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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第145話「朝露の道で見つけた古い轍と、三人で選ぶ今日の行き先」


 夜明け前の草地には、まだ薄い青色の暗さが残っていた。


 ルシルは馬車のそばに腰を下ろし、東の空が少しずつ明るくなっていく様子を眺めていた。夜の間に増えた雲はゆっくりと流れ、ところどころに見える空の隙間から、朝の光が草原へ降り始めている。


 夜間の交代を終えるまで、幸い大きな異変はなかった。


 途中で木々の向こうから小さな音が聞こえたことはあったものの、何かが近づいてきた様子はなく、トルクとベルクも落ち着いていた。二頭が時折鼻を鳴らす音と、風が草を揺らす音だけが、静かな夜の中で繰り返されていた。


 ルシルは膝に置いていた手を伸ばし、軽く肩を回した。


 短い時間ずつ交代して休んだとはいえ、宿の寝台で眠るのとは違う疲れが残っている。身体が痛むほどではないが、背中や肩には少しだけ重さがあり、寝具を片づける前にもう一度身体を伸ばしたくなった。


(野営にも慣れてきたつもりだったけど、やっぱり宿で眠るのとは違うね。今日は無理に長く進まない方がよさそうだな)


 ルシルはそんなことを考えながら、トルクとベルクへ目を向けた。


 二頭は朝の気配を感じているのか、昨夜よりも頻繁に耳を動かしている。


 特にトルクは、ルシルが顔を向けたことに気づくと、首を伸ばして鼻先を寄せてきた。


「おはよう、トルク。今日も元気そうだね」


 ルシルが首筋を撫でると、トルクは小さく鼻を鳴らした。


 その隣では、ベルクが落ち着いた様子で立っている。


 ルシルは二頭の呼吸や脚元を確かめ、夜の間に綱が絡まっていないことを確認した。


 そのとき、背後から布の擦れる音が聞こえた。


「……ルシル様、おはようございます」


 振り返ると、シモンが寝具から身体を起こしていた。


 黒縁の眼鏡をかけ、少し乱れた髪を整えながら、彼は空の明るさを確かめる。


「おはよう、シモン。もう少し寝ていてもよかったのに」


「ありがとうございます。ただ、空が明るくなってきましたし、そろそろ起きる時間でしょう。ルシル様こそ、最後の交代から休んでいらっしゃらないのではありませんか」


 シモンの問いに、ルシルは少しだけ苦笑した。


「そうだね。でも、もう朝になりそうだったから、そのまま起きていたんだ。あとで少し休めば大丈夫だよ」


 シモンはルシルの表情を確かめ、すぐに頷くことはしなかった。


「でしたら、朝食のあとに少し休む時間を取りましょう。今日も馬車を進めるなら、御者を務めるルシル様の疲れは無視できません」


「うん。そうしよう。僕も、眠いまま手綱を握るのはよくないと思うから」


 ルシルが素直に答えると、シモンは安心したように微笑んだ。


 以前なら、ルシルが自分の疲れを口にする前に、シモンが予定を調整していたかもしれない。


 けれど今は、ルシル自身が無理をしないことを意識し、必要なら休むと伝えられるようになっている。


 その変化を、シモンは嬉しく思っていた。


 馬車の反対側から、小さな欠伸が聞こえた。


「……ふあぁ……。おはよう、二人とも……」


 モモが寝具の上で身体を起こし、眠たそうに目を擦っていた。


 桃金色の髪は少し乱れ、白い外套の肩には上掛けの跡が残っている。


 ルシルは笑いながら声をかけた。


「おはよう、モモ。よく眠れた?」


「うん……。途中で起きたときはちょっと眠かったけど、そのあとぐっすり眠れたよ」


 モモはそう言いながら立ち上がろうとしたが、足元の寝具に引っかかりそうになり、慌てて動きを止めた。


「わっ……。危なかった」


 シモンがすぐに声をかける。


「モモ嬢、まだ足元が暗い場所もありますから、慌てずに動いてください。寝具を片づけるのは、もう少し明るくなってからでも構いませんよ」


「うん。ありがとう、シモン君」


 モモは照れくさそうに笑い、改めてゆっくりと立ち上がった。


 朝露に濡れた草地は、夜とはまた違う表情を見せている。


 遠くの丘には薄い霧のようなものがかかり、低い木々の葉には小さな水滴が光っていた。


 モモはその景色を眺め、嬉しそうに目を細めた。


「わあ……。昨日の夕方とは全然違うね。草がきらきらしてる」


「朝露だね。日が高くなったら、少しずつ乾いていくと思うよ」


 ルシルが答えると、モモは頷いた。


「そっか。じゃあ、今しか見られない景色なんだね」


 彼女は旅帳面を取り出そうとして、ふと手を止めた。


