第143話「帰り道の木陰で見つけた、小さな寄り道の楽しみ方」
ハルミナの屋根が木々の向こうへ隠れてからも、ルシルたちの馬車は穏やかな速度を保ちながら、来た道を進み続けていた。
午前中には薄く広がっていた雲が少しずつ形を変え、青空の見える場所が増えている。道の両側には背の低い草が広がり、ところどころに生えた木々が、午後へ向かう日差しの下で涼しげな影を落としていた。
ルシルは御者台で手綱を握りながら、トルクとベルクの歩調を確かめた。二頭は朝から落ち着いており、休憩のあとも無理のない足取りで馬車を引いているが、だからといって長く歩かせ続けてよいわけではない。
道の先に緩やかな曲がり角が見えてきたところで、隣に座るシモンが膝の上の記録を確かめた。
「ルシル様、先ほど休憩した場所から、またしばらく進みましたね。今のところ道の状態に問題は見られませんが、この先で昼食を取る場所を探しておいた方がよさそうです」
「うん、僕もそう思っていたところだよ。日差しも少し強くなってきたし、トルクたちが休める木陰があるといいね」
ルシルが答えると、シモンは前方へ目を向けた。
馬車の進む道は、二人が以前通ったときと大きく変わっていないように見える。ただし、進行方向が反対になっているため、木々の配置や地面の傾斜には、記憶と違って感じられる部分もあった。
シモンは道の先に見える大きな木を指さした。
「あの辺りなら、少し広くなっているようですね。近づいてから地面を確かめる必要はありますが、馬車を道の端へ寄せられるかもしれません」
「本当だ。じゃあ、あそこを目指してみようか」
ルシルは二頭へ穏やかに声をかけ、馬車を進めた。
車輪が土の道を転がる音に混じって、草むらから虫の声が聞こえてくる。遠くでは鳥が数羽、畑のように開けた場所の上を横切っていた。
馬車の中では、モモが窓の外を眺めながら旅帳面を開いていた。
ハルミナを出発してから、彼女は何度も後ろを振り返っていたが、村が見えなくなった今は、進む先にある景色へ興味を移しているらしい。
「ねえ、ルシル君! この辺り、来たときにも通ったはずなのに、全然違う場所みたいに見えるね!」
窓から顔を覗かせたモモが声をかけると、ルシルは前方から視線を離さないまま笑った。
「そうだね。あの木も、反対側から見ると枝の形が違って見えるよ。帰り道だから知っている景色ばかりだと思っていたけど、そんなこともないみたいだ」
「うん! それに、行きのときは村を探してたから、道の周りをこんなにゆっくり見てなかったのかもしれないね」
モモはそう言って、旅帳面へ視線を戻した。
ページの端には、午前中に見つけた木の形が小さく描かれている。その隣には、来たときと戻るときでは枝の重なり方が違って見えたことを示す、簡単な線も添えられていた。
モモにとって旅帳面は、単に景色を記録するためのものではなくなっていた。
道を確かめるための覚え書きもあれば、宿で食べた料理の感想もあり、出会った人々の表情を思い出しながら描いた絵もある。整った地図とは呼べない部分も多いが、その一冊を開けば、三人が何を見て、どんなことを考えながら歩いてきたのかが少しずつ分かるようになっている。
モモは新しいページを開き、窓の外に見える草地を眺めた。
(同じ道でも、こんなに違って見えるんだ。だったら、まだ知らない場所へ行くときだけじゃなくて、戻るときにも、いっぱい楽しいことがあるのかもしれないね)
そう考えると、彼女の頬は自然と緩んだ。
前方の木陰が近づいてきたところで、ルシルは馬車の速度を落とした。
大きな木の周囲には、道から少し離れた場所まで固い地面が続いている。ただし、草の伸びた奥の方は状態が分からないため、無理に入り込まず、車輪を置ける範囲を確かめながら進む必要があった。
シモンが先に降りて足元を確認し、馬車を寄せられる場所を示す。
「こちらなら大丈夫そうです。道を通る人の邪魔にもなりにくいでしょう。ただ、奥へは入れませんから、馬車はこの辺りで止めてください」
