第144話「草原の夜、消した火の向こうに残るもの」
ハルミナから戻る道の途中、ルシルたちが今夜の休み場所に決めた草地には、日暮れを知らせる冷たい風が吹き始めていた。道の脇に寄せた四輪馬車の車体にはまだ夕日の赤みが残っていたが、低い木々の影はすでに車輪の下まで伸び、昼間に見つけた平らな地面も少しずつ色を失っている。
ルシルはトルクの首を撫で、続いてベルクの脚元を確かめた。二頭ともハルミナを出てから無理のない歩調を保っていたものの、宿の厩舎とは違い、今夜は屋根のない場所で休ませることになる。食事の前に落ち着ける場所を整え、夜間に綱が車輪や枝へ絡まないようにしておく必要があった。
「トルク、今日はよく頑張ってくれたね。ベルクもありがとう。ここでゆっくり休もう」
トルクは彼の掌に鼻先を押しつけ、餌袋のある方へちらりと目を動かした。ルシルが笑って「もう少し待ってね」と言うと、ベルクは隣で耳を動かし、まるでそのやり取りを見慣れているかのように静かに立っている。
馬車の反対側では、シモンが周囲の地面を慎重に踏み確かめていた。日中に停車を決めたときも一度確認しているが、夜のうちに馬が動いたり、雨が降ったりする可能性を考えれば、見落としがないかもう一度見る価値はある。
「ルシル様、馬車の左側は地面が固いままです。ただ、木に近い奥の方は落ち葉の下に窪みがありますから、暗くなってから歩かないようにしましょう。モモ嬢にも伝えておきます」
「ありがとう。僕もさっき、草の間に細い枝が隠れているのを見つけたよ。踏んで転んだら大変だから、寝る場所は馬車の近くにまとめた方がよさそうだね」
シモンは頷き、道の方へ視線を移した。今は通行人の姿も車輪の音もないが、ここは道端であって、三人だけの土地ではない。夜間に別の旅人が通る可能性を考え、馬車の位置を変えずに通行の余地を残しておくことも大切だった。
モモは少し離れた草の短い場所で、地面に落ちた小枝を拾い集めていた。白い外套の裾を片手で押さえ、もう一方の手で枝を一本ずつ確かめる姿は真剣そのものだが、拾ったものをすべて使うつもりではないらしい。湿った枝は脇へ置き、乾いたものだけを小さくまとめている。
「モモ、何をしているの?」
ルシルが声をかけると、彼女は顔を上げて微笑んだ。
「夕ご飯を温かくできるかもしれないと思って、近くの枝を見てたの。だけど、火を使っていいかはまだ分からないでしょう? だから、使えそうなのを少し分けてるだけだよ」
「助かるよ。でも、草の深いところには入らないでね。ここは昼間に見た場所でも、暗くなると同じようには歩けないから」
「うん、分かってる。さっきね、あの木の下にいっぱい枝が落ちてたけど、根っこの周りが暗かったから行かなかったんだ」
モモが指さした先には、幹の曲がった低木が一本立っていた。根元は落ち葉に覆われ、たしかに離れた場所からは地面の形が分かりにくい。ルシルがその判断を褒めると、モモは少し照れくさそうに笑い、拾った枝を抱えて馬車の方へ戻ってきた。
シモンは二人が揃ったところで、今夜の準備について話し始めた。
「まず、飲み水と馬たちに使う水を分けておきましょう。そのうえで夕食に使える量を決めます。火を使うなら、消すための水も確保しなければなりません。温かい食事はありがたいですが、水を使い切ってしまっては意味がありませんから」
ルシルは荷台に積んだ容器へ目を向けた。ハルミナで補給してきた水はあるが、明日の途中で確実に汲める場所が分かっているわけではない。来た道を戻っているとはいえ、次の水場がいつでも使えるとは限らず、三人と二頭が必要とする量を軽く考えることはできなかった。
「それなら、まず残りを一緒に確かめよう。温かいものが作れそうなら作るし、難しければパンと保存食でもいい。僕はどちらでも嬉しいよ」
「わたしも、温かいご飯は食べたいけど、トルクたちのお水がなくなるのは困るな。あと、明日の朝に飲む分も必要だよね」
モモが言うと、シモンは柔らかく頷いた。
「ええ。ですから、食事のことだけを考えずに決めましょう。今夜を楽しく過ごすためにも、明日の朝に困らない準備が必要です」
三人は馬車の荷台から水容器を下ろし、蓋を開けずに重さと記録を照らし合わせた。シモンは移動前に確認した量と、昼間の休憩で使った分を帳面で確かめ、ルシルは今夜の馬の世話に必要な分を考える。モモは横で話を聞きながら、食事に使える水が想像していたほど多くないことに気づいた。
「宿にいると、お鍋いっぱいのお湯って普通に使える気がしてたけど、外だと違うんだね。お料理のあとに器をきれいにすることまで考えないといけないんだ」
「そうだね。僕も、今までは出された料理を食べることの方が多かったから、準備の大変さをまだ全部は分かっていないと思う」
