第156話「帰り道の小さな異変と、二頭の馬が教えてくれたこと」
朝の光が街道沿いの草を照らし始めた頃、ルシルたちの馬車はハルミナへ向かってゆっくりと進んでいた。昨夜の野営地はすでに後方の木立に隠れ、道の両側には背の低い草原と、ところどころに灰色の岩が転がる緩やかな丘が続いている。空には薄い雲が広がっていたが、雨を降らせそうな厚みはなく、乾いた土の匂いを含んだ風が馬車の脇を通り抜けていった。
御者台にはルシルとシモンが並び、モモは荷台の前寄りに腰を下ろしていた。いつもなら景色を見つけるたびに身を乗り出すモモも、今朝は膝の上に旅帳面を置いたまま、馬車を引く二頭の背中へ何度も目を向けている。栗毛のトルクは耳を動かしながら落ち着いた足取りを見せていたが、その隣を歩く濃灰毛のベルクは、平坦な場所でも時折歩幅を小さくしていた。
「シモン、ベルクの様子はどう?」
ルシルが声を落として尋ねると、シモンは手綱を緩めすぎないよう注意しながら、ベルクの後ろ脚の動きを確かめた。朝の出発前にも脚を触って確認していたが、歩いている時にしか分からない変化もあるため、彼は馬車の揺れと蹄の音に意識を向け続けていた。
「昨日より悪くなっているようには見えません。ただ、疲れが抜けきっていないのは確かでしょう。今日は距離を稼ぐことより、無理をさせずに進めることを優先します」
「うん。ハルミナへ早く戻りたい気持ちはあるけど、ベルクに頑張らせすぎたら意味がないよね」
「そのとおりです。途中で予定を変えることも考えておきましょう」
ルシルは頷き、前方へ視線を戻した。街道は緩やかな上り坂へ続いており、遠くには木々の生えた低い尾根が見えている。馬車で越えられないような坂ではなかったが、今のベルクには普段より負担が大きいかもしれない。
後ろから身を乗り出したモモが、二人の会話を聞いて口を開いた。
「ルシル君、もしベルク君が疲れてるなら、私たちが少し歩くのはどうかな? 荷台が軽くなれば、そのぶん楽になるよね」
「それはいいと思う。僕も歩くよ」
ルシルがすぐに答えると、シモンは小さく頷いた。
「人が降りれば多少は負担を減らせます。ただし、坂の途中で急に乗り降りするのは危険です。手前の平坦な場所で馬車を止め、荷物の固定も確認してからにしましょう」
「了解! それじゃあ、今日は三人でお散歩だね!」
モモが明るく言うと、ルシルは思わず笑みを浮かべた。少し前までの自分なら、馬車から降りて歩くことを単なる移動手段の変更として考えていただろう。しかし、今は二頭の馬のために自分たちができることを探す時間さえ、旅の大切な一部だと思える。
やがて坂の手前に、街道から少し外れた平らな土の広場が見えてきた。古い車輪の跡が薄く残っており、旅人が一時的に馬車を止めるために使っている場所らしいが、周囲に建物や水場は見当たらない。シモンは道の状態を確認してから馬車を寄せ、二頭を落ち着かせて停止させた。
「ここで一度、様子を見ます。ルシル様、馬車の右側をお願いします。モモ嬢は後方からほかの荷車が来ないか見ていてください」
「分かった」
「任せて!」
ルシルは御者台から降り、馬車の右側へ回った。地面には乾いた小石が散らばっていたが、大きな穴やぬかるみはなく、車輪を止めるには問題なさそうだった。モモは荷台から慎重に降りると、街道の後方へ目を向け、遠くから近づく人影や車輪の音がないことを確かめた。
シモンはベルクの首筋を撫で、落ち着いた声で話しかけながら脚を順番に確認した。蹄の周囲に挟まった石は見当たらず、脚に目立つ腫れや傷もない。ただ、ベルクは後ろ脚を持ち上げる際、普段より少し時間をかけていた。
「痛いところがあるのかな……」
ルシルが心配そうに呟くと、シモンはすぐに結論を出さず、ベルクが脚を下ろすまで待った。
