第180話 動かせない馬と、動き始めた旅の行方
旅に出てから四十三日目の朝、ルシルは馬車の扉を開けると、いつもより少し冷たい風を頬に感じた。
昨夜まで空を覆っていた薄い雲は東へ流れ、丘の向こうには淡い青空が広がっている。野営地の草には朝露が残っていたが、数日前の雨でぬかるんでいた地面も表面は乾き始めており、馬車の車輪の周囲には新しい水溜まりもできていなかった。
ルシルは軽く背伸びをしてから、馬車の横にいる二頭の馬へ目を向けた。
栗毛のトルクはすでに目を覚ましており、干し草を食べながら時折耳を動かしている。一方、濃灰色のベルクは少し離れた場所で静かに立ち、相変わらず右後ろ脚へ体重をかけることを避けていた。
「おはよう、二人とも」
ルシルが声をかけると、トルクはすぐに顔を上げた。
そのまま鼻先を伸ばしてくる様子に、ルシルは思わず笑ってしまう。
「今日は何も持ってないよ。朝ご飯なら、ちゃんと用意してあるでしょう?」
トルクは納得していないように鼻を鳴らしたが、やがて干し草へ顔を戻した。
ルシルはその様子を見届けてから、ベルクへ近づいた。
不用意に驚かせないよう声をかけ、首筋へそっと手を添える。ベルクは落ち着いていたものの、右後ろ脚をかばう姿勢は昨日と大きく変わらず、少なくとも見た目だけで回復したと判断できる状態ではなかった。
「……今日も、まだ痛いんだね」
ルシルは小さく呟いた。
獣医エリサが最後に診察した時、蹄の外側に圧迫すると痛がる部分があり、内部で炎症が起きている可能性があると説明していた。しかし、原因は確定しておらず、無理に歩かせたり、蹄を掘り返したりすることは避けるよう指示されている。
そのため、ルシルたちは野営地を維持しながら、ベルクの負担を増やさない方法を探していた。
昨日までの調査で、丘の麓にある畑道が現在の街道へつながっていることは確認できた。途中の曲がり角には古い荷車の待避場所があり、土地の持ち主であるエダから利用の許可も得ている。
草を刈ったことで地面の状態も分かり、柔らかく沈んでいる部分を避ける経路を考えられるようになった。
それでも、馬車を実際に動かせるかどうかは別の問題だった。
(道が見つかっても、ベルクを置いていくわけにはいかないからな)
ルシルはベルクの首筋を優しく撫でた。
「今日は、君のことをちゃんと相談してくるよ。だから、もう少しだけ待っていてね」
ベルクは耳を動かし、静かに息を吐いた。
その時、背後からモモの声が聞こえてきた。
「ルシル君、おはよう!」
振り返ると、白い外套を羽織ったモモが水桶を持って歩いてきた。
彼女はベルクの様子を見てから、ルシルの隣へしゃがみ込む。
「ベルク君、今日も頑張ってるね」
「うん。食欲はあるけど、脚はまだ痛そうだよ」
モモは少しだけ表情を曇らせた。
彼女には治癒の魔法が使えるが、万能ではない。原因が分からない蹄の内部の問題を、無理に魔法で治そうとすることはできなかった。
「……私の魔法で、すぐによくしてあげられたらいいのに」
その言葉には、いつもの明るさとは違う悔しさが滲んでいた。
ルシルはモモへ目を向けた。
「モモがいてくれるだけでも、ベルクは安心してると思うよ」
「そうかな?」
「うん。僕たちが調べ物に行っている間も、ずっと世話をしてくれてるでしょう?」
モモはベルクの顔を見上げた。
濃灰色の馬は彼女の手元へ鼻先を寄せ、穏やかに息を吐いている。
「……そっか」
モモは小さく笑った。
「じゃあ、今日もちゃんとお世話するね!」
ルシルも笑顔で頷いた。
そこへ、馬車の中からシモンが出てきた。
「お二人とも、おはようございます。朝食の前に、少し確認しておきたいことがあります」
シモンは手に持った帳面を開き、昨日までに整理した項目を示した。
「今日はオルダさんへ、ハルミナへ連絡する手段がないか相談します。エリサさんへの再診依頼と、馬具職人への問い合わせを進めるためです」
