第155話「水を得た翌朝と、帰り道で決めた新しい約束」
ハルミナへ続く街道の西側に、夕陽がゆっくりと沈もうとしていた。
低い丘の間を吹き抜ける風には昼間の熱がわずかに残っていたものの、草地へ伸びる影はすでに長く、空の端には夜の青さが滲み始めている。道から少し離れた場所に停められた馬車の周囲では、三人の旅人がそれぞれの仕事を進めていた。
ルシルはトルクの首筋を撫でながら、隣に立つベルクの様子を確かめていた。
午後に立ち寄った農家で水を分けてもらい、十分な休憩を取ったあと、二頭は再び街道を歩くことができた。ただし、長く続いた水不足と疲労が、たった一度の補給ですべて解消されたわけではない。シモンと相談した結果、今日は短い距離だけ進み、日が暮れる前に野営することに決めたのだった。
「今日はここまでだよ、トルク。ベルクもお疲れさま。明日の朝まで、ゆっくり休もうね」
ルシルが声をかけると、栗毛のトルクは鼻先を彼の肩へ近づけた。
その様子は、いつものように何か食べ物を期待しているようにも見える。ルシルが笑いながら首筋を撫でると、トルクは満足したのか、ゆっくりと顔を戻した。
一方のベルクは、濃い灰色の毛並みを夕陽に照らされながら、静かに立っている。
以前より首を低くする時間は短くなっていたが、足取りに疲れが残っていることは否定できなかった。ルシルは四肢の状態を確かめ、腫れや傷が見当たらないことを確認してから、少し離れた場所にいるシモンへ声をかけた。
「シモン、ベルクの脚には、今のところ変わったところはなさそうだよ」
「ありがとうございます。こちらも地面の状態を確認できました。今夜はこの場所で問題ないでしょう。ただ、明朝の状態によっては、移動をさらに短くする必要があります」
シモンはそう答えながら、手にしていた帳面へ何かを書き込んだ。
野営地は街道から適度に離れた草地にあり、地面は比較的固く、馬車の車輪が沈むような場所もない。周囲には低い木が数本立っているが、視界を遮るほど密集しておらず、夜間に近づくものがあれば早めに気づけそうだった。
それでも、完全に安全な場所だと決めつけることはできない。
ルシルは周囲を見渡し、昼間に農家の女性から聞いた注意を思い出した。
この辺りには、見た目よりも地面が柔らかい場所があるという。
今は乾いて見える草地でも、雨が降ったあとには状態が変わるかもしれない。今夜は天気が大きく崩れる気配こそなかったが、馬車の置き方や荷物の位置には気を配る必要があった。
「ルシル君、こっちは準備できたよ!」
荷台の方から、モモの明るい声が聞こえた。
振り返ると、桃金色の髪を後ろへまとめたモモが、両手に小さな包みを持って立っていた。白い外套の裾には草の葉が一枚くっついているが、本人は気づいていないらしい。
「今日いただいた香草、ちゃんとしまっておいたよ。湿気が入らないように、包みも二重にしてあるんだから!」
「ありがとう、モモ。大事に使いたいね」
「うん! せっかく分けてもらったんだもん。今度はちゃんとしたお料理に使いたいなあ」
モモは包みを見つめながら、嬉しそうに笑った。
農家の女性が分けてくれた乾燥香草は、決して高価なものではないのかもしれない。それでも、ルシルたちにとっては水と同じくらい、心に残る贈り物だった。
あの家で暮らす人の手によって育てられ、乾燥させられたもの。
そして、困っていた旅人へ、何の見返りも期待せずに差し出されたもの。
ルシルはそのことを思い返し、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ねえ、モモ。あの人に、もう一度ちゃんとお礼を言いたかったな」
「言ったじゃない。三人でいっぱいありがとうって」
「うん。でも、あれだけ助けてもらったから、もっと何かできたんじゃないかなって」
ルシルがそう言うと、モモは少し考え込んだ。
そして、包みを荷台へ戻しながら、ゆっくりと答えた。
「だったら、次にあの道を通るとき、元気なトルクたちを見せに行くのはどうかな。おばさん、また顔を見せてって言ってたでしょう?」
ルシルは目を瞬かせた。
確かに、別れ際に女性はそう言っていた。
次はもっと余裕のある旅であってほしい、と。
「……それ、いいね」
「でしょ? ちゃんと準備して、今度は困ってないときに会いに行くの。そうしたら、わたしたちも少しは成長したところを見せられるかもしれないよ!」
モモは得意そうに胸を張った。
