第147話「水を探す朝と、旅人が残した曖昧な道しるべ」
ハルミナを離れてから三度目の朝、ルシルは馬車の外から聞こえてくる小さな物音で目を覚ました。昨夜のうちに雲が広がったらしく、寝具の隙間から見える空は薄い灰色をしており、草地にはまだ夜の冷たさが残っている。近くではトルクが鼻を鳴らし、続いてベルクが蹄を動かす音が聞こえてきた。
身体を起こすと、馬車の脇でシモンが水容器を確かめている姿が見えた。黒縁の眼鏡をかけた彼は、容器の蓋を一つずつ確認しながら帳面へ何かを書き込んでおり、その表情は普段より少しだけ真剣だった。
「おはよう、シモン。もう起きていたんだね。昨夜はちゃんと休めた?」
ルシルが声をかけると、シモンは帳面から顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「おはようございます、ルシル様。夜間の交代は予定どおりでしたし、十分とは言えませんが休息は取れました。今は昨日の旅人から聞いた水場の情報を整理していたところです」
ルシルは寝具を畳みながら、昨夜の会話を思い返した。夕暮れに出会った中年の旅人は、この先の道沿いに小さな沢へ下りる古い踏み跡があったはずだと話していた。ただし、現在も水が流れているかどうかは分からず、飲用に適している保証もないという、あくまで曖昧な情報だった。
「場所がはっきりしていないんだよね。今日はそれを探しながら進むことになるのかな」
「そうなりますが、沢を見つけること自体を目的にはしない方がよいでしょう。私たちが必要としているのは安全に使える水であって、沢の存在を確認することではありませんから」
シモンはそう答えると、帳面を閉じて水容器へ視線を戻した。ハルミナで補給した水は、二度の野営と移動で着実に減っている。昨夜は調理にほとんど使わずに済ませたものの、三人と二頭の馬が必要とする水を考えれば、補給先をいつまでも決めずに進むわけにはいかなかった。
ルシルは隣へしゃがみ込み、容器の並びを確かめた。蓋の形が似ていても用途は分けられており、飲用に残すものと馬たちへ与えるものを取り違えないようにしてある。
「今日は、もし沢が見つからなかったらどうするかも決めておこう。先へ進んでから困るより、今のうちに考えておいた方がいいと思うんだ」
「ええ。私もそのつもりです。ただ、判断するには今朝の馬たちの状態と、実際の道の様子を確認する必要があります。まずは朝の支度を済ませましょう」
シモンの返事を聞き、ルシルは頷いた。旅の計画を立てることは大切だが、紙の上で決めたとおりにすべてが進むわけではない。今日もまた、目の前にあるものを一つずつ確かめながら進むことになるのだろう。
そのとき、寝具の方から布の擦れる音がした。
「……おはよう。二人とも、何のお話してるの?」
モモが上掛けを肩へ掛けたまま顔を出し、眠たそうな目で二人を見つめていた。桃金色の髪は少し乱れていたが、昨夜よりもよく眠れたらしく、表情には疲れよりも朝の穏やかさが浮かんでいる。
「おはよう、モモ。今日は水をどうするか相談していたんだ。昨日の旅人が教えてくれた沢のこと、覚えてる?」
「うん、覚えてるよ。道の近くに古い踏み跡があるかもしれないけど、今も水があるかは分からないって話だったよね」
モモはそう答えながら二人のそばへ来たが、並べられた水容器を見て、少しだけ表情を引き締めた。
「昨日の夕ご飯はお水をほとんど使わなかったけど、それでも減ってるんだね。トルクたちも飲むし、今日こそ補給できる場所が見つかるといいな」
「そうだね。ただ、見つからなかったときのことも考えておこう。モモも、気になることがあったら遠慮なく言ってね」
