第139話 旅人の休み家で迎える朝と、まだ知らない道を選ぶための相談
ハルミナの朝は、遠くから聞こえてくる鶏の鳴き声と、庭先で木桶を動かす音から始まった。
旅人の休み家の二階にある小さな部屋では、薄い朝日が窓の縁を照らし、床板の上に細長い光の帯を作っていた。夜の間に冷えた空気はまだ部屋の隅に残っていたが、窓の外では木々の葉が穏やかに揺れており、今日も大きく天候が崩れる様子は見られなかった。
ルシルは寝台の上でゆっくりと目を開け、しばらく天井を眺めていた。
昨日の朝、三人は南へ向けて馬車を走らせた。
しかし、丘の向こうへ続く道が馬車には狭い可能性があると分かり、無理をせずハルミナへ引き返した。午後には村の人々から話を聞いたものの、次の集落までの距離や、確実に利用できる水場については、結局はっきりしなかった。
それでも、こうして休み家の寝台で目を覚ませることに、ルシルは安堵を覚えていた。
(昨日、あのまま進んでいたら、今頃どこにいたんだろう。知らない場所で馬車を止めることになっていたかもしれないし、トルクたちにも無理をさせていたかもしれない)
そんな考えが浮かんだものの、ルシルはすぐに首を横へ振った。
実際に起きなかったことを、必要以上に恐れるつもりはなかった。
大切なのは、昨日の判断によって今の自分たちが無事に休めていることと、今日もまた三人で相談できることだった。
隣の寝台では、モモがまだ毛布にくるまっていた。
桃金色の髪が枕の上へ広がり、時折小さく身じろぎするたびに、窓から差し込む光がその髪を柔らかく照らしている。
床に敷かれた寝具では、シモンがすでに目を覚ましていた。
黒縁の眼鏡を手に取り、布で丁寧に拭いているところだった。
「おはよう、シモン。早いね」
ルシルが声をかけると、シモンは顔を上げた。
「おはようございます、ルシル様。少し前に目が覚めましたので、昨日の記録を確認しておりました」
シモンは眼鏡をかけ、机の上に置かれた紙へ視線を向けた。
そこには昨日聞いた話と、実際に確認した道の状態が分けて書かれている。
「昨日のうちに整理したつもりでしたが、改めて見ると、まだ判断できないことが多いですね」
「うん。でも、分からないことが分かっているだけでも、前よりはいいと思うんだ」
ルシルが答えると、シモンは穏やかに頷いた。
「おっしゃるとおりです。以前なら、情報が不足していることを不安に感じるばかりだったかもしれませんが、今は確認する順序を考えられます」
その言葉に、ルシルは小さく笑った。
「シモンも、少しずつ旅に慣れてきたんだね」
「そうかもしれません。ただ、慣れたからこそ油断しないようにしたいものです」
シモンはそう答えながら、机の上の紙を揃えた。
ルシルは寝台から起き上がり、窓の外を眺めた。
庭の向こうでは、朝の仕事を始めた人々が行き交っている。
昨日、自分たちが南の道を調べている間も、この村ではいつもどおりの暮らしが続いていた。
そのことが、今朝は少し不思議に感じられた。
「んん……いい匂い……」
背後から眠たげな声が聞こえた。
振り返ると、モモが毛布の中から顔を出し、まだ半分ほど閉じた目で窓の方を見ていた。
「おはよう、モモ」
「おはよう、ルシル君……シモン君も、おはよう……」
モモは小さく欠伸をしてから、鼻をひくひくと動かした。
「なんだか、パンの匂いがする気がする……」
ルシルは思わず笑った。
「まだ窓も開けていないのに?」
「でも、するんだもん。きっと、共同窯の方で朝の準備をしてるんだよ」
モモはそう言って身体を起こし、窓の外へ目を向けた。
シモンは少しだけ口元を緩めた。
「モモ嬢の嗅覚は、食事に関しては実に頼もしいですね」
「えへへ。褒められた!」
「……褒め言葉として受け取っていただけたなら幸いです」
そのやり取りに、ルシルは声を立てて笑った。
昨日は道のことで慎重な判断が続いたが、こうしていつもの調子で朝を迎えられることが嬉しかった。
モモも二人の笑顔を見て、すっかり目が覚めたようだった。
