第138話 ハルミナに戻った午後と、南の道を知る人を待つ時間
ハルミナの旅人の休み家へ戻ってから、しばらくの時間が過ぎていた。
開け放した窓から入ってくる風には、朝の草原で感じた乾いた匂いとは違い、畑の土と人々の暮らしが混ざったような温かさがあった。庭の向こうでは誰かが木桶を運ぶ音がしており、ときおり馬の鼻息が聞こえてくるたびに、ルシルは自然とそちらへ目を向けていた。
朝には南へ向けて出発したはずだったが、今は三人とも、昨日まで使っていた部屋の机を囲んでいる。
窓際にはモモが座り、開いた旅帳面の上に小さな石を置いて頁がめくれないようにしていた。シモンはその向かい側で、持参した紙に道の状態を書き出している。ルシルは二人の間に立ち、窓の外を眺めてから、机の上へ視線を戻した。
「こうして見ると、思ったよりいろいろ分かったんだね」
ルシルが言うと、モモは顔を上げ、少し得意そうに笑った。
「うん! 最初に馬車を回せそうな場所があって、石が二つ並んでいるところがあって、その先から丘へ上がっていくんだよね。それに、丘の肩から先はシモン君が歩いて見たところだから、馬車で通った道とは分けて描いたんだよ」
モモは旅帳面を指でなぞりながら説明した。線の太さは場所によって少し違っていたが、実際に通った範囲と、遠くから確認しただけの場所を区別しようとした跡が、頁のあちこちに残っている。
シモンはその絵を覗き込み、静かに頷いた。
「十分に役立つ記録です。特に、引き返す判断をした場所が明確なのはよいですね。今後、別の人から道の情報を得られたとしても、私たち自身が確認した範囲と混同せずに済みます」
「えへへ。そう言ってもらえると嬉しいな」
モモは頬を緩めたものの、すぐに鉛筆を置いた。
「でも、次の村がどこにあるかは、まだ分からないんだよね」
その言葉に、ルシルは頷いた。
ハルミナで出会ったバルドから、南へ続く道のことは聞いていた。低い丘の間を抜けること、途中には畑へ向かう細い道があること、古い石積みが目印になること。しかし、その先にある集落までの距離については、バルド自身も確かなことを知らなかった。
今日、実際に丘の手前まで行ってみたことで、さらに一つ分かったことがある。
少なくとも、自分たちの馬車で何も考えずに進んでよい道ではなかった。
「次の村が分からないまま進むのは、やっぱり心配だね。水も食べ物も、無限に持っているわけじゃないし」
ルシルがそう言うと、シモンは手元の紙を整えた。
「ええ。人間の食料だけなら、ある程度は調整できます。しかし、トルクとベルクの水や飼葉まで含めれば、必要な量は大きくなります。途中に水場があると確認できない以上、準備だけで解決できる問題ではありません」
「魔法で何とかできたら便利なんだけどなあ」
モモが少し残念そうに呟くと、ルシルは微笑んだ。
「そうだね。でも、何でも魔法で済ませられたら、今日みたいに道を確かめたり、村の人に話を聞いたりする機会も減っちゃうかもしれない」
「それは……ちょっと寂しいかも」
モモは考えるように首を傾げた。
彼女にとって、魔法は長い間、誰かの役に立つために使うものだった。困っている人がいれば助ける。求められれば力を尽くす。それが当たり前だった頃には、できないことがあると分かっただけで、自分が何かを間違えたような気持ちになることもあった。
けれど、今は違う。
ルシルもシモンも、彼女に何でも解決してほしいとは言わない。
できることを持ち寄り、できないことは認め、それでも一緒に考えてくれる。
「じゃあ、わたしは道を覚える係を頑張るね。魔法じゃなくても、役に立てることがあるんだもん」
「もちろんだよ。今日だって、モモの絵がなかったら、帰り道であの石を見つけたときに、あんなに安心できなかったと思う」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。
その様子を見ていたシモンも、穏やかな表情で頷く。