ルシルの言葉に、モモはしっかりと頷いた。以前なら水場を見つけることに夢中になって、草むらの向こうを覗きに行きたくなったかもしれない。しかし、ハルミナ南方の道で路肩の柔らかさを確かめた経験や、これまでの野営で学んだことが、彼女の判断を少しずつ変えていた。
「うん。わたし、沢がありそうな音を聞いても、一人では探しに行かないよ。まず二人に話して、それからどうするか決める」
シモンはその返事に微笑み、朝食の準備へ移ることを提案した。
◇
朝食は残っているパンと保存食を中心に、手早く済ませることになった。昨夜は火を使わなかったため、鍋を洗う必要もなく、食事の支度に使う道具は少ない。モモはパンを三人分に分けながら、袋の底に残っている欠片まで丁寧に集めていた。
「エルナさんのパン、もうずいぶん少なくなっちゃったね。ハルミナにいたときは、毎朝あんなにいい匂いがしてたのに」
モモは小さな欠片を掌へ載せ、少し名残惜しそうに眺めた。ルシルもその様子を見て、共同窯の前でエルナと話したときのことを思い出す。
「またどこかで美味しいパンに出会えるといいね。次の村では、どんなものを焼いているんだろう」
「楽しみ! でも、その前にお水だよね。今日はちゃんと順番を考えなくちゃ」
モモが自分からそう言うと、シモンは思わず目を細めた。食べ物の話になると嬉しそうに身を乗り出す彼女が、今は旅に必要なものを優先して考えている。
「モモ嬢、その考え方は大切ですね。ただ、楽しみを後回しにすることばかり覚える必要はありませんよ。必要な準備をしたうえで、美味しいものを楽しめばよいのですから」
「うん! じゃあ、次の村でパン屋さんを見つけたら、まずお水を確保して、それからパンを探すことにする!」
モモは明るく答え、パンを一口食べた。ルシルはその横顔を眺めながら、旅を始めてから彼女が少しずつ変わっていることを感じた。
もちろん、食べることが大好きで、面白いものを見つけるとすぐに目を輝かせるところは変わらない。それでも、自分たちが楽しく旅を続けるためには何が必要なのかを、以前より自然に考えられるようになっている。
食事を終えると、三人は馬たちの世話に取りかかった。トルクはいつものように餌袋へ鼻先を寄せ、ベルクは落ち着いて順番を待っている。シモンが脚元を確認している間、ルシルは二頭の背や首筋に触れ、昨日から変わったところがないか確かめた。
「今日は水を探しながら進むことになるけど、無理はさせないからね。疲れたらちゃんと休もう」
ルシルが声をかけると、トルクは鼻を鳴らして彼の掌へ顔を寄せた。ベルクも耳を動かし、静かに立っている。
シモンは二頭の様子を確かめ終えると、御者台の方へ目を向けた。
「今朝の状態に目立った異常はありません。ただ、補給先が不明な以上、長時間続けて歩かせるのは避けましょう。道の状態が悪くなった場合は、予定より早く引き返すことも考えます」
「分かった。僕も、二頭の歩き方をよく見ながら進むよ」
ルシルは頷き、馬具を整える作業を始めた。モモも荷台の忘れ物を確かめ、昨夜使った場所に食べ物の欠片や道具が残っていないことを確認する。
野営地を離れる前には、三人で周囲をもう一度見回した。火を使っていないため燃え残りはないが、草地へ置いた小さなものを忘れていないか、馬車を止めた跡が危険な状態になっていないかを確かめる。
準備が整った頃には、灰色だった空の一部が明るくなり、雲の切れ間から淡い日差しが差し込んでいた。
◇
馬車が動き始めると、四輪の車体がゆっくりと揺れ、窓に掛けた青い風魚の布が朝の風を受けて小さく動いた。ルシルは手綱を握り、トルクとベルクの歩調を確かめながら、昨日通った道の続きを進んでいく。
道の両側には背の低い草が広がり、ときどき小さな石が土の間から顔を出していた。昨夜の旅人が話していた沢への踏み跡がどこにあるのか、今のところ目印になるものは見つからない。
