第154話「乾いた街道の小さな農家と、三人が受け取った旅の親切」
古い水場を後にしてから、馬車はしばらくの間、緩やかな丘に挟まれた街道を進んでいた。
空には薄い雲が広がり、朝方よりも陽射しは弱くなっている。それでも、風が運んでくる空気には乾いた土の匂いが混じっており、道端の草もところどころ黄色く色づいていた。車輪が小石を踏むたびに荷台が小さく揺れ、御者台に座るルシルは、その振動を感じながら二頭の馬の歩調を確かめていた。
トルクは普段ほど勢いよく歩いていない。
ベルクも落ち着いてはいるものの、首を少し低くしている時間が長くなっていた。
どちらも足を引きずっているわけではなく、手綱への反応も失われていない。しかし、十分な水を確保できないまま移動を続けてきたことが、少しずつ二頭の負担になっているのは明らかだった。
ルシルは手綱を持つ指へ力を込めかけ、すぐに緩めた。
(早くハルミナへ戻りたい。でも、急がせたらトルクたちがもっと疲れてしまう。僕たちが進みたい速さと、この子たちが歩ける速さは違うんだ)
そのことを頭では理解していても、胸の奥には焦りが残っていた。
昨日までの調査で、街道沿いに古い水場が存在したことは分かった。けれど、石槽に残っていた水は少なく、泥や落ち葉が混じっていたため、飲み水として使うことはできなかった。
手がかりは増えたが、持っている水は増えていない。
その事実が、馬車の揺れに合わせて何度もルシルの意識へ戻ってきた。
「ルシル様、少し速度を落としましょう」
隣に座っていたシモンが、穏やかな声で告げた。
ルシルはすぐに頷き、二頭へ声をかけた。
「分かった。トルク、ベルク、もう少しゆっくりでいいよ」
馬車の速度が落ちると、シモンは道の先を確かめながら続けた。
「この先は、しばらく大きな上り坂がないはずです。ですが、今日は距離を稼ぐことよりも、補給できる場所を見つけることを優先したいと思います」
「うん。僕もそう思う。ハルミナまで無理に進もうとして、途中で動けなくなったら困るもんね」
「そのとおりです。特に馬たちの水については、これ以上先延ばしにできません」
シモンの声はいつもどおり落ち着いていたが、言葉には普段よりもはっきりした重みがあった。
ルシルは横顔を見つめ、静かに頷いた。
これまでの旅でも、シモンは危険なことを危険だと伝えてくれた。楽観的な言葉で安心させるより、必要な事実を示してくれる。その誠実さに、何度も助けられてきた。
荷台の小窓から、モモが顔を覗かせた。
「ねえ、二人とも。お水のことなんだけど、昨日会ったおじさんみたいに、この辺りをよく知ってる人がまた通らないかな?」
ルシルは少し考えた。
「そうだね。道を知っている人に聞けたら、一番いいかもしれない」
「でも、誰かが通るのを待つだけじゃ駄目だよね。わたしたちも進まないといけないし」
モモはそう言いながら、旅帳面を膝の上へ置いた。
昨日の古い石槽の絵が描かれた頁には、シモンと一緒に確かめたことが細かく書き込まれている。昔の水場だったこと、今も少量の水が残っていたこと、けれど使える水ではなかったこと。
彼女はその記録を見返し、少しだけ唇を結んだ。
「わたし、昨日は水場を見つけられたのが嬉しかったんだ。でも、今思うと、トルクたちに飲ませてあげられなかったのが悔しいな」
ルシルは振り返り、モモの顔を見た。
「モモが悪いわけじゃないよ。ちゃんと調べてくれたから、あそこが今は使えないって分かったんでしょう?」
「うん。それは分かってるんだけどね」
モモは小さく笑ったものの、いつものようにすぐ冗談へ切り替えることはしなかった。
ルシルはその表情を見て、彼女も同じように馬たちのことを心配していたのだと感じた。
シモンは少し間を置き、二人へ声をかけた。
「今は、昨日できなかったことを悔やむより、今日できることを探しましょう。もし人家や荷車が見つかれば、まず水の補給について相談します。必要であれば代金も支払いますし、馬たちを休ませるために予定を変更することも考えます」
「うん!」
モモは今度こそ、しっかりと頷いた。
ルシルも前方へ向き直り、道の先を見つめた。