「うん。昨日話したことだね」
ルシルが答えると、シモンは頷いた。
「ただし、職人の方へ相談する前に、こちらで確認できることもあります。馬車の構造、現在の馬具、ガランを借りる場合の条件です」
モモは少し考えたあと、首を傾げた。
「ねえ、シモン君。もしガラン君が馬車を引けるようになっても、ベルク君はどうするの?」
「そこが最も重要な問題です」
シモンは静かに答えた。
「ベルクを歩かせることができない以上、出発の判断はできません。昨日ベルトさんから伺った家畜運搬用の荷車についても、まずはエリサさんに安全性を確認する必要があります」
ルシルは頷いた。
「だから、今日はそこを進めたいんだ」
モモは二人の顔を見比べたあと、明るく笑った。
「分かった! じゃあ、まずは朝ご飯を食べよう!」
シモンは少しだけ目を細めた。
「……その結論に至るまでが、ずいぶん早いですね」
「だって、お腹が空いてたら相談もできないでしょう?」
モモは当然のように答えた。
ルシルは思わず笑った。
「それは確かにそうかもしれないね」
「ルシル様まで……」
シモンは小さく息を吐いたものの、結局は反論せず、朝食の準備を手伝い始めた。
◇
朝食を終えたあと、ルシルとシモンはオルダの農家へ向かった。
モモは野営地に残り、ベルクとトルクの世話を続けることになった。二頭の様子に変化があれば無理に動かさず、近くの農家へ助けを求めるという約束も、出発前に改めて確認している。
畑の間を通る道には、朝から働く農家の人々の姿があった。
遠くでは鍬を使う音が聞こえ、畑の端には収穫した野菜を入れるための籠が並んでいる。王宮にいた頃には見慣れなかった光景だったが、ルシルにとっては少しずつ親しみのある風景へ変わり始めていた。
「シモン、ここへ来てから、もうずいぶん経つね」
歩きながらルシルが言うと、シモンは頷いた。
「ええ。当初は短い滞在になると思っていましたが、予想以上に長くなりました」
「でも、いろんな人と知り合えたよね」
「そうですね。オルダさんやベルトさんをはじめ、多くの方に助けられています」
ルシルは道の先へ目を向けた。
オルダの農家では、以前、納屋へ続く道を整え、傷んでいた床板の修理も手伝っていた。ベルクを休ませる場所として使える可能性を考えてのことだったが、現在は獣医の指示により、そこまで歩かせることは避けている。
結果として、納屋はまだ使っていない。
しかし、オルダはそのことを責めるどころか、野営地の雨除けに使う古い布や支柱まで貸してくれた。
「……オルダさんにも、ちゃんとお礼をしないとね」
ルシルが言うと、シモンは少しだけ微笑んだ。
「そうですね。ただし、今は必要な相談を進めることも大切です。お礼については、相手のご都合を伺いながら考えましょう」
「うん」
二人が農家へ到着すると、オルダは納屋の前で農具を整理していた。
年季の入った作業着を着ており、足元には修理を終えた木箱がいくつか並んでいる。
「おお、来たか。今日はどうした?」
オルダは二人に気づくと、手を止めて声をかけた。
「おはようございます。少し相談したいことがあるんです」
ルシルが答えると、オルダは頷いた。
「いいぞ。ちょうど一段落したところだ」
シモンは事情を説明した。
ベルクの状態が大きく変わっていないこと。
エリサへ再診をお願いしたいこと。
さらに、ベルトから聞いた家畜運搬用の荷車について、安全に利用できる可能性があるか相談したいこと。
オルダは最後まで話を聞くと、顎へ手を当てて考え込んだ。
「なるほどな。エリサ先生にもう一度診てもらうのは、いい判断だと思うぞ」
「ありがとうございます」
シモンが答えると、オルダは続けた。
「ただ、先生は忙しい人だからな。頼んですぐに来てもらえるかは分からん」
「それは承知しています。まずは連絡を取りたいのですが、ハルミナへ向かう方をご存じありませんか」
オルダは少し考えたあと、顔を上げた。
