↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
153/172

第153話「夜明けの蹄跡と、古い水場を知る旅人」



 夜明け前の草地には、昼間とは違う冷たさが残っていた。


 低い丘の向こうから薄青い光が広がり始めていたものの、地面に落ちた影はまだ濃く、馬車の車輪や積み荷の輪郭もぼんやりとしている。遠くでは夜鳥が最後の鳴き声を響かせ、風が草の穂先を揺らすたびに、乾いた葉の擦れ合う音が静かな野営地へ届いていた。


 ルシルは外套の襟元を整えながら、馬車の脇に立っていた。


 昨夜は交代で見張りを行い、大きな問題もなく朝を迎えることができた。もっとも、安心して眠れたかと問われれば、素直に頷くことは難しい。眠りに落ちる直前まで水の残量が気になっていたし、夜中に目を覚ましたときには、トルクとベルクが無事に休めているか確かめたくなった。


 それでも、必要以上に不安を膨らませることはしなかった。


 心配しているだけでは水は増えないし、馬たちの疲れが取れるわけでもない。今できることを一つずつ確かめる方が、三人にとってずっと大切なのだと、ここ数日の旅で少しずつ理解できるようになっていた。


「おはようございます、ルシル様。もう起きていらしたのですね」


 背後から声をかけられ、ルシルは振り返った。


 シモンが馬車の後方から歩いてくるところだった。黒縁の眼鏡をかけ直しながら、片手には小さな帳面を持っている。いつもどおり落ち着いた表情をしていたが、その足取りには夜番を終えたばかりの人間らしい重さが残っていた。


「おはよう、シモン。もう少し寝ていてもよかったのに」


「十分とは申しませんが、休息は取れています。それより、ルシル様こそ早起きですね」


「なんとなく目が覚めちゃって。トルクたちが気になったから、先に様子を見ていたんだ」


 ルシルが二頭へ視線を向けると、シモンもその方向を見た。


 栗毛のトルクは耳を動かしながら朝の空気を嗅いでおり、濃い灰色のベルクは少し離れた場所で静かに立っている。二頭とも昨夜より落ち着いて見えたが、それだけで疲労が完全に抜けたと判断することはできない。


 シモンは帳面をしまい、まずトルクの首筋と肩の辺りを確かめた。


「昨夜から大きな変化はなさそうですね。食欲も保たれています。ただ、水の不足が続いていることは変わりませんので、今日は早い段階で補給の見通しを立てたいところです」


「うん。昨日の石標のことも、まだ気になってる」


「私もです。ですが、あの石組みが現在も使える水場だとは確認できていません。今日の行動を決めるうえでは、そこを区別しておく必要があります」


 ルシルは頷き、ベルクの方へ歩いた。


 ベルクは近づいてきた彼を認めると、ゆっくりと耳を動かした。ルシルが首筋へ手を添えると、馬は嫌がることなく静かに受け入れた。


「おはよう、ベルク。今日もよろしくね。無理はさせないから」


 低い声で語りかけながら、ルシルは毛並みを撫でた。


 王宮で暮らしていた頃にも馬と接する機会はあったが、毎日の体調を自分の目で確かめ、旅の予定をその状態に合わせて考えるような経験はほとんどなかった。今は、ベルクがいつもより頭を低くしているだけでも気になるし、トルクが餌へ勢いよく鼻先を伸ばす姿を見ると、少し安心できる。


 それは、馬たちを単なる移動手段ではなく、同じ旅を続ける仲間として感じるようになったからだろう。


 シモンがベルクの脚元を確認していると、馬車の荷台から小さな物音が聞こえた。


「……おはよぉ……」


 眠そうな声とともに、モモが顔を覗かせた。


 桃金色の髪は少し乱れ、白い外套の肩には寝具の皺が残っている。普段なら朝から元気よく挨拶する彼女だったが、今朝はまだ半分ほど夢の中にいるらしく、目を細めながら二人を見比べていた。