「痛みがないとは言い切れませんが、今の確認だけでは原因を特定できません。疲労の可能性もありますし、馬具の当たり方や路面の影響も考えられます。まずは負担を減らして、歩き方がどう変わるか見ましょう」
シモンは馬車の前方へ移り、胸当てや革紐の位置を確認した。トルクとベルクは同じ馬車を引いていても体格が完全に一致するわけではなく、長い道のりでは小さなずれが負担になることがある。彼は革紐に傷みがないことを確かめ、ベルクの肩に当たる部分を慎重に調整した。
ルシルはその作業を見守りながら、農家で水を分けてもらった時のことを思い出していた。あの女性が井戸を使わせてくれなければ、三人だけでなく二頭も、今よりずっと苦しい状態になっていたかもしれない。
(僕たちは旅を楽しむことばかり考えていたわけじゃない。でも、知らない道を進むための準備は、まだ足りなかったんだ)
胸の奥に残る後悔は簡単には消えなかったが、今はそれを自分への責め言葉に変えたくなかった。大切なのは、同じ失敗を繰り返さないことだと、ルシルは考えていた。
「シモン、ハルミナへ戻ったら、馬のことも詳しい人に相談できるかな?」
「もちろんです。宿のマリナさんに尋ねれば、町で馬を診られる方や、馬具に詳しい職人を紹介してもらえるかもしれません。ただし、誰が対応できるかは実際に確認する必要があります」
「そっか。ベルクが元気になるまで、次の遠出は待った方がいいよね」
「私はそう考えています。急いで再出発する理由はありませんから」
ルシルが頷くと、ベルクは鼻を鳴らし、彼の袖へ鼻先を近づけた。何かを求めているようにも見えたが、ルシルにはその意味が分からない。ただ、馬の温かな息が手首に触れたことで、張り詰めていた気持ちが少し和らいだ。
「ベルク、もう少しだけ一緒に頑張ろう。でも、無理はしなくていいからね」
そう声をかけて首筋を撫でると、ベルクはゆっくりと耳を動かした。
馬具の確認を終えたシモンは、三人が歩くことを前提に荷物の位置を整えた。水の入った容器は倒れないよう固定し、すぐに使うものと、しばらく取り出す必要のないものを分けている。農家でもらった乾燥香草はモモが自分の荷物へしまっていたため、荷台の隅で潰される心配はなかった。
「それでは、坂を越えるまでは歩きましょう。足元に注意してください」
三人は馬車のそばに立ち、シモンが手綱を持ってゆっくりと歩き始めた。ルシルは右側からベルクの動きを見守り、モモは少し後ろを歩いて荷台と車輪の様子を確かめる。馬車の速度は普段より遅かったが、坂へ差しかかっても二頭が急に足を止めることはなかった。
道の脇には薄紫色の小さな花が咲き、風が吹くたびに細い茎が揺れていた。乾いた土地でも花をつける植物があることにモモは感心したものの、今は絵を描くために立ち止まらず、歩きながらその形を目に焼きつけていた。
「ねえ、ルシル君。あのお花、帰りに同じところを通ったら、まだ咲いてるかな?」
「どうだろう。季節が変わったら、違う花になっているかもしれないね」
「それもいいなあ。次に来た時は、どんな景色になってるか楽しみだよ」
モモの声にはいつもの明るさが戻っていたが、ルシルは彼女が何度もベルクへ目を向けていることに気づいていた。心配しているのは自分だけではないのだと分かると、彼は少し安心した。
坂の中ほどまで来たところで、ベルクの歩調がわずかに乱れた。大きくつまずいたわけではなく、右後ろ脚を出すタイミングが一度だけ遅れた程度だったが、シモンはすぐに手綱を使って二頭を止めた。
「ここで休ませます。ルシル様、ベルクの右後ろ脚を見ていただけますか。私は車輪が動かないよう確認します」
「うん、分かった」
ルシルはベルクの横へ回り、馬が驚かないよう声をかけながら脚の様子を見た。地面に不自然な形で足を置いているようには見えず、ベルクも落ち着いて立っている。ただ、息遣いは坂の手前より少し荒くなっていた。