街道は緩やかに左へ曲がり、その向こうには低い木々が続いている。まだ人家の姿は見えなかったが、三人は周囲を注意深く確かめながら進むことにした。
それからしばらくして、最初に異変に気づいたのはモモだった。
「……あれ?」
荷台の窓から外を見ていた彼女が、身を乗り出した。
「ルシル君、シモン君! あっちに何か見えるよ!」
ルシルは馬車を急に動かさないよう気をつけながら、モモの指す方向へ目を向けた。
道の左側、低い木立の向こうに、細い煙が上がっている。
最初は雲の影かと思ったが、よく見ると煙は一か所から立ち上り、風に流されながら薄く広がっていた。
「煙だね。誰かいるのかな」
「その可能性は高そうです」
シモンは眼鏡の位置を直し、木立の向こうを確かめた。
「ただ、街道から建物はまだ見えません。少し進んで、道が分かれていないか確認しましょう」
ルシルは頷き、二頭へ優しく声をかけた。
馬車はゆっくりと進み、やがて道端に低い石垣が見えてきた。
石垣の内側には細長い畑が広がり、その向こうに小さな木造の建物が建っている。屋根の一部は古い板で補修されていたが、周囲はよく手入れされており、建物の脇には薪が整然と積まれていた。
さらに、その手前には街道から分かれる細い道があった。
「農家みたいだね」
ルシルが言うと、シモンは静かに頷いた。
「ええ。畑も使われていますし、煙が上がっているところを見ると、現在も人が暮らしているのでしょう」
モモは嬉しそうに顔を輝かせた。
「じゃあ、お水のことを聞けるかもしれないね!」
「そうですね。ただし、ここが私有地であることは忘れないようにしましょう。勝手に馬車を入れることはできません」
ルシルは手綱を整え、街道の脇にある比較的広い場所へ馬車を寄せた。
石垣の前には、荷車が一台通れる程度の空間がある。そこで馬車を止めると、トルクとベルクは小さく鼻を鳴らした。
「シモン、僕も一緒に挨拶へ行っていい?」
「もちろんです。ただし、馬たちを見守る人も必要ですので、まずは私が声をかけてまいります。家の方が応じてくださったら、ルシル様にも来ていただきましょう」
ルシルは頷いた。
「分かった。モモと一緒に待ってるね」
シモンは馬車から降り、農家へ続く細い道の入口へ向かった。
敷地へ無断で踏み込まず、石垣の外から声をかける。
「失礼いたします。旅の者ですが、どなたかいらっしゃいますか」
しばらくすると、建物の奥から物音が聞こえた。
扉が開き、灰色がかった髪を後ろで束ねた女性が姿を現した。年齢は五十代ほどだろうか。丈夫そうな作業着の袖を肘までまくり、片手には布巾を持っている。
「はいはい。何か御用ですか?」
女性はシモンを見てから、街道に停まっている馬車へ視線を移した。
シモンは丁寧に頭を下げた。
「突然お訪ねして申し訳ありません。私たちはハルミナへ向かう旅の途中なのですが、馬たちの飲み水を補給できる場所を探しております。もし近くに使える水場がございましたら、教えていただけないでしょうか」
女性は少し驚いたように眉を上げた。
「馬の水ですか。あらまあ、あの二頭ね」
彼女は石垣の方へ歩き、トルクとベルクの様子を確かめた。
ルシルは馬車のそばから軽く頭を下げた。
女性は二頭を見比べると、表情を引き締めた。
「ずいぶん喉が渇いているんじゃありませんか。どこから来たんです?」
「ハルミナから街道を進んだのですが、水の補給が難しくなったため、引き返しているところです」
シモンが答えると、女性は小さく息をついた。
「そうでしたか。この先は水場が少ないですからねえ。慣れていない人には難しい道なんですよ」
責めるような口調ではなかった。
むしろ、何度も同じような旅人を見てきた人の言葉に聞こえた。
「うちには井戸がありますよ。ただ、馬二頭となると相当な量が必要でしょう。井戸の水を使うなら、まず桶を運ぶところから手伝ってもらわないとね」
その言葉を聞いた瞬間、ルシルは胸の奥が大きく動くのを感じた。
井戸がある。
今も使われている井戸が、この農家にあるのだ。
けれど、すぐに喜びの声を上げることはしなかった。
水は、この家で暮らす人たちにとっても大切なものだ。
自分たちが困っているからといって、当然のように分けてもらえるわけではない。
シモンも同じことを考えたらしく、慎重に尋ねた。