「おはよう、モモ。まだ眠そうだね」


「うん……。なんかね、すっごく美味しいパンを食べる夢を見てたの。焼きたてで、外がカリカリで、中がふわふわで……」


 モモはそこまで話すと、残念そうに自分の手を見つめた。


「起きたら、パンがなかったんだよ……」


 ルシルは思わず笑ってしまった。


「それは残念だったね」


「残念なんてもんじゃないよ、ルシル君。あと一口で、真ん中の一番美味しいところだったんだから!」


 モモは真剣な表情で訴えたが、シモンは眼鏡の位置を直しながら穏やかに答えた。


「夢の中の食事については、残念ながら補償いたしかねますね」


「シモン君、そういうときは慰めてくれてもいいと思う!」


「では、ハルミナへ戻った際には、エルナさんの店で焼きたてのパンを買うことを検討しましょう」


 その言葉を聞いた途端、モモの表情が明るくなった。


「本当!? それなら頑張れる!」


「ただし、まずは無事に戻ることが先です」


「分かってるよ! でも、帰ったあとの楽しみがあるって大事でしょう?」


 モモはそう言って笑い、荷台から降りてきた。


 朝の冷たい空気に肩をすくめながらも、彼女はすぐに身支度を整え始めた。昨夜片づけておいた食器を確認し、寝具を畳み、朝食に使う保存食を取り出す。その手つきは以前よりもずっと慣れていた。


 ルシルはその様子を眺めながら、ふと胸の奥が温かくなるのを感じた。


 旅を始めたばかりの頃、三人の役割は今ほど自然には決まっていなかった。シモンに頼ることが多く、ルシル自身も何をすればよいのか分からない場面があったし、モモは興味を引かれたものへ真っ先に駆け寄っていた。


 今では、誰かが指示しなくても、それぞれが必要な仕事を見つけて動いている。


 その変化が、ルシルには嬉しかった。


     ◇


 朝食を終えると、三人は今日の移動について相談した。


 地図は馬車の後部に置いた木箱の上へ広げられ、シモンの帳面がその隣に並んでいる。朝の光が少しずつ強くなり、紙の上へ落ちた木々の影が風に合わせて揺れていた。


「昨日の場所から、まだそれほど離れていないんだよね」


 ルシルが尋ねると、シモンは地図の一角を指で示した。


「ええ。昨日は石標を調べる時間を取りましたし、馬たちの負担を考えて早めに野営しましたから。現在地はこの辺りと考えられますが、正確な距離については多少の誤差があります」


 モモは地図を覗き込み、昨日描いた石標の絵を横へ並べた。


「ここに石があって、その奥に四角い石組みがあったんだよね。あれって、昔の水場だったのかなあ」


「可能性はあります。ただ、今も水が使える場所なのかどうかは別の問題ですね」


 シモンが答えると、モモは少し考え込んだ。


「もし昔は水があったとしても、今はなくなっちゃったのかもしれないもんね」


「そのとおりです。石組みだけを見て判断するのは危険です」


 ルシルは二人の話を聞きながら、昨日の光景を思い出していた。


 草の間に見えた四角い石の縁。


 奥に残っていた低い石壁。


 そして、その手前だけ少し柔らかくなっていた地面。


 水の音は聞こえなかったが、あの場所に人工物があったことは確かだった。


「ねえ、シモン。昨日は地面が柔らかくて、奥まで近づけなかったでしょう? もし道の反対側から回り込める場所があったら、もう少し安全に見られたりしないかな」


 シモンはすぐには答えなかった。


 地図へ目を落とし、周囲の地形を思い返しているようだった。


「その可能性はあります。しかし、馬車を無理に草地へ入れることはできませんし、徒歩で調べるにしても時間と安全の問題があります。現在の水の残量を考えると、長時間の調査は避けるべきでしょう」


