第149話「朝の水差しと、戻る勇気を教えてくれた道」
夜明け前の草地には、昨夜よりも冷たい空気が漂っていた。低い丘の向こうはまだ薄暗く、空の端だけが少しずつ青みを帯び始めている。風が吹くたびに短い草が擦れ合い、馬車の窓に掛けられた青い風魚の布が、かすかな音を立てて揺れていた。
ルシルは交代の見張りを終える少し前から、道の先へ何度も目を向けていた。昨夜のうちに三人で話し合い、今日も水の補給を最優先に考えると決めている。しかし、どの場所で確実に水を得られるのかという問いには、まだ答えが出ていなかった。
馬車の近くでは、トルクとベルクが静かに休んでいる。栗毛のトルクはときおり鼻を鳴らし、暗灰色のベルクは耳を動かして周囲の音を確かめていた。二頭とも昨夜の時点で目立った異常はなかったが、十分な水を補給できない状態が続いている以上、今日も同じように歩けると決めつけるわけにはいかない。
ルシルは外套の前を合わせ、白み始めた空を見上げた。
(昨日は、あそこで休むと決めてよかったと思う。でも、今日は昨日と同じように、次の休憩場所を探すだけでは済まないかもしれないね。水が必要だって分かっているのに、どこへ向かえばいいのか分からないのは、思っていたより難しいことなんだな)
考え込んでいると、背後から寝具の擦れる音が聞こえた。振り返ると、シモンが身を起こし、眼鏡をかけながらこちらを見ている。
「おはようございます、ルシル様。交代の時間には、まだ少し早いようですが」
「おはよう、シモン。僕もそろそろ声をかけようと思っていたところだよ。夜の間は特に変わったことはなかったし、トルクたちも落ち着いているよ」
シモンは立ち上がると、まず馬たちの様子を確認し、それから周囲の地面へ目を向けた。夜露で草の先は濡れていたものの、馬車を止めている場所に水が溜まった形跡はない。昨日の夕方に選んだ地面は、今朝も比較的しっかりした状態を保っていた。
「ありがとうございます。では、私が引き継ぎますので、ルシル様はもう少しお休みください。朝になれば、水の残量も改めて確認できます」
「うん。でも、その前に一つだけ聞いてもいいかな」
ルシルがそう言うと、シモンは静かに頷いた。
「昨日は、先へ進むか戻るかを決めきれなかったでしょう。僕は、朝になったら何か分かるかもしれないと思っていたんだけど、空が明るくなっても、やっぱり水場の場所は分からないままだね」
シモンはすぐに返事をせず、ルシルの視線を追って道の向こうを見た。丘の輪郭は少しずつはっきりしてきたが、その先に集落があるのか、沢が流れているのかまでは見通せない。
「そうですね。夜が明けたからといって、情報が増えるとは限りません。ただ、明るくなれば地面や馬たちの状態を確かめやすくなります。今朝は、まず私たちが確実に知っていることを整理しましょう」
「確実に知っていること、か……。昨日も似た話をしたけど、今日はちゃんと決めるために考えたいな」
「ええ。私もそのつもりです」
シモンの声は穏やかだったが、いつもより少し慎重な響きがあった。ルシルはそれに気づき、彼が自分たちを安心させるためだけに楽観的な言葉を選んでいないことを感じた。
旅の途中では、楽しい話をしているときと同じくらい、困ったことを困ったまま話せることが大切なのかもしれない。そう考えると、胸の奥に残っていた落ち着かなさが、ほんの少し和らいだ。
「ありがとう、シモン。それじゃあ、モモが起きたら三人で相談しよう。僕も少しだけ横になっておくね」
「はい。朝の支度を始める頃にお声がけします」
ルシルは寝具へ戻り、外套を緩めて横になった。すぐに深く眠れるわけではなかったが、目を閉じて身体を休めているうちに、草を渡る風と馬たちの静かな息遣いが、ゆっくりと耳になじんでいった。
◇
朝日が丘の端から姿を現す頃、モモは寝具の中で大きく伸びをした。桃金色の髪が頬へ掛かり、寝起きのまま馬車の外を覗くと、シモンが水容器を並べているところだった。
