第142話「出発の朝に確かめたものと、振り返れば見えるハルミナの景色」
ハルミナの朝は、窓の外を通り過ぎる風の音とともに始まった。
旅人の休み家の二階には、まだ夜の冷たさが少し残っていたが、薄い雲の向こうから差し込む朝日が、床板の上に柔らかな明るさを落としていた。ルシルは寝台の上でゆっくりと目を開け、窓の向こうに見える空を眺めながら、昨夜までに整えた旅支度のことを思い出した。
今日は、ハルミナを出発するかもしれない日だ。
南の丘へ続く道を進むことは見合わせ、来た道を戻る方向で考えると決めてから、三人は食料と水を確認し、馬車の荷物を整理してきた。昨日のうちに必要な買い物も済ませているため、あとは天候とトルクたちの状態を確かめ、無理なく進めるかどうかを相談すればよかった。
それでも、ルシルはすぐに寝台から立ち上がることができなかった。
この部屋の窓から見える景色にも、すっかり馴染んでしまったからだ。
朝になると、庭の向こうにある木々の葉が風に揺れ、しばらくすると馬小屋の方から人の声が聞こえてくる。日が高くなれば共同窯の煙が村の空へ上がり、夕方には仕事を終えた人々が広場を行き交う。
最初にハルミナへ到着したとき、ルシルはそんな暮らしの一つ一つを珍しく感じていた。ところが今では、どこか懐かしいもののように思える。
(出発する前から、もう少しここにいたいなんて考えてしまうんだな。でも、それだけ楽しかったってことなんだろうね)
胸の内でそう呟いたとき、床に敷かれた寝具から衣擦れの音が聞こえた。
シモンが上半身を起こし、眼鏡をかけながらルシルへ顔を向ける。彼も窓から差し込む光に気づいたらしく、しばらく空を確かめてから穏やかに口を開いた。
「おはようございます、ルシル様。今朝は雨の音が聞こえませんね。もっとも、空の様子だけで判断するのは早いでしょうから、外へ出て風と地面の状態も確認したいところです」
「おはよう、シモン。うん、そうしよう。昨日のうちに準備はできたけど、今日出発するかどうかは朝になってから決める約束だったものね」
ルシルが答えると、シモンは小さく頷いた。
以前の彼なら、朝のうちに旅程を決定し、必要な作業を一人で進めようとしたかもしれない。けれど今は、ルシルとモモが起きてから相談することを当然のように受け入れている。
その変化は、ルシルにとって嬉しいものだった。
窓際の寝台では、モモが毛布を抱えたまま眠っていた。
桃金色の髪が枕の上に広がり、白い頬には朝日が細く差している。昨夜は旅帳面にハルミナの景色を描き足していたため、少し眠るのが遅くなったのかもしれない。
ルシルは彼女を起こさないように声を落とした。
「モモには、もう少し寝てもらおうか。朝食まで時間があるなら、僕たちだけで先に外を見てきてもいいし」
「そうですね。ただ、出発の判断は三人で行いましょう。まずは天候と馬たちの様子を確かめて、戻ってから相談するのがよいと思います」
シモンの言葉にルシルが頷いた、そのときだった。
「……わたしも行く……」
二人が振り返ると、モモが毛布の端から顔を出していた。
まだ少し眠たそうだったが、緑色の瞳はしっかりと二人を見つめている。
「おはよう、モモ。起こしちゃった?」
「ううん。二人が何か楽しそうな相談をしてるから、目が覚めちゃったの。わたしだけ置いていかれたら寂しいもん」
モモはそう言いながら身体を起こし、少し乱れた髪を手で整えた。
ルシルは笑って首を振る。
「置いていったりしないよ。天気とトルクたちの様子を見に行こうと思ってただけだから」
「それなら、わたしも一緒に行く! 今日は出発するかもしれないんだもんね。みんなの様子をちゃんと確かめたいな」
モモは寝台から足を下ろし、窓の外へ目を向けた。
薄い雲が流れる空は、昨日の夕方よりも明るく見える。遠くの木々はゆっくりと揺れていたが、枝が大きくしなるほどの風ではなかった。
「晴れてるみたいだけど、風は少しあるのかな。外へ出てみないと分からないね」
「うん。だから、まずは顔を洗ってから行こうか」
ルシルが答えると、モモは元気よく頷いた。
