第162話「遠ざかる車輪の音と、帰り道で見つけたもう一つの問題」
朝の光が街道沿いの草地へ差し込み始めた頃、ルシルは馬車の後ろで水の容器を持ち上げ、その重さを確かめていた。昨夜、柔らかい土にはまった荷馬車を手伝ったことで予定より遅くまで起きていたため、身体には少し眠気が残っている。それでも、今日の移動を考えると、出発前に確認しておきたいことがいくつもあった。
容器の中で水が揺れる音は、以前よりもずっと小さくなっていた。農家の女性に井戸を使わせてもらった時には、これでしばらく安心できると思ったものの、三人と二頭の馬が使う水の量は決して少なくない。料理に使う分を抑え、必要のない洗い物を避けてきたが、使った分だけ確実に減っている。
ルシルは容器を元の位置へ戻し、荷台の中に置かれた別の容器へ目を向けた。まだ空になったものばかりではないが、次にどこで補給できるか分からない以上、残量だけを見て安心することはできなかった。
(ハルミナまで、あとどのくらいかかるんだろう。ベルクのことを考えたら急げないし、水のことを考えたら、あまり長く止まっているわけにもいかないんだよね)
相反する事情が胸の中で絡まり合い、ルシルは思わず眉を寄せた。昨夜、困っている旅人の頼みをすべて引き受けるのではなく、自分たちにできる範囲を考えて手伝ったばかりだった。その判断を後悔しているわけではないが、今朝の水の容器を前にすると、自分たちの旅にも余裕がないことを改めて思い知らされる。
「ルシル様、容器の確認をしてくださっていたのですね」
背後から聞こえた声に振り返ると、シモンが馬具を手に立っていた。眼鏡の奥の視線はルシルの手元へ向けられており、彼が何を考えていたのか、おおよそ察しているようだった。
「うん。昨日より少なくなってるのは分かってたけど、こうして持ってみると、やっぱり気になるね」
「そうですね。今朝の分を使えば、さらに減ります。馬たちに必要な水を削るわけにはいきませんから、今日の行動は慎重に決めなければなりません」
シモンは容器の固定具を確かめてから、荷台の縁へ帳面を置いた。そこには水と食料の使用状況が記されており、前日までの移動距離についても細かく書き留められている。ルシルはその数字を覗き込んだが、今の状態では単純に残りの日数を計算できないことに気づいた。
「ベルクが元気だったら、もう少し先まで進めたかもしれない。でも、今はそういう考え方をしない方がいいよね」
「ええ。無理に進んで脚の状態が悪くなれば、かえって長く足止めされる可能性があります。ただし、水の不足も見過ごせません。今日は移動と補給の両方を考える必要があります」
シモンは落ち着いた声で答えたものの、普段より少しだけ表情が硬かった。彼にとっても、二つの問題を同時に抱えた帰路は簡単なものではないのだろう。
ルシルは帳面から顔を上げ、馬車の前方へ目を向けた。トルクは朝の餌を待ちきれない様子で首を伸ばしていたが、その隣に立つベルクは静かに地面を見つめている。右後ろ脚をかばうような動きは、今朝も完全には消えていなかった。
「シモン、今日は僕たちだけで先の道を見に行くのはどうかな。馬車を動かす前に、少し先の様子を確かめられたらと思ったんだけど」
その提案に、シモンはすぐには答えなかった。街道の方向へ視線を向け、野営地との距離を確かめるように周囲を見渡している。
「短い範囲なら考えられますが、馬車から離れすぎるのは避けたいですね。特に、二頭を残して全員が移動することはできません」
「うん。じゃあ、僕とシモンのどちらかが少しだけ見に行って、もう一人は馬車に残るとか?」
「まずはモモ嬢とも相談しましょう。今朝のベルクの状態を確認してから、必要な範囲を決めるのがよいと思います」
ルシルは頷き、容器を固定する作業へ戻った。シモンは馬具をいったん脇へ置き、ベルクの脚を確認するために馬車の前へ向かっていく。
その頃、荷台の中ではモモが朝食の準備を進めていた。昨夜は二人の帰りを待っていたため、彼女も十分に眠れたわけではない。それでも、保存食の包みを開きながら鼻歌を歌っており、ルシルが顔を覗かせると、すぐに明るい笑顔を向けてきた。
「おはよう、ルシル君! 今日はちょっと眠そうだね」