「分かった。ありがとう、シモン」
ルシルは二頭をゆっくりと誘導し、木陰の端に馬車を止めた。
トルクとベルクが落ち着いたことを確かめてから、三人は昼の休憩を始めることにした。
◇
木陰へ入ると、先ほどまで肌に感じていた日差しの強さが少し和らいだ。
木の枝は広く伸びているものの、地面をすべて覆い隠しているわけではなく、葉の隙間から落ちた光が、草の上に不規則な模様を作っている。風が吹くたびにその模様はゆっくりと形を変え、見上げれば、細い枝の間から青空が覗いていた。
ルシルは馬具の状態を確かめ、トルクとベルクが十分に休めるようにした。
シモンは水容器を取り出し、残量を確認する。馬たちへ与える分と三人が飲む分を考え、先の行程に支障が出ないよう慎重に扱っていた。
「朝の確認から大きく減ってはいませんが、今日は補給できる場所が確定しているわけではありません。ここで必要な分を使ったあとは、残りを記録しておきましょう」
「うん。水があるからって、気にせず使いすぎるのはよくないものね」
ルシルが答えると、モモも頷いた。
「わたしも気をつける! ハルミナでいっぱい補給できたから、なんとなく安心しちゃってたけど、次にどこで水をもらえるかは、まだ分からないんだよね」
シモンは柔らかな表情を見せた。
「そういうことです。ただ、今すぐ困るほど少ないわけではありませんから、必要な水を我慢することはありませんよ。節約と無理をすることは、別の話です」
その言葉に、モモは少しだけ目を丸くした。
「シモン君、最近そういう言い方をするようになったよね」
「どういう言い方でしょうか」
「ちゃんと気をつけるけど、我慢しすぎなくていいっていう言い方!」
モモが笑顔で答えると、シモンは一瞬だけ考え込み、それから小さく笑った。
「……確かに、以前の私なら、まず残量の話ばかりしていたかもしれませんね」
ルシルも思わず笑みを浮かべた。
「僕は、今のシモンの説明の方が好きだな。何を気をつければいいのか分かるし、必要以上に心配しなくてもいいって思えるから」
「そう言っていただけるなら、何よりです」
シモンは眼鏡の位置を整えながら答えた。
かつて王宮でルシルを支えていた頃、彼にとって失敗を避けることは、仕事の中心にあった。
限られた時間の中で予定を組み、問題が起きる前に対処し、必要なものを不足なく揃える。そうした習慣は今でも役立っているが、旅では予定どおりに進むことそのものが目的ではない。
ルシルもモモも、何かを急いで達成するために旅をしているわけではなかった。
それを理解してから、シモンは少しずつ、自分の言葉の選び方にも変化が生まれていることを感じていた。
(危険を避けることは必要です。しかし、危険を避けるために楽しみまで削ってしまっては、この旅の意味が薄れてしまうのでしょうね)
彼はそう考えながら、水容器の蓋を閉めた。
馬たちの世話が一段落すると、三人は木陰の中でも地面の乾いた場所を選び、持ってきた食料を広げた。
ハルミナで買った保存向きのパンと、残っている乾燥した食料の一部を昼食にする。温かな料理を作るための準備まではせず、今日は移動の合間に身体を休めることを優先するつもりだった。
モモはパンを手に取り、表面を眺めてから嬉しそうに笑った。
「エルナさんのパン、まだあるね! 今朝も食べたけど、こうして外で食べると、また違う感じがするんだよね」
「モモは本当にパンが好きだね」
ルシルが笑うと、モモは当然だと言わんばかりに胸を張った。
「だって、美味しいものは何回食べても嬉しいもん! それに、誰が作ってくれたかを知ってると、食べるときにその人の顔も思い出せるでしょう?」
その言葉に、ルシルは手元のパンへ目を落とした。
エルナが共同窯の前で笑いながら手を振っていた姿が、自然と頭に浮かんでくる。
あの村で過ごした時間はもう過ぎたものなのに、パンの香りを通して、今も三人の旅につながっているように感じられた。
「そうだね。エルナさんが焼いてくれたって分かるから、余計に美味しく感じるのかもしれない」
