第159話「帰路の轍に残されたものと、三人が選んだ遠回り」
夜明けの光が草原の向こうから差し込み始めた頃、ルシルは馬車の脇で、まだ眠そうに目を細めているトルクの首筋を撫でていた。昨夜は風が穏やかで、見張りの間にも大きな物音はなく、三人は交代で十分な休息を取ることができた。街道から少し離れた野営地には薄い朝露が残り、乾いた土の上に落ちた水滴が、昇り始めた太陽の光を受けて小さく輝いている。
馬車の前方では、シモンがベルクの脚を慎重に確認していた。濃灰色の毛並みを持つベルクは落ち着いた様子で立っていたが、右後ろ脚については、ここ数日ずっと注意して見守っている。昨日は休息を挟みながら短い距離を進めたものの、それだけで完全に回復したと判断するわけにはいかなかった。
「シモン、今朝はどうかな?」
ルシルが尋ねると、シモンはベルクの脚から手を離し、少し考えてから答えた。
「目立った腫れや傷は、今朝も確認できません。立っている時の様子も落ち着いていますが、歩き始めてからどうなるかは別の問題です。出発前にもう一度、馬具をつけない状態で歩かせてみましょう」
「うん。昨日は少し楽そうだったけど、今日もそうだといいね」
「そうですね。ただ、良く見える時ほど慎重でいたいと思います」
シモンの言葉に、ルシルは静かに頷いた。王宮にいた頃の彼なら、馬がどの程度疲れているかを自分で判断しようとは考えなかっただろう。厩舎の者たちが世話をし、必要な準備を整えてくれることが当たり前だったため、馬車に乗る側が知らなければならないことは、ほとんどないと思っていた。
けれど今は、トルクとベルクがいなければ自分たちの旅は成り立たないことを、以前よりも強く感じている。二頭はただ荷物を運ぶための存在ではなく、同じ道を進み、同じ暑さや寒さを経験している大切な仲間だった。
(僕たちが楽しく旅を続けられるのは、トルクとベルクが頑張ってくれているからなんだよね)
ルシルはトルクの額へそっと手を置き、ゆっくりと撫でた。トルクは気持ちよさそうに目を細めたかと思うと、すぐにルシルの袖へ鼻先を押しつけてくる。その遠慮のない様子に思わず笑ってしまい、ルシルはもう一度首筋を撫でてやった。
「トルクは今日も元気そうだね。でも、ベルクに合わせてゆっくり進もうね」
その声に反応したのか、トルクは耳を動かした。言葉の意味を理解しているかどうかは分からないが、少なくとも今朝のトルクは落ち着いており、食欲もあるようだった。
そこへ、荷台の入口からモモが顔を出した。桃金色の髪を片手で整えながら周囲を見渡し、ルシルたちがすでに起きていることに気づくと、少しだけ頬を膨らませる。
「おはよう、二人とも。また私が最後だった?」
「おはよう、モモ。今日は僕も少し早く目が覚めただけだよ」
「それならいいけど、二人だけで朝のお仕事を全部終わらせちゃ駄目だからね。私だって手伝いたいんだから!」
モモはそう言いながら荷台から降り、冷たい草に靴先が触れると、小さく肩をすくめた。朝の空気は思っていたより冷たかったらしく、白い外套の前を合わせてから、ベルクの方へ歩いてくる。
「ベルク君、おはよう。昨日はよく頑張ったね。今日は少し元気になったかな?」
モモが声をかけると、ベルクはゆっくり顔を向け、差し出された手へ鼻先を寄せた。モモはその温かな感触に表情を和らげたものの、すぐにシモンへ視線を移した。
「シモン君、今日は歩けそう?」
「これから確認します。状態が悪くなっていなければ、昨日と同じように短い距離を進むつもりですが、無理はさせません」
「うん。じゃあ、私たちもちゃんと様子を見ておくね」
モモの返事を聞いて、シモンは穏やかに頷いた。三人がそれぞれ気を配るようになったことは、今回の帰路で生まれた大きな変化の一つだった。
朝食の準備を始める前に、シモンはベルクを平らな場所へ連れていき、短い距離を歩かせた。ルシルは少し離れた位置から右後ろ脚の動きを確認し、モモは反対側でベルクの身体の傾きや歩幅を見守る。昨日と比べて大きな違いは見られなかったが、方向を変える際には、やはり少し慎重な動きになっていた。
「朝の状態としては、昨日と大きく変わらないようですね」
