第152話「帰り道の石標と、乾いた水槽に残された手がかり」
午後の陽射しが緩やかな丘の斜面を照らす頃、ルシルたちの馬車は、ハルミナへ続く道をゆっくりと進んでいた。
午前中に出会った荷車の男性から、少なくとも彼が通ってきた範囲では道が大きく傷んでいないと聞いていたものの、それだけで安心して速度を上げるつもりはなかった。乾いた土の上には車輪の跡が何本も重なり、ところどころに顔を出した小石が、馬車の揺れを不規則なものにしている。ルシルは手綱を握る指に余計な力を込めないよう意識しながら、トルクとベルクの歩調に合わせて進んでいた。
御者台の隣では、シモンが道の先と二頭の様子を交互に確かめている。黒縁の眼鏡の奥にある目はいつもどおり落ち着いていたが、膝の上に置いた帳面には、今日の休憩時刻と水の使用量が細かく記されていた。
「ルシル様、次の緩やかな曲がりを越えたところで、一度速度を落としましょう。先ほどから道の右側に石が増えていますので、車輪の通り方を確認したいと思います」
「うん、分かった。トルクたちも少し歩調が変わってきた気がするし、ちょうどいいね」
ルシルは前方へ視線を向けたまま答えた。トルクは相変わらず元気そうに耳を動かしているが、ベルクは坂を上るとき、わずかに頭を低くするようになっていた。
疲れているのか、それとも足元の石を気にしているだけなのか、御者台からでは判断できない。だからこそ、見た目だけで大丈夫だと決めつけず、休憩のたびに確かめる必要があった。
荷台の窓からは、モモが顔を覗かせていた。
「ルシル君、右の方に白いお花がいっぱい咲いてるよ。さっきの場所とは少し違う種類みたい!」
「本当? あとで休める場所があったら見てみたいな」
「うん! でも、今はちゃんと前を見ててね。わたしが代わりに覚えておくから!」
モモはそう言って窓から顔を引っ込めた。続いて紙をめくる音が聞こえ、旅帳面に何かを書き込んでいるらしい気配が伝わってくる。
ルシルは思わず笑みを浮かべた。
以前のモモなら、花を見つけた途端に馬車を止めてほしいと言っていたかもしれない。今でも興味を隠そうとはしないけれど、馬たちの状態や道の安全を考え、楽しみを少し先へ取っておくことを覚えている。
それは小さな変化だったが、ルシルには嬉しかった。
もっとも、モモの食べ物に対する情熱だけは、旅を始めた頃から少しも衰えていないようだった。
「ちなみに、あのお花って食べられるのかなあ」
荷台から聞こえた呟きに、シモンがゆっくりと顔を上げた。
「モモ嬢。種類の分からない植物を、食材の候補に加えるのはお控えください」
「まだ食べるなんて言ってないよ! ちょっと気になっただけだもん!」
「その『ちょっと気になった』という言葉のあとに、何度か食材の話が続いておりますので」
シモンの穏やかな指摘に、ルシルは笑いをこらえきれなかった。
荷台から抗議の声が上がったものの、モモ自身も途中で笑ってしまったらしく、三人の間には久しぶりに明るい空気が広がった。
しかし、ルシルが手綱を握り直したとき、シモンの視線が道の右側で止まった。
「……ルシル様。あちらをご覧ください」
声の調子が変わったことに気づき、ルシルは馬車の進行方向を確かめてから、指し示された場所へ目を向けた。
草の間に、灰色の石が立っている。
最初は自然に転がっている岩の一つかと思ったが、近づくにつれて、その形が周囲の石とは違うことが分かった。上部が斜めに削られ、地面から人の膝ほどの高さまで突き出している。表面には苔が付いていたが、道に向いた側だけは比較的平らだった。
「石の目印かな?」
「その可能性があります。文字か印が刻まれているようにも見えますが、ここからでは確認できませんね」
ルシルは道の幅を見渡した。
