第146話「水のない野営地で交わした約束と、古い道を知る旅人の話」
夕暮れの草地に馬車を止めたルシルは、手綱を緩めながら、低い木々の向こうへ沈んでいく太陽を眺めていた。ハルミナを離れてから二度目の野営となる今夜は、昨日よりも風が穏やかだったが、草の間には日中の熱がまだ残っており、馬車から降りると乾いた土の匂いが足元から立ち上ってきた。
道の左側に広がる平坦な場所は、先ほどシモンと一緒に確認したとおり、馬車を寄せても車輪が沈み込む心配の少ない地面だった。ただし、周囲には水場らしいものが見当たらず、明日の移動に必要な水を考えると、夕食の作り方にも少し工夫が必要になる。
「トルク、ベルク、今日もありがとう。昨日より短い距離だったけど、坂道もあったから疲れたでしょう」
ルシルが二頭の首筋を順番に撫でると、栗毛のトルクは鼻先を彼の肩へ寄せ、暗灰色のベルクは静かに耳を動かした。二頭とも歩き方に目立った異常はなかったものの、馬具を外したあとには背や脚を丁寧に確かめ、汗の残っている部分を手入れしてから休ませることにした。
少し離れた場所では、シモンが水容器を並べ、朝と昼に使った量を帳面へ記していた。モモはその隣にしゃがみ込み、容器の数を数えながら、時折難しそうな顔で残量を見比べている。
「シモン君、昨日より少なくなってるのは分かるんだけど、明日の分ってどれくらい残しておけばいいの? わたし、今まで水を飲むときに、次の村までのことをこんなに考えたことなかったかも」
「正確な必要量は、気温や移動時間、馬たちの状態でも変わります。ですから、今夜の段階でぎりぎりの計算をするのではなく、余裕を残すことが大切ですね。特にトルクとベルクの飲み水を、人間の食事の都合で減らすわけにはいきません」
シモンはそう説明しながら、残っている水を用途ごとに分けて考えた。人が飲むための水、馬たちに与える水、最低限の衛生を保つための水を確保すると、調理へ回せる量はかなり限られる。
モモはしばらく考えたあと、食料袋の方へ目を向けた。
「だったら、今夜は煮込みを作らなくてもいいよ。エルナさんのパンもまだあるし、保存食だってあるでしょう? 温かいものが食べられないのはちょっと残念だけど、お水がなくなる方がずっと困るもん」
その言葉を聞いたシモンは、少し意外そうに彼女を見た。食べることが大好きなモモなら、何とか温かい料理を作れないかと相談するだろうと思っていたからだ。
「モモ嬢がそう言ってくださるなら助かります。ただ、食事を楽しむことまで我慢する必要はありませんよ。残っている食材の組み合わせを考えれば、水をほとんど使わずに済むものもありますから」
「本当? じゃあ、今日は何が作れるかな。パンに挟めるものとか、ちょっと味を変えられるものがあったら嬉しいな」
モモの表情が明るくなったところへ、馬の世話を終えたルシルが戻ってきた。彼は二人の話を聞き、荷台から小さな包みを取り出して見せる。
「ハルミナで買った乾燥野菜のうち、そのまま食べられるものがあったよね。それに、少し残っている塩漬けの肉を薄く切れば、パンと合わせられるんじゃないかな」
「それなら、水を使わずに食事を用意できますね。肉の保存状態を確認してから使いましょう。今夜は火を起こさなくても済みそうですし、暗くなる前に食事を終えられるでしょう」
シモンが頷くと、モモは嬉しそうに両手を合わせた。豪華な料理ではなくても、三人で相談して決めた食事なら、きっと美味しく感じられる。
ルシルは食料袋を開き、残りのパンを一つずつ確かめた。エルナが共同窯で焼いてくれたパンは、焼きたての柔らかさこそ失われていたが、香ばしい匂いはまだ残っている。
「こうして食べていると、ハルミナのことを思い出すね。エルナさん、僕たちが帰る道で食べるって言ったら、少し多めに焼いてくれたんだよね」
「うん! あのとき、わたしが美味しいって何回も言ったから、笑ってたよね。帰る前にもう一度食べられてよかったなあ」
モモはパンを受け取りながら、村の共同窯から漂っていた香りを思い出した。朝早くから働くエルナの手つきや、焼き上がったパンを並べるときの楽しそうな表情まで浮かんできて、少しだけ胸が温かくなる。
シモンは二人の会話を聞きながら、残りの食料を布へ並べた。ハルミナでの滞在は決して長いものではなかったが、村で出会った人々の顔を思い出せることが、今では不思議と嬉しい。