「おはよう、モモ。モモも昨日は遅くまで起きてたでしょう?」
「うん。でも、ちゃんと寝たから大丈夫! それより、朝ご飯をどうしようか考えてたところなんだ。あんまりお水を使わない方がいいんだよね?」
モモは手に持っていた保存食を見せながら尋ねた。ルシルが頷くと、彼女は少し考え込み、荷台の奥に置かれた食料の袋を確かめる。
「じゃあ、今日はそのまま食べられるものを中心にしようかな。温かいご飯は夕方のお楽しみにしてもいいし、今はお水を大切にしたいもんね」
「ありがとう。僕も手伝うよ」
「それなら、こっちのお皿をお願いしてもいい? あと、トルク君たちの分はシモン君に確認してから準備しようと思ってるの」
ルシルは渡された食器を受け取り、荷台の端へ並べた。モモは保存食を三人分に分けながら、ふと手を止める。
「ねえ、ルシル君。昨日の夜の人たち、もうどこかで休めたかな?」
「そうだといいね。馬車が動くようになってからは、ゆっくり進んでいったみたいだったよ」
「そっか。あの人たちも、無事に目的地まで行けるといいなあ」
モモの声には、いつもの明るさに加えて、少しだけ真剣な響きがあった。彼女も旅を続けるうちに、街道で困ることがどれほど大変なのか、以前より理解するようになっているのだろう。
ルシルは保存食を並べながら、昨夜の出来事を思い返した。知らない旅人から助けを求められた時、自分はすぐに引き受けようとした。しかし、ベルクの状態や水の残量を考え、できないことはできないと伝えた。その結果、無理をせずに協力する方法を見つけられたのだった。
「僕たちも、これから困ることがあるかもしれないからね。だからこそ、助け合えるのは嬉しいな」
「うん! でも、ルシル君が何でも引き受けちゃうと、私たちが心配するからね」
モモは冗談めかして言ったが、その目には本気の気遣いが浮かんでいた。ルシルは少し照れたように笑い、素直に頷く。
「分かってるよ。昨日、ちゃんと考えたから」
「えへへ。それなら安心!」
モモは嬉しそうに笑い、朝食の準備を続けた。
◇
朝食を終えた後、三人は馬車の前に集まり、今日の行動について話し合った。シモンはベルクの脚を確認した結果を説明し、昨夜と比べて大きな悪化は見られないものの、方向を変える時の慎重な動きは残っていると伝えた。
「今日は無理に長い距離を進むべきではありません。ただ、水の補給についても考える必要がありますから、道の状況を確認しながら進みたいと思います」
シモンがそう言うと、モモは水の容器へ目を向けた。
「次にお水をもらえる場所って、まだ分からないんだよね?」
「ええ。ハルミナまで戻れば共同井戸がありますが、その手前で確実に使える場所は把握できていません。以前見かけた石槽や小川についても、飲み水として安全かどうかは確認できていませんからね」
ルシルは頷き、昨日までに通った道を思い返した。古い石槽には泥や落ち葉が混じっており、見た目からして飲用には向いていなかった。小さな流れを見かけたこともあったが、水質が分からないまま容器へ入れることはできなかった。
「じゃあ、今日は道の近くに人が住んでる場所がないか、気をつけて見てみようか」
「そうですね。ただし、見つけたからといって、勝手に井戸を使うわけにはいきません。所有者の許可が必要ですし、そもそも使える状態かどうかも確認しなければなりません」
「うん。農家のおばあさんの時みたいに、ちゃんとお願いしないとね」
モモはそう言って頷いた。
シモンは地図を広げ、現在地から先の街道を指でたどった。地図には主要な町や道の分岐が記されているが、小さな農家や一時的な休憩場所まで詳しく載っているわけではない。以前通った道であっても、行きと帰りでは状況が違うため、確実な判断材料にはならなかった。
「まずは短い距離を進み、ベルクの状態を見ましょう。道の先に人家や補給できそうな場所が見つかれば、そこで相談します。見つからなければ、無理をせず安全な野営地を探すことになります」
「分かった。僕は道の右側を見ておくね」
「じゃあ、私は左側! でも、ちゃんと馬車の様子も見るから安心して!」
モモが元気よく答えると、シモンは少しだけ笑った。