少し先には、荷車同士がすれ違えそうな広がりがある。そこまで進めば、馬車を止めても通行の妨げになりにくそうだった。
「まずはあの広いところまで行こう。石はそのあとで見に行けばいいよね」
「ええ。馬たちの休憩にもよさそうです」
シモンが頷くと、ルシルは二頭へ静かに声をかけた。
馬車は速度を落としながら進み、道幅が広がった場所で止まった。
地面を確認したシモンが安全な位置を示し、ルシルはトルクとベルクを落ち着かせる。モモも荷台から降りたが、すぐに石の方へ走り出すことはせず、まず二人の準備が終わるのを待っていた。
「ねえ、あの石、何か書いてあるの?」
「まだ分からないんだ。これから確かめようと思ってるよ」
ルシルが答えると、モモの緑色の目が輝いた。
「じゃあ、わたしも一緒に見たい! 旅帳面に描いておけば、帰り道の目印になるかもしれないし!」
「もちろん。ただ、道の端だから、足元には気をつけようね」
シモンは馬たちの状態を確認してから、二人と一緒に石の方へ向かった。
草地には乾いた土の匂いが漂い、踏みしめるたびに細い草の茎が足首へ触れた。石の周囲だけは草が少し薄く、地面に古い踏み跡のようなものが残っている。ただし、それが人の往来によってできたものなのか、雨水に土が流された結果なのかは、すぐには分からなかった。
ルシルは石の前で立ち止まり、表面を眺めた。
「……何か、線が刻まれているね」
石の平らな面には、横へ伸びる短い線と、その下に半円のような形が彫られていた。長い年月で角が丸くなっているため、もともとどのような図柄だったのかは判然としない。
モモはしゃがみ込み、顔を近づけすぎないようにしながら観察した。
「お椀みたいにも見えるし、橋みたいにも見えるね。上の線は道なのかな?」
「どちらとも考えられますね。文字があればもう少し分かりやすいのですが」
シモンは石の側面へ回り、ほかに刻印がないか確かめた。
ルシルも反対側を見たが、そこには苔と細かな傷があるだけだった。道に向いた面の印だけが、明らかに人の手によって刻まれたように見える。
「シモン、こういう石って、道の距離を示すものだったりするのかな」
「街道によっては、そのような石標が設けられることもあります。ただ、この印が距離を表しているとは限りません。分岐点や施設の位置を知らせる場合もありますから」
シモンは答えながら、周囲の地形へ視線を移した。
石標の背後には低い草地が続き、その先に木々の集まった小さな窪地がある。道からは直接見えにくい位置だが、地面の傾きは緩やかだった。
モモも同じ方向を見た。
「ねえ、あっちの木のところ、少しだけ草の色が違わない?」
ルシルは目を細めた。
確かに、木々の根元に近い部分だけ、周囲より濃い緑色に見える。しかし、日陰になっているためにそう見えるだけかもしれない。
「本当だね。でも、どうしてだろう」
「水があるのかなって思ったんだけど……。昨日のこともあるし、見ただけじゃ分からないよね」
モモは期待を込めた声を少し抑え、慎重に言葉を選んだ。
シモンは石標と窪地を交互に見比べた。
「気になる場所ではあります。ただ、ここから水場があると判断することはできません。まずは馬車のそばへ戻り、地形を確認しましょう。もし調べるとしても、道から安全に行ける範囲だけです」
「うん。それがいいと思う」
ルシルが頷くと、モモも旅帳面を開いた。
「じゃあ、先にこの石を描いておくね。あとで分かったことがあったら、書き足せるようにしておく!」
彼女は石の形と印を丁寧に写し始めた。
ルシルはその横顔を眺めながら、胸の奥に小さな期待が生まれるのを感じていた。
昨日見つけた細い水流は、安全に近づけず、補給に使うことができなかった。今日もまた、水があるかもしれない場所を見つけただけで終わる可能性は十分にある。