 まだ寝具の片づけも終わっていない。


 それに、朝の準備を二人へ任せたまま絵を描き始めるのも、少し違う気がした。


「ねえ、ルシル君。朝の準備が終わったら、ちょっとだけこの景色を描いてもいい?」


「もちろん。急いで出発するわけじゃないし、まずは朝ご飯と馬たちの世話を済ませようか」


「うん!」


 モモは嬉しそうに頷いた。


     ◇


 朝の支度は、昨夜の後片づけが済んでいたおかげで、思っていたよりも順調に進んだ。


 ルシルは寝具を畳み、湿っている部分がないか確かめてから馬車へ運んだ。シモンは水と食料の残量を確認し、モモは使った場所に忘れ物がないか見回している。


 夜の間に露がついた布は、すぐに荷物の奥へ押し込まず、乾かせるものを分けておくことにした。


 シモンは馬車の荷台を見ながら、少し考え込んだ。


「昨夜は雨が降りませんでしたが、露で湿ったものがいくつかありますね。長くしまい込むと傷む可能性がありますから、次の休憩で乾かせるようにしておきましょう」


「うん。荷物の中でほかのものまで濡れたら困るものね」


 ルシルが答えると、モモも頷いた。


「じゃあ、わたしの外套も少し確かめておこうかな。裾がちょっと湿ってる気がするの」


 モモは外套の端を持ち上げ、朝露のついた部分を確かめた。


 大きく濡れているわけではなかったが、地面に近いところには少し冷たさが残っている。


 ルシルはそれを見て、穏やかに笑った。


「歩いているうちに乾くかもしれないけど、馬車の中でほかの布に触れないようにしておこうね」


「うん。気をつける!」


 三人はそれぞれの荷物を整えたあと、トルクとベルクのところへ向かった。


 シモンは二頭の脚元を確かめ、蹄に異物が挟まっていないか慎重に見た。


 ルシルは首筋や背の様子を確認し、昨夜から変わったところがないかを見ていく。


 モモは二頭が落ち着いていられるよう、少し離れた場所から声をかけていた。


「トルク、おはよう! ベルクも、今日はいい朝だね!」


 トルクはモモの声に反応し、顔を上げた。


 そのまま餌袋の方へ視線を移したため、モモは思わず笑った。


「もう、ご飯のことばっかりなんだから!」


 ルシルも笑いながら頷いた。


「でも、食欲があるのはいいことだよ。昨日もよく歩いてくれたし、今日はちゃんと休みながら進もうね」


 シモンは確認を終えると、二人へ顔を向けた。


「目立った異常はありません。ただ、昨日からの移動と野営で疲れが残っている可能性はあります。今日は早い段階で一度休憩を取り、様子を見ながら進むのがよいでしょう」


「うん。僕もそう思っていたよ」


 ルシルは頷いた。


 ハルミナから戻る道は、一度通ったことがある。


 けれど、同じ道だからといって、同じ距離を同じ時間で進めるとは限らない。


 馬たちの状態も違えば、天候や道の様子も変わる。


 そのことを忘れずに進もうと、三人は改めて確認した。


     ◇


 朝食には、残っているパンと保存食の一部を使うことにした。


 昨夜のように火を起こすことはせず、今朝は簡単に食べられるものを中心にする。


 水の残量を考えれば、無理に温かな料理を作るよりも、移動中に必要な分を確保しておく方が安心だった。


 モモはパンを手に取り、少しだけ残念そうに笑った。


「温かいご飯も好きだけど、今日はこれで我慢だね」


 ルシルは彼女の言葉を聞き、首を傾げた。


「我慢っていうほどでもないんじゃないかな。エルナさんのパンは、冷めていても美味しいよ」


「それはそうなんだけど……。昨日の夜の煮込みが美味しかったから、また食べたくなっちゃったの」


 モモは照れくさそうに笑った。


 シモンも穏やかに微笑んだ。


「次に水を補給できる場所が見つかれば、また温かい料理を作る余裕も出てくるでしょう。今は、必要なものを残しながら進むことを優先しましょう」


「うん! そのときは、また三人で作ろうね!」


 モモは嬉しそうに頷き、パンを一口食べた。


 ルシルも食事を始めながら、周囲の景色を眺めた。


 朝の光は少しずつ強くなり、草地の上に残っていた露も、日当たりのよい場所から乾き始めている。


 昨夜は暗くて見えなかった道の先も、今は緩やかな曲がり方まで分かるようになっていた。


 ルシルはパンを食べ終えると、シモンへ顔を向けた。


「今日は、どの辺りまで進めそうかな」


 シモンは帳面を開き、昨日までの記録を確かめた。


「正確な距離は、道の状態を見ながら判断する必要があります。ただ、昨日と同じ程度の移動を目標にする必要はありません。今日は少し短めに進み、休憩できる場所を早めに探してもよいと思います」