「ありがとうございます。ただ、周囲を見ることに集中しすぎて、足元を見失わないようにしてくださいね」
「もう、シモン君ったら! そこまで心配しなくても大丈夫だよ!」
モモは頬を膨らませたが、すぐに笑い出した。ルシルもその様子につられて笑い、張りつめかけていた空気が少し和らぐ。
三人は馬具を整え、荷物の固定を確認してから出発することにした。トルクは朝から元気があり、手綱をつけられると早く歩きたいと言いたげに耳を動かしている。一方のベルクは落ち着いていたが、シモンが右後ろ脚の動きを確かめながら慎重に馬具を調整していた。
ルシルはベルクの首筋を撫で、静かに声をかけた。
「今日もゆっくり行こうね。無理しなくていいから」
ベルクは鼻先を寄せ、ルシルの手へ軽く触れた。その温かな感触に、ルシルは自然と表情を和らげる。
やがて馬車が動き始めると、車輪が乾いた土を踏む音が朝の街道へ広がった。三人は馬車に乗らず、二頭の歩幅に合わせて歩いていく。街道の両側には背の低い草が続き、遠くには緩やかな丘が重なって見えた。
昨日までと大きく変わらない景色だったが、ルシルは今日は少し違う気持ちで周囲を眺めていた。花や古い石垣を探すことも楽しいが、今は水を補給できる場所がないかという現実的な目的がある。道端の木々や遠くの建物らしい影にも、自然と目が向くようになっていた。
しばらく進んだところで、モモが街道の左側を指さした。
「ねえ、あそこに何かあるよ。木の柱みたいなのが見える!」
ルシルが視線を向けると、草の向こうに細長い木の柱が立っていた。近づいてみると、上部に横木がついており、かつて何かを吊るしていたようにも見える。しかし、周囲には建物らしいものがなく、柱の表面も風雨で傷んでいた。
「古い目印かな?」
ルシルが尋ねると、シモンは少し考えてから答えた。
「そうかもしれませんが、今の状態では分かりません。道を示すためのものだった可能性もありますし、別の用途があったのかもしれませんね」
モモは柱を眺めながら、少しだけ首を傾げた。
「お水の場所を教える目印だったら嬉しいんだけどなあ」
「そうだったとしても、今も使える場所があるとは限らないよね」
ルシルが答えると、モモは頷いた。
「うん。だから、勝手に決めつけちゃ駄目だね」
三人は柱の周囲を少し確認したが、井戸や水場につながる道は見つからなかった。シモンは地図と照らし合わせたものの、柱に対応する記載もないため、これ以上調べることはせず、先へ進むことにした。
ルシルは歩きながら、先ほどの柱を振り返った。旅を始めてから、用途の分からない古いものをいくつも見かけている。以前なら、そうしたものを見るたびに歴史や物語を想像して楽しんでいただろうが、今は想像だけで判断することの危うさも分かってきた。
(気になるものがあっても、分からないことは分からないままにしておく必要があるんだね。いつか調べられる時が来たら、その時に確かめればいいんだ)
ルシルはそう考え、目の前の街道へ視線を戻した。
◇
午前の終わりが近づく頃、道の先に小さな荷馬車が見えてきた。最初は遠くの影にしか見えなかったが、近づくにつれて、荷台に木箱を積んだ馬車が街道の端に止まっていることが分かった。
ルシルは昨夜の出来事を思い出し、少しだけ足を止めた。再び困っている旅人に出会ったのかもしれないと思ったが、今度の馬車は車輪が沈んでいる様子もなく、御者台の近くには一人の女性が立っていた。
女性は三人の姿に気づくと、軽く手を上げた。年齢は四十歳前後だろうか。茶色い上着を着ており、頭には布を巻いている。足元には小さな袋が置かれ、どうやら休憩しているところらしかった。
「こんにちは。旅の途中かい?」
女性が声をかけると、シモンは馬車を止め、穏やかに答えた。
「ええ。ハルミナへ戻るところです。少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろん。分かることなら答えるよ」
女性は気さくに頷き、三人へ視線を向けた。
シモンは水の補給場所について尋ねた。女性は少し考え込み、街道の先へ目を向ける。