「うん。だから、絶対に調べたいってわけじゃないんだ。ただ、もし道沿いに別の入口があったら、少し見てみる価値はあるかなって」


 ルシルはそう言いながら、シモンの表情を窺った。


 自分の考えを伝えることには、以前ほど抵抗がなくなっていた。


 もちろん、シモンの判断を無視したいわけではない。彼の経験がどれほど頼りになるかは、旅を続けるうちに何度も実感している。


 けれど、自分が気づいたことを口にし、三人で考えることもまた、旅の大切な一部なのだと思っていた。


 シモンはしばらく考えたあと、頷いた。


「では、今日の道中で昨日の石標へ通じるような古い道筋が見つかれば、その場で判断しましょう。ただし、水場があるという前提では行動しません」


「うん、それでいいと思う」


 モモも笑顔で頷いた。


「わたしも賛成! でも、もし何も見つからなかったら、そのままハルミナへ向かうんだよね?」


「ええ。今の私たちにとって、確実な補給場所へ近づくことが重要ですから」


 三人の方針が決まると、シモンは地図を畳み、帳面へ短く書き込んだ。


 ルシルはその横顔を眺めながら、昨日までとは少し違う気持ちで今日の道を進めそうだと感じていた。


 戻ると決めたことに後悔はない。


 けれど、戻る道にも新しい発見があるかもしれない。


 そう思えるだけで、胸の奥にあった重さが少し和らいだ。


     ◇


 馬車が動き出した頃には、朝の冷たさもだいぶ薄れていた。


 トルクとベルクはゆっくりと歩き始め、四つの車輪が乾いた道の上を転がっていく。青波村で手に入れた青い風魚の布が荷台の側面で小さく揺れ、潮凪村で拾った三つの貝殻が、風を受けてかすかな音を立てていた。