「もちろん、必要な作業はお手伝いいたします。水の代金もお支払いしたいのですが、よろしいでしょうか」
女性は少し考えたあと、頷いた。
「代金はあとで相談しましょう。それより、馬をあまり待たせない方がいいですね。井戸のところまで案内しますから、二頭を連れてきてください。ただし、畑の中には入れないようにね」
「ありがとうございます」
シモンは深く頭を下げた。
ルシルも馬車のそばから声をかけた。
「本当にありがとうございます! 僕たちもお手伝いします!」
女性はルシルの方を見て、少し笑った。
「元気のいい子ですね。だったら、しっかり働いてもらいましょうか」
その言葉に、モモが荷台から勢いよく顔を出した。
「わたしも働きます! 水運びなら頑張れます!」
女性は目を丸くしたあと、声を上げて笑った。
「まあ、三人もいるのね。それなら、きっと大丈夫でしょう」
こうして、三人は思いがけず、街道沿いの小さな農家で水を分けてもらえることになった。
◇
農家の敷地へ馬車を入れる前に、シモンは周囲の状態を確かめた。
細い道は土が固く締まっていたが、畑の脇には柔らかい場所もある。馬車の車輪が深く沈んでしまわないよう、女性に確認しながら進む位置を決めた。
ルシルはトルクとベルクへ声をかけ、ゆっくりと馬車を動かした。
建物の横には小さな作業小屋があり、その向こうに石で囲まれた井戸が見えた。井戸の周囲はきれいに掃かれており、木製の桶と長い縄が掛けられている。
さらに少し離れた場所には、家畜用と思われる大きな木桶が置かれていた。
女性はそこを指さした。
「馬の水は、あの大きな桶へ入れてください。普段はうちの荷馬に使ってるんだけど、今は空いてるからね」
ルシルは頷き、二頭を安全な位置へ誘導した。
「ありがとうございます。トルク、ベルク、もう少し待っててね」
トルクは井戸の方へ鼻先を向け、落ち着かない様子で耳を動かした。
ベルクも水の匂いを感じ取ったのか、いつもより少しだけ顔を上げている。
その姿を見たルシルは、胸が締めつけられるような気持ちになった。
(こんなに水を欲しがっていたんだ。僕たちがもっと早く気づいて、補給できる場所を探していれば……)
後悔が浮かびかけたが、今はその感情に沈んでいる場合ではない。
目の前に井戸があり、協力してくれる人もいる。
必要なのは、二頭へ安全に水を飲ませることだった。
シモンは女性へ井戸の使い方を確認し、まず少量の水を汲み上げた。
桶の中には澄んだ水が揺れている。
女性はその水を見ながら説明した。
「この井戸は家でずっと使っているものです。昨日も汲みましたし、今朝も料理に使いました。変な匂いもありませんよ」
「ありがとうございます。まずは少しずつ馬たちへ与え、様子を見ながら追加いたします」
シモンはそう答え、水を木桶へ移した。
ルシルは二頭の手綱を持ち、モモは次の水を汲む準備を手伝う。
最初の水が木桶へ入ると、トルクはすぐに鼻先を近づけようとした。
「トルク、慌てなくていいよ」
ルシルが優しく声をかけると、シモンも頷いた。
「長く水が不足していたあとですから、まずは落ち着いて飲ませましょう。二頭の状態を見ながら、必要な量を少しずつ増やします」
ルシルはトルクの首筋を撫で、ベルクにも順番に水を飲ませた。
二頭は水へ鼻先を下ろし、静かに飲み始めた。
その音を聞いた途端、ルシルの肩から力が抜けそうになった。
水を飲む音。
たったそれだけのことが、こんなにも安心できるものだとは思わなかった。
モモも隣で、じっと二頭を見つめていた。
「……よかったね、トルク、ベルク」
いつもの明るい声とは違い、少しだけ震えている。
ルシルが顔を向けると、モモは慌てたように笑った。
「えへへ。なんか、わたしまで嬉しくなっちゃった」
「うん。僕もだよ」
ルシルは小さく頷いた。
シモンは二頭の様子を確かめながら、必要な量を見極めていた。
すぐに大量の水を与えるのではなく、休ませる時間を挟み、呼吸や立ち方に変化がないか観察している。
女性はその姿を見て、感心したように言った。
「ずいぶん丁寧に馬を見てるんですね」
「旅の大切な仲間ですから」
シモンは穏やかに答えた。
女性は少し目を細めた。