シモンは帳面を開き、昨日聞いた話をもう一度確認した。旅人はこの先の道沿いに古い踏み跡があったはずだと話していたが、具体的な距離や曲がり角の位置までは示していなかった。
「ルシル様、今日は道の右側にも注意しておきましょう。ただし、草の中に細い跡が見えたとしても、それが沢へ続くとは限りません。車輪を道の端へ寄せすぎないようにしてください」
「うん。気になる場所があったら、少し手前で止まって確認しよう。馬車のまま入っていくことはしないよ」
ルシルはそう答え、前方へ目を向けた。道は緩やかに下っており、遠くには低い丘が重なって見える。
モモは窓の外を眺めながら、旅帳面を膝に載せていた。昨日の古い轍について書いたページを開き、道の端に似たような跡がないか確かめている。
「ねえ、シモン君。昨日の旅人が言ってた踏み跡って、馬車の車輪の跡とは違うんだよね?」
「おそらくそうでしょう。人が歩いてできた細い道を指しているのだと思います。ただ、実際に見ていませんから、どの程度はっきりした跡なのかは分かりませんね」
「そっか。じゃあ、草が少し倒れてるだけの場所もあるのかな」
モモはそう言いながら窓の外へ目を向けたが、すぐに首を傾げた。
「でも、風で倒れた草と、人が歩いた跡って、どうやって見分けるんだろう」
シモンは少し考え、道の端を指さした。
「一つの場所だけで判断するのは難しいでしょうね。踏み跡なら、ある程度同じ方向へ続いている可能性があります。ただし、動物が通った跡や、雨水が流れた跡もありますから、細い線が見えたというだけで人の道だと決めつけることはできません」
モモは真剣な顔で頷いた。旅帳面に書くことがまた一つ増えたようで、鉛筆を取り出しかけたが、今は周囲をよく見る方が大切だと思い直した。
「分かった。じゃあ、見つけてもすぐに『道だ!』って言わないようにするね」
ルシルはその言葉に笑みを浮かべた。
「言ってもいいと思うよ。ただ、そのあとで本当に道なのか、三人で確かめればいいんじゃないかな」
「そっか! じゃあ、見つけたらちゃんと相談する!」
モモは嬉しそうに頷き、再び窓の外へ視線を向けた。
◇
しばらく進むと、道の右側に小さな窪みが現れた。そこには周囲より背の高い草が生えており、地面が少し低くなっているように見える。
シモンがその場所に気づき、ルシルへ声をかけた。
「ルシル様、少し先で止めていただけますか。右側の地形が気になります」
ルシルは頷き、道幅に余裕のある場所を選んで馬車を止めた。トルクとベルクが落ち着いたことを確認してから、シモンが先に降りる。
モモも降りようとしたが、シモンは手を上げて少し待つように伝えた。
「まず私が地面を確かめます。草の下が柔らかい可能性もありますから、モモ嬢は馬車のそばでお待ちください」
「うん。分かった」
モモは素直に頷き、窓から二人の様子を見守った。ルシルも御者台を離れず、馬たちの手綱を持ったまま周囲を確かめている。
シモンは道の端から離れすぎない範囲で地面を観察した。草の間には細い溝のようなものがあり、奥へ向かって緩やかに下っている。
ただし、そこに人が歩いた跡ははっきり残っていなかった。
「水が流れた跡かもしれませんね。地面の形からすると、雨が降ったときに水が集まる場所のようにも見えます」
シモンはそう言いながら、草の生え方を確かめた。土の表面は乾いており、今すぐ水が流れている様子はない。
ルシルは御者台から身を乗り出さず、見える範囲を確かめた。
「じゃあ、ここが沢へ続いているとは限らないんだね」
「ええ。少なくとも、ここから安全に水場へ下りられるとは判断できません。地面も奥へ行くほど見えにくくなっていますから、これ以上近づく必要はないでしょう」
