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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第158話「朝の足音が教えてくれたことと、帰り道で見つけた小さな選択」


 夜の間に草原を渡っていた風は、夜明けが近づくにつれて穏やかになっていた。街道から少し離れた木立のそばでは、濃い茶色の馬車が朝露をまとい、荷台の脇に結ばれた青い風魚の布が、時折吹く弱い風に揺れている。遠くの丘はまだ薄い霧に包まれていたが、東の空には淡い金色が広がり始め、昨夜まで黒く見えていた木々の輪郭が少しずつ浮かび上がっていた。


 ルシルが目を覚ました時、荷台の外から聞こえてきたのは、馬が草を噛む小さな音だった。身体を起こすと、昨日ほとんど移動しなかったおかげか、前の朝に感じた足の重さはかなり薄れている。ただ、ゆっくり休んだからといって、二頭の馬も同じように回復しているとは限らなかった。


(ベルクも、少しは楽になっているといいんだけど)


 そんなことを考えながら荷台の入口へ手を伸ばすと、外からシモンの声が聞こえてきた。


「ルシル様、お目覚めですか。足元に朝露が残っていますので、降りる際はお気をつけください」


「おはよう、シモン。もう馬たちを見てくれてたんだね」


「ええ。夜の間は二頭とも落ち着いていました。今朝は歩き方も確認したいので、少し時間をかけるつもりです」


 ルシルは御者台の脇を通って地面へ降り、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。草の先についた露が靴に触れ、歩くたびに小さな水滴が落ちていく。馬車の前ではトルクがいつものように耳を動かしており、その隣にいるベルクも、ルシルの姿を見つけるとゆっくり顔を上げた。


「おはよう、トルク。ベルクも、よく眠れた?」


 トルクは返事をするように鼻を鳴らし、ルシルの袖へ鼻先を寄せてきた。ベルクはすぐには動かなかったものの、ルシルが近づくと首を伸ばし、差し出された手へ温かな鼻先を触れさせる。


 その様子に少し安心したルシルだったが、すぐにベルクの右後ろ脚へ視線を落とした。昨日まで何度か歩幅が短くなる様子を見ていたため、ただ元気そうに顔を上げているだけでは判断できないことを、彼も理解し始めていた。


「シモン、今日は歩けそうかな?」


「まだ決めていません。立っている時の様子だけでなく、実際に数歩動いてもらって確認しましょう。ただし、馬車を引かせる前に、何もつけていない状態で見ておきたいと思います」


 シモンはそう説明すると、ベルクの首筋を撫でながら、周囲の地面を確かめた。野営地の中でも比較的平らで石の少ない場所を選び、ルシルには少し離れた位置から歩き方を見るよう頼む。


 ルシルが頷いて場所を移ると、シモンはベルクをゆっくりと歩かせ始めた。最初の数歩は慎重だったが、昨日の朝ほど明らかに足を運ぶのをためらっているようには見えない。とはいえ、方向を変えた時には右後ろ脚の運びが少し遅れたため、シモンは無理に歩かせず、そこで確認を終えた。


「昨日より少し良さそうに見えたけど……どう?」


 ルシルが尋ねると、シモンはベルクの脚へもう一度目を向けた。


「私も改善しているようには感じます。ただ、完全に普段どおりとは言えません。今日も馬車を引かせるなら、負担をできるだけ減らし、短い距離で様子を確認する必要があります」


「じゃあ、今日は少しだけ進んで、悪くなりそうならすぐ止まる?」


「それがよいでしょう。途中で休める場所がなければ、予定より早く野営することも考えます」


 ルシルはベルクの首筋を撫でながら頷いた。昨日は一日休むと決めた時、どこかでハルミナへの帰りが遅れることを気にしていた。しかし今朝は、ベルクが少しでも楽そうに歩いていることの方が嬉しかった。


 その時、荷台の中から布の擦れる音が聞こえ、モモが眠そうな顔を覗かせた。桃金色の髪を片手で押さえながら外を見渡し、ルシルとシモンがベルクのそばにいることに気づくと、すぐに表情を引き締める。