「そういえば、今日は昼過ぎにダリオがこの辺りへ来るはずだ」
ルシルは驚いた。
「ダリオさんが?」
「ああ。町から農具の部品を運んでくる約束になってる。帰りは空荷になるはずだから、手紙を預けるくらいなら頼めるかもしれん」
シモンは帳面を開いた。
「それは助かります。もちろん、運搬の手間に対する謝礼はお支払いします」
オルダは笑った。
「そこは本人と相談してくれ。俺が勝手に決めることじゃないからな」
ルシルは頷いた。
「分かりました。じゃあ、手紙を準備して待ってみます」
オルダは二人の顔を見比べ、少しだけ表情を和らげた。
「しかし、お前たちもよく頑張ってるな」
「えっ?」
ルシルが顔を上げると、オルダは納屋の方へ目を向けた。
「馬が怪我をして、道も悪くて、馬車まで直さなきゃならん。普通なら、もっと慌ててもおかしくない状況だ」
ルシルは少しだけ苦笑した。
「慌ててないわけじゃないんですけどね」
「そうだろうな」
オルダは頷いた。
「だが、焦って馬を動かそうとしないのはいいことだ。馬は人間の都合で怪我を治せるわけじゃないからな」
その言葉に、ルシルは静かに頷いた。
「……はい」
オルダは少しだけ笑った。
「まあ、手紙を書くなら、うちの机を使っていいぞ。外より落ち着くだろう」
「ありがとうございます!」
ルシルは嬉しそうに頭を下げた。
◇
オルダの家で机を借りたルシルとシモンは、二通の手紙を準備した。
一通は獣医エリサ宛てで、ベルクの現在の様子と再診の希望、家畜運搬用の荷車を利用することが可能かどうか相談したい旨を記したものだった。
もう一通は馬具職人宛てで、ベルトから聞いた店の所在地を頼りに、二頭立ての四輪馬車を別の牽引方法で動かす場合の安全性について、現物を確認してもらえるか尋ねる内容にした。
シモンは文章を書き終えると、ルシルへ見せた。
「ルシル様。内容をご確認いただけますか」
「うん」
ルシルは手紙を受け取り、丁寧に読み進めた。
エリサ宛ての手紙には、ベルクが食欲を保っていること、右後ろ脚をかばう様子が続いていること、前回の診察後に無理な歩行をさせていないことが書かれていた。
また、家畜運搬用の荷車については、利用できると決めつけず、獣医の判断を求める形になっている。
「……うん。これなら、今の状態が伝わると思う」
ルシルは頷いた。
シモンはもう一通を示した。
「こちらは馬具職人宛てです。ベルトさんの紹介であることを記し、現物確認の可否と費用について問い合わせています」
ルシルは手紙を読み、少し考えた。
「シモン、ここに一つ追加してもいい?」
「もちろんです。どの部分でしょうか」
「馬車の前の金具は修理してもらったけど、まだ実際に引いて試していないことも書いておいた方がいいと思うんだ」
シモンは一瞬だけ目を見開いたあと、静かに頷いた。
「……確かに、その情報は重要ですね」
彼はすぐに文章を書き加えた。
「ありがとうございます。職人の方が判断する際にも必要な情報でしょう」
ルシルは少し照れくさそうに笑った。
「僕も、少しは役に立てたかな」
「少しどころではありませんよ」
シモンは穏やかに答えた。
その言葉に、ルシルは嬉しくなった。
王宮にいた頃、書類の確認は日常的な仕事の一つだった。
しかし、今こうして手紙を読み、自分たちの旅を続けるために必要な情報を考えていると、同じ作業でもまったく違う意味を持つように感じられる。
誰かから命じられた仕事ではない。
自分たちが困っていることを、自分たちの判断で解決するための手紙だった。
ルシルは完成した二通を見つめ、小さく頷いた。
「これで、あとはダリオさんにお願いできるかどうかだね」
「はい。引き受けていただければ、今日中に連絡を託すことができます」
シモンは手紙を丁寧に折り、宛先を記した封筒へ入れた。
◇
昼前、二人が野営地へ戻ると、モモが馬車の横で何かを一生懸命に数えていた。