「うん。僕も、今日は少しゆっくり進みたいな」


 ルシルが答えると、モモも頷いた。


「わたしも賛成! 昨日みたいに、途中で面白いものを見つけられるかもしれないし!」


 シモンはその言葉に微笑んだ。


「ただし、寄り道をする場合も、馬車を安全に止められる場所を選んでくださいね」


「もちろん!」


 モモは元気よく答えた。


 三人は朝食を終え、出発前の準備を進めた。


     ◇


 馬車が動き始めたのは、朝露が少し乾き始めた頃だった。


 トルクとベルクは落ち着いた足取りで道へ戻り、四輪馬車はゆっくりと草地を離れていく。


 ルシルは御者台で手綱を握り、二頭の歩調を確かめながら進んだ。


 シモンは隣で道の状態を確認し、モモは馬車の窓から外を眺めている。


 昨日の夕方に見た草地は、朝の光を受けてまったく違う色に見えた。


 低い木々の葉は明るく輝き、遠くの丘には薄い影が落ちている。


 モモは旅帳面を開き、窓の外を見ながら鉛筆を動かした。


「ねえ、ルシル君。昨日の夕方は、あの木の向こうが赤く見えてたでしょう? でも今は、葉っぱの色がすごくはっきりしてるね」


「うん。朝と夕方で、こんなに違うんだね」


 ルシルが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。


「同じ場所なのに、二回楽しめるなんて得した気分!」


 その言葉に、シモンも小さく笑った。


「モモ嬢らしい考え方ですね。ただ、確かに時間帯によって景色が変わることは、旅の面白さの一つかもしれません」


「でしょ!」


 モモは得意そうに笑った。


 ルシルは二人の会話を聞きながら、道の先へ目を向けた。


 ハルミナへ向かっていたとき、この辺りを通った記憶はある。


 ただ、反対方向から進んでいるため、どの場所がどこにつながっているのか、すぐには思い出せない部分もあった。


 シモンはそのことを理解しているらしく、道の端にある石や木の形を一つずつ確かめていた。


「ルシル様、少し先に道が緩やかに曲がる場所がありますね。行きにも通ったはずですが、反対側から見ると、目印の位置が違って感じられます」


「そうだね。僕も、あの木には見覚えがあるんだけど、どこで見たのかすぐには思い出せないよ」


 ルシルは苦笑した。


 シモンは穏やかに頷いた。


「無理に記憶だけで判断する必要はありません。道そのものを確かめながら進めばよいでしょう」


「うん。そうしよう」


 馬車は緩やかな曲がり角へ近づいていった。


     ◇


 曲がり角を越えたところで、シモンがふと前方へ目を向けた。


 道の右側に、少し色の違う土が見えていた。


 最初は日陰のせいかと思ったが、近づくにつれて、そこには細い溝のようなものが続いていることが分かった。


「ルシル様、少し速度を落としていただけますか」


 シモンの声に、ルシルはすぐ頷いた。


「うん。何かあった?」


「道の端に、車輪の跡のようなものが見えます。ただ、今の位置からでは状態が分かりません。少し手前で止めて確認したいと思います」


「分かった」


 ルシルはトルクとベルクへ声をかけ、道幅に余裕のある場所で馬車を止めた。


 シモンが先に降り、地面を確かめる。


 ルシルも二頭が落ち着いていることを確認してから降りた。


 モモは窓から顔を覗かせ、二人の様子を見守っている。


「どうしたの? 道が悪くなってるの?」


「まだ分からないよ。シモンが車輪の跡を見つけたんだ」