ルシルはその姿を見て、自然と笑顔になった。
「うん。そうできたら嬉しいな」
二人の会話を聞いていたシモンが、穏やかに口を開いた。
「そのためにも、今回の旅で分かったことを忘れないようにしましょう。次に同じ道を通るかどうかはまだ決まっていませんが、補給計画を見直す必要があることは確かです」
ルシルは頷いた。
楽しかったことだけを覚えておくのではなく、困ったことも記録に残す。
それが、次の旅を少しでも安全にするために必要なのだろう。
◇
夕食の準備を始める頃には、空の色が橙色から淡い紫へ変わっていた。
モモは荷台から食料を取り出し、シモンが確認した水の使用量を聞きながら、今夜の食事を考えていた。水を補給できたからといって、何も考えずに大量に使うつもりはないらしい。
「今日は、ほんの少しだけ温かいものを作ろうと思うんだ」
モモがそう言うと、ルシルは興味深そうに顔を上げた。
「温かいもの?」
「うん。乾燥野菜を少し戻して、保存肉と一緒に煮るの。水はちゃんと量を決めて使うよ。香草は……今日はまだ使わない!」
最後の言葉を強調したモモに、シモンが小さく笑った。
「ずいぶん慎重ですね、モモ嬢」
「だって、せっかくもらったものだもん。疲れてるときに適当に使っちゃうより、ちゃんと味が分かるときに使いたいの!」
「なるほど。それはよい考えだと思います」
シモンが頷くと、モモは嬉しそうに笑った。
ルシルは調理の準備を手伝いながら、鍋へ入れる水の量を確かめた。
以前なら、料理に使う水のことまで細かく考えることはなかったかもしれない。けれど、今回の旅では、水がどれほど大切なものなのかを嫌というほど思い知らされた。
馬たちが飲む水。
人間が飲む水。
料理に使う水。
食器や道具を清潔に保つための水。
それぞれに必要な量があり、どれか一つだけを考えていればよいわけではない。
「シモン、今度ハルミナで補給するときは、馬たちの分をもっと詳しく計算したいな」
ルシルが言うと、シモンは帳面から顔を上げた。
「ええ。私もそのつもりです。ただし、単純に水を多く積めば解決するわけではありません。積載量が増えれば馬たちの負担も大きくなりますし、容器の置き方も考えなければなりませんから」
「そっか。水を増やしたら、その分だけ馬車が重くなるんだね」
「そのとおりです。ですから、補給地点を確認したうえで、必要な予備を確保することが大切になります」
ルシルは頷き、荷台へ目を向けた。
旅に必要なものを何でも積み込めれば便利だが、現実には限界がある。
魔法の収納具があるとはいえ、容量は無限ではない。しかも、収納できるものや取り出すときの扱いには制約があり、旅の問題をすべて解決してくれるわけでもなかった。
モモの魔法についても同じだった。
彼女は優れた力を持っているが、どんな場所でも好きなだけ水を生み出せるわけではない。魔力には限りがあり、本人の負担も考えなければならない。
ルシルは、鍋の中へ入れられていく乾燥野菜を眺めながら、静かに息をついた。
「……今まで、シモンに任せきりだったことが多かったんだね」
思わず漏れた言葉に、シモンが顔を向けた。
「ルシル様?」
「道のことも、水のことも、馬車のことも。僕はシモンが考えてくれるから大丈夫だって、どこかで思ってたんだと思う」
ルシルは手元の木匙を置いた。
責めるような口調ではなかった。
ただ、今回の出来事を振り返るうちに、そう感じたのだった。
「もちろん、僕も少しずつ覚えてきたつもりだったよ。でも、まだ知らないことがいっぱいある。シモンがいなかったら、もっと困っていたと思う」
シモンはしばらく黙っていた。
やがて、穏やかな表情で答えた。
「私が知っていることも、決してすべてではありません。今回の道については、私自身も補給地点の確認が十分ではありませんでした。ルシル様だけが反省なさる必要はありませんよ」
「でも……」
「それに、旅は一人で行っているわけではありません。私が道のことを考え、モモ嬢が別のことに気づき、ルシル様が馬たちの変化を見つける。そうして互いに補い合うことも、大切なのではないでしょうか」
ルシルはゆっくりと顔を上げた。
シモンの言葉は、いつもと変わらず落ち着いていた。
けれど、その奥には、三人で旅を続けることへの確かな信頼が感じられた。
モモも鍋をかき混ぜながら、明るい声を上げた。
「そうそう! それに、わたしだってシモン君がいなかったら、知らない草を食べちゃってたかもしれないし!」