シモンはそう言ってベルクを止め、首筋を撫でながら様子を確認した。
「悪くなっていないのはよかったけど、まだ気になるところがあるね」
「ええ。ですから、今日も短い距離を進むだけにしましょう。途中で少しでも様子が変われば、予定を変更します」
ルシルは頷き、モモも同意した。ハルミナへ戻るまでの距離は気になっていたが、三人の間で急いで進もうという話は出なかった。
朝食は、残っている保存食を中心に簡単なものを用意した。水の使用量を抑えるため、温かい料理は少量にとどめ、食器を増やさないよう工夫する。モモは食材を並べながら、農家でもらった乾燥香草の包みを手に取ったが、今朝は使わずにしまい直した。
「この香草、あと何回くらい使えるかなあ」
モモが呟くと、ルシルは隣から包みを覗き込んだ。
「少しずつ使えば、まだ何回か楽しめそうだね」
「うん。でも、なくなっちゃうのもちょっと寂しいんだよね。あのおばあさんにもらったものだから」
モモはそう言って、包みの口を丁寧に閉じた。
ルシルはその様子を見ながら、農家の女性が井戸の水を分けてくれた時のことを思い出した。あの時は自分たちのことで精いっぱいだったが、今になって考えると、見知らぬ旅人へ水を分けるという行為には、相手の暮らしを気遣う優しさがあったのだと思う。
「ハルミナへ戻ったら、あの人へのお礼も考えたいね」
「うん! でも、何がいいかなあ。おいしいものとか?」
「それもいいかもしれないけど、また会えるかどうかは分からないからね」
ルシルが答えると、モモは少し考えてから頷いた。
「そうだね。じゃあ、もしまた会えた時に、ちゃんとお礼を言えるように覚えておこう」
その言葉に、ルシルは微笑んだ。
朝食を終えた後、三人は荷物を片づけ、馬車の周囲を確認した。シモンは水の容器を固定し、予備の馬具がすぐ取り出せる位置にあることを確かめる。ルシルは車輪の状態を見て回り、モモは荷台の中で荷物が偏っていないか確認した。
準備が整うと、シモンは二頭へ馬具をつけ、革紐の位置を慎重に調整した。ベルクが落ち着いていることを確認してから、三人は馬車に乗らず、歩いて出発することにした。
「それでは、行きましょう。今日は昨日より少し先まで進めるかもしれませんが、距離を目標にはしません」
「うん。みんなの様子を見ながらだね」
「了解! 私も後ろからちゃんと見てるよ!」
モモが元気よく答えると、シモンは小さく笑った。
街道へ戻ると、朝の光が乾いた土を照らし、古い車輪の跡が細い影を作っていた。道の両側には背の低い草が広がり、その向こうには緩やかな丘が続いている。遠くには木々の集まった場所が見えたが、町や村の姿はまだ見当たらなかった。
三人はゆっくりと歩き始めた。トルクは落ち着いた足取りで進み、ベルクも隣に並んで歩いている。シモンは手綱を持ちながら二頭の様子を確認し、ルシルは右側からベルクの足取りを見守った。
モモは馬車の後ろを歩きながら、道端の草花へ目を向けていた。昨日見つけた白い花とは違い、今日は黄色い小さな花が点々と咲いている。花びらは細く、風が吹くたびに揺れていた。
「ねえ、ルシル君。今日は黄色いお花がいっぱい咲いてるよ!」
モモが声をかけると、ルシルは振り返って笑った。
「本当だね。昨日の白い花とは違う種類かな?」
「たぶんね。あとで旅帳面に描いておこうっと!」
モモは嬉しそうに答えたが、すぐに馬車の車輪へ視線を戻した。今は絵を描くことより、ベルクと馬車の様子を見守る方が大切だと分かっている。
しばらく進むと、街道の先に少し変わった地面が見えてきた。道の中央には固く乾いた土が続いていたが、右側には深い車輪の跡が残り、その周囲だけ土の色が濃くなっている。
ルシルは足を止めずに目を凝らし、シモンへ声をかけた。
「シモン、あそこ、車輪の跡が深くなってるね」
「ええ。昨日出会った方が話していた、柔らかい土の場所かもしれません。近づく前に確認しましょう」
シモンは馬車を止め、二頭が落ち着いていることを確かめてから、ルシルへ地面の様子を見るよう頼んだ。モモは後方からほかの旅人が近づいてこないか確認し、シモンは馬車の位置を固定する。