「おはよう、二人とも。ベルク君の様子、どうだった?」


「おはよう、モモ。昨日より少し歩きやすそうだったよ。でも、まだ完全には戻ってないみたい」


「そっか……。それなら今日もゆっくりだね」


 モモは荷台から降りると、ベルクの顔を見上げて微笑んだ。


「ベルク君、お休みした分だけ元気になってたら嬉しいな。でも、頑張りすぎちゃ駄目だからね」


 ベルクは小さく鼻を鳴らし、モモの手に鼻先を寄せた。モモはその反応が嬉しかったらしく、そっと額を撫でながら何度も頷いている。


 シモンは二人の様子を見守ってから、朝の準備について説明した。


「まずは食事と水の確認を済ませましょう。その後、馬具をつけて短い距離だけ歩いてみます。問題がなければ午前中に少し進み、途中で長めの休憩を取る予定です」


「了解! じゃあ、私は朝ご飯の準備をするね」


「僕も手伝うよ。モモ、何を作る?」


「今日はね、保存食を少し温めて、残ってる乾燥野菜を使おうかなって思ってるの。お水はなるべく使わないようにしたいから、煮込むより蒸す感じにできないかな?」


 モモは荷台から食料の包みを取り出し、残りの量を確かめながら答えた。農家でもらった乾燥香草は、昨日の料理に少し使っただけなので、まだ包みの中に残っている。彼女はそれを見つめて少し考えたが、今朝は使わずに取っておくことにした。


「香草はまた別の時に使おうかな。ハルミナに戻るまで、ちょっとずつ楽しみたいし」


「いいね。あの人にもらったものだから、大切に使いたいよね」


 ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。


 朝食の準備を進める間、シモンは水の容器を並べ、残量を確認していた。農家の井戸で補給した水は、これまで慎重に使ってきたおかげでまだ残っているが、次に確実な補給ができる場所は分かっていない。彼は三人の飲み水と馬たちに必要な分を優先し、調理に使える量をモモへ伝えた。


「このくらいなら問題ありません。ただし、今日は気温が上がりそうですから、移動中の水分も考えておきましょう」


「うん。ありがとう、シモン君。じゃあ、朝ご飯は簡単にして、お昼は火を使わなくても食べられるものにしようかな」


「それがよいと思います」


 ルシルは二人のやり取りを聞きながら、火を起こす場所の周囲を整えた。乾いた草が近くにないことを確認し、小さな石を並べてから、必要な道具を取り出す。


 旅を始めた頃は、こうした作業の一つ一つをシモンに教えてもらっていた。今でも知らないことは多いが、何を確認しなければならないかは、少しずつ自分でも考えられるようになっている。


(旅って、知らない場所を見ることだけじゃないんだな。こうして毎日を無事に過ごすために考えることも、全部旅の一部なんだ)


 ルシルは小さく息を吐き、モモから受け取った鍋を火の上へ置いた。


 朝食ができあがる頃には、空の青さが増し、草原の露も少しずつ消え始めていた。温かな食事を三人で分け合いながら、今日の移動について改めて相談する。


「今日は坂が少ない道だといいね」


 モモがそう言うと、シモンは地図を広げて頷いた。


「この先はしばらく緩やかな起伏が続くはずです。ただ、実際の路面がどうなっているかは分かりません。石が多い場所や、車輪が沈みやすい場所では注意が必要でしょう」


「昨日見た古い杭みたいなもの、またあるかな?」


 ルシルが尋ねると、シモンは少し考えてから答えた。


「あるかもしれませんね。あれが道標だったのか、街道の管理に使われていたものなのかは分かりませんが、古い道には過去の利用者が残したものがある場合もあります」


「じゃあ、また見つけたら旅帳面に描いておこうっと!」


 モモは嬉しそうに言い、荷台にしまってある帳面へ目を向けた。昨日は休息の時間が長かったため、薄紫色の花や古い杭の絵を丁寧に描くことができたらしい。


 ルシルはその様子を見て微笑んだ。


「僕も、ハルミナへ戻ったら日記を買わないとね」


「うん! ルシル君がどんなことを書くのか、ちょっと楽しみだなあ」


「まだ何を書くか決めてないよ。たぶん、その日にあったこととか、思ったことを書くんじゃないかな」


「それでいいと思うよ。私だって、最初から何を描くか決めてるわけじゃないもん」


 モモはそう言って笑った。彼女の言葉には特別な意味を込めた様子はなかったが、ルシルには不思議と心強く感じられた。


 朝食を終えた三人は、使った道具を片づけ、馬車の周囲を確認した。シモンは馬具を取りつける前にベルクの肩や背中をもう一度調べ、革紐の当たり方に問題がないか慎重に確かめる。