ルシルがそう答えると、シモンは手元の帳面を閉じた。残量を踏まえれば、小鍋で野菜を温める程度なら無理なくできそうだったが、乾燥豆を一から柔らかく煮るには時間も水も必要になる。今夜は豆を使わず、保存していた野菜の一部と少量の水で、パンに添える温かな煮込みを作ることになった。
ただし、火を使う場所の確認はまだ残っていた。シモンは三人で草の少ない地面へ移動し、周囲に枯れ草が溜まっていないか、風が急に強くなっていないかを確かめる。火のそばには水と土を用意し、食事が終わったら完全に消すことを約束してから、ようやく調理の準備を始めた。
◇
鍋を据えるまでの作業は、モモが想像していたよりも手間がかかった。宿の厨房なら調理台があり、使う道具もすぐ手の届くところに揃っているが、野営では小さな器一つを出すにも荷物の順番を考えなければならない。鍋を置く場所を整えたあとも、食材を地面へ直接置かないよう布を敷き、使い終えたものを戻す位置まで決める必要があった。
「なんだか、食べる前からお仕事がいっぱいだね。でも、みんなでやるとちょっと楽しいかも」
モモは野菜を並べながら笑った。ルシルはその隣で小さな容器の蓋を閉め、使う分だけ取り分けた食材を鍋のそばへ寄せている。
「僕はまだ、どの道具がどこにあるか迷うことがあるよ。シモンはよく覚えてるね」
「覚えているというより、毎回同じ場所へ戻すようにしているだけですよ。慌てているときほど、探し物に時間を取られたくありませんから」
シモンはそう言って、ルシルが置きかけた小さな布袋の位置を少し直した。注意するような声ではなく、次に使うときに取りやすい場所を示す仕草だったため、ルシルも素直に頷いて袋を収め直す。
「なるほど。じゃあ、僕も置き場所を覚えておこう。毎回シモンに聞いていたら、いつまでたっても上手になれないものね」
「聞いていただくのは構いません。ただ、ルシル様がご自身でできることを増やしたいとお考えなら、私もお手伝いします」
その返事を聞いて、モモは二人の顔を交互に見た。
「じゃあ、わたしも! 今度からお料理の道具をしまうときは、どこに何があるか一緒に確認したいな。美味しいご飯を作る係だけじゃなくて、ちゃんと片づける係にもなりたい!」
「それは頼もしいですね。ただし、モモ嬢はすでに食事の味見係を希望されているようでしたが、兼任でよろしいのですか」
シモンが少し真面目な顔で尋ねると、モモは一瞬だけ言葉に詰まり、それから胸を張った。
「もちろん! 味見は大切なお仕事だもん。でも、味見ばっかりして、お料理がなくならないように気をつけるよ!」
ルシルは笑いながら野菜を鍋へ移した。モモの言い方には思わず突っ込みたくなる部分もあったが、彼女が何かを手伝おうとするときの真剣さは本物だ。食べることが好きだからこそ、作る人の苦労や片づけまで知りたいと思っているのだろう。
火は必要以上に大きくせず、小鍋の底を温める程度に保った。乾いた枝がぱちりと音を立てるたび、シモンは風向きと周囲を確かめ、ルシルは鍋の位置を調整する。モモは少し離れた安全な場所から湯気を眺め、野菜の匂いが立ち始めると、期待を隠しきれない様子で鼻を動かした。
「いい匂いがしてきたね。ハルミナで食べた煮込みとは違うけど、これはこれで美味しそう」
「宿の料理と比べたらずいぶん簡単だけど、今夜は温かいものを食べられるだけでありがたいね」
ルシルが言うと、モモは頷いた。ハルミナの《旅人の休み家》で出された食事は、温かい器を運んでもらい、食べ終われば片づけてもらえるものだった。今はその一つ一つを自分たちで行っているから、同じ温かさでも少し違った意味を持って感じられる。
シモンは鍋の中を確かめ、火の通り具合を見てから頷いた。
「もう少しでよさそうです。パンを分けておいていただけますか。今夜の分を取りすぎると明日の昼に響きますから、残りは袋へ戻しておきましょう」
「任せて。モモ、僕が切り分けるから、お皿をお願いできる?」
「うん! 今日はおかわりの前に、明日の分が残ってるかちゃんと考えるね」
モモは明るく答えたが、その声には少し名残惜しさも混じっていた。ルシルは笑いをこらえながらパンを分け、残った分を包み直す。食べたい気持ちと、次の日に必要な分を残すことの両方を考えるのも、旅を続けるための小さな習慣だった。
やがて鍋を火から下ろすと、シモンは先に火を弱め、燃え残りが広がらないよう確かめた。三人は地面の乾いた場所に敷いた布のそばへ移動し、それぞれの器へ野菜を分ける。器から上がる湯気は夕方の冷たい空気に触れてすぐに薄くなったが、掌に伝わる温もりは確かだった。
「いただきます。トルクとベルクにも、あとで改めてお礼を言わないとね」
ルシルの言葉に、モモは笑顔で頷いた。
