第148話「水の残量が教えてくれたことと、帰り道で選んだ小さな決断」
午後の陽光が雲の隙間から差し込むたび、緩やかな丘に挟まれた道の色が少しずつ変わっていた。乾いた土の上を進む馬車の車輪は、ときおり小石を踏んで小さく揺れ、そのたびに御者台のルシルは手綱を持つ指先へ意識を向けた。
ハルミナを出発してから三日目。朝から水場を探しながら進んできたものの、今のところ確実に利用できる場所は見つかっていない。
午前中には、道の脇に雨水が流れたような窪みを見つけた。さらに木立の近くでは、古い踏み跡らしいものも確認したが、その先に沢があるかどうかまでは分からなかった。
昨夜出会った旅人が教えてくれた話は、まったくの見当違いではないのかもしれない。しかし、だからといって、見つけた細い道の先に飲み水があると決めつけることもできなかった。
ルシルは前方の道を見ながら、隣に座るシモンへ声をかけた。
「シモン、トルクたちの歩き方はどうかな。さっき休んでから、少し楽になったように見えるけど」
シモンは黒縁の眼鏡を指先で直し、二頭の背中と脚の動きを確かめた。
「今のところ、歩調に大きな乱れはありませんね。ただ、今日は朝から水の補給先を確認できていません。疲労だけでなく、飲み水の残量も考えて、早めに次の判断をした方がよいでしょう」
「うん。僕もそう思っていたんだ。次に馬車を安全に止められる場所があったら、そこで一度相談しよう」
ルシルが答えると、シモンは頷いた。
馬車の窓から外を眺めていたモモも、二人の会話に気づいたらしく、身を乗り出さないよう気をつけながら顔を覗かせた。
「ルシル君、次の休憩場所を探すの? だったら、わたしも道の脇を見ておくね。さっきみたいに草が短くて、馬車を止められそうな場所があるかもしれないし」
「ありがとう、モモ。でも、あまり遠くばかり見なくていいからね。足元の道が悪くなったら、僕にも教えてくれると助かるよ」
「うん、分かった!」
モモは元気よく返事をすると、窓の外へ視線を戻した。
彼女の膝には、いつもの旅帳面が置かれている。今日の午前中に見つけた乾いた窪みや木立の絵が描かれていたが、今は鉛筆を動かすよりも、三人で進む道を確かめることに意識を向けているようだった。
ルシルはその様子を横目で見て、小さく微笑んだ。
(モモも、旅を始めた頃よりずいぶんいろんなことを考えるようになったね。もちろん、僕だってまだ知らないことばかりだけど、三人で少しずつ覚えていけるのは嬉しいな)
そんなことを考えているうちに、道は緩やかな下り坂へ差しかかった。
遠くには低い木々がまばらに生えており、その手前には草の短い平坦な場所が広がっている。道幅にも余裕があり、馬車を寄せてもほかの通行者の邪魔になりにくそうだった。
シモンがその場所へ目を向け、少し考えてから口を開いた。
「ルシル様、あそこなら停車できそうですね。まず地面の状態を確かめて、問題がなければ休憩にしましょう」
「うん。ちょうどいいところが見つかったね」
ルシルはトルクとベルクへ穏やかに声をかけ、馬車の速度を落とした。
急に方向を変えることはせず、車輪が道の端へ寄りすぎないように注意しながら、平坦な場所へゆっくりと進めていく。
やがて馬車が止まると、シモンが先に降り、周囲の地面を確かめた。
草の下には固い土があり、大きな窪みやぬかるみは見当たらない。低い木々も馬車から十分に離れており、枝が車体へ触れる心配はなさそうだった。
「ここなら問題ありません。今日は少し長めに休憩を取りましょう」
シモンの言葉を聞き、ルシルは安心したように頷いた。
トルクとベルクも歩みを止めたことで落ち着いたらしく、耳を動かしながら周囲の草地を眺めている。
モモは馬車から降りると、二頭へ近づきすぎない位置で笑顔を向けた。
「トルク、ベルク、お疲れさま! 今日はいっぱい歩いたね。ちゃんと休んでね」
トルクは彼女の声に反応し、鼻先を少し持ち上げた。
その様子が、いつものように何か食べ物を期待しているように見えたため、モモは思わず笑ってしまった。
「もう、トルクったら。休憩って聞くと、すぐご飯のことを考えてるんだから!」
ルシルも笑いながら、二頭の首筋を順番に撫でた。
「でも、元気そうでよかったよ。今日は無理をさせたくないから、ここでゆっくり休もうね」
