第161話「街道に灯った小さな明かりと、ルシルが初めて断った頼み事」
夜半を過ぎた頃、街道の向こうから乾いた木を叩くような音が聞こえてきた。
ルシルは馬車の脇に腰を下ろしたまま顔を上げ、低い木々の間から見える街道へ視線を向けた。見張りを交代してからそれほど時間は経っておらず、焚き火の火もすでに小さくしてある。風に揺れる枝の音とは違う、不規則な物音がもう一度響いたため、彼は傍らに置いていた外套を肩へ引き寄せた。
近くではトルクとベルクが休んでいたが、先に反応したのは栗毛のトルクだった。耳を街道の方へ向け、首を少し持ち上げている。一方のベルクは落ち着いていたものの、トルクの動きにつられるように顔を上げ、暗がりへ鼻先を向けた。
(誰かが街道を通っているのかな。それとも、荷物が揺れている音だろうか)
ルシルは立ち上がり、二頭を驚かせないようゆっくりと近づいた。トルクの首筋に手を置くと、温かな毛並みの下で筋肉がわずかに動くのが伝わってくる。声をかけながら撫でているうちに馬は落ち着きを取り戻したが、街道の方からは今度、かすかな人の声が聞こえてきた。
「……そっちじゃない。もう少し右だ」
男の声だった。続いて別の声が何かを答えたものの、距離があるため言葉までは聞き取れない。
ルシルは馬車の中で休んでいる二人を振り返った。見張りを任されている以上、何でもない音で起こすのは気が引けたが、夜中に知らない人が近づいている可能性を考えると、自分だけで判断するべきではない。
荷台の入口へ向かおうとした時、内側から布が動き、シモンが顔を出した。
「ルシル様、何かありましたか?」
「シモン。街道の方から音が聞こえたんだ。人の声もしたから、誰かが通っているみたい」
ルシルが声を落として答えると、シモンはすぐに外へ出てきた。眼鏡をかけ直し、馬車の脇に立ったまま耳を澄ませる。その間にも遠くから金属の触れ合う音が聞こえ、続いて馬らしい短い鼻息が夜の空気を震わせた。
「馬車かもしれませんね。こちらへ近づいてくる様子はありますか?」
「まだ分からないよ。さっきより声は近くなった気がするけど、姿は見えないんだ」
「では、こちらから不用意に近づくのはやめましょう。相手が困っている可能性もありますが、夜間ですから、まず状況を確かめることが大切です」
シモンはルシルを馬車のそばに残し、街道を見渡せる位置へ移動した。月は雲の間に隠れていたが、遠くの道には小さな灯りが揺れている。橙色の光が上下するたびに、暗い地面の上へ細長い影が伸びていた。
やがて、二人にも事情が少しずつ分かってきた。
街道を進んでいたのは、荷物を積んだ小さな馬車だった。荷台の片側に吊るした灯りが揺れ、御者台の近くでは二人の男が地面を調べている。馬車は道の端へ寄せられており、車輪の周囲で何か作業をしているようだった。
「車輪に問題が起きたのでしょうか」
シモンが呟くと、ルシルは暗がりの向こうを見つめた。二人の男はしばらく話し合っていたが、やがて一人が街道の先へ歩き、もう一人は馬車のそばに残った。
「手伝いに行った方がいいかな?」
「まだ分かりません。こちらの馬車にも守るべきものがありますし、ベルクを驚かせるわけにもいきませんから。ただ、相手が助けを求めてきた場合には、できる範囲で対応しましょう」
ルシルは頷いたものの、胸の奥には落ち着かない気持ちが残った。昨日までの旅で、自分たちは何度も人の親切に助けられてきた。だからこそ、目の前で困っている人を見かけると、何かできないかと考えてしまう。
けれど、シモンの言葉も理解できた。今の自分たちは、万全の状態で旅をしているわけではない。ベルクの脚にはまだ不安が残り、水の補給先も決まっていなかった。
街道の灯りを見つめていると、荷台の方から眠そうな声が聞こえてきた。
「……ルシル君? シモン君も起きてるの?」
モモが白い外套を羽織り、荷台の入口から顔を覗かせていた。彼女は二人の視線を追って街道へ目を向けると、遠くに揺れる灯りに気づき、少しだけ目を見開いた。
「誰かいるの?」
「うん。向こうで馬車が止まってるみたいなんだ。何か困ってるのかもしれないけど、まだ詳しくは分からなくて」
ルシルが説明すると、モモは街道を見つめたまま頷いた。普段ならすぐに手伝おうと言い出しそうな彼女だったが、今夜はトルクとベルクへ一度目を向け、それからシモンの顔を見る。