それでも、何も確かめずに通り過ぎるのではなく、できる範囲で調べる価値はあるように思えた。
(もし本当に水場があったら、トルクたちにも少し余裕を持たせてあげられるかもしれない。でも、期待しすぎるのはよくないよね。まずは、何があるのかをちゃんと確かめよう)
ルシルは石標の向こうに広がる草地へ、もう一度目を向けた。
◇
馬車へ戻ると、シモンは地図と帳面を広げ、現在地について分かっていることを整理した。
この道は、ハルミナを出てから通ってきた道を戻っているため、大きな方向を取り違えている可能性は低い。しかし、道沿いにある小さな施設や目印まで、すべて把握しているわけではなかった。
石標についても、以前ここを通ったときには気づいていない。
「行きと帰りでは、見えるものが違うんだね」
ルシルが呟くと、シモンは頷いた。
「ええ。石標の印も、こちらの方向から進んできた場合の方が見やすい位置にあります。反対側からでは、草や石の形に紛れてしまうかもしれません」
モモは旅帳面を膝に置き、石標の絵を眺めていた。
「わたし、こういうの好きだなあ。最初はただの石だと思ったのに、よく見たら誰かが何かを残してるんだもん」
「そうだね。誰が、何のために作ったんだろう」
ルシルがそう言うと、モモは楽しそうに想像を巡らせた。
「旅人に何かを教えるためかな。それとも、昔ここに住んでた人が使ってた印だったりして!」
「可能性はいろいろありますね。ただ、印の意味が分からないうちは、想像と事実を分けておきましょう」
シモンの言葉に、モモは素直に頷いた。
「うん。だから、絵の横には『意味はまだ分からない』って書いておいたよ!」
ルシルは彼女の帳面を覗き込み、思わず笑った。
以前なら、モモの絵の横には『不思議な石!』とだけ書かれていたかもしれない。今はそこに、形や向き、周囲の様子まで加えられている。
その変化は、シモンが教えたことをただ覚えた結果ではなかった。
モモ自身が、旅の途中で知ったことを大切に残したいと思っているのだ。
「モモの帳面、本当に頼りになるね」
ルシルが言うと、モモは少し照れたように笑った。
「えへへ。そう言ってもらえると嬉しいな。でも、まだ分からないことの方が多いよ」
「それでもいいんじゃないかな。分からないことも、あとで見返せるように残してあるんだから」
ルシルの言葉を聞き、モモはしばらく帳面へ目を落とした。
やがて彼女は、絵の下にもう一行を書き加えた。
『三人で見つけた石』
それを見たルシルは、何も言わずに微笑んだ。
シモンは二人の様子を眺めていたが、やがて地図を閉じ、現実的な話へ戻った。
「さて、あの窪地についてですが、調べるのであれば今のうちでしょう。日が傾いてからでは、草地の凹凸が見えにくくなります」
「うん。僕も気になってる。でも、馬車から離れすぎるのは避けたいな」
「そのとおりです。まずは道の端から見える範囲を確認し、安全に歩ける場所が続いているかを調べましょう。途中で地面が悪くなれば、そこで引き返します」
モモは少し考えたあと、手を上げた。
「じゃあ、わたしは馬車の近くに残って、トルクたちを見てるよ。二人があんまり遠くへ行かないように、ここからも見ておくね」
ルシルは意外そうに目を瞬かせた。
「モモも見に行きたいんじゃない?」
「行きたいよ。でも、みんなで馬車から離れちゃうより、誰かが残ってた方がいいでしょう? それに、もし本当に何か見つかったら、あとで二人が教えてくれるし!」
モモは笑顔で答えた。
シモンは少し考え、頷いた。
「ありがとうございます。ただ、私たちも馬車から見える範囲を越えて進むつもりはありません。モモ嬢も、何か気になることがあれば無理に対処せず、声をかけてください」
「うん、分かった!」
ルシルはモモへ感謝を伝え、シモンとともに道の端へ向かった。