「でしょ! だからわたし、旅の途中で食べたものも、ちゃんと覚えておきたいな」
モモはそう言って、旅帳面の余白へ小さなパンの絵を描いた。
シモンはその様子を眺めながら、穏やかに口を開いた。
「それなら、食べた場所も一緒に記しておくとよいかもしれませんね。食料の記録にもなりますし、あとから見返したときに、その日の行程を思い出しやすくなるでしょう」
「いいね! じゃあ、この木も描いておこうかな」
モモは顔を上げ、頭上に広がる枝を見つめた。
ルシルもつられて空を見上げる。
風が葉を揺らすたびに、明るい空の形が少しずつ変わっていった。
◇
昼食を終えても、三人はすぐに出発しなかった。
トルクとベルクが十分に休めるようにするためでもあったが、木陰を抜けていく風が心地よく、もう少しこの場所にいたいと思ったことも理由の一つだった。
ルシルは木の幹から少し離れた場所に腰を下ろし、足を伸ばした。
モモは旅帳面を膝に置き、先ほどから描いていた木の絵へ細い枝を足している。シモンは馬車の近くで荷物の固定を確認していたが、作業を終えると二人のところへ戻ってきた。
「ルシル様、荷物に問題はありません。馬たちも落ち着いていますから、もう少し休憩してから出発してもよさそうですね」
「ありがとう。シモンも座って休もうよ。今日はまだ時間があるし、急いで進む必要もないでしょう?」
「そうですね。それでは、お言葉に甘えます」
シモンはルシルの隣へ腰を下ろし、上着についた小さな草を払った。
その様子を見ていたモモが、旅帳面から顔を上げる。
「ねえ、二人とも。ちょっと聞いてもいい?」
「もちろん。どうしたの?」
ルシルが答えると、モモは描きかけの木を指さした。
「この木って、名前があるのかな。村で見た木とは葉っぱの形が少し違う気がするんだけど、わたし、こういうのってあんまり詳しくないんだよね」
ルシルは木の幹を見上げた。
幹の表面には細かな筋があり、枝先には小ぶりな葉が密集している。
見覚えのある種類にも思えたが、正確な名前までは分からなかった。
「どうだろう。僕も見たことはある気がするけど、名前までは自信がないな」
シモンも葉の形を確かめてから首を振った。
「私も断定はできません。似た形の木はいくつかありますし、葉だけで判断するのは難しいでしょう」
「そっか。じゃあ、名前が分からないまま描いておこうかな」
モモは少し考えたあと、楽しそうに笑った。
「でも、それだと後で見返したときに、どの木だったか分からなくなっちゃうかな?」
「だったら、見た場所と特徴を書いておけばいいんじゃないかな。名前が分からなくても、何を見たかは残せると思うよ」
ルシルの提案に、モモは嬉しそうに頷いた。
「なるほど! じゃあ、『ハルミナから戻る道の大きな木』って書いておこう!」
彼女は旅帳面へ文字を記し、その下に小さな説明を書き足した。
葉の形、幹の色、木陰が広いこと。
さらに、三人が昼食を取った場所であることも添えた。
ルシルはその様子を見て、思わず笑みを浮かべた。
「こうして見ると、モモの旅帳面って、絵だけじゃなくて、いろんなことが分かるようになってきたね」
「えへへ。最初は、可愛い景色とか美味しいものを描きたいだけだったんだけどね」
モモは照れくさそうに笑った。
「でも、シモン君が道のことを記録してるのを見てたら、わたしもちゃんと残しておきたいって思うようになったの。だって、後で困ったときに役立つかもしれないでしょう?」
シモンは少し驚いたように目を瞬かせ、それから穏やかに微笑んだ。
「そう言っていただけるのは嬉しいですね。ただ、モモ嬢の帳面には、私の記録にはないものがたくさんあります。食事の絵や、その場で感じたことなどは、数字や道順だけでは残せませんから」
「本当?」
「ええ。私も、あとから見返したくなるような記録を残すことは、見習いたいと思っています」
モモは嬉しそうに笑い、旅帳面を胸元へ抱えた。
ルシルは二人のやり取りを眺めながら、ふと自分のことを考えた。