シモンは二頭の様子を確認しながら、静かに頷いた。
馬たちの状態は今のところ安定している。だからこそ、問題が起きるまで歩かせるのではなく、余裕のあるうちに休ませることが大切だった。
◇
馬車のそばに水容器を並べると、シモンは帳面を開き、朝から使った量を確かめ始めた。
ルシルは隣へしゃがみ込み、容器の残量を一つずつ確認する。モモも二人のそばへ来たが、邪魔にならないよう少し距離を取って座った。
「朝より、また少なくなってるね」
モモが呟くと、シモンは頷いた。
「ええ。人が飲む分だけでなく、トルクとベルクにも必要な水を与えていますからね。今日のように補給できない日が続けば、当然減っていきます」
「うん。それは分かるんだけど……。こうして並べて見ると、思ってたより早く減るんだなって」
モモは水容器を見つめながら、少し困ったように眉を寄せた。
ハルミナに滞在していた頃は、共同井戸で必要な水を補給できた。井戸番のバルドが利用の仕方を教えてくれたこともあり、水を汲むための手間はあっても、次にいつ飲めるかを心配する必要はほとんどなかった。
けれど今は違う。
水が残っていることと、安心して使い続けられることは、同じではなかった。
「モモ嬢、喉が渇いているなら遠慮なく言ってくださいね。水を節約することと、必要な水分を我慢することは別ですから」
シモンがそう伝えると、モモは顔を上げた。
「うん。今は大丈夫。でも、ちゃんと飲むようにするね。わたしが我慢して具合悪くなったら、ルシル君たちにも迷惑かけちゃうし」
「迷惑というより、モモが具合を悪くしたら僕たちも心配するよ。だから、無理しないでね」
ルシルが穏やかに答えると、モモは少し照れたように笑った。
「ありがとう、ルシル君。じゃあ、二人もちゃんと飲んでね。シモン君なんて、考え事してると自分のこと後回しにしそうだもん」
突然話を向けられたシモンは、わずかに目を瞬かせた。
「私ですか?」
「そうだよ。シモン君、いつもわたしたちのことを先に考えてくれるでしょう? でも、シモン君だって旅の仲間なんだから、自分の分もちゃんと飲まなくちゃ」
モモは真剣な表情で言った。
シモンはすぐに返事をせず、手元の帳面へ視線を落とした。
以前なら、二人の水を優先することに迷いはなかっただろう。もちろん今でも、ルシルとモモの安全を守りたいという気持ちは変わらない。
しかし、三人で旅を続ける以上、自分だけが無理をしてよいわけではない。
そのことを、最近は二人から教えられる機会が増えていた。
「……そうですね。私も気をつけます」
シモンが穏やかに答えると、モモは嬉しそうに笑った。
「うん! 約束だよ!」
ルシルも微笑みながら頷いた。
「じゃあ、三人とも必要な分はちゃんと飲む。それを今日の約束にしようか」
「いいね!」
モモが元気よく答え、シモンも小さく笑った。
水の残量が増えたわけではない。
それでも、誰か一人が無理をして問題を解決しようとしないことを確かめられたのは、三人にとって大切なことだった。
◇
しばらく休憩を取ったあと、シモンは帳面を広げ、これまでの移動記録を改めて確認した。
ハルミナへ向かったときの道順は記録してあるものの、すべての休憩場所や水場を細かく書き残していたわけではない。
特に、当時は十分な水を持っていたため、道の近くに小さな沢があるかどうかまで注意していなかった。
シモンはそのことを少し悔やんでいた。
(あのとき、もう少し詳しく記録していれば、今の判断に役立ったかもしれません。ですが、過ぎたことを悔やむだけでは意味がありませんね。今分かっていることから、できる限り安全な選択をするべきでしょう)
彼は静かに息を吐き、帳面を閉じた。
ルシルはその様子に気づき、少し首を傾げた。
「シモン、何か気になることがある?」
「いえ、以前の記録がもう少し詳しければと思っていただけです。行きには水の心配が少なかったため、この辺りの補給先を十分に確認していませんでした」
シモンが答えると、ルシルは少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。
「でも、あのときは必要だと思わなかったんでしょう? それなら、仕方ないと思うよ。僕だって、今になって初めて気づいたことがたくさんあるし」