足元には食料を入れた袋が並び、彼女は小さな木片を一つずつ移動させながら、真剣な表情で考え込んでいる。
「……一、二、三……あれ? こっちが昨日の分だっけ?」
ルシルが近づくと、モモは顔を上げた。
「あっ、おかえり!」
「ただいま。何をしてるの?」
「食料の数を調べてたんだよ!」
モモは胸を張った。
「昨日、シモン君が長くここにいるなら食料の準備も必要だって言ってたでしょう? だから、あと何日くらい大丈夫なのか数えてみようと思ったの!」
ルシルは驚いた。
「それは助かるね」
「でしょう?」
モモは嬉しそうに笑った。
しかし、シモンが袋の中身を確認すると、少しだけ眉を寄せた。
「モモ嬢。こちらの干し果物は、昨日より減っているようですが」
モモの動きが止まった。
「……えっと」
「数を調べている途中で召し上がりましたか?」
「……一個だけ」
シモンは静かに目を細めた。
「一個、ですか」
「……二個かもしれない」
ルシルは思わず口元を押さえた。
モモは少しだけ頬を赤くしながら、慌てて続けた。
「でも、ちゃんと残りの数は数えたよ! それに、今日はお昼ご飯の分も分けてあるから!」
シモンは小さく息を吐いた。
「食料を数える際には、途中で数量を変えないようにしていただけると助かります」
「はーい……」
モモは素直に頷いた。
その様子を見て、ルシルはとうとう笑ってしまった。
「でも、モモが自分から調べてくれたのは嬉しいよ。ありがとう」
モモはぱっと顔を明るくした。
「えへへ! じゃあ、次は食べる前に数えるね!」
「できれば、数え終わってから食べるかどうか決めてください」
シモンの言葉に、モモは元気よく返事をした。
「分かった!」
三人は笑いながら食料を整理し、実際に残っている量を確認した。
保存の利く食料はまだ一定量残っていたが、新鮮な野菜や馬の飼料については、周囲の農家から購入したり、分けてもらったりする必要がある。
特にベルクとトルクの世話を続ける以上、馬の食料と水を安定して確保することが重要だった。
シモンは必要な量を帳面へ書き込み、オルダやベルトへ相談する項目に加えた。
ルシルはその様子を見ながら、少しだけ考え込んだ。
旅を再開するための準備だけでなく、ここで暮らし続けるための準備も必要になっている。
その両方を進めなければならないのだと、改めて実感した。
◇
昼食を終えた頃、オルダから知らせが届いた。
ダリオが農具の部品を運んでくる時間が近づいているという。
ルシルとシモンは手紙を持ち、再び農家へ向かった。
モモは二頭の馬の世話を続けるため野営地に残ったが、出発前にルシルの袖を引いた。
「ルシル君、エリサさんにちゃんと伝えてね」
「うん。ベルクのことだよね」
「そう。脚がまだ痛そうなことも、無理に歩かせてないことも、それから……」
モモは少し考えたあと、真剣な顔で続けた。
「ベルク君が怖がるようなことは、できるだけしたくないってことも」
ルシルは頷いた。
「分かった。ちゃんと伝えるよ」
モモは安心したように笑った。
「ありがとう!」
ルシルは手紙を確かめ、シモンとともに歩き出した。
オルダの農家へ到着すると、ちょうど一台の荷車が庭先へ入ってくるところだった。
御者台には見覚えのある男が座っている。
日に焼けた顔に、少し疲れたような表情。
以前、シモンをハルミナまで運んでくれた御者のダリオだった。
「おや、あんたたちじゃないか」
ダリオは荷車を止めると、驚いたように声を上げた。
「まだこの辺りにいたのか?」
「はい。ベルクの脚がまだ治っていなくて」
ルシルが答えると、ダリオは少しだけ表情を曇らせた。
「そうか。そいつは大変だな」
オルダは荷車の荷台を確認しながら、二人へ声をかけた。
「話があるなら、荷物を下ろしてからにしてくれ。先に仕事を片づけよう」
「はい!」
ルシルはすぐに頷いた。
ダリオが運んできたのは、農具の修理に使う金属部品と木製の道具だった。
