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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第150話「帰り道の小さな水音と、三人で守った旅の約束」


午後の陽射しが傾き始めた頃、ルシルたちの馬車は、ハルミナへ続く道をゆっくりと進んでいた。低い丘の間を吹き抜ける風は朝よりも少し暖かく、道端の草を揺らしながら、乾いた土の匂いを運んでくる。御者台に座るルシルは、トルクとベルクの歩調を確かめながら、少し先に見える緩やかな曲がり角へ目を向けた。


今朝、三人は相談の末に、進んできた道を引き返すことに決めた。水の補給先が分からないまま先へ進み続けるより、共同井戸のあるハルミナを目指す方が、行き先を明確にできると考えたからだ。


ただし、ハルミナまではまだ距離がある。戻ると決めたからといって、今ある水が増えるわけでも、馬たちの疲れが消えるわけでもなかった。


「ルシル様、次の曲がり角を過ぎたところで、もう一度休憩を取りましょう。道の状態にもよりますが、今日はこれ以上、長く歩かせない方がよいと思います」


隣に座るシモンがそう言うと、ルシルは前方から目を離さずに頷いた。


「うん。僕もそう思っていたんだ。トルクはまだ元気そうだけど、ベルクの歩幅が少し短くなっているように見えるから、早めに休ませたいな」


シモンは暗灰色のベルクへ視線を移し、脚の運び方を注意深く観察した。明らかな跛行は見られないものの、朝から移動を続けていることを考えれば、疲れが出始めていても不思議ではない。


「よくお気づきになりましたね。今のところ異常とまでは言えませんが、休憩の際に脚と馬具の当たる部分を確かめましょう」


「ありがとう。僕の気のせいかもしれないけど、気になったことは伝えた方がいいと思って」


「ええ。その方が助かります。私一人で見ているより、気づけることが増えますから」


シモンの返事に、ルシルは小さく微笑んだ。


少し前までなら、馬の状態について何か気になっても、経験のあるシモンへ判断を任せていたかもしれない。けれど今は、分からないなりに自分の目で確かめ、気づいたことを言葉にするよう心がけている。