「それでは、私は確認事項を整理しておきましょう。午後に人の集まる時間があれば、マリナ殿が声をかけてくださるかもしれません。ただ、話を聞けるとしても、相手が実際にどこまで通ったのかを確かめる必要があります」
「うん。誰かが大丈夫って言ったから大丈夫、じゃなくて、その人が何を見たのかが大切なんだね」
ルシルは机に手をつき、紙へ書かれた項目を見た。
南の道の幅。
馬車が通れる場所。
途中の水場。
次の集落までの距離。
そして、最近その道を通った人がいるかどうか。
どれも、今の三人にとって必要な情報だった。
しかし、すべてが一度に分かるとは限らない。
「聞けることから聞いてみよう。それで、分からなかったら分からなかったで、また考えればいい」
ルシルの言葉に、シモンは小さく微笑んだ。
「はい。そのために、今日戻ってきたのですから」
◇
昼食をどうするか相談するため、三人は一階へ降りた。
休み家の食堂には、朝とは違う静けさがあった。長い卓の上には洗い終えた器が伏せられ、窓辺には乾かしている布が並んでいる。厨房からは野菜を刻む音が聞こえていたが、まだ食事の時間には少し早いらしく、ほかの客の姿はなかった。
マリナは奥の棚を整理しているところだった。
三人に気づくと、手を止めて顔を上げる。
「あら、少しは落ち着いたかしら。馬たちも休めているようよ」
「はい。ありがとうございます。部屋で今日の道を整理していたんです」
ルシルが答えると、マリナは感心したように目を細めた。
「そういうことをきちんとする旅人さんは、案外少ないのよ。道が悪かったって怒って帰ってくる人もいるし、無理をして進んでから困る人もいるからね」
「僕たちも、少し先まで行きたい気持ちはあったんです。でも、馬車を傷めたり、トルクたちに無理をさせたりするのは嫌だったので」
「それでいいと思うわ。道は逃げないもの」
マリナはそう言ってから、厨房の方へ視線を向けた。
「お昼はまだだったわね。朝に出たばかりだから、戻ってくるとは思っていなくて。簡単なものなら用意できるけれど、どうする?」
ルシルは二人へ目を向けた。
モモは遠慮がちに手を上げた。
「あの、温かいものが食べられるなら、すごく嬉しいです。でも、急に戻ってきたのに、迷惑じゃないですか?」
マリナは少し驚いたような顔をしたあと、柔らかく笑った。
「迷惑なんてことはないわよ。もちろん、材料の都合で豪華なものは出せないけれどね。野菜と豆の煮込みなら、少し時間をもらえれば作れるわ」
「豆の煮込み!」
モモの声が弾んだ。
ルシルは思わず笑い、シモンは眼鏡の奥で目を細めた。
「それでは、三人分お願いできますか。料金も含めて確認させてください」
シモンが丁寧に尋ねると、マリナは頷き、食事の代金を説明した。
シモンは手持ちの金銭と照らし合わせ、問題がないことを確認してから注文をお願いした。朝の出発前に宿泊分を清算していたため、今回の宿泊と食事、馬たちの世話は改めて必要な分を支払うことになる。
ルシルはそのやり取りを見ながら、自分たちが旅を続けるために使っているものの重さを考えていた。
宿の部屋。
温かい食事。
馬たちの飼葉。
水を汲める場所。
どれも、誰かが働いて用意してくれているものだ。
王城で暮らしていた頃には、そうしたものが当たり前のように整えられていた。もちろん、その裏に大勢の人々の働きがあることは知っていたつもりだったが、自分で一つずつ確認して支払うようになってから、以前とは違う実感が生まれている。
(僕が自由に旅をできるのは、誰かの仕事に助けられているからなんだな)
そう考えていると、マリナがこちらを見た。
「どうしたの? 難しい顔をして」
「いえ。こうして温かいご飯を食べられるのって、ありがたいなと思って」
ルシルが答えると、マリナは少し照れたように笑った。
「そんなことを言われたら、張り切ってしまうわね。待っていてちょうだい」
マリナが厨房へ戻ると、モモはルシルの袖を軽く引いた。
「ルシル君、今の言い方、すごくよかったと思う」
「えっ? 何が?」
