第141話「朝の秤に載せた旅支度と、戻る道の先にある自由」
ハルミナの旅人の休み家に、まだ薄い朝の光が差し込んでいた。
二階の小さな部屋では、夜の間に冷えた空気が床板の近くに残っており、窓の外からは、早起きした鳥の声と、庭先で木桶を動かすかすかな音が聞こえていた。ルシルは寝台の上で目を覚ますと、すぐには起き上がらず、見慣れ始めた天井の木目をしばらく眺めていた。
ハルミナへ来てから、思っていたよりも長い時間が過ぎている。
最初は、南へ向かう途中で立ち寄った小さな村だった。ところが、丘の向こうへ続く道を調べ、無理に進まないと決め、引き返してからも人々の話を聞いているうちに、この村にはいくつもの思い出ができていた。
共同窯で焼かれるパンの香りや、井戸の周りに集まる人々の声。旅人の休み家で食べた温かな煮込みと、庭仕事を手伝ったときに感じた乾いた葉の手触りまで、ルシルは昨日までの出来事を不思議なほど鮮明に覚えていた。
(最初から長く泊まるつもりだったわけじゃないのに、いつの間にか、ここも帰ってこられる場所みたいになっていたんだな)
そう考えると、胸の奥に柔らかな温かさが広がった。
けれど、いつまでも滞在することだけが旅ではない。知らない土地へ向かう楽しみも、今のルシルにとっては大切なものだった。
昨日、三人は南の丘へ続く道にこだわらず、ハルミナへ来た道を戻る方向で考えてみようと話し合った。
今日は、その相談をもう少し具体的に進めることになっている。
ルシルがゆっくり身体を起こすと、床に敷かれた寝具の上でシモンが身じろぎした。すでに目を覚ましていたらしく、眼鏡をかけながら静かに顔を上げる。
「おはようございます、ルシル様。昨夜はよくお休みになれましたか」
「おはよう、シモン。うん、ぐっすり眠れたよ。昨日はたくさん歩いたわけじゃないのに、夜になったら思ったより眠くなっちゃって」
ルシルが笑いながら答えると、シモンも穏やかに微笑んだ。
「道のことを考える時間が長かったですからね。身体を動かす疲れとは違っていても、判断を重ねることにはそれなりの負担があるのでしょう」
シモンはそう言ってから、窓際の寝台へ視線を向けた。
そこではモモが毛布にくるまり、桃金色の髪を枕の上へ広げたまま眠っている。寝息は穏やかで、時折、何かを探すように指先が毛布の端を動かしていた。
ルシルはその様子を見て、思わず声を落とした。
「モモはまだ眠ってるね。昨日、旅帳面にいろいろ描いていたから、少し遅くなったのかな」
「そうかもしれません。昨夜は、共同窯の煙が夕方の空へ上がる様子も描いていらっしゃいましたから」
シモンの言葉に、ルシルは小さく頷いた。
モモの旅帳面には、すでにいくつもの景色が残されている。最初は何気なく描いていたものだったが、今では道の記録として役立つこともあり、三人の旅に欠かせないものになりつつあった。
そのとき、寝台の方から小さな声が聞こえた。
「……パン……」
ルシルは一瞬、シモンと顔を見合わせた。
モモはまだ目を閉じていたが、何か美味しいものを食べている夢でも見ているのか、口元が少し緩んでいる。
「……もう一つ……」
ルシルは笑いをこらえようとしたものの、肩が小さく震えてしまった。
シモンも眼鏡の奥で目を細め、声を立てないようにしながら口元を押さえている。
しばらくして、モモがゆっくりと目を開けた。
「……あれ? ルシル君、シモン君、おはよう……」
「おはよう、モモ。いい夢を見ていたみたいだね」
ルシルが尋ねると、モモは眠たげな目を瞬かせた。
「うん……。すっごく大きなパンがあってね、三人で食べても全然なくならないの。エルナさんが焼いてくれたみたいで、外は香ばしくて、中はふわふわで……」
そこまで話してから、モモは二人の表情に気づいた。
「……もしかして、わたし、寝言を言ってた?」
ルシルが頷くと、モモは毛布を口元まで引き上げた。
「ええっ!? 何て言ってたの!?」