三人は身支度を整え、旅人の休み家の一階へ降りていった。
◇
食堂では、マリナが朝食の準備を進めていた。
厨房からは温かな麦の香りが漂い、卓の上には清潔な木の器が並べられている。窓の外では庭仕事を始めた人の足音が聞こえ、建物の中にも朝の暮らしが少しずつ広がっていた。
「おはよう。今日は早いのね」
マリナは三人の姿を見ると、鍋をかき混ぜる手を止めて微笑んだ。
「おはようございます。今日は出発するかもしれないので、その前に馬たちの様子を見てこようと思っています」
ルシルが説明すると、マリナは窓の方へ目を向けた。
「そう。今朝は雨が降っていないし、昨日より空も明るいわね。ただ、朝のうちは風が少し冷たいから、外へ出るなら上着を忘れないでね」
「ありがとうございます。朝食の前に、少しだけ見てきても大丈夫ですか?」
「もちろんよ。食事は戻ってから温かいものを出すわ。慌てなくていいから、馬たちのことを確かめていらっしゃい」
その言葉に、ルシルは礼を述べた。
モモも笑顔で頭を下げ、シモンは丁寧に挨拶をしてから入口へ向かった。
外へ出ると、空気は思っていたより冷たかった。
ルシルは上着の襟元を少し寄せ、庭の向こうに広がる空を見上げた。薄い雲はゆっくりと流れており、雨を含んだような重い色ではない。
地面も、昨日までの乾いた状態をおおむね保っている。
シモンは庭の土を確かめ、靴の裏に泥がつかないことを確認した。
「少なくとも、昨夜の間に強い雨が降った様子はありませんね。風も、馬車を動かすのに直ちに支障があるほどではなさそうです」
「うん。でも、途中で変わることもあるよね」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「ええ。天候は常に変わりますから、出発後も空の様子を見ながら進む必要があります。ただ、現時点では、天気を理由に出発を見合わせなければならない状態には見えません」
モモは二人の話を聞きながら、風に揺れる木々を眺めていた。
「昨日の夜は、ちょっと寂しい気持ちもあったけど……朝になると、また旅に出るのが楽しみになってくるね」
彼女はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。
ルシルも空を見上げた。
ハルミナで過ごした時間が大切だったことと、次の景色を見たいと思うことは、少しも矛盾しない。
そのことが分かるようになったのも、この旅で得たものの一つなのだろう。
◇
馬小屋へ近づくと、トルクが二人の気配に気づいたように耳を立てた。
栗毛の身体は朝の光を受けて柔らかく輝き、鼻先を柵の方へ寄せている。隣のベルクは落ち着いた様子で立っていたが、ルシルたちが近づくと、ゆっくりと顔を向けた。
「おはよう、トルク。ベルクも、おはよう」
ルシルは二頭に声をかけ、まずトルクの首筋を撫でた。
トルクは機嫌よさそうに鼻を鳴らし、いつものようにルシルの手元を嗅いでいる。
「ふふ。やっぱり何か食べ物を探してるのかな」
モモが笑うと、ルシルも微笑んだ。
「たぶんね。でも、今朝のご飯はもう食べたみたいだよ」
馬小屋の奥から、世話をしている男性が顔を出した。
「おはよう。二頭とも今朝はよく食べたよ。昨日の夜も落ち着いていたし、変わった様子はなかった」
「ありがとうございます。今日は出発するかもしれないので、もう一度状態を確かめさせてください」
ルシルが頼むと、男性は快く頷いた。
「もちろん。ゆっくり見ていくといい」
シモンは二頭の脚元へ回り、蹄や関節の様子を慎重に確かめた。
トルクは時折身体を動かしたが、嫌がる様子はなく、ベルクも落ち着いて立っている。
ルシルは二頭の背や首筋を撫で、毛並みや呼吸の様子を見た。
モモは少し離れた場所から二頭を眺めていたが、やがてベルクのそばへ歩み寄り、静かに声をかけた。
「ベルク、今日はまた馬車を引いてもらうかもしれないけど、大丈夫かな。無理はしないでね」
ベルクはゆっくりと耳を動かし、モモの方へ鼻先を寄せた。
モモは嬉しそうに笑い、その首筋を優しく撫でた。