「私たちの馬車もあるし、ベルク君も休んでるもんね。どうしたらいいかな?」
「まずは様子を見ましょう。必要があれば声をかけますが、こちらから危険な場所へ入ることは避けたいと思います」
三人がそう話している間に、街道に残っていた男がこちらの灯りに気づいたらしい。遠くから人影が動き、少しずつ近づいてくるのが見えた。
シモンは二人へ馬車のそばにいるよう伝え、自分は街道に近い位置へ進んだ。ルシルも少し後ろから様子を見守り、モモは二頭の馬が落ち着いているか確かめている。
近づいてきた男は四十歳前後に見え、厚手の上着を着ていた。片手に小さな灯りを持ち、もう片方の手には布を巻きつけている。疲れた表情をしていたが、シモンたちの姿を認めると、少し安心したように肩の力を抜いた。
「夜分にすまない。そちらも旅の途中かい?」
「ええ。こちらで野営しています。何かお困りでしょうか」
シモンが答えると、男は困ったように笑った。
「馬車の車輪が、道の端の柔らかい土に取られてしまってね。荷物を下ろしてみたんだが、思ったより深く沈んでいるんだ。もし手が空いているなら、少し押すのを手伝ってもらえないだろうか」
ルシルは反射的に一歩前へ出かけた。しかし、その動きを見たシモンがわずかに手を上げたため、足を止める。
「状況を確認させてください。馬車はどの程度沈んでいるのでしょうか」
「右側の車輪が半分ほど埋まっている。馬は外してあるから、今は荷台を軽くして、木を敷こうとしているところだよ」
男は街道の方を振り返り、灯りを持ち上げて説明した。暗がりの向こうには、確かに荷物を下ろした小さな馬車が見える。道の端に置かれた箱や袋が灯りに照らされ、車輪の近くではもう一人の男がしゃがみ込んでいた。
「分かりました。ただ、こちらにも脚を痛めている馬がいます。馬車を動かす作業に参加できるかは、現場を見てから判断させてください」
「そうか。それは大変だな。無理を言ってすまない」
男はすぐに頷いたが、その表情には落胆が浮かんでいた。
ルシルはその様子を見て、胸の奥が少し苦しくなった。困っている人を助けたいという気持ちは変わらない。けれど、今ここで手伝うと約束してしまえば、シモンやモモにも負担をかけることになる。
(助けたいからって、何でも引き受けていいわけじゃないんだ。僕たちにも、守らなきゃいけないものがある)
ルシルは一度息を整え、男へ向き直った。
「僕たちの馬は使えません。それに、長い時間の作業も難しいと思います。でも、道の状態を見たり、必要なものを運んだりするくらいなら、できるかもしれません」
男は少し驚いた顔をしたあと、穏やかに頷いた。
「それだけでもありがたいよ。実は、どこを通せば車輪が沈まないのか、よく分からなくなっていたんだ」
シモンはルシルの言葉を聞き、わずかに表情を和らげた。
「では、まず現場を確認しましょう。ただし、こちらの馬車と馬たちは動かしません。モモ嬢は二頭のそばに残っていただけますか」
「うん、分かった。ルシル君もシモン君も、足元に気をつけてね」
モモは少し心配そうに二人を見送ったが、無理に同行しようとはしなかった。ベルクが落ち着いて休めるよう、トルクの首筋を撫でながら声をかけている。
ルシルとシモンは男に案内され、街道の端へ向かった。足元には古い轍がいくつも残り、乾いているように見える地面の一部が、灯りを受けて濃い色に見えている。
問題の馬車は、右側の車輪が柔らかい土へ深く沈み込んでいた。荷台にはまだいくつか箱が残っていたが、重そうな荷物の大半はすでに下ろされている。もう一人の男は車輪の近くに木片を並べ、どうすれば車輪の下へ差し込めるか考えているところだった。
「助けが来たのか?」
男が顔を上げると、案内してきた男が頷いた。
「少し様子を見てくれるそうだ。ただ、向こうにも具合の悪い馬がいるから、無理は頼めない」
「そうか。夜中にすまないな」
二人の男は頭を下げ、ルシルとシモンへ場所を空けた。
シモンは灯りを借りて車輪の周囲を確認し、土の状態を慎重に調べた。車輪の前方には固い地面が続いているものの、沈んだ部分から無理に引き出そうとすると、さらに深く食い込む可能性がある。
「今のまま力任せに引くのは避けた方がよさそうです。車輪の下へ木を入れる前に、周囲の土を少し取り除き、進む方向を整えた方がよいでしょう」