「そういう人なら、安心して水を使ってもらえますよ。たまにいるんです。馬を無理に走らせて、疲れたら怒鳴るような人がね」
ルシルはその言葉を聞き、トルクの首筋へ添えていた手を少し動かした。
馬が疲れていることを、人間の都合だけで責める。
自分には、そんなことはできないと思った。
けれど、今回の旅で水の見通しを誤ったことも、結局は馬たちへ負担をかける結果になってしまった。
その事実から目を逸らしてはいけない。
「僕たちも、もっとちゃんと考えないといけなかったんです」
ルシルが静かに言うと、女性は彼を見た。
「どういうことです?」
「水が足りなくなるかもしれないって分かっていたのに、補給できる場所を確かめきれないまま進んでしまいました。戻ることにはしたんですけど、それでもトルクたちには苦労をかけちゃって……」
言葉にすると、胸の奥に残っていた後悔が少しだけ形を持った。
女性はしばらく黙っていたが、やがて穏やかな声で答えた。
「旅をしていれば、思ったとおりにいかないこともあるでしょう。でも、間違えたと思ったあとにどうするかが大事なんじゃありませんか」
ルシルは顔を上げた。
女性は井戸の縁へ布巾を置き、続けた。
「馬を無理に走らせず、水を探して、知らない家にもちゃんと頭を下げて頼みに来た。それができたなら、次は同じことを繰り返さないようにすればいいんですよ」
ルシルはすぐには答えられなかった。
優しい言葉だった。
けれど、ただ慰めるだけではない。
今回の失敗を忘れず、次の旅へ生かすこと。
それが大切なのだと、女性は教えてくれている。
「……はい。ありがとうございます」
ルシルは深く頭を下げた。
女性は少し照れたように笑い、井戸の方へ向き直った。
「さあ、まだ水が必要でしょう。話はあとでもできますから、先に馬たちを落ち着かせましょうね」
その言葉に、モモが元気よく返事をした。
「はい! わたし、次の桶を運びます!」
シモンはすぐに彼女へ声をかけた。
「モモ嬢、無理に重い桶を持たないでくださいね。半分ほどで十分です」
「分かってるよ、シモン君! ちゃんと自分で持てる量にするから!」
モモは笑顔で答え、井戸のそばへ向かった。
ルシルはその後ろ姿を見ながら、少しだけ笑った。
こうして三人で水を運ぶことができる。
その当たり前のような光景が、今は何よりもありがたかった。
◇
水を汲む作業は、思っていたよりも時間がかかった。
井戸から桶を引き上げ、木桶へ運び、二頭の様子を見ながら追加する。その合間に水をこぼさないよう気をつけ、足元が濡れた場所では滑らないよう注意しなければならない。
モモは最初こそ張り切っていたが、何度か往復するうちに額へ汗が浮かび始めた。
「ふう……。井戸のお水って、こんなに重かったんだね」
彼女が桶を置いて息を整えると、ルシルも頷いた。
「うん。僕も、こんなに何度も運ぶことになるとは思わなかった」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
シモンは二頭の状態を確認しながら、女性へ水の使用量について相談していた。
馬たちへ必要な水を与えることが最優先だが、家の井戸を使わせてもらっている以上、勝手に汲み続けるわけにはいかない。
女性は話を聞くと、木桶の中を覗き込んだ。
「うちの井戸は今のところ水が十分ありますよ。ただ、家の分も必要ですから、持っていく水の量は相談させてくださいね」
「もちろんです。馬たちに必要な水を飲ませていただけるだけでも、大変ありがたいことです」
シモンが答えると、女性は頷いた。
「そう言ってもらえると助かります。旅の水袋にも少しは入れていきたいでしょう?」
「ええ。可能であれば、持参した容器へ補給させていただきたいと考えております」
「それなら、家で使う分を残したうえで、分けられる量を見ましょう」
ルシルは二人の会話を聞きながら、改めて水の大切さを感じていた。
ハルミナで補給したときには、井戸の水を使わせてもらえることがどれほどありがたいか、十分には理解できていなかった。
バルドが管理している井戸も、この農家の井戸も、そこに暮らす人たちの生活を支えている。
旅人だからといって、好きなだけ使ってよいものではないのだ。