「マリナさん、嬉しそうだったから。わたしも、ちゃんとありがとうって言おう」
ルシルは少し照れくさくなり、頬を掻いた。
「うん。そうしよう」
◇
食事ができるまでの間、三人は裏手の馬小屋へ向かった。
トルクとベルクは屋根のある場所で休んでおり、朝に出発したときよりも落ち着いた様子だった。飼葉を管理している男性が二頭の様子を見てくれていたが、ルシルたちも自分たちの目で確かめることにした。
ルシルが近づくと、トルクはすぐに耳を立てた。
「お疲れさま、トルク。今日は途中で戻ってきちゃったけど、頑張ってくれてありがとう」
ルシルは首筋を撫でながら、毛並みや汗の残り具合を確かめた。
トルクは鼻先を寄せ、何かを探すようにルシルの手元を嗅いでいる。
「食べ物は持ってないよ。さっき休憩で草を食べたばかりでしょう?」
その言葉に、モモが笑った。
「トルクはいつでもお腹が空いてるのかな」
「元気があるのはいいことですが、食べすぎも困りますからね」
シモンはそう答えながら、ベルクの脚元を確認した。
ベルクは落ち着いて立っており、蹄に目立つ異常もない。今日の道では大きな石を踏ませないよう気をつけていたが、帰ってから確かめることも大切だった。
男性は二頭の水の様子を見ながら、今日の飼葉について説明してくれた。
「戻ってきたばかりだから、いきなり大量に食わせることはしてないよ。水も様子を見ながら飲ませてある。もう少し落ち着いたら、いつもの分をやろうと思ってる」
「ありがとうございます。追加で必要な費用があれば、きちんと払います」
ルシルが言うと、男性は頷いた。
「その辺りはマリナと話してくれればいい。こっちは馬たちが元気なら、それで十分だ」
ルシルは礼を述べ、もう一度二頭を見た。
馬車で旅を続ける以上、彼らの状態は自分たちの予定よりも優先しなければならない。
南へ進めなかったことに少し残念な気持ちはあったが、二頭がこうして穏やかに休んでいる姿を見ると、戻ってきた判断は間違っていなかったと思えた。
モモはベルクのそばへ寄り、声を落として話しかけた。
「今日は丘の途中までだったけど、また一緒に旅しようね。次はもっと歩きやすい道が見つかるといいな」
ベルクはゆっくりと耳を動かした。
その反応を見たモモは、嬉しそうに笑った。
「聞いてくれたみたい」
「きっと、モモの声は覚えているんだろうね」
ルシルが答えると、モモは少し照れたように頬を緩めた。
シモンは二人の様子を見守りながら、以前よりも自然に笑える自分に気づいていた。
王城にいた頃なら、馬の世話は担当の者に任せ、次の予定を整えることに意識を向けていただろう。
今は違う。
馬の呼吸を確かめ、飼葉の量を相談し、仲間が楽しそうに話しかける姿を眺める。
そうした時間にも、急いで終わらせる必要を感じなくなっていた。
◇
食堂へ戻ると、豆と野菜の煮込みがちょうど出来上がるところだった。
厨房から漂う香りに、モモは思わず足を止めた。
玉ねぎに似た野菜の甘い匂いと、煮込まれた豆の柔らかな香りが混ざり合っている。朝から草原を歩いてきた身体には、それだけで十分なご馳走のように感じられた。
「いい匂い……!」
モモが呟くと、マリナは笑いながら器を並べた。
「熱いから気をつけてね。豆は柔らかくなっているけれど、急いで食べると口を火傷するわよ」
「はい!」
三人は席に着き、温かい煮込みを受け取った。
器の中には柔らかく煮えた豆と、細かく刻まれた野菜がたっぷり入っていた。汁には野菜の甘みが溶け込んでおり、香辛料は控えめだったが、身体の奥まで温まるような味がした。
ルシルは一口食べ、思わず表情を緩めた。
「おいしい……。朝から外にいたから、余計に温かさが染みるね」
「うん! 豆がほくほくしてる!」
モモは嬉しそうに頷きながら、もう一口をゆっくり味わった。
シモンも静かに食事を進め、しばらくしてから口を開いた。
「こういう食事はありがたいですね。身体を温められますし、消耗した分を補うこともできます」