その変化は、決して大きなものではなかった。それでも、自分たちの旅を自分たちで支えているという実感が、ルシルには嬉しかった。


荷台の窓からは、モモが外の景色を眺めていた。膝にはいつもの旅帳面が置かれており、昨日描いた丘の絵と、今見えている景色を見比べている。


「ねえ、ルシル君。昨日はあの丘の向こうから来たんだよね。反対側から見ると、同じ場所なのに形が違って見えるよ」


「そうだね。僕も、昨日は気づかなかった木が見えるなって思っていたところだよ」


「えへへ。じゃあ、あとで反対側から見た絵も描こうかな。二つ並べたら、同じ場所だって分かるかなあ」


モモは楽しそうに言ったあと、少しだけ声を落とした。


「でも、今日は絵を描くより、トルクとベルクを休ませる方が先だよね。わたし、休憩のときに二頭のお水を用意するのを手伝うよ」


その言葉に、シモンは穏やかに頷いた。


「ありがとうございます。ただ、残量を確認してからにしましょう。必要な量を与えることと、今後の行程に備えることを、両方考えなければなりませんから」


「うん、分かってる。勝手に容器を開けたりしないよ」


モモはそう答え、旅帳面を閉じた。


馬車は緩やかな曲がり角へ近づいていく。道の端には小さな石が散らばっており、草の間から乾いた土が覗いていた。


ルシルは手綱を少し調整し、二頭が無理なく曲がれるよう速度を落とした。


そのときだった。


風が一瞬弱まり、車輪の音が静かになった隙間から、かすかな音が聞こえた。


草が擦れる音とは、少し違う。


小さな石の上を、何かが途切れ途切れに流れているような音だった。


「……あれ?」


ルシルは思わず顔を上げた。


シモンも同じ音に気づいたらしく、道の右側へ視線を向けている。


「ルシル様、今、何か聞こえましたか?」


「うん。水が流れるような音だった気がするんだけど……。風の音かな」


モモも窓から顔を覗かせた。


「お水? どこ?」


彼女の声には期待が混じっていたが、すぐに周囲を見回して飛び出すようなことはしなかった。


シモンは道の先と両側の地形を確かめ、少し考えてから口を開いた。


「まだ水があるとは判断できません。ただ、音の方向を確かめる価値はありそうです。まずは安全に馬車を止めましょう」


ルシルは頷き、道幅の広い場所を探した。


曲がり角を抜けた少し先に、草の短い平坦な場所があった。地面には大きな窪みが見当たらず、道を通る人や荷車の妨げにならない位置へ馬車を寄せられそうだった。


「シモン、あそこはどうかな」


「よさそうですね。私が地面を確かめますので、少し手前で止めてください」


ルシルは二頭へ声をかけ、馬車をゆっくり停止させた。


シモンが降りて地面を確認し、問題がないことを伝えると、ルシルは馬車を慎重に寄せた。


トルクとベルクが落ち着いたところで、三人は改めて周囲の音へ耳を澄ませた。


風が草を揺らす音。


遠くで鳴く鳥の声。


そして、その間に混じる、かすかな水音らしい響き。


モモは目を輝かせたが、声を上げる前にシモンの顔を見た。


「シモン君、わたしにも聞こえたよ。でも、まだ本当にお水かどうか分からないんだよね」


「ええ。音だけでは判断できませんし、水があったとしても、飲めるかどうかは別の問題です」


シモンはそう答え、右側の草地へ目を向けた。


道から少し離れたところには、背の低い木々がまばらに生えている。その間を地面が緩やかに下っているようにも見えたが、草が深く、奥の様子までは分からなかった。


ルシルは二頭の手綱を持ちながら、静かに言った。


「気になるけど、馬車を置いて三人で奥へ行くのはよくないよね」


「そうですね。まずは道から見える範囲を確認しましょう。見通しが悪くなるなら、そこで調査を終えるべきです」


モモも頷いた。


「うん。わたし、ここで待ってる。二人とも無理しないでね」


シモンは微笑み、まず道の端から地形を観察し始めた。


◇


草地へ足を踏み入れる前に、シモンは地面の固さを確かめた。道のすぐ脇は乾いた土だったが、少し先には細かい石が増えており、その間に背の低い草が生えている。


彼は無理に奥へ進まず、見える範囲をゆっくりと確認した。


「……なるほど。ここは地面が少し低くなっていますね」


シモンの言葉を聞き、ルシルは馬車のそばから視線を向けた。


「雨が降ったときに水が集まる場所なのかな」


「その可能性はあります。ただ、今聞こえている音がそこから来ているかどうかは、まだ分かりません」


シモンはしばらく耳を澄ませた。


風が弱まると、確かに小さな水音が聞こえる。しかし、その音は一定ではなく、ときどき途切れてしまう。


ルシルは少し考えたあと、静かに口を開いた。


「もし水があっても、ここから安全に汲めないなら使えないんだよね」


「ええ。沢を見つけることと、水を補給できることは別ですから」


シモンはそう答え、草の向こうへ目を向けた。


そのとき、モモが馬車のそばから声をかけた。


「ねえ、二人とも。あの木の根元、ちょっとだけ光ってない?」


