第151話「夜明けの馬車と、帰り道で見つけた確かな目印」
夜の草地を渡る風には、昼間の暖かさがほとんど残っていなかった。低い丘の間に広がる野営地では、背の短い草が月明かりを受けて銀色に揺れ、道の脇に止めた馬車の影が、乾いた地面へ長く伸びている。窓に掛けられた青い風魚の布は、風向きが変わるたびに小さく膨らみ、また静かに元の形へ戻っていた。
ルシルは外套の襟元を合わせながら、馬車のそばに腰を下ろしていた。今夜の見張りはシモンと交代で行うことになっており、モモにはできるだけ長く休んでもらっている。昼間の移動で疲れていたのだろう、彼女は寝具へ入ってしばらくすると眠りにつき、ときおり寝返りを打つ以外には動く様子がなかった。
少し離れた場所では、トルクとベルクが休んでいる。二頭とも夕方に必要な世話を済ませており、今は落ち着いていたが、ルシルはときどき耳の動きや立ち方を確かめていた。
特に気になっているのはベルクだった。昨日の午後、歩幅が少し短くなったように見えたため、シモンと相談して早めに野営を決めている。休憩後には明らかな異常が見られなかったものの、だからといって疲労が消えたわけではない。
(明日は、もっと早く休憩を取った方がいいかもしれないね。ハルミナへ戻るって決めたけど、そこまで急いで進めばいいわけじゃないし、トルクたちが元気でいてくれないと、僕たちの旅も続けられないんだから)
ルシルはそう考えながら、ベルクの方へ目を向けた。暗灰色の馬は静かに耳を動かし、近くにいるトルクの気配を確かめているようだった。
王宮にいた頃、馬は移動のために用意される存在だった。もちろん大切に扱われていたはずだが、飼葉の量や水の補給、脚の疲れまで、ルシル自身が考える機会はほとんどなかった。
今は、二頭の小さな変化が気になる。
その違いを思うと、ルシルは少し不思議な気持ちになった。
自由に旅をしたいと願っていた頃には、自由になれば何もかもが簡単になるような気がしていた。しかし実際には、自分で決めなければならないことが増え、思いどおりにならない場面にも何度も出会っている。
それでも、王宮へ戻りたいとは思わなかった。
自分たちで考えて選んだ道を、仲間と一緒に進んでいる。そのことが、ルシルには何より大切だった。
草を踏む控えめな足音が聞こえ、ルシルは顔を上げた。寝具から起きてきたシモンが、外套を羽織りながらこちらへ歩いてくる。
「ルシル様、そろそろ交代いたしましょう。少し予定より遅くなってしまいましたね」
「大丈夫だよ。まだ眠くなかったし、夜の間も特に変わったことはなかったから」
ルシルが微笑むと、シモンは彼の隣へ腰を下ろした。黒縁の眼鏡の奥にある目は、まだ少し眠そうだったが、周囲を確かめる動きにはいつもの落ち着きが戻っている。
「トルクとベルクの様子はいかがですか」
「二頭とも静かに休んでいるよ。ベルクも今のところ変わった様子はないけど、明日の朝にもう一度確かめたいな」
「ええ。それがよいでしょう。昨日の移動は途中で切り上げましたが、水の補給ができない状態は続いています。明日は馬たちの様子だけでなく、残量を見ながら行程を決める必要がありますね」
シモンはそう言って、道の先へ目を向けた。
月明かりの下では、道の輪郭がかろうじて分かる程度だった。昼間には緩やかに続いているように見えた丘も、夜になると黒い影が重なり、その先がどこまで続いているのか見通せない。
「ねえ、シモン。今日見つけた水のことなんだけど」
ルシルが静かに切り出すと、シモンは彼へ顔を向けた。
「石の間を流れていた、あの細い水のことですか」
「うん。見つけたときは、これで少し安心できるかもしれないって思ったんだ。でも、結局は汲めなかったでしょう。あのとき、僕は少しだけ迷ったんだよね」
ルシルは膝の上で指を組み、言葉を選んだ。
「もう少し調べれば、使える場所が見つかったかもしれない。そう考えると、すぐに諦めてよかったのかなって。でも、あそこで誰かが怪我をしたら、それこそ大変なことになるし……。今も、どちらがよかったのか少し気になっているんだ」
シモンはすぐに答えず、ルシルの言葉を受け止めるように静かに頷いた。
「私も、もう少し調べたい気持ちはありました。実際に水が見えたのですから、補給できる可能性を考えるのは当然です。ただ、あの場所では足元の状態が分からず、馬車から安全に水を運べるかどうかも確認できませんでした」