以前、旅の記録を自分でもつけてみようかと思ったことがあった。
けれど、まだ自分用の帳面を買ったわけではなく、何を書きたいのかもはっきり決めていない。
モモのように絵を描くことは得意ではないし、シモンのように道順を整理することにも慣れていなかった。
(僕が残したいのは、何だろう。見た景色かな。それとも、みんなと話したことや、そのときに感じたことなのかな)
ルシルは木漏れ日の揺れる地面を眺めた。
答えはすぐには出てこなかったが、急いで決める必要もないように思えた。
「僕も、いつか自分の旅帳面を持ってみようかな」
何気なく口にすると、モモがぱっと顔を上げた。
「いいね! ルシル君も描くの?」
「どうだろう。絵はあまり上手じゃないから、最初は文章になるかもしれないね」
「それでもいいと思う! ルシル君が見た景色って、わたしが見た景色とは少し違うかもしれないし!」
シモンも頷いた。
「ルシル様が何を記録したいと思われるのか、私も興味があります。ただ、無理に形を決める必要はありません。旅の途中でよい帳面に出会えたとき、考えてみるのもよいでしょう」
「うん。そうするよ」
ルシルは笑顔で答えた。
旅に出る前なら、何かを始めると決めた瞬間に、必要な道具や予定を揃えなければならないと思っていたかもしれない。
けれど今は、やってみたいと思ったことを胸に置いたまま、ちょうどよい機会を待つこともできる。
その気楽さが、ルシルには心地よかった。
◇
木陰で過ごす時間が長くなるにつれて、周囲の音にも少しずつ耳が慣れてきた。
最初は風と虫の声ばかりが聞こえていたが、しばらくすると、遠くで鳥が鳴く声や、草の間を何か小さな生き物が動く音も分かるようになってきた。
モモは描き終えた旅帳面を閉じ、木の根元から少し離れた草地を眺めた。
「ねえ、あそこに小さい花が咲いてるよ。白いのと、ちょっと黄色いのが混ざってるみたい」
ルシルも目を向けた。
道から離れすぎない場所に、背の低い草花がいくつか咲いている。
目立つほど大きな花ではなかったが、風が吹くたびに細い茎が揺れ、陽の光を受けて小さな花びらが輝いていた。
「本当だ。近くで見てみる?」
ルシルが尋ねると、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! でも、馬車からあんまり離れないようにするね」
シモンは周囲を見回し、穏やかに口を開いた。
「この辺りなら、馬車からも姿が見えますね。ただ、草の深いところには入らないでください。足元が見えにくい場所は避けた方がよいでしょう」
「分かった!」
モモは元気よく返事をし、ルシルと一緒に草花の方へ歩いていった。
近づいてみると、花は思っていたよりも小さかった。
白い花びらの中心には淡い黄色があり、隣には同じくらいの大きさの黄色い花が咲いている。葉の形も少しずつ違っていて、遠くから眺めたときには気づかなかった細かな特徴が見えてきた。
モモはしゃがみ込み、花へ顔を近づけた。
「可愛いね。ハルミナのお庭にもいろんな花があったけど、こういう小さい花も好きだなあ」
「うん。よく見ないと気づかないけど、ちゃんと咲いてるんだね」
ルシルは隣にしゃがみ、花を眺めた。
風が吹くと、花びらは小さく揺れた。
モモは摘み取ろうとはせず、旅帳面を開いて形を描き始めた。
「持って帰るより、ここで咲いてるところを描いた方がいいかなって思って」
「いいと思うよ。その方が、周りの草や土の感じも一緒に残せるものね」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに微笑んだ。
彼女が描いている間、ルシルは少し離れたところに座り、周囲を眺めた。
道の向こうには緩やかな丘があり、その斜面にはところどころ低い木が生えている。
南の丘へ向かったときには、先へ進めるかどうかを確かめることに気を取られ、こうして道端の花を眺める余裕はあまりなかった。