「この辺りで水を分けてもらえる場所かい……。少し先に畑があるはずだけど、今も人がいるかどうかは分からないね。私は反対側から来たわけじゃないから、確かなことは言えないよ」
「そうですか。ありがとうございます」
シモンが礼を言うと、女性は続けた。
「ただ、街道の先に古い井戸があったという話は聞いたことがあるよ。でも、今も使えるかどうかは知らない。昔は旅人が休む場所だったらしいけどね」
ルシルはその言葉に興味を引かれ、思わず顔を上げた。
「古い井戸ですか?」
「ああ。私も実際に使ったことはないから、場所までは詳しく分からないんだ。だから、あまり当てにしない方がいいかもしれないね」
女性は申し訳なさそうに笑った。
シモンは頷き、情報を慎重に受け止めた。
「分かりました。確かな補給場所として考えるのは避けますが、参考にさせていただきます」
「そうしておくれ。水は大事だからね。特に馬を連れているなら、無理はしない方がいいよ」
女性はトルクとベルクへ目を向け、少しだけ表情を和らげた。
「立派な馬たちだね。どちらもよく手入れされている」
「ありがとうございます。ただ、こちらの馬が少し脚を痛めているようで、今はゆっくり進んでいるところです」
シモンがベルクを示すと、女性は心配そうに目を細めた。
「そうかい。それなら、なおさら急がない方がいいね。ハルミナには馬の世話に詳しい人もいるだろうし、戻ったら相談するといいよ」
「ええ。そのつもりです」
シモンは穏やかに答えた。
ルシルは女性の話を聞きながら、古い井戸のことが気になっていた。もし本当に使える井戸があるなら、水の問題を少し解決できるかもしれない。しかし、女性自身も場所や状態を知らない以上、期待しすぎるわけにはいかなかった。
「教えてくれてありがとうございます。僕たちも気をつけて進みます」
ルシルが礼を言うと、女性はにこやかに頷いた。
「こちらこそ。旅は何があるか分からないからね。無事に帰れるといいね」
モモも笑顔で礼を言い、三人は再び街道を進み始めた。
しばらく歩いてから、ルシルはシモンへ声をかけた。
「さっきの井戸の話、どう思う?」
「可能性としては覚えておきたいですね。ただ、場所も状態も分からない以上、そこを目指して無理に進むことはできません」
「うん。もし見つかったら確認する、くらいに考えた方がいいんだね」
「そのとおりです。水を探すために馬たちへ余計な負担をかけてしまっては、本末転倒ですから」
モモは二人の会話を聞きながら、少し考え込んでいた。やがて、何か思いついたように顔を上げる。
「ねえ、もし古い井戸が見つかっても、お水がきれいかどうか分からないんだよね?」
「ええ。見た目が澄んでいても、安全とは限りません」
シモンが答えると、モモは少し残念そうに頷いた。
「そっか。じゃあ、見つけたからってすぐ飲めるわけじゃないんだね」
「そうですね。まずは使える状態かどうかを確認する必要があります」
ルシルはそのやり取りを聞きながら、以前見つけた古い石槽のことを思い出した。あの時も水があること自体は嬉しかったが、泥や落ち葉が混じっていたため、結局飲み水にはできなかった。
水が見つかることと、安全に使えることは別の問題なのだと、今ははっきり理解している。
やがて三人は、街道から少し離れた木陰で昼の休憩を取ることにした。地面は比較的固く、馬車を止めても車輪が沈む様子はない。シモンは二頭を落ち着かせ、馬具を緩めてから脚の状態を確認した。
ベルクは午前中、大きく歩調を崩すことなく進めたものの、右後ろ脚の動きにはまだ慎重さが残っていた。シモンは無理に歩かせず、十分な休息を取らせることにした。
「今日はここで少し長めに休みましょう。午後の移動については、ベルクの状態を見てから決めます」
ルシルとモモは頷き、昼食の準備を始めた。
木陰に腰を下ろすと、風が草の匂いを運んできた。遠くでは鳥が鳴いており、街道を通る馬車の音もほとんど聞こえない。静かな昼の時間が流れる中、モモは旅帳面を取り出し、午前中に見つけた木の柱を描き始めた。
「今日は何を描こうかなって思ってたけど、あの柱にしようかな。何に使われてたのか分からないけど、形が面白かったし」
モモが言うと、ルシルは隣から絵を覗き込んだ。
「うん。横木がついてたところが特徴的だったね」