「マリナさんにも、またお会いできる機会があるとよいですね。あの宿では、いろいろと親切にしていただきましたから」
「そうだね。次に訪ねるときは、僕たちも何か旅の話を持っていけたらいいな」
ルシルがそう答えると、モモはパンを持ったまま顔を上げた。
「じゃあ、そのときは旅帳面を見せたい! ハルミナを出てから見つけたものをいっぱい描いて、マリナさんにも見てもらうの。今日の古い轍も、きっと面白がってくれると思うな」
シモンは穏やかに微笑みながらも、ひとつだけ言葉を添えた。
「ただ、あの轍については、まだ分かっていないことが多いですからね。昔の道だったと決めつけず、見つけた場所と形だけを伝える方がよいでしょう」
「うん、分かってる。シモン君に教えてもらったから、ちゃんと『古そうな車輪の跡』って書いたよ」
モモは得意そうに答え、旅帳面の表紙を軽く叩いた。ルシルはそのやり取りを見ながら、昼間に発見した二本の溝を思い出す。
草に半ば埋もれた轍は、今も誰かが使っている道には見えなかった。それでも、昔そこを通った人がいたという事実だけで、いつもの帰り道が少し違う場所に感じられた。
(道って、ただ目的地へ行くためのものじゃないんだな。誰かが通った跡が残っていて、そこに別の誰かが気づくこともある。僕たちも、いつかそんなふうに誰かの記憶に残るのかな)
ルシルは考えを巡らせながら、パンを薄く切り分けた。モモは保存食を並べ、シモンは使う食材の状態を確認する。
夕食の準備が整う頃には、太陽の下端が丘の向こうへ隠れ始めていた。
◇
三人は馬車の近くに敷いた布の上へ腰を下ろし、簡単な夕食を取り始めた。風は穏やかだったが、日が沈むにつれて空気が少しずつ冷え、パンを持つ指先にも夕暮れの涼しさが伝わってくる。
モモは薄く切った塩漬け肉と乾燥野菜をパンに挟み、一口食べると嬉しそうに目を細めた。
「美味しい! 昨日の温かい煮込みもよかったけど、これはこれで好きだな。パンに挟むと、同じ食材でも違う料理みたいになるね」
「確かにそうだね。こういう食べ方なら、道具もあまり使わずに済むし、移動中の食事にも向いていそうだよ」
ルシルは自分のパンを見ながら頷いた。宿で食べる料理に比べれば質素だが、野営の途中で食べるものとしては十分に満足できる。
シモンは二人が食事を楽しんでいる様子を見て、安心したように口元を緩めた。
「今夜は水を節約できましたし、明日の朝にも余裕が残ります。ただし、補給先が見つかるまでは、食事の内容を少し考える必要がありますね」
「そうだね。明日はどこかで水を汲めるといいけど、無理に知らない場所へ入るのは避けたいな」
ルシルはそう答え、道の方へ目を向けた。今日通ってきた道は、ハルミナへ向かったときにも使った道だったが、途中に確実な水場があったかどうかまでは、はっきり覚えていない。
シモンは帳面を開き、以前の移動記録を確かめた。そこには休憩した場所や道の状態が記されていたものの、すべての水場について詳細に書かれているわけではなかった。
「記録を見た限りでは、明日の行程で確実に利用できる水場は確認できません。以前通った道だからといって、補給まで保証されているわけではありませんね」
「うん。だったら、明日はまず水を優先して考えよう。馬たちの様子も見ながら、無理のない距離を進めばいいと思う」
ルシルの言葉に、モモも頷いた。
「わたしも賛成。水がなくなったら、パンが美味しくても困っちゃうもんね」
モモは少し真面目な顔で言ったあと、自分のパンを見つめた。食事の楽しさと、水の大切さを同時に考えるのは、彼女にとって以前より自然なことになっていた。
シモンはその変化を嬉しく思いながら、帳面を閉じた。
「では、明日は水の補給を優先事項として考えましょう。ただし、道を外れる場合は十分な情報が必要です。今夜のうちに結論を急がず、明るくなってから周囲の状態を確かめることにします」
三人は頷き合い、残りの夕食をゆっくりと味わった。
やがて食事を終えると、ルシルは使った布を畳み、モモは食料袋を閉じた。シモンは水容器の蓋を確かめ、夜間に必要な分を取り出しやすい場所へ置く。
火を使わなかったため後片づけは早く終わり、三人には日が沈みきる前の短い自由時間が残った。
◇
モモは旅帳面を抱えて、馬車のそばに腰を下ろした。夕暮れの空には細長い雲が浮かび、その下を風に揺れる草の穂が波のように広がっている。