「おはよう、シモン君。今日も早いね。……あれ、ルシル君は?」
「おはようございます、モモ嬢。ルシル様は最後の見張りを担当されましたので、もう少し休んでいただいています。そろそろ朝食の準備を始めますから、その頃にはお声がけしましょう」
モモは頷き、寝具を畳み始めた。昨夜は早めに野営を決めたおかげで、荷物の配置にも余裕があり、暗い中で慌てて道具を探す必要がなかった。小さなことではあるが、こうした準備の違いが翌朝の動きやすさにつながるのだと、彼女にも分かるようになってきた。
身支度を終えると、モモはシモンの隣へしゃがみ込んだ。並べられた水容器のうち、すぐに使うものと予備として残すものは分けられている。昨日よりも数が減ったわけではないが、中身が少なくなっていることは、持ち上げたときの重さからも分かった。
「ねえ、シモン君。今日の朝ご飯も、お水を使わないものにするんだよね?」
「そう考えています。ただし、食事の際に飲む水は別です。モモ嬢も、必要な分はきちんと飲んでください」
「うん、分かってるよ。昨日、三人で約束したもんね」
モモは笑顔で答えたあと、少し真面目な表情になった。
「でもね、わたし、ひとつ気になってることがあるの。お水が少ないって分かっていると、飲むたびに『これでよかったのかな』って考えちゃうんだ。ちゃんと飲まなくちゃいけないのも分かるんだけどね」
シモンは水容器の蓋を閉め、彼女へ顔を向けた。
「そう感じるのは自然なことだと思います。ただ、飲むべき水まで我慢してしまうと、判断力や体力にも影響します。節約するなら、調理方法や移動計画など、別のところで工夫するべきでしょう」
「そっか。じゃあ、喉が渇いたときに飲むことまで悪いことみたいに思わなくていいんだね」
「ええ。むしろ、その状態にならないように行程を考えるのが、私たちの仕事です」
シモンの返事を聞き、モモは小さく息を吐いた。彼が自分だけでなく、ルシルにも同じことを伝えているのを思い出したからだ。
水が減っていることを心配するあまり、誰かが無理をする。それでは、三人で旅を楽しむために選んだ道から、少しずつ離れてしまうような気がした。
「ありがとう、シモン君。わたしも、困ったらちゃんと言うね。あと、シモン君が我慢してそうだったら、ちゃんと教えてあげるから!」
モモが明るく宣言すると、シモンは苦笑しながら頷いた。
「それは心強いですね。私も気をつけます」
そのとき、背後から柔らかな声が聞こえた。
「それなら、僕も二人に教えてもらわないとね。自分では大丈夫だと思っていても、気づかないことがあるかもしれないから」
振り返ると、ルシルが寝具を畳みながら微笑んでいた。少し休んだことで表情は穏やかになっており、目立った疲れも見えない。
「ルシル君、おはよう! ちゃんと眠れた?」
「おはよう、モモ。少しだけだったけど、身体は休められたよ。ありがとう」
モモは嬉しそうに頷き、朝食の準備を手伝うために立ち上がった。シモンも水容器を所定の位置へ戻し、三人はいつものように、それぞれができる作業を分担し始めた。
朝食には、残っている保存食と乾いたパンを使った。ハルミナの共同窯で焼かれたパンは、いよいよ最後の方になっている。モモは小さくなった一切れを眺めながら、エルナが焼き上がったパンを並べていたときの笑顔を思い出した。
「これで、エルナさんのパンもほとんどおしまいだね。次にハルミナへ行くことがあったら、また買いたいなあ」
「そうだね。あの香りは僕も忘れられないよ」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。シモンは食料袋を確認し、残りの保存食についても帳面へ記している。
食事を終えたあと、三人はトルクとベルクの世話に取りかかった。馬具を付ける前に背や脚を確かめ、餌の残量と飲み水を確認する。二頭は落ち着いていたが、シモンは今日の行程を決めるまでは馬車を動かさないことにした。