ルシルとシモンはオルダの指示に従い、荷物を納屋の入口まで運ぶのを手伝った。重い物は無理に持ち上げず、ダリオとオルダが扱うようにし、二人は小さな箱や軽い部品を担当する。
荷下ろしが終わる頃には、ダリオも少し表情を和らげていた。
「助かったよ。さて、話ってのは何だ?」
シモンは二通の手紙を取り出した。
「ハルミナへ戻られるのであれば、こちらを届けていただけないかと思いまして」
ダリオは手紙を受け取り、宛先を確認した。
「エリサ先生と、馬具職人か」
「はい。どちらも急ぎの相談ではありますが、無理に今日中の返事を求めるものではありません。お届けいただく手間については、謝礼をお支払いします」
ダリオは少し考えた。
「先生のところは分かる。前にも行ったからな。馬具職人の方も、場所は知ってるぞ」
ルシルは顔を明るくした。
「本当ですか?」
「ああ。ただし、俺も町へ戻ったら別の仕事がある。今日中に両方へ届けられるかは分からん」
「それでも構いません」
シモンは丁寧に答えた。
「ご都合のよい時に届けていただければ助かります」
ダリオは頷いた。
「分かった。じゃあ、預かろう」
ルシルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
ダリオは笑いながら手を振った。
「礼を言うのは、ちゃんと届けてからにしてくれ」
シモンは謝礼について確認し、ダリオが提示した額を支払った。
そのあと、ルシルはもう一つだけ尋ねた。
「ダリオさん、もしエリサさんから返事があったら、どうやって受け取ればいいでしょうか?」
ダリオは少し考えた。
「俺は数日おきにこの辺りへ来る仕事があるから、返事を預かれれば持ってくるよ。ただし、毎日来るわけじゃないからな」
「分かりました」
ルシルは頷いた。
これで、少なくともエリサと馬具職人へ相談するための手段は確保できた。
返事がいつ届くかは分からない。
それでも、何もできずに待っていた状態から、一歩進んだことは確かだった。
◇
ダリオが荷車で出発したあと、ルシルとシモンはオルダの庭先で少し休んでいた。
オルダは水を入れた木の杯を二人へ渡し、自分も納屋の前へ腰を下ろした。
「これで、先生には連絡が行くな」
「はい。ダリオさんが引き受けてくださって助かりました」
ルシルが答えると、オルダは頷いた。
「馬具職人の方も、うまく話が進むといいな」
シモンは杯を置き、静かに口を開いた。
「ただし、馬車を動かせるようになったとしても、ベルクの移動方法が決まらなければ出発はできません」
「そうだな」
オルダは少し考えたあと、ルシルへ目を向けた。
「ところで、お前たちはベルクが回復するまで、ここにいるつもりなのか?」
ルシルは少しだけ迷った。
「……今のところは、そう考えています」
「なるほど」
オルダは頷いた。
そして、納屋の方へ目を向けた。
「なら、一つ提案がある」
ルシルは顔を上げた。
「提案、ですか?」
「ああ。前に直した納屋のことだ」
オルダはゆっくり立ち上がり、納屋の扉を指さした。
「今はベルクを歩かせられないから、ここまで連れてくるのは難しいだろう。だが、もし先生が移動を許可したら、町へ向かう前に一度ここで休ませることもできる」
ルシルは納屋を見つめた。
以前、床板を直し、道を整えた場所だった。
あの時はベルクを休ませるために準備したものの、獣医の指示により、まだ使っていない。
「……確かに、ここなら雨風を避けられますね」
「そうだ。ただし、今すぐ連れてこいって話じゃないぞ」
オルダは念を押した。
「先生が歩かせてもいいと言うまでは、今の場所で休ませる方がいい。納屋は、その時の選択肢として考えておけばいいんだ」
シモンは静かに頷いた。
「ありがとうございます。移動が可能になった場合の休養場所として、検討させていただきます」