「そうだね。二頭が頑張ってくれたから、こうしてここまで来られたんだもん。じゃあ、わたしたちもちゃんと食べて、明日に備えなくちゃ!」
野菜は柔らかく、控えめな味つけでも十分に甘みが感じられた。パンを少し浸すと硬さが和らぎ、モモは目を細めてから、ゆっくりと噛みしめる。普段なら美味しさを大きな声で伝える彼女が、最初の一口をしばらく黙って味わっていたので、ルシルは少し不思議に思った。
「どうしたの、モモ。何か気になるところがあった?」
「ううん、逆だよ。すごく美味しいから、ちゃんと覚えておきたくて。さっきまでみんなで準備してたでしょう? だから、一口目がなんだか特別だったの」
モモは器を両手で包み直し、照れくさそうに笑った。ルシルはその言葉に納得して、自分の分をもう一口食べる。野菜の味そのものが突然変わったわけではないのに、火を起こす場所を選んだことや、道具を揃えたことまで思い出すと、温かな食事がいっそうありがたく感じられた。
シモンは二人の様子を見ながら、器を膝の上へ置いた。王宮で食事を取っていた頃は、料理が届くまでにどれだけの手間がかかったのか、考える余裕がない日もあった。もちろん厨房の人々への感謝は忘れていなかったが、自分で準備をすることで初めて気づくこともある。
(手間を知ることと、食事を楽しむことは、反対ではないのですね。むしろ今は、準備にかかった時間まで含めて、この温かさが嬉しいと思える)
シモンはその感覚をすぐ言葉にはせず、二人が話しているのを聞きながら、ゆっくりと食事を続けた。ルシルが器を持ち直すと、モモは昼間の木陰で描いた小さな花の話を始める。シモンは花の名前を断定できなかったことを思い出し、次に村へ立ち寄ったとき、詳しい人に尋ねるのも楽しみの一つかもしれないと提案した。
「それ、いいね! 名前が分かったら、あのページに書き足せるもん。だけど、聞く前に忘れないように、花の形をもっと丁寧に描いておけばよかったかな」
「今日の絵でも十分に特徴は残っていたと思うよ。分からなかったら、それはそれでいいんじゃないかな。名前を知らなくても、綺麗だったことは変わらないもの」
ルシルがそう言うと、モモは少し考えてから頷いた。彼女の旅帳面には、名前の分からない花や木がいくつも描かれている。以前なら空白を埋めたくなったかもしれないが、今は分からないまま残しておくことにも、旅の途中らしい楽しさがあるように思えた。
「じゃあ、名前を知る楽しみは、次にとっておくね。今日は『夕方に食べた野菜の煮込みが美味しかった』って書いておこうかな」
「それなら、火を使う前に水を確かめたことも添えておくと、次に役立つでしょうね」
シモンの言葉に、モモは笑った。
「シモン君は、ちゃんと役に立つことを忘れないね。わたしは美味しかったことを忘れないから、二人の記録を合わせたらすごく便利になりそう!」
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、いつか自分も帳面を持ちたいと思った昼間の会話を思い出した。まだ自分の帳面は持っていないし、何を書くのかも決めていない。それでも、同じ出来事を三人が少しずつ違う形で覚えていることが、今は面白かった。
◇
食事が終わると、夕空には紫がかった色が広がっていた。遠くの丘の輪郭は薄くなり、道の先も次第に見通しが悪くなっている。ルシルは使い終えた器を集め、シモンは火の始末に取りかかった。
モモは残った水を気にしながら、器の汚れを布で拭き取った。宿にいるときのようにたっぷり洗い流すわけにはいかないため、食べ残しを出さず、使った道具をできるだけ汚さないことも大切になる。シモンは衛生のために必要な分の水を惜しまず使い、洗い終えた道具を清潔な布の上へ並べた。
「思っていたより、お片づけにも時間がかかるんだね。ご飯を食べたらすぐ休めると思ってたけど、まだやることがあるんだ」
「そうだね。でも、片づけを終えてから休んだ方が、夜中に何か探すことにならなくて済むと思うよ」
ルシルはそう言いながら、鍋をしまう場所をシモンに確かめた。シモンはいつもの位置を示し、鍋が完全に冷めていることを確認してから収めるよう伝える。ルシルが自分で片づけを終えると、モモは小さく拍手した。
「ルシル君、もう道具の場所を覚えたの? わたし、次は鍋を出すところからやってみたいな」
「僕も一度で全部覚えられるわけじゃないよ。でも、次に使うときには、今日より少し早く準備できるかもしれないね」
その言葉に、シモンは微笑んだ。二人ができることを増やすたびに、自分の仕事が奪われるような気持ちになることはなかった。むしろ、三人で旅を続けるための負担が少しずつ分かち合われていることに、静かな安堵を覚えていた。