「そうだね。水があっても、汲みに行けなかったら意味がないんだよね」
「ええ。それに、見えた水の量はごくわずかでした。三人が飲む分だけならともかく、トルクとベルクに必要な量を確保できたかどうかも分かりません。あの場で調査を続けるには、得られるかもしれないものに対して、不確かなことが多すぎたのです」
シモンの声は、ルシルを慰めるためだけのものではなかった。彼自身も考えたうえで、同じ判断に至ったのだと分かる話し方だった。
ルシルは小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「そっか。僕たち、何も考えずに諦めたわけじゃないんだね」
「はい。調べられる範囲を確認し、その先へ進まないと決めました。もし次に同じような場所へ出会ったとしても、状況が違えば別の判断になるかもしれません。ですが、今日の判断を、結果が出なかったという理由だけで失敗と考える必要はないと思います」
ルシルはその言葉を胸の中でゆっくり確かめた。
王宮では、結果が何より重く扱われる場面が多かった。どれほど慎重に考えても、望まれた結果を出せなければ、判断そのものが間違っていたかのように語られることもあった。
けれど今、シモンは違うことを言っている。
分からないことを分からないと認め、そのうえで選んだ道にも意味があるのだと。
「ありがとう、シモン。話してよかったよ」
ルシルが穏やかに微笑むと、シモンも小さく笑った。
「こちらこそ。ルシル様が何を気にされているのか分かれば、私も次の判断を考えやすくなります。ですから、気になることがあれば遠慮なくお話しください」
「うん。これからもそうするね」
二人の間に、しばらく静かな時間が流れた。
風が弱まると、草の擦れる音の向こうから、トルクが小さく鼻を鳴らす声が聞こえた。ルシルはそちらを見て、二頭が落ち着いていることを確かめる。
「それじゃあ、僕は少し休ませてもらうよ。シモンも、次の交代まで無理しないでね」
「承知しました。何かあればお声がけしますので、安心してお休みください」
ルシルは頷き、寝具の方へ戻った。
横になると、身体には思っていた以上の疲れが残っていた。昼間は馬車に座っている時間も長かったが、道の状態や馬たちの様子を気にし続けていたため、気づかないうちに力が入っていたのかもしれない。
外套を整え、目を閉じる。
少し離れたところでは、シモンが静かに見張りを続けていた。
その気配を感じながら、ルシルはゆっくりと眠りへ落ちていった。
◇
翌朝、最初に目を覚ましたモモは、寝具の端から差し込む淡い光に目を細めた。
空はまだ薄い青色だったが、丘の向こうには朝日が昇り始めている。昨夜の冷たさが残る草地には露が降りており、足元の草が光を受けて細かく輝いていた。
モモは寝具の中で一度だけ伸びをすると、周囲を見回した。
ルシルはまだ眠っており、シモンは少し離れた場所で馬たちの様子を確認している。夜の見張りを終えたばかりなのか、彼の動きはいつもよりゆっくりしていた。
(シモン君、ちゃんと休めたのかな。昨日もいろいろ考えてくれていたし、夜も見張りをしてくれたんだよね。わたしも、今日はできることをもっと手伝いたいな)
モモはそう考えながら、寝具を静かに畳み始めた。
以前なら、朝起きると真っ先に朝食のことを考えていたかもしれない。もちろん今でも、お腹が空いていることに変わりはない。
けれど、水が少なくなっている今は、食事の準備だけでなく、馬たちの世話や荷物の整理にも自然と意識が向くようになっていた。
寝具を片づけ終えると、モモはシモンのところへ歩いていった。
「おはよう、シモン君。今日はわたしが先に起きちゃったみたいだね」
シモンは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「おはようございます、モモ嬢。よく眠れましたか」
「うん、ぐっすり! でも、シモン君は大丈夫? ちょっと眠そうに見えるよ」
モモが心配そうに尋ねると、シモンは少し驚いたように目を瞬かせた。
「そう見えますか。確かに夜間の見張りで睡眠は分かれましたが、今のところ体調に問題はありません。ただ、朝食を済ませたあと、出発まで少し休ませてもらおうと思っています」