シモンが説明すると、二人の男は顔を見合わせた。
「なるほど。確かに、さっき引こうとした時は、余計に沈んだ気がしたんだ」
「馬車を動かす前に、荷台に残っている荷物も下ろした方がよいでしょう。ただし、車輪の近くへ身体を入れる時は、急に馬車が動かないよう十分注意してください」
ルシルはその説明を聞きながら、街道の少し先へ目を向けた。そこには固く乾いた地面が続いており、馬車が一度動き出せば、比較的安全に進めそうだった。
「シモン、あっちの地面は固そうだよ。車輪が抜けたら、中央寄りへ進めば大丈夫かな?」
「そうですね。ただし、まずは沈んだ車輪を安全に戻すことが先です。ルシル様は少し離れた場所から、周囲の地面を確認していただけますか」
「うん。分かった」
ルシルは頷き、灯りの届く範囲を歩いて地面の状態を確かめた。足元には小石が混じっていたが、沈み込みそうな場所は限られている。彼はその位置を覚え、シモンへ戻って伝えた。
作業はすぐには進まなかった。車輪の周囲の土を取り除いても、木片を差し込む角度が合わず、何度か位置を調整する必要があった。二人の男は焦っている様子だったが、シモンが急がず進めるよう伝えると、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
ルシルは荷台から下ろした軽い荷物を、固い地面へ移す作業を手伝った。重い箱は二人の男が運び、彼は小さな袋や道具をまとめている。普段なら自分も重いものを持とうとしたかもしれないが、今夜は無理をしないと決めていた。
やがて車輪の下へ木片を入れる準備が整い、二人の男が馬車をゆっくり動かし始めた。シモンは車輪の位置を見守り、必要な時だけ声をかける。最初はほとんど動かなかったものの、少しずつ土が崩れ、やがて車輪が木片の上へ乗った。
「動いた!」
男の一人が声を上げた。もう一人も安堵したように息を吐き、馬車を急に動かさないよう慎重に力を加える。
ルシルは少し離れた位置から見守っていたが、車輪が固い地面へ戻ったのを確認すると、思わず笑顔になった。
「よかった。これなら大丈夫そうだね」
「ええ。ただ、馬車の状態をもう一度確認してから出発した方がよいでしょう」
シモンが答えると、二人の男は何度も頷いた。
作業が終わった頃には、夜の空気がさらに冷たくなっていた。灯りの周囲には小さな虫が集まり、草原の向こうからは風に揺れる葉の音が聞こえてくる。
男たちは荷物を積み直しながら、ルシルとシモンへ何度も礼を言った。
「本当に助かったよ。あんたたちが来てくれなかったら、朝までここで立ち往生していたかもしれない」
「いえ。無事に動かせてよかったです」
シモンが答えると、男は少し考えてから荷物の一つへ手を伸ばした。
「せめて礼をさせてくれ。大したものじゃないが、保存食なら少し分けられる」
ルシルは一瞬迷ったものの、シモンへ視線を向けた。相手の厚意を無下にしたくはないが、困っていた人から必要な食料を受け取ることにもためらいがあった。
「ありがとうございます。でも、僕たちは大丈夫です。お二人もまだ旅の途中でしょう?」
ルシルがそう言うと、男は驚いたように目を瞬かせた。
「そうだが……何も受け取らないのかい?」
「はい。僕たちも、これまでいろんな人に助けてもらいましたから。今日は少しだけ、そのお返しができたと思えば十分です」
男はしばらくルシルを見つめたあと、ゆっくりと笑った。
「そうか。なら、ありがたくその気持ちを受け取るよ」
シモンも穏やかに頷き、ルシルの隣へ立った。
「お気をつけてお進みください。夜間は道の状態が分かりにくいので、無理に距離を稼がない方がよいと思います」
「ああ。少し先に休める場所があれば、そこで朝まで待つことにするよ」
二人の男はもう一度頭を下げ、馬車の準備を整え始めた。
ルシルとシモンはその場を離れ、野営地へ戻ることにした。街道から少し離れると、モモが二頭の馬のそばで待っている姿が見えてきた。
「おかえり! 大丈夫だった?」
モモは二人の姿を見つけると、ほっとしたように笑った。
「うん。車輪が抜けたから、もう大丈夫そうだよ」
「よかったあ。二人とも怪我してない?」
「大丈夫だよ。僕は軽い荷物を運んだだけだし、シモンがちゃんと気をつけてくれたから」
ルシルが答えると、モモは安心したように頷いた。