「パンをもう一つ欲しがっていたよ。夢の中でも、ずいぶん美味しかったんだね」
ルシルが笑いながら答えると、モモは恥ずかしそうに頬を赤くした。
シモンは穏やかな表情のまま、少しだけ首を傾げた。
「夢の中であれば、食料の残量を心配する必要はありませんね。実に羨ましい限りです」
「シモン君まで!」
モモの抗議に、三人は声を立てて笑った。
朝の光が少しずつ強くなり、窓の外では村の暮らしが動き始めている。
ルシルはその音を聞きながら、今日もこうして仲間と笑って一日を始められることが嬉しかった。
◇
身支度を整えた三人が一階へ降りると、食堂には麦を煮た温かな香りが漂っていた。
厨房ではマリナが鍋の中身を確かめており、入口の近くには洗い終えた木の器がきれいに重ねられている。窓から差し込む朝日が卓の表面を照らし、床には長い影が伸びていた。
「あら、おはよう。今日はずいぶん楽しそうね」
マリナは三人の顔を見るなり、そう言って微笑んだ。
ルシルは少し照れくさそうに笑い、モモは慌てて首を横へ振った。
「お、おはようございます! 何でもないんです! ちょっと、夢の話をしていただけで……!」
「夢の話?」
マリナが不思議そうに尋ねると、シモンが落ち着いた声で説明した。
「モモ嬢が、たいへん美味しそうなパンの夢をご覧になったそうです」
「シモン君!」
モモが抗議するように振り返ると、マリナは楽しそうに笑った。
「それはいい夢ね。うちの朝ご飯が物足りなくならないといいけれど」
「そんなことありません! マリナさんのご飯も大好きです!」
モモが勢いよく答えたため、今度はルシルまで笑ってしまった。
マリナはそんな三人を眺めながら、鍋の火加減を調整した。
「それならよかったわ。今日は麦粥に、刻んだ野菜を少し多めに入れてあるの。昨日のうちに残っていた野菜を使い切りたかったから、いつもより具だくさんになったのよ」
三人は食事をお願いし、料金を確認してから席に着いた。
運ばれてきた麦粥には、柔らかく煮込まれた野菜がたっぷり入っていた。湯気とともに穀物の甘い香りが立ち上り、朝の冷えた身体を内側から温めてくれる。
ルシルは匙で一口すくい、ゆっくりと味わった。
「美味しいですね。野菜の甘みが出ていて、朝にちょうどいい味です」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。旅人さんは朝から歩くことも多いから、なるべく温かいものを食べてもらいたいのよ」
マリナはそう答えると、厨房へ戻っていった。
モモは麦粥を味わいながら、窓の外へ目を向けた。
「ねえ、ルシル君。今日は、いよいよ出発するかどうか決めるんだよね?」
「うん。そのつもりだよ。でも、先にトルクたちの様子を見て、食料と水の残りも確認しないとね」
ルシルが答えると、シモンは頷いた。
「昨日の相談では、来た道を戻る方向で考えることになりました。ただ、実際に出発するなら、どこまで進むか、どこで休むかも確認しておく必要があります」
「そうだね。前に通った道だからって、何も考えずに走っていいわけじゃないもんね」
モモは少し真面目な顔で頷いた。
以前なら、彼女は知らない道へ向かうことを考えるだけで、すぐに出発したくなっていたかもしれない。
けれど、南の丘で引き返した経験は、モモにも大切なことを教えてくれていた。
馬車には馬車の進める道があり、人が歩ける場所だからといって、必ずしも安全に通れるわけではない。
そして、進むためには、戻れる場所を知っていることも大切だった。
「わたし、今日もちゃんと記録するね。水のこととか、食べ物のこととか、忘れないようにする」
モモが言うと、シモンは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。ただ、記録だけでなく、モモ嬢ご自身も食事を楽しんでください。朝から仕事を始める必要はありませんよ」
「えへへ。そうだったね」
モモは少し照れたように笑い、匙を持ち直した。