シモンがすぐに顔を向けた。
「モモ嬢。それは今後も絶対にお控えください」
「だから、食べないってば!」
モモは笑いながら抗議した。
ルシルも思わず笑ってしまった。
胸の奥に残っていた重さが、少しだけ和らいでいく。
「……ありがとう、二人とも」
ルシルがそう言うと、モモは木匙を持ったまま笑顔を向けた。
「どういたしまして! でも、今はご飯を完成させるのが先だよ。せっかく温かいものを作ってるんだから!」
シモンも小さく頷いた。
「ええ。反省会は、食事を終えてからでも遅くありません」
ルシルは笑顔で頷き、再び調理を手伝い始めた。
◇
温かい食事を囲む時間は、三人にとって久しぶりに落ち着いたものになった。
鍋の中には柔らかく戻った野菜と細かく切った保存肉が入り、控えめな塩味の汁から湯気が立っている。豪華な料理ではなかったが、冷たい保存食だけで過ごしてきた日々を思えば、それだけで十分に嬉しかった。
モモは自分の器を両手で持ち、嬉しそうに息を吹きかけた。
「んー! やっぱり温かいご飯っていいね!」
ルシルも一口食べ、思わず微笑んだ。
「うん。体の中から温まる感じがするよ」
「でしょう? 今日は頑張ったから、こういうご飯が食べたかったんだ!」
モモは満足そうに頷いた。
シモンも食事を口に運び、穏やかな表情を見せた。
「水を無駄にせず、十分に美味しく仕上がっていますね」
「えへへ。シモン君にそう言ってもらえると嬉しいな」
モモは照れたように笑った。
食事をしながら、三人は今日の出来事を振り返った。
古い水場を調べた翌朝、街道を進んでいる途中で見つけた農家。
井戸の水を分けてもらい、トルクとベルクにようやく十分な水を飲ませることができたこと。
そして、農家の女性から聞いた街道の話。
ルシルは一つずつ思い返しながら、あの女性の言葉を忘れないようにしたいと思った。
『間違えたと思ったあとにどうするかが大事』
その言葉は、今も胸の中に残っている。
王宮にいた頃、失敗することは恐ろしいことだった。
王子として間違った判断をすれば、周囲から厳しい目を向けられることもあった。誰かに迷惑をかけたのではないかと考え、自分の言葉を口にする前に何度も迷ったこともある。
けれど、今の旅では違う。
失敗したことを認め、次にどうするかを考える。
それは、恥ずかしいことではないのかもしれない。
ルシルは器を置き、二人へ顔を向けた。
「ねえ、モモ、シモン。ハルミナへ戻ったら、僕も旅の記録をちゃんと書きたいな」
モモが目を輝かせた。
「えっ! ルシル君も旅帳面を作るの?」
「うん。前にも少し話したけど、今日のことを忘れたくないんだ。楽しかったことだけじゃなくて、困ったことや、次に気をつけたいことも」
ルシルは少し照れたように笑った。
「まだ自分の帳面は持っていないから、ハルミナで探してみようと思う」
モモは嬉しそうに身を乗り出した。
「いいね! じゃあ、一緒にお店を見に行こうよ! ルシル君に似合う帳面を探そう!」
「うん。そうしてくれると嬉しいな」
シモンも穏やかに頷いた。
「よい考えだと思います。私の帳面は主に旅程や物資の管理を目的としていますが、ルシル様ご自身の記録には、また違った意味があるでしょう」
ルシルは少し考えた。
「僕の記録……」
モモの旅帳面には、見つけた花や石、出会った人たちの姿が描かれている。
シモンの帳面には、移動した距離や水の使用量、道の状態などが細かく記されている。
では、自分は何を書きたいのだろう。
ルシルはしばらく考えたあと、ゆっくりと答えた。
「僕は、その日に何を感じたのかを書いてみたいな。どんなことが嬉しかったのか、何に困ったのか。それから、三人でどんな話をしたのかも」
モモは嬉しそうに笑った。
「それ、すっごくいいと思う!」
「そうかな?」
「うん! だって、同じ場所へ行っても、わたしとルシル君とシモン君じゃ、気づくことが違うでしょう? それぞれが書いたら、きっと三つの違う旅になるよ!」
その言葉に、ルシルは目を瞬かせた。
三つの違う旅。
同じ馬車に乗り、同じ道を進んでいても、見ているものや感じていることは少しずつ違う。
モモは花や食べ物を見つけるのが得意で、シモンは道や物資の変化に気づく。
自分は、二人が笑っているときの表情や、トルクたちが安心している様子を覚えておきたい。
それらを合わせれば、一人では残せない旅の記録になるのかもしれない。