「シモン君、今は難しいこと考えないで食べてもいいんだよ?」
モモが少し悪戯っぽく言うと、シモンは一瞬言葉に詰まった。
「……それも、そうですね」
ルシルは思わず笑った。
「でも、シモンがそういうことを考えてくれるから、僕たちは安心して旅ができるんだよ。だから、今は美味しいって思うだけでもいいんじゃないかな」
シモンは二人を見比べ、少し困ったように笑った。
「では、そうさせていただきます。……とても美味しいです」
その言葉を聞いたモモは、満足そうに頷いた。
食堂には、しばらく食器の触れ合う音だけが響いた。
窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めている。村のどこかから子どもたちの笑い声が聞こえ、遠くで鶏が鳴いた。
ルシルはその音を聞きながら、朝の草原を思い出していた。
丘の向こうに何があるのか。
どこまで道が続いているのか。
その答えはまだ分からない。
けれど、今は焦らずに食事を楽しめる。
それだけで、十分に幸せなことのように感じられた。
◇
食事を終えてしばらくすると、マリナが食堂へ戻ってきた。
手には洗い終えた布を持っていたが、三人の席の近くで足を止める。
「そういえば、南の道のことなんだけれどね。午後に広場へ行くなら、少し話を聞けるかもしれないわ」
ルシルは顔を上げた。
「最近通った人がいるんですか?」
「そこまでは分からないの。ただ、荷車で畑の外まで出る人が、午後には井戸の辺りへ戻ってくることがあるのよ。南の丘まで行ったことがあるかもしれないわ」
マリナはそう説明してから、少し申し訳なさそうに付け加えた。
「もちろん、確かなことは言えないけれどね」
「いえ、それだけでも助かります。僕たち、今日の道を実際に見てきたので、話を聞けるなら比べてみたいんです」
ルシルが答えると、マリナは頷いた。
「それなら、急がずに行ってみるといいわ。広場に人が集まるのは、もう少し日が傾いてからだと思うから」
三人は礼を述べ、午後の予定を相談した。
すぐに広場へ向かっても、話を聞きたい相手がいるとは限らない。
そこで、まずは部屋で休み、時間を見て井戸の方へ行くことにした。
モモは食堂を出る前に、マリナへ改めて頭を下げた。
「お昼ご飯、とっても美味しかったです。急に戻ってきたのに、作ってくれてありがとうございました!」
マリナは柔らかく笑った。
「こちらこそ、きれいに食べてくれてありがとう。またお腹が空いたら言ってちょうだい」
モモは嬉しそうに頷き、ルシルたちと一緒に階段を上がった。
◇
部屋へ戻った三人は、それぞれ少しだけ休むことにした。
ルシルは窓際の椅子に座り、外の景色を眺めていた。
庭では風に揺れる葉が影を作り、石畳の上をゆっくりと移動している。馬小屋の方からは、トルクの鼻息らしい音が聞こえた。
モモは寝台の端に腰掛け、旅帳面を開いていた。
今日見た鳥の姿を思い出しながら、羽の先が白かったことを小さな絵に残している。
シモンは机に向かい、道について聞きたいことを整理していたが、しばらくすると筆を置いた。
そして、窓の外へ目を向ける。
「ルシル様」
「どうしたの?」
「今日、引き返すと決めたときのことですが……」
シモンは少し言葉を選んだ。
「以前の私なら、もう少し先まで確認してから判断したかもしれません。進める可能性があるなら、できるだけ情報を集めるべきだと考えていたでしょう」
ルシルは静かに頷いた。
「うん。シモンは昔から、僕のためにできることを全部やろうとしてくれていたからね」
「ですが、それが必ずしも最善とは限らないのですね」
シモンは眼鏡を外し、布で軽く拭いた。
「今日のように、戻る場所が確保できているなら、そこで判断することにも意味がある。無理に先へ進まなかったからこそ、こうして落ち着いて次のことを考えられています」
ルシルは少し笑った。
「僕も、そう思うよ」
それから、言葉を続けた。