 ルシルが答えると、モモは少し考えたあと頷いた。


「じゃあ、わたしも降りていい? 近づきすぎないようにするから」


「うん。足元に気をつけてね」


 モモは慎重に馬車を降り、二人のところへ歩いていった。


 道の端には、たしかに車輪が通ったような細い溝が残っていた。


 ただし、溝の中には乾いた土が溜まり、ところどころに小さな草が生えている。


 最近できたものではなさそうだった。


 シモンはしゃがみ込み、地面の状態を確かめた。


「古い轍のようですね。少なくとも、昨日や今日についたものではないと思います」


 ルシルは溝の続く方向を見た。


 轍は道の端から少し外れ、草地の方へ伸びているように見える。


 ただし、途中で草に隠れてしまい、その先がどうなっているのかは分からなかった。


「昔は、ここを馬車が通っていたのかな」


 ルシルが呟くと、シモンは慎重に答えた。


「可能性はあります。ただ、どこへ続いていた道なのかは分かりません。荷車が一時的に道を外れた跡かもしれませんし、以前使われていた細い道だった可能性もあります」


 モモは轍を眺め、興味深そうに首を傾げた。


「じゃあ、ここにも昔の旅人が来たことがあるのかもしれないんだね」


「そうだね。でも、今も通れる道だとは限らないから、無理に進まない方がいいと思う」


 ルシルが答えると、モモは頷いた。


「うん。今日は来た道を戻るんだもんね」


 三人は轍の周囲を少しだけ確認した。


 地面には深い泥や大きな穴は見当たらなかったが、草地の奥は見通しが悪い。


 シモンは轍の方向を帳面へ簡単に記し、ルシルへ顔を向けた。


「今後、ここを通る機会があれば、近くの村で古い道について尋ねることはできるかもしれません。ただ、現時点では情報がありませんから、今日は予定どおり本来の道を進みましょう」


「うん。それがいいね」


 ルシルは頷いた。


 モモは旅帳面を開き、轍の形を簡単に描き始めた。


「じゃあ、わたしも描いておこうかな。古い車輪の跡って、なんだか面白いね」


 ルシルはその様子を見ながら、少しだけ考え込んだ。


 道というものは、今そこを通る人だけのものではない。


 以前に通った人々がいて、その人たちが残した跡が、こうして時間を越えて見つかることもある。


 自分たちの馬車も、どこかの道に小さな跡を残しているのかもしれない。


(僕たちが通ったあとにも、別の旅人がここを通るんだろうな。そう考えると、道って不思議だね)


 ルシルは小さく微笑んだ。


     ◇


 再び馬車を動かしてからも、モモはしばらく古い轍のことを考えていた。


 旅帳面には、道の端から草地へ伸びる二本の線が描かれている。


 その横には、シモンが教えてくれたことを忘れないように、古い跡であることと、行き先は分からないことを書き添えた。


「ねえ、ルシル君。昔ここを通った人たちも、わたしたちみたいに旅をしてたのかな」


 モモが尋ねると、ルシルは少し考えた。


「どうだろう。旅人だったかもしれないし、荷物を運ぶ人だったかもしれないね。近くで暮らしていた人が使っていた道だった可能性もあると思うよ」


「そっか。いろんな人が通ってたかもしれないんだね」


 モモは嬉しそうに頷いた。


 シモンも穏やかに口を開いた。


「道には、いろいろな役割がありますからね。村と村をつなぐための道もあれば、畑へ向かうための道もあります。古い轍だけでは判断できませんが、誰かがそこを通ったことは確かなのでしょう」