ルシルとシモンは、彼女が指さした方向を見た。


道からそれほど離れていない場所に、根元が露出した低い木がある。その近くの石の間に、陽光を反射する小さなものが見えた。


シモンは目を細め、しばらく観察した。


「確かに光が反射していますね。水面かもしれませんが、濡れた石の可能性もあります」


モモは期待を抑えるように頷いた。


「そっか。じゃあ、まだ分からないんだね」


「ええ。ただ、位置は確認できました。まずは足元の状態を調べましょう」


シモンは道の端から少しだけ移動し、地面に細い石の帯が続いていることを確かめた。


そこは周囲の草地よりもわずかに低く、雨水が流れた跡のようにも見える。だが、土は乾いており、足を置いた場所に大きな沈み込みはなかった。


それでも、奥の草が深い場所までは進まない。


シモンは安全に立てる範囲で足を止め、木の根元を観察した。


「……水がありますね」


その言葉に、モモが小さく息を呑んだ。


「本当?」


「ええ。ただし、ごく少量です。石の間を細く流れているようですが、ここからでは水源も流れ先も確認できません」


ルシルは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。


水がある。


それだけでも、今まで何も見つけられなかった三人にとっては嬉しい発見だった。


しかし、すぐに喜びすぎないようにした。


「シモン、安全に近づけそう?」


シモンは足元を確かめ、しばらく考えたあと首を横に振った。


「今の場所から先は、草が深くて地面の状態が分かりません。水のあるところまで下りるには、もう少し詳しく調べる必要がありますね」


モモは少し残念そうに肩を落とした。


「そっか……。せっかく見つかったのに、すぐには汲めないんだね」


ルシルは彼女へ穏やかに微笑みかけた。


「でも、水があるって分かっただけでも、昨日までとは違うよ。無理に近づかなくても、ここで見つけたことは覚えておけるからね」


「うん。そうだね」


モモは頷き、旅帳面を取り出した。


シモンは二人のやり取りを聞きながら、もう一度水の見える場所を確認した。


流れは細く、石の間に小さな水溜まりを作っているようだった。周囲には動物の足跡らしいものも見えたが、距離があるため、種類や新しさまでは分からない。


水が清潔かどうかを判断する材料もない。


シモンは静かに息を吐いた。


「ここは、水が存在することだけを記録しておきましょう。今の情報では、安全な補給場所として扱えません」


ルシルは頷いた。


「うん。僕もそれがいいと思う。残念だけど、無理に使うのはやめよう」


モモも少し考えたあと、顔を上げた。


「わたしも賛成。せっかくお水を見つけたのにって思うけど、ここで誰かが怪我したら大変だもんね」


シモンは穏やかに微笑んだ。


「ありがとうございます。では、ここでの確認は終えましょう」


三人は馬車のそばへ戻り、見つけた場所を記録することにした。


◇


モモは旅帳面を開き、道の曲がり角と低い木の位置を描き始めた。石の間に見えた小さな水面も、覚えている範囲で書き加えていく。


ただし、水がどこから流れてきたのかは分からないため、そこは空白のままにした。


「ねえ、シモン君。ここには『水があった』って書いていいんだよね?」


「ええ。ただし、『安全に飲める水』とは書かないようにしてください。見えたことと、まだ分からないことを分けておきましょう」


「うん。じゃあ、『石の間に細い水の流れが見えた。でも、近づいて確かめてはいない』って書いておくね」


モモはそう言いながら、丁寧に文字を書き込んだ。


ルシルはその様子を眺め、少し考え込んだ。


昨日まで、水を見つけることばかり考えていた。


けれど実際に水を見つけてみると、それだけでは問題が解決しないことが分かった。


水がある場所へ安全に近づけるか。


汲めるだけの量があるか。


飲用に適しているか。


そして、トルクとベルクにも十分に与えられるか。


どれも、見ただけでは判断できないことだった。


(見つけたから使えるってわけじゃないんだね。分からないことをそのままにしておくのは、少し残念だけど……。今の僕たちには、無理をしない方が大切なんだ)


ルシルはそう考えながら、シモンへ顔を向けた。


「シモン、ここで水を補給できなかったのは残念だけど、僕は見つけられてよかったと思うんだ。次に通るとき、もっと準備が整っていれば、安全に調べられるかもしれないし」


「ええ。今回の記録が、次の判断に役立つことはあるでしょう。ただし、季節や天候で状態が変わる可能性もありますから、次回も同じ水量があるとは限りません」


「うん。そこも忘れないようにしよう」


モモは二人の会話を聞きながら、嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、わたしの旅帳面にも、そのことを書いておくね。『次に来たときも水があるとは限らない』って」