ルシルは二人の会話を聞きながら、ゆっくりと食事を進めた。
急がない旅を選んだ三人にとって、こうした朝の時間も大切なものだった。
◇
朝食を終えると、三人は裏手の馬小屋へ向かった。
屋根の下では、トルクとベルクが落ち着いた様子で過ごしていた。
朝の光が木の隙間から差し込み、栗毛のトルクと濃い灰色のベルクの毛並みを柔らかく照らしている。
ルシルが近づくと、トルクはすぐに耳を立て、鼻先を寄せてきた。
「おはよう、トルク。今日も元気そうだね」
ルシルは首筋を撫でながら、毛並みや身体の状態を確かめた。
トルクは機嫌よさそうに鼻を鳴らし、何かを探すようにルシルの手元を嗅いでいる。
「残念だけど、今は食べ物を持ってないよ。さっき朝ご飯を食べたばかりでしょう?」
その言葉に、モモが楽しそうに笑った。
「トルクって、わたしに似てるかもしれないね」
ルシルは思わず振り返った。
「モモ、自分で言うんだ?」
「だって、美味しいものがあると嬉しい気持ちは分かるもん!」
モモは胸を張って答えた。
シモンはベルクの脚元を確認しながら、少しだけ笑った。
「食事を楽しむことはよいことです。ただし、トルクの場合は、食べすぎないように管理する必要がありますね」
「わたしだって、ちゃんと気をつけてるよ?」
モモが少し頬を膨らませると、ルシルは笑いながら頷いた。
「うん、分かってるよ。モモは旅の食料が大切なことも、ちゃんと考えてくれてるからね」
その言葉に、モモは嬉しそうに笑った。
シモンは二頭の脚や蹄を丁寧に確認し、昨日までの休養によって目立った異常がないことを確かめた。
ベルクは落ち着いて立っており、トルクも普段どおりの様子を見せている。
そこへ、馬たちの世話をしている男性がやってきた。
「おはよう。二頭とも今朝はよく食べてるよ。休んでいる間も変わった様子はなかった」
「ありがとうございます。今日は出発するかどうか相談する予定なんですが、もし出ることになったら、また確認させてください」
ルシルが説明すると、男性は頷いた。
「もちろん。馬たちのことなら、気になることは何でも聞いてくれ」
シモンは水と飼葉の残りについて確認した。
男性は、今日一日を過ごす分には問題ないものの、さらに滞在する場合は追加の手配が必要になると説明した。
ルシルはその話を聞きながら、馬たちが元気でいてくれることのありがたさを改めて感じていた。
南の丘へ向かった日、二頭は慣れない道を慎重に進んでくれた。
引き返すと決めたときも、落ち着いて馬車を運んでくれた。
彼らがいなければ、三人の旅は今とはまったく違うものになっていただろう。
「ありがとう、トルク。ベルクも、いつも助かってるよ」
ルシルが声をかけると、トルクは鼻を鳴らし、ベルクは静かに耳を動かした。
モモはその様子を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「次の道も、みんなで一緒に進もうね」
シモンは二人と二頭を眺めながら、穏やかな表情で頷いた。
◇
馬小屋を出た三人は、休み家の庭にある木陰の腰掛けへ向かった。
朝の風は昨日より少し強く、木々の葉が重なり合う音が聞こえていた。庭の隅にはマリナが使う道具が整えられており、石畳の上には洗濯物を干すための籠が置かれている。
ルシルは腰掛けに座り、これまでの道の記録を広げた。
モモは隣に座って旅帳面を開き、シモンは向かい側に立って、二人の記録を見比べている。
「じゃあ、今日はもう少し具体的に考えてみようか」
ルシルが言うと、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! 昨日の作戦会議の続きだね!」
シモンは少し笑いながら、紙の上を指さした。
「まず、現在の選択肢ですが、南の丘へ向かう道は、現時点では進まない方針でよいでしょう。道幅、地面の状態、次の集落までの距離、水場の有無が確認できていませんから」