 トルクはいつもどおり落ち着いていたが、ベルクは馬具をつける際に少しだけ首を動かした。シモンはその反応を見逃さず、いったん手を止めて位置を調整した。


「シモン、どこか痛かったのかな?」


「分かりません。ただ、嫌がるような反応があった時は、そのまま進めない方がよいでしょう。少し位置を変えて、もう一度確認します」


 ルシルは頷き、ベルクが落ち着いていられるよう首筋を撫でた。モモも近くで様子を見守っていたが、必要以上に声をかけず、シモンの作業を邪魔しないようにしている。


 しばらくして馬具の確認が終わると、シモンは二頭を並べ、まずは馬車を動かさずに立たせた。ベルクが不自然に体重を移していないことを確かめてから、ゆっくりと歩き始める。


 最初の数歩は慎重だったが、ベルクは大きく歩調を崩すことなく進んだ。シモンはすぐに距離を延ばさず、平坦な場所を短く歩かせてから一度止め、呼吸と脚の様子を確認した。


「今のところ、昨日よりは安定しているようです。ただし、これで安心しきってはいけません」


「うん。少し進んで、また確認しよう」


 ルシルが答えると、モモも頷いた。


「私たちも歩くんだよね?」


「ええ。今日はできるだけ馬車を軽くして進みましょう。ただし、皆さんも疲れたら遠慮なく言ってください」


 シモンの言葉に、モモは少し笑った。


「シモン君もね。昨日も言ったけど、シモン君だけ頑張りすぎるのは禁止だから!」


「承知しています。私も無理はしませんよ」


 そう答えるシモンの表情が少し柔らかくなったのを見て、ルシルは安心した。


 三人は馬車の周囲をもう一度確認し、野営地に忘れ物がないことを確かめてから出発した。街道へ戻ると、朝の光が乾いた土を照らし、車輪の跡が細い影を落としている。


 トルクとベルクは並んでゆっくりと歩き始め、馬車の車輪が静かに回り出した。ルシルは右側を歩きながらベルクの足取りを見守り、モモは少し後ろから荷台と車輪の様子を確かめている。


 昨日一日休んだため、ルシルの足は前より軽く感じられた。けれど、歩きやすいからといって速度を上げることはせず、ベルクの歩調に合わせてゆっくり進む。


「なんだか、こうして歩くのにも慣れてきたね」


 ルシルが言うと、モモは後ろから笑いながら答えた。


「うん! 最初は馬車に乗ってる方が楽だと思ってたけど、歩いてるといろんなものが見えるんだよね」


「昨日の花みたいに?」


「そうそう! それに、トルク君とベルク君の顔も近くで見られるし!」


 モモは嬉しそうに言い、ベルクへ目を向けた。


「でも、元気になったらまた馬車にも乗りたいなあ。荷台で揺られながら景色を見るのも好きなんだもん」


「それは僕も同じだよ」


 ルシルが笑うと、シモンも穏やかに頷いた。


「馬車に乗ることも、歩くことも、それぞれに良さがありますね。今は馬たちの状態に合わせて選ぶことが大切でしょう」


 その言葉を聞き、ルシルは改めてベルクの足取りへ意識を向けた。


 街道は緩やかな下り坂へ続いていたが、地面は比較的固く、大きな石も少なかった。ベルクは慎重に歩いているものの、昨日までのように何度も歩幅を小さくする様子は見られない。