「それならよかった。今日はわたしが荷物を片づけるから、シモン君はちゃんと休んでね」
モモは笑顔で言ったが、シモンはすぐに頷かなかった。
「ありがとうございます。ただ、馬車の積み荷は重さの偏りも考える必要があります。私が確認する前に、重い荷物を動かすことは避けてください」
「うん。じゃあ、寝具とか、わたしがいつも片づけているものを先にまとめておくね。それなら大丈夫でしょう?」
「ええ。それなら助かります」
シモンが答えると、モモは嬉しそうに笑った。
彼女は馬たちへ近づきすぎない位置で立ち止まり、トルクとベルクへ声をかけた。
「おはよう、トルク、ベルク。昨日はいっぱい歩いたけど、ちゃんと休めた?」
トルクはモモの声に反応し、鼻先を少し持ち上げた。いつものように食べ物を期待しているような仕草だったため、モモは思わず笑ってしまった。
「もう、トルクったら。わたしが来ると、すぐ何かもらえると思ってるでしょう?」
シモンはその様子を見ながら、静かに微笑んだ。
トルクの食欲があることは安心材料の一つだったが、それだけで体調が万全だとは判断できない。彼は二頭の脚や馬具の当たる部分を改めて確かめ、特にベルクの状態へ注意を向けた。
昨日の午後に気になっていた歩幅の変化は、休んでいる今の姿からは分からない。
ただ、脚を触れたときに強く嫌がる様子はなく、立ち方にも大きな偏りは見られなかった。
「ベルクも、今のところ落ち着いていますね。出発してからの歩き方を、引き続き確認しましょう」
シモンがそう言うと、モモは安心したように頷いた。
「うん。わたしも馬車の中から気をつけて見るね。もし何か変だなって思ったら、すぐに二人へ話すよ」
「ありがとうございます。ただ、窓から身を乗り出さないようにしてくださいね」
「分かってるよ!」
モモは少し頬を膨らませたが、すぐに笑顔へ戻った。
その声を聞いたのか、寝具の方からルシルが顔を上げた。
「おはよう、二人とも。なんだか楽しそうだね」
「ルシル君、おはよう! トルクがまた食べ物を欲しそうにしてたの」
モモが笑いながら答えると、ルシルも穏やかに微笑んだ。
「そうなんだ。トルクらしいね。でも、元気そうでよかったよ」
ルシルは立ち上がると、外套を整えながら二頭の方へ歩いてきた。シモンから朝の状態を聞き、ベルクに大きな異常が見られないことを確かめると、少し安心したように息を吐いた。
「ありがとう、シモン。今日は最初からゆっくり進もう。もしベルクの歩き方が気になったら、予定より早く休憩してもいいからね」
「ええ。その方針で進めましょう」
三人は朝食の準備を始めた。
水を使わずに食べられる保存食を中心に、必要な飲み水を確保する。モモは昨日の夕食で使った食材の残りを確認し、今朝は少し違う組み合わせにしてみようと考えていた。
ルシルは食器を並べながら、そんなモモの様子を見て微笑んだ。
「モモ、昨日の夕食は美味しかったね。今日も何か考えてくれているの?」
「えへへ、実はちょっとだけ! でも、今日はあんまり難しいことはしないよ。保存食を分けて、食べやすいようにするだけ」
モモはそう答え、三人分の食事を丁寧に分け始めた。
シモンは水容器の残量を確認し、帳面へ記録を書き込んでいる。
その手つきは落ち着いていたが、モモは彼が何度か同じ容器へ目を向けていることに気づいた。
「シモン君、お水、昨日より少なくなってるよね」
モモが静かに尋ねると、シモンは頷いた。
「ええ。昨日も必要な分を使いましたからね。今朝の時点で、残量に十分な余裕があるとは言えません」
ルシルは食器を置き、シモンへ顔を向けた。
「ハルミナへ戻る方針は変えないつもりだけど、今日もどこまで進めるかは慎重に決めたいな」
「私も同じ考えです。今のところ馬たちの状態は落ち着いていますが、長い距離を無理に進めば、水だけでなく疲労の問題も大きくなります」
シモンはそう答え、帳面を閉じた。
モモは二人の会話を聞きながら、少し考え込んだ。
「ねえ、ルシル君。ハルミナへ戻るって決めたとき、わたしはちょっと安心したんだ。でも、戻る道も簡単じゃないんだね」
ルシルは彼女の方を見て、穏やかに頷いた。
「そうだね。目的地が決まったからって、途中の問題が全部なくなるわけじゃないんだと思う。でも、どこへ向かうのか分かっているだけでも、考えやすくなったよ」
モモはその言葉を聞き、少しだけ笑った。