彼女は鉛筆を取り出し、今日見つけた古い轍の絵をもう一度眺めた。道の端から草地へ伸びる二本の線は、描いてみると意外に単純だったが、そこに草が生えていたことや、土が乾いていたことを書き添えると、発見したときの様子が少しずつ蘇ってくる。
「ねえ、ルシル君。ちょっと見てくれる?」
モモが声をかけると、ルシルは馬車の荷台から顔を上げた。
「もちろん。何を描いたの?」
「今日の古い轍だよ。昼間は急いで描いたから、今のうちに覚えてるところを書き足しておこうと思って」
ルシルは隣へ腰を下ろし、開かれたページを覗き込んだ。そこには二本の細い溝と、周囲に生えていた草が描かれている。
「よく覚えてるね。僕は、草の形までは覚えていなかったよ」
「えへへ。でも、全部が正確かどうかは分からないから、覚えてるところだけにしたの。シモン君が言ってたみたいに、見たことと想像したことは分けて書いた方がいいんだよね」
モモは少し照れたように笑った。ルシルはその横顔を眺めながら、旅帳面が彼女にとって大切なものになっていることを改めて感じる。
旅を始めた頃、モモは美味しいものや面白いものを見つけるたびに、嬉しそうに声を上げていた。今でもその明るさは変わらないが、最近は見つけたものをどう覚えておくか、誰かへどう伝えるかまで考えるようになっている。
「モモの旅帳面、どんどん素敵になってるね。絵が増えているだけじゃなくて、そこに書いてあることも面白いよ」
「本当? 嬉しいな。ルシル君も、いつか自分の帳面を持ったら、いろんなことを書いてみてね」
その言葉に、ルシルは少しだけ考え込んだ。自分の帳面を持ちたいという気持ちは以前からあったが、まだ実際に買ったわけではない。
「そうだね。次に大きな町へ行ったら、探してみようかな。でも、何を書けばいいのかはまだ迷ってるんだ」
「何でもいいと思うよ。今日食べたパンのことでも、トルクがご飯を欲しがったことでも、シモン君がちょっと笑ったことでも」
モモは楽しそうに例を挙げたあと、少し首を傾げた。
「でも、ルシル君だけが覚えておきたいことを書いてもいいんだよね。わたしの旅帳面だって、全部を誰かに見せるために描いてるわけじゃないもん」
ルシルはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。
誰にも見せる必要のない記録。
それは、彼にとって少し特別な響きを持っていた。
旅の途中でときどき頭に浮かぶ、説明のつかない光景。白い部屋や、見慣れない箱のようなもの、意味をつかみきれない言葉の断片。
それらを今すぐ誰かへ説明することは難しいが、忘れないように書き留めることならできるかもしれない。
(まだ何も分かっていないことを、無理に誰かへ話す必要はない。でも、自分の中で整理しておく場所があったら、いつか役に立つのかな)
ルシルはそう考えながら、モモの旅帳面へ目を戻した。
「ありがとう。次に帳面を見つけたら、ちゃんと考えてみるよ」
モモは嬉しそうに頷き、また鉛筆を動かし始めた。
少し離れた場所では、シモンが馬車の車輪を確認していた。二人の会話は聞こえていたが、彼は特に口を挟まず、必要な作業を続けている。
ルシルが自分の帳面を持ちたいと思っていることは知っている。しかし、その理由のすべてを知っているわけではなかった。
シモンは二人の様子を見ながら、穏やかに微笑んだ。
(ルシル様がご自身のために何かを残したいとお考えなら、それは大切にしていただきたいですね。今までのように、誰かのための記録ばかりではなくてもよいのですから)
彼はそう思い、車輪の確認を終えると、馬車のそばへ戻った。
◇
夕日が完全に沈む前、三人は寝具を整え、夜間の休み方について相談した。昨日と同じように短い時間ずつ交代することにしたが、今日は移動距離を抑えたため、身体の疲れは少し軽い。
シモンは周囲の地面を確かめ、暗くなってから歩く必要のないように、荷物の位置を整理した。ルシルはトルクとベルクの様子を見に行き、モモは寝具の湿り気を確かめている。
準備が一段落したところで、遠くの道から小さな音が聞こえた。
最初は風が草を揺らす音かと思ったが、しばらくすると、一定の間隔で地面を踏むような音が混じっていることに気づいた。
ルシルは顔を上げ、道の方へ目を向けた。
「シモン、何か聞こえない?」
シモンは手を止め、静かに耳を澄ませた。
「……そうですね。足音のようにも聞こえます。まだ距離がありますから、こちらから近づかずに様子を見ましょう」