「今日はどうするの? また南の丘へ行く?」
モモが尋ねると、ルシルは少し考えてから答えた。
「まだ決めていないよ。まずは朝ご飯を食べて、トルクとベルクの様子を見て、それから相談しようと思ってる」
「そっか。じゃあ、今日は相談の日になるかもしれないんだね」
「うん。昨日聞いた話だけだと、まだ安心して進めるとは言えないからね」
モモは頷き、寝台から降りた。
そして、窓際に置いていた旅帳面を手に取った。
「じゃあ、わたしも昨日の絵を見直しておく。もしかしたら、何か気づくことがあるかもしれないし!」
ルシルは微笑み、シモンと目を合わせた。
急がない旅を選んだはずなのに、知らない道が目の前に現れると、どうしても先へ進みたくなる。
けれど、今はその気持ちを三人で分け合いながら、立ち止まることもできるようになっていた。
◇
身支度を整えた三人が一階へ降りると、食堂にはすでに朝の光が差し込んでいた。
長い卓の上には木の器が並び、厨房からは温かい湯気が漂っている。
マリナは大きな鍋の中身を確かめているところだった。
「あら、おはよう。よく眠れたかしら?」
「おはようございます。はい、おかげさまでゆっくり休めました」
ルシルが答えると、マリナは満足そうに頷いた。
「それならよかったわ。昨日は朝から出かけて、また戻ってきたんだもの。思っているより疲れていたでしょう」
「そうかもしれません。夜はすぐに眠くなっちゃいました」
モモが笑うと、マリナもつられて笑った。
「朝ご飯は、麦を煮たものと野菜、それから少しだけ焼いたパンよ。今日は朝から仕事に出る人が多いから、早めに用意したの」
「ありがとうございます!」
モモの声が弾んだ。
シモンは食事の料金を確認し、三人は席に着いた。
運ばれてきた麦の粥は、昨日の豆の煮込みとは違い、少しさらりとした仕上がりだった。
刻んだ野菜が柔らかく煮込まれ、塩気も控えめで、朝の身体にはちょうどよい。
ルシルは匙で一口すくい、ゆっくりと味わった。
「優しい味だね。昨日は少し長く歩いたから、こういう朝ご飯が嬉しいな」
「うん! パンも香ばしくておいしいよ!」
モモは嬉しそうに頷きながら、焼いたパンを小さくちぎって粥と一緒に食べていた。
シモンは温かい茶を口にし、満足そうに息をついた。
「こうして落ち着いて朝食を取れるのは、ありがたいことですね」
その言葉を聞いたルシルは、少し悪戯っぽく笑った。
「シモン、最近それをよく言うようになったね」
「そうでしょうか?」
「うん。前は朝から予定を確認して、僕たちが食べ終わる頃には次の準備を考えていた気がする」
シモンは一瞬考え込んだ。
確かに、王城にいた頃の自分なら、食事中も次の予定を気にしていただろう。
しかし今は、温かい茶を飲み、仲間と会話をする時間そのものを楽しめている。
「……そうかもしれませんね」
シモンは静かに微笑んだ。
「旅を始めてから、予定どおりに進むことだけが大切ではないと、少しずつ分かってきた気がします」
「それ、すごくいいことだと思う!」
モモが嬉しそうに言った。
「だって、シモン君が楽しそうだと、わたしも嬉しいもん!」
シモンは少し照れたように視線を落とした。
「ありがとうございます、モモ嬢」
ルシルは二人を見ながら、穏やかな気持ちになっていた。
王城での生活を捨て、自由な旅を選んだこと。
その選択が正しかったのかどうか、誰かに証明してもらう必要はない。
こうして三人で朝食を囲み、何でもない会話を楽しめていることが、今のルシルにとっては何よりの答えだった。
◇
朝食を終えると、三人は裏手の馬小屋へ向かった。
屋根の下では、トルクとベルクが落ち着いた様子で過ごしていた。
朝の光が木の隙間から差し込み、二頭の毛並みを柔らかく照らしている。
ルシルが近づくと、トルクはすぐに耳を立てた。
「おはよう、トルク。昨日はありがとうね」
ルシルは首筋を撫で、身体の状態を確かめた。
昨日の道では大きな異常は見られなかったが、一晩休んだあとの様子も大切だった。