「王城にいた頃は、何かを決めるとき、正しい答えを選ばなきゃいけないって思うことが多かったんだ。間違えたら誰かに迷惑がかかるし、僕が迷っている姿を見せちゃいけない気もしてた」
シモンは黙って耳を傾けた。
「でも、今は違う。迷ったら二人に相談できるし、分からないことがあったら調べられる。今日みたいに、一度戻って考え直すことだってできるんだ」
ルシルは窓の外へ目を向けた。
「それが、すごく嬉しいんだよ」
シモンはしばらく何も言わなかった。
王城でルシルに仕えていた頃、彼がどれほど多くのことを背負っていたか、シモンは知っているつもりだった。
しかし、今の言葉を聞いて初めて、ルシルが自由を求めた理由の一端を、以前より深く理解できた気がした。
「……私も、嬉しく思います」
シモンは静かに答えた。
「ルシル様が、そうして笑っていられることが」
ルシルは少し照れくさそうに笑った。
「ありがとう、シモン」
そのやり取りを聞いていたモモは、旅帳面から顔を上げた。
「ねえ、二人とも」
「どうしたの?」
「わたしも、今の旅が好きだよ」
モモは少しだけ真面目な顔をしていた。
「昔は、誰かの役に立たなきゃって思うことが多かったの。でも今は、絵を描いたり、美味しいものを食べたり、知らない道を歩いたりするだけでも、楽しいって思えるんだ」
ルシルとシモンは、静かに彼女を見つめた。
「だから、今日戻ってきたことも、全然嫌じゃないよ。むしろ、またマリナさんに会えて嬉しかったし、トルクたちも休めたし、こうしてお話もできたし……」
モモは少し照れたように笑った。
「わたし、今の毎日が大好きなんだ」
ルシルは胸の奥が温かくなるのを感じた。
シモンも、穏やかに微笑んだ。
三人はしばらく、何も言わずに窓の外を眺めていた。
午後の光が、部屋の中を柔らかく照らしている。
◇
日が少し傾き始めた頃、三人は広場へ向かった。
休み家を出ると、村の道には午前中よりも人の姿が増えていた。
畑仕事を終えたらしい男性が道具を肩に担いで歩き、子どもたちは家の前で小さな石を並べて遊んでいる。
井戸のある広場では、何人かの住民が桶を持って順番を待っていた。
バルドの姿も見える。
ルシルたちに気づくと、彼は少し驚いたように眉を上げた。
「おや、戻ってきたのか」
「はい。南の丘の手前まで行ったんですが、その先の道が馬車には狭そうだったので、今日は戻ることにしました」
ルシルが説明すると、バルドは頷いた。
「そうか。無理をしなかったなら、それでいい。あの道は、場所によって幅が変わるからな」
シモンは一歩前へ出た。
「今日、丘の肩までは確認しました。ただ、その先の草地が柔らかい可能性もあり、馬車を進める判断はできませんでした」
「なるほどな」
バルドは顎に手を当てた。
「俺も最近は、あの先まで行っていないからな。昔のことなら多少は知っているが、今の道の状態とは違うかもしれん」
「そうですよね」
ルシルは頷いた。
「だから、最近通った人がいれば、話を聞いてみたいと思って」
バルドは広場を見回した。
「荷車で畑の外まで行く連中なら、夕方には戻ってくることがある。だが、丘を越えたかどうかは分からん。少し待ってみるか?」
「はい。お願いします」
三人は井戸の邪魔にならない場所へ移動した。
モモは旅帳面を取り出し、今日の道について書いた頁を開く。
広場には、桶が井戸の縁に触れる音や、人々の話し声が響いていた。
ルシルはその様子を眺めながら、ハルミナの人々がいつもどおりの一日を過ごしていることに、妙な安心感を覚えていた。
自分たちにとっては大きな判断だった今日の引き返しも、この村では日常の小さな出来事の一つにすぎない。
それでも、話を聞いてくれる人がいる。
それがありがたかった。
しばらくすると、広場の向こうから荷車を引く男性が現れた。
荷台には農具と空の籠が積まれており、男性は井戸のそばで足を止めた。
バルドが声をかける。
「おう、ちょうどいいところへ戻ったな。少し聞きたいことがあるんだが」
男性は荷車を止め、こちらを見た。
「何だい?」
「この旅人たちが