モモも二人のそばへ戻り、道の方を見つめた。夕暮れの光はまだ少し残っているが、遠くの人影をはっきり見分けられるほど明るくはない。
やがて、道の曲がり角から一人の旅人が姿を現した。
背には小さな荷物を負い、片手には歩行用の杖を持っている。年齢は中年ほどに見え、厚手の上着の裾には道中の土がついていた。
旅人は三人の馬車に気づくと、少し離れた場所で足を止めた。
「こんばんは。こんなところで人に会うとは思わなかったよ。そちらも今夜は野営かい?」
声は落ち着いており、突然近づいてくる様子もなかった。
ルシルはシモンへ一度目を向けてから、穏やかに答えた。
「こんばんは。はい、今日はここで休むことにしました。あなたも旅の途中ですか?」
「ああ。向こうの集落から歩いてきたところでね。今日はもう少し先まで進むつもりだったんだが、日が落ちるのが早くて困っていたところさ」
旅人はそう言い、道の先へ目を向けた。
シモンは相手の荷物や足取りをさりげなく確かめた。特に不自然な様子は見られなかったが、初対面の相手である以上、必要以上に近づくことは避ける。
「この先にも休めそうな場所はありますが、暗くなってから探すのは難しいかもしれませんね。私たちも、明るいうちに場所を決めました」
シモンがそう答えると、旅人は頷いた。
「それが賢明だろうね。昔はこの辺りにも荷車がよく通っていたらしいが、今は道を外れると草が深い場所もある。知らないところへ入るのは勧めないよ」
その言葉に、モモが顔を上げた。
「昔は荷車が通ってたんですか?」
旅人は少し驚いたように彼女を見た。
「ああ、そう聞いたことがあるよ。もっとも、私自身が昔の様子を見たわけじゃないがね」
モモはルシルとシモンの顔を交互に見た。
昼間に見つけた古い轍のことが、頭に浮かんだのだろう。
「実は、今日の道で古い車輪の跡みたいなものを見つけたんです。草の中へ続いてたんですけど、あれも昔の荷車の跡なのかなって思って」
旅人は興味深そうに眉を上げた。
「ほう。どの辺りだったんだい?」
シモンは慎重に説明した。
「この道をハルミナの方へ戻った先に、緩やかな曲がり角があります。その近くで、道の端から草地へ伸びる二本の溝を見つけました。ただ、古い轍かどうかも、まだ確かではありません」
旅人はしばらく考え込んだあと、ゆっくりと頷いた。
「その辺りなら、昔の荷運び道があったという話を聞いたことがある。けれど、今も通れる道だとは思わない方がいいよ。草に埋もれた場所も多いし、どこへ続いていたかも、私は詳しく知らないんだ」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「ありがとうございます。僕たちも、知らない道へ入るつもりはありません。ただ、昔ここを通った人たちがいたのかもしれないと思うと、少し興味が湧いて」
旅人は穏やかに笑った。
「旅をしていると、そういうものが気になることもあるだろうね。私も若い頃は、古い道や石の跡を見つけると、つい立ち止まったものさ」
モモは嬉しそうに微笑んだ。
「わたしも、今日その跡を絵に描いたんです。まだ何の跡か分からないけど、いつか詳しい人に聞けたらいいなって思って」
「それはいいね。見たものを残しておけば、あとから話を聞いたときにも思い出しやすいだろう」
旅人はそう言い、背負っていた荷物を少し持ち直した。
ルシルは彼の様子を見て、ふと気になったことを尋ねた。
「もし差し支えなければ、この先で水を補給できる場所をご存じありませんか? 僕たちは明日もこの道を進む予定なんですが、確実な水場が分からなくて」
旅人は少し考え、道の向こうへ目を向けた。
「水か……。この先の道沿いに、小さな沢へ下りる古い踏み跡があったはずだ。ただ、最近も水が流れているかどうかは分からないし、馬車で近づける場所ではなかったと思う。飲める水かどうかも、私には保証できないよ」
シモンはその言葉を聞き、すぐに帳面を取り出した。
「ありがとうございます。位置だけでも参考になります。ただ、実際に利用できるかどうかは、現地で確かめる必要がありますね」
「ああ、その通りだ。水が見つかったとしても、そのまま飲めるとは限らない。急いでいるなら、確実な補給先を探した方がいいだろうね」
旅人はそう答えたあと、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「役に立つ話ができなくてすまないね」
ルシルは首を振った。