 ルシルは御者台に座り、手綱を握りながら道の先へ目を向けた。


 右側には低い丘が続き、左側には草地が広がっている。昨日通った道ではあるが、朝の光の中では景色が少し違って見えた。


 モモは荷台の窓から外を眺め、時折旅帳面へ何かを書き込んでいる。


「ルシル君、昨日は気づかなかったけど、あの丘の上に大きな木が一本だけあるんだね」


「本当だ。周りにほかの木がないから、すごく目立つね」


「なんか、丘の上で一人だけ見張りをしてるみたい!」


 モモの言葉に、ルシルは笑みを浮かべた。


「そう言われると、そんなふうにも見えるね」


 シモンは道の状態を確かめながら、二人の会話を聞いていた。


「目立つ木は、旅人にとってよい目印になることがあります。ただし、遠くから見える位置と、実際に近づける道筋が一致するとは限りませんので、注意が必要ですね」


「シモン君って、何を見てもちゃんと旅に役立つことを考えるよね」


 モモが感心したように言うと、シモンは少し困ったように微笑んだ。


「職業柄、そうした見方が身についているだけですよ」


「でも、わたしはすごいと思うよ。だって、わたしなんて最初に思ったのが『あの木の下でお昼寝したら気持ちよさそう』だったもん」


「それも悪い考えではありませんよ。安全な場所であれば、木陰は休憩に適していますから」


「ほら! やっぱりシモン君は旅に役立つことを考えてる!」


 モモが嬉しそうに笑い、ルシルもつられて笑った。


 こうして何気ない会話を交わせることが、今はありがたかった。


 水の問題が解決していない以上、気を抜くことはできない。それでも、不安だけを抱えたまま進み続ければ、心まで疲れてしまう。


 モモの明るさは、そんなときに三人の空気を少し柔らかくしてくれる。


 シモンもそれを分かっているのだろう。普段は慎重な言葉を選ぶ彼が、モモの冗談にはときどき小さな笑みを返していた。


 やがて、道の先に浅い窪みが見えてきた。


 昨日も通った場所だったが、朝の光の中では地面の凹凸がはっきりと分かる。ルシルは馬車の速度を落とし、トルクとベルクが無理なく通れる位置を選んだ。


 そのとき、シモンが道の端へ視線を向けた。


「……ルシル様、少しお待ちください」


 声に緊張が混じっていたわけではない。


 けれど、何かに気づいたことは明らかだった。


「どうしたの?」


「道の右側をご覧ください。あの辺りに、車輪の跡とは違うものが残っているようです」


 ルシルは手綱を整え、指し示された場所へ目を向けた。


 乾いた土の上に、いくつかの蹄跡が残っている。


 馬車を引く馬が通った跡にしては、位置が道の端へ寄っていた。しかも、その跡は途中から草地の方へ向きを変えているように見える。


「馬が道から外れたのかな」


「そのように見えます。ただ、いつ付いた跡なのかは、ここからでは分かりません」


 シモンは周囲を確認し、馬車を止められる場所を探した。


 少し先に地面の固い広がりがあったため、ルシルはそこまで進んでから二頭を止めた。


 モモも荷台から顔を出した。


「何か見つけたの?」


「馬の足跡みたいなものがあるんだ。道の外へ続いてるみたいでね」


「えっ、じゃあ、誰かがあっちへ行ったのかな?」


「その可能性はありますが、まだ分かりません」


 シモンはそう答え、馬車から降りた。


 ルシルも続こうとしたが、シモンが軽く手を上げた。


「まずは私が近くを確認します。ルシル様は馬たちを見ていてください」


「うん、分かった」


 ルシルは頷き、手綱を握ったままシモンの様子を見守った。


 シモンは道の端まで歩き、地面に残る蹄跡を慎重に観察した。足跡は一つではなく、複数の方向へ重なっているようだった。


 しばらくして、彼は馬車へ戻ってきた。


「馬が何度か通った形跡があります。道から草地へ入ったものもあれば、戻ってきたものもあるようです」


「じゃあ、どこかへ続く道があるのかな」


「可能性はあります。ただ、草が伸びているため、はっきりした道筋は見えません。馬車で入るには適していないでしょう」


 ルシルは草地の向こうへ目を向けた。


 低い丘の間に、木々が集まった場所が見える。


 昨日の石標があった方向と、完全に同じとは言えないものの、地形のつながりを考えると、どこかで近い場所へ出る可能性はありそうだった。


「……シモン、あの蹄跡って、昨日の石組みと関係があるのかな」


「分かりません。ただ、気になる点ではありますね」


 モモは旅帳面を抱え、二人の話を聞いていた。


「ねえ、もしかして誰かが馬に水を飲ませに行ったとか?」


 その言葉に、ルシルは思わず顔を上げた。


 水場。


 もしそうなら、今の三人にとって重要な情報になる。


 けれど、すぐに期待へ飛びつくことはしなかった。


「そうだったら嬉しいけど、まだ分からないよね」


「うん。だから、ちゃんと確かめたいなって思ったの」


 モモは真剣な表情で答えた。


 シモンは二人を見比べ、少し考え込んだ。


「ここで馬車を置いて奥まで進むのは避けたいところです。ですが、道沿いで誰かに話を聞ければ、手がかりになるかもしれません」


 その言葉が終わるか終わらないかという頃、遠くから車輪の音が聞こえてきた。


 三人は同時に顔を上げた。


 道の向こうに、小さな荷車が見える。


 荷車を引いているのは一頭の馬で、御者台には年配の男性が座っていた。荷台には木箱と麻袋が積まれ、側面には古い縄が何本も結びつけられている。


 男性は三人の馬車に気づくと、少し手前で速度を落とした。


「おや、旅の人かい。こんなところで休憩かね?」


 低く、よく通る声だった。


 ルシルは手綱を握ったまま、丁寧に頭を下げた。


「こんにちは。少し道の様子を確かめていたところです」


「そうかい。馬が二頭なら、道の石には気をつけた方がいい。この先は少し荒れてるところがあるからな」