「ありがとうございます。ただ、今後は同じような状況にならないよう、記録の仕方を工夫したいと思います」
「うん。それなら僕も手伝いたいな。シモンだけに任せるんじゃなくて、気づいたことを三人で覚えておけたらいいよね」
ルシルの言葉に、モモも顔を上げた。
「じゃあ、わたしの旅帳面も役に立つかもしれないね! 道の形とか、大きな石とか、絵で残しておけば、次に通るときに思い出せるでしょう?」
「ええ。実際、昨日の大きな石を見つけたときには、モモ嬢の絵が役立ちましたからね」
シモンがそう答えると、モモは嬉しそうに笑った。
彼女は旅帳面を開き、以前描いた丸みのある大きな石の絵を見せた。
「これだよ! パンみたいな石!」
ルシルはその絵を見て、思わず笑みを浮かべた。
「やっぱり、何度見てもパンに見えるね」
「でしょ! だから覚えやすいんだよ!」
モモは得意そうに胸を張った。
シモンは二人のやり取りを見ながら、穏やかに微笑んだ。
道の記録に必要なのは、距離や方角だけではない。
実際に見た景色や、印象に残った目印も、あとから役立つことがある。
そのことを、彼は改めて感じていた。
◇
休憩を終える前に、三人は今後の行程について相談することにした。
ルシルは道の先へ目を向けた。
緩やかな丘の向こうには、まだ草地が続いている。遠くに木々の集まった場所も見えるが、そこに水場や集落があるかどうかは分からない。
「このまま進むとしても、次にどこで休めるかは分からないんだよね」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「ええ。今のところ、確実な補給先は確認できていません。ただ、来た道を戻る場合にも水が必要ですから、引き返すことが必ずしも安全とは限りません」
「そうだね。ハルミナへ戻るにしても、ここからすぐに着けるわけじゃないし」
ルシルは静かに考え込んだ。
ハルミナを出てから三日目になる。
これまでの道を戻れば、確実に水を補給できる場所へ向かうことはできるかもしれない。
しかし、そのためには再び同じ距離を移動しなければならず、今ある水で足りるかどうかも慎重に考える必要がある。
一方、先へ進めば、以前通った道の先に補給できる場所がある可能性もある。
ただし、そこまでの距離や現在の状況を正確に把握しているわけではない。
どちらを選んでも、分からないことが残っていた。
「ねえ、ルシル君」
モモが静かに声をかけた。
ルシルが顔を向けると、彼女は少し真剣な表情で続けた。
「わたし、さっきから考えてたんだけど……。水を探すために知らない道へ入るのは危ないよね。でも、今の道を進むだけでも、水が見つかるかどうか分からないんでしょう?」
「うん。そうだね」
「だったら、まずは今いる場所から見える範囲をちゃんと確かめて、それから決めた方がいいんじゃないかな。遠くまで行かなくても、何か分かることがあるかもしれないし」
モモはそう言いながら、周囲の丘へ目を向けた。
シモンは彼女の提案を聞き、少し考えた。
「確かに、ここは比較的見晴らしがよい場所です。馬車を動かさずに周囲の地形を確認することはできますね。ただし、丘の上まで登るとなると、時間と体力を使います」
「うん。だから、遠くへ行くんじゃなくて、ここから見えるところだけでもいいと思うの」
モモは頷いた。
ルシルも周囲を見回した。
馬車を止めた場所は、道より少し高い位置にある。
低い草が広がっているため、遠くの木立や丘の形は比較的よく見えた。
「それなら、まずここから見てみようか。何か見つかるかもしれないし、見つからなかったら、そのことも判断の材料になると思う」
シモンは頷いた。
「では、馬車のそばを離れずに確認しましょう。見通しがよいからといって、知らない場所へ歩いていく必要はありません」
三人は並んで道の先を眺めた。
◇
午後の風が草地を渡り、遠くの丘に薄い影を落としていた。
ルシルは目を細め、道の先に続く地形を確かめた。
緩やかな下り坂の向こうには、小さな木々が点在している。
そのさらに先には、低い丘が重なっており、道がどちらへ曲がっているのかは見えなかった。
モモは旅帳面を開き、今見えている景色を簡単に描き始めた。