火の始末は慎重に行われた。シモンが燃え残りを崩し、ルシルが用意した水を少しずつかけ、熱が残っていないか時間をかけて確かめる。モモも離れた場所から周囲を見回し、風に飛ばされた火の粉がなかったかを確認した。
火を完全に消したあと、草地にはさっきまでの温かな明かりがなくなった。代わりに、頭上の空が急に広く感じられ、低い木々の向こうには一つ、また一つと星が現れ始める。モモは道具を片づけた手を膝の上で重ね、しばらく黙って空を見上げていた。
「火が消えると、急に夜になったみたいだね。さっきまではここが明るかったから、あんまり気づかなかった」
「そうだね。宿の灯りがない場所だと、暗さがよく分かるよ。でも、その分、星も見やすいのかもしれない」
ルシルは隣に立ち、同じ空を見上げた。王宮の庭でも星を見ることはできたが、あの頃は建物の窓から漏れる光や、夜間も働く人々の足音がいつも近くにあった。今は馬の鼻息と草を揺らす風が聞こえるだけで、夜の広さがそのまま自分たちを包んでいるようだった。
シモンは少し離れた場所で荷物の固定を確かめ、二人が空を見ていることに気づくと手を止めた。夜空を眺める時間を持つことは、野営の安全確認とは別の話だ。しかし、明るいうちに必要な準備を終えた今なら、ほんの少し立ち止まる余裕がある。
「今日は空がよく見えますね。雲が薄いのでしょう。ただ、夜間に天候が変わることもありますから、寝具は濡れにくい場所へまとめておきましょう」
「うん。シモンも一緒に見ようよ。準備はだいたい終わったんでしょう?」
ルシルが誘うと、シモンは一度馬車へ目を向けてから頷いた。三人が並んで立つと、モモは星の数を数えようとして、すぐに諦めたように笑った。
「いっぱいありすぎて、どこまで数えたか分からなくなっちゃった。昼間はあんなに明るかったのに、同じ空にこれだけ星があるんだね」
「そうだね。見えないときにも、きっとそこにあるんだろうな」
ルシルは何気なく答えたが、言葉にしたあとで少しだけ考え込んだ。目に見えているものだけが、すべてではない。旅の途中で出会った人々も、今は姿が見えなくても、それぞれの場所で暮らしを続けているはずだった。
ハルミナのマリナは、今頃宿の戸締まりをしているだろうか。共同窯のエルナは明日のパンの準備をしているかもしれないし、井戸番のバルドは今日も村の人々が使う水のことを気にかけているのかもしれない。確かなことは分からないが、村を離れたからといって、そこで過ごした時間が消えてしまうわけではなかった。
(僕たちが旅を続けている間も、あの村ではいつもの明日が来るんだろうな。いつかまた訪ねることがあったら、今度はどんな話ができるだろう)
ルシルは小さく息を吐き、モモへ目を向けた。彼女は星を眺めながら、今日描いた木のことを思い出しているらしい。昼間の休憩場所を「名前が分からなくても特別な木になった」と言っていたことが、ふと胸に浮かんだ。
「モモ、あの大きな木の絵、明日も描き足すの?」
「ううん、明日は明日の景色を描きたいな。今日の木は、今日見たまま残しておこうと思うの。あとから見たら、あのときの気持ちも思い出せる気がするから」
モモの返事は、ルシルが予想していたものとは少し違っていた。彼女は旅帳面を丁寧に仕上げることを楽しんでいるが、すべての絵を完璧にしようとしているわけではない。描ききれなかった部分も含めて、その日の記録として大切にしたいのだろう。
「それ、いい考えだね。僕も自分の帳面を持つなら、きれいな文章にしようと考えすぎない方がいいのかもしれない」
「うん! ルシル君が何を書いても、わたしは読んでみたいな。でも、誰にも見せたくないことを書いてもいいと思うよ。自分の帳面なんだから」
その言葉に、ルシルは一瞬だけ目を瞬かせた。モモは何気なく言っただけなのだろうが、自分だけの帳面という響きには、少し不思議な重みがあった。
旅の途中、ルシルの頭には、ときどき説明のつかない光景が浮かぶことがある。白い部屋や、見慣れない箱を思わせるもの、言葉の意味をつかみきれない記憶の断片。今夜はそれらがはっきり現れたわけではないが、誰にも話していないことを自分の言葉で書き留める場所があれば、いつか役に立つかもしれないと思った。
(まだ、何を書けばいいのかも分からない。だけど、忘れたくないことと、うまく説明できないことを分けて残しておくのは、悪くないかもしれないな)
ルシルはその考えを口には出さず、穏やかに笑った。
「ありがとう。いつかいい帳面を見つけたら、考えてみるよ」
モモは嬉しそうに頷き、また空を見上げた。シモンも二人の会話を聞いていたが、ルシルが自分の帳面を持ちたいと思っている以上のことは知らない。彼は無理に話へ踏み込まず、静かに夜空へ目を向けた。
◇