脚元に腫れはなく、歩き方にも目立った違和感はない。
ベルクも落ち着いており、シモンが蹄の周囲を確認している間、静かに立っていた。
「二頭とも、今のところ問題はなさそうですね」
シモンが言うと、ルシルはほっと息をついた。
「よかった。昨日は丘の途中までだったけど、上り坂もあったからね」
「ええ。特に馬車を引く場合、道の状態によって負担が変わります。今日は無理に動かさず、十分に休ませるのもよいでしょう」
モモはベルクのそばに立ち、優しく声をかけた。
「今日はお休みになるかもしれないよ。いっぱい食べて、ゆっくりしてね」
ベルクは静かに耳を動かした。
その反応に、モモは嬉しそうに笑った。
「聞いてくれたみたい!」
「きっと、モモの声を覚えているんだろうね」
ルシルが答えると、モモは少し照れたように頬を緩めた。
そこへ、馬たちの世話をしている男性がやってきた。
「おはよう。昨日はよく休んでたよ。今朝も飼葉はきちんと食べてる」
「ありがとうございます。今日はまだ出発するか決めていないんですが、もう少し休ませたいと思っています」
ルシルが説明すると、男性は頷いた。
「それなら、慌てなくていい。馬も人も、休めるときに休んだ方がいいからな」
シモンは水と飼葉の残りについて確認した。
男性は今のところ問題はないと答えたが、長く滞在するなら追加の手配が必要になることも説明してくれた。
ルシルは礼を述べ、三人で費用を確認してから、必要な分をお願いすることにした。
馬小屋を出る頃には、朝の空気も少しずつ温かくなっていた。
庭の向こうでは、マリナが洗濯物を干している。
モモはその姿を見つけ、嬉しそうに手を振った。
「マリナさん、おはようございます!」
「おはよう。馬たちは元気だった?」
「はい! トルクもベルクも元気でした!」
「それならよかったわ」
マリナは笑いながら、布を物干しへ掛けた。
「今日はどうするの? また出かけるのかしら」
ルシルは少し考えてから答えた。
「まだ決めていないんです。昨日聞いた話だけだと、南の道を進むには情報が足りない気がして」
マリナは頷いた。
「そうね。無理に進むことはないわ。もし今日も泊まるなら、部屋のことは早めに相談してちょうだい」
「はい。ありがとうございます」
三人は礼を述べ、休み家の裏庭にある小さな腰掛けへ向かった。
◇
庭の木陰には、朝の風が心地よく通っていた。
ルシルは腰掛けに座り、昨日の道について書かれた紙を広げた。
モモは隣に座って旅帳面を開き、シモンは少し離れた場所から、二人の記録を見比べている。
「じゃあ、今分かっていることを整理しようか」
ルシルが言うと、モモは元気よく頷いた。
「うん!」
シモンは紙を指さした。
「まず、昨日私たちが実際に確認したのは、ハルミナから南へ続く道のうち、最初の低い丘の肩までです。馬車で進めた範囲と、徒歩で確認した範囲は分けて考える必要があります」
「それから、丘の向こうは道が狭くなってたんだよね」
モモが続けた。
「ええ。少なくとも、あの時点で馬車を進める判断はできませんでした」
ルシルは頷いた。
「昨日、広場で話を聞いた人も、丘を越えたわけじゃなかったんだよね」
「はい。最近、あの道を馬車で通った人がいるかどうかも、確認できていません」
シモンは落ち着いた声で答えた。
モモは旅帳面を見つめ、少し考え込んだ。
「じゃあ、やっぱり今すぐ進むのは難しいのかな」
ルシルはすぐには答えなかった。
南へ続く道を進みたい気持ちはある。
しかし、次の集落までの距離が分からず、途中の水場も確認できていない。
トルクとベルクを連れている以上、軽い気持ちで進むわけにはいかなかった。
「今の情報だけなら、そうだと思う。でも、別の道があるかもしれないし、もっと詳しい人がいるかもしれない」
ルシルはそう答えた。
「だから、今日はもう少し調べてみたいな」
シモンは頷いた。
「私も賛成です。ただし、情報が得られなかった場合にどうするかも、考えておいた方がよいでしょう」