 ルシルはその言葉を聞き、前方へ目を向けた。


 今、自分たちが進んでいる道も、誰かが使い続けてきたからこそ残っている。


 道の端に草が生え、ところどころ土が固くなっているのも、多くの人や馬車が通った結果なのかもしれない。


 ルシルは手綱を握り直し、トルクとベルクの歩調を確かめた。


 道は大きく荒れておらず、二頭も落ち着いている。


 シモンは少し先の地面を見ながら、穏やかに言った。


「この辺りは、今のところ問題なく進めそうですね。ただ、先ほどのように道の端に古い跡が残っている場所もありますから、車輪を寄せすぎないようにしましょう」


「うん。気をつけるよ」


 ルシルは頷いた。


 モモは窓の外を眺めながら、旅帳面を閉じた。


「今日も、ちょっと面白いものを見つけられたね」


「そうだね。まだ午前中なのにね」


 ルシルが笑うと、モモも嬉しそうに笑った。


     ◇


 昼が近づく頃、三人は道の脇にある小さな木陰で休憩を取ることにした。


 昨日の大きな木ほど広い影ではなかったが、馬車を安全に止められるだけの場所があり、地面も比較的固かった。


 ルシルは二頭を落ち着かせ、シモンは水の残量を確認した。


 モモは食料を取り出し、三人の分を分ける。


 朝よりも日差しが強くなっていたため、冷たい水が喉を通ると、身体が少し軽くなるように感じられた。


「ふう……。やっぱり、休憩すると違うね」


 ルシルが言うと、シモンは頷いた。


「ええ。特に今日は、夜間の交代で十分に眠れていない可能性がありますから、普段より休憩を多めに取る方がよいでしょう」


「うん。僕も少し眠気が残ってるから、食べたあとに少し休もうかな」


 ルシルが答えると、モモは顔を上げた。


「じゃあ、わたしが起きてるよ! ルシル君、朝から馬車を動かしてくれてたもんね」


 ルシルは少し驚いたあと、微笑んだ。


「ありがとう。でも、モモも夜に起きてくれたでしょう? 無理しなくていいんだよ」


「うん。でも、今はそんなに眠くないから大丈夫。シモン君も、少し休んだら?」


 モモの言葉に、シモンは少し考えた。


「そうですね。では、交代で短く休むことにしましょう。全員が同時に眠ってしまわないようにすれば、落ち着いて身体を休められます」


 三人は相談し、まずルシルが少し休むことになった。


 ルシルは馬車の中で身体を横たえ、目を閉じた。


 窓から入る風は心地よく、遠くで鳥の声が聞こえている。


 昨夜のような冷たさはなく、身体を伸ばしているだけでも、少しずつ疲れが和らいでいくようだった。


(こうして休む時間も、ちゃんと旅の一部なんだよね。急いで進むだけが旅じゃないんだから)