 男性はそう言いながら、三人の馬車を眺めた。


 視線がトルクとベルクへ移ったところで、彼の表情が少し変わった。


「……水は足りてるのか?」


 ルシルは一瞬、言葉に詰まった。


 突然の問いだったが、男性の目にはからかうような色はなかった。


 シモンが一歩前へ出た。


「十分な余裕があるとは言えません。現在、ハルミナへ戻る途中なのですが、道沿いで補給できる場所について情報を探しています」


 男性は眉を上げた。


「ハルミナへ戻るのか。なら、あんたたちはあっちから来たんだな」


「ええ。少し先まで進んだのですが、水の見通しが立たなかったため、戻ることにしました」


 シモンが答えると、男性はしばらく考え込んだ。


 やがて、道の端に残る蹄跡へ目を向けた。


「もしかして、あの跡を見てたのか?」


「はい。道の外へ続いているようでしたので」


 男性は小さく頷いた。


「ああ、あれはな。昔の水場へ行く馬の跡だよ」


 ルシルは思わず息を呑んだ。


 モモも旅帳面を抱えたまま、目を大きく見開いた。


「昔の水場……?」


 男性は三人の反応を見て、少し笑った。


「そんなに驚くことかい。まあ、今じゃ知らない旅人の方が多いかもしれんな。昔はこの辺りを通る荷車が、あそこで馬を休ませてたんだ」


 ルシルは胸の鼓動が少し速くなるのを感じた。


 昨日見つけた石標。


 木々の手前に残っていた石組み。


 そして、今日見つけた蹄跡。


 ばらばらだったものが、少しずつつながり始めたような気がした。


 しかし、シモンはすぐに確認を重ねた。


「その水場は、現在も使えるのでしょうか」


 男性は少し難しい顔をした。


「そこが問題なんだよ。昔はちゃんと水が溜まってたんだが、今はどうかな。俺も最近は使ってないから、はっきりしたことは言えん」


 ルシルは期待が少し落ち着くのを感じた。


 やはり、昔の水場だったからといって、今も使えるとは限らない。


「じゃあ、今は水がないかもしれないんですね」


「そういうことだ。ただ、雨が続いたあとなんかは、石槽に水が残ってることもある。もっとも、飲ませていい水かどうかは別だがな」


 男性はそう言って、荷車の馬へ目を向けた。


「俺の馬には、今朝ちゃんと水を飲ませてある。だから今日は寄らずに進むつもりだったんだ」


 シモンは静かに頷いた。


「貴重なお話をありがとうございます。差し支えなければ、その水場へ通じる道について、もう少し教えていただけますか」


 男性は道の右側を指さした。


「この蹄跡の先に、草の短いところがあるだろう。昔はそこが荷車の通り道だったんだ。今は草が伸びてるから、馬車で入るのは勧めんが、歩いて様子を見るくらいならできるかもしれない」


 ルシルは指し示された方向へ目を向けた。


 確かに、草の間に少しだけ色の違う帯が見える。


 昨日、石標の背後で見た草地と似ていた。


「その水場って、石でできた大きな四角いものですか?」


 ルシルが尋ねると、男性は驚いたように目を見開いた。


「おや、知ってるのかい?」


「昨日、道の脇に古い石標を見つけたんです。その奥に四角い石組みがあったので、何だろうと思って」


 男性は納得したように頷いた。


「ああ、それならたぶん同じ場所だな。石標もまだ残ってたのか。あれは昔、水場の位置を知らせるために立てられたって聞いたことがあるよ」


 モモは嬉しそうにルシルを見た。


「ルシル君! やっぱり関係があったんだね!」


「うん。でも、まだ水があるかどうかは分からないから、そこは気をつけないとね」


 ルシルが答えると、モモは真剣な表情で頷いた。


 男性は三人のやり取りを眺め、少しだけ表情を和らげた。


「慎重なのはいいことだ。旅の途中で水が足りなくなると、馬も人も困るからな」


 シモンは礼を述べ、さらに現在の水場の状態を知る方法がないか尋ねた。


 男性はしばらく考えたあと、首を横に振った。


「最近使った人に聞ければ一番いいんだが、俺は知らんな。ただ、あそこには昔、石槽へ水を引く細い溝があったはずだ。もしまだ残ってるなら、水がどこから来てたのかくらいは分かるかもしれん」


 ルシルはその言葉を胸に留めた。


 石槽へ水を引く溝。


 昨日はそこまで確認できなかった。


 もしかすると、今も何か手がかりが残っているのかもしれない。


「ありがとうございます。とても助かりました」


 ルシルが頭を下げると、男性は笑って手を振った。


「いやいや、旅人同士だ。困ったときはお互い様さ。ただし、無理はするなよ。水が見つからなかったら、変に粘らず戻ることだ」


「はい。気をつけます」


 シモンも丁寧に礼を述べた。


 男性は荷車の馬へ声をかけ、ゆっくりと道を進み始めた。


 三人はその姿が少し遠ざかるまで見送った。


 車輪の音が小さくなっていくと、道には再び静かな風の音が戻ってきた。


     ◇


 男性の荷車が見えなくなる頃、ルシルたちは馬車の脇へ集まっていた。


 モモは旅帳面を開き、先ほど聞いた話を書き留めている。シモンは地図を広げ、蹄跡の位置と昨日の石標があった方向を見比べていた。


「昔の水場だったんだね……」


 ルシルが呟くと、シモンは頷いた。


「少なくとも、あの男性はそのように認識していました。石標と石組みの位置関係も一致していますので、話の信頼性は高そうです」


「でも、今も水があるかどうかは分からないんだよね」


「ええ。そこが重要です。水が残っていたとしても、長く溜まったままの水なら、飲用には適さない可能性があります」


 モモは帳面から顔を上げた。


「じゃあ、もし水があったら、まずはちゃんと調べるんだね」


「そのとおりです。水の色や匂い、周囲の状態を確認し、必要なら煮沸などの処理を考えます。ただし、馬たちへ飲ませる場合は量も必要になりますから、簡単な話ではありません」