「うん。わたしもそう思う。じゃあ、今日も三人でちゃんと考えようね」
「もちろんだよ」
ルシルが答えると、シモンも穏やかに頷いた。
朝の草地には、三人の静かな会話と、馬たちが餌を食べる音が広がっていた。
◇
朝食を終えたあと、三人は出発前の準備を進めた。
モモは寝具を畳み、食器を片づけ、荷台の中で動きやすいものを整理していく。シモンは重い荷物の位置を確認し、馬車の車輪や留め具に異常がないかを確かめた。
ルシルはトルクとベルクの馬具を整えながら、二頭へ穏やかに声をかけていた。
「今日もよろしくね。無理はしないから、ゆっくり進もう」
トルクは鼻先を寄せ、ルシルの掌へ軽く触れた。ベルクも静かに耳を動かしている。
ルシルはその様子を見ながら、少しだけ安心した。
準備が整うと、シモンは馬車の前方へ回り、道の状態を確認した。
昨日の夕方に通った道は、夜の間に大きく変わった様子はない。地面は乾いており、車輪が深く沈み込むような場所も見当たらなかった。
「ルシル様、出発して問題なさそうです。ただし、最初は短い距離をゆっくり進み、ベルクの歩き方を確認しましょう」
「うん。分かった」
ルシルは御者台へ座り、手綱を握った。
モモは荷台へ乗り込み、窓から外を眺める。
シモンは最初の短い距離だけ馬車の横を歩き、二頭の脚の動きを確かめることにした。
ルシルが声をかけると、トルクとベルクはゆっくりと歩き始めた。
車輪が乾いた土を踏む音が、朝の草地へ静かに響く。
ルシルは手綱を握る指先へ意識を向け、二頭の歩調が乱れないように気を配った。
シモンは馬車の横からベルクの脚を観察し、ときどき地面の状態へ目を向けている。
しばらく進んだところで、彼はルシルへ声をかけた。
「今のところ、歩き方に大きな乱れは見られません。ただ、昨日の疲れが残っている可能性はありますから、今日は予定どおり短い休憩を増やしましょう」
「うん。ありがとう、シモン」
ルシルは頷き、少しだけ肩の力を抜いた。
シモンが御者台へ戻ると、モモが窓から顔を覗かせた。
「ベルク、大丈夫そう?」
「今のところはね。でも、今日は無理をしないで進むことにしたよ」
ルシルが答えると、モモは安心したように微笑んだ。
「よかった。じゃあ、わたしも道の脇を見ておくね。休憩できそうな場所があったら、教えるよ」
「ありがとう、モモ。でも、景色を見るのも忘れないでね。せっかくの旅なんだから」
ルシルがそう言うと、モモは少し驚いたように目を瞬かせた。
「えへへ。そうだね。最近はお水のことばっかり考えてたから、景色を楽しむのを忘れそうになってたかも」
彼女は笑いながら、窓の外へ視線を戻した。
朝の光を受けた草地は、昨日の夕方とは違う色に見えた。低い丘の斜面には小さな花が点々と咲いており、風が吹くたびに白や淡い黄色の花弁が揺れている。
モモはその景色を眺め、嬉しそうに声を上げた。
「ねえ、ルシル君。あの花、昨日は気づかなかったよ。朝だから、色がよく見えるのかな」
ルシルは前方を確認しながら、道の脇へ目を向けた。
「本当だね。昨日は夕方だったし、光の当たり方が違ったのかもしれないね」
シモンも穏やかに頷いた。
「同じ道でも、時間帯や天候によって見え方は変わります。目印を覚えるときにも、そうした違いを考えておくと役立つでしょう」
モモは嬉しそうに笑い、旅帳面を取り出した。
「じゃあ、休憩のときに描いておこうかな。昨日の夕方の景色と、今日の朝の景色を比べたら面白そう!」
ルシルはその言葉に微笑んだ。
水の心配がなくなったわけではない。
それでも、モモが景色を楽しむ余裕を取り戻していることが、ルシルには嬉しかった。
◇
午前の半ば頃、道の脇に大きな石が見えてきた。
丸みのあるその石は、以前モモが旅帳面に描いたものとよく似ていた。
モモが先に気づき、窓の外を指さした。
「あっ、ルシル君! あの石、見覚えがあるよ!」
ルシルは道の端へ目を向けた。
確かに、草の間から覗いている大きな石は、以前見たものと似ている。
ただ、同じような形の石がほかにもあることを考えると、すぐに同じ場所だと決めつけることはできなかった。
「そうだね。モモの旅帳面に描いてあった石に似てる気がするよ」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに旅帳面を開いた。