 ルシルはそう考えながら、静かに目を閉じた。


     ◇


 ルシルが休んでいる間、モモは馬車のそばで旅帳面を開いていた。


 先ほど見つけた古い轍の絵を、もう少し分かりやすく描き直している。


 シモンはその隣で、道の記録を整理していた。


「シモン君、ちょっと聞いてもいい?」


 モモが声をかけると、シモンは顔を上げた。


「もちろんです。どうしましたか」


「さっきの古い轍って、どれくらい前のものなんだろう。草が生えてたから、ずいぶん昔なのかなって思ったんだけど」


 シモンは少し考えた。


「正確な時期は分かりませんね。土の状態や草の生え方だけで、何年前のものかを判断するのは難しいでしょう。季節や天候によっても変わりますから」


「そっか。じゃあ、昔って書くより、古そうって書いた方がいいのかな」


「その方が、見たことと考えたことを分けられますね」


 モモはその言葉を聞き、嬉しそうに頷いた。


「なるほど! じゃあ、そう書いておこう!」


 彼女は旅帳面の文字を少し直した。


 シモンはその様子を見ながら、穏やかに微笑んだ。


 旅の記録には、見たことをそのまま残す部分と、そこから考えたことを書く部分がある。


 その違いを意識することは、今後の旅でも役立つだろう。


 モモはしばらく鉛筆を動かしたあと、ふと顔を上げた。


「ねえ、シモン君。ルシル君って、最近ちょっと変わったと思わない?」


 シモンは少し驚いたように目を瞬かせた。


「変わった、ですか」


「うん。前から優しかったけど、最近は自分から休もうって言うことが増えた気がするの。それに、道を決めるときも、ちゃんと自分の考えを話してくれるでしょう?」


 シモンは静かに頷いた。


「そうですね。以前からルシル様は周囲を気遣う方でしたが、今はご自身の希望も、以前より自然に言葉にされるようになったと思います」


 モモは嬉しそうに笑った。


「それって、いいことだよね」


「ええ。私も、よい変化だと思っています」


 シモンはそう答え、馬車の方へ目を向けた。


 ルシルは静かに休んでいる。


 かつて王宮にいた頃、彼が自分の疲れを口にすることは、決して多くなかった。


 周囲の期待に応えようとし、誰かを困らせないように振る舞い、必要なときには自分の希望を後回しにする。


 そんな姿を、シモンは何度も見てきた。


 けれど今は違う。


 ルシルは自分が休みたいときに休みたいと言い、行きたい場所を話し、分からないことがあれば仲間へ相談する。


 それは、王位を手放して旅に出たからこそ得られた自由なのかもしれなかった。


(ルシル様がこうして自然に笑っていられるなら、私もその時間を大切にしたいですね)