「……うん。そう考えると、なんだか楽しみになってきたよ」
ルシルは笑顔で答えた。
モモも嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、ハルミナに戻ったら、帳面探しも予定に入れようね!」
シモンは小さく笑いながら、帳面へ何かを書き込んだ。
「承知しました。ただし、まずは水と食料の補給計画を整えることが先です。そのあとで時間を取りましょう」
「はーい!」
モモは元気よく返事をした。
ルシルも頷き、胸の奥に小さな楽しみが増えたことを嬉しく思った。
◇
夜が深まる頃、野営地には静かな時間が訪れていた。
食事の片づけを終え、モモは荷台の中で旅帳面を開いていた。今日の農家の様子を思い出しながら、井戸の形や建物の屋根を描き加えている。
ルシルは馬車の外で、シモンと一緒に夜間の準備を進めていた。
水容器は倒れない位置へ固定し、馬たちの休む場所も改めて確認する。風が強くなった場合に備えて、荷台の布が緩んでいないかも確かめた。
「シモン、今日は僕が最初の見張りをするよ」
ルシルが言うと、シモンは少し考えた。
「ありがとうございます。ただし、無理はなさらないでください。昨夜も十分に眠れたわけではありませんから」
「うん。ちゃんと交代するよ。シモンも今日は早めに休んでほしいんだ」
ルシルは穏やかに答えた。
シモンはしばらく彼を見つめたあと、静かに頷いた。
「では、お言葉に甘えさせていただきます。何か異変があれば、すぐに声をかけてください」
「分かった」
ルシルは微笑んだ。
シモンが荷台へ戻ると、野営地には風と草の音だけが残った。
ルシルは馬車の近くへ腰を下ろし、空を見上げた。
雲の切れ間から、いくつかの星が見えている。
王宮にいた頃にも、夜空を眺めたことはあった。
けれど、こうして何もない草地に座り、馬たちの息遣いを聞きながら星を見ることはなかった。
遠くの町では、今頃どんな人たちが眠っているのだろう。
ハルミナの宿では、マリナが明日の準備をしているかもしれない。
共同井戸のバルドは、一日の仕事を終えて休んでいる頃だろうか。
エルナの店では、明日のパンを焼くための仕込みが始まっているかもしれない。
ルシルはそんなことを考えながら、静かに微笑んだ。
少し前まで、ハルミナは旅の途中で立ち寄った町の一つだった。
けれど今は、帰りたいと思える場所になっている。
そこで暮らす人たちの顔を思い浮かべるだけで、胸の奥が温かくなる。
(不思議だな。僕は王宮を出て、自由に旅をしたいと思っていたのに。今は、戻りたい場所があることも嬉しいんだ)
自由とは、どこにも帰らないことではない。
行きたい場所へ行き、戻りたい場所へ戻れること。
そして、そのどちらも自分たちで選べること。
ルシルは、そんなふうに考えるようになっていた。
ふと、馬車の中から小さな物音が聞こえた。
「ルシル君、まだ起きてる?」
モモの声だった。
ルシルは振り返った。
「うん。今は僕の見張りの時間だからね」
荷台の窓から、モモが顔を覗かせた。
「そっか。ねえ、ちょっとだけ話してもいい?」
「もちろん。どうしたの?」
モモは少し考えてから、静かな声で答えた。
「今日ね、農家のおばさんに『三人とも仲がいい』って言われたでしょう?」
「うん。言われたね」
「わたし、あれがすごく嬉しかったんだ」
ルシルは目を瞬かせた。
モモは窓枠へ腕を置き、夜空を見上げた。
「だって、わたしたちって、最初から全部うまくできたわけじゃないでしょう? シモン君に注意されたこともあるし、ルシル君を困らせちゃったこともあるし」
ルシルは思わず笑った。
「それは僕も同じだよ。モモにもシモンにも、いっぱい助けてもらってる」
「うん。でもね、そういうのも全部含めて、今の三人なんだなって思ったの」
モモは少し照れたように笑った。
「だから、知らない人から見ても仲がよさそうに見えるなら、なんだか嬉しいなって」
ルシルはしばらく黙っていた。
風が草地を渡り、馬車の側面に吊るされた三つの貝殻が、かすかな音を立てた。
その音を聞きながら、ルシルはゆっくりと答えた。
「……僕も嬉しかったよ」
モモが顔を向ける。
「本当?」
「うん。僕は、二人と一緒に旅ができてよかったって、毎日思ってるから」
言葉にすると、少しだけ恥ずかしかった。
けれど、嘘ではなかった。
王位を手放したあと、自分がどんな旅をすることになるのか、ルシルには分からなかった。