「いいえ、十分ありがたいです。知らないことを知らないと教えていただけるだけでも、僕たちには助かりますから」
その言葉に、旅人は少し驚いたように目を瞬かせた。
やがて、穏やかな笑みを浮かべた。
「そう言ってもらえるならよかった。旅先では、確かなことと曖昧なことを分けて聞くのが大事だからね」
三人はその言葉に頷いた。
◇
旅人は長く立ち話を続けるつもりはないらしく、やがて杖を持ち直した。
「それじゃあ、私はもう少し先へ進むよ。暗くなる前に、道の脇で休める場所を探さないといけないからね」
ルシルは道の先を見た。
夕暮れの光はかなり薄くなっており、これから歩くには少し心配な時間だった。
「お気をつけて。道の端は草が深いところもありますから、足元に気をつけてください」
「ああ、ありがとう。そちらも、よい夜を」
旅人は穏やかに笑い、三人へ軽く手を上げてから歩き始めた。
その背中が道の曲がり角へ消えるまで、ルシルたちは静かに見送った。
モモはしばらく道の方を眺めたあと、嬉しそうに口を開いた。
「ねえ、ルシル君。今日の古い轍、やっぱり昔の道だったのかもしれないんだね!」
「そうだね。でも、まだ確かなことは分からないから、今は『そういう話を聞いた』って覚えておこう」
ルシルが答えると、モモは頷いた。
「うん! 旅帳面にもそう書いておくね」
シモンは帳面へ旅人の話を整理しながら、静かに口を開いた。
「古い道については、少しだけ手がかりが増えましたね。ただ、今後の行程に直接関わるのは、水場についての情報でしょう。沢へ下りる踏み跡がある可能性はありますが、利用できるかどうかは未確認です」
ルシルは頷いた。
「うん。明日は、まず道の様子を見ながら進もう。沢が見つかったとしても、無理に近づく必要はないし、飲める水かどうかも分からないからね」
「その方がよいと思います。水を見つけたことと、安全に補給できることは別ですから」
シモンはそう答え、帳面を閉じた。
モモは二人の会話を聞きながら、少し考え込んだ。
「ねえ、シモン君。今日会った人みたいに、道のことを知ってる人に会えたら、また聞いてみてもいいんだよね?」
「もちろんです。ただし、相手が知っていることにも限りがありますから、一人の話だけで決めつけないことが大切ですね」
「うん。分かった!」
モモは嬉しそうに頷いた。
ルシルはその様子を見ながら、穏やかに微笑んだ。
旅の途中で誰かと出会い、少しだけ話を聞く。
それだけでも、道の先にあるものが少し違って見えることがある。
今日の古い轍も、ただの土の溝ではなく、昔の人々が使った道の名残かもしれないと思えるようになった。
けれど、その先へ進むかどうかは別の話だった。
(知らないことが分かるのは嬉しい。でも、知りたいからって無理に進む必要はないんだよね。僕たちは、僕たちの旅を続ければいいんだから)
ルシルはそう考えながら、夜の空へ目を向けた。
星が少しずつ増え始めている。
草地を渡る風は冷たくなってきたが、馬車のそばには三人が休むための準備が整っていた。
モモは旅帳面を開き、今日聞いた話を書き添え始めた。
シモンは明日の水の確認について、必要な注意点を整理している。
ルシルはトルクとベルクの様子をもう一度確かめ、二頭が落ち着いていることを確認してから、仲間のところへ戻った。
「さて、そろそろ休もうか。明日も道を進むなら、ちゃんと眠っておきたいしね」
ルシルが声をかけると、モモは旅帳面を閉じ、笑顔で頷いた。
「うん! 明日はどんな景色が見られるかな。水場も見つかるといいね」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「ええ。ただし、焦らずに進みましょう。今日のように、必要な情報を確かめながら判断すればよいのですから」
三人は寝具のそばへ戻り、夜の支度を整えた。
ハルミナを離れてから二度目の夜は、昨日とは少し違うものになった。
古い轍の話を聞き、道の先に水場があるかもしれないという情報を得た。
それでも、明日の行き先がすべて決まったわけではない。
ルシルはそのことを不安には思わなかった。
分からないことを確かめ、無理をしない道を選び、仲間と相談しながら進んでいく。
その一つ一つが、今の自分たちらしい旅の形なのだと感じられたからだ。
夜空には静かに星が瞬き、遠くの道は闇の中へ続いている。
ルシルはその先にどんな景色が待っているのかを思いながら、穏やかな気持ちで夜を迎えた。