ルシルが問題の場所へ近づくと、深い轍の周囲には細かなひび割れがあり、乾いているように見える表面の下には、少し柔らかい土が残っていた。靴先で軽く押すと、固い部分とは違う感触が伝わってくる。
「表面は乾いてるけど、下は少し柔らかいみたい」
「そうですか。では、車輪を寄せすぎない方がよいでしょう」
シモンは道幅を確認し、中央寄りの固い場所を通れるか考えた。街道は馬車が一台通るには十分な広さがあったが、二頭を並べて進ませることを考えると、余裕があるわけではない。
ルシルは少し先まで歩き、地面の状態を確かめながら戻ってきた。
「少し先まで、右側の土が柔らかそうだよ。でも、中央は固いみたい」
「ありがとうございます。では、慎重に中央を通りましょう。モモ嬢は後方から車輪の動きを見ていてください」
「うん、任せて!」
三人は役割を確認し、ゆっくりと馬車を進めた。シモンが手綱を調整し、ルシルは右側の車輪が柔らかい土へ寄らないか見守る。モモは後方から荷台の揺れを確認し、必要があればすぐ声をかけられる位置を歩いた。
馬車は大きく揺れることなく進んでいたが、途中で右側の車輪が小さな石に乗り上げ、わずかに傾いた。シモンはすぐに速度を落とし、二頭を落ち着かせてから、車輪が固い地面へ戻るのを待った。
「大丈夫そう?」
ルシルが尋ねると、シモンは頷いた。
「ええ。ただ、こういう場所では急いで動かす方が危険です。少しずつ進みましょう」
モモも後ろから声をかけた。
「車輪はちゃんと戻ったよ! 荷物も大きく動いてない!」
「ありがとうございます、モモ嬢」
そのまま慎重に進むと、やがて柔らかい土の場所を抜けることができた。三人は少し先の平らな場所で馬車を止め、車輪と馬具を確認した。
ベルクは落ち着いて立っていたが、シモンは念のため脚の状態を確かめた。大きな変化は見られなかったものの、短い距離でも負担がかかる可能性があるため、そこで少し休ませることにした。
「こういう場所って、見た目だけじゃ分からないんだね」
ルシルが呟くと、シモンは地面へ目を向けながら答えた。
「そうですね。乾いているように見えても、下の土が柔らかいことはあります。特に古い轍が深く残っている場所では、慎重に判断する必要があります」
「昨日のおじいさんが教えてくれなかったら、気づかなかったかもしれないね」
「ええ。旅人から得られる情報は、こういう時に役立ちますね」
ルシルは頷いた。
昨日出会った老人は、小さな金具を探していただけだった。けれど、三人が手伝ったことで会話が生まれ、その中で街道の状態について教えてもらうことができた。
誰かを助けたことが、結果として自分たちの助けにもなっている。そのことが、ルシルには少し不思議で、同時に嬉しく感じられた。
休憩を終えた三人は、再び街道を進み始めた。道の状態は先ほどより安定しており、二頭の足取りも落ち着いている。
しばらく歩くと、街道の左側に低い石垣の跡が見えてきた。石はところどころ崩れ、草に半分ほど埋もれている。何かの境界だったのか、それとも昔の道を支えるためのものだったのか、今の状態では判断できなかった。
「シモン、あの石垣って、何かの跡かな?」
ルシルが尋ねると、シモンは視線を向けた。
「そうかもしれません。ただ、今の情報だけでは分かりませんね。古い畑の境界だった可能性もありますし、街道の整備に使われていたものかもしれません」
「そっか。前に見た古い石槽とも、関係があるのかな」
「可能性はありますが、確かなことは言えません。場所も離れていますから、同じ目的で作られたとは限らないでしょう」
ルシルは頷き、石垣の形を目に焼きつけた。
モモも興味を持ったらしく、後ろから声をかけてきた。
「ルシル君、あれも旅日記に書く?」
「うん。買ったら書いておきたいな。何だったのか分からないけど、気になったものとして」
「いいね! 私も絵に描いておこうかな」
モモは嬉しそうに答えた。
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかな表情を浮かべた。以前なら、旅の途中で見つけた古い石垣に興味を示すことはあっても、すぐに先へ進むことを優先していただろう。
しかし今は、ルシルとモモが何気ない景色を楽しんでいる様子を見ていると、そうした時間も大切なのだと思えるようになっていた。