「ありがとう。ベルクって、いつも落ち着いてるよね。トルクも元気でいてくれて嬉しいな」
シモンは確認を終えると、ルシルへ顔を向けた。
「目立った異常は見当たりません。もちろん、移動中も休憩を取りながら様子を見る必要はありますが、今の状態なら出発を検討してもよいと思います」
「うん。ありがとう、シモン」
ルシルは頷き、二頭を見つめた。
南の丘へ向かったときも、彼らは慎重に馬車を運んでくれた。
引き返すことになったとき、二頭が無事だったことに、ルシルは心から安堵したものだった。
(この子たちがいてくれるから、僕たちはこうして旅を続けられるんだ。だからこそ、無理をさせないようにしないとね)
その思いを胸に、ルシルはトルクの首筋をもう一度撫でた。
「今日は、前に通った道を戻ることになると思う。慣れた道でも気をつけて進むから、よろしくね」
トルクは鼻を鳴らし、まるで返事をするように耳を動かした。
モモはその様子を見て、嬉しそうに笑った。
「きっと、トルクもベルクも分かってくれてるよ!」
シモンは二人と二頭を眺め、穏やかな表情で頷いた。
◇
朝食の席に戻ると、マリナが温かな麦粥と野菜を添えた皿を運んできた。
三人は礼を述べて席に着き、湯気の立つ食事をゆっくりと味わった。
朝の冷たい空気の中を歩いたあとだったため、温かな食事は身体に染み渡るように感じられた。
「美味しい……。マリナさんのご飯、やっぱり好きだなあ」
モモがしみじみと言うと、マリナは笑顔を見せた。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。今日は出発するのかしら?」
ルシルは匙を置き、マリナへ顔を向けた。
「はい。今朝の天気と馬たちの様子を確認したところ、出発できそうだと思っています。ただ、朝食のあとに三人でもう一度相談してから、最終的に決めるつもりです」
「そう。それなら、慌てずに決めなさいね」
マリナは穏やかに頷いた。
「来た道を戻るなら、少なくとも一度は通っている道でしょうけど、同じ道でも天気や時間によって様子は変わるものだから」
「はい。途中で無理をしないように気をつけます」
シモンが答えると、マリナは安心したように微笑んだ。
ルシルはその表情を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
マリナは三人の旅について、必要以上に口を出すことはなかった。
けれど、道のことを気にかけ、食事を用意し、馬たちが休める場所を整えてくれた。
そのさりげない親切が、どれほどありがたかったか分からない。
朝食を終える頃には、三人の考えも自然とまとまっていた。
「じゃあ、今日出発しようか」
ルシルがそう言うと、モモは少し寂しそうに、けれど嬉しそうにも見える笑顔で頷いた。
「うん。ハルミナとはいったんお別れだけど、また来られるかもしれないもんね」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「出発するなら、午前のうちに準備を整えましょう。最初から長い距離を進もうとせず、途中の様子を見ながら休憩場所を決めるのがよいと思います」
「そうだね。じゃあ、荷物を確認してから出よう」
三人は食事を終え、部屋へ戻って荷物をまとめ始めた。
◇
二階の部屋には、旅の間に使っていた小さな道具がいくつか残っていた。
モモの旅帳面、シモンの筆記道具、ルシルが使っていた上着。
それぞれを荷物へ戻していくうちに、部屋の中は少しずつ、最初に入ったときの姿へ戻っていった。
モモは窓際の寝台に腰掛け、旅帳面を開いていた。
そこには、ハルミナの井戸や共同窯、休み家の庭などが描かれている。
彼女は最後のページを眺めながら、少しだけ考え込んでいた。
「モモ、どうしたの?」
ルシルが尋ねると、モモは顔を上げた。
「うん。ハルミナの絵、もう少し描いておきたいなって思ったの。でも、今から全部描こうとしたら、出発が遅くなっちゃうよね」
ルシルは旅帳面を覗き込み、穏やかに微笑んだ。