「そうそう! あれ、何かを吊るしてたのかなあ」
「かもしれないけど、分からないね。もし昔の旅人が使ってたものだったら、どんなふうに使ってたのか気になるな」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ルシル君が旅日記を買ったら、そういうことも書いておこうね!」
「うん。ハルミナに戻ったら、まず本屋を探したいな」
ルシルはそう言いながら、まだ手に入れていない自分の旅日記を思い浮かべた。モモの旅帳面には、これまでの旅で見つけたものが少しずつ増えている。自分も同じように、見た景色や考えたことを記録できたら、後から読み返す楽しみが生まれるだろう。
ただ、今はその楽しみよりも、無事にハルミナへ戻ることが先だった。
シモンは少し離れた場所で地図を広げ、午前中に聞いた情報を帳面へ書き留めていた。古い井戸の話についても、場所と状態が未確認であることを明記している。ルシルはその様子を見ながら、シモンがいつも慎重に情報を扱っている理由を少しずつ理解し始めていた。
「シモン、僕も今日聞いたことを覚えておきたいんだけど、何を書けばいいかな?」
ルシルが尋ねると、シモンは顔を上げた。
「まず、誰から聞いた情報なのか。そして、その方が実際に確認したことなのか、誰かから聞いた話なのかを分けておくとよいでしょう」
「なるほど。さっきの女性は、古い井戸の話を聞いたことがあるだけで、自分では使ってないんだよね」
「ええ。ですから、井戸が今も使えるとは限りません。その違いを記録しておけば、後から判断を誤りにくくなります」
ルシルは頷き、シモンの帳面を覗き込んだ。
「僕も、そういうふうに書けるようになりたいな」
「きっとできますよ。ルシル様は、気になったことをそのままにせず、確かめようとされていますから」
シモンの言葉に、ルシルは少し照れたように笑った。
「ありがとう。でも、まだまだ知らないことばかりだよ」
「旅の中で学ぶことは多いものです。私も、すべてを知っているわけではありませんから」
シモンは穏やかに答え、帳面を閉じた。
その言葉を聞き、ルシルは少しだけ安心した。シモンはいつも頼りになる存在だが、彼にも分からないことがある。だからこそ、三人で考え、必要な時には人に尋ねながら進んでいくことが大切なのだろう。
◇
午後になっても、ベルクの様子は大きく変わらなかった。シモンは短い距離なら進めると判断したが、無理に先へ進むのではなく、早めに野営できる場所を探すことにした。
三人は荷物を片づけ、馬具を整えてから再び街道へ戻った。日差しは午前中より少し強くなっていたが、風が吹いているため、歩くにはそれほど苦しくない。ルシルはベルクの右側を歩きながら、時折その足取りを確認していた。
しばらく進むと、街道の先に低い丘が見えてきた。道は緩やかに上っており、その向こう側の景色はまだ分からない。シモンは坂の手前で馬車を止め、二頭の様子を確かめた。
「この先は少し上りになっていますね。急な坂ではありませんが、ベルクに負担がかからないよう、慎重に進みましょう」
「うん。僕たちも歩いてるし、荷物の重さにも気をつけよう」
ルシルが答えると、モモも頷いた。
「私も後ろから見てるね。もし車輪が変な動きをしたら、すぐに言うよ!」
三人は役割を確認し、ゆっくりと坂を上り始めた。トルクは落ち着いた足取りで進み、ベルクも隣に並んで歩いている。シモンは手綱を慎重に調整し、二頭の歩幅が大きく乱れないよう気を配った。
坂の途中では何度か短い休憩を挟み、ベルクの呼吸や脚の状態を確認した。大きな異変は見られなかったものの、シモンは無理をさせず、少しずつ進むことを選んだ。
やがて丘の上へ近づくと、街道の向こう側に広がる景色が見え始めた。緩やかな草地の先には木々が集まっており、その間に細い道のようなものが続いている。さらに遠くには、低い屋根らしい影がいくつか見えた。
ルシルは思わず足を止め、目を凝らした。
「シモン、あれって……建物かな?」
シモンも視線を向け、しばらく確かめるように見つめた。
「そのように見えますね。ただ、距離がありますから、今も人が住んでいるかどうかまでは分かりません」