シモンは二頭の様子を確認し、ベルクが落ち着いて休んでいることを確かめた。トルクも大きく騒ぐことはなかったらしく、モモは少し誇らしそうに胸を張っている。
「トルク君もベルク君も、ちゃんといい子にしてたよ。私も見張り、頑張ったんだから!」
「ありがとうございます、モモ嬢。おかげで安心して戻れました」
シモンがそう言うと、モモは嬉しそうに笑った。
ルシルは馬車の脇へ腰を下ろし、冷たくなった手を外套の中へ入れた。作業をしている間は気づかなかったが、夜の空気は思っていた以上に冷えていたらしい。モモが温かい飲み物を用意しようかと尋ねてきたものの、ルシルは残りの水を考えて首を振った。
「ありがとう。でも、今は大丈夫だよ。少し休めば温まると思う」
「そっか。じゃあ、外套をちゃんと着てね」
モモはそう言って、ルシルの肩にかかった布を整えた。
その仕草にルシルは小さく笑い、素直に礼を言った。モモは何でもないことのように頷いたが、彼が冷えていないか気になるらしく、しばらく隣で様子を見ている。
シモンは街道の方へ一度目を向け、遠くの灯りがゆっくり移動し始めたことを確認した。馬車は先ほどより慎重な速度で進んでおり、やがて木々の向こうへ姿を消していった。
「無事に出発できたようですね」
シモンが言うと、ルシルは頷いた。
「うん。よかった」
少しの沈黙が流れたあと、ルシルはシモンへ顔を向けた。
「ねえ、シモン。さっき、僕が最初から手伝うって言わなかったの、変じゃなかったかな?」
シモンはすぐには答えず、ルシルの表情を確かめるように見つめた。彼が何を気にしているのか分かったのか、やがて穏やかな声で口を開く。
「変ではありませんよ。むしろ、よい判断だったと思います」
「でも、困っている人を見たら助けたいって思うのに、できないことがあるのは少し悔しいんだ」
ルシルは視線を落とし、膝の上で指を組んだ。
「僕たちの馬が元気だったら、もっと手伝えたかもしれない。でも、今はベルクを休ませなきゃいけないし、水だって十分じゃない。そう考えたら、何でも引き受けるわけにはいかないんだよね」
シモンは静かに頷いた。
「ええ。誰かを助けるために、自分たちが守るべきものを危険にさらしてしまっては、別の問題が生まれます。大切なのは、何でも引き受けることではなく、できることとできないことを見極めることでしょう」
ルシルはその言葉を聞き、ゆっくりと顔を上げた。
「そっか。断ることも、必要なんだね」
「そうですね。特に、誰かの責任を背負う立場にある時は」
シモンの声は穏やかだったが、その言葉には少しだけ重みがあった。ルシルは王宮で過ごしていた頃を思い出し、胸の奥に小さな痛みを感じた。
王子だった頃、自分は多くの人に守られていた。何かを頼まれれば、それに応えることが正しいのだと思っていたし、誰かの期待を裏切らないように振る舞うことが、自分の役目なのだと考えていた。
けれど、今は違う。
王位を手放し、自由に旅をすることを選んだ自分には、以前とは違う責任がある。目の前にいる仲間たちと、同じ道を歩いてくれる二頭の馬を守ることも、その一つだった。
(僕はもう、誰かに言われたことを全部引き受けなくてもいいんだ。自分で考えて、何を大切にするか決めていいんだね)
ルシルはゆっくりと息を吐き、隣にいるモモへ目を向けた。彼女は二人の話を静かに聞いていたが、ルシルと目が合うと、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「私はね、ルシル君がちゃんと考えてくれて嬉しかったよ」
「モモ?」
「だって、ルシル君って困ってる人を見ると、すぐ助けたくなっちゃうでしょう? それはすごくいいところだと思うけど、たまには自分たちのことも考えてほしいなって思うんだ」
モモはそう言って、ベルクの方へ視線を向けた。
「ベルク君だって、私たちの大事な仲間だもん。誰かを助けるために無理させちゃったら、きっとルシル君も悲しいでしょう?」
「うん。そうだね」
ルシルは頷いた。
モモは少しだけ声を柔らかくし、続けた。
「それに、今日はちゃんと手伝えたじゃない。全部を引き受けなくても、できることを見つけて助けられたんだから、それで十分だと思うよ」
ルシルはその言葉を聞き、胸の奥にあった小さな引っかかりが少しずつほどけていくのを感じた。自分ができなかったことばかりを考えていたが、できたことも確かにあったのだ。