ただ、自由に歩いてみたいと思っていた。
知らない景色を見て、知らない人と話し、自分の意思で明日の道を決めてみたかった。
その願いは、今も変わっていない。
けれど、そこにモモとシモンがいてくれることが、いつの間にか何よりも大切になっていた。
「だから、これからも三人で旅を続けたいな」
ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに笑った。
「もちろん! わたしも同じだよ!」
彼女の声は少し大きくなり、すぐに慌てて口元を押さえた。
「あっ、ごめん。シモン君、寝てるかもしれないのに」
ルシルは小さく笑った。
「大丈夫だと思うけど、少し静かにしようか」
「うん!」
モモは小声で返事をした。
その様子がおかしくて、ルシルはまた笑ってしまった。
やがてモモは荷台の中へ戻り、寝具を整え始めた。
「じゃあ、おやすみ、ルシル君。見張り、無理しないでね」
「うん。おやすみ、モモ」
窓が閉じられると、野営地には再び静けさが戻った。
ルシルは星空へ目を向け、ゆっくりと息を吐いた。
明日も、ハルミナへ続く道を進む。
その先に何が待っているのかは分からない。
けれど、今夜は少しだけ安心して眠れそうだった。
◇
翌朝、ルシルが目を覚ましたとき、外には柔らかな光が広がっていた。
夜間の見張りは予定どおり交代し、大きな問題もなく朝を迎えることができた。草地には薄い露が残り、風は昨日よりも少し冷たく感じられる。
ルシルは身支度を整えると、すぐに馬たちの様子を確かめに向かった。
トルクは彼の姿を見るなり、耳を動かして近づいてきた。
「おはよう、トルク。よく眠れた?」
ルシルが首筋を撫でると、トルクは小さく鼻を鳴らした。
ベルクも落ち着いていたが、ルシルは昨日より丁寧に歩き方を確認することにした。
シモンと相談し、まずは二頭を短い距離だけ歩かせてみる。
トルクは比較的軽い足取りで進んだが、ベルクは最初の数歩で少し慎重な動きを見せた。
ルシルはすぐに足を止めた。
「シモン、ベルク、まだ疲れが残ってるみたい」
「ええ。昨日より極端に悪化している様子ではありませんが、完全に回復したとは言えませんね」
シモンはベルクの脚元を確認し、しばらく考えた。
「今日はさらに移動距離を抑えましょう。途中で状態が変わるようなら、無理に進まず休ませます」
「うん。僕もそれがいいと思う」
ルシルは頷いた。
水を補給できたからといって、急いでハルミナへ戻ろうとする必要はない。
むしろ、ここで焦れば、昨日までの苦労を繰り返すことになるかもしれない。
モモも二人の話を聞き、真剣な表情で頷いた。
「じゃあ、今日はゆっくり進もうね。トルクもベルクも、ちゃんと元気になってからいっぱい歩けばいいんだもん」
ルシルは笑顔を向けた。
「そうだね。今日は景色を見ながら、のんびり進もう」
モモは少しだけ嬉しそうに笑った。
「それなら、途中で面白いものを見つけられるかもしれないね!」
シモンも穏やかに頷いた。
「ただし、今日は寄り道よりも休憩を優先しますよ」
「分かってるよ、シモン君!」
モモは笑いながら返事をした。
朝食を済ませ、荷物を片づけると、三人は出発の準備を整えた。
ルシルは御者台へ座り、手綱を握った。
隣にはシモンが座り、荷台からはモモが顔を覗かせている。
トルクとベルクは、ゆっくりと歩き始めた。
街道の先には、低い丘と草地が続いている。
ハルミナはまだ見えない。
けれど、今のルシルには、その距離が以前ほど遠く感じられなかった。
急ぐ必要はない。
無理をする必要もない。
三人と二頭が、今日も一緒に進めるなら、それで十分だった。
馬車は朝の光の中を、ゆっくりと進んでいく。
青い風魚の布が風に揺れ、三つの貝殻が小さな音を立てた。
ルシルはその音を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
次にハルミナへ戻ったときには、旅の記録を残すための帳面を探そう。
そして、今回の出来事を忘れないように書き留めよう。
水の大切さも、馬たちの疲れも、農家の女性の親切も。
何より、三人で考え、助け合いながら帰り道を進んだことを。
ルシルは手綱を握り直し、前方へ視線を向けた。
自由な旅は、まだ続いている。
その道がどれほど長くても、隣に仲間がいてくれるなら、きっと歩いていける。
そんな思いを胸に抱きながら、ルシルは今日もハルミナへ続く道を進んでいった。