シモンは穏やかに微笑んだ。


「よい記録だと思います」


モモは少し照れたように笑い、再び鉛筆を動かした。


その間、ルシルはトルクとベルクの様子を確認していた。


二頭は落ち着いていたが、午後の移動で疲れが出ていることは確かだった。


ルシルは二頭の首筋を撫で、穏やかに声をかけた。


「今日はもう少し休もうね。水をたくさん飲ませてあげられなくてごめんね。でも、ちゃんと補給できる場所へ向かってるから」


トルクは鼻先を寄せ、ルシルの掌へ軽く触れた。


ベルクも耳を動かし、静かに立っている。


ルシルはその様子を見ながら、小さく微笑んだ。


水の問題はまだ解決していない。


それでも、三人が相談して選んだ道を、二頭と一緒に進んでいることが心強かった。


◇


休憩を続ける間、シモンは馬車の車輪と馬具を確認した。道の状態は比較的安定していたものの、緩やかな坂を何度も通ったことで、留め具が緩んでいないか気になっていたのだ。


ルシルはその作業を手伝いながら、ベルクの脚元へ視線を向けた。


「さっき、歩幅が少し短くなっている気がしたんだけど、休んでいる今はどうかな」


「立ち方に大きな偏りは見られませんね。ただ、歩いているときの変化は、休んでいるだけでは分からないこともあります。再出発する際に、もう一度確認しましょう」


シモンはそう答え、馬具の当たり具合を丁寧に確かめた。ルシルも隣で様子を見守り、二頭が嫌がる仕草を見せないか注意している。


モモは少し離れた場所で、荷台の食料袋を整理していた。朝のうちに確認した保存食はまだ残っているが、ハルミナのパンはほとんど食べ終えている。


「ねえ、二人とも。今夜のご飯、どうしようか。昨日と同じものでもいいけど、少し味を変えられたら嬉しいな」


モモが声をかけると、ルシルは顔を上げた。


「そうだね。水をあまり使わずに済むものがいいから、保存食を組み合わせてみようか」


「うん! わたし、乾燥野菜を少し細かくして、塩漬けのお肉と一緒に食べたらどうかなって思ってたの」


モモは食料袋の中身を確かめながら、少し楽しそうに続けた。


「温かいご飯じゃなくても、食べ方を変えたら気分が違うでしょう? 同じものばっかりだと、ちょっと飽きちゃうかもしれないし」


シモンは作業の手を止め、彼女の方を見た。


「よい考えですね。ただ、乾燥野菜の中には、水で戻してから調理することを前提にしたものもあります。そのまま食べられるものだけを使いましょう」


「うん。ちゃんと確認する!」


モモは笑顔で答えた。


ルシルはそのやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力を抜いた。


水が少ないことは変わらない。


けれど、だからといって、食事を楽しむ気持ちまでなくす必要はないのだろう。


旅の途中では、思いどおりにいかないこともある。それでも、今あるものを工夫して楽しもうとするモモの姿を見ると、ルシルも自然と前向きな気持ちになれた。


「モモ、今夜の食事は任せてもいいかな。もちろん、僕も手伝うよ」


ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに目を輝かせた。


「本当? じゃあ、今日はわたしが考えた組み合わせにしてみようかな! シモン君にも確認してもらいながら作るね」


「ええ。食材の状態を確かめてから、一緒に準備しましょう」


シモンも穏やかに頷いた。


三人の間に、少しだけ明るい空気が戻った。


ルシルはその様子を見ながら、静かに微笑んだ。


◇


休憩を終える頃には、午後の陽射しがさらに傾き始めていた。


シモンは周囲の地形を確認し、今日の移動をどこまで続けるか考えていた。ハルミナへ戻るには、まだ道のりが残っている。しかし、今の時間から無理に距離を稼ぐより、明るいうちに安全な野営地を確保した方がよいだろう。