シモンはそう答え、馬車の方へ戻ってきた。
モモは少し残念そうに窪みを眺めたが、すぐに気持ちを切り替えた。
「水があるかもって思ったけど、違ったんだね。でも、雨が降ったときに水が流れる場所もあるんだって分かったよ」
「そうだね。今は乾いていても、雨のあとには様子が変わるんだろうね」
ルシルが答えると、モモは頷いた。彼女は旅帳面を開き、窪みの形を簡単に描き始めた。
シモンはその様子を見ながら、静かに口を開いた。
「モモ嬢、記録するなら『水場ではなかった』と断定するより、『現在は水が見えなかった』と書く方が正確でしょう。雨のあとには水が流れる可能性がありますから」
「うん! そう書いておくね」
モモは嬉しそうに答え、鉛筆を動かした。
三人は再び馬車を進めた。
◇
午前の終わりが近づく頃、道の先に小さな木立が見えてきた。昨日までの草地とは違い、木々の間には少し暗い影が広がっており、風が葉を揺らす音が遠くから聞こえている。
ルシルは馬車の速度を落とし、周囲の様子を確かめた。
「この辺り、少し涼しいね。木が増えたからかな」
「そうかもしれませんね。地面の湿り気も、開けた草地とは違う可能性があります」
シモンはそう答えながら、道の端へ目を向けた。木立の手前には、草が少し薄くなった場所があり、そこから奥へ細い線のようなものが続いている。
モモが先に気づき、窓から顔を覗かせた。
「ねえ、あそこ! 草が少なくなってるところがあるよ。もしかして、踏み跡かな?」
ルシルはモモの指さした方向を見た。確かに、道の端から木立の方へ向かって、細い空間が続いているように見える。
ただし、そこが人の通った跡なのか、動物の通り道なのかは分からなかった。
「気になるね。でも、馬車で近づくのはやめておこう。少し手前で止めて、まず周りを見ようか」
シモンは頷いた。
「ええ。ここなら道幅にも余裕があります。馬車を安全に止めてから確認しましょう」
ルシルは二頭へ声をかけ、木立の手前で馬車を止めた。道の端へ寄せすぎず、車輪が固い地面に乗っていることを確かめる。
シモンが降りて周囲を見回すと、木立の方からかすかな鳥の声が聞こえた。風に揺れる葉の音も重なっているため、水の流れる音があるかどうかは判断できない。
モモは馬車のそばへ降り、シモンの説明を待った。
「ここから先は、地面の状態を見ながら慎重に確かめる必要があります。まず、踏み跡がどこまで続いているかを見ましょう。ただし、見通しが悪くなる場所まで入るつもりはありません」
「うん。わたし、ここで待ってるね」
モモはそう答え、馬車の車輪のそばへ立った。ルシルも二頭の様子を見ながら、シモンが道の端を確認するのを見守った。
シモンは草の薄い場所へ近づき、地面の固さを確かめた。踏み跡らしい部分には小さな石が混じっており、草の生え方も周囲とは少し違う。
ただし、奥へ進むにつれて木々の影が濃くなり、地面の状態が見えにくくなっていた。
「古い踏み跡の可能性はありますね。ただ、ここから先の安全は確認できません。水場があるとしても、今の情報だけで進むのは危険でしょう」
シモンはそう判断し、馬車の方へ戻った。
モモは少しだけ肩を落とした。
「やっぱり、ここも分からないんだね」
「そうだね。でも、分からないまま進むよりはいいと思うよ」
ルシルが穏やかに答えると、モモは顔を上げた。
「うん。そうだよね。もし奥で道がなくなってたら、戻るのも大変だもん」
シモンは頷き、帳面へ位置と地形を記録した。
「ここは候補として残しておきましょう。ただし、水場としては未確認です。次に進む前に、残量と今後の行程をもう一度考える必要がありますね」
三人は木立のそばで短い休憩を取ることにした。