ルシルもその考えに賛成だった。進むための準備をすべて終えてしまうと、いつの間にか出発することが当たり前になってしまう気がしたからだ。
◇
朝の作業が一段落すると、三人は馬車の脇に布を広げ、地図と移動記録を並べた。日差しはまだ穏やかで、草地を渡る風も昨日ほど強くない。話し合いをするには、落ち着いた朝だった。
シモンはまず、昨日までに確認したことを簡潔に整理した。
「私たちはハルミナから、以前通った道を戻っています。道そのものについては、未確認の南側の丘道よりも情報があります。しかし、この区間で確実に補給できる水場については、記録が十分ではありません」
ルシルは頷いた。ハルミナを出るときには水を補給していたし、途中の野営でも無駄遣いを避けてきた。それでも、思っていた以上に馬たちの飲み水が必要で、移動が長引くほど余裕が減っていくことを実感している。
「昨日見つけた木立の踏み跡も、水場につながっているかどうかは分からなかったね。旅人が話してくれた沢と同じ場所なのかも、確かめられていない」
「ええ。ですから、その情報を前提にして先へ進むのは危険です。沢があったとしても、今も水が流れているとは限りませんし、安全に汲める場所かどうかも分かりません」
シモンはそう言い、地図の上へ指を置いた。
「問題は、進んだ先にも、引き返した先にも距離があることです。ハルミナは確実に補給できる場所ですが、ここからすぐ戻れるわけではありません。一方、進行方向には以前通った道が続いていますが、次の確実な補給先までの距離を、今の記録だけでは保証できません」
モモは地図を覗き込み、少し眉を寄せた。
「じゃあ、どっちへ行っても、途中で水が必要になるかもしれないんだね」
「その通りです。だからこそ、今日は『どちらの方向が好きか』ではなく、『どちらの行程を具体的に管理できるか』を考えたいのです」
ルシルはシモンの言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
戻るという選択は、どこか後ろ向きに感じられることがある。せっかく進んだ道をまた引き返せば、時間を無駄にしたようにも思えるだろう。
しかし、ハルミナへ向かったときにも、三人は南側の丘道を調べた末に、そこを進まないと決めた。路肩の柔らかさや水場の不確かさを確かめたうえでの判断だったから、あのときは誰も失敗したとは思わなかった。
今も同じことなのかもしれない。
「僕はね、昨日までは、できればこのまま先へ進みたいと思っていたんだ」
ルシルが静かに話し始めると、モモとシモンは彼の方を見た。
「一度通った道だし、前にも進めたんだから、きっと大丈夫だろうって。でも、それは水を十分に持っていたときの話なんだよね。今の僕たちが同じように進めるかどうかは、別に考えないといけないんだと思う」
シモンは頷いたものの、すぐには結論を口にしなかった。ルシルが自分の考えを整理しようとしていることが分かったからだ。
「ただ、ハルミナへ戻るにしても、今ある水で足りるかどうかを確かめなきゃいけない。だから、戻れば必ず安心だって決めつけるのも違うよね」
「はい。そこが重要です」
シモンは穏やかに答えた。
モモは二人の顔を見比べ、少し考えてから口を開いた。
「わたしね、最初は戻るのがもったいないって思ったの。だって、昨日も一昨日も進んできたでしょう? また同じ景色を見ることになるのかなって」
彼女はそう言いながら、膝の上の旅帳面を撫でた。
「でも、今はちょっと違う気がするんだ。帰り道でも、昨日見つけた古い轍みたいに、行きには気づかなかったものがあったよね。だから、同じ道を歩くことが、何も新しくないってわけじゃないんだなって」
ルシルはその言葉に微笑んだ。
「そうだね。僕も、モモが描いてくれた絵を見て、同じ場所でも見え方が変わるんだなって思ったよ」
「うん。それに、お水が足りなくなって困るより、ちゃんと休めるところへ向かう方がいいもん」