「こうして見ると、道ってずっとまっすぐじゃないんだね。丘の向こうへ隠れちゃうから、その先がどうなってるのか分からないや」
「そうだね。地図では一本の線みたいに見えても、実際に歩くと坂や曲がり角がたくさんあるんだね」
ルシルが答えると、モモは頷いた。
シモンは道の先を見ながら、少し考え込んだ。
「今見える範囲には、集落らしい建物は確認できません。ただ、丘の向こうまでは見えませんから、そこに何もないと判断することもできませんね」
「うん。見えないだけかもしれないんだね」
ルシルは静かに頷いた。
モモは鉛筆を止め、二人へ顔を向けた。
「ねえ、シモン君。こういうときって、地図があっても分からないことがあるんだね」
「ええ。地図は大切ですが、すべての情報が書かれているわけではありません。特に小さな水場や、季節によって状態が変わる場所については、実際に確かめなければ分からないことも多いでしょう」
モモは少し考えたあと、旅帳面へ視線を戻した。
「じゃあ、わたしが描いてる絵も、全部が正しいわけじゃないんだね。見えたところしか描けないし、あとで景色が変わることもあるもん」
「その通りです。ただ、だからといって記録する意味がなくなるわけではありません。いつ、どこで、何を見たのかが分かれば、それだけでも役立つことがあります」
シモンの説明に、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! じゃあ、今日の景色もちゃんと描いておくね」
ルシルはその様子を見ながら、少しだけ考え込んだ。
旅を始める前、自分はもっと自由に歩き回れるものだと思っていた。
もちろん、今も自由に旅をしている。
けれど、その自由は、何も考えずに好きな方向へ進むこととは違っていた。
道を選ぶこと。
休む場所を決めること。
水や食料を確保すること。
そして、仲間が無理をしないように気を配ること。
そうした一つ一つの判断があってこそ、旅を楽しめるのだと、今は少しずつ分かってきた。
(王宮にいた頃は、旅の準備なんてほとんど誰かがしてくれていたんだろうな。今は自分で考えることが増えたけど、不思議と嫌じゃないんだ。むしろ、こうして選べることが嬉しい)
ルシルは静かに微笑んだ。
◇
周囲の確認を終えたあと、シモンは改めて水の残量と今後の移動について考えた。
今のところ、三人と二頭の馬に急な体調の変化はない。
しかし、補給できる場所が見つかっていない以上、夕方まで何も考えずに進むことは避けたい。
「ルシル様、私は今日はこれ以上大きく移動しない方がよいと思います」
シモンの言葉に、ルシルは顔を上げた。
「ここで休むってこと?」
「ええ。少なくとも、次の野営場所を探して長く進むよりは、今の場所で安全に休めるかを確認した方がよいでしょう。地面は比較的固く、馬車を止める余裕もあります。水場がないことは問題ですが、暗くなってから別の場所を探すよりは安全です」
ルシルは周囲を見回した。
確かに、今いる場所は見晴らしがよく、馬車を止めるにも十分な広さがある。
木々は少し離れているため、夜になっても周囲の様子を確認しやすそうだった。
「うん。僕も、今日はここまでにした方がいいと思う。トルクたちも休ませたいし、明日のことを落ち着いて考えられるからね」
モモも頷いた。
「わたしも賛成! 今日は水を探していろいろ見たし、これ以上進んで疲れちゃうより、早めに休んだ方がいいと思う」
シモンは二人の返事を聞き、穏やかに微笑んだ。
「では、今夜はここで休みましょう。ただし、明日の行程については、夕食のあとにもう一度相談したいと思います」
「うん。そうしよう」
ルシルは頷いた。
三人は馬車の位置を少し調整し、夜を過ごすための準備を始めた。
◇
日が傾き始める頃、草地には少しずつ涼しい風が吹き始めた。
ルシルはトルクとベルクの馬具を外し、二頭の身体を丁寧に確かめた。
トルクはいつものように餌袋へ鼻先を寄せたが、ルシルが首筋を撫でると、落ち着いた様子で耳を動かした。
「今日もありがとう。水をたくさん飲ませてあげられる場所が、早く見つかるといいんだけどね」
ルシルはそう呟き、二頭の様子を見守った。
ベルクは静かに立っているが、長く歩いたあとの疲れがまったくないわけではないだろう。