もちろん、あのとき慎重に行動したことは間違っていない。
ただ、今は別の時間が流れているのだと感じられた。
ルシルは小さく息を吐き、空を見上げた。
(こういう時間も、旅の大切な一部なんだろうな。何か特別なものを見つけなくても、立ち止まってみれば、ちゃんと楽しいことがあるんだ)
そのとき、モモが顔を上げた。
「ルシル君、ちょっと見て!」
差し出された旅帳面には、小さな花が二つ描かれていた。
線はまだ簡単なものだったが、花びらの形や葉の向きが丁寧に表現されている。
「すごいね。さっき見た花だって、すぐ分かるよ」
ルシルが褒めると、モモは嬉しそうに笑った。
「えへへ。あとで色をつけたら、もっと可愛くなると思う!」
「楽しみだね。ハルミナのページにも、また絵が増えそうだ」
モモは頷き、旅帳面を大切そうに閉じた。
その様子を少し離れた場所から見ていたシモンは、二人が戻ってくるのを待ちながら、馬たちの方へ目を向けた。
トルクは落ち着いて立っており、ベルクも穏やかな様子を保っている。
休憩としては十分な時間が取れたようだった。
◇
三人が馬車のそばへ戻ると、シモンは時刻と日差しの傾きを確かめた。
「そろそろ出発してもよさそうですね。今日はまだ先へ進めますが、日が暮れる前に休める場所を見つける必要があります」
ルシルは頷いた。
「うん。大きな道まで一気に戻ろうとしなくてもいいから、無理のないところで止まろう」
「そうですね。来た道だからといって、同じ日に同じ距離を進めるとは限りません。途中で見つけた場所の状態を確認しながら、判断していきましょう」
シモンはそう答え、馬具の状態を改めて確かめた。
モモは旅帳面をしまい、馬車の中へ乗り込んだ。
ルシルも御者台へ戻り、トルクとベルクへ声をかける。
二頭は落ち着いた足取りで歩き始め、馬車は木陰を離れていった。
道へ戻ると、先ほどまで休んでいた大きな木が少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
モモは窓からその姿を眺め、嬉しそうに笑った。
「ねえ、ルシル君。あの木も、次に通ったときには覚えていられるかな」
「きっと覚えていられると思うよ。お昼を食べて、花を描いた場所だものね」
「うん! それに、名前が分からなくても、わたしたちにとっては特別な木になったね」
ルシルはその言葉に微笑んだ。
確かに、あの木には特別な名前がついているわけではない。
けれど、三人が休憩し、食事を取り、旅帳面を開いた場所として、これからも思い出すことがあるだろう。
旅の思い出は、必ずしも大きな町や珍しい建物だけに残るものではないのだ。
馬車は緩やかな坂道へ差しかかった。
ルシルは二頭の歩調を確かめながら、慎重に手綱を扱う。
道幅は十分にあり、車輪が沈み込むような場所も見当たらなかったが、坂を上る間は二頭へ余計な負担をかけないよう、速度を落として進んだ。
シモンは道の端を確認しながら、静かに口を開いた。
「この辺りは、行きにも通った場所のはずですね。あの低い丘の形には見覚えがあります」
「うん。僕も覚えてるよ。あのときは、向こう側に村があるのかなって話してたんだよね」
ルシルが答えると、シモンは頷いた。
「そうでしたね。結局、ハルミナへ着くまで、道の先に何があるのかは分かりませんでしたが」
「でも、ちゃんと着けたね」
ルシルは笑った。
シモンも小さく微笑む。
「ええ。そして今は、その村を離れて戻っているわけですから、不思議なものです」
モモは二人の会話を聞きながら、窓の外へ目を向けた。
「行きは知らない場所へ向かってて、帰りは知ってる場所から離れていくんだね。でも、どっちも旅なんだなあ」
その言葉に、ルシルは静かに頷いた。
旅を続けるうちに、三人の中では「進む」という言葉の意味が少しずつ変わってきていた。
新しい土地へ向かうことだけが前進ではない。
安全な道を選び直すことも、見慣れた場所を別の角度から眺めることも、自分たちで決めた旅の一部なのだ。
◇