やがて、トルクとベルクは水を飲むのをやめ、落ち着いた様子で立つようになった。
シモンはすぐに移動を再開するのではなく、二頭を休ませることにした。
「今日はここでしばらく休憩を取らせていただけないでしょうか。水を飲んだあと、馬たちの状態を確かめたいのです」
女性は快く頷いた。
「ええ、構いませんよ。あちらの木陰なら、馬も落ち着けるでしょう。ただ、畑の柵には近づけないでくださいね」
「ありがとうございます。十分に注意いたします」
ルシルはトルクとベルクを木陰へ移し、二頭が落ち着いて休めるようにした。
馬車の荷台から飼料を取り出し、シモンと相談しながら必要な分を与える。
トルクはいつものように食べ物へ興味を示したが、ルシルはその姿を見て、ようやく少し安心できた。
「よかったね、トルク。ちゃんとお水が飲めたね」
首筋を撫でると、トルクは小さく鼻を鳴らした。
ベルクも落ち着いた様子で立っている。
ルシルは二頭の間に立ち、しばらくその姿を眺めていた。
水を飲ませられたことが嬉しい。
けれど、それだけで今回の問題がすべて終わったわけではない。
馬たちが十分に回復するまで、無理な移動は避ける必要がある。
次の旅では、もっと早い段階で補給場所を確認しなければならない。
そうした考えが、少しずつルシルの中で形になっていった。
◇
休憩の間、女性は三人を家の前にある長椅子へ案内してくれた。
建物の壁には乾燥させた草束が吊るされ、軒下には農具が整然と並んでいる。小さな窓からは料理の匂いが漂っており、家の中では何かを煮込んでいるらしかった。
女性は木製の杯へ水を注ぎ、三人の前へ置いた。
「人間の方も、ちゃんと飲んでくださいね。馬のことばかり気にして、自分たちが倒れたら困るでしょう」
ルシルは杯を受け取り、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
モモも両手で杯を持ち、嬉しそうに微笑んだ。
「いただきます!」
冷たい水が喉を通ると、ルシルは思わず目を閉じた。
特別な味がするわけではない。
けれど、乾いた街道を進み続けたあとでは、その一口が驚くほど美味しく感じられた。
モモも同じだったらしく、杯を置くと小さく息をついた。
「……お水って、こんなに美味しかったんだね」
女性は笑った。
「普段はあまり考えないでしょう? でも、なくなると困るものなんですよ」
モモは真剣な表情で頷いた。
「うん。わたし、今までよりずっと大事にしようと思う」
シモンは杯を置き、女性へ改めて礼を述べた。
「おかげさまで、馬たちも落ち着きました。差し支えなければ、この辺りの水場について、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
「ええ、いいですよ。私に分かることなら」
女性は長椅子の端へ腰を下ろした。
ルシルは姿勢を正し、モモも旅帳面を開いた。
「実は、昨日、街道沿いに古い石の水槽を見つけたんです」
ルシルが説明すると、女性はすぐに頷いた。
「ああ、あそこですか。昔は荷車の休憩場所だったところですね」
「やっぱり、そうなんですね」
「ええ。ただ、今はほとんど使われていませんよ。水を引いていた溝も、ずいぶん前から手入れされなくなっているはずです」
モモは帳面の絵を女性へ見せた。
「これなんですけど、分かりますか?」
女性は身を乗り出し、絵をじっと見つめた。
「あら、上手に描いてますねえ。そうそう、こんな形でした。石槽の奥に細い溝があるでしょう? 昔はそこから水が流れ込んでいたんですよ」
モモは嬉しそうに笑った。
「やっぱりそうなんだ!」
女性は頷いたあと、少し懐かしそうな表情になった。
「私が若い頃には、まだ使っている人もいました。でも、年々水の流れが細くなって、今では雨が降ったあとに少し溜まるくらいじゃないかしら」
ルシルはその話を聞き、昨日見た石槽の底を思い出した。
落ち葉と泥に覆われたわずかな水。
昔は旅人たちを支えていた場所が、今は役目を終えかけている。
そのことに、少しだけ寂しさを感じた。
「どうして使われなくなったんでしょう?」
ルシルが尋ねると、女性は少し考えた。