ルシルも頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
オルダは少し照れたように笑った。
「何、せっかく直した納屋だからな。使える時が来たら使えばいい」
その言葉に、ルシルは胸の奥が温かくなった。
これまでの作業が、すぐに役立たなかったからといって無駄になったわけではない。
必要な時が来れば、別の形で役に立つこともある。
ルシルは納屋の扉を見つめながら、静かに頷いた。
◇
野営地へ戻った頃には、午後の日差しが少し傾き始めていた。
モモは馬車の横で旅帳面を開き、ベルクとトルクの絵を描いていた。
ルシルたちの姿を見つけると、すぐに顔を上げる。
「おかえり! どうだった?」
「うん。ダリオさんに手紙を預けられたよ」
ルシルが答えると、モモはぱっと笑顔になった。
「本当!? じゃあ、エリサさんに相談できるんだね!」
「そうだよ。ただ、返事がいつ届くかはまだ分からないんだ」
「そっか。でも、よかった!」
モモは嬉しそうに頷いた。
シモンは馬車の中へ入り、帳面へ今日の出来事を書き加えた。
エリサへの再診依頼。
馬具職人への問い合わせ。
ダリオによる手紙の運搬。
そして、ベルクが移動できる状態になった場合に、オルダの納屋を休養場所として使える可能性があること。
ルシルはその横で、地図を広げた。
野営地から丘の麓の畑道へ続く経路。
古い待避場所。
小さな石橋。
そして、現在の街道へ戻る地点。
ここ数日で調べた場所が、一枚の地図の上につながっている。
ルシルはしばらくその線を見つめていた。
「……シモン」
「はい、ルシル様」
「僕たち、少しずつだけど、ちゃんと前へ進んでるよね」
シモンは顔を上げた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「ええ。少なくとも、今は何が分かっていて、何が分かっていないのかを整理できています」
ルシルは頷いた。
「最初は、ベルクが怪我をしたことしか分からなくて、どうしたらいいかも分からなかったけど……」
彼は地図へ視線を落とした。
「今は、道のことも、馬車のことも、ベルクの移動方法も、少しずつ考えられるようになった」
シモンは静かに頷いた。
「はい。そして、必要なところでは専門家の判断を待つこともできています」
ルシルは小さく笑った。
「……それも大事なことなんだね」
「ええ。自分たちだけで解決できない問題を、無理に解決しようとしないことも重要です」
その言葉に、ルシルは深く頷いた。
王宮にいた頃、彼は何かを決める立場にあった。
しかし、今は違う。
自分たちの旅を続けるために、知らないことを学び、できないことを認め、必要な人へ助けを求める。
それは決して情けないことではないのだと、少しずつ分かってきた。
◇
夕方、ルシルはベルクの近くで静かに過ごしていた。
モモはトルクの世話を終え、馬車の横で道具を片づけている。シモンは少し離れた場所で、今日使った費用を帳面へ記録していた。
ルシルはベルクの首筋を撫でながら、今日の出来事を思い返した。
エリサへ手紙を送ることができた。
馬具職人にも相談を依頼できた。
そして、オルダからは納屋を使うという選択肢を改めて示してもらった。
どれも、すぐに旅を再開できるという答えではない。
しかし、必要な人へ相談し、次の判断につながる準備を進められたことは確かな成果だった。
「ベルク、もう少しだけ頑張ろうね」
ルシルが小さく声をかけると、ベルクは耳を動かした。
その時、背後からモモが近づいてきた。
「ルシル君、ベルク君に何か話してたの?」
「うん。もう少しだけ頑張ろうって」
モモはベルクへ目を向けた。
「そっか」
そして、少し考えたあと、ルシルの隣へしゃがみ込んだ。
「ねえ、ルシル君。私ね、最近ちょっとだけ考えてたことがあるんだ」
「何?」
「旅って、ずっと歩いてるものだと思ってたの」
モモは遠くの街道を見つめた。