 ただ、下り坂の途中で右後ろ脚を少しゆっくり出す場面があり、シモンはすぐに速度を落とした。


「ここは慎重に進みましょう。下り坂では馬車の重さが前へかかりますから、二頭に余計な負担をかけないようにします」


「うん。僕たちも足元に気をつけるよ」


 ルシルは頷き、道の状態を確かめながら歩いた。


 坂を下りきると、街道の脇に低い木々が集まった場所が見えてきた。木陰はそれほど広くなかったが、地面は平らで、馬車を止めるには悪くなさそうだった。


 シモンは周囲を確認し、そこで一度休憩を取ることにした。


「まだそれほど進んでいませんが、ここで少し休ませましょう。ベルクの様子も確認したいと思います」


「うん。そうしよう」


 ルシルは頷き、馬車が完全に止まったことを確かめてからベルクのそばへ回った。


 ベルクは首を少し下げ、静かに呼吸を整えていた。トルクも隣で落ち着いており、二頭とも大きく疲れた様子は見せていない。


 シモンはベルクの脚を確認し、朝と比べて変化がないか慎重に調べた。


「今のところ、明らかに悪くなった様子はありませんね。ただ、長く歩かせた後にどうなるかは分かりませんから、今日も短い距離で判断していきましょう」


「うん。焦らないようにするよ」


 ルシルが答えると、シモンは小さく頷いた。


 モモは水の容器を取り出し、二頭に与える準備を始めた。シモンが呼吸の状態を確認してから水を分けると、トルクはすぐに鼻先を近づけ、ベルクも少し遅れて飲み始めた。


 水が器の中で揺れる音を聞きながら、ルシルは農家の井戸で水を汲んだ時のことを思い出した。


 あの時は、ようやく水を手に入れられたことが嬉しかった。けれど今は、その水をどう使い、どれだけ残すかまで考えなければならない。


「シモン、残りの水って、あとどのくらいある?」


「今の使い方を続ければ、すぐに尽きる量ではありません。ただし、次の補給場所が分からない以上、余裕があるとは言えませんね」


「そっか。じゃあ、今日も無理に進まない方がいいね」


「ええ。馬たちの状態と水の残量、その両方を考えて判断しましょう」


 ルシルは頷いた。


 少し前までなら、ハルミナへ早く戻ることが一番の目標になっていたかもしれない。しかし、今はそこへたどり着くまでの過程を大切にしたいと思っている。


 無理をして進んだ結果、ベルクが動けなくなってしまったら、何のために旅を続けているのか分からなくなる。


 ルシルはベルクの首筋を撫でながら、静かに息を吐いた。


(早く戻りたい気持ちはある。でも、今はみんなで無事に帰ることの方が大事なんだ)


 その思いは、以前よりもはっきりしたものになっていた。


 休憩を終えた三人は、再び街道を進み始めた。木陰を抜けると、前方には緩やかな草原が広がり、その奥に小さな岩場が見えている。


 道の両側には低い草が生え、ところどころに白い花が咲いていた。モモは歩きながらその花を眺め、昨日描いたものとは形が違うことに気づいたらしい。


「ねえ、ルシル君。昨日の花は薄紫だったけど、こっちは白いね。花びらの形もちょっと違うみたい」


「本当だ。昨日のより小さいかな?」


「うん。あとで旅帳面に描いておこうっと!」


 モモは嬉しそうに笑った。


 ルシルも花へ目を向けたが、すぐにベルクの足取りを確認した。ベルクはゆっくりと歩いており、今のところ大きな変化は見られない。


 その時、前方の岩場の近くに、小さな人影が見えた。


 最初は旅人が休んでいるのかと思ったが、近づくにつれて、道端に荷物を置いて何かを探している様子が分かってきた。背の低い老人らしい人物が、草の間へ何度も目を向けている。