「ありがとう、モモ。そう言ってもらえると、少し安心するよ」
「えへへ。どういたしまして!」
モモは嬉しそうに笑った。
シモンは二人のやり取りを見守りながら、静かに目を細めた。ルシルが自分の考えで判断し、その理由を言葉にできるようになっていることが、彼には何より嬉しかった。
以前のルシルなら、誰かに頼られることを断るのは難しかったかもしれない。けれど今夜は、相手の事情を聞いたうえで、自分たちの状況を考え、無理のない範囲で協力する道を選んだ。
その変化を口に出して褒めることはしなかったが、シモンの表情には穏やかな誇らしさが浮かんでいた。
◇
翌朝、ルシルが目を覚ました時には、野営地の周囲に薄い霧が漂っていた。昨夜の出来事が夢だったかのように街道は静かで、遠くから聞こえてくるのは鳥の鳴き声と、草を揺らす風の音だけだった。
ルシルは荷台から降りると、まずトルクとベルクの様子を確認した。二頭とも落ち着いており、ベルクも静かに立っている。昨夜は大きな騒ぎに巻き込まれずに済んだため、休息を妨げられることも少なかったようだった。
シモンはすでに起きており、ベルクの右後ろ脚を慎重に確認していた。
「おはようございます、ルシル様。昨夜はお疲れさまでした」
「おはよう、シモン。ベルクの様子はどう?」
「大きく悪くなっている様子はありません。ただ、まだ完全に普段どおりとは言えませんね。今日も短い距離を進むか、休息を優先するか、慎重に考えたいと思います」
ルシルは頷き、ベルクの首筋を撫でた。
「うん。昨日のこともあるし、今日は無理をしないようにしよう」
シモンはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「ええ。私も同じ考えです」
朝食の準備を始める頃、モモも荷台から顔を出した。彼女はまだ少し眠そうだったが、昨夜の馬車のことを思い出したらしく、街道の方へ目を向けている。
「あの人たち、無事に休めたかなあ」
モモが呟くと、ルシルは頷いた。
「そうだといいね。あのあと、ゆっくり進んでいったみたいだから」
「うん。車輪もちゃんと動いたし、きっと大丈夫だよね」
モモはそう言って微笑み、朝食の準備を始めた。
今朝は水をあまり使わずに済むよう、保存食を中心に簡単な食事を用意することにした。モモは残っている乾燥香草の包みを手に取り、少しだけ匂いを確かめてから、今日は使わずにしまい直した。
「この香草、ハルミナまで残しておきたいなあ。戻った時に、最後の分を使って何か作れたら楽しそうだし」
「いいね。僕も、その時は手伝うよ」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、約束だよ! ルシル君には野菜を切ってもらおうかな」
「うん。ちゃんと練習しておかないとね」
二人が笑い合う様子を見て、シモンも穏やかに頷いた。
朝食を終えた後、三人は地図を広げ、今日の予定を相談した。昨夜の出来事で少し疲れが残っていることもあり、午前中は十分に休息を取ってから出発することにした。
「今日は少し遅めに出発しましょう。ベルクの状態を確認しながら、無理のない範囲で進むつもりです」
「うん。僕もそれがいいと思う」
「賛成! 昨日の夜はちょっとびっくりしたし、今日はのんびりしたいなあ」
モモはそう言って大きく伸びをした。
ルシルはその様子を見ながら、昨夜のことを思い返した。
困っている人を助けることは、旅の中で何度も経験してきた。けれど、自分たちの事情を考え、できないことをきちんと伝えたのは、今回が初めてだったかもしれない。
それは少し勇気のいることだったが、結果として誰も無理をせず、相手の役に立つことができた。
ルシルは静かに息を吐き、ベルクの方へ目を向けた。
(これからも、きっといろんなことがあるんだろうな。でも、そのたびにちゃんと考えて、みんなで決めていけたらいいな)
その思いを胸に、ルシルは馬車の準備を手伝い始めた。
ハルミナへの帰り道は、まだ続いている。
けれど、昨夜の小さな出来事は、ルシルにとって大切な経験になっていた。
誰かを助けたいという気持ちと、自分たちを守るという責任。
その二つを両立させる方法を、彼は少しだけ学んだのだった。