「うん。そこは三人とも同じ考えだよね」
ルシルが確認すると、モモも頷いた。
「わたしも賛成。丘の向こうは気になるけど、トルクたちに無理をさせたくないもん」
シモンは穏やかに頷き、続けた。
「次に、ハルミナへ来た道を戻る場合です。少なくとも、私たちはその道を実際に通っています。道の状態や、途中で休めそうな場所についても、ある程度は記憶と記録があります」
ルシルは紙の上に描かれた線を見つめた。
ハルミナへ来るまでの道には、草原があり、緩やかな坂があり、ところどころに木々が集まった場所もあった。
以前通ったときには、先へ進むことばかり考えていたため、戻る道として眺めたことはなかった。
けれど、今ならその景色を別の角度から見ることができる。
「来た道を戻るって、少し不思議な感じがするね」
ルシルが呟くと、モモは首を傾げた。
「どうして?」
「同じ道なのに、行くときと戻るときでは、見える景色が違う気がするんだ。前はハルミナへ向かっていたけど、今度はハルミナから離れていくわけでしょう?」
モモは少し考え込んだあと、嬉しそうに笑った。
「そっか! じゃあ、前に見つけられなかったものが見つかるかもしれないね」
「うん。そういう楽しみもあると思う」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「実際、道を反対方向から見ることで、目印の見え方が変わることもあります。以前の記録がそのまま役立つとは限りませんから、注意して進む必要がありますね」
モモは旅帳面を見つめ、少し真面目な顔になった。
「じゃあ、わたしの絵も、戻るときに見える景色を描き足した方がいいのかな」
「それはよい考えだと思います。特に、道が分かれる場所や、馬車を止められる場所は、反対側からの見え方も残しておくと役立つでしょう」
シモンの言葉に、モモは嬉しそうに頷いた。
ルシルは二人の会話を聞きながら、紙の上へ視線を戻した。
「でも、問題はどこまで進むかだよね。ハルミナへ来た道を戻るとしても、一日で全部戻れるとは限らないし」
「ええ。以前の移動に要した時間を参考にはできますが、天候や馬たちの状態によって変わります。途中で休む場所を確保できるかどうかも重要です」
シモンはそう答え、手元の記録を確認した。
「それから、食料と水の残りも見ておきましょう。今ある分でどの程度進めるか、無理のない範囲を考える必要があります」
ルシルは頷いた。
「じゃあ、まずは荷物を確認して、それから出発日を決めようか」
モモも賛成し、三人は腰掛けから立ち上がった。
◇
馬車は休み家の敷地内で、邪魔にならない場所に置かれていた。
暗い茶色の車体には、これまでの旅でついた小さな傷や汚れが残っている。二枚の板ばねで支えられた車体は、長い道を進んできたことを感じさせたが、今のところ大きな異常は見られなかった。
ルシルは車体の側面に手を当て、ゆっくりと見上げた。
王城を出た頃には、この馬車でどれほど遠くまで行けるのか、想像もできなかった。
今では、ここが三人の小さな家のようにも感じられる。
モモは荷台の中を覗き込み、食料の入った袋を取り出した。
「えっと、乾燥豆と乾燥野菜、それからエルナさんのパンが残ってるね」
「はい。まずは、それぞれの量を確認しましょう。古いものから使うようにして、傷みがないかも見ておきたいですね」
シモンはそう言って、清潔な布を広げた。
三人は食料を一つずつ取り出し、残量を確認した。
乾燥豆はまだある程度残っていたが、毎日十分な量を食べ続けられるほど多いわけではない。
乾燥野菜も同様で、旅の途中で使うことを考えれば、無駄にはできなかった。
エルナから買った日持ちのするパンは、南の丘へ向かった日の休憩で一部を食べていたため、残りは購入時より少なくなっている。
モモはパンを見つめ、少し名残惜しそうに微笑んだ。
「このパン、やっぱり美味しかったなあ。帰り道でも食べたいけど、全部なくなっちゃうのは寂しいかも」