石標の背後に広がる草地は、近づいてみると想像していたよりも起伏があった。ところどころに浅い窪みがあり、草の根元には細かな石が混じっている。
ただ、木々の集まった場所へ向かう途中には、比較的草の短い帯が続いていた。
「シモン、ここだけ草が短いね」
「ええ。人や動物が通っている可能性はありますが、それだけでは道だと断定できません。足元を確かめながら進みましょう」
二人は一歩ずつ地面の固さを確かめた。
乾いた土が続く場所もあれば、靴の底がわずかに沈む場所もある。草の下に石が隠れている部分では、無理に踏み込まず、歩ける範囲を選んだ。
木々の手前まで来たところで、ルシルは足を止めた。
「……あれ?」
草の向こうに、四角い石の縁が見えた。
自然の岩にしては、角が直線的すぎる。
シモンも気づいたらしく、静かに目を細めた。
「人工物のようですね。もう少し近くから確認したいところですが、足元が少し柔らかくなっています」
ルシルは靴の下を確かめた。
確かに、先ほどまでの乾いた地面とは感触が違う。強く踏み込むと、土がわずかに沈んだ。
「ここから見えるところまでにしよう。何かあるのは分かったし、無理して近づかなくてもいいよね」
「ええ。まずは、見えているものを確認しましょう」
二人は安全な場所に立ったまま、石の縁を観察した。
草の間から見えるのは、横に長い石組みだった。表面には苔が付き、一部は土に埋もれている。さらに奥には、低い石壁のようなものも見えた。
ルシルはしばらく眺め、首を傾げた。
「何かを囲っていたのかな」
「そのようにも見えます。形だけなら水槽や飼葉桶の跡にも似ていますが、内部が確認できませんので、用途はまだ分かりません」
シモンはそう答え、周囲の地形へ目を向けた。
木々の根元には落ち葉が溜まり、石組みの一部を覆っている。水が流れている音は聞こえず、湿った土の匂いも、風に乗ってわずかに感じられる程度だった。
ルシルは期待が少ししぼむのを感じたが、すぐに目を伏せることはしなかった。
ここに何かが作られていたことは確からしい。
それだけでも、石標と関係があるのかもしれないという新しい疑問が生まれていた。
「シモン、あの石標と、この石組みって関係があるのかな」
「可能性はあります。ただ、今の段階では同じ時期に作られたものかどうかも分かりません。位置関係を記録しておくのがよいでしょう」
ルシルは頷いた。
「うん。モモにも教えてあげたいな」
そのとき、背後からモモの声が聞こえた。
「ルシル君、シモン君! そっちは大丈夫ー?」
二人が振り返ると、馬車の近くでモモが手を振っていた。
ルシルも手を上げて応えた。
「大丈夫だよ! 石でできたものが見つかったけど、ここから先は進まないで戻るね!」
「はーい! 気をつけてねー!」
モモの声は明るかった。
ルシルはその声を聞いて、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
何かを見つけたとき、すぐに誰かへ話したくなる。
それは、旅を始める前にはあまり意識したことのない喜びだった。
◇
馬車へ戻ると、モモは二人の話を興味深そうに聞いた。
「四角い石があったの? じゃあ、昔の建物とかかな?」
「建物かもしれないけど、今のところは分からないんだ。水槽みたいにも見えたけど、中までは確かめられなかったよ」
ルシルが説明すると、モモは旅帳面を開き、石標の絵の隣へ小さな四角を描いた。
「じゃあ、こんな感じ?」
「うん。でも、もっと横に長かったかな。あと、奥にも石の壁みたいなものが見えたよ」
ルシルは指で形を示しながら説明した。
モモは何度か描き直し、二人が見たものに近い形へ整えていく。
シモンはその様子を見ながら、周囲の位置関係を帳面へ記録した。