「全部描かなくてもいいんじゃないかな。今見えている景色を少しだけ描いて、続きはまた来たときに描いてもいいと思うよ」
モモはその言葉を聞き、目を丸くした。
「続きは、また来たときに?」
「うん。旅帳面だって、全部を一度に完成させる必要はないでしょう?」
モモはしばらく考えたあと、嬉しそうに笑った。
「そっか! それなら、ハルミナのページを少し空けておこうかな。次に来たとき、また違う景色を描けるように」
彼女はそう言いながら、旅帳面の端へ小さく印をつけた。
ルシルはその様子を見て、微笑んだ。
思い出を残すことは、過ぎ去った時間を閉じ込めることではない。
また訪れるかもしれない未来へ、少しだけ余白を残しておくこともできるのだ。
シモンは荷物をまとめ終えると、部屋の中を見回した。
「忘れ物はなさそうですね。寝具も元の状態に戻しましたし、あとはマリナさんへ確認していただけばよいでしょう」
「ありがとう、シモン。じゃあ、行こうか」
ルシルは荷物を持ち、最後にもう一度窓の外を眺めた。
庭の木々は朝の風に揺れ、遠くには村の屋根が見えている。
この景色を次に見るのがいつになるのか、今は分からない。
けれど、また見たいと思える場所が増えたことが、ルシルには嬉しかった。
◇
一階へ降りると、マリナが食堂の片づけをしていた。
三人が荷物を持っているのを見ると、彼女は手を止めて微笑んだ。
「出発することに決めたのね」
「はい。今日、来た道を戻ることにしました」
ルシルが答えると、マリナは頷いた。
「そう。気をつけて行ってらっしゃい」
三人は宿泊費と馬たちの世話にかかった費用について、改めて確認した。
昨日までの支払いと今日必要な精算を整理し、未払いが残らないようにしたうえで、ルシルはマリナへ頭を下げた。
「本当にお世話になりました。最初は少し立ち寄るつもりだったのに、こんなに長く泊めていただいて……」
マリナは笑って首を振った。
「気にしなくていいのよ。旅人が休むための家なんだから、必要なときにゆっくり休んでくれたなら、それが一番よ」
その言葉に、ルシルは胸の奥が温かくなるのを感じた。
モモは一歩前へ出て、マリナへ笑顔を向けた。
「マリナさん、ありがとうございました! ご飯も美味しかったし、お庭のお手伝いも楽しかったです。またハルミナへ来たら、ここに泊まりたいです!」
「ふふ。もちろんよ。そのときも、部屋が空いていれば歓迎するわ」
マリナはそう言って、モモの頭を優しく撫でた。
モモは少し照れたように笑い、嬉しそうに目を細めた。
シモンも丁寧に頭を下げた。
「滞在中は、さまざまなお心遣いをいただきました。馬たちも十分に休むことができましたし、私たちも落ち着いて次の道を考えることができました。心より感謝いたします」
「こちらこそ。あなたたちが来てくれて、家の中が賑やかになったわ」
マリナは穏やかに答えた。
それから、少しだけ真面目な表情になった。
「ただ、旅に出たら、無理だけはしないでね。道が悪ければ引き返してもいいし、休みたくなったら休めばいいんだから」
ルシルは静かに頷いた。
「はい。僕たちも、そうしようと思っています」
その答えに、マリナは安心したように微笑んだ。
◇
荷物を馬車へ積み終えると、三人は最後の確認を始めた。
水容器はしっかり固定され、食料も湿気を避けられる場所に収められている。
シモンは馬具の状態を確かめ、ルシルは車輪と車体の周囲を見回した。
モモは旅帳面をしまう前に、馬車の横から休み家の建物を眺めていた。
「ルシル君、ここから見ると、窓の形がよく分かるね」
モモが言うと、ルシルも建物へ目を向けた。
二階の窓は、今朝まで自分たちが使っていた部屋のものだ。
庭の木々に少し隠れているが、朝の光を受けた窓枠が柔らかく輝いている。
「本当だ。部屋の中から見るのと、外から見るのとでは、ずいぶん違うね」
「うん。わたし、最後にこの景色を描いておきたいな」
モモは旅帳面を開き、手早く鉛筆を動かした。
ルシルはその間、トルクの首筋を撫でながら待っていた。
シモンも急かすことなく、荷物の位置をもう一度確かめている。
しばらくして、モモは嬉しそうに顔を上げた。