「知らない町へ行って、おいしいものを食べて、きれいな景色を見て……そういうのが旅なんだって」
ルシルは静かに頷いた。
「うん」
「でも、こうして同じ場所に長くいても、いろんな人と知り合ったり、新しいことを覚えたりできるんだね」
モモは少しだけ笑った。
「だから、ここにいる時間も、ちゃんと旅の一部なんだなって思ったの」
ルシルは彼女の横顔を見つめた。
モモはいつも明るく、食べ物の話になると目を輝かせる。
しかし、こうして時折見せる真剣な表情には、彼女なりに旅の意味を考えていることが表れていた。
「……僕も、そう思うよ」
ルシルは穏やかに答えた。
「でも、やっぱりまたみんなで出発したいね」
モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! もちろん!」
そして、ベルクの顔を覗き込んだ。
「ベルク君、次の町へ行ったら、おいしいものをいっぱい探そうね!」
ルシルは思わず笑った。
「モモ、それはベルクの食べ物?」
「えっ?」
モモは一瞬だけ考えた。
「……半分は私の!」
ルシルは声を上げて笑った。
少し離れた場所にいたシモンも、二人の会話が聞こえたらしく、眼鏡の位置を直しながら口を開いた。
「モモ嬢。馬と人間では、食べられるものが違いますからね」
「分かってるよ! ちゃんとベルク君の分も探すもん!」
「それなら結構です」
シモンは穏やかに答えた。
三人の笑い声が、夕方の野営地へ広がった。
◇
夕食のあと、ルシルは馬車の中で地図を広げていた。
モモは隣で旅帳面へ絵を描き、シモンは今日の記録を整理している。
ルシルは地図の上に指を置き、丘の麓の畑道をなぞった。
ここ数日で、道の形はかなり分かってきた。
しかし、まだ実際に馬車を通したわけではない。
古い待避場所の地面には柔らかい部分があり、小さな石橋の荷重についても十分な確認が必要だった。
さらに、ガランを借りる場合には馬具の調整が必要であり、ベルクの移動方法も決まっていない。
それらを一度に解決することはできない。
けれど、今日送った手紙の返事が届けば、次に何をすべきか判断できるようになるはずだった。
「……シモン」
「はい」
「もしエリサさんが、ベルクをまだ動かせないって言ったら、どうしようか」
ルシルが尋ねると、シモンは少し考えた。
「その場合は、ここで休養を続けることになりますね。ただし、必要な期間や世話の方法について、改めて相談することはできるでしょう」
「うん」
「それに、馬具職人から返事が届けば、馬車の準備をどこまで進められるかも分かります。ベルクの回復を待つ間に、安全な範囲でできることを進めればよいのです」
ルシルは頷いた。
「……そうだね」
その時、モモが旅帳面から顔を上げた。
「ねえ、ルシル君」
「どうしたの?」
「次の町へ行ったら、何がしたい?」
ルシルは少し驚いた。
「次の町?」
「うん! ずっと道のこととか、ベルク君のこととか考えてたでしょう? だから、たまには楽しいことも考えようよ!」
モモは嬉しそうに笑った。
ルシルは少し考えたあと、顔を明るくした。
「……そうだなあ。僕は、ハルミナで自分の旅帳面を買いたいかな」
「旅帳面?」
「うん。今はシモンの帳面や地図を借りることが多いけど、僕も自分で見たものや感じたことを書き残したいんだ」
モモは目を輝かせた。
「いいね! じゃあ、私の絵も描いてあげる!」
「ありがとう。でも、できれば僕の顔は普通の大きさにしてね」
モモは少しだけ頬を膨らませた。
「ええっ、昨日の絵、そんなに変だった?」
「変じゃないけど、僕が草の山より大きく描かれてたから……」
ルシルが苦笑すると、モモは楽しそうに笑った。
「だって、頑張った感じを出したかったんだもん!」
シモンは二人のやり取りを聞きながら、静かに口を開いた。
「ルシル様の旅帳面でしたら、ハルミナには良い店があるかもしれませんね」