「うん。もし今日も分からなかったら、明日また考えよう」
モモは少し笑った。
「なんだか、毎日相談してるね」
「そうだね。でも、それも旅の一部なんだと思う」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! わたし、こういう時間も好きだよ」
シモンは二人を見ながら、穏やかに微笑んだ。
かつて王城で働いていた頃なら、予定が決まらないことを不安に感じていただろう。
しかし今は、こうして三人で話し合いながら、少しずつ道を選んでいくことに意味があると感じていた。
◇
午前のうちに、三人はもう一度村の広場へ向かうことにした。
井戸の周囲では、昨日と同じように住民たちが水を汲んでいた。
バルドの姿も見える。
ルシルたちに気づくと、彼は軽く手を上げた。
「おう、今日も来たか」
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
ルシルが頭を下げると、バルドは笑った。
「気にするな。何か分かったか?」
「いえ、まだです。今日は別の道について、もう少し聞いてみようと思って」
バルドは顎に手を当てた。
「別の道か……。畑へ向かう細い道はいくつかあるが、遠くまで続いているかどうかは分からんな」
シモンは頷いた。
「昨日も同じ話を伺いました。もし、ハルミナから南以外の方向へ向かう道で、馬車が通りやすいものをご存じでしたら、教えていただけませんか」
バルドは少し考え込んだ。
「東へ戻る道なら、ここへ来たときに通っただろう。北へ向かえば、また大きな道へ戻れる。だが、南へ抜ける別の道となると、俺には確かなことは言えん」
ルシルは頷いた。
「ありがとうございます。やっぱり、分からない道を無理に進むより、知っている道へ戻ることも考えた方がいいですね」
バルドは感心したように笑った。
「そうだな。旅人は前へ進むことばかり考えがちだが、戻れる道を知っているのも大事なことだ」
モモは旅帳面へその言葉を書き留めた。
「戻れる道を知っているのも大事……。うん、いい言葉だね」
バルドは少し照れたように笑った。
「そんな大したことを言ったつもりはないんだがな」
三人は礼を述べ、井戸の邪魔にならない場所へ移動した。
広場では、子どもたちが小さな石を並べて遊んでいた。
モモはその様子を眺め、少しだけ微笑んだ。
「昨日もここで遊んでた子たちかな」
「そうかもしれないね」
ルシルが答えると、モモは旅帳面を閉じた。
「ハルミナって、なんだか落ち着くね」
「うん。僕もそう思う」
ルシルは広場を見回した。
井戸のそばで話す人々。
荷物を運ぶ男性。
家の前で洗濯物を干す女性。
子どもたちの笑い声。
どれも特別な出来事ではない。
しかし、その一つ一つが、この村の暮らしを形作っている。
ルシルはその光景を見ながら、自分たちが旅をしている理由を改めて考えていた。
王位を手放したとき、彼は自由になりたいと思った。
誰かに決められた道ではなく、自分で選んだ道を歩きたかった。
そして今、その自由は、こうした小さな村の朝を楽しむことにもつながっている。
(僕が欲しかったのは、きっとこういう時間なんだ)
ルシルは静かに息を吐いた。
隣では、モモが子どもたちの遊びを楽しそうに眺めている。
シモンも、井戸の周囲の人々を見ながら、穏やかな表情をしていた。
三人はしばらく、広場の空気を楽しんだ。
◇
休み家へ戻る途中、モモがふと足を止めた。
道端には、小さな黄色い花が咲いていた。
昨日、南の丘へ向かう途中で見た花によく似ている。
「あっ、この花!」
モモはしゃがみ込み、花を覗き込んだ。
「昨日の草原にも咲いてたよね」
ルシルも隣へしゃがんだ。
「本当だ。似てるね」
シモンは少し離れた場所から二人を見守った。
「同じ種類かどうかは分かりませんが、形はよく似ていますね」
モモは旅帳面を開き、花の形を簡単に描いた。
小さな花弁がいくつも重なり、細い茎の先で風に揺れている。