だからこそ、今夜は十分に休ませたいと思った。
少し離れた場所では、モモが寝具を整えていた。
彼女は地面に小さな石がないか確かめ、寝具を敷く位置を慎重に選んでいる。
以前なら、柔らかそうな草の上を見つけると、すぐにそこへ座りたくなったかもしれない。
けれど今は、草の下に窪みがないか、夜になって足元が見えにくくなっても安全に動けるかまで考えるようになっていた。
「ルシル君、こっちの地面は大丈夫そうだよ。石も少ないし、馬車からもそんなに離れてないの」
モモが声をかけると、ルシルは顔を上げた。
「ありがとう。シモンにも見てもらってから、そこに寝具を置こうか」
「うん!」
モモは笑顔で頷き、シモンのところへ向かった。
シモンは水容器の確認を終えると、モモが選んだ場所へ歩いていった。
地面を確かめ、周囲の草の状態を見たあと、穏やかに頷く。
「ここなら問題なさそうですね。馬車からも近いですし、夜間に移動する必要がある場合も、足元を確認しやすいでしょう」
「よかった!」
モモは嬉しそうに笑った。
シモンはその表情を見ながら、少しだけ考え込んだ。
モモは明るく自由な性格だが、最近は自分の楽しみだけでなく、仲間の安全や旅の準備にも自然に気を配るようになっている。
それは、誰かに言われて仕方なく覚えたものではない。
旅を続ける中で、自分たちが楽しく過ごすために必要なことを、少しずつ理解してきた結果なのだろう。
(モモ嬢も、ずいぶん頼もしくなられましたね。もちろん、以前の明るさが失われたわけではありません。それが何より嬉しいことです)
シモンは穏やかに微笑み、寝具を運ぶ作業を手伝った。
◇
夕食は、昨夜と同じように水をほとんど使わずに済むものを選ぶことになった。
残っている保存食を確認し、三人で分けられる量を考える。
モモは食料袋を覗き込みながら、少し残念そうに笑った。
「そろそろ温かいご飯が恋しくなってきたなあ。もちろん、パンも保存食も美味しいんだけどね」
ルシルはその言葉に頷いた。
「僕も、温かいスープが飲みたいな。でも、今は水を大事にしたいから、次に補給できる場所まで我慢だね」
「うん。次に水がたくさん使える場所へ着いたら、みんなで美味しいものを作ろうね!」
モモは嬉しそうに笑った。
シモンも穏やかに頷いた。
「そのときは、私も何か温かいものを用意しましょう。久しぶりにゆっくりお茶を飲むのもよさそうですね」
その言葉に、ルシルは少し驚いたように顔を上げた。
「シモンがお茶の話をするなんて、珍しくないけど……。そういえば、最近はあまりゆっくり飲めてなかったね」
「ええ。野営中は水の残量や火の扱いを考える必要がありますからね。宿に泊まっていた頃のようにはいきません」
シモンは少し苦笑した。
モモは二人の会話を聞き、楽しそうに笑った。
「じゃあ、次に宿へ泊まれたら、シモン君のお茶の時間もちゃんと作ろう! ルシル君は何がしたい?」
突然尋ねられたルシルは、少し考え込んだ。
「そうだなあ……。僕は、ゆっくり本を読んだり、町を歩いたりしたいかな。それから、できれば自分の帳面を探してみたい」
「いいね! じゃあ、わたしも一緒に探す!」
モモは嬉しそうに頷いた。
シモンも穏やかに微笑んだ。
「次の町で文具を扱う店があれば、探してみましょう。ただし、今はまだ次の補給先も決まっていませんから、まずは安全に進むことが先ですね」
「うん。分かってるよ」
ルシルは笑顔で答えた。
三人は簡単な夕食を取りながら、次に町へ着いたときの楽しみについて話した。
それはまだ具体的な予定ではなかったが、旅を続けるための小さな楽しみとして、三人の心を少し明るくしてくれた。
◇
夕食を終えたあと、シモンは帳面を開き、明日の行程について相談を始めた。
空には夕暮れの赤い光が残っていたが、遠くの丘は少しずつ暗くなり始めている。
ルシルとモモは彼のそばへ座り、地図と記録を覗き込んだ。
「今日の時点では、安全に利用できる水場を確認できませんでした。ですから、明日は補給先を探すことを優先しつつ、進める距離を慎重に考える必要があります」
シモンがそう説明すると、ルシルは頷いた。
「うん。でも、今日みたいに道の脇をずっと探し続けるだけじゃ、時間がかかってしまうよね」