モモの声は明るかったが、その目には真剣な色があった。彼女は旅を楽しみたいと思っている。しかし、楽しい旅を続けるために何を選ぶべきかも、以前よりよく考えるようになっていた。
シモンは二人の言葉を聞きながら、地図へ視線を戻した。
「では、具体的な判断をしましょう。まず、今朝の水の残量を基準に、必要な飲み水と馬たちの分を確保します。そのうえで、現在の道を進んだ場合と、ハルミナ方面へ引き返した場合の両方について、休憩の取り方を考えます」
彼は帳面の余白へ二つの行程を書き分けた。正確な距離が不明な部分は、推測で数字を埋めるのではなく、未確認のまま残しておく。
ルシルはその様子を見ながら、自分も地図の目印を確かめた。昨日見た木立、道の脇の石が集まった場所、そして現在の野営地。どれも大きな町や村ではないが、移動を振り返るためには大切な情報だった。
話し合いを進めるうちに、一つのことがはっきりしてきた。
今ある記録だけでは、どちらの方向についても安全な到着時刻を保証できない。だから、すぐに長い移動を始めるのではなく、まず現状をもう少し確かめる必要があった。
「シモン、今日のうちに進路を決めるとしても、今すぐ馬車を動かさなくていいかな」
ルシルが尋ねると、シモンは頷いた。
「ええ。今朝はまだ時間がありますし、馬たちも落ち着いています。慌てて出発するより、必要な確認を終えてからの方がよいでしょう」
「じゃあ、もう一度、馬車の荷物を全部確かめよう。水容器の中身だけじゃなくて、どこに何を入れていたかも確認したいんだ」
モモは少し不思議そうに首を傾げた。
「荷物を全部? お水が急に増えるわけじゃないよね?」
「もちろん、そうだね。でも、使っていない容器がないかとか、僕たちが覚えていないものがないかとか、確認しておきたいんだ。何も見つからなくても、ちゃんと分かった方が安心できると思う」
シモンはルシルの提案を聞き、穏やかに微笑んだ。
「よい考えです。では、荷物を一つずつ確認しましょう。ただし、食料や道具を地面へ直接置かないようにしてください。あとで積み直すときに、位置も整理しておきましょう」
◇
馬車の荷台を開くと、旅の間に少しずつ増えた品々が、布や木箱に分けて収められていた。青波村で手に入れた青い風魚の布は窓辺に揺れ、潮凪村で持ち帰った三つの貝殻は、壊れないように小さな包みへ収められている。
モモはその包みを見つけると、思わず笑顔になった。
「わあ、貝殻だ。そういえば、最近はあんまり出してなかったね。潮凪村の海、また見に行きたいなあ」
「僕も。あのときは、波の音を聞いているだけでも楽しかったね」
ルシルは微笑みながら答えたが、すぐに包みを元の場所へ戻した。今は思い出話に夢中になるより、荷物の確認を終えることが先だった。
シモンは飲み水の容器、食料、馬の飼料、調理道具、予備の馬具を順番に確認していく。魔法収納に入れているものについても、何をどこへ収めているかを確かめたが、忘れていた大量の水が見つかるようなことはなかった。
モモは少し残念そうに肩を落とした。
「やっぱり、使ってないお水がどこかにあったりはしないんだね」
「そうですね。ですが、残量を正しく把握できたことには意味があります」
シモンはそう答え、容器の蓋を確かめた。
「それに、今後は水を補給したとき、容器ごとの量と用途をもっと分かりやすく記録しておきましょう。こうして確認する手間も減らせるはずです」
「じゃあ、わたし、容器の形を描いておこうかな。どれがお水用で、どれがほかのもの用か、絵で見れば分かりやすいでしょう?」
モモの提案に、ルシルは頷いた。
「それ、いいね。僕も手伝うよ。文字だけだと似たような容器を間違えることがあるかもしれないし」
シモンは二人のやり取りを見ながら、静かに笑った。
「では、お願いします。ただし、飲み水の容器に直接何かを書き込む必要はありません。帳面の記録だけでも十分役立ちますから」