「水の流れが変わったのかもしれませんし、溝の手入れをする人がいなくなったのかもしれません。詳しいことまでは分かりませんね。ただ、昔と同じように使えると思って行くと、困ることになるでしょう」
シモンは静かに頷いた。
「私たちも、そのことを今回の旅で学びました。地図に載っていない水場や、昔使われていた場所については、現在の状態を確認しなければなりませんね」
「そうですね。特にこの辺りは、見た目より水の少ない場所がありますから」
女性は街道の方へ視線を向けた。
「ハルミナから出るときに、どの道を通るか聞かなかったんですか?」
ルシルは少しだけ視線を落とした。
「道のことは相談したんです。でも、水の補給場所については、もっと詳しく確かめておくべきでした」
女性は彼の表情を見て、穏やかに首を振った。
「そう思えたなら、次はきっと大丈夫ですよ。旅は、何でも最初から上手にできるものじゃありませんからね」
ルシルは静かに頷いた。
王宮にいた頃、自分の知らないことは誰かが先回りして教えてくれることが多かった。
必要なものは用意され、移動の予定も整えられていた。
けれど、今は違う。
自分たちで考え、確かめ、間違えたときにはその結果を引き受けなければならない。
それは簡単なことではないが、だからこそ、一つずつ覚えていきたいと思った。
◇
しばらく話をしているうちに、女性は三人がまだ昼食を取っていないことに気づいた。
「そういえば、あなたたち、お昼はまだでしょう?」
モモが顔を上げた。
「はい! これから食べようと思ってました!」
「だったら、ここで食べていくといいですよ。うちの畑の邪魔にならないところなら、少しくらい休んでいても構いませんから」
ルシルはすぐに頭を下げた。
「ありがとうございます。でも、これ以上ご迷惑をかけるのは……」
女性は笑って手を振った。
「迷惑なんて。水運びもちゃんと手伝ってくれたし、馬の世話も丁寧にしてるでしょう。休む場所を貸すくらい、大したことじゃありませんよ」
シモンは少し考えたあと、頷いた。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます。食事は持参したもので済ませますので、どうぞお気遣いなく」
「ええ、そうしてください」
女性はそう言って家の中へ戻っていった。
三人は建物の脇にある木陰へ移り、持参した保存食を広げた。
乾燥させた野菜と保存肉、残っていた硬めのパン。
豪華な食事ではなかったが、今日は水を補給できたという安心感があった。
モモはパンを手に取り、少しだけ笑った。
「ねえ、ルシル君。今朝は焼きたてのパンの夢を見たって話したでしょう?」
「うん。すごく美味しそうだったね」
「でも、今はこのパンでも十分美味しい気がする!」
そう言って一口かじったモモは、すぐに少し困ったような顔をした。
「……やっぱり、ちょっと硬いけど」
ルシルは思わず笑った。
「そこは変わらないんだね」
「うん。でも、ちゃんと食べられるだけありがたいよね」
モモはそう言いながら、もう一口パンをかじった。
シモンも穏やかに微笑んだ。
「ハルミナへ戻ったら、今度は補給計画を十分に立て直しましょう。食料だけでなく、水の確保方法も含めて、次の旅程を考える必要があります」
ルシルは頷いた。
「うん。今度は、地図だけじゃなくて、実際にその道を通った人の話も聞きたいな」
「よい考えですね。宿の方や井戸を管理している方、荷車を扱う人たちから情報を集めれば、より現実的な計画を立てられるでしょう」
モモはパンを飲み込み、勢いよく手を上げた。
「じゃあ、わたしは食べ物のお店の人に聞いてみる!」
シモンは少しだけ眉を上げた。
「食べ物のお店ですか?」
「うん! だって、パン屋さんだって小麦粉を運んでもらうでしょう? 荷車で来る人がいるなら、道のことを知ってるかもしれないよ!」
その言葉に、ルシルは目を見開いた。
「確かに、そうかもしれないね」
シモンも少し考えたあと、頷いた。
「なるほど。商人や配達をする人の話を聞くという意味では、十分に役立つ考えです」
モモは嬉しそうに笑った。
「でしょ! それに、エルナさんのパンも買えるし!」
ルシルは笑いながら首を振った。