「できた! まだ簡単な絵だけど、あとで色々描き足せると思う!」
ルシルは旅帳面を覗き込み、微笑んだ。
「いいね。ちゃんと休み家だって分かるよ」
モモは嬉しそうに頷いた。
「えへへ。これで、ハルミナの思い出がまた一つ増えたね」
シモンは二人の様子を見ながら、穏やかに口を開いた。
「では、そろそろ出発しましょうか。午前のうちに村を出れば、途中で休憩を取る時間も十分に確保できます」
「うん。そうしよう」
ルシルは頷き、御者台へ向かった。
◇
馬車がゆっくりと動き始めると、ハルミナの村道には穏やかな車輪の音が響いた。
トルクとベルクは落ち着いた足取りで進み、馬車は休み家の前を離れていく。
ルシルは御者台から周囲を眺めた。
見慣れ始めた家々の屋根、道端に積まれた薪、庭先で作業をしている人々。
その一つ一つが、初めて村へ来たときよりも親しみ深く感じられた。
モモは馬車の窓から顔を出し、道の先を眺めている。
「ねえ、ルシル君。せっかくだから、井戸の方を通っていこうよ。バルドさんに挨拶できるかもしれないし!」
「うん。道順も大きく変わらないから、そうしようか」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
馬車は村の広場へ向かって進んだ。
井戸の近くでは、バルドが桶を片づけていた。
三人の馬車に気づくと、彼は顔を上げ、軽く手を振った。
「おう、出発するのか!」
ルシルは馬車を安全な場所に止め、御者台から声をかけた。
「はい! 今日は来た道を戻ることにしました。いろいろ教えていただいて、ありがとうございました!」
バルドは笑いながら頷いた。
「そうか。気をつけて行けよ。途中で道が悪くなっていたら、無理に進むんじゃないぞ」
「はい。ありがとうございます!」
モモも窓から手を振った。
「バルドさん、また来ますね!」
「おう! そのときは、また井戸へ寄ってくれ!」
バルドは大きく手を振り返した。
ルシルはその姿を見つめながら、ゆっくりと馬車を動かした。
広場を抜けると、共同窯のある通りが見えてきた。
煙突からは薄い煙が上がっており、周囲には焼きたてのパンの香りが漂っている。
モモはその香りに気づくと、嬉しそうに顔を上げた。
「あっ、エルナさんのパンの匂い!」
ルシルは笑いながら頷いた。
「本当だ。朝から焼いてるんだね」
共同窯の前では、エルナが作業台の上にパンを並べていた。
馬車の音に気づいた彼女は、顔を上げて三人の姿を見つけた。
「あら、出発するのね!」
モモは嬉しそうに手を振った。
「エルナさん! 昨日のパン、ありがとうございました! 大事に食べますね!」
エルナは笑顔で手を振り返した。
「ええ! でも、あんまり大事にしすぎて傷ませないようにね!」
その言葉に、モモは思わず笑った。
「はーい!」
ルシルも礼を述べ、馬車をゆっくりと進めた。
共同窯の煙が、朝の空へ細く伸びていく。
モモはその景色をしばらく見つめていた。
「……やっぱり、いい村だったね」
彼女の声は、いつもより少しだけ静かだった。
ルシルは頷いた。
「うん。本当にそう思う」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「旅の途中で、こうして心に残る場所が増えていくのは、ありがたいことですね」
三人はしばらく言葉を交わさず、村の景色を眺めていた。
◇
ハルミナの家々が少しずつ後ろへ遠ざかると、道の両側には畑と草地が広がり始めた。
朝の光を受けた草の葉が風に揺れ、ところどころで小さな鳥が飛び立っていく。
ルシルは手綱を握りながら、トルクとベルクの歩調を確かめた。
二頭は落ち着いた足取りで進んでおり、馬車の揺れも穏やかだった。
モモは窓の外を眺めながら、旅帳面を膝の上へ置いている。
「ねえ、ルシル君。来たときは、あの畑の向こうにハルミナの屋根が見えて、すっごく嬉しかったんだよね」
「うん。あのときは、ようやく村に着けるって思ったものね」
ルシルが答えると、モモは頷いた。