彼女は以前描いた絵を探し、石の形と周囲の草の様子を見比べている。
「えっと……。あった! これだよ、これ!」
モモは絵を見せながら、少し興奮した様子で続けた。
「ほら、上が丸くて、横に小さい石が二つあるでしょう? 今見えてる石も、同じような形をしてるよ!」
ルシルはその絵を見て、思わず笑みを浮かべた。
「本当だね。モモ、よく覚えてたね」
「えへへ。だって、パンみたいな石だったから!」
モモは得意そうに胸を張った。
シモンは二人のやり取りを聞きながら、道の先を確認した。
「確かに、記録とよく一致していますね。ただ、ここで急に馬車を止める必要はありません。少し先に道幅の広い場所がありますから、そこで休憩を取りましょう」
「うん。そうしよう」
ルシルは頷き、馬車をゆっくり進めた。
道幅の広い場所へ到着すると、シモンが地面の状態を確かめ、問題がないことを確認した。
ルシルはトルクとベルクを落ち着かせ、馬車を安全な位置へ止めた。
モモは馬車から降りると、旅帳面を抱えて石の方へ目を向けた。
「ねえ、シモン君。あの石って、目印として使えるかな?」
シモンは少し考えたあと、穏やかに頷いた。
「ええ。形だけでなく、周囲の地形や道の曲がり方も合わせて記録しておけば、目印として役立つでしょう」
「じゃあ、今日の景色も描いておくね!」
モモは嬉しそうに答え、草地の安全な場所へ腰を下ろした。
ルシルはその様子を見ながら、トルクとベルクの世話を始めた。
シモンは水容器の残量を確認し、必要な分を用意する。
午前中の移動は予定どおり短い距離に抑えられており、二頭の歩き方にも大きな変化は見られなかった。
それでも、水の残量が少なくなっていることに変わりはない。
シモンは帳面へ記録を書き込みながら、少し考え込んだ。
(このまま進めば、ハルミナへ戻る方向は間違っていません。ただ、次の確実な補給先までの距離を考えると、余裕があるとは言えませんね。今のうちに、途中で利用できる場所について情報を得られればよいのですが……)
彼はそう考えながら、道の先へ目を向けた。
今のところ、ほかの旅人の姿は見えない。
しかし、ここは以前通った道でもある。
時間帯によっては、荷車や旅人が通ることもあるだろう。
シモンはその可能性を考えつつ、まずは目の前の休憩を優先することにした。
◇
モモが石の絵を描き終える頃、道の向こうから小さな音が聞こえてきた。
最初は風に混じる程度だったが、しばらくすると、車輪が土を踏むような響きがはっきりしてきた。
ルシルは顔を上げ、道の先へ目を向けた。
「シモン、何か近づいてくるみたいだね」
シモンも同じ方向を見た。
緩やかな坂の向こうから、小さな荷車がゆっくりと姿を現した。
荷車を引いているのは一頭の馬で、御者台には年配の男性が座っている。荷台には布を掛けた木箱がいくつか積まれており、急いでいる様子はなかった。
男性はルシルたちの馬車に気づくと、少し離れた場所で速度を落とした。
「おや、旅の途中かい?」
落ち着いた声が聞こえ、ルシルは笑顔で頷いた。
「はい。少し休憩しているところです。道の邪魔になっていませんか?」
「いやいや、大丈夫だよ。こっちは荷物を運んでるだけだからね」
男性はそう答え、荷車を道の端へ寄せた。
シモンは相手の様子を確かめながら、穏やかに会釈した。
「お疲れさまです。私たちはハルミナ方面へ向かっているのですが、この先の道の状態について、何かご存じでしょうか」
男性は少し考え、道の向こうへ目を向けた。
「ハルミナか。ああ、あっちへ戻るのかい。道そのものは、今朝通ってきた範囲では大きな問題はなかったよ。ただ、ところどころ石が多いから、馬車ならゆっくり進んだ方がいいね」
シモンは頷いた。
「ありがとうございます。実は、途中で水を補給できる場所がないか探しているのですが、何かご存じありませんか」
その問いに、男性は少し眉を寄せた。
「水かい。うーん……。この辺りは、道のすぐそばに大きな水場があるわけじゃないからねえ」
モモは少し残念そうな表情になったが、口を挟まずに話を聞いていた。
男性は続けた。
「雨が降ったあとなら、小さな流れができる場所もあるんだけど、今の時期は水が少ないこともあるからね。見つけたとしても、馬に飲ませるほどの量があるかどうかは分からないよ」
ルシルは昨日見つけた細い水の流れを思い出した。