「本当?」
「ええ。以前、町を訪れた際に文具を扱う店を見かけました。詳しい品揃えまでは確認していませんが」
ルシルは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、行けるようになったら探してみたいな」
モモはすぐに手を上げた。
「私はお菓子屋さん!」
シモンは小さく息を吐いた。
「……予想どおりですね」
「えへへ!」
モモは満面の笑みを浮かべた。
ルシルは二人を見ながら、静かに笑った。
旅を再開するまでには、まだ時間がかかるかもしれない。
それでも、次の町で何をしたいか考えるだけで、少しだけ心が軽くなる。
その気持ちは、きっとモモもシモンも同じなのだろう。
◇
翌日の予定を確認し終えた頃、ルシルは馬車の外へ出た。
夜空には星が広がり、遠くの丘の輪郭が月明かりに照らされている。
野営地の近くでは、ベルクとトルクが落ち着いた様子で休んでいた。
ルシルは二頭を眺めながら、今日送った手紙のことを思い出した。
エリサからどんな返事が来るのか。
馬具職人は、馬車を安全に動かす方法を見つけられるのか。
そして、ベルクはいつになれば痛みなく歩けるようになるのか。
まだ分からないことは多い。
しかし、ルシルは以前ほど不安を感じていなかった。
必要なことを調べ、できることを進め、分からないことは人へ相談する。
その積み重ねが、少しずつ旅を前へ動かしているのだと分かってきたからだった。
(……王子だった頃より、ずっと自分で考えてる気がするな)
ルシルは小さく笑った。
王宮にいた頃、彼の周囲には常に誰かがいた。
予定を決める者。
移動の準備をする者。
必要な情報を集める者。
それらは王子としての生活を支えてくれていたが、同時に、自分で判断する機会を減らしていたのかもしれない。
今は違う。
道が塞がれれば、別の道を探す。
馬が怪我をすれば、無理をさせずに助けを求める。
困っている人がいれば、自分にできることを考える。
その一つ一つが、今のルシルにとって大切な経験になっていた。
「……僕、やっぱり旅に出てよかったな」
小さく呟くと、背後から声が聞こえた。
「ルシル様」
振り返ると、シモンが馬車の扉の前に立っていた。
「そろそろ中へ戻られませんか。明日もやることがありますので」
「うん。今戻るよ」
ルシルは頷いた。
そして、もう一度だけベルクへ目を向けた。
「ベルク、明日もよろしくね」
濃灰色の馬は静かに耳を動かした。
ルシルはその姿を見届け、シモンの待つ馬車へ戻った。
馬車の中では、モモが旅帳面を開いたまま、楽しそうに何かを描いている。
「ルシル君! 見て見て!」
「今度は何を描いたの?」
「次の町で、みんながおいしいものを食べてるところ!」
ルシルが覗き込むと、そこには大きな皿を囲む三人と、なぜか同じくらい大きな皿を前にしたベルクとトルクが描かれていた。
「……モモ。これ、馬たちのご飯も同じお皿なの?」
「うん! みんなでご飯を食べた方が楽しいでしょう?」
シモンは絵を見て、静かに眼鏡を直した。
「モモ嬢。馬たちには、それぞれ適切な飼料を用意しましょう」
「分かってるよ! これは絵だから!」
モモは笑いながら答えた。
ルシルもつられて笑った。
まだ出発の日は決まっていない。
それでも、三人が思い描く旅の続きには、ベルクもトルクも当たり前のように一緒にいる。
そのことが、ルシルには何より嬉しかった。
「……うん。いい絵だね」
ルシルが言うと、モモは満足そうに笑った。
「でしょう! じゃあ、次はもっと大きく描くね!」
シモンは少しだけ困ったように眉を寄せた。
「……これ以上大きくすると、帳面に収まらないと思いますが」
「じゃあ、新しい帳面を買おう!」
モモは即座に答えた。
ルシルは声を上げて笑い、シモンもとうとう小さく笑った。
ハルミナで買うものが、また一つ増えたのだった。