昼が近づく頃、街道の先に小さな木立が見えてきた。木々の間には平らな草地があり、馬車を止めるには悪くなさそうだった。
シモンは周囲を確認し、そこで昼の休憩を取ることにした。
「今日はここまで、ベルクも大きく歩調を崩さずに来られました。ただ、午前中に柔らかい土の場所を通りましたから、少し長めに休ませましょう」
「うん。そうしよう」
ルシルは頷き、ベルクの首筋を撫でた。
モモは荷台から水の容器を取り出し、二頭に与える準備を始めた。シモンが呼吸と状態を確認してから水を分けると、トルクはすぐに鼻先を近づけ、ベルクも少し遅れて飲み始めた。
水を飲む二頭の姿を見ながら、ルシルは静かに息を吐いた。
「今日もちゃんと歩けたね」
モモが隣で頷いた。
「うん。でも、まだ無理はさせない方がいいよね」
「そうだね。ハルミナまで、焦らず帰ろう」
シモンも穏やかに頷いた。
「ええ。今日はここで十分に休んでから、午後の行動を決めましょう」
昼食は保存食を中心に簡単に済ませることにした。三人は木陰に腰を下ろし、乾いた風を感じながらゆっくりと食事をした。
モモは食べ終えると旅帳面を取り出し、午前中に見つけた深い轍と古い石垣の絵を描き始めた。彼女は地面の色の違いを表現しようと何度か筆を動かしたが、思うように描けず、少しだけ首を傾げている。
「うーん、柔らかい土って、どう描けば分かりやすいかなあ」
ルシルは隣から絵を覗き込み、少し考えてから答えた。
「車輪の跡が深くなってたところを、もう少し濃く描いたらどうかな?」
「なるほど! それなら分かりやすいかも!」
モモは嬉しそうに筆を動かし、轍の部分を描き直した。
ルシルはその様子を見ながら、旅の記録には楽しいことだけでなく、困ったことや気をつけなければならないことも残しておくべきなのだと感じていた。
シモンは少し離れた場所で地図と帳面を広げ、今日進んだ距離と道の状態を書き留めていた。柔らかい土の場所、古い石垣、ベルクの歩き方、休憩した地点など、今後同じ道を通る時に役立ちそうな情報を整理している。
その様子を見たルシルは、シモンの隣へ移動した。
「シモン、僕も何か手伝える?」
シモンは顔を上げ、少し考えてから答えた。
「では、今日通った道の状態を、ルシル様の言葉で教えていただけますか。私が見ていたものと違うところがあるかもしれません」
「うん。えっと、最初は固い道だったけど、途中で右側に深い轍があったよね。表面は乾いてたけど、下の土は少し柔らかかった」
「ええ。そのとおりです」
「それから、中央寄りを通ったら車輪が少し石に乗ったけど、大きく傾くことはなかった。あとは、左側に古い石垣があったね」
ルシルが順番に話すと、シモンは頷きながら帳面へ書き加えた。
「ありがとうございます。こうして整理すると、道の状態が分かりやすくなりますね」
「僕も、ちゃんと覚えておこうと思う。次に同じ道を通る時、役に立つかもしれないから」
ルシルが答えると、シモンは穏やかに微笑んだ。
「ええ。旅の経験を記録することは、次の旅を安全にすることにもつながります」
その言葉を聞き、ルシルは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
旅に出たばかりの頃は、知らない場所へ行くことが楽しみだった。今もその気持ちは変わらないが、同じくらい、そこで何を学び、次にどう生かすかを考えることが大切になってきている。
午後になっても、ベルクの足取りは大きく悪化していなかった。しかし、シモンは午前中に柔らかい土の場所を通ったことを考え、今日はこれ以上長く進まない方がよいと判断した。
「午後は短い距離だけ進んで、早めに野営地を探しましょう。今日は無理をしないことが大切です」
「うん。僕もそれがいいと思う」
「賛成! 夕方はゆっくりご飯を作りたいし!」
モモが笑うと、ルシルも自然と笑顔になった。
三人は荷物を片づけ、馬車の準備を整えてから再び出発した。午後の街道には柔らかな日差しが差し込み、草原を渡る風も穏やかだった。
しばらく進むと、道の先に低い木々が集まった場所が見えてきた。街道から少し離れており、地面も比較的平らに見える。