ルシルは笑いながら答えた。
「食べ物だから、いつかはなくなっちゃうよ。でも、モモの旅帳面には絵が残ってるでしょう?」
「そうだった!」
モモは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、食べ終わっても思い出は残るんだね」
シモンは二人の会話を聞きながら、食料の袋を丁寧に閉じた。
「それに、また別の場所で美味しいものに出会えるかもしれません。旅の楽しみは、まだまだありますからね」
その言葉に、モモは目を輝かせた。
「シモン君、いいこと言うね!」
「……ありがとうございます」
シモンは少し照れたように眼鏡を直した。
続いて、三人は水容器を確認した。
ハルミナへ到着した際には、バルドの管理する井戸で料金を支払い、水を補充している。
その後も使用していたため、現在の残量は出発時と同じではない。
シモンは容器を一つずつ確かめ、必要な量を計算した。
「今の残量だけで出発するのは避けた方がよいでしょう。人間の飲み水だけでなく、調理や馬たちの分も考える必要があります」
「うん。出発するなら、もう一度井戸で水を補充しよう」
ルシルが答えると、モモも頷いた。
「わたしも手伝うよ。水って、思っていたよりずっと大切なんだね」
モモは容器を見つめながら、少しだけ真面目な表情になった。
かつて聖女として暮らしていた頃には、困っている人を助けるために魔法を使うことが多かった。
しかし、旅の中では、魔法だけで何でも解決できるわけではない。
水を汲み、運び、使う量を考える。
そうした小さな積み重ねが、自分たちの生活を支えているのだと、モモは少しずつ理解していた。
「魔法で全部どうにかできたら便利だけど、こうやって準備するのも大事なんだね」
モモが言うと、ルシルは頷いた。
「うん。僕も、旅を始めてから初めて知ったことがたくさんあるよ」
シモンは二人を見ながら、穏やかに微笑んだ。
「お二人がそう考えてくださるなら、私としても心強いです。準備は一人で抱え込むものではありませんから」
ルシルはその言葉を聞き、少しだけ驚いた。
以前のシモンなら、旅の準備は自分が責任を持って整えるものだと考えていたかもしれない。
けれど、今は三人で分担することを自然に受け入れている。
その変化が、ルシルには嬉しかった。
「そうだね。これからも三人でやっていこう」
ルシルが微笑むと、シモンも静かに頷いた。
◇
荷物の確認を終えた頃には、午前の時間がだいぶ過ぎていた。
三人は馬車のそばに立ち、今後の予定についてもう一度話し合った。
食料と水の残量は確認できたものの、出発前には水の補充と、必要に応じた食料の追加購入が必要になる。
また、馬車の状態についても、出発前にもう一度確認しておきたかった。
「今日すぐに出発するのは、少し慌ただしいかもしれないね」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「そうですね。今から準備を整えて出発することも不可能ではありませんが、急ぐ理由はありません。もう少し余裕を持って進めた方がよいでしょう」
モモは少し考えたあと、明るく笑った。
「じゃあ、今日は準備の日にする? 明日出発できるようにしておけば、朝になってから慌てなくて済むよね」
ルシルはその提案に頷いた。
「うん。それがいいと思う。ただ、明日の朝に天気が悪かったり、トルクたちの調子がよくなかったりしたら、無理に出発しないことにしよう」
「もちろん!」
モモは元気よく答えた。
シモンも穏やかに微笑んだ。
「では、明日の出発を候補として準備を進めましょう。最終的な判断は、朝の状況を確認してからにするのがよいと思います」
三人の考えがまとまると、ルシルは少しだけ肩の力を抜いた。
南へ進む道を調べ始めてから、何日かが過ぎている。
その間、三人は何度も相談し、情報を集め、判断を重ねてきた。