「脚をかばってるようには見えないけど、疲れてるのかな」
「可能性はあります。少し長めに休みましょう」
シモンは車輪の安全を確かめると、二頭の様子を見比べた。トルクは耳を前へ向け、道端の草へ興味を示していたが、ベルクは首を低くして静かに立っている。
モモは荷台から水の容器を取り出しかけたものの、シモンの顔を見て手を止めた。
「お水、あげた方がいいかな?」
「ええ。ただし、今すぐ大量に飲ませるのではなく、呼吸が落ち着いてから少しずつ様子を見ましょう。二頭とも飲めるように準備してください」
「分かった。私、お皿を出すね」
モモは折り畳んでいた水用の器を取り出し、ルシルと一緒に馬車の脇へ置いた。シモンが呼吸と様子を確認してから水を分けると、トルクはすぐに鼻先を近づけ、ベルクも少し遅れて飲み始めた。
水が器の底へ触れる小さな音を聞きながら、ルシルは農家の井戸で水を汲んだ時のことを思い出した。あの時は水を手に入れられた安堵が大きかったが、今は一杯の水を二頭へ渡せること自体がありがたかった。
「こうして見ると、水って本当に大事なんだね」
ルシルが呟くと、モモは器を見つめながら頷いた。
「うん。私、今まで水がある場所では、あんまり深く考えてなかったかもしれない。飲みたい時に飲めるって、すごくありがたいことなんだね」
「私たちも今回の経験を忘れてはいけませんね」
シモンは静かに答えた。彼は水の残量を確認し、次の休憩までに必要な分を頭の中で計算していた。
しばらく休んだ後、ベルクの呼吸は落ち着き、首も少し上がった。シモンは再び馬具を確認したが、すぐに出発することはせず、ルシルとモモへ声をかけた。
「ここから先は坂の傾斜が緩くなっています。もう少し歩いて、尾根の向こう側で長めに休みましょう。ただし、ベルクの足取りが悪くなるようなら、その場で予定を変更します」
「うん。今日は無理に進まないって決めたもんね」
「私もちゃんと見てるよ。ベルク君、頑張りすぎないでね!」
モモが声をかけると、ベルクは小さく鼻を鳴らした。その反応に彼女は少し笑ったが、すぐに表情を引き締め、馬車の後方へ戻った。
坂を上りきる頃には、太陽が雲の隙間から顔を出し、街道の向こう側に広がる景色が明るく照らされていた。尾根の先には低い木々が点在する平地が続き、その奥には細い道が緩やかに曲がりながら伸びている。ハルミナの町並みはまだ見えなかったが、ルシルは見覚えのある地形が少しずつ増えてきたことに気づいた。
「この辺り、行きに通った時はもっと早く進んでいた気がする」
「その時は馬たちの状態も良好でしたからね。今と比べるのは難しいでしょう」
「そうだよね。でも、ゆっくり歩いてると、前には気づかなかったものが見えるんだ」
ルシルが道端の小さな花へ目を向けると、シモンは穏やかな表情で頷いた。
「速く進む旅と、ゆっくり進む旅では、見える景色が違うのかもしれません」
その言葉を聞いたモモが、後ろから嬉しそうに声を上げた。
「それ、いい言葉だね! 私の旅帳面に書いてもいい?」
「構いませんが、特別なことを言ったつもりはありませんよ」
「そういう普通の言葉が、あとで思い出になるんだよ!」
モモは笑いながら旅帳面を開こうとしたが、歩きながら書くのは危ないと思い直し、休憩するまで待つことにした。ルシルはその様子を見て、彼女が何気ない出来事を大切に残そうとする理由が、少しずつ分かってきた気がした。
尾根を越えた先には、街道から少し離れた場所に背の低い木々が集まっていた。地面は比較的平らで、木陰もあり、馬車を止めるには悪くない場所に見える。シモンは周囲を確認してから、そこで昼前の長い休憩を取ることにした。
三人は馬車を木陰へ寄せ、二頭を休ませる準備を始めた。トルクは早速草へ鼻先を近づけたが、シモンは食べさせてよい草かを確認し、ベルクにも同じように少しずつ草を食ませた。ルシルは馬車の車輪を確かめ、モモは荷台から昼食用の保存食を取り出した。