 ルシルは二頭の方へ目を向けた。


 トルクは草の匂いを嗅ぎ、ベルクは静かに耳を動かしている。


 今すぐ倒れてしまいそうな様子ではないが、十分な水が必要なことは変わらない。


「シモン、少しだけ調べてみようか。もし危なそうだったら、すぐに戻る。それならどうかな」


 シモンはしばらく考えた。


 地図を閉じ、草地の方へ目を向ける。


「そうですね。現在地からそれほど離れていない範囲で、古い水場の状態を確認する価値はあると思います。ただし、馬車はここに置き、徒歩で調べることにしましょう」


 モモはすぐに手を上げた。


「じゃあ、わたしはまた馬車のそばに残るよ!」


 ルシルは彼女を見た。


「モモ、昨日も残ってくれたでしょう? 今日は一緒に見に行きたいんじゃない?」


「行きたいよ。でも、トルクたちを置いていくわけにはいかないし。それに、わたしはここからでも二人のことが見えると思うから」


 モモは笑顔で答えたが、その目には少しだけ名残惜しそうな色があった。


 ルシルはその表情に気づき、少し考えた。


「じゃあ、今回は僕が残るよ。モモとシモンで見に行ってきたらどうかな」


 モモは驚いたように目を瞬かせた。


「えっ、いいの?」


「うん。僕も気になるけど、昨日は見に行けたからね。今日はモモが確かめてきてよ」


 ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに笑った。


「ありがとう、ルシル君! じゃあ、ちゃんと見てくるね!」


 シモンも頷いた。


「それでは、私とモモ嬢で確認してまいります。ルシル様は馬車と馬たちをお願いいたします」


「うん。気をつけてね」


 ルシルは二人を見送り、馬車のそばへ戻った。


 モモとシモンは道の端から草地へ入り、足元を確かめながらゆっくりと進んでいく。


 ルシルはその姿を見守りながら、トルクの首筋へ手を添えた。


「少しだけ待っていようね。きっと、何か分かると思うから」


 トルクは返事の代わりに耳を動かした。


 ルシルは小さく笑い、馬車の脇へ腰を下ろした。


 道の向こうでは、風が草を揺らしている。


 昨日はただの古い石組みにしか見えなかった場所が、今日は昔の水場だったと分かった。


 その事実だけでも、旅の景色は少し違って見える。


 けれど、今の三人に必要なのは、昔そこに水があったという話だけではない。


 今も使える水があるのか。


 もしあるなら、安全に近づけるのか。


 そして、トルクとベルクに十分な水を飲ませられるのか。


 その答えを確かめるため、モモとシモンは草地の向こうへ進んでいった。


     ◇


 草地へ足を踏み入れたモモは、思っていたよりも歩きにくいことに気づいた。


 遠くから見たときには平らに見えた地面も、近づくと小さな窪みがいくつもあり、草の下には石が隠れている。シモンが先に立って歩ける場所を確かめてくれているため、無理なく進めているものの、もし一人で来ていたら、もっと時間がかかっていただろう。