そして今、ようやく次の旅へ向かうための準備が具体的になり始めていた。
けれど、ルシルはそれを遅いとは思わなかった。
(僕たちは、誰かに急かされているわけじゃない。自分たちが納得できるように決めていけば、それでいいんだ)
その思いを胸に、ルシルは二人へ微笑んだ。
「じゃあ、マリナさんに今日の宿泊をお願いして、それから必要なものを準備しようか」
モモとシモンは頷き、三人は休み家へ戻った。
◇
マリナは食堂の奥で、昼食の準備をしていた。
三人が戻ると、手を止めて顔を上げる。
「あら、相談は終わったの?」
「はい。明日の朝、天気と馬たちの様子がよければ、出発する方向で考えています」
ルシルが答えると、マリナは少し寂しそうに、けれど嬉しそうにも見える表情で頷いた。
「そう。とうとう次の旅へ向かうのね」
「まだ確定ではないんですが、今日は準備を整えようと思っていて。それで、もう一晩泊めていただけますか?」
マリナは穏やかに微笑んだ。
「もちろんよ。今のところ部屋は空いているから、安心して使ってちょうだい」
三人は宿泊条件を確認し、必要な費用を支払うことにした。
ルシルは礼を述べてから、少しだけ迷ったように口を開いた。
「マリナさん、ここへ来てから、思っていたより長くお世話になりました。本当にありがとうございます」
マリナは一瞬、驚いたような顔をした。
それから、柔らかく微笑んだ。
「こちらこそ、楽しかったわ。あなたたちが来てから、家の中が少し賑やかになったもの」
モモは嬉しそうに顔を上げた。
「わたしも、すっごく楽しかったです! ご飯も美味しかったし、庭のお手伝いもできたし、トルクたちもゆっくり休めたし!」
「ふふ。そう言ってもらえると嬉しいわね」
マリナは笑いながら頷いた。
「でも、まだ明日の朝までいるんでしょう? お別れの挨拶には少し早いわよ」
その言葉に、モモははっとしたように目を丸くした。
「そうだった!」
ルシルは思わず笑い、シモンも穏やかに微笑んだ。
「では、明日の朝まで、もう少しお世話になります」
シモンが丁寧に頭を下げると、マリナは頷いた。
「ええ。ゆっくりしていきなさい」
◇
昼食を終えた三人は、午後のうちに井戸へ向かった。
広場では、いつものように住民たちが水を汲んでいた。
バルドは井戸のそばで桶の状態を確かめており、三人の姿を見ると軽く手を上げた。
「おう、今日は何か用か?」
「こんにちは。明日の朝、出発するかもしれないので、水を補充しておきたいんです」
ルシルが説明すると、バルドは頷いた。
「そうか。南へ行くのか?」
「いえ。南の道はまだ分からないことが多いので、来た道を戻る方向で考えています」
バルドは少し考え込んだあと、穏やかに頷いた。
「それがいいかもしれんな。無理に知らない道へ進む必要はないからな」
シモンは水の料金と、補充できる量について確認した。
バルドはいつもどおり説明し、三人は必要な分を支払って水を汲むことにした。
ルシルは容器を持ち、井戸のそばへ移動した。
水を汲む作業は、思っていたよりも力が必要だった。
桶を引き上げるときには腕に重みがかかり、水を容器へ移すときにも、こぼさないよう注意しなければならない。
モモも手伝いながら、少し驚いたように笑った。
「水って、こんなに重かったんだね。飲むときはあっという間なのに」
「そうだね。馬車に積むときも、しっかり固定しないと危ないし」
ルシルが答えると、シモンは頷いた。
「ええ。水は必要ですが、積みすぎれば馬車の負担も増えます。必要な量と重量の釣り合いを考えることが大切ですね」
バルドは三人の様子を見ながら、少し感心したように笑った。
「ずいぶん丁寧に考えてるんだな。旅人の中には、水なんて途中で何とかなると思って出ていく者もいるが、そう簡単にはいかんからな」
ルシルは頷いた。
「僕たちも、旅を始めた頃は分からないことばかりでした。でも、少しずつ覚えていきたいと思っています」
「それでいい。旅は経験を積むものだからな」