道から石標までの距離は短く、その背後に草地が続き、木々の手前に石組みがある。地面は途中から柔らかくなっていたため、そこから先へは進んでいない。
確認できたのは、それだけだった。
しかし、ルシルはその記録を眺めながら、何か大切なことを見つけたような気持ちになっていた。
「ねえ、シモン。僕たちが見つけたのって、もしかしたら昔の休憩場所だったのかな」
「そう考える理由はあります。道の近くに石標があり、その背後に人工的な石組みが残っているのですから。ただ、実際に休憩所だったかどうかは、別の資料や詳しい調査が必要でしょう」
「そっか。でも、もし昔の旅人が使っていた場所だったら、ちょっと面白いね」
ルシルは石標の方へ目を向けた。
何年も前、あるいはもっと昔に、この道を通った誰かがいた。
その人たちも、馬を休ませたり、食事を取ったり、次の町までの距離を考えたりしていたのかもしれない。
もちろん、それはまだ想像にすぎない。
けれど、古い石の向こうに、自分たちと同じように旅をしていた人々の姿を思い浮かべることは、ルシルにとって楽しいことだった。
モモも同じようなことを考えていたらしく、嬉しそうに笑った。
「もし本当に昔の休憩場所だったら、そこでどんなご飯を食べてたんだろうね!」
ルシルは思わず吹き出した。
「モモはやっぱり、そこが気になるんだね」
「だって、旅のご飯って大事でしょう? 昔の人だって、お腹が空いたら困ったと思うよ!」
「それは確かにそうだね」
シモンも小さく笑ったが、すぐに水容器へ目を向けた。
「さて、興味深い発見ではありましたが、現時点では水の補給にはつながっていません。ここで長く調査を続けるより、今日の野営場所を考える方がよさそうですね」
その言葉に、ルシルは頷いた。
「うん。僕もそう思う。あの石組みは気になるけど、今はトルクたちのことが大事だから」
モモも旅帳面を閉じた。
「じゃあ、ここは『何かあるけど、まだ分からない場所』って書いておくね。いつかまた通ることがあったら、そのときに調べられるかもしれないし!」
ルシルは微笑んだ。
「そうだね。今すぐ全部分からなくてもいいんだと思うよ」
三人はそう話しながら、休憩の後片づけを始めた。
シモンは馬たちの様子を改めて確かめ、ルシルは荷物の固定を手伝った。モモは食器や小物を片づけ、旅帳面を濡れない場所へしまう。
準備が整ったところで、ルシルは御者台へ座った。
石標は、道の脇で静かに立っている。
何を示しているのかは、まだ分からない。
けれど、ルシルにはその石が、少しだけ親しみのあるものに見えた。
◇
夕方が近づくにつれて、空の色は少しずつ柔らかくなっていった。
馬車は低い丘の間を進み、道の脇には背の低い木々が増え始めている。風は昼間より涼しくなり、草の間を渡る音も静かだった。
ルシルはトルクとベルクの歩調を確かめながら、今日の移動を振り返っていた。
午前中には大きな石の目印を見つけ、荷車の男性から道の状態を聞いた。午後には古い石標と、その背後に残る人工的な石組みを見つけている。
どちらも、水の補給という目的を直接達成したわけではない。
それでも、今日一日が無駄だったとは思わなかった。
モモの旅帳面には新しい景色が増え、シモンの記録には道の状態や石標の位置が加えられている。
そしてルシル自身も、知らないものを見つけたとき、すぐに答えを求めるだけでなく、分からないまま大切に覚えておくことができるのだと感じていた。
「ルシル様、そろそろ野営場所を探しましょう」
シモンの声に、ルシルは顔を上げた。
「うん。今日はもう十分進んだと思う。トルクたちも、そろそろ休ませたいな」
「ええ。先ほどからベルクの歩調が少し重くなっています。明らかな異常は見られませんが、ここで無理をする必要はありません」