「今日は温かいもの、作れるかな?」
モモが尋ねると、シモンは水の容器へ目を向けた。
「少量なら問題ありません。ただし、飲み水を優先したいので、簡単なものにしましょう」
「じゃあ、昨日の乾燥野菜を少し使って、薄いスープにするのはどう?」
「いいと思う。僕も手伝うよ」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。彼女は荷台から小鍋を取り出し、乾燥野菜と少量の保存肉を並べた。農家でもらった香草の包みも取り出したが、すぐに鍋へ入れるのではなく、シモンへ確認することにした。
「ねえ、これ、少し使ってみてもいいかな?」
シモンは包みを受け取り、香りを確かめた。乾燥した葉からは爽やかな匂いが漂い、農家の女性が料理に使うものとして渡してくれたことを思い出させる。
「少量ならよいでしょう。ただ、香りが強いかもしれませんから、入れすぎないようにしてください」
「了解! 初めて使うものは、ちょっとずつだね」
モモは小さく笑い、香草を指先で少しだけ砕いて鍋へ加えた。火を起こす前に周囲の乾いた草を避け、石を並べて安全な場所を整えると、シモンが火の管理を担当した。ルシルは水を量り、必要以上に使わないよう注意しながら鍋へ注いだ。
しばらくすると、鍋から湯気が立ち上り、乾燥野菜の甘い匂いに香草の爽やかさが混ざり始めた。モモは木匙でゆっくりとかき混ぜながら、期待に満ちた表情を浮かべている。
「わあ、いい匂い! これ、絶対おいしいよ!」
「まだ味見してないのに?」
ルシルが笑うと、モモは胸を張って答えた。
「匂いで分かるんだよ! たぶん!」
「最後の一言で、ちょっと自信がなくなったね」
「だって、初めて使う香草だもん。そこは正直に言わないと!」
二人のやり取りを聞いていたシモンは、火加減を調整しながら小さく笑った。
「食事ができたら、馬たちの様子をもう一度確認しましょう。今日はここで十分に休んでから、午後の行動を決めます」
やがてスープが完成すると、三人は木陰に腰を下ろして食事を始めた。薄味ではあったが、香草の香りが保存肉の塩気を引き立て、乾燥野菜も柔らかく戻っていた。モモは一口食べた瞬間、目を輝かせた。
「おいしい! この香草、すごくいいね!」
「うん。いつものスープと少し違う感じがする」
ルシルも頷き、温かなスープをゆっくりと飲んだ。旅の途中で食べる簡単な料理だったが、三人で協力して作ったこともあって、いつも以上においしく感じられた。
シモンは味を確かめるように一口飲んでから、穏やかな声で言った。
「確かに良い香りですね。あの方には、水だけでなく食事の楽しみまで分けていただいたことになります」
「そうだね。ハルミナへ戻ったら、何かお礼を考えたいな」
ルシルが言うと、モモは嬉しそうに頷いた。
「私、あのおばあさんの絵を描いておけばよかったなあ。今度会えたら、ちゃんと描かせてもらいたい!」
「また会えるかは分からないけど、会えたら喜んでくれるかもしれないね」
ルシルはそう答えながら、農家の女性が井戸の水を分けてくれた時の表情を思い出していた。特別な約束を交わしたわけではないが、困っている旅人へ手を差し伸べてくれた親切は、三人の心に確かに残っていた。
食事を終えた後、モモは旅帳面を開き、今朝見た薄紫色の花と、坂道をゆっくり歩く二頭の馬を描き始めた。彼女はいつもより丁寧にベルクの足の位置を描こうとしていたが、動いている姿を思い出しながら描くのは難しく、何度か首を傾げている。
「うーん、ベルク君の歩き方、もう少し違った気がするんだけど……」
ルシルは隣から絵を覗き込み、少し考えてから答えた。
「足の位置は僕にもよく分からないけど、首を少し下げて歩いてたよね」