「やっぱり、最後はパンなんだね」
「もちろん! でも、ちゃんと旅の役にも立つでしょう?」
モモは胸を張って答えた。
三人の間に、久しぶりに明るい笑い声が広がった。
水の問題が完全に消えたわけではない。
けれど、今は馬たちが水を飲み、人間も休むことができている。
その事実が、三人の心へ少しずつ余裕を取り戻させていた。
◇
昼食を終えたあと、シモンは女性へ水の代金について改めて相談した。
女性は最初、少し困ったように笑った。
「そんなに気にしなくてもいいんですよ。井戸の水を分けただけですから」
「いえ。私たちにとっては、大変重要な助けでした。少なくとも、井戸を使わせていただいた分のお礼はさせてください」
シモンは丁寧に答えた。
女性はしばらく考えたあと、頷いた。
「それなら、井戸の縄を替えるときの足しにさせてもらいましょうか。古くなってきてるから、そろそろ新しいものを買おうと思ってたんですよ」
「承知しました」
シモンは財布から適切な額を取り出し、女性へ渡した。
女性は受け取った硬貨を確かめ、少し驚いたように目を丸くした。
「まあ、こんなに?」
「馬二頭の水を使わせていただきましたし、私たちの飲み水までいただきましたから」
「それでも、少し多い気がしますねえ」
女性はそう言いながらも、シモンの真剣な表情を見て、小さく笑った。
「分かりました。ありがたく使わせてもらいます。その代わり、帰り道で困らないように、もう少し話をしておきましょう」
シモンは頷いた。
「ありがとうございます。ぜひお願いいたします」
女性は街道の方へ目を向けた。
「ここからハルミナへ向かうなら、今日は無理に距離を稼がない方がいいでしょう。馬たちも疲れているようですし、日が暮れる前に休める場所を探した方が安心ですよ」
ルシルは静かに頷いた。
「はい。今日は、あまり無理をしないつもりです」
「それがいいですね。道沿いには少し先に木立がありますが、そこは地面が柔らかいところもあります。馬車を止めるなら、道から少し離れた固い場所を選んでください」
シモンは帳面へ書き留めた。
女性はさらに、近くの道の状態や、雨が降ったときに通りにくくなる場所について話してくれた。
その情報は、どれも地図だけでは分からないものだった。
ルシルは話を聞きながら、旅をするうえで人との出会いがどれほど大切なのか、改めて感じていた。
道を知っている人。
水場を知っている人。
その土地で暮らし、季節の変化を見てきた人。
そうした人たちの言葉には、紙の上の地図とは違う重みがある。
やがて、女性は家の中から小さな包みを持ってきた。
「これ、よかったら持っていってください」
包みの中には、乾燥させた香草が少し入っていた。
モモは興味深そうに顔を近づけた。
「わあ、いい匂い!」
「畑で育ててるものなんですよ。料理に少し入れると、香りがよくなるんです」
ルシルは驚いて女性を見た。
「いただいてもいいんですか?」
「ええ。大したものじゃありませんから。旅の食事は同じ味になりがちでしょう?」
その言葉に、モモが勢いよく頷いた。
「そうなんです! だから、すっごく嬉しいです!」
女性は声を上げて笑った。
「そんなに喜んでもらえるなら、持ってきた甲斐がありましたね」
モモは包みを大切そうに受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます! 今度のお料理で使ってみます!」
ルシルも笑顔で礼を述べた。
シモンは香草の種類と使い方を確認し、保存方法についても聞いていた。
その姿を見て、女性は感心したように頷いた。
「あなたたち、本当に仲がいいんですねえ」
突然の言葉に、ルシルは少し驚いた。
「そう見えますか?」
「ええ。三人とも、ちゃんと相手の話を聞いているでしょう。旅をしていると、疲れたり困ったりして、つい喧嘩になることもあるでしょうに」
ルシルはモモとシモンを見た。
モモは香草の包みを抱えて笑っている。
シモンは帳面を閉じ、穏やかな表情でこちらを見ていた。
確かに、意見が違うことはある。
モモが勢いよく行動しようとして、シモンが止めることもあるし、ルシル自身が判断に迷うことも少なくない。
それでも、三人で旅を続けてきた。