ルシルは頷き、道の先へ目を向けた。
少し進んだところに、草が短く、地面の比較的平らな場所が見える。道からは少し離れているが、馬車を止められるだけの広さがあり、周囲の見通しも悪くなさそうだった。
「シモン、あそこはどうかな」
「候補としてはよさそうです。まずは地面を確認しましょう」
ルシルは馬車を止め、シモンが周囲を調べるのを待った。
地面は乾いており、大きな窪みや不安定な石も見当たらない。近くには低い木が数本あるものの、枝が馬車へ当たるほど近くはなかった。
シモンは周囲を一通り確認してから、ルシルへ頷いた。
「ここなら、今夜の野営場所として使えそうです」
「よかった。じゃあ、今日はここで休もう」
ルシルはトルクとベルクを落ち着かせ、馬車を安全な位置へ移動させた。
モモも荷台から降り、周囲を見渡した。
「今日は、ちょっと早めに休めそうだね。昨日より景色もよく見えるし、夕ご飯の準備もゆっくりできそう!」
ルシルは笑顔で頷いた。
「そうだね。今日はみんなで早めに休もう。シモンも、昨日は見張りであまり眠れなかったでしょう?」
シモンは少し驚いたように目を瞬かせた。
「お気遣いありがとうございます。ですが、夜間の見張りは必要ですから、今夜も交代で行いましょう」
「もちろん。でも、休めるときにはちゃんと休んでほしいんだ。シモンが疲れてしまったら、僕たちも困るからね」
ルシルが穏やかに言うと、シモンは少しだけ表情を和らげた。
「承知しました。では、今夜は準備を早めに済ませ、交代の時間まで十分に休むようにいたします」
「うん。それがいいと思う」
モモも笑顔で頷いた。
「わたしも手伝うからね! 今日は三人とも、ちゃんと休もう!」
夕方の草地には、三人の声が穏やかに響いていた。
◇
馬たちの世話を終える頃、空には淡い橙色が広がっていた。
ルシルはトルクの首筋を撫でながら、今日も無事に移動できたことへ静かな安堵を覚えていた。
ベルクも落ち着いていたが、疲労が残っていることは確かだろう。明日も同じように歩けるとは限らないため、朝の状態を慎重に確認する必要がある。
シモンは水の残量を調べ、帳面へ記録を書き込んでいた。
その表情は穏やかだったが、ルシルには彼が何度か容器へ目を向けていることが分かった。
「シモン、水はまだ大丈夫かな」
ルシルが尋ねると、シモンは少し考えてから答えた。
「今夜と明朝に必要な分は確保しています。ただし、その先については余裕があるとは言えません。明日も、補給できる場所について情報を得られればよいのですが」
ルシルは静かに頷いた。
水の問題は、まだ解決していない。
だからこそ、今日見つけた石標のことも、単なる面白い発見として終わらせず、必要ならあとで確かめられるように記録しておく意味があるのだろう。
「今日の石標、もしかしたら水場と関係があったのかもしれないね」
「ええ。その可能性はあります。ただ、今のところは何も確定していません。石組みの用途も分からないままですから」
「うん。だから、次にハルミナへ戻ったとき、あの辺りのことを知っている人がいないか聞いてみたいな」
ルシルがそう言うと、シモンは穏やかに頷いた。
「それはよい考えだと思います。ハルミナには長く暮らしている方もいらっしゃいますし、道沿いの古い施設について知っている人がいるかもしれません」
ルシルは少しだけ笑った。
「マリナさんやバルドさんなら、何か知っているかな」
「可能性はあります。ただ、まずは無事に戻ることが先ですね」
「うん。分かってるよ」
ルシルはそう答え、馬たちの方へ目を向けた。
トルクは落ち着いた様子で餌を食べており、ベルクも静かに立っている。
その姿を見て、ルシルは胸の奥が少し温かくなった。
旅を続けるためには、景色を楽しむことも、新しいものを見つけることも大切だ。