彼女は丁寧に線を重ねながら、嬉しそうに笑った。
「こういうのも、旅の思い出になるんだね」
「うん。昨日は丘の向こうが気になって、あまりゆっくり見られなかったけど、今日はこうして見られる」
ルシルが答えると、モモは頷いた。
「戻ってきたから見つけられたものもあるんだね」
その言葉に、ルシルは少し考え込んだ。
確かに、昨日のまま南へ進んでいたら、この花を見つけることはなかったかもしれない。
もちろん、別の場所で別の景色を見られた可能性もある。
けれど、今ここで見つけた小さな花が、昨日の判断を間違いだったと思わせない理由の一つになっていた。
「そうだね。戻る旅にも、新しい発見があるんだ」
ルシルが微笑むと、モモも嬉しそうに笑った。
シモンは二人の会話を聞きながら、静かに頷いた。
道を選ぶことには、必ず何かを諦める面がある。
しかし、選ばなかった道のことばかり考えていては、今歩いている道の景色を見失ってしまう。
そのことを、二人は自然に理解しているようだった。
◇
休み家へ戻ると、マリナが玄関先で掃除をしていた。
三人の姿を見ると、手を止めて声をかける。
「お帰りなさい。何か分かった?」
「少しだけです。でも、南へ抜ける別の道については、まだ確かな情報がありませんでした」
ルシルが答えると、マリナは頷いた。
「そう。だったら、今日は無理に出発しない方がいいかもしれないわね」
「はい。僕たちも、そう考えています」
シモンが答えた。
マリナは三人を見回し、少し笑った。
「それなら、部屋は今日も使えるわよ。今のところ、ほかに泊まる予定の人はいないから」
ルシルは二人へ目を向けた。
モモは嬉しそうに頷き、シモンも落ち着いた表情で賛成した。
「では、もう一晩お願いできますか」
「もちろんよ」
マリナは笑顔で答えた。
三人は宿泊の条件を改めて確認し、必要な費用を支払うことにした。
ルシルはそのやり取りを終えてから、ほっと息をついた。
これで、少なくとも今日の夜は安心して休める。
南へ進むかどうかは、明日以降に考えればいい。
その余裕があることが、今はありがたかった。
◇
昼食までの時間、三人は休み家の庭で過ごすことにした。
マリナが昨日取り込んだ布を畳んでいると、モモが手伝いを申し出た。
「何かできること、ありますか?」
マリナは少し驚いたような顔をした。
「お客さんなんだから、無理に働かなくてもいいのよ」
「でも、わたし、こういうことも好きなんです。昨日、庭の落ち葉を集めたのも楽しかったし」
モモが笑うと、マリナは少し考えてから頷いた。
「それなら、乾いた布を種類ごとに分けてもらおうかしら。大きいものと小さいものを分けるだけでいいわ」
「はい!」
モモは嬉しそうに返事をした。
ルシルも手伝いを申し出ると、マリナは笑いながら布の束を渡してくれた。
シモンは二人の様子を見て、少し困ったように微笑んだ。
「では、私もお手伝いしましょう」
「シモン君も一緒!」
モモが嬉しそうに言うと、シモンは頷いた。
三人は庭の腰掛けに並び、乾いた布を畳み始めた。
大きな布は二人で端を持ち、皺を伸ばしてから丁寧に重ねる。
小さな布は種類ごとに分け、籠へ入れていった。
作業そのものは難しくなかったが、布の大きさや厚さによって畳み方を変える必要があり、思っていたよりも気を使う。
「こういう仕事も、毎日あるんだね」
ルシルが呟くと、マリナは頷いた。
「そうよ。旅人が来ても来なくても、洗濯も掃除も必要だからね。誰も泊まらない日でも、やることはたくさんあるの」
ルシルは布を畳む手を止めずに、その言葉を聞いていた。
王城にいた頃、清潔な寝具や整えられた部屋は、いつも当たり前のように用意されていた。
しかし、その裏には、こうした小さな仕事が積み重なっていたのだ。
「ありがとうございます。僕たちが気持ちよく休めるのも、マリナさんたちのおかげなんですね」
マリナは少し照れたように笑った。
「そんな大げさなことじゃないわよ。でも、そう言ってもらえると嬉しいわね」