「実は、昨日も道の近くで小さな水の流れを見つけたんです。でも、安全に近づける場所ではなかったので、使わずに戻ってきました」
男性はその話を聞き、ゆっくりと頷いた。
「それは無理しなくて正解だったかもしれないね。草が深いところは、見た目より地面が悪いこともあるから」
シモンは男性の言葉を聞き、静かに頷いた。
「やはり、そうした場所は慎重に確認する必要がありますね」
「ああ。特に馬車で旅をしてるなら、馬の脚を痛めたら大変だからね」
男性はそう言い、トルクとベルクへ目を向けた。
二頭は落ち着いていたが、長い旅の途中であることは、馬具や荷台の様子からも分かるのだろう。
「二頭とも、よく働いてくれてるみたいだね。ちゃんと休ませてやりなよ」
ルシルは穏やかに微笑んだ。
「はい。今日は無理をさせないように、休憩を増やしているところです」
「それがいい。急いで進んでも、途中で動けなくなったら困るからね」
男性はそう答え、少しだけ笑った。
モモはその様子を見ながら、静かに口を開いた。
「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
「もちろんだよ。何かな?」
「この道って、ハルミナへ向かう人もよく通るんですか? わたしたち、昨日から戻ってきてるんですけど、あんまり人に会わなかったから」
男性は少し考えたあと、穏やかに答えた。
「毎日たくさん通るわけじゃないけど、荷物を運ぶ人や旅人はいるよ。ただ、時間帯によっては誰にも会わないこともあるね。特に、今みたいに道が静かな日はね」
モモは頷いた。
「そっか。じゃあ、今日会えたのはちょっと嬉しいかも」
男性はその言葉に笑った。
「そう言ってもらえると、こっちも嬉しいね。旅は楽しいこともあるけど、道が長いと退屈することもあるから」
ルシルはそのやり取りを見ながら、穏やかに微笑んだ。
男性はしばらく三人と話したあと、荷車の方へ戻った。
「それじゃあ、そろそろ行くよ。ハルミナへ戻るなら、無理しないでね」
「ありがとうございます。お気をつけて」
シモンが会釈すると、男性も軽く手を上げた。
荷車はゆっくりと動き始め、やがて道の向こうへ進んでいった。
三人はその姿を見送りながら、少しだけ静かな時間を過ごした。
◇
荷車が見えなくなったあと、モモは旅帳面を閉じ、ルシルたちの方へ歩いてきた。
「ねえ、ルシル君。あの人、優しかったね」
「そうだね。道のことも教えてくれたし、トルクたちのことも気にかけてくれたね」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「ええ。ただ、水場については確実な情報を得られませんでした。道の状態については参考になりますが、補給計画を変更できるほどの情報ではありませんね」
モモは少し考えたあと、頷いた。
「うん。でも、道が大きく壊れてるわけじゃないって分かったのはよかったよね」
「そうですね。今朝通ってきた範囲についての話ですから、その先も同じ状態とは限りませんが、参考にはなります」
シモンは穏やかに答えた。
ルシルは二人の会話を聞きながら、少し考え込んだ。
旅の途中で出会う人たちは、いつも何か大きな答えを持っているわけではない。
それでも、自分たちが知らなかった道の様子を教えてくれたり、気をつけた方がよいことを伝えてくれたりする。
そうした小さな情報が、旅を続けるための助けになるのだろう。
「僕は、あの人に会えてよかったと思うよ。水場は分からなかったけど、道のことを少し知れたし、何より話せて嬉しかったから」
ルシルがそう言うと、モモは笑顔で頷いた。
「うん! わたしもそう思う!」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「では、今日の記録へ加えておきましょう。道の状態については、今朝通ってきた範囲で大きな問題はなかったという話でした。水場については、確実な補給先は確認できなかった、としておきます」
モモは旅帳面を開き、男性との会話を簡単に書き留めた。
名前は聞いていなかったため、無理に名前を付けることはしなかった。
ただ、荷車を引いていたことと、道の状態を教えてくれたことを記録しておく。
ルシルはその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「モモの旅帳面、どんどんいろんなことが増えていくね」
