の水場?」


「ええ。ただし、今も使えるかどうかは分かりません。男性自身も最近は行っていないそうですから、確かな補給場所として考えることはできません」


 シモンは木片を地図の上へ置き、街道の位置と照らし合わせた。


「この印が、今いる作業小屋の辺りだそうです。そして、こちらが古い水場のあった場所だと聞きました。ただ、地図には記載がありませんから、正確な位置を確認する必要があります」


 ルシルは木片を覗き込み、慎重に線を目で追った。


「街道から少し離れてるみたいだね」


「そうですね。道の状態によっては、馬車で近づくのが難しいかもしれません。ですから、まずは今いる場所で十分に休息を取り、次の行動を考えたいと思います」


 モモは木片を見つめながら、少しだけ首を傾げた。


「ねえ、シモン君。もしその水場が使えなかったら、どうするの?」


「その場合は、別の方法を考えなければなりません。水の残量とベルクの状態を見ながら、ハルミナへ戻ることを優先する必要があります」


 シモンの声は落ち着いていたが、ルシルには、その言葉の裏にある慎重さが伝わってきた。


 古い水場の情報はありがたい。しかし、そこへ行けば必ず水が手に入るわけではない。今の自分たちに必要なのは、期待だけで動くことではなく、確かな情報を少しずつ集めることだった。


「分かった。じゃあ、今日はここで休んで、明日どうするか決めよう」


 ルシルが言うと、シモンは頷いた。


「ええ。男性からは、街道脇の平らな場所なら野営しても構わないと言っていただけました。建物の敷地へ無断で入らなければ、問題ないそうです」


「それなら安心だね!」


 モモは嬉しそうに笑った。


 三人は馬車の位置をもう一度確認し、周囲の地面を調べてから、そこで休息を取ることにした。トルクとベルクには必要な水を分け、馬具を緩めて身体を休ませる。シモンはベルクの脚を再び確認したが、午前中の移動による大きな悪化は見られなかった。


 昼食を済ませた後、モモは旅帳面を取り出し、丘の向こうに見えた建物の絵を描き始めた。中央の大きな屋根と、その隣に並ぶ低い小屋を描きながら、時折実物へ目を向けて形を確かめている。


 ルシルはその隣で、シモンが受け取った木片を眺めていた。


「ねえ、シモン。この木片、あとで返した方がいいのかな?」


「いえ。男性が持っていくようにと言ってくださいました。道筋を覚えるために使ってほしいとのことです」


「そうなんだ。じゃあ、大切にしないとね」


 ルシルは木片を丁寧に持ち直した。


 表面に描かれた線は簡単なものだったが、そこには誰かが覚えていた道の情報が残されている。正式な地図ではなくても、こうして人から人へ伝えられる知識が、旅を助けることもあるのだろう。


「僕も旅日記を買ったら、こういうことを書いておきたいな」


 ルシルが呟くと、モモは顔を上げた。


「いいね! じゃあ、私の旅帳面と見比べっこしようよ!」


「うん。モモの絵と、僕の文章を合わせたら、もっと詳しい記録になりそうだね」


「それ、すっごく楽しそう!」


 モモは嬉しそうに笑い、再び筆を動かした。


 シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかな表情を浮かべていた。水の問題が解決していないことは気がかりだったが、こうして仲間たちが先の楽しみを見つけている姿を見ると、少しだけ気持ちが和らぐ。


 ただし、今はまだ安心できる状況ではない。


 シモンは水の容器へ目を向け、残量をもう一度確かめた。今後の移動に必要な量を考えると、どこかで補給できる場所を見つけなければならない。古い共同の水場が使えるかどうか分からない以上、明日の行動は慎重に決める必要があった。


 夕方になると、作業小屋の方から木を打つ音が聞こえてきた。年配の男性が建物の修理を続けているらしく、時折、風に乗って乾いた木の匂いが漂ってくる。


 ルシルはその音を聞きながら、昼間に会った男性のことを思い返した。


 水を分けてもらえなかったことは残念だったが、男性は自分たちを追い返したわけではない。事情を説明し、別の水場について知っていることを教え、野営できる場所まで案内してくれた。


 それは、今の男性にできる範囲での親切だったのだろう。


(誰かを助ける方法って、一つじゃないんだね。水を分けられなくても、道を教えたり、休める場所を教えたりできるんだ)


 ルシルは静かに息を吐き、作業小屋の方へ目を向けた。


 やがてモモが夕食の準備を始め、ルシルも手伝うために立ち上がった。今日は水を節約するため、保存食を中心に簡単な料理を作ることにした。モモは少し残念そうだったが、香草の残りをほんの少しだけ加え、温かな匂いが広がると嬉しそうに笑った。


「ハルミナに戻ったら、今度こそちゃんとしたご飯を作りたいなあ」


「うん。僕も楽しみにしてるよ」


 ルシルが答えると、モモは少し得意そうに胸を張った。


「じゃあ、ルシル君にもいっぱい手伝ってもらうからね!」


「もちろん。約束したからね」


 シモンも穏やかに頷いた。


「町へ戻ったら、まず必要な補給とベルクの診察を優先しましょう。その後であれば、ゆっくり食事を楽しむ時間も取れると思います」


「うん。そうしよう」


 三人は温かな料理を囲みながら、今日の出来事を振り返った。


 屋根を見つけた時には、水の補給ができるかもしれないと期待していた。実際には井戸の水量が少なく、分けてもらうことはできなかったが、代わりに古い共同の水場についての情報を得ることができた。


 すぐに問題が解決したわけではない。


 それでも、何も分からなかった昨日より、少しだけ先の道を考えられるようになった。


 夜が深まり、草原に静かな風が吹き始めると、三人は交代で見張りをする準備を整えた。トルクとベルクは馬車の近くで落ち着いており、作業小屋の方から聞こえていた音も、いつの間にか止んでいた。


 ルシルは遠くの屋根を見つめながら、静かに息を吐いた。


(明日、古い水場が見つかるかどうかは分からない。でも、今できることを一つずつ考えていこう。焦らずに、みんなで無事に帰るために)


 その思いを胸に、彼は仲間たちのいる馬車へ視線を戻した。


 ハルミナへの帰り道は、まだ続いている。


 けれど、今日出会った男性の言葉と、手渡された小さな木片は、三人に新しい道を考えるための手がかりを残してくれた。


 乾いた街道の夜は静かに更けていき、ルシルたちは次の朝へ向けて、ゆっくりと休息の時間を迎えた。

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