「そうそう! それだ! ルシル君、ありがとう!」
モモは嬉しそうに筆を動かし、ベルクの首の角度を描き直した。彼女の旅帳面には、楽しかった出来事だけでなく、少し心配だったことも残されていく。ルシルはそのことに気づき、旅の記録とは、きれいな景色ばかりを集めるものではないのだと思った。
シモンは二頭の馬を確認しながら、午後の行程を考えていた。ベルクは木陰で落ち着いており、草も食べているが、疲労が完全に抜けたとは言えない。ハルミナまでの距離を考えると、少しでも進みたい気持ちはあったが、ここで無理をさせることは避けるべきだった。
彼は馬車へ戻り、地図と旅程の記録を広げた。街道沿いの水場については、今回の経験で信頼できる情報が少ないことが分かっている。農家の井戸で補給できたことは幸運だったが、同じような場所が次にもあるとは限らない。
(今後は、町を出る前に補給地点を確認するだけでなく、使えなくなっている場所の情報も集める必要がありますね)
シモンはそう考えながら、地図の余白へ短い記録を書き加えた。古い石槽の位置、農家で井戸を使わせてもらったこと、ベルクの疲労が続いていることを整理し、後から見返しても分かるようにしておく。
その時、ルシルが近づいてきた。
「シモン、午後はどうする?」
シモンは地図から顔を上げ、ルシルへ向き直った。
「ベルクの様子を考えると、今日はここで長めに休んでから、もう少しだけ進むのがよいでしょう。日が傾く前に野営できる場所を見つけたいと思います」
「うん。それがいいと思う。無理して進んでも、明日動けなくなったら困るもんね」
「そのとおりです。ルシル様も、今日は歩く時間が長くなっています。足の疲れはありませんか?」
突然自分のことを尋ねられ、ルシルは少し驚いた。馬の様子ばかり気にしていたため、自分の足にも疲れが溜まっていることを、今になって意識したのだ。
「少し疲れたけど、大丈夫だよ。でも、シモンもずっと歩いてたよね」
「私は慣れていますが、疲労がないわけではありません。ですから、休める時に休むことにしましょう」
シモンが穏やかに答えると、ルシルは笑って頷いた。旅の仲間を気遣うことは大切だが、自分自身の状態を無視してよいわけではない。三人と二頭が一緒に旅を続けるためには、誰か一人が無理をするのではなく、全員が休む必要があるのだと改めて感じた。
午後の光が少し柔らかくなった頃、三人は再び出発の準備を始めた。ベルクの足取りは休憩前より落ち着いているように見えたが、シモンは慎重な姿勢を崩さず、短い距離だけ進むことを決めた。
ルシルとモモは引き続き歩くことにし、馬車の荷台には必要な荷物だけを固定している。トルクは元気そうに耳を動かし、ベルクも落ち着いて歩き始めた。
「よし、行こうか」
ルシルが声をかけると、モモは明るく頷いた。
「うん! 今日も三人と二頭で、ゆっくり進もう!」
街道は木々の間を抜け、緩やかな下り坂へ続いていた。遠くから鳥の鳴き声が聞こえ、風が草を揺らす音が馬車の車輪の響きに混ざっている。三人は急がず、足元と馬の様子を確かめながら進んだ。
しばらく歩いたところで、ルシルは道端に古い木の杭が立っていることに気づいた。杭は半分ほど土に埋もれ、表面には長い年月を感じさせるひび割れが走っている。何かの目印だったのかもしれないが、文字や印はほとんど消えており、用途は分からなかった。
「シモン、あの杭って何だろう?」
ルシルが指さすと、シモンは馬車を止めずに視線を向けた。
「古い道標かもしれませんが、今の状態では判断できませんね。街道の管理に使われていたものという可能性もあります」
「そっか。前に見た石の目印とは違うのかな」
「関係があるかどうかも分かりません。今は立ち止まって調べる必要はないでしょう」