星を眺める時間が終わると、シモンは寝具を広げる場所について相談を始めた。馬車の荷台を使う部分と地面に敷く寝具を分け、夜露がかかりにくいように工夫する。三人とも屋外で眠ることに慣れてきたとはいえ、宿の寝台と同じように身体を休められるわけではないため、寒さや足元の状態には気を配らなければならなかった。
「ルシル様、今夜は地面から冷えが上がってきそうです。敷物を重ねた方がよいでしょう。モモ嬢も、外套を枕代わりにするなら、肩を覆うものを別に用意してください」
「分かった。僕は馬車の荷物を少し動かして、寝具を出しやすくしておくよ。モモ、手伝ってくれる?」
「もちろん! でも、重いものは二人で持とうね。さっきシモン君が言ってたみたいに、夜になってから怪我したら大変だもん」
ルシルは頷き、モモと一緒に寝具を運んだ。荷物を動かすときには、必要なものだけを取り出し、明日の朝に使う道具が下敷きにならないよう気をつける。シモンはその様子を見守りながら、二人が自分たちで相談して作業を進めるのを待っていた。
以前なら、シモンが最初から寝具の位置を決め、ルシルへ休むよう勧めていたかもしれない。しかし今は、彼が一人で全部を引き受けることが、必ずしも三人のためになるとは思っていなかった。ルシル自身が自分の寝床を整え、モモが使いやすいように荷物を動かすことも、この旅では自然な営みになりつつある。
寝具の準備が終わると、モモは腰を下ろして足を伸ばした。日中は馬車に乗っていた時間が長かったものの、休憩場所を探したり、夕食の準備をしたりした疲れが、落ち着いた途端に身体へ現れてきたらしい。
「ふう……。なんだか、今日はいっぱい動いた気がする。ずっと歩いてたわけじゃないのに、不思議だね」
「知らない場所で休む準備をするだけでも、考えることが多いからね。宿では気づかなかったことが、いろいろあるんだと思うよ」
ルシルは隣に腰を下ろし、靴の汚れを落とした。モモは頷きながら、草地の向こうに置かれた馬車を眺める。車体の窓には青波村で手に入れた青い風魚の布がかかっており、夜風に揺れるたび、小さな影が布の上を横切っていた。
「あの布、こうして見ると本当にきれいだね。昼間は青い色がよく見えるけど、夜は形の方が目立つみたい」
「そうだね。青波村にいたときのことを思い出すよ。あの頃は、こんな草地で夜を過ごすなんて考えていなかったな」
ルシルが笑うと、モモは旅帳面を膝に載せた。彼女はすぐに開こうとはせず、表紙の端を指先で撫でながら、しばらく考え込んでいる。
「ねえ、ルシル君。わたし、旅に出る前は、毎日新しいものを見つけられたら楽しいだろうなって思ってたの。でも、同じ道を戻ることになっても、全然つまらなくなかったね」
「うん。僕もそう思うよ。ハルミナの南の道は、先の様子が分からなかったから引き返したけど、あの選択が間違いだったとは思わない。こうして戻る途中にも、今日みたいな発見があるんだから」
モモは少しだけ目を細めた。南の丘の先へ行ってみたい気持ちが完全になくなったわけではない。けれど、狭くなった道や柔らかな路肩を見たとき、トルクとベルクに無理をさせてまで進みたいとは思わなかった。
「また別の機会に、あの先のことを知る人に会えるかもしれないもんね。今は戻るって決めたんだから、戻る道を楽しみたいな」
「そうだね。次に進む場所も、ちゃんと情報を集めてから三人で決めよう」
ルシルが答えると、モモは笑顔で頷いた。そのやり取りを少し離れた場所で聞いていたシモンは、記録の帳面を閉じ、二人の方へ歩いてきた。
「お二人とも、明日の道順について一つだけ確認してもよろしいですか。来た道を戻る方針は変わりませんが、出発の時刻は朝の状態を見て決めたいと思っています。馬たちの疲れが残っていれば、少し遅らせましょう」
「もちろん。僕も、その方がいいと思うよ。今日は無事にここまで来られたし、明日まで急ぐ理由はないものね」
「わたしも賛成! 朝ご飯を食べて、トルクたちの様子を見て、それから出発しようね」
シモンは頷いたが、表情にはまだ少し考え事をしている様子が残っていた。ルシルがそのことに気づいて尋ねると、彼はすぐには答えず、道の方へ一度目を向けた。
「気になることがある?」
「大きな問題ではありません。ただ、今夜のように宿のない場所で休むと、昼間よりも周囲の音が気になります。何かが近づいてきた場合に備え、三人とも一度は起きて様子を確かめられるようにしておきたいのです」
ルシルは頷いた。旅の途中で何度か野営を経験していても、すべての夜が同じように静かとは限らない。道を通る人がいるかもしれないし、草むらから小動物が出てくることもあるだろう。
「じゃあ、交代で様子を見よう。シモンだけがずっと起きているのは嫌だし、僕も自分の番を受け持ちたい」
「わたしも起きるよ。二人だけに任せて眠ってるのは、なんだか落ち着かないもん」