モモは早速旅帳面を開き、容器の形を描き始めた。大きさや蓋の違いを確かめながら線を引き、シモンから教わった用途を書き添えていく。
ルシルはその隣で、収納している場所を確認していた。荷台のどこに何があるかを覚えておけば、暗くなってから必要なものを探す時間も減らせるだろう。
作業を続けているうちに、モモはふと手を止めた。
「ねえ、ルシル君。わたし、こういうのって、ちょっと不思議だなって思うんだ」
「何が?」
「旅帳面には景色とか美味しかったものを描くつもりだったのに、最近は水の容器とか、地面の形とか、そういうものも増えてるでしょう。でも、描いてると意外に楽しいんだよね」
モモは自分の描いた容器の絵を眺め、少し照れたように笑った。
「最初は、そんなものを描いても面白くないって思ってたかもしれない。でも今は、あとで見たときに『このとき、みんなで水のことを考えたんだな』って思い出せる気がするの」
ルシルはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「それは、きっと素敵な記録になるね。旅の楽しいところだけじゃなくて、僕たちが何を考えていたのかも残るんだから」
モモは嬉しそうに頷き、また鉛筆を動かし始めた。
シモンは二人の会話を聞きながら、荷物を元の位置へ戻していく。ルシルが自分の帳面を持ちたいと話していたことも思い出したが、今はその話を持ち出さなかった。
いつか彼が自分の記録を残し始めたとき、そこに何を書くかは本人が決めればよい。シモンはそう考え、最後の水容器を荷台へ収めた。
◇
荷物の確認を終えた頃には、朝の冷たさが少し和らいでいた。草地には日差しが広がり、遠くの丘の輪郭もはっきり見えるようになっている。
三人は再び馬車の脇へ集まり、今後の進路について話し合った。
「結局、水の量は今朝確認したとおりだったね」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「ええ。ただ、用途と収納場所を整理できました。これで、今後の確認はしやすくなるでしょう」
モモは旅帳面を閉じ、少し考えたあとで口を開いた。
「ねえ、二人とも。わたし、ひとつ聞いてもいい?」
「もちろんだよ」
「もし今日、先へ進んで水場が見つからなかったら、明日はもっと困ることになるんだよね。でも、ハルミナへ戻るにしても時間がかかる。だったら、今のうちに戻る方がいいのかなって思ったんだけど……」
モモはそこで言葉を止め、二人の表情を確かめた。
自分の考えが正しいかどうか、まだ自信がないのだろう。それでも、ただ二人の判断を待つのではなく、自分の意見を伝えようとしていることが分かった。
シモンはすぐに否定せず、ゆっくりと頷いた。
「戻るという選択は、十分に検討する価値があります。ただし、ハルミナまでの距離を考えると、引き返すだけで問題が解決するわけではありません。今ある水で安全に戻れるかどうかを確かめる必要があります」
「うん。だから、すぐに戻ろうって言いたいわけじゃないんだ。でも、進むことばかり考えてたら、戻るっていう選択を忘れちゃいそうで」
その言葉に、ルシルは静かに息を吐いた。
モモが言ったことは、自分にも当てはまっていた。
昨日までのルシルは、できれば旅を先へ進めたいと思っていた。道の先に何があるのかを知りたいし、新しい景色にも出会いたい。
けれど、その気持ちが強くなりすぎると、戻ることを失敗のように考えてしまうかもしれない。
「ありがとう、モモ。僕も、戻ることをちゃんと選択肢に入れて考えたいと思う」
ルシルはそう答え、シモンへ顔を向けた。
「シモン、僕は今日は、いったんハルミナ方面へ戻る方針で考えたい。もちろん、水が足りるかどうかを確かめたうえでだけど、補給先が分からない方向へ進み続けるより、確実に井戸がある場所を目指したいんだ」
シモンはルシルの言葉を聞き、しばらく考え込んだ。