ルシルは頷き、杭の位置を覚えておくことにした。旅の途中には、意味の分からないものがいくつも残されている。すべてをその場で調べることはできないが、気づいたことを忘れずにいれば、いつか別の場所で答えにつながるかもしれない。
モモも杭を見つけたらしく、後ろから声をかけてきた。
「ルシル君、あれも旅帳面に描いておこうかな?」
「いいと思う。でも、歩きながらは危ないから、あとでね」
「はーい! ちゃんと覚えておく!」
モモは笑いながら答え、杭の形を何度か振り返って確かめた。ルシルはその様子を見て、彼女が旅の記録を大切にしていることを改めて感じた。
やがて街道の先に、低い木々に囲まれた平らな場所が見えてきた。道から少し離れており、風を避けられそうな地形になっている。シモンは周囲を確認し、地面の状態が悪くないことを確かめてから、そこで今夜の野営をすることにした。
「今日はここまでにしましょう。ベルクも大きく歩調を崩さずに来られましたが、これ以上進ませる必要はありません」
「うん。お疲れさま、ベルク」
ルシルはベルクの首筋を撫で、ゆっくりと声をかけた。ベルクは静かに鼻を鳴らし、トルクも隣で耳を動かしている。
モモは荷台から降りると、大きく伸びをした。
「ふう、今日はいっぱい歩いたね! でも、なんだか気持ちよかった!」
「僕もそう思う。ちょっと疲れたけど、景色をゆっくり見られたし」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。
「そうだね! いつもより小さなものがいっぱい見つかった気がする!」
シモンは二人の会話を聞きながら、馬車を安全な位置へ止め、車輪を固定した。二頭の馬具を外して休ませると、ベルクの脚をもう一度確認する。朝と比べて目立つ腫れや傷はなく、歩き方も大きく悪化していないようだったが、彼は念のため記録を残すことにした。
ルシルはその様子を見守りながら、少しだけ胸を撫で下ろした。ベルクが元気になったわけではないが、今日一日を無事に終えられたことが嬉しかった。
夕暮れの光が草原を橙色に染め始めると、三人は野営の準備を進めた。モモは昼間のスープに使った香草の残りを確認し、今夜は別の料理に少し使ってみようと考えている。ルシルは水の容器を並べ、シモンと一緒に残量を確認した。
「まだ余裕はあるけど、次の補給場所が分からないんだよね」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「ええ。だからこそ、今夜も必要な分を考えて使いましょう。農家でいただいた水を無駄にしないようにしたいですね」
「うん。僕もちゃんと考えるよ」
ルシルは水の容器へ手を置き、静かに答えた。以前の自分なら、旅の準備はシモンに任せておけば大丈夫だと思っていたかもしれない。しかし、今は自分も一緒に考え、判断できるようになりたいと感じている。
その夜、三人は簡単な夕食を囲みながら、今日見た景色や道端の花の話をした。モモは旅帳面に薄紫色の花と古い杭を描き、ルシルはその横で、ハルミナへ戻ったら自分も日記を買おうと改めて思っていた。
シモンは二人の様子を見ながら、穏やかな表情を浮かべた。旅の途中には危険や困難があるが、それでも三人がこうして笑い合える時間を持てることは、彼にとっても大切なものになっていた。
夜が深まり、草原に静かな風が吹き始めると、三人は交代で見張りをする準備を整えた。トルクとベルクは馬車の近くで落ち着いており、特に大きな異変は見られない。
ルシルは星の見える空を見上げ、静かに息を吐いた。
(明日も、みんなで無事に進めますように)
その願いを胸に、彼は仲間たちのいる野営地へ視線を戻した。ハルミナまではまだ道のりが残っているが、今は焦らず、一歩ずつ進んでいけばよいのだと思えた。
乾いた街道の夜は静かに更けていき、三人と二頭の馬は、次の朝に備えてゆっくりと休息の時間を迎えた。