「シモン君、こういう場所って、見た目だけじゃ分からないんだね」


「ええ。草が長い場所では、足元の状態を確認することが大切です。特に、古い水場の近くは地面が柔らかくなっている可能性もありますから」


 モモは頷き、足元へ目を向けた。


 昨日、ルシルたちが途中で引き返した理由が少し分かった気がした。


 水を探すことは大切だが、怪我をしてしまっては旅を続けられない。


 それに、もし水が見つかったとしても、馬車まで運べなければ意味がないのだ。


「ねえ、シモン君。もし水が見つかったら、わたしたちだけで運べるかな」


「量によりますね。少量であれば容器に入れて運べますが、馬二頭が十分に飲むには相応の量が必要です。まずは水場の状態を確認し、それから方法を考えましょう」


 モモは少し考えたあと、頷いた。


「うん。先にできることを考えすぎても、まだ分からないもんね」


 シモンはその言葉を聞き、わずかに微笑んだ。


「そのとおりです。モモ嬢も、ずいぶん慎重になられましたね」


「えへへ。だって、シモン君にいっぱい教えてもらったから!」


 モモは嬉しそうに答えた。


 シモンは少し照れたように眼鏡の位置を直したが、すぐに前方へ目を向けた。


「……見えてきましたね」


 モモも顔を上げた。


 木々の手前に、古い石組みが見える。


 昨日ルシルたちが見つけたという四角い石の縁は、草の間から半分ほど姿を現していた。近づくにつれて、その形が思っていたよりも大きいことが分かる。


「わあ……本当に水槽みたい!」


 モモは思わず声を上げたが、すぐに足を止めた。


 石組みの手前には、地面が少し湿っているように見える場所があった。


 シモンもそれに気づいたらしく、慎重に周囲を確認している。


「ここから先は、足元を確かめながら進みましょう。無理に近づく必要はありません」


「うん、分かった」


 二人は石組みの側面へ回り、比較的地面の固い場所を探した。


 やがて、石の縁が低くなっている部分が見つかった。


 そこから内部を覗き込むと、モモは思わず息を呑んだ。


 石槽の底には、落ち葉と泥が溜まっていた。


 そして、その一角に、わずかな水が残っている。


「……水、あるね」


 モモは小さな声で言った。


 シモンも石槽の内部を確かめ、静かに頷いた。


「ええ。ただし、量は多くありませんし、状態もよくありませんね」


 水は澄んでいるとは言い難く、底には細かな泥が沈んでいた。表面には落ち葉が浮かび、周囲の石には苔が付いている。


 モモは期待が少ししぼむのを感じた。


 水がある。


 けれど、すぐに使える水ではない。


 それでも、ここに水が残っているという事実は、何かの手がかりになるかもしれない。


「シモン君、これって雨水なのかな」


「可能性はあります。ただ、石槽へ水を引いていた溝が残っているなら、別の場所から流れ込んだ水かもしれません」


 シモンは石槽の周囲を観察し始めた。


 モモも少し離れた位置から、石の形や地面の傾きを確かめる。


 すると、石槽の奥側に、細い溝のようなものが見えた。


「……あれ?」


 モモは目を細めた。


 石の縁の一部が低くなっており、そこから奥の草地へ向かって、浅い溝が続いているように見える。


「シモン君、あそこ! 石の間に細い道みたいなのがあるよ!」


 シモンは指し示された場所へ目を向けた。


 しばらく観察したあと、彼は頷いた。


「確かに、溝のようなものがありますね。先ほどの男性が話していた、水を引くための構造かもしれません」


 モモの胸が少し高鳴った。


 水がどこから来ていたのか。


 その答えが、少しだけ近づいたような気がした。


 けれど、シモンはすぐに歩き出そうとはしなかった。


「ただし、奥は草が深くなっています。ここから先を無理に進むのは避けましょう」


 モモは頷いた。


「うん。でも、溝があるってことは分かったね!」


「ええ。これは重要な手がかりです」


 シモンは帳面を取り出し、石槽の形と溝の位置を記録した。


 モモも旅帳面を開き、見たものを丁寧に描き始めた。


 石槽の底に残る水。


 落ち葉と泥。


 そして、奥へ続く細い溝。


 そのすべてを描き終える頃、モモはふと顔を上げた。


「ねえ、シモン君。これって、今は使えないかもしれないけど、昔の人がちゃんと作った水場なんだよね」


「そう考えてよさそうですね。少なくとも、自然にできた石の集まりではないでしょう」


 モモは石槽を見つめた。


 昔、ここで馬が水を飲み、旅人が休んでいたのかもしれない。


 その人たちも、今の自分たちと同じように、次の町までの道を考えながら旅をしていたのだろうか。


 そう思うと、古い石槽が少しだけ温かいものに見えた。


「……なんか、不思議だね」


 モモが呟くと、シモンは静かに頷いた。