モモの言葉に、シモンは少し困ったように笑った。彼女が役割を持ちたいと考えていることは分かるが、夜間の安全を確かめることと、無理をして眠気に耐えることは別だ。三人で相談した結果、長時間の見張りを一人に任せるのではなく、休む時間を確保しながら短く交代することにした。
「異変があった場合は、一人で確かめに行かないこと。まずほかの二人へ知らせてください。何もなければ、必要以上に歩き回らず、馬車のそばから周囲を確認するだけで構いません」
「分かった。知らない音がしたからって、草むらへ見に行ったりしないよ」
モモは真面目な顔で頷いた。シモンはその返事を聞いて安心したように微笑み、ルシルも自分の番で確かめる場所を頭に入れる。星の明かりがあっても足元まで十分に見えるわけではないため、必要な灯りの位置も確認しておいた。
◇
夜が深まる前、ルシルは最後にトルクとベルクのところへ向かった。二頭は餌を食べ終え、落ち着いた様子で立っている。馬車の脇に固定した綱は長すぎず、かといって首を不自然に引っ張るほど短くもない状態で、周囲の枝へ絡む心配も少なかった。
ルシルが近づくと、トルクはゆっくりと顔を上げた。昼間のように餌をねだるのではなく、掌の匂いを確かめるように鼻先を寄せてくる。その温かな息が指先に触れ、ルシルは自然と表情を緩めた。
「もう夜だね。今日は宿の厩舎じゃないから、少し落ち着かないかな。でも、僕たちも近くにいるから、安心して休んでね」
トルクは返事の代わりに鼻を鳴らした。ベルクは隣で耳を動かし、暗くなった道の方へ一度だけ顔を向けたあと、また静かにしている。ルシルは二頭の様子を確かめながら、昼間に馬車を引いていたときの足取りを思い出した。
彼らが無理をしているかどうかを、人間の都合だけで判断するわけにはいかない。疲れている様子が目立たない日でも、次の日には休みが必要になることもある。ルシルは二頭の背を順番に撫で、明日の朝も時間をかけて状態を見ようと決めた。
馬車へ戻る途中、ルシルは足を止めた。低い木々の向こうから、かすかに何かが擦れるような音が聞こえた気がしたのだ。彼は反射的に暗い方へ目を向けたが、何が音を立てたのかは分からなかった。
(風で枝が触れ合ったのかな。それとも、小さな動物が草の中を通ったのかもしれない。でも、今は見に行く必要はないよね)
ルシルはシモンの言葉を思い出し、その場でしばらく耳を澄ませた。音は続かず、草の穂が揺れる気配だけが残っている。無理に確かめようとはせず、馬車のそばへ戻ってから、聞こえたことだけをシモンに伝えた。
「木の向こうで、枝が擦れるような音がしたんだ。何かは見えなかったし、今は静かになってる。念のため伝えておくね」
「ありがとうございます。風の音かもしれませんが、断定はできませんね。今夜は周囲を確かめる際、あちら側にも注意しておきましょう。ただし、確認のために近づく必要はありません」
シモンは落ち着いて答え、モモにも同じことを伝えた。モモは少しだけ表情を引き締めたものの、すぐに不安を大きくすることはなかった。三人で聞いた情報を共有し、どう行動するか決めたことで、かえって安心できたようだった。
「分かった。もしまた音がしても、一人で行かないね。ねえ、ルシル君。教えてくれてありがとう」
「ううん。何でもなかったら、それでいいんだよ。気づいたことを話しておいた方が、みんなで安心できると思ったから」
ルシルが答えると、モモは小さく頷いた。彼女は夜の草地を見回し、昼間に花を見つけたときとは違う静けさを感じていた。怖がるほどの出来事は起きていないが、知らない場所で眠るには、周囲へ気を配る必要があるのだと改めて思う。
シモンは二人が寝具へ戻ったことを確かめ、手元の灯りを調整した。必要以上に明るくして遠くから目立つことは避けたいが、足元が見えないまま動くのも危険だ。三人は灯りをすぐ使える位置に置き、暗い場所へ不用意に踏み込まないことをもう一度確認した。
◇
最初に休む時間になったモモは、寝具へ身体を預けたあとも、しばらく眠れずにいた。疲れていないわけではないのに、草が揺れる音や、馬がときどき鼻を鳴らす気配が気になってしまう。宿では聞き慣れなかった音が、今夜はすぐ近くから届いていた。
彼女は身体を起こし、馬車のそばで周囲を見ていたルシルへ小さく声をかけた。
「ルシル君、まだ起きてる?」
「うん。どうしたの、モモ。寒い?」
「寒いのも少しあるけど、それより、音がいっぱい聞こえるなって思って。怖いわけじゃないんだけど、寝ようとすると気になっちゃうの」
ルシルはモモの寝具のそばへ移動し、少し距離を置いて腰を下ろした。彼女が寒さで身体を縮めていないか確かめ、必要なら上掛けを増やせることを伝える。モモは首を振り、膝の上へ両手を重ねた。