「ルシル様、今日は次に適した野営場所が見つかったところで移動を終えましょう。これ以上、長い距離を進む必要はないと思います」


シモンの提案に、ルシルは頷いた。


「うん。僕もそうしたい。ベルクの歩き方も気になるし、早めに休ませてあげたいからね」


モモも顔を上げた。


「じゃあ、わたしも野営できそうな場所を探すね。さっきみたいに地面が固くて、馬車を止めやすいところがいいんだよね?」


「ええ。ただし、見た目だけでは分からないこともありますから、候補を見つけたら私が地面を確かめます」


「うん、分かった!」


モモは嬉しそうに頷き、旅帳面を荷台へしまった。


ルシルはトルクとベルクの馬具を整え、再出発の準備を始めた。


シモンは二頭の歩き方を確認するため、最初の短い距離だけ馬車の横を歩くことにした。


ルシルは手綱を握り、二頭へ穏やかに声をかけた。


「それじゃあ、もう少しだけ進もう。無理はしないから、ゆっくり行こうね」


トルクとベルクは落ち着いた足取りで歩き始めた。


シモンは二頭の脚の動きを確かめながら、少しずつ速度を合わせていく。


ベルクの歩幅は、休憩前よりも安定しているように見えた。明らかな異常はないものの、疲れが完全に消えたと考えることはできない。


「ルシル様、今のところ歩き方に大きな問題は見られません。ただ、今日は予定どおり短い距離で切り上げましょう」


「うん。ありがとう、シモン」


ルシルは頷き、前方へ目を向けた。


道は緩やかに続いている。


昨日までとは反対方向へ進んでいるため、見える景色は少し違っていた。


草地の向こうには低い丘が重なり、その間を細い道が通っている。


モモは窓の外を眺めながら、ふと声を上げた。


「ねえ、ルシル君。あの石、昨日も見たような気がする!」


ルシルは彼女が指さした方向を見た。


道の端には、丸みのある小さな石がいくつか並んでいる。


「そうかもしれないね。でも、似た石はほかにもあるから、今は目印だって決めつけない方がいいかな」


「うん。そうだね。じゃあ、あとで旅帳面と比べてみる!」


モモは楽しそうに答えた。


シモンはその会話を聞きながら、少しだけ微笑んだ。


以前なら、モモが何かを見つけるたびに、すぐ説明しようとしていたかもしれない。


しかし今は、彼女自身が見たものを確かめ、分からないことを分からないまま残すようになっている。


その変化が、シモンには頼もしく感じられた。


◇


しばらく進むと、道の左側に草の短い平坦な場所が見えてきた。


周囲には背の低い木がまばらに生えており、馬車を止めるには十分な広さがありそうだった。


ルシルは速度を落とし、シモンへ声をかけた。


「シモン、あそこはどうかな。地面も比較的平らに見えるけど」


シモンは周囲を確認し、少し考えてから頷いた。


「候補としてはよさそうですね。道幅にも余裕がありますし、まずは地面の状態を確かめましょう」


ルシルは馬車を安全な位置で止め、シモンが降りるのを待った。


シモンは草地へ足を踏み入れ、地面の固さや傾きを確かめていく。表面は乾いており、大きな窪みも見当たらない。木々からも十分に距離があり、夜間の見通しを確保しやすそうだった。