「ええ。旅をしていると、こうした場所に出会うことがあります。今は使われなくなったものでも、そこには人々の暮らしが残っているのでしょう」


 モモは小さく微笑んだ。


 そして、旅帳面の端に一行を書き加えた。


『昔の旅人が使っていたかもしれない水場。今はまだ、使えるか分からない。』


 その言葉を見て、シモンは穏やかに微笑んだ。


「よい記録ですね」


「えへへ。ルシル君にも見せたいな」


「ええ。戻ってから、詳しく伝えましょう」


 二人は石槽の周囲をもう一度確認し、危険な場所へ踏み込まないよう注意しながら、来た道を戻り始めた。


     ◇


 ルシルは馬車の脇で、トルクとベルクの様子を見守っていた。


 昼前の陽射しは少し強くなっていたが、風はまだ涼しい。道を通る荷車の姿はなく、遠くから鳥の声が聞こえるだけだった。


 トルクは落ち着いた様子で立っており、ベルクも時折耳を動かしている。


 ルシルは二頭へ声をかけながら、草地の向こうへ目を向けた。


 モモとシモンの姿は、木々の手前で小さく見えていた。


 やがて二人がこちらへ戻り始めたことに気づき、ルシルは立ち上がった。


「おかえり! どうだった?」


 モモは少し息を弾ませながら、笑顔で答えた。


「ルシル君! やっぱり水場だったみたい! 石の水槽があってね、底に少しだけ水が残ってたよ!」


 ルシルは目を見開いた。


「本当に?」


「うん! でも、そのまま飲めるような水じゃなかったんだ。泥も落ち葉もあったし、量も少なかったよ」


 モモは嬉しさと残念さが入り混じったような表情で続けた。


 シモンも頷いた。


「石槽の内部に水は残っていましたが、飲用には適さない可能性が高い状態でした。ただ、奥へ続く溝のような構造を確認できましたので、昔は別の場所から水を引いていたのかもしれません」


 ルシルは二人の話を聞きながら、昨日見た石組みの形を思い出した。


 あの場所は、やはり水場だったのだ。


 それだけでも、大きな発見だった。


「そっか……。じゃあ、今すぐ水を補給することはできないんだね」


「ええ。少なくとも、私たちが確認した範囲では、安全に使える水は見つかりませんでした」


 シモンは落ち着いた声で答えた。


 ルシルは静かに頷いた。


 期待していた分、少し残念ではあった。


 けれど、二人が無事に戻ってきたことの方が、ずっと大切だった。


「ありがとう、二人とも。ちゃんと調べてくれて嬉しいよ」


 モモは笑顔で首を振った。


「ううん! わたしも見に行けてよかったよ。ルシル君が残ってくれたから、ちゃんと見られたんだもん!」


 シモンも穏やかに頷いた。


「それに、今回の調査で分かったことは少なくありません。水場の位置と状態が確認できましたし、今後ハルミナで詳しい話を聞く際にも役立つでしょう」


 ルシルはその言葉を聞き、胸の奥にあった小さな落胆が和らいでいくのを感じた。


 水は増えなかった。


 けれど、知らなかったことが分かった。


 そして、三人はまた一つ、旅の途中で出会ったものを共有できた。


「じゃあ、今日はこのままハルミナへ向かおうか。ここで無理に調べ続けるより、確実な水場へ近づいた方がいいよね」


 シモンは頷いた。


「ええ。私もそれがよいと思います。馬たちの状態を確認しながら、無理のない速度で進みましょう」


 モモも旅帳面を閉じた。


「うん! それに、ハルミナへ戻ったら、エルナさんのパンも待ってるしね!」


 ルシルは思わず笑った。


「モモは本当に、それを楽しみにしてるんだね」


「もちろん! だって、帰ったあとに美味しいものがあるって思うと、頑張れるでしょう?」


 シモンも小さく笑い、荷物の確認を始めた。


 ルシルは御者台へ戻り、手綱を握った。


 トルクとベルクへ静かに声をかけると、二頭はゆっくりと歩き始めた。


 馬車は再び、ハルミナへ続く道を進んでいく。


 道の右側には、古い水場へ続く蹄跡が残っていた。


 その先にある石槽は、今も静かに草の中へ埋もれているのだろう。


 かつてそこを使った旅人たちが、どんな景色を見て、どんな話をしていたのかは分からない。


 けれど、ルシルたちはその場所を見つけ、確かめ、記録に残した。


 いつかまたこの道を通るとき、あの石標と水槽のことを思い出すかもしれない。


 そのときには、今よりも少しだけ多くのことを知っているだろう。


 ルシルはそんなことを考えながら、前方へ視線を向けた。


 ハルミナはまだ遠い。


 水の問題も、完全には解決していない。


 それでも、三人は今日も同じ道を進んでいる。


 焦らず、無理をせず、互いの声を聞きながら。


 乾いた街道に車輪の音が響き、青い風魚の布が風に揺れた。


 ルシルは手綱を握り直し、トルクとベルクの歩調に合わせて馬車を進めた。


 帰り道の先に待つ町へ、三人と二頭は少しずつ近づいていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。