「ええ。明日は、まず既知の道を進みながら、以前の記録と周囲の地形を照らし合わせることにしましょう。水場らしい場所があっても、危険な場所へ無理に入ることは避けます」
モモは真剣な表情で話を聞いていた。
「もし水が見つからなかったら、どうするの?」
その問いに、シモンは少し考えた。
「その場合は、残量と馬たちの状態を確認し、進むか戻るかを改めて判断します。ただし、判断を先延ばしにしすぎないことが大切です」
ルシルは静かに頷いた。
「そうだね。明日は、途中で何度か確認するようにしよう。水が見つかるかもしれないって期待だけで進むのは、やめておきたいな」
モモも頷いた。
「うん。わたしも、何か見つけたらちゃんと二人に話すね。でも、勝手に草むらへ入ったりはしないよ」
シモンは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。三人で確認しながら進めば、見落としも減らせるでしょう」
ルシルは二人の顔を見ながら、静かに微笑んだ。
水の問題は、まだ解決していない。
明日の道に何があるのかも、はっきり分からない。
それでも、三人が同じことを考え、相談しながら進もうとしていることが心強かった。
(自由に旅をするって、何も決めずに進むことじゃないんだね。こうして自分たちで考えて、選んでいくことなんだ)
ルシルはそんなことを思いながら、夕暮れの空へ目を向けた。
◇
夜が近づくと、草地には冷たい風が吹き始めた。
モモは外套の前を合わせ、旅帳面を開いて今日の出来事を書き留めていた。
水場を見つけられなかったこと。
道の脇にあった乾いた窪み。
木立の近くの古い踏み跡らしい場所。
そして、三人で相談して、早めに野営することを決めたこと。
モモは鉛筆を動かしながら、少し考え込んだ。
「ねえ、ルシル君。今日のことって、あとで思い出したら、ちょっと面白いかもしれないね」
ルシルは隣へ腰を下ろし、首を傾げた。
「どうして?」
「だって、今日は水を見つけられなかったし、あんまり遠くまで進めなかったでしょう? でも、みんなでいっぱい考えた日だったなって思うの」
モモはそう言いながら、旅帳面のページを眺めた。
「旅って、楽しいことばっかりじゃないんだね。でも、こういう日もちゃんと覚えておきたいな」
ルシルはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「うん。僕もそう思うよ。きっと、あとで振り返ったときに、今日のことも大切な思い出になるんだろうね」
モモは嬉しそうに頷いた。
少し離れた場所では、シモンが夜間の見回りに必要な道具を整えていた。
彼は二人の会話を聞きながら、静かに微笑んだ。
旅の途中で起きる出来事は、必ずしも大きな事件ばかりではない。
水を探し、道を確かめ、休む場所を選ぶ。
そんな小さな判断の積み重ねが、三人の旅を支えている。
そして、その一つ一つを大切に思えるようになったことが、今のルシルたちにとって何よりの変化なのかもしれなかった。
やがて、空には星が少しずつ現れ始めた。
ルシルはトルクとベルクの様子をもう一度確かめ、二頭が落ち着いていることを確認してから、仲間のところへ戻った。
「そろそろ休もうか。明日もちゃんと考えながら進みたいし、今夜はできるだけ身体を休めておこう」
モモは旅帳面を閉じ、笑顔で頷いた。
「うん! 明日は水が見つかるといいね」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「ええ。ただし、焦らずに進みましょう。今日のように、必要なことを一つずつ確認していけばよいのですから」
三人は寝具を整え、夜の支度を始めた。
道の先には、まだ知らない景色が続いている。
水場が見つかるかどうかも、次にどんな町へ着くのかも、今は分からない。
それでも、ルシルは不安ばかりを感じているわけではなかった。
自分たちで考え、相談し、無理のない道を選ぶ。
その自由を大切にしながら、明日もまた旅を続けていこうと思えたからだ。
夜風が草地を渡り、馬車の窓に掛けた青い風魚の布を静かに揺らした。
ルシルはその音を聞きながら、明日の朝に向けてゆっくりと目を閉じた。