「そっか。でも、もし人がいるなら、水のことを聞けるかもしれないね」
ルシルが言うと、モモも嬉しそうに顔を上げた。
「本当だ! 屋根みたいなのが見えるね! あそこに誰かいるといいなあ」
三人はしばらく遠くの景色を眺めていたが、シモンはすぐに先へ進もうとはしなかった。建物らしいものが見えたからといって、そこまでの道が安全とは限らない。ベルクの状態も考えると、今の時間から無理に向かうべきではないと判断したのだ。
「今日はここから少し下った場所で野営地を探しましょう。あの建物については、明日の朝、道の状態を確認しながら近づくかどうか考えます」
ルシルは一瞬だけ残念そうな表情を浮かべたが、すぐに頷いた。
「うん。今から急いで行くより、その方がいいね」
モモも遠くの屋根へもう一度目を向けてから、笑顔で答えた。
「じゃあ、明日のお楽しみだね! 誰かいたら、ちゃんと挨拶しようっと!」
シモンは穏やかに頷き、馬車をゆっくりと進めた。
丘を少し下ったところには、街道から離れた平らな草地があった。近くには低い木々が集まり、風を避けられる場所もある。シモンは地面の状態を確認し、車輪が沈みにくいことを確かめてから、そこで野営することにした。
ルシルはトルクとベルクの首筋を撫で、今日も無事に進めたことへ安堵した。ベルクの右後ろ脚はまだ心配だったが、少なくとも今日の移動で大きく悪化した様子はない。ハルミナへ戻るまでの道のりを考えると不安は残るものの、今できることを続けるしかなかった。
夕食の準備を始める頃には、空が少しずつ橙色に染まり始めていた。モモは保存食と乾燥野菜を取り出し、残っている香草をほんの少し加えて料理を作ることにした。ルシルは水の容器を確認し、必要な分だけを取り出してから、残りを丁寧にしまい直した。
「今日もお水は減っちゃったね」
ルシルが呟くと、モモは少しだけ表情を曇らせた。
「うん。でも、明日あの建物のところで何か分かるかもしれないし、今は大切に使おうね」
「そうだね。期待しすぎないようにしながら、ちゃんと確かめよう」
シモンも二人の会話を聞き、静かに頷いた。
「ええ。明日はまず、建物までの道が安全かどうかを確認しましょう。人がいるようなら、水の補給について相談できるかもしれません。ただし、使える井戸があるとは限りませんから、その点は忘れないようにしてください」
「うん。分かってるよ」
ルシルは頷いた。
夕食を囲む頃には、草原の向こうに星が見え始めていた。三人は今日の出来事を振り返りながら、温かな料理をゆっくりと食べた。モモは旅帳面を開き、遠くに見えた屋根の形を思い出しながら描き始めている。
「ねえ、ルシル君。あの屋根、明日近くで見られたら、もっとちゃんと描けるかな?」
「うん。今は遠くから見ただけだから、どんな建物なのか分からないもんね」
「そうそう! もし誰か住んでたら、どんな人なのかも気になるなあ」
モモは嬉しそうに笑い、筆を動かした。
ルシルはその横顔を見ながら、明日のことを考えた。水の補給場所が見つかるかもしれないという期待と、見つからなかった時の不安が胸の中で入り混じっている。けれど、今はまだ何も確かめていないのだから、先のことを決めつけるわけにはいかなかった。
(明日、何があるかは分からない。でも、僕たちには三人で考える時間があるし、トルクとベルクのこともちゃんと守っていきたい)
ルシルは静かに息を吐き、星空へ目を向けた。
遠くに見えた屋根は、まだ何の建物なのか分からない。
そこに人がいるのか、水を分けてもらえる場所があるのかも、今は確かめようがなかった。
それでも、乾いた街道を進んできた三人にとって、遠くに見えた小さな屋根は、明日へ向かうための一つの目印になっていた。
夜が深まり、草原に静かな風が吹き始めると、三人は交代で見張りをする準備を整えた。トルクとベルクは馬車の近くで落ち着いており、周囲にも大きな異変は見られない。
ルシルは二頭の様子を確認してから、仲間たちのいる野営地へ戻った。
ハルミナへの帰り道は、まだ続いている。
けれど、明日は今日とは違う景色が見られるかもしれない。
その小さな期待を胸に、ルシルは静かな夜の中で休息の時間を迎えた。