「大丈夫。さっきより暖かくなったよ。ただ、宿の夜って、誰かが廊下を歩く音とか、厨房の片づけの音がするでしょう? ああいう音がないから、逆に草の音が大きく聞こえるのかもしれないね」
「そうかもしれない。僕も最初は、宿と違う音ばかり気になったよ。でも、トルクたちが近くにいるのが分かると、少し落ち着く気がするんだ」
ルシルが馬の方へ目を向けると、モモもつられて振り返った。暗がりの中で二頭の姿ははっきり見えないが、ときおり聞こえる鼻息から、静かに休んでいることが分かる。モモはその音を聞いて、ようやく肩の力を抜いた。
「そっか。知らない音ばっかりじゃなくて、知ってる音もあるんだね。トルクがご飯を欲しがるときの音なら、わたしもすぐ分かるのに」
「今はご飯を欲しがっていないみたいだけどね。明日の朝になったら、また真っ先に餌袋を見つめるかもしれないよ」
モモは声を抑えて笑った。笑ったあとで寝具へ横になると、さっきまで気になっていた草の音も、少し違って聞こえるようになった。すべての音の正体が分かったわけではないが、分からないものを無理に確かめなくても、仲間が近くにいるという事実が心強かった。
「ねえ、ルシル君。明日の朝、またパンを食べるのかな」
「たぶんね。残りの食料を見ながら決めよう。温かいお茶を用意できたら、シモンも喜ぶかもしれないね」
「うん。じゃあ、わたしも朝の準備を手伝う。……でも、その前にちゃんと寝なくちゃだね」
モモはそう言って目を閉じた。ルシルは彼女が落ち着いたことを確かめ、静かに立ち上がる。寝具のそばには旅帳面が置かれており、表紙の角が薄い灯りを受けていた。
彼はそれを見て、昼間に自分の帳面の話をしたことを思い出した。まだ何も書いていない自分にも、今日だけで残しておきたいことがいくつもある。小さな木陰で食べたパン、名前の分からない花、夕食を作るときに使った水の量、そしてモモが「知ってる音もある」と気づいたこと。
(忘れないうちに書きたいことは、思っていたより多いのかもしれない。いつか帳面を手に入れたら、まずは今日みたいな一日から書いてみようかな)
ルシルはそんなことを考えながら、馬車の周囲へ目を向けた。遠くの道には人影がなく、草地にも大きな変化は見られない。彼は決められた範囲で周囲を確かめ、次の交代まで静かに過ごした。
◇
やがてルシルがシモンを起こす時間になった。シモンはすぐに身体を起こしたが、眠りが浅かったのか、眼鏡をかける前に一度だけ目元を押さえた。ルシルはその様子を見て、少し心配になった。
「シモン、まだ眠そうだね。僕はもう少し起きていられるから、休んでいてもいいよ」
「ありがとうございます。しかし、ルシル様もお休みになる必要があります。私は十分に休めていますから、予定どおり交代しましょう」
シモンは落ち着いて答えたものの、ルシルはすぐには引き下がらなかった。彼が疲れていても平気だと言う癖は、旅を始める前から知っている。今夜の見張りを一人で引き受けようとするつもりはないだろうが、無意識に自分の休息を後回しにしている可能性はあった。
「分かった。でも、何かあったら必ず起こしてね。僕だって仲間なんだから、シモンだけが責任を持つ必要はないんだよ」
シモンは少し驚いたようにルシルを見つめた。かつての主君に、これほど自然な口調で自分の休息を気遣われることには、今でも慣れない部分がある。それでも、その言葉を拒む理由はなかった。
「承知しました。異変があれば、すぐにお知らせします。ですから、ルシル様も安心してお休みください」
ルシルが寝具へ戻ると、シモンは灯りを確かめ、馬車のそばから道の方を眺めた。夜風は少し冷たいが、強くはない。先ほどルシルが聞いたという木の向こうの音も、今は続いていなかった。
シモンは腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。静かな夜には、昼間に考えなかったことまで頭に浮かんでくる。今後どの道を選ぶのか、次の村までに水を補給できるのか、馬たちを十分に休ませられるのか。旅の安全を預かる立場として、気になることは尽きない。
だが、そのすべてを今夜のうちに決める必要はなかった。道の先に確かな情報がない以上、夜の暗がりで地図を眺め続けても、分からないことが突然分かるわけではない。明るくなってから地面を見て、二頭の状態を確かめ、三人で相談すればよいのだ。
(私が先に答えを用意しなくても、ルシル様とモモ嬢は一緒に考えてくださる。あの方々がそうしてくださることを、もっと信じてもよいのでしょう)
シモンは眼鏡の位置を直し、静かに息を吐いた。危険を見落とさないことと、すべてを一人で抱えることは同じではない。今日、二人が水の残量を確認し、火の後始末を手伝い、夜の過ごし方を自分たちで考えたことが、その違いを教えてくれていた。