けれど、それ以上に、仲間が無事でいることが大切なのだと、今は自然に思えるようになっていた。
夕食の準備をしていたモモが、二人へ声をかけた。
「ルシル君、シモン君! そろそろご飯にしようよ。今日はちょっとだけ工夫したんだよ!」
ルシルは顔を上げ、笑顔で答えた。
「うん、今行くよ!」
シモンも帳面を閉じ、二人の方へ歩き出した。
夕食は、水を使わずに食べられる保存食を中心にした簡単なものだった。それでもモモは、食材の組み合わせや分け方を工夫し、三人が少しでも楽しく食べられるようにしていた。
ルシルは一口食べ、思わず微笑んだ。
「美味しいね、モモ。昨日とはまた少し違う味がするよ」
「えへへ。今日はちょっとだけ順番を変えてみたの。たいしたことじゃないけど、同じものばっかりだと飽きちゃうでしょう?」
モモは嬉しそうに答えた。
シモンも穏やかに頷いた。
「十分に工夫されていると思います。水を使わずに済むことも、今の状況では助かりますね」
「でしょ? だから、わたしもちゃんと役に立ってるんだよ!」
モモは得意そうに胸を張った。
ルシルは笑顔で頷いた。
「もちろん。モモがいてくれるから、こうして楽しくご飯を食べられるんだと思うよ」
その言葉に、モモは少し照れたように笑った。
「もう、ルシル君ったら。そんなふうに言われると、もっと頑張りたくなっちゃうじゃない!」
シモンも小さく笑い、三人の間には穏やかな時間が流れた。
やがて食事を終えると、モモは旅帳面を開き、今日の出来事を整理し始めた。
大きな石の目印。
荷車を引いていた男性との出会い。
古い石標と、その背後に残る人工的な石組み。
そして、三人で早めに野営を決めたこと。
モモはそれらを一つずつ書き留めながら、ふと顔を上げた。
「ねえ、ルシル君。今日って、いろんなものを見つけた日だったね」
ルシルは彼女の方を見て、穏やかに頷いた。
「そうだね。水は補給できなかったけど、知らなかったものをいくつも見つけたね」
「うん。わたし、あの石標のこと、ちょっと気に入っちゃった。何の印なのか分からないけど、誰かが昔そこに残したものなんだよね」
「そうだね。いつか意味が分かったら面白いな」
ルシルはそう答え、夕暮れの空へ目を向けた。
道の向こうには、まだハルミナの姿は見えない。
水の問題も、馬たちの疲労も、明日になればまた考えなければならない。
それでも、今日の旅には確かな発見があった。
石標が何を示しているのかは分からない。
けれど、その石が道の脇に立っていたことも、木々の手前に人工的な石組みが残っていたことも、三人が自分たちの目で確かめた事実だった。
ルシルはそのことを、静かに嬉しく思った。
自由な旅とは、何もかも思いどおりに進むことではない。
知らないものに出会い、分からないことを抱え、ときには立ち止まりながら、それでも仲間と一緒に道を選んでいくことなのだろう。
モモが旅帳面を閉じ、シモンが夜間の準備を始めた。
ルシルも立ち上がり、馬たちの様子をもう一度確かめに向かった。
夕陽は丘の向こうへ沈みかけ、草地には長い影が伸びている。
明日もまた、ハルミナへ続く道を進むことになる。
その道の途中に何が待っているのかは、まだ誰にも分からなかった。
けれど、ルシルは今夜も仲間と一緒に休めることを、心から嬉しく思っていた。
そして、静かに夜の準備を進めながら、今日見つけた古い石標の形を、もう一度思い浮かべた。
あの印が何を意味しているのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
けれど、いつかまたあの道を通るときには、今とは違う景色が見えるのかもしれない。
そんな小さな期待を胸に抱きながら、ルシルは仲間たちの待つ馬車の方へ戻っていった。