モモも頷いた。
「わたしも、これから宿に泊まるときは、もっと大事に使おうって思いました」
「それだけで十分よ」
マリナは穏やかに答えた。
庭には、布の擦れる音と、時折聞こえる鳥の声が響いていた。
ルシルはその時間を、心地よく感じていた。
旅をしているのに、今日はほとんど遠くへ進んでいない。
それでも、知らなかったことを知り、誰かの仕事を手伝い、仲間と笑い合っている。
そんな一日も、悪くないと思えた。
◇
午後になると、三人は部屋へ戻り、今日聞いた話を整理した。
モモの旅帳面には、昨日の丘の絵に加えて、今朝見つけた黄色い花が描かれていた。
シモンの紙には、南の道について確認できたことと、まだ不明なことが分けて書かれている。
ルシルはその二つを見比べながら、ゆっくりと口を開いた。
「今のところ、南へ進む道は分からないことが多いね」
「はい。特に、次の集落までの距離と水場が不明な点は大きいです」
シモンは頷いた。
「馬車が通れるかどうかも、丘の先については確認できていません。今すぐ出発する判断は避けた方がよいでしょう」
モモは少し考え込んだ。
「じゃあ、ほかの方向へ行くことも考える?」
ルシルは頷いた。
「うん。南へ行くことだけが目的じゃないからね。僕たちは自由に旅をしているんだし、別の道を選んでもいいと思う」
シモンは静かに微笑んだ。
「その考え方なら、選択肢は広がりますね。以前通った道へ戻ることもできますし、別の場所で情報を集めることもできます」
「でも、どっちへ行くかは、まだ決めなくていいんだよね?」
モモが尋ねると、ルシルは笑顔で頷いた。
「うん。今日はここまでにしよう。明日の朝、もう一度相談しよう」
モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今日はハルミナを楽しむ日だね!」
その言葉に、ルシルは思わず笑った。
「そうだね。せっかくもう一晩泊まるんだし、ゆっくり過ごそう」
シモンも頷いた。
「ただし、明日の天候と馬たちの状態は確認しておきましょう」
「もちろん!」
モモが元気よく返事をした。
三人は顔を見合わせ、自然と笑い合った。
◇
夕方が近づく頃、ルシルは一人で窓際に立っていた。
庭の向こうでは、トルクとベルクが穏やかに休んでいる。
その姿を眺めながら、ルシルは今日一日のことを振り返っていた。
南へ進むための決定的な情報は得られなかった。
それでも、村の人々と話し、馬たちの様子を確かめ、マリナの仕事を手伝った。
モモは新しい花を描き、シモンは道について慎重に考え続けてくれた。
何も進んでいないように見える一日にも、確かに積み重なったものがある。
(僕たちの旅は、どこかへ急いでたどり着くためのものじゃない。こうして一日ずつ、自分たちで選んでいくためのものなんだ)
ルシルは静かに微笑んだ。
背後では、モモが旅帳面を閉じる音がした。
「ルシル君、夕ご飯の時間、そろそろかな?」
その声に、ルシルは振り返った。
「そうだね。マリナさんに聞いてみようか」
シモンも机から顔を上げた。
「その前に、明日の確認事項だけまとめておきましょう。天候、馬たちの状態、食料と水の残り。それから、進む方向についてですね」
「うん。それでいいと思う」
ルシルは頷いた。
モモも嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日も三人で決めようね!」
ルシルは二人を見つめ、穏やかに答えた。
「もちろん。これからも、ずっとそうしよう」
窓の外では、ハルミナの夕暮れが静かに広がっていた。
南へ続く道は、まだ遠くまで分かっていない。
次の集落も、水場も、古い石積みの場所も、確かなことは何一つ決まっていなかった。
それでも、三人の旅は止まっていない。
今日という一日を過ごしたことで、ルシルたちはまた少しだけ、自分たちらしい旅の形を見つけていた。
そして、明日もまた、三人で新しい一日を選ぶのだった。