シモンは周囲を確認し、馬車を止められる場所を探した。木々の近くには柔らかい土が残っているところもあったが、少し離れた草地は固く、車輪を置いても沈みにくそうだった。
「今日はここで野営しましょう。馬たちも十分に休ませられそうです」
「うん。お疲れさま、トルク、ベルク」
ルシルは二頭の首筋を撫で、ゆっくりと声をかけた。
ベルクは静かに鼻を鳴らし、トルクも隣で耳を動かしている。
モモは荷台から荷物を降ろしながら、大きく伸びをした。
「ふう、今日もいっぱい歩いたね! でも、なんだか昨日より慣れてきた気がする!」
「僕もそう思う。歩きながら周りを見る余裕が出てきたかもしれないね」
ルシルが答えると、シモンも穏やかに頷いた。
「ええ。ただし、慣れた時ほど注意が必要です。足元や馬たちの様子を確認することは、これからも続けていきましょう」
「うん。分かった」
ルシルは頷いた。
夕暮れが近づくと、草原は淡い橙色に染まり始めた。三人は馬車を安全な場所へ止め、車輪を固定してから野営の準備を進めた。
モモは夕食用の食材を取り出し、ルシルは水の残量を確認した。シモンは馬たちの状態をもう一度調べ、ベルクの脚に大きな変化がないことを確かめる。
夕食は、残っている保存肉と乾燥野菜を使った簡単な料理になった。モモは農家でもらった香草をほんの少し加え、温かな匂いが広がると嬉しそうに目を細めた。
「やっぱり、この香草いいね。ハルミナに戻ったら、似たものを探してみたいなあ」
「うん。僕も楽しみだよ」
ルシルが答えると、シモンも小さく頷いた。
「町へ戻ったら、まず馬たちの状態を確認してもらい、その後で必要な補給を整えましょう。それが済めば、ゆっくり店を見て回る時間も取れると思います」
「やった! じゃあ、エルナさんのパンも買いに行こうね!」
モモは嬉しそうに笑った。
ルシルも笑いながら頷いた。
「もちろん。僕も、あのパンが食べたいな」
三人は温かな食事を囲みながら、ハルミナへ戻った後の楽しみを話し合った。馬のことや水のことなど、考えなければならない問題はまだ残っている。それでも、帰った後に楽しみにできることがあるだけで、旅の疲れは少し軽くなるように感じられた。
食事を終えた後、モモは旅帳面を開き、今日見つけた深い轍と古い石垣のことを書き加えた。ルシルはその横で、星が見え始めた空を眺めている。
「ねえ、モモ」
「なあに、ルシル君?」
「今日、道の状態をちゃんと見られてよかったね」
ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん。あのおじいさんが教えてくれたことも役に立ったし、私たちも少しずつ旅に慣れてきたのかもね」
「そうだね。でも、まだ知らないこともいっぱいあるんだろうな」
「それなら、これから覚えていけばいいんだよ!」
モモはそう答え、旅帳面を閉じた。
ルシルは彼女の言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
知らないことがあるのは、恥ずかしいことではない。
大切なのは、知らないままにせず、少しずつ学んでいくことなのだろう。
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかな表情を浮かべていた。
「旅の中で学ぶことは、まだまだ多いでしょう。ですが、三人で考えれば、気づけることも増えていくと思います」
ルシルは頷いた。
「うん。僕も、そう思う」
夜が深まり、草原に静かな風が吹き始めると、三人は交代で見張りをする準備を整えた。トルクとベルクは馬車の近くで落ち着いており、周囲にも大きな異変は見られない。
ルシルは星空を見上げ、静かに息を吐いた。
(明日も、みんなで無事に進めますように。そして、ベルクが少しずつ元気になりますように)
その願いを胸に、彼は仲間たちのいる野営地へ視線を戻した。
ハルミナまでは、まだ道のりが残っている。
けれど、今日も三人と二頭で無事に進むことができた。
それだけで、今は十分だった。
乾いた街道の夜は静かに更けていき、三人と二頭の馬は、次の朝へ向けてゆっくりと休息の時間を迎えた。