「えへへ。最初は景色とか食べ物ばっかりだったのにね。でも、こういうのも楽しいよ」
モモは嬉しそうに答えた。
シモンは二人のやり取りを見ながら、静かに頷いた。
旅の記録は、単なる道順の記録ではない。
どんな人と出会い、何を考え、どんな判断をしたのか。
そうしたことも、あとから振り返れば大切な思い出になるのだろう。
◇
休憩を終えたあと、三人は再び馬車へ乗り込んだ。
ルシルはトルクとベルクの様子を確かめ、二頭が落ち着いていることを確認してから、ゆっくりと手綱を動かした。
馬車は乾いた道を進み始める。
午後の陽射しは少しずつ強くなっていたが、風が吹くと草地には涼しさが残っていた。
モモは窓の外を眺めながら、先ほど出会った男性の言葉を思い出していた。
道は大きく壊れていない。
けれど、水場は確実ではない。
それは、三人が今まで考えてきたことと大きく変わらない情報だった。
それでも、別の旅人から聞いたことで、今の判断を改めて考えるきっかけになった。
「ねえ、ルシル君。わたし、ちょっと思ったんだけど」
モモが声をかけると、ルシルは前方を確認しながら返事をした。
「どうしたの?」
「昨日までは、水が見つからないことばっかり気になってたんだ。でも、今日みたいに道のことを教えてもらえるだけでも、少し安心できるんだね」
ルシルはその言葉を聞き、穏やかに頷いた。
「そうだね。全部が分からなくても、一つずつ確かめていけば、考えやすくなるのかもしれないね」
シモンも静かに口を開いた。
「ええ。ただし、情報が増えたからといって、必ずしも安全が保証されるわけではありません。何が分かったのか、何がまだ分からないのかを区別することが大切です」
モモは笑顔で頷いた。
「うん。そこはちゃんと覚えてるよ!」
ルシルはそのやり取りを聞きながら、少しだけ微笑んだ。
モモが以前よりも慎重になったことは、決して彼女の明るさが失われたという意味ではない。
むしろ、気になることを楽しみながら、必要なときには立ち止まって考えられるようになっている。
その変化が、ルシルには嬉しかった。
馬車は緩やかな坂を下り、草地の間を進んでいく。
しばらくすると、道の脇に低い木々が集まった場所が見えてきた。
ルシルはその場所へ目を向け、少し考えた。
「シモン、あの辺りで休憩できるかな。道幅も広そうだし、木陰が少しあるから、トルクたちも休みやすいかもしれない」
シモンは周囲を確認し、頷いた。
「候補としてはよさそうですね。まずは地面の状態を確かめましょう」
ルシルは速度を落とし、馬車を安全な位置へ止めた。
シモンが降りて地面を確認すると、そこは比較的固く、大きな窪みも見当たらなかった。
「ここなら問題なさそうです。今日は少し長めに休憩を取りましょう」
ルシルは頷き、トルクとベルクを落ち着かせた。
モモも馬車から降り、二頭へ笑顔を向けた。
「お疲れさま! 今日もいっぱい歩いたね。ちゃんと休んでね」
トルクは鼻先を動かし、ベルクも静かに耳を動かした。
ルシルは二頭の首筋を撫でながら、穏やかに声をかけた。
「ありがとう。今日はここで少しゆっくりしようね」
シモンは水容器の残量を確認し、必要な分を用意した。
水は確実に減っている。
その事実は変わらなかったが、三人は今、自分たちがどちらへ向かっているのかを知っていた。
そして、途中で何を確かめ、どこで休むべきかを相談しながら進んでいる。
ルシルはそのことを心強く思った。
◇
午後の休憩が続く間、モモは木陰に腰を下ろし、旅帳面を開いていた。
今日見つけた大きな石の絵と、荷車を引いていた男性のことを簡単に記録している。
ルシルはその隣へ座り、彼女の描いた絵を覗き込んだ。
「モモ、その石の絵、前に描いたものより少し詳しくなってるね」
「そうなの! 今日は反対側から見たから、昨日は分からなかった形も描けたんだよ」
モモは嬉しそうに答え、二つの絵を並べて見せた。
ルシルはその違いを眺め、穏やかに微笑んだ。
「本当だね。同じ石なのに、見る方向でこんなに違うんだ」
「うん。だから、今度からは大事な目印を見つけたら、できるだけ違う方向からも覚えておこうかなって思ってるの」
モモはそう言いながら、旅帳面の端へ小さな印を付けた。
ルシルはその様子を見て、少し考え込んだ。