バルドは穏やかに答えた。
水の補充を終えると、三人は容器の蓋を確かめ、馬車へ運ぶ準備を整えた。
ルシルは最後にバルドへ頭を下げた。
「いろいろ教えていただいて、ありがとうございました」
バルドは軽く手を振った。
「気にするな。またハルミナへ来ることがあったら、井戸へ寄ってくれ」
モモは嬉しそうに笑った。
「はい! また来たいです!」
その言葉に、バルドも笑った。
◇
水を馬車へ積み終えると、三人は共同窯へ向かった。
午後の共同窯には、朝とは違う穏やかな空気が流れていた。
窯の周囲には焼いた穀物の香りが残っており、作業台の上には布をかけられたパンがいくつか並んでいる。
エルナはちょうど作業を片づけているところだった。
「あら、また来てくれたのね」
三人に気づくと、エルナは笑顔で迎えてくれた。
「こんにちは。明日、出発するかもしれないので、旅の途中で食べられるパンを少し買いたいと思って」
ルシルが説明すると、エルナは頷いた。
「そうなのね。じゃあ、前に買ってくれたような、少し固めのパンがいいかしら」
「はい。あのパン、とても美味しかったです」
ルシルが答えると、モモも勢いよく頷いた。
「すっごく美味しかったです! 草原で食べたとき、香ばしくて、噛むほど味がして……!」
エルナは嬉しそうに笑った。
「ふふ。そんなに気に入ってもらえたなら、焼いた甲斐があったわね」
三人はパンの大きさと価格を確認し、持ち運びやすい分を購入した。
エルナはパンを乾いた布で包みながら、保存するときの注意点を説明してくれた。
「湿った場所に置かないようにしてね。それから、日持ちするとはいっても、いつまでも食べられるわけじゃないから、早めに食べてちょうだい」
「はい。気をつけます」
ルシルは丁寧に頷いた。
モモは作業台の上のパンを見つめ、少し名残惜しそうに微笑んだ。
「エルナさん、わたし、共同窯の絵を描いたんです。前に見てもらったときより、少し描き足したんですよ」
「そうなの?」
エルナが興味深そうに顔を上げると、モモは旅帳面を開いた。
そこには、共同窯の少し曲がった煙突と、周囲の作業台、そして煙が空へ上がっていく様子が描かれていた。
エルナはしばらく絵を眺め、穏やかに微笑んだ。
「よく描けているわね。煙突の曲がり方まで、ちゃんと残してくれてる」
「えへへ。ここが好きなんです。まっすぐじゃないところが、なんだか可愛くて」
モモが笑うと、エルナも声を立てて笑った。
「そんなふうに言われたのは初めてだわ。でも、悪い気はしないわね」
ルシルは二人の会話を聞きながら、穏やかな気持ちになっていた。
旅先で出会った人々との時間は、いつか別の場所へ進めば、少しずつ遠くなっていく。
けれど、そこで交わした言葉や、見た景色が消えてしまうわけではない。
モモの旅帳面には、こうして思い出が形になって残っている。
そして、ルシル自身の胸の中にも、同じように大切なものが積み重なっていた。
「エルナさん、またハルミナへ来ることがあったら、ぜひ寄らせてください」
ルシルが言うと、エルナは笑顔で頷いた。
「もちろんよ。そのときには、また違う季節のパンを焼いているかもしれないわね」
モモは目を輝かせた。
「季節のパン! それ、すっごく楽しみです!」
三人は礼を述べ、共同窯をあとにした。
◇
休み家へ戻る頃には、午後の光が少しずつ柔らかくなっていた。
三人は馬車のそばで、購入したパンと補充した水を整理した。
シモンは荷物の位置を確認し、重いものが片側へ偏らないように調整している。
ルシルはその作業を手伝いながら、車体の状態をもう一度確かめた。
モモは旅帳面を開き、今日購入したパンの絵を描いていたが、しばらくすると顔を上げた。
「ねえ、ルシル君。明日、本当に出発することになったら、ちょっと寂しいね」
ルシルは手を止め、モモの方を見た。
彼女は笑っていたが、その表情には少しだけ名残惜しさが混ざっていた。
「うん。僕もそう思うよ」