午後の日差しが少し傾き始めた頃、馬車は緩やかな坂を越え、見通しのよい道へ出た。
前方には草地が広がり、その向こうに低い木々が連なっている。
道は大きく曲がることなく続いていたが、遠くまで見渡せるわけではなかった。
シモンは周囲を確かめながら、ルシルへ声をかけた。
「この先で、今日の休憩場所を考え始めた方がよいかもしれません。まだ明るいとはいえ、馬車を安全に止められる場所がすぐ見つかるとは限りませんから」
「そうだね。少し先まで進んで、よさそうな場所があったら確かめよう」
ルシルは頷き、トルクとベルクの様子を見た。
二頭は疲れ切っている様子ではなかったが、朝から移動を続けている。
無理をすれば、まだ進めるかもしれない。
けれど、進めることと、進んだ方がよいことは同じではない。
ルシルはその違いを意識しながら、道の先を眺めた。
しばらく進むと、道の右側に少し広くなった場所が見えてきた。
周囲には背の低い草が生え、少し離れたところには木が数本立っている。
ただし、地面の状態は馬車の上からでは分からない。
「シモン、あそこはどうかな」
ルシルが尋ねると、シモンは目を細めた。
「候補にはなりそうですね。ただ、実際に停車できるかどうかは、近づいて確認する必要があります」
「うん。じゃあ、まずは様子を見てみよう」
ルシルは馬車の速度を落とし、道幅に余裕のある場所で一度止めた。
シモンが降りて周囲を確かめる間、ルシルは二頭を落ち着かせて待った。
モモも窓から顔を覗かせ、少し離れた場所に立つ木々を眺めている。
「ここ、さっきの木陰とはまた違う感じだね。草が少し長いし、風もよく通りそう」
「そうだね。でも、泊まるなら地面がしっかりしていることが大事だから、シモンの確認を待とう」
ルシルが答えると、モモは頷いた。
やがてシモンが戻ってきた。
「道に近い部分は比較的固いようですが、奥の方には少し柔らかい場所があります。馬車を置くなら手前に限られますし、周囲の安全ももう少し確認した方がよさそうです」
「分かった。じゃあ、ここで決めるのはまだ早いね」
「ええ。今のところ、ほかの場所を探す余裕もあります。もう少し先へ進んで、比較してから判断してもよいでしょう」
ルシルは頷き、再び馬車を動かした。
モモは少し考えたあと、旅帳面を開いた。
「じゃあ、ここは『休めそうだけど、まだ決めない場所』って書いておこうかな」
その言い方に、ルシルは思わず笑った。
「分かりやすいね。でも、ちゃんと理由も書いておくといいかもしれないよ」
「うん! 地面が柔らかいところがあるって、書いておくね」
モモは楽しそうに鉛筆を動かした。
シモンはその様子を見ながら、穏やかに微笑んだ。
旅の記録に、こうして小さな判断の理由が残っていく。
それは、次に同じ道を通るときだけでなく、別の道を選ぶときにも役立つかもしれなかった。
◇
さらに少し進むと、道の左側に低い木々が集まった場所が見えてきた。
その手前には、馬車を寄せられそうな平らな地面があり、草もそれほど深くない。
ルシルは周囲を見回しながら、シモンへ声をかけた。
「今度はどうかな。さっきの場所より、地面が見やすそうだね」
「そうですね。こちらも確認してみましょう」
馬車を安全な位置で止め、シモンとルシルは地面を確かめた。
モモも降りて、馬車から離れすぎない範囲で周囲を眺める。
地面には大きな窪みがなく、車輪が沈み込みそうな場所も見当たらなかった。
ただし、近くに水場があるわけではないため、持っている水の残量を踏まえて判断する必要があった。
シモンはしばらく考えたあと、ルシルへ顔を向けた。
「ここなら、今夜の休憩場所として検討できそうです。少なくとも、先ほどの場所より馬車を置きやすいと思います」
「うん。僕もそう思う。トルクたちも朝から歩いてくれたし、今日はここまでにしようか」
ルシルが言うと、モモは嬉しそうに頷いた。
「賛成! ここなら、夕方の景色も綺麗に見えそうだね!」
シモンは周囲をもう一度確かめ、穏やかに答えた。