◇
馬車の近くに敷いた布へ腰を下ろすと、木立から吹いてくる風が心地よく感じられた。日差しは雲に遮られたり、時折明るくなったりを繰り返しており、草地の上にはゆっくりと影が移動している。
ルシルは水容器を取り出し、シモンと一緒に残量を確認した。朝の段階で余裕を残していたとはいえ、ここまでの移動で二頭にも水を与えている。
「この先、確実な補給先が見つかるまで、どれくらい進めるかな」
ルシルが尋ねると、シモンは帳面を開いた。
「現在の残量だけで正確な距離を決めることは難しいですね。気温や馬たちの状態によって必要量が変わりますし、道の状態もまだ分かりません。ただ、今のまま水場を探して進み続けるのは避けるべきでしょう」
「そうだね。どこかでちゃんと判断しないと、気づいたときには戻るのも難しくなってしまう」
ルシルは静かに頷いた。
モモは二人の会話を聞きながら、膝の上で手を重ねた。水を見つけられなかったことは残念だったが、それ以上に、二人が真剣に考えていることが伝わってくる。
「ねえ、ルシル君。もしこの先でも水が見つからなかったら、どうするの?」
モモの問いに、ルシルは少し考えた。
「まずは、今ある水で安全に進める範囲を考えるしかないね。来た道を戻ることも含めて、無理のない選択をしたいと思う」
シモンはその言葉に頷いた。
「ええ。ただし、引き返す場合にも水は必要です。ですから、戻るか進むかを決めるのは、残量に十分な余裕があるうちでなければなりません」
モモは真剣な表情で頷いた。
「分かった。じゃあ、わたしも水を大事に使うね。でも、喉が渇いたときはちゃんと言うよ。我慢して倒れちゃったら、もっと大変だもん」
その言葉に、シモンは安心したように微笑んだ。
「その通りです。必要な水分まで我慢することは、節約ではありませんからね」
ルシルも頷き、モモへ微笑みかけた。
「うん。三人とも、無理しないようにしよう」
モモは笑顔で頷いた。
◇
休憩を終える前、シモンはもう一度木立の方へ目を向けた。先ほど見つけた細い踏み跡は、木々の影の中へ消えている。
そこに本当に沢があるのか、あるとしても水が流れているのかは分からない。
シモンはしばらく考えたあと、ルシルへ顔を向けた。
「ルシル様、ひとつ提案があります」
「うん。何かな」
「この先へ進む前に、今日の行程を短く区切りましょう。次に安全な停車場所を見つけたところで、改めて水の残量と馬たちの状態を確認します。その時点で補給先が見つからなければ、進路を再検討したいと思います」
ルシルはその提案を聞き、すぐに頷いた。
「いいと思う。ずっと先まで進むことを決めるより、途中で判断できる方が安心だね」
モモも顔を上げた。
「じゃあ、次の休憩場所まで進んでみるんだね。でも、そこで水が見つからなかったら、ちゃんと相談するんでしょう?」
「ええ。先へ進むことだけを目的にはしません」
シモンが答えると、モモは安心したように笑った。
三人は荷物を整え、再び馬車へ乗り込んだ。
ルシルは手綱を握り、トルクとベルクへ声をかけた。
「もう少しだけ進もう。無理はしないから、ゆっくり行こうね」
二頭は落ち着いた足取りで歩き始め、馬車は木立のそばを離れていった。
道の先には、まだ低い丘が続いている。
ルシルはその景色を眺めながら、昨夜の旅人の言葉を思い出した。
沢へ下りる古い踏み跡があったはずだという話。
けれど、その情報は確かなものではなく、実際に使える水場があるかどうかも分からない。
(知らないことを知りたい気持ちはある。でも、今はそれよりも、みんなが無事に旅を続けられることの方が大切だね)
ルシルは静かに息を吐き、手綱を握り直した。
◇