ルシルは静かに答えた。
「ハルミナには、思っていたより長くいたからね。マリナさんにも、バルドさんにも、エルナさんにも、たくさんお世話になったし」
モモは頷いた。
「最初は知らない村だったのに、今は道も分かるし、みんなの顔も覚えたし……。なんだか、もう少しここにいたい気持ちもあるんだ」
ルシルは少し考えてから、穏やかに微笑んだ。
「それなら、また来ればいいんじゃないかな」
モモは顔を上げた。
「また?」
「うん。旅をしているからって、一度行った場所へ戻っちゃいけないわけじゃないでしょう? いつかまたハルミナへ来て、マリナさんのご飯を食べたり、エルナさんのパンを買ったりしてもいいと思うんだ」
モモはしばらくルシルを見つめていた。
それから、ゆっくりと笑顔になった。
「……そっか。そうだよね!」
彼女は嬉しそうに頷き、旅帳面を胸に抱えた。
「わたしたち、自由な旅をしてるんだもんね。行きたい場所へ行って、また戻りたくなったら戻ってきてもいいんだ」
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「ええ。ただし、そのときも道の状態や必要な準備は確認しましょう」
モモは思わず笑った。
「シモン君らしい!」
ルシルも笑いながら頷いた。
「でも、それが大事なんだよね」
シモンは少し照れたように眼鏡を直した。
三人は顔を見合わせ、自然と笑い合った。
◇
夕方になると、ハルミナの空は柔らかな橙色に染まった。
休み家の庭では、トルクとベルクが穏やかに休んでいる。
ルシルは二頭のそばへ行き、首筋を撫でながら声をかけた。
「明日の朝、天気がよくて、二頭とも元気だったら、また旅に出ようと思うんだ。今度は来た道を戻ることになるけど、よろしくね」
トルクは鼻を鳴らし、ベルクは静かに耳を動かした。
モモはその様子を見て、嬉しそうに笑った。
「二頭とも、ちゃんと聞いてくれてるみたいだね」
「うん。そうだと嬉しいな」
ルシルは微笑んだ。
シモンは少し離れた場所から二頭の様子を確認し、穏やかに頷いた。
「今日は十分に休めたようですね。明日も状態がよければ、出発の準備を進められるでしょう」
「うん。でも、朝になってからもう一度確認しよう」
ルシルが答えると、シモンは微笑んだ。
「承知しました」
三人は馬小屋をあとにし、休み家へ戻った。
◇
夜、部屋の窓からは、ハルミナの静かな灯りが見えていた。
モモは寝台の上で旅帳面を開き、今日の出来事を書き留めている。
シモンは机に向かい、明日の確認事項を整理していた。
ルシルは窓際の椅子に座り、外の景色を眺めていた。
南へ続く道は、まだ分からないことが多い。
けれど、三人はその道へ無理に進む必要がないことを理解していた。
来た道を戻ることも、別の方向へ進むことも、自分たちで選べる。
その自由が、今のルシルには何より嬉しかった。
(王位なんて、やっぱりいらないな。僕が欲しかったのは、誰かに決められた道じゃなくて、こうして自分たちで選べる毎日なんだ)
ルシルは静かに微笑んだ。
背後では、モモが旅帳面を閉じる音がした。
「ルシル君、明日もいい天気だといいね」
「そうだね。でも、もし雨が降ったら、またここでゆっくり過ごそう」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。
「うん! それも楽しそう!」
シモンも机から顔を上げた。
「私も賛成です。出発は天候と馬たちの状態を確認してからにしましょう」
「もちろん!」
モモが元気よく返事をした。
ルシルは二人を見つめ、穏やかに微笑んだ。
明日、三人はハルミナを出発するかもしれない。
あるいは、もう一日この村で過ごすことになるかもしれない。
どちらになっても、きっと悪くない一日になるだろう。
ハルミナの夜は、今日も穏やかだった。
そして三人は、次の旅へ向かうための準備を整えながら、静かな眠りについた。