しばらくして、寝具の方から小さな寝返りの音がした。シモンが振り返ると、モモが上掛けを少し引き寄せ、また静かになった。ルシルも目を閉じており、二人の呼吸は穏やかだった。
シモンは二人を起こさないように視線を戻した。馬車の窓にかかった青い風魚の布が、かすかな風で揺れている。旅を始めた頃には、あの布も単なる旅先の品物だったが、今では車体の一部としてすっかり馴染んでいた。
王宮を離れたルシルが、こうしたものを大切にすることを、シモンはよく知っている。高価な装飾品でなくても、誰かと選び、どこかで出会った品には、それぞれの時間が宿るのだろう。シモン自身も、そうした小さな記憶を以前より大事に思うようになっていた。
◇
夜の後半、モモが交代のために起きたとき、空には雲が少し流れ始めていた。星はまだ見えているが、先ほどより暗い部分が増え、草地の輪郭も曖昧になっている。シモンは彼女が寝具から出る前に、足元へ灯りを向けた。
「モモ嬢、起きられますか。眠気が強いようでしたら、無理に交代しなくても構いませんよ」
「大丈夫。ちゃんと起きられるよ。……でも、ちょっと寒いから、上掛けを一枚持っていってもいい?」
「もちろんです。身体を冷やさないようにしてください。確認するのは馬車の周囲と道の見える範囲だけで十分ですから、遠くまで歩く必要はありません」
モモは頷き、上掛けを肩に掛けて馬車のそばへ座った。シモンは異変がなかったことと、雲が増えてきたことを伝え、少し離れた寝具へ戻る。彼が横になるまで見届けたあと、モモは夜の草地へ目を向けた。
昼間、彼女は木陰で花を描き、食事のときにはパンの味を楽しんだ。夜になると、同じ旅の中でも気にすることが変わる。草の音や空の雲、馬たちの動きに注意を向けながら、仲間が安心して眠れるようにしたいと思う。
(わたし、旅って楽しいことばかり探すものだと思ってたけど、みんながちゃんと休めるようにするのも大事なんだね。ルシル君とシモン君が起きてくれてた時間、わたしは安心して眠れたんだから)
モモは膝の上で手を重ね、静かに息を整えた。特別な力を使う必要はないし、何かを解決しなければならないわけでもない。ただ、決められた範囲を確かめ、変わったことがあれば仲間に伝える。それだけでも、三人の旅を支える役割になる。
しばらくすると、トルクが小さく鼻を鳴らした。モモは顔を上げ、二頭の方へ目を向ける。トルクは落ち着いて立っており、ベルクも耳を動かしているだけで、慌てた様子はなかった。
「トルクも起きてるんだね。今日はいっぱい歩いてくれて、ありがとう」
モモは声を抑えて話しかけた。トルクが彼女の方へ顔を向けると、思わず笑みがこぼれる。今は餌を渡す時間ではないため、近づいて何かを与えることはせず、その場から様子を確かめるだけにした。
雲の切れ間から星が一つ見えた。モモはその光を眺めながら、昼間に描いた小さな花を思い出す。明日の朝、同じ草地がどんな色に見えるのか、少し楽しみになった。
やがて交代の時間が近づくと、モモは寝具のそばへ戻り、ルシルへ小さく声をかけた。彼は眠そうに目を開けたが、モモが無事に役目を終えたと聞くと、安心したように笑った。
「お疲れさま、モモ。何か変わったことはあった?」
「ううん。雲がちょっと増えたけど、トルクもベルクも落ち着いてるよ。道にも誰も来なかったし、変な音も聞こえなかった」
「教えてくれてありがとう。じゃあ、今度は僕が見るね。モモは暖かくして休んで」
モモは頷き、上掛けを整えて横になった。ルシルは彼女が眠れるように声を抑え、馬車のそばへ移動する。夜の空気はさらに冷たくなっていたが、東の空にはごく薄い明るさが滲み始めていた。
彼は道の方を眺め、まだ見えない先の景色を思った。ハルミナへ向かったときと同じ道を戻っていても、次の朝が昨日と同じになるわけではない。明日の天候も、馬たちの調子も、道で出会うものも、そのときになって初めて分かる。
それでも、今夜のように三人で準備をし、分からないことを分からないまま共有しながら進めばよい。ルシルはそう考え、眠る二人の方へ一度だけ目を向けた。
(王位を手放したとき、こんな夜を過ごすことになるなんて思っていなかった。でも、今はこの静けさが好きだ。誰かに決められた予定ではなく、僕たちで選んだ場所で、明日を待っていられるから)
夜が明けきるまでには、まだ少し時間があった。ルシルは馬車のそばに腰を下ろし、風の音を聞きながら周囲を確かめ続ける。空の端がわずかに明るくなる頃、トルクがゆっくりと首を動かし、ベルクもそれにつられるように耳を立てた。
ルシルは二頭へ静かに微笑んだ。今日はまだ始まったばかりで、どこまで進むかは決まっていない。まずは三人が起きて朝の空気を確かめ、二頭の様子を見てから、次の一歩を相談するつもりだった。