「シモン、あそこに誰かいるよ」


 ルシルが声をかけると、シモンも前方へ視線を向けた。


「ええ。何か探しているようですね。近づく際は、馬たちを驚かせないようにしましょう」


「うん」


 三人は速度を落とし、老人の少し手前で馬車を止めた。


 老人は灰色の帽子をかぶり、茶色い上着を着ていた。足元には小さな布袋が置かれており、片手には細い木の杖を持っている。


 ルシルが声をかけると、老人は少し驚いたように顔を上げた。


「こんにちは。何かお困りですか?」


「ああ、旅の人か。いや、たいしたことじゃないんだがね。袋の口が緩んでいたらしくて、道具を一つ落としてしまったようなんだ」


 老人は困ったように笑い、足元の草へ目を向けた。


「小さな金具なんだが、これがないと荷物をまとめるのに不便でね。さっきから探しているんだが、なかなか見つからなくて」


 ルシルは老人の足元を見た。草はそれほど高くないものの、乾いた葉や小石が混じっており、小さな金具を探すのは簡単ではなさそうだった。


「僕たちも探しましょうか?」


 ルシルがそう言うと、老人は少し驚いた表情を浮かべた。


「いいのかい? 旅の途中なんだろう?」


「はい。でも、僕たちも今は急いでいないので」


 ルシルが答えると、モモも嬉しそうに頷いた。


「私も手伝います! 小さいものを探すの、ちょっと得意かもしれません!」


 シモンは二人の様子を見てから、馬車の位置を確認した。


「では、私は馬たちを見ています。ルシル様とモモ嬢は、街道から離れすぎないようにしてください。草の中には石や穴があるかもしれませんから」


「分かった」


「はーい!」


 ルシルとモモは老人から金具の形を聞き、草の間を探し始めた。落としたのは指先ほどの大きさの金属製の留め具で、片側が少し曲がった形をしているらしい。


 ルシルは地面へしゃがみ込み、乾いた葉をそっと持ち上げながら探した。モモは少し離れた場所で草をかき分けていたが、すぐに小さな石を見つけて首を傾げている。


「これかな……違うかあ」


 モモは石を元の場所へ戻し、別の場所を探し始めた。


 老人も杖を使いながら草を分けていたが、足元が不安定なため、ルシルは無理をしないよう声をかけた。


「僕たちが探しますから、少し休んでいてください」


「すまないねえ。こんなことで足を止めさせてしまって」


「大丈夫ですよ。僕たちも、少し前に親切な人に助けてもらったばかりなんです」


 ルシルが答えると、老人は穏やかに笑った。


「そうかい。旅をしていると、いろんな人に助けられるものだね」


 その言葉に、ルシルは頷いた。


 農家で水を分けてもらった時、自分たちは本当に助かった。あの女性がいなければ、今こうして街道を歩くことも難しかったかもしれない。


 だからこそ、目の前で困っている人を見過ごしたくなかった。


 しばらく探していると、モモが小さな声を上げた。


「あっ、ルシル君! これ、違うかな?」


 ルシルが顔を上げると、モモは草の根元から小さな金具を拾い上げていた。銀色に近い色をしており、片側が少し曲がっている。


「それかもしれないね!」


 二人は老人のところへ戻り、金具を見せた。


 老人は受け取ると、目を細めて形を確かめた。


「ああ、これだよ。よかった、見つかった。ありがとう、本当に助かったよ」


 老人は何度も頭を下げた。


 モモは嬉しそうに笑い、両手を軽く振った。


「見つかってよかったです! 小さいから、なかなか見つからないですよね」


「そうなんだよ。年を取ると、こういう細かいものが見えにくくなってね」


 老人は苦笑しながら金具を布袋へしまい、今度は口をしっかり閉じた。


 ルシルはその様子を見て、ほっと息をついた。


「これで大丈夫そうですね」


「ああ。おかげで安心して帰れるよ」


 老人はそう答えると、馬車の方へ目を向けた。


「ところで、あんたたちはハルミナへ向かっているのかい?」


「はい。今は帰り道なんです」


「そうか。あの町なら、ここからまだ少し距離があるね」


 老人は街道の先を眺めながら言った。


「この先は、しばらく大きな坂はないはずだよ。ただ、道の端に柔らかい土が残っているところがあるから、車輪を寄せすぎない方がいい」


 ルシルはその言葉を聞き、シモンへ目を向けた。


 シモンも話を聞いていたらしく、老人へ丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます。馬たちに負担をかけないよう、慎重に進むつもりです」