「でも、今は逆なんだね。村がどんどん遠くなっていくのに、なんだか嫌な感じはしないの」
ルシルは少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。
「きっと、また来られるって思えるからじゃないかな」
モモはその言葉を聞き、嬉しそうに笑った。
「うん。そうかもしれない!」
シモンは二人の会話を聞きながら、道の先へ目を向けた。
「それに、これから向かう場所にも、新しい出会いがあるかもしれません。ハルミナで過ごした時間が終わることと、次の旅が始まることは、同時に起きるものですから」
ルシルはその言葉に頷いた。
「そうだね。どちらも大切にしていきたいな」
馬車は緩やかな道を進んでいった。
途中には、以前通ったときに見覚えのある木々や石があった。
けれど、反対方向から眺める景色は、思っていたよりも違って見えた。
来たときには背後にあった丘が、今は前方に見えている。
道端の木も、枝の広がり方が違って見えるため、最初は同じ場所だと気づかないこともあった。
モモはその変化を面白がり、旅帳面に小さな印をつけていった。
「これ、来たときに描いた木だよね? でも、こっちから見ると枝が二つに分かれて見えるんだ!」
ルシルは安全な場所で馬車の速度を落とし、木の方へ目を向けた。
「本当だ。前は気づかなかったな」
シモンは道の幅と周囲の地形を確認しながら、穏やかに頷いた。
「同じ目印でも、進む方向によって見え方が変わりますからね。記録に残しておくと、今後また通るときに役立つかもしれません」
モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ちゃんと描いておくね!」
ルシルは二人の会話を聞きながら、手綱を握り直した。
同じ道を戻っているはずなのに、旅は少しも退屈ではなかった。
むしろ、以前は見落としていた景色を見つけるたびに、新しい場所を訪れているような気持ちになる。
(戻ることって、ただ同じところを通り直すことじゃないんだな。僕たち自身が少し変わっているから、見えるものも違うのかもしれない)
ルシルはそう考えながら、穏やかに微笑んだ。
◇
午前の時間が進むにつれて、日差しは少しずつ強くなっていった。
風は相変わらず吹いていたが、空の雲は薄く、雨が近づいている様子は見られなかった。
シモンは道の先を確かめながら、ルシルへ声をかけた。
「ルシル様、そろそろ一度休憩を取りませんか。二頭とも落ち着いていますが、出発してからしばらく進みましたし、今のうちに水と荷物の状態を確認しておくのがよいでしょう」
「うん。そうしよう。ちょうど、少し先に道幅が広くなっている場所が見えるね」
ルシルは馬車を慎重に進め、道の端に十分な余裕がある場所を選んで停車した。
トルクとベルクが落ち着いたことを確かめてから、三人は馬車を降りた。
草地には柔らかな風が吹き、遠くでは鳥の声が聞こえている。
ルシルは二頭の様子を確認し、シモンは水容器と馬具を確かめた。
モモは少し離れた場所から周囲を眺めていたが、やがて嬉しそうに声を上げた。
「ねえ、ルシル君! ここからだと、ハルミナの屋根が少しだけ見えるよ!」
ルシルはモモの方へ歩み寄り、彼女が指さす方向を見た。
遠くの丘の手前に、小さな屋根がいくつか重なって見えている。
距離があるため、どの建物なのかまでは分からない。
それでも、あの辺りにハルミナがあることは確かだった。
「本当だ。もうずいぶん遠くまで来たような気がしていたけど、まだ見えるんだね」
ルシルが言うと、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん。なんだか、村が見送ってくれてるみたい」
シモンも二人のそばへ歩み寄り、遠くの景色を眺めた。
「こうして振り返ると、村の位置がよく分かりますね。行きに見た景色とは違いますが、道のつながりを確かめるにはよい場所かもしれません」
モモは旅帳面を開き、遠くに見える屋根の形を描き始めた。
ルシルはその隣に立ち、草原を渡る風を感じながら、静かに景色を眺めていた。