 シモンは静かに微笑んだ。


 モモは彼の表情を見て、嬉しそうに頷いた。


     ◇


 短い休憩を終えたあと、三人は再び馬車を進めた。


 ルシルの眠気は少し和らぎ、手綱を握る手にも落ち着きが戻っている。


 トルクとベルクも休憩を取ったことで、穏やかな足取りを保っていた。


 午後の道は、午前中よりも少し起伏が増えていた。


 緩やかな坂を上り、低い丘の間を抜ける。


 道幅は十分にあるものの、ところどころに小さな石が転がっているため、ルシルは車輪の位置に注意しながら進んだ。


 シモンは道の先を見つめ、少し考え込んだ。


「ルシル様、この先に、行きにも見た大きな石があったはずです。記録では、その近くで一度休憩を取っています」


「そうだったね。あの石なら、僕も覚えてるよ」


 ルシルは頷いた。


 モモも窓から顔を覗かせた。


「大きな石? あっ、もしかして、横から見るとパンみたいな形の石?」


 その言葉に、ルシルは思わず笑った。


「モモは本当に食べ物に例えるのが上手だね」


「だって、そう見えたんだもん!」


 モモは少し頬を膨らませたあと、すぐに笑った。


 シモンも穏やかに頷いた。


「確かに、丸みのある石だったと思います。ただ、記録には形までは書いていませんでしたね」


「じゃあ、わたしの旅帳面の方が詳しいところもあるかもしれないね!」


 モモは嬉しそうに笑い、旅帳面を開いた。


 ページをめくると、以前描いた大きな石の絵が見つかった。


 丸みのある形が、たしかにパンのようにも見える。


 ルシルはそれを見て、笑顔を浮かべた。


「本当だ。これなら、見つけたときにすぐ分かりそうだね」


 モモは得意そうに頷いた。


「えへへ。じゃあ、探してみよう!」


 三人は道の先を眺めながら、馬車を進めた。


     ◇


 しばらくすると、道の左側に大きな石が見えてきた。


 モモは真っ先に気づき、嬉しそうに声を上げた。


「あった! あの石だよ!」


 ルシルは笑いながら頷いた。


「本当だ。ちゃんと覚えてたんだね」


「もちろん! だって、パンみたいだったもん!」


 モモは得意そうに笑った。


 シモンは周囲の道を確かめ、少し考えたあと口を開いた。


「この辺りまで来たなら、今日はもう少し先へ進めそうですね。ただし、日が傾き始めていますから、休憩場所を探すことも考えなければなりません」


「うん。昨日みたいに、暗くなる前に決めたいね」


 ルシルは頷いた。


 大きな石の近くには、馬車を止められそうな場所もあった。


 ただし、地面の一部には小石が多く、長く休むには少し落ち着かないかもしれない。


 シモンは周囲を見回し、慎重に判断した。


「ここで短く休むことはできそうですが、今夜の野営場所としては、もう少し条件のよい場所を探した方がよいかもしれません」


「そうだね。まだ明るいし、少し先まで見てみようか」


 ルシルが答えると、モモも頷いた。


「うん! でも、いい場所がなかったら戻ってこようね」


 その言葉に、シモンは穏やかに微笑んだ。


「ええ。候補を一つ確保しておけば、無理に先へ進まずに済みますからね」


 三人は石の位置を記録し、再び馬車を動かした。


     ◇


 午後の光が柔らかくなり始めた頃、道の先に低い木々が集まった場所が見えてきた。


 その手前には草の短い平らな地面があり、馬車を寄せられそうな余裕もある。


 ルシルは速度を落とし、シモンへ顔を向けた。


「あそこはどうかな。さっきの石のところより、休みやすそうに見えるけど」


「そうですね。近づいて地面を確かめてみましょう」


 シモンは頷いた。


 馬車を安全な場所で止め、三人は周囲を確認した。


 地面は比較的固く、大きな窪みも見当たらない。


 木々は少し離れた場所にあり、枝が馬車の上へ大きく伸びているわけでもなかった。


 ただし、水場が近くにある様子はない。


 シモンは残量を確かえ、ルシルへ顔を向けた。


「今夜もここで休むことはできそうです。ただ、水の補給はできませんから、明日の行程では補給先を優先して考える必要があります」


 ルシルは静かに頷いた。


「うん。今日はここまでにしよう。これ以上進んで、暗くなってから場所を探すのは避けたいし」


 モモも笑顔で頷いた。


「わたしも賛成! 今日は古い轍も見つけたし、大きな石も見られたし、十分楽しかったよ!」


 シモンは穏やかに微笑んだ。


「では、今夜はここで休みましょう。明日は水の残量を改めて確認し、補給できる場所について慎重に考える必要がありますね」


「うん。三人で相談しよう」


 ルシルは答え、トルクとベルクのところへ向かった。


 今日も二頭はよく歩いてくれた。


 ルシルは首筋を撫でながら、静かに声をかけた。


「ありがとう。今日も無事に進めたね」


 トルクは鼻を鳴らし、ベルクも穏やかに耳を動かした。


 夕方の風が草地を渡り、木々の葉を揺らしている。


 ルシルはその音を聞きながら、今日の道を思い返した。


 朝露の光る草地。


 古い轍。


 パンのような形の大きな石。


 そして、三人で相談して決めた今夜の休憩場所。


 どれも、旅の途中で出会った小さな出来事だった。


 けれど、その一つ一つが、ルシルにとっては大切な思い出になっている。


(明日は、どんな道になるんだろう。まだ分からないけど、きっとまた何かを見つけられるんだろうな)


 ルシルは小さく微笑んだ。


 背後からモモの声が聞こえた。


「ルシル君! 今日の夕ご飯、どうしようか!」


 振り返ると、モモが嬉しそうに手を振っていた。


 その隣では、シモンが食料の袋を確かめている。


 ルシルは二人のところへ歩きながら、笑顔で答えた。


「そうだね。今日は水を大事にしたいから、あまり使わない料理にしようか」


「うん! でも、美味しいものがいいな!」


「もちろん。できる範囲で考えよう」


 ルシルが笑うと、シモンも穏やかに微笑んだ。


 三人は夕暮れの草地で、今夜の食事について相談を始めた。


 ハルミナから戻る旅は、まだ続いている。


 次の水場がどこにあるのか、いつ大きな道へ戻れるのかは、まだはっきりしていない。


 それでも、ルシルは焦っていなかった。


 分からないことがあれば確かめ、無理な道なら引き返し、疲れたときには休む。


 その一つ一つを三人で選びながら進んでいくことが、今の自分たちらしい旅なのだと思えた。


 夕日の光が草地を包む中、ルシルたちは馬車のそばで、穏やかな夜を迎える準備を進めていった。

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