午後に入る頃、道の左側に小さな石が集まった場所が見えてきた。周囲より少し高くなった地面があり、その先には草の短い平らな場所が広がっている。
シモンはその場所を見て、ルシルへ声をかけた。
「ルシル様、あそこなら馬車を止められそうです。地面の状態を確認して、予定どおり休憩を取りましょう」
「うん。そうしよう」
ルシルは頷き、道幅を確かめながら馬車を寄せた。トルクとベルクが落ち着いたところで、シモンが降りて地面を確認する。
モモも馬車から降り、周囲を見回した。
石の集まった場所の向こうには、低い草が風に揺れている。遠くの丘は少し青みがかって見え、空には薄い雲が流れていた。
「ここ、見晴らしがいいね。さっきの木立とは全然違う」
モモが言うと、ルシルも頷いた。
「そうだね。遠くまで見えるから、道の先の様子も少し分かりそうだよ」
シモンは地面の確認を終え、二人のところへ戻ってきた。
「停車するには問題なさそうです。まずは馬たちを休ませましょう。そのあと、残りの水を確認して今後の進路を考えます」
三人は頷き合い、それぞれの役割に取りかかった。
ルシルはトルクとベルクの首筋を撫で、歩き方や呼吸に変わったところがないか確かめた。モモは食料袋を取り出し、シモンは水容器を並べる。
昼食は簡単な保存食で済ませることになったが、モモはパンの残りを見ながら少し考え込んだ。
「ねえ、ルシル君。次の村でパンを買うときは、今度はもう少し長く保存できるものも探してみたいな」
「そうだね。美味しいものも大事だけど、旅の途中で食べやすいものを選ぶのも大切だね」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「次の補給先では、保存性と持ち運びやすさを考えて買い物をしましょう。ただし、今はまず水の確保が優先です」
「うん。分かってる!」
モモは笑顔で答え、食事を始めた。
ルシルはその様子を見ながら、少しだけ安心した。水の問題が解決していないことは気がかりだが、三人が落ち着いて相談できていることが心強い。
◇
食事を終えたあと、シモンは帳面を開き、今日の移動を振り返った。
朝からここまで、道の端にいくつか気になる地形はあったものの、安全に利用できる水場は確認できていない。
馬たちの状態は今のところ安定しているが、水の残量を考えると、何も決めずに先へ進み続けることはできなかった。
「ルシル様、ここで一度、進路を整理しましょう」
シモンの言葉に、ルシルは頷いた。
「うん。僕も、そろそろ決めた方がいいと思ってたんだ」
モモも二人のそばへ座り、真剣な表情で話を聞いた。
シモンは地図と記録を広げ、これまでの移動を確認した。
「現在の道は、ハルミナへ向かったときに使った道です。ただし、次に確実な補給ができる場所までの距離は、まだ正確に把握できていません。今日のように水場を探しながら進む方法では、時間と体力を使ってしまいます」
ルシルは静かに頷いた。
「そうだね。沢があるかもしれないって話だけで、ずっと探し続けるのはよくないと思う」
「ええ。ですから、今後は確実な補給先へ向かうことを優先したいと思います。ただし、今の位置からどこまで進めるかは、馬たちの状態と残量を見ながら判断する必要があります」
モモは少し考えたあと、口を開いた。
「じゃあ、今は無理に沢を探さない方がいいんだね。もし道の近くで見つかったら確かめるけど、わざわざ草むらの奥へ入ったりはしないってこと?」
「その通りです」
シモンは頷いた。
ルシルも穏やかに微笑んだ。
「僕もそれがいいと思う。水が必要だからこそ、危ない場所へ入ってしまうのは避けたいしね」
モモはしっかりと頷いた。
「うん。じゃあ、今日はここから先の道をよく見て、無理のないところまで進もうね」