ハルミナへ戻れば、少なくとも目的地には共同井戸があり、以前利用した宿もある。ただし、道中の水をどう確保するかという問題は残る。
それでも、進行方向の補給先が分からないまま距離を伸ばすより、行き先を明確にできる利点は大きかった。
「ルシル様のお考えは理解できます。私も、現時点ではその方針が妥当だと思います。ただし、出発前にもう一度、馬たちの状態を確認させてください。それから、途中で休憩を取る場所も考えておきましょう」
「うん。お願いするよ」
モモは二人の返事を聞き、少し安心したように微笑んだ。
「じゃあ、今日はハルミナの方へ戻るんだね。マリナさんたちにまた会えるかもしれないって思うと、ちょっと嬉しいな」
ルシルはその言葉に笑みを浮かべた。
「そうだね。でも、すぐに着けるわけじゃないから、まずは無理をしないことが大切だよ」
「うん、分かってる!」
モモは頷いたあと、少し照れくさそうに笑った。
「でもね、戻るって決めたら、なんだか少し安心したんだ。昨日までは、どこへ行けばいいのか分からなくて、ずっと気になってたから」
シモンはその言葉を聞き、穏やかに頷いた。
「目的地が明確になるだけでも、判断しやすくなることはあります。ただ、安心したからといって油断しないようにしましょう」
「うん!」
三人は顔を見合わせ、小さく笑った。
戻るという決断は、決して華やかなものではなかった。
新しい町へ向かうわけでも、未知の道を切り開くわけでもない。
それでも、三人が自分たちの状況を確かめ、相談して選んだ道だった。
ルシルはそのことを、何より大切に思った。
◇
出発の準備を始める前、シモンはトルクとベルクの様子をもう一度確認した。二頭の呼吸は落ち着いており、脚にも目立った異常はない。餌も食べていたが、これからの移動では休憩を増やし、飲み水の残量を見ながら進む必要がある。
ルシルは二頭の首筋を撫で、穏やかに声をかけた。
「今日は、来た道を少し戻ることにしたよ。せっかく進んだのにって思うかもしれないけど、僕たちには水が必要だからね」
トルクは鼻先を寄せ、ルシルの掌へ軽く触れた。ベルクも耳を動かし、静かに立っている。
「ありがとう。無理はさせないから、今日もよろしくね」
ルシルはそう言い、二頭の馬具を整え始めた。
モモは寝具を片づけ、昨夜使った場所を見回している。食料の欠片や布の切れ端が落ちていないか確かめ、荷物を一つずつ馬車へ戻していく。
シモンは最後に地面の状態を確認し、馬車を動かす方向を決めた。
「ルシル様、ここで無理に馬車を回す必要はありません。道幅のある場所まで慎重に動かしてから、向きを変えましょう」
「うん。急がずにやろう」
ルシルは頷き、手綱を握った。
馬車を動かすときには、トルクとベルクが落ち着いていることを確かめ、車輪が草地の端へ寄りすぎないように注意した。
シモンは地面の固さを確認しながら、必要な位置で声をかける。モモも馬車から少し離れた安全な場所で見守り、二頭の動きを邪魔しないようにしていた。
やがて、馬車はゆっくりと向きを変え、昨日まで進んできた道へ正面を向けた。
ルシルは手綱を緩め、二頭を落ち着かせてから、後ろを振り返った。
「これで大丈夫そうだね」
「ええ。車輪の位置も問題ありません」
シモンは頷き、御者台へ戻った。
モモも馬車へ乗り込み、窓から外を眺めた。
「なんだか不思議だね。昨日は向こうへ進んでたのに、今日は反対側へ行くんだ」
ルシルはその言葉に笑みを浮かべた。
「そうだね。でも、道が変わったわけじゃないんだよね。僕たちが、どちらへ進むかを選んだだけなんだ」
「うん。そう考えると、ちょっと面白いかも」
モモは嬉しそうに笑った。
シモンは二人の会話を聞きながら、静かに頷いた。
旅の自由とは、進むことだけではない。
必要なら立ち止まり、戻ることもできる。
それを自分たちで選べることが、今の三人にとって大切なのだろう。
◇