ハルミナで過ごした時間は、決して長いものではなかった。
けれど、あの村で出会った人々や、三人で話し合ったことは、これからの旅にも残っていくだろう。
南の丘へ進めなかったことを、ルシルは失敗だとは思わなかった。
むしろ、あの道で立ち止まったからこそ、無理をしないことの大切さを改めて知ることができた。
そして、引き返したからこそ、ハルミナで過ごす時間も増えた。
「……また来たいね」
ルシルが静かに呟くと、モモは顔を上げた。
「うん! 絶対に、また来たい!」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「そのときは、また道の状態を確かめながら、無理のない旅程を組みましょう」
ルシルは笑いながら頷いた。
「うん。よろしくね、シモン」
三人はしばらく景色を眺めてから、休憩を続けることにした。
馬たちの様子を確かめ、水を飲み、持ってきたパンを少しずつ分け合う。
エルナの焼いたパンは、昨日と変わらず香ばしかった。
モモは一口食べると、嬉しそうに目を細めた。
「やっぱり美味しいなあ。ハルミナの味がするね」
ルシルは笑いながら答えた。
「うん。旅の途中で食べると、また少し違う美味しさがあるね」
シモンもパンを味わい、穏やかに頷いた。
「保存しやすいだけでなく、しっかり噛むことで満足感もありますね。旅の食料として、よい選択だったと思います」
モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、次にハルミナへ行ったときも買おうね!」
「そうだね」
ルシルは微笑んだ。
◇
休憩を終えると、三人は再び馬車へ乗り込んだ。
ルシルは手綱を握り、トルクとベルクへ静かに声をかけた。
二頭は落ち着いた足取りで歩き始め、馬車はゆっくりと道を進んでいく。
遠くに見えていたハルミナの屋根は、やがて木々の向こうへ隠れていった。
モモはしばらく窓の外を眺めていたが、やがて旅帳面を閉じ、膝の上へ置いた。
「ねえ、ルシル君。次はどんな場所に行くのかな」
ルシルは少し考えてから、笑顔で答えた。
「まだ分からないね。でも、まずは来た道を戻って、大きな道へ出ることを考えよう。そこから先は、また三人で相談すればいいと思う」
モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! 次の行き先を考えるのも楽しみだね」
シモンは道の先を見つめながら、穏やかに口を開いた。
「大きな道へ戻るまでにも、確認しなければならないことはあります。途中の休憩場所や、日が暮れる前にどこまで進めるかを考えながら、慎重に進みましょう」
「もちろん。今日も無理はしないよ」
ルシルが答えると、シモンは安心したように微笑んだ。
馬車は草原の道を進んでいく。
空には薄い雲が流れ、風が草を揺らしていた。
ルシルは手綱を握りながら、前方に続く道を見つめた。
王位を手放して旅に出たとき、彼は自由というものを、もっと大きな出来事のように考えていたのかもしれない。
誰にも命令されず、好きな場所へ行き、好きなことをする。
それが自由なのだと思っていた。
けれど、旅を続けるうちに、少しずつ考え方が変わってきた。
自由とは、ただ好き勝手に進むことではない。
仲間と相談し、危険を避け、時には立ち止まり、引き返すことも含めて、自分たちで選べることなのだ。
ルシルはそのことを、ハルミナでの時間を通じて改めて感じていた。
(これからも、きっと迷うことはあるんだろうな。でも、モモとシモンがいてくれるなら、どんな道でも相談しながら進んでいける気がする)
ルシルは小さく微笑んだ。
隣では、モモが旅帳面を開き、次に描く景色を探している。
シモンは道の先を注意深く見つめながら、ときどき空の様子を確かめていた。
トルクとベルクは穏やかな足取りで進み、馬車の車輪が土の道をゆっくりと転がっていく。
三人の旅は、今日も続いていた。
そして、ハルミナで得た思い出を胸に、彼らは来た道を戻りながら、まだ見ぬ次の行き先へ思いを馳せていた。