「そうかい。なら、無理はしないことだね。馬も人も、疲れた時は休まないといけないから」


 老人は穏やかに笑った。


 その言葉に、ルシルは自然と頷いた。


「はい。僕たちも、そう思っています」


 老人はもう一度礼を言うと、杖をつきながら街道の反対方向へ歩き始めた。三人はその背中を見送り、姿が少し離れてから馬車のそばへ戻った。


 モモは嬉しそうにルシルへ顔を向けた。


「見つかってよかったね!」


「うん。小さな金具だったけど、あの人には大事なものだったんだね」


「そうだね。私たちも、道具をなくしたら困るもんね」


 モモは頷き、荷台の方へ目を向けた。


 シモンは馬車の固定を確認しながら、穏やかな声で言った。


「困っている方の役に立てたのはよかったですね。ただ、今後も周囲の安全を確認してから手伝うようにしましょう」


「うん。分かった」


 ルシルは頷いた。


 誰かを助けたいと思う気持ちは大切だが、自分たちが危険な目に遭ってしまっては意味がない。そうしたことも、旅の中で少しずつ学んでいく必要があるのだろう。


 三人は再び出発し、街道をゆっくりと進み始めた。


 老人が教えてくれたとおり、道の端には柔らかい土が残っている場所があり、車輪を寄せすぎると沈みそうなところもあった。シモンは慎重に進路を選び、必要に応じてルシルとモモへ声をかけた。


「ルシル様、右側の地面を確認していただけますか。車輪が通る位置に大きな石がないか見てください」


「うん。少し先に石があるけど、中央寄りなら大丈夫そうだよ」


「ありがとうございます。では、そちらを通りましょう」


 モモも後方から車輪の動きを見守り、荷台が大きく揺れないか確認していた。


 こうして三人で役割を分けて進むことにも、少しずつ慣れてきた。


 昼が近づく頃、街道の脇に小さな木陰が見えてきた。地面は比較的固く、周囲に大きな障害物もなかったため、シモンはそこで昼の休憩を取ることにした。


「今日はここまで順調に進めていますが、ベルクの様子を考えると、午後も無理はしない方がよいでしょう」


「うん。僕もそう思う」


 ルシルは頷き、ベルクのそばへ回った。


 ベルクは静かに立っており、呼吸も大きく乱れていない。シモンが脚を確認したところ、朝より明らかに悪化した様子は見られなかった。


「少しずつ回復しているのかもしれませんね。ただ、まだ慎重に見守る必要があります」


「うん。でも、今日は昨日より歩きやすそうだったね」


 ルシルが言うと、モモも嬉しそうに頷いた。


「そうだね! ベルク君、よく頑張ったね!」


 モモはベルクの額を撫で、優しく声をかけた。


 昼食は火を使わず、保存食を中心に簡単に済ませることにした。三人は木陰に腰を下ろし、乾いた風を感じながらゆっくりと食事をした。


 モモは食べ終えると、旅帳面を取り出し、午前中に出会った老人と小さな金具のことを書き留め始めた。


「今日は絵より、ちょっと文章を多く書こうかな」


 モモがそう言うと、ルシルは隣から覗き込んだ。


「珍しいね。いつもは絵が多いのに」


「うん。でも、あのおじいさんが言ってたこと、忘れたくないなって思ったんだ」


「馬も人も、疲れた時は休まないといけないってこと?」


「そうそう! なんだか、今の私たちにぴったりの言葉だったでしょう?」


 ルシルは頷いた。


「うん。本当にそうだね」


 モモは嬉しそうに笑い、旅帳面へ丁寧に文字を書き込んだ。


 ルシルはその様子を見ながら、自分も早く日記を持ちたいと思った。旅の途中で出会った人の言葉や、何気ない出来事を残しておけば、後から読み返した時にきっと大切な思い出になるだろう。