三人は相談を終え、少しだけ休息を取ることにした。
◇
ルシルは馬車のそばに腰を下ろし、遠くの丘を眺めていた。風は午前中よりも少し強くなっていたが、空は明るく、雨が降りそうな気配はない。
モモは隣で旅帳面を開き、今日見つけた木立や草の薄い場所を描いている。シモンは少し離れたところで、馬車の車輪と馬具を確認していた。
「ねえ、ルシル君。今日って、あんまり新しいものを見つけられなかったね」
モモがぽつりと言った。
ルシルは少し驚いて彼女を見たが、モモの表情は落ち込んでいるというより、何かを考えているようだった。
「そうかな。木立もあったし、古い踏み跡みたいなものも見つけたよ」
「うん。でも、どれも何なのか分からなかったでしょう? 沢も見つからなかったし、ちょっとだけ残念だなって思って」
モモは鉛筆を止め、帳面のページを眺めた。
そこには、今日見たものがいくつも描かれている。
乾いた窪み。
木立のそばの細い草の切れ目。
道の脇に集まった小さな石。
どれも、はっきりとした答えが見つかったものではなかった。
ルシルはその絵を眺め、少し考えてから口を開いた。
「でも、分からなかったことも、今日の旅の一部なんじゃないかな。僕たちは水を探していたけど、見つからなかったからこそ、どう進むかをちゃんと相談できたんだと思う」
モモは顔を上げた。
「そっか……。何かを見つけることだけが、旅じゃないんだね」
「うん。もちろん、面白いものを見つけられたら嬉しいけどね」
ルシルが笑うと、モモも少しずつ笑顔を取り戻した。
「じゃあ、今日のページには『分からなかったことがいっぱいあった日』って書いておこうかな」
「それもいいかもしれないね」
ルシルは穏やかに答えた。
モモは再び鉛筆を動かし、ページの端に小さな文字を書き添えた。
シモンは二人の会話を聞きながら、静かに微笑んだ。
旅の記録は、成功したことだけを残すものではない。
分からなかったことや、判断を保留したことも、次に同じような状況へ出会ったときには役立つ。
それをモモが自分の言葉で理解し始めていることが、シモンには嬉しかった。
◇
午後の休憩を終えた三人は、再び馬車へ乗り込んだ。
ルシルは手綱を握り、トルクとベルクの歩調を確かめながら、道の先へ目を向けた。
遠くにはまだ低い丘が続いている。
水場が見つかるかどうかは分からない。
それでも、三人は今日の行程を無理に伸ばさず、次に安全な休憩場所を見つけたところで、改めて判断することにしていた。
モモは旅帳面を閉じ、窓の外を眺めながら小さく息を吐いた。
「ねえ、ルシル君。次の村に着いたら、まず何をしたい?」
ルシルは少し考え、笑顔で答えた。
「まずは水を補給して、トルクたちを休ませたいかな。それから、ゆっくり食事をしたいね」
「うん! わたしも、美味しいものを食べたい!」
モモは嬉しそうに笑った。
シモンも穏やかに頷いた。
「そのためにも、まずは安全に進みましょう。次の補給先が分かるまでは、焦らずに判断することが大切です」
ルシルは頷き、手綱を握り直した。
道の先には、まだ知らない景色が続いている。
今日の旅では、水場を見つけることはできなかった。
それでも、三人は何も得られなかったわけではない。
曖昧な情報だけで進まないこと。
分からないことを無理に確かめようとしないこと。
必要なときには立ち止まり、仲間と相談すること。
その一つ一つが、これからの旅を支える大切な経験になっていく。
ルシルは前方へ目を向け、穏やかに微笑んだ。
(僕たちは、急いでどこかへ行かなきゃいけないわけじゃない。だからこそ、無理をせずに進めばいいんだよね)
トルクとベルクは落ち着いた足取りで道を進み、馬車の車輪が乾いた土を踏む音が、午後の草地へ静かに響いていた。