「では、今夜はここで休むことにしましょう。ただし、まだ明るいうちに周囲を確認し、馬たちの世話と夕食の準備を済ませておきたいですね」
「うん。三人で分担しよう」
ルシルは笑顔で答えた。
こうして、その日の移動は終わることになった。
ハルミナを出発してから、まだ大きな道へ戻ったわけではない。
けれど、今日一日を無事に進み、休める場所を見つけられたことは、三人にとって十分な成果だった。
◇
馬車を安定した場所へ寄せると、三人はそれぞれの作業を始めた。
ルシルはトルクとベルクの様子を確かめ、馬具を緩めて休ませる準備をする。
シモンは水と食料の残量を確認し、今夜と翌朝に必要な分を考えた。
モモは周囲の草地を眺めながら、風が強く当たりすぎない場所を探していた。
「ねえ、ルシル君。こっちなら、少し木が風を遮ってくれそうだよ」
モモが声をかけると、ルシルは顔を上げた。
確かに、彼女が指さす場所には低い木々が並んでいる。
ただし、枝の下に近づきすぎると、風で落ちてくるものがないか気になるため、少し離れた位置を選ぶことにした。
「いいね。あの辺りなら、風を避けながら休めそうだ」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、わたしはそこを片づけておくね!」
「ありがとう。でも、無理に草を踏み分けたりしなくていいからね。足元を確かめながらお願いするよ」
「はーい!」
モモは元気よく返事をし、地面に落ちていた小枝を脇へ寄せ始めた。
シモンはその様子を見ながら、食料の入った袋を整理した。
「今夜は、保存している食材を使って簡単な食事にしましょう。火を使うかどうかは周囲の状態を見て判断しますが、温かいものを用意できるなら、その方が身体も休まるでしょう」
ルシルは頷いた。
「そうだね。ハルミナで買った豆や野菜もあるし、無理のない範囲で作れそうなら嬉しいな」
モモは二人の会話を聞き、ぱっと顔を上げた。
「温かいご飯! それなら、わたしも手伝いたい!」
「もちろん。三人で作ろう」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。
夕方の光は少しずつ柔らかくなり、草地の上には長い影が伸び始めていた。
遠くの丘は淡い金色に染まり、風が吹くたびに草の穂が揺れている。
ルシルは馬たちの世話を終えると、少し離れた場所に立ち、周囲の景色を眺めた。
ハルミナで過ごした朝は、もうずいぶん前のことのように感じられた。
けれど、実際には今日の朝まで、あの村にいたのだ。
旅の一日は、思っている以上にいろいろなものを見せてくれる。
ルシルはそのことを、改めて感じていた。
(今日は大きな出来事があったわけじゃない。でも、こうして振り返ると、ちゃんと楽しいことがたくさんあったな)
木陰で食べたパン。
名前の分からない木。
草の間に咲いていた小さな花。
そして、三人で相談しながら決めた今夜の休憩場所。
どれも特別な事件ではない。
それでも、ルシルにとっては大切な旅の一部だった。
背後からモモの声が聞こえた。
「ルシル君! こっち、準備できたよ!」
振り返ると、モモが笑顔で手を振っていた。
その隣では、シモンが食料の袋を置き、穏やかな表情でルシルを待っている。
ルシルは二人へ向かって歩き始めた。
「ありがとう。じゃあ、夕食の準備を始めようか」
「うん!」
モモは嬉しそうに頷いた。
シモンも静かに微笑み、三人は夕暮れの草地で、今夜の食事について相談を始めた。
来た道を戻る旅は、まだ続いている。
次にどこへ向かうのかも、いつ大きな道へ戻れるのかも、今ははっきり決まっていなかった。
それでも、ルシルは不安を感じていなかった。
目の前にある道を確かめ、仲間と話し合い、無理をせずに進んでいく。
その積み重ねが、自分たちらしい旅を作っているのだと、少しずつ分かってきたからだった。
夕暮れの光が草地を包む中、三人は今日の出来事を話しながら、穏やかな時間を過ごしていった。