馬車がゆっくりと動き始めると、車輪が乾いた土を踏む音が草地へ広がった。朝の光はすでに明るく、昨日の夕方には影になっていた丘の斜面も、今ははっきりと見えている。
ルシルは手綱を握り、トルクとベルクの歩調を確かめながら進んだ。
道の先には、昨日通ってきた景色が続いている。
小さな石が集まった場所。
草の短い平坦な場所。
遠くに見える低い木立。
どれも昨日見たものだったが、進む方向が変わったことで、少し違った印象を受けた。
モモは窓の外を眺めながら、旅帳面を膝へ載せていた。
「ねえ、ルシル君。昨日はあっちの丘を見ながら進んでたけど、今日はこっちから見るんだね。なんだか、同じ場所なのに別の景色みたい」
「うん。僕もそう思ってたよ。昨日は気づかなかった石が見えたり、草の色が違って見えたりするね」
シモンは道の状態を確認しながら、穏やかに頷いた。
「進行方向が変われば、見える地形も変わりますからね。目印を確認するときにも、行きと帰りで印象が違うことがあります」
モモはその説明を聞き、嬉しそうに旅帳面を開いた。
「じゃあ、同じ場所を反対側から描いてみるのも面白そう! 昨日の絵と比べたら、どこが違うか分かるかもしれないし」
「いいね。でも、馬車が揺れるから、描くなら休憩のときにしようか」
ルシルがそう言うと、モモは笑顔で頷いた。
「うん! 今はちゃんと景色を覚えておくね」
馬車はゆっくりと道を進んだ。
急いで距離を稼ぐことはせず、トルクとベルクの様子を見ながら、無理のない速度を保っている。
シモンはときどき水の残量を確認し、休憩を取る場所についてルシルと相談した。
ハルミナへ戻る方針は決まったが、今日のうちに着く予定ではない。
途中で安全な場所を見つけ、馬たちを休ませながら進む必要があった。
ルシルはそのことを理解していた。
(戻るって決めたからって、急いで帰らなきゃいけないわけじゃないんだよね。今までと同じように、みんなが無理をしないことを大切にしよう)
彼はそう考えながら、前方へ目を向けた。
◇
午前の終わりが近づく頃、道の脇に見覚えのある木立が現れた。
昨日、古い踏み跡らしいものを見つけた場所だった。
モモが先に気づき、窓の外を指さした。
「あっ、あそこ! 昨日、シモン君が地面を確かめたところだよね?」
ルシルは道の端へ目を向けた。
「そうだね。木の並び方に見覚えがあるよ」
シモンも頷いた。
「ええ。昨日確認した場所で間違いなさそうです。ただし、今日は踏み跡を調べ直す必要はありません。今の目的は、安全にハルミナ方面へ戻ることですから」
「うん。分かってるよ」
モモは素直に頷いた。
彼女は木立の奥へ視線を向けたが、そこに何があるのかを確かめようとはしなかった。
昨日は、もしかすると沢へ続いているのではないかと期待していた場所だ。
しかし、今はその可能性だけを頼りに進むことの危うさを理解している。
モモは少し考えたあと、静かに口を開いた。
「ねえ、ルシル君。わたし、昨日はここで水が見つかるかもしれないって、すごく期待してたんだ。でも、今日は不思議とそんなに気にならないの」
「そうなんだ?」
「うん。もちろん、沢があるなら見てみたいよ。でも、今はそれよりも、ちゃんと水を補給できる場所へ行きたいなって思うんだ」
ルシルはその言葉に微笑んだ。
「僕も同じだよ。気になることはあるけど、今すぐ確かめなくてもいいことって、きっとたくさんあるんだね」
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに頷いた。
「ええ。知りたいことをすべて、その場で確かめる必要はありません。安全に調べられる機会が来たときに、改めて考えればよいのです」
モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ここも旅帳面に残しておくね。いつかまた通ったときに、思い出せるかもしれないし」
「それがよいでしょう」
シモンが答えると、モモは旅帳面を閉じ、木立の方へ小さく手を振った。