旅を始めた頃、自分は景色を眺めることそのものが楽しかった。
もちろん今もそうだ。
けれど、同じ景色を何度も見ているうちに、そこにある小さな違いや、以前は気づかなかったものへ目が向くようになっている。
それは、自由に旅を続ける中で得られた、思いがけない楽しみだった。
「僕も、いつか自分の帳面を持ったら、こういうことを書いてみたいな」
ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに顔を上げた。
「いいね! ルシル君の旅帳面、きっと面白くなるよ!」
「そうかな?」
「うん! だって、ルシル君って、わたしが気づかないことにもよく気づくでしょう? トルクたちの歩き方とか、道の様子とか。そういうのを書いたら、きっとわたしのとは違う帳面になると思うの」
ルシルは少し照れたように笑った。
「そう言ってもらえると嬉しいな。でも、僕はまだ何を書けばいいのか分からないんだよね」
「最初は何でもいいんじゃないかな。今日見たものとか、楽しかったこととか、ちょっと困ったこととか。あとで読み返したら、きっと面白いと思うよ」
モモはそう言いながら、自分の旅帳面を大切そうに抱えた。
ルシルはその姿を見て、静かに頷いた。
自分の帳面を持つことは、まだ具体的な予定ではない。
けれど、次に町へ着いたとき、文具を扱う店があれば探してみたいと思っている。
シモンは少し離れた場所で水容器を片づけながら、二人の会話を聞いていた。
ルシルが自分の記録を残したいと思っていることは、彼にとっても嬉しい変化だった。
王宮にいた頃、ルシルの予定や行動は、誰かが記録することが多かった。
しかし今は、自分が見たものや感じたことを、自分の言葉で残そうとしている。
その違いを思うと、シモンは少しだけ胸が温かくなった。
(ルシル様は、少しずつご自分の旅を形にされているのですね。私ができるのは、その道を安全に進めるよう支えることです。ですが、何を大切に思い、何を記録するかは、ルシル様ご自身が決められることなのでしょう)
シモンは静かに微笑み、帳面を閉じた。
そのとき、ルシルが顔を上げた。
「シモン、そろそろ出発した方がいいかな。それとも、今日はもう少し休んでから考えた方がいい?」
シモンは周囲の光と馬たちの様子を確認した。
午後の陽射しはまだ残っているが、無理に長い距離を進む必要はない。
水の残量と馬たちの疲労を考えると、今日も早めに野営場所を探す方がよさそうだった。
「もう少し休んでから、次の安全な場所まで進みましょう。今日は、日が傾く前に野営の準備を始められるようにしたいと思います」
「うん。僕もそれがいいと思う」
ルシルは頷いた。
モモも旅帳面を閉じ、笑顔で立ち上がった。
「じゃあ、わたしも片づけを手伝うね。今日は早めにご飯の準備ができるといいなあ」
ルシルは思わず笑ってしまった。
「モモは、やっぱりご飯のことも大切なんだね」
「もちろん! ちゃんと食べないと、明日も元気に歩けないでしょう?」
モモは得意そうに答えた。
シモンも穏やかに微笑んだ。
「その通りですね。ただし、今夜も水を使わずに済む食事を考えましょう」
「うん! そこはちゃんと分かってるよ!」
三人は顔を見合わせ、小さく笑った。
水の問題は、まだ解決していない。
ハルミナへ戻るまでの道のりも、決して短いものではなかった。
それでも、三人は今日も自分たちにできることを一つずつ確かめ、無理のない選択を重ねていた。
ルシルはトルクとベルクの方へ歩き、二頭の首筋を撫でた。
「もう少しだけ進もうね。今日は早めに休める場所を探すから」
二頭は落ち着いた様子で耳を動かし、ルシルの声を聞いているようだった。
やがて準備が整うと、三人は再び馬車へ乗り込んだ。
車輪が乾いた土を踏む音が、午後の草地へ静かに響いていく。
道の先には、まだ知らない景色が続いている。
けれど今は、新しい場所へ向かうことよりも、確実に水を補給できる場所へ戻ることが大切だった。
ルシルは手綱を握り、トルクとベルクの歩調を確かめながら、穏やかに微笑んだ。
戻る道にも、見つけられるものはある。
そして、同じ道を歩いているように見えても、昨日までの自分たちと、今日の自分たちは少しずつ違っている。
そんなことを思いながら、ルシルは仲間とともに、ハルミナへ続く道をゆっくりと進んでいった。