ただし、水場は近くに見当たらなかった。


シモンはそのことも確認したうえで、馬車へ戻った。


「ここなら野営できそうです。水場はありませんが、地面の状態と見通しを考えれば、今夜の休憩場所としては悪くないでしょう」


ルシルは頷いた。


「うん。じゃあ、今日はここまでにしよう。トルクたちも休ませたいしね」


モモも嬉しそうに頷いた。


「わたしも賛成! 今日はちょっと早めに準備できそうだね」


三人は馬車を慎重に草地へ寄せ、野営の準備を始めた。


ルシルは二頭の馬具を外し、背や脚の状態を確かめる。シモンは水容器と食料の残量を確認し、モモは寝具を敷く場所を探した。


それぞれの作業は、旅を始めた頃よりも自然に進むようになっていた。


誰か一人がすべてを指示しなくても、今何をするべきかを考えられるようになっている。


ルシルはそのことを嬉しく思いながら、トルクの首筋を撫でた。


「今日もありがとう。ちゃんと休んでね」


トルクは鼻先を寄せ、ルシルの掌へ軽く触れた。


ベルクも落ち着いた様子で耳を動かしている。


ルシルは二頭の様子を確認し、少しだけ安心した。


◇


夕食の準備を始める頃には、空の色が少しずつ赤みを帯び始めていた。


モモは食料袋を開き、残っている保存食を並べている。


シモンは水を使わずに食べられるものを確認し、ルシルは布や食器を用意した。


「今日はね、乾燥野菜のうち、そのまま食べられるものを細かくして、塩漬けのお肉と合わせてみようと思うの。ちょっと味が変わるかなって」


モモが楽しそうに説明すると、ルシルは頷いた。


「美味しそうだね。昨日とは少し違う食べ方になりそうだよ」


シモンも穏やかに微笑んだ。


「よいと思います。ただし、肉の保存状態を確認してから使いましょう。残っている量も考えて、三人で分けられるようにしてください」


「うん!」


モモは元気よく答え、食材を丁寧に分け始めた。


ルシルはその隣で、布の上へ食器を並べていく。


水を節約するため、今夜も火を使った調理は控えることにした。


温かい料理を食べられないのは少し残念だったが、三人は今の状況に合わせて工夫することを楽しんでいた。


やがて食事の準備が整うと、三人は馬車のそばに腰を下ろした。


モモは自分で考えた組み合わせを一口食べ、嬉しそうに目を細めた。


「うん、美味しい! やっぱり、ちょっと味を変えるだけでも違うね」


ルシルも食べてみると、塩漬け肉の味と乾燥野菜の食感が合わさり、思っていたより食べやすかった。


「本当だね。モモ、ありがとう。こういう工夫ができると、野営の食事も楽しくなるよ」


「えへへ。よかった!」


モモは嬉しそうに笑った。


シモンも一口食べ、穏やかに頷いた。


「確かに、悪くありませんね。水を使わずに済むことも考えると、今の状況には合っています」


その言葉に、モモはさらに嬉しそうな表情になった。


「やった! シモン君にも褒めてもらえた!」


ルシルは思わず笑ってしまった。


シモンも少し照れたように微笑んだ。


夕暮れの草地には、三人の穏やかな笑い声が広がった。


◇


食事を終えたあと、三人は道具を片づけ、明日の行程について相談することにした。日が沈むまでにはまだ少し時間があり、草地の向こうには柔らかな夕陽が広がっている。


シモンは帳面を開き、今日の移動を振り返った。


「今日は、道の近くで少量の水を確認できました。しかし、安全に補給できる場所ではありませんでしたから、飲み水の残量は予定どおり減っています」


ルシルは頷いた。


「うん。水を見つけたときは嬉しかったけど、無理に近づかなくてよかったと思うよ」


「ええ。水があるからといって、必ずしも利用できるわけではありません。今日の判断は、今後の旅でも大切になるでしょう」


モモは旅帳面を開き、昼間に描いた小さな水の流れを眺めた。


「わたしね、最初はちょっと残念だったんだ。やっとお水を見つけたのに、汲めないなんてって。でも、今はちゃんと記録できたから、それでよかったのかなって思ってる」


ルシルは穏やかに微笑んだ。


「そうだね。次に通るとき、もっと安全に調べられるかもしれないし、別の人が知っていることを教えてくれるかもしれない。今すぐ全部分からなくてもいいんだと思うよ」


モモは嬉しそうに頷いた。


「うん! それに、今日のお水のことも、旅帳面にちゃんと残せたからね」


シモンは二人の会話を聞きながら、静かに微笑んだ。


旅を始めた頃、ルシルは自分の希望を口にすることに、どこか遠慮があった。モモは興味を引かれたものへ素直に近づこうとし、シモンは二人の安全を守るため、先回りして判断しようとしていた。