 シモンは少し離れた場所で地図を広げ、今日進んだ距離を確認していた。予定より短い距離ではあったが、ベルクの状態を考えれば十分だと判断している。


 彼は地図を閉じると、ルシルとモモへ声をかけた。


「午後はもう少しだけ進み、早めに野営地を探しましょう。今日はベルクの足取りが比較的安定していますが、疲れが出る前に休ませたいと思います」


「うん。そうしよう」


「賛成! 夕方はゆっくりご飯を作りたいなあ」


 モモが笑うと、ルシルも自然と笑顔になった。


 午後の街道は、午前中よりも少し静かだった。遠くに鳥の姿が見えることはあったが、ほかの旅人とすれ違うことはなく、三人は穏やかな風の中を進んでいく。


 道の脇には低い草が続き、ところどころに小さな石が転がっていた。ルシルはベルクの足取りを確認しながら歩き、モモは荷台の様子を見守っている。


 やがて、街道から少し離れた場所に平らな草地が見えてきた。近くには背の低い木々があり、風を避けられそうな地形になっている。


 シモンは周囲を確認し、地面の状態を確かめてから、そこで今夜の野営をすることにした。


「今日はここまでにしましょう。馬たちも、これ以上歩かせる必要はありません」


「うん。お疲れさま、トルク、ベルク」


 ルシルは二頭の首筋を撫で、ゆっくりと声をかけた。


 ベルクは静かに鼻を鳴らし、トルクも隣で耳を動かしている。


 モモは荷台から降ろした荷物を整えながら、大きく伸びをした。


「ふう、今日もいっぱい歩いたね! でも、昨日休んだおかげか、足がちょっと軽い気がする!」


「僕もそう思う。休むって大事なんだね」


 ルシルが答えると、シモンも穏やかに頷いた。


「ええ。今日のベルクの様子を見ても、休息が役に立っている可能性はあります。ただし、完全に回復したとは考えず、引き続き慎重に進みましょう」


「うん。分かった」


 ルシルは頷いた。


 夕暮れが近づくと、草原は柔らかな橙色に染まり始めた。三人は馬車を安全な場所へ止め、車輪を固定してから野営の準備を進めた。


 モモは夕食用の食材を取り出し、ルシルは水の残量を確認した。シモンは馬たちの状態をもう一度調べ、ベルクの脚に大きな変化がないことを確かめる。


 夕食は、残っている保存肉と乾燥野菜を使った簡単な料理になった。モモは農家でもらった香草をほんの少し加え、温かな匂いが広がると嬉しそうに目を細めた。


「やっぱり、この香草いいね。ハルミナに戻ったら、似たものを探してみたいなあ」


「うん。僕も楽しみだよ」


 ルシルが答えると、シモンも小さく頷いた。


「町へ戻ったら、必要な補給を済ませたうえで、ゆっくり店を見て回る時間を取りましょう」


「やった! じゃあ、エルナさんのパンも買いに行こうね!」


 モモは嬉しそうに笑った。


 ルシルも笑いながら頷いた。


「もちろん。僕も、あのパンが食べたいな」


 三人は温かな食事を囲みながら、ハルミナへ戻った後の楽しみを話し合った。馬のことや水のことなど、考えなければならない問題はまだ残っている。それでも、帰った後に楽しみにできることがあるだけで、旅の疲れは少し軽くなるように感じられた。


 食事を終えた後、モモは旅帳面を開き、今日出会った老人のことをもう一度書き加えた。ルシルはその横で、星が見え始めた空を眺めている。


「ねえ、モモ」


「なあに、ルシル君?」


「今日、あのおじいさんを手伝えてよかったね」


 ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに頷いた。


「うん。小さなことだったけど、喜んでもらえて嬉しかったな」


「僕たちも、いろんな人に助けてもらってるからね」


「そうだね。だから、今度は私たちが誰かを助けられたらいいなって思うよ」


 モモはそう答え、旅帳面を閉じた。


 ルシルは彼女の言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 旅の途中で出会う人たちは、ほんの短い時間しか一緒に過ごさないことも多い。けれど、その短い時間が、後になって大切な思い出になることもある。


 農家で水を分けてくれた女性も、今日出会った老人も、きっとその一人なのだろう。


 シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかな表情を浮かべていた。


「旅の中で受けた親切を、別の誰かへ返していく。それも、よいことかもしれませんね」


 ルシルは頷いた。


「うん。僕も、そう思う」


 夜が深まり、草原に静かな風が吹き始めると、三人は交代で見張りをする準備を整えた。トルクとベルクは馬車の近くで落ち着いており、周囲にも大きな異変は見られない。


 ルシルは星空を見上げ、静かに息を吐いた。


(明日も、みんなで無事に進めますように。そして、ベルクが少しずつ元気になりますように)


 その願いを胸に、彼は仲間たちのいる野営地へ視線を戻した。


 ハルミナまでは、まだ道のりが残っている。


 けれど、今日も三人と二頭で無事に進むことができた。


 それだけで、今は十分だった。


 乾いた街道の夜は静かに更けていき、三人と二頭の馬は、次の朝へ向けてゆっくりと休息の時間を迎えた。


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