そのことが、今は何よりも嬉しかった。
「……はい。僕たちは、三人で旅をするのが好きなんです」
ルシルが答えると、女性は優しく微笑んだ。
「それなら、これからも大事にしてくださいね。道がどれだけ長くても、一緒に歩いてくれる人がいるのは、ありがたいことですから」
ルシルは静かに頷いた。
その言葉は、胸の奥へゆっくりと染み込んでいった。
◇
午後の陽射しが少し傾き始めた頃、三人は農家を出発する準備を整えた。
シモンは補給した水の量を確認し、持参した容器の口がしっかり閉まっていることを確かめた。モモは香草の包みを荷台の安全な場所へしまい、旅帳面へ農家で聞いたことを書き留めている。
ルシルはトルクとベルクの様子を確かめた。
二頭は水を飲んで休んだことで、先ほどよりも落ち着いている。
ただし、すぐに長い距離を歩かせてよい状態だと決めつけることはできない。
ルシルはシモンと相談し、今日は短い距離だけ進み、早めに野営することにした。
「トルク、ベルク。今日はもう少しだけ頑張ろうね。でも、無理はしなくていいから」
ルシルが声をかけると、トルクは小さく鼻を鳴らした。
ベルクも静かに耳を動かした。
女性は家の前まで見送りに来てくれた。
「気をつけて行ってくださいね。水があるからって、無理に進みすぎないように」
「はい。本当にありがとうございました」
ルシルは深く頭を下げた。
モモも両手を振った。
「ありがとうございました! 香草、大切に使います!」
シモンも丁寧に礼を述べた。
「おかげさまで、旅を続ける見通しが立ちました。いただいた情報も大切にいたします」
女性は三人を見比べ、穏やかに笑った。
「またこの道を通ることがあったら、顔を見せてくださいね。今度は、もっと余裕のある旅だといいですね」
ルシルはその言葉に笑顔で頷いた。
「はい。次は、ちゃんと準備して来ます!」
馬車がゆっくりと動き出す。
石垣の向こうで女性が手を振り、モモも荷台の窓から何度も手を振り返した。
やがて農家の建物が木々の向こうへ隠れると、三人は再び街道の旅人になった。
けれど、今朝までとは少し違う。
馬たちは水を飲み、容器にも補給ができた。
そして、三人の心には、思いがけない親切を受け取った温かさが残っていた。
「……よかったね」
ルシルが静かに言うと、隣のシモンが頷いた。
「ええ。本当に助かりました」
荷台からモモの声が聞こえた。
「ねえ、ルシル君! ハルミナに戻ったら、今日のこともマリナさんに話したいね!」
「うん。きっと喜んで聞いてくれると思うよ」
「それに、バルドさんにも井戸のことを聞いてみたいな。あの農家のおばさんみたいに、いろんなことを知ってるかもしれないし!」
ルシルは笑顔で頷いた。
「そうだね。今度は、もっといろんな人の話を聞いてから旅に出よう」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「それがよいでしょう。旅の準備は、荷物を揃えることだけではありませんからね」
ルシルはその言葉を胸に留め、前方へ視線を向けた。
街道の先には、まだ知らない景色が続いている。
ハルミナへ戻ったあと、どの道を選ぶのかはまだ決まっていない。
けれど、焦る必要はない。
水のことを学び、馬たちのことを考え、人の親切に助けられた今日の経験は、きっと次の旅へつながっていく。
ルシルは手綱を握り直し、二頭の歩調に合わせて馬車を進めた。
青い風魚の布が風に揺れ、荷台の奥では三つの貝殻が小さな音を立てている。
その音を聞きながら、ルシルは静かに微笑んだ。
(王位を手放して、僕は何も知らないまま旅へ出た。でも、知らなかったことを一つずつ覚えていけるなら、それも悪くないよね)
隣にはシモンがいる。
後ろにはモモがいる。
そして、馬車を引いてくれるトルクとベルクがいる。
その誰も欠けることなく、今日も旅を続けられる。
ルシルにとって、それはどんな立派な宝物よりも大切なことだった。
午後の街道を、馬車はゆっくりと進んでいく。
ハルミナへ続く道の先には、まだいくつもの丘が重なっていた。
けれど、その距離を見つめるルシルの胸には、朝までの焦りとは違う、穏やかな決意が灯っていた。