しかし今は、それぞれが少しずつ変わっている。


ルシルは自分の考えを伝え、モモは気になることを確かめる前に相談し、シモンも一人で結論を出さずに二人の意見を聞くようになった。


その変化は、今日のような小さな出来事の中にも表れていた。


「ルシル様、明日もハルミナ方面へ戻る方針でよろしいでしょうか」


シモンが尋ねると、ルシルは静かに頷いた。


「うん。僕はそのつもりだよ。水の補給先が分からないまま先へ進むより、確実に井戸がある場所へ向かいたいと思う」


「私も賛成です。ただし、明日も馬たちの状態と水の残量を確認しながら進みましょう。予定どおりに移動できない場合も考えておく必要があります」


モモも顔を上げた。


「わたしも賛成! ハルミナへ戻ったら、マリナさんたちにまた会えるかもしれないしね。でも、まずはちゃんとお水を補給することが大事だよね」


ルシルは笑顔で頷いた。


「そうだね。モモがパンを買うのは、そのあとかな」


「もう、ルシル君! わたしだって、ちゃんと分かってるもん!」


モモは頬を膨らませたが、すぐに笑ってしまった。


シモンも穏やかに微笑んだ。


「では、次にハルミナへ着いたときは、まず水と馬たちの世話を済ませましょう。そのあとで、食事や買い物を楽しめばよいと思います」


「うん! それなら大賛成!」


モモは嬉しそうに答えた。


三人は顔を見合わせ、小さく笑った。


◇


夜が近づくと、草地には冷たい風が吹き始めた。


ルシルはトルクとベルクの様子をもう一度確認し、二頭が落ち着いていることを確かめてから、仲間のところへ戻った。


モモは旅帳面を閉じ、外套の前を合わせている。シモンは夜間の見回りに必要な道具を整え、交代の順番を確認していた。


「今日は、昨日より少し早く休めそうだね」


ルシルが言うと、モモは笑顔で頷いた。


「うん! 今日は水を見つけたし、野営場所も早めに決められたし、なんだかいろいろあった日だったね」


「そうだね。でも、無理をしないで済んだのが一番よかったと思うよ」


ルシルは穏やかに答えた。


シモンも頷いた。


「ええ。今日のように、必要なことを一つずつ確かめながら進めばよいのです。焦って距離を稼ぐ必要はありません」


ルシルはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。


王宮にいた頃、自分はいつも何かを求められていた。


誰かの期待に応え、決められた役割を果たし、間違いのない選択をしなければならないと思っていた。


けれど今は違う。


分からないことがあっても、すぐに答えを出す必要はない。


迷ったときには仲間と相談し、必要なら立ち止まることもできる。


そして、進むことだけでなく、戻ることも自分たちで選べる。


(僕は、こういう旅がしたかったんだろうな。何もかも自由にできるわけじゃないけど、誰かに決められた道を歩くんじゃなくて、自分たちで考えて進んでいく。それが、今の僕には嬉しいんだ)


ルシルはそんなことを思いながら、夜空へ目を向けた。


星が少しずつ増え始めている。


遠くの道は闇の中へ続いているが、その先に何があるのかを今すぐ確かめる必要はなかった。


明日になれば、また新しい一日が始まる。


そのときに必要なことを考え、三人で相談しながら進めばいい。


ルシルは静かに息を吐き、仲間の方へ顔を向けた。


「それじゃあ、そろそろ休もうか。明日も、無理をしないで進もうね」


モモは笑顔で頷いた。


「うん! 明日もよろしくね、ルシル君、シモン君!」


シモンも穏やかに微笑んだ。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。今夜も交代で休みながら、明日に備えましょう」


三人は寝具を整え、夜の支度を始めた。


水の問題は、まだ完全には解決していない。


ハルミナへ戻るまでの道のりも、決して短いものではなかった。


それでも、ルシルたちは今日、自分たちにできることを一つずつ確かめ、無理のない選択を重ねてきた。


道の途中で見つけた小さな水の流れは、すぐに役立つものではなかった。


けれど、それを見つけたことも、使わないと決めたことも、三人の旅にとって大切な経験になった。


夜風が草地を渡り、馬車の窓に掛けた青い風魚の布を静かに揺らす。


ルシルはその音を聞きながら、明日も仲間と一緒に旅を続けられることを、心から嬉しく思った。


そして、穏やかな夜の中で、ゆっくりと目を閉じた。


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