ルシルはその仕草を見て、思わず笑みを浮かべた。
モモにとっては、まだ何も分かっていない場所でさえ、旅の思い出の一つになっているのだろう。
◇
木立を通り過ぎたあと、三人は道幅の広い場所を見つけ、短い休憩を取ることにした。
シモンは地面の状態を確かめ、馬車を安全に止められることを確認した。ルシルはトルクとベルクの首筋を撫で、二頭の呼吸や歩き方に変化がないかを見守る。
モモは荷台から水容器を取り出し、シモンの指示を受けながら必要な分を用意した。
「トルクもベルクも、ちゃんと飲んでね。わたしたちも、次にお水を補給できるところまで頑張るから」
モモが声をかけると、トルクは鼻先を動かし、ベルクも落ち着いた様子で水を飲んだ。
ルシルは二頭の様子を見ながら、少しだけ安心した。
水の残量が気になるからといって、馬たちに必要な分を与えないわけにはいかない。
だからこそ、これ以上無理に先へ進まないと決めたことには意味があった。
シモンは水容器を確認し、帳面へ記録を書き込んだ。
「今のところ、予定していた範囲で使用できています。ただ、残量に余裕があるとは言えません。午後も短い距離ごとに様子を確かめ、必要なら早めに休みましょう」
「うん。分かった」
ルシルは頷いた。
モモも真剣な表情で二人を見た。
「ねえ、シモン君。今日のうちにハルミナへ着けなくても、大丈夫なんだよね?」
「ええ。無理に到着を急ぐつもりはありません。ただし、補給先までの距離を考えながら、今後の行程を慎重に決める必要があります」
「そっか。じゃあ、今日もちゃんと休む場所を探そうね」
モモは安心したように微笑んだ。
ルシルも頷いた。
「うん。昨日みたいに、明るいうちに安全な場所を見つけたいね」
三人は短い休憩を終え、再び馬車へ乗り込んだ。
◇
午後の道は、朝よりも少し暖かくなっていた。
雲の隙間から差し込む光が草地を照らし、遠くの丘には柔らかな影が落ちている。
ルシルは手綱を握り、トルクとベルクの歩調を確かめながら、ゆっくりと馬車を進めた。
モモは窓の外を眺め、昨日までとは反対方向へ流れていく景色を楽しんでいる。
シモンは地図と帳面を照らし合わせながら、休憩場所や道の状態を確認していた。
しばらく進むと、道の左側に小さな石が集まった場所が見えてきた。
昨日の午後、三人が水の残量を確認し、早めに野営することを決めた場所だった。
モモがその場所に気づき、嬉しそうに声を上げた。
「あっ、ここ! 昨日、みんなでお水のことをいっぱい考えた場所だよね!」
ルシルは頷いた。
「そうだね。あのときは、ここで休むことにしてよかったと思うよ」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「ええ。あの判断があったからこそ、今朝も落ち着いて進路を考えられたのでしょう」
モモは少し考えたあと、旅帳面を開いた。
「ねえ、ルシル君。昨日はここで『分からないことがいっぱいあった日』って書いたんだけど、今日は何て書こうかな」
ルシルは少し考え、笑顔で答えた。
「そうだなあ……。『戻ることを選んだ日』かな」
モモはその言葉を聞き、嬉しそうに目を輝かせた。
「それ、いいね! じゃあ、そう書いておく!」
シモンは二人の会話を聞きながら、静かに微笑んだ。
戻ることを選んだ日。
それは、三人が旅を続けるために必要な判断をした日でもあった。
ルシルはその言葉を心の中で繰り返しながら、前方へ目を向けた。
道はまだ続いている。
ハルミナまでは距離があり、水の問題も完全には解決していない。
それでも、三人は今、自分たちがどちらへ向かうのかを知っていた。
そして、その道を選んだ理由も、互いに理解している。
ルシルは穏やかに微笑み、トルクとベルクへ声をかけた。
「もう少しだけ進もう。疲れたら、またちゃんと休もうね」
二頭は落ち着いた足取りで歩き続け、馬車の車輪が乾いた土を踏む音が、午後の草地へ静かに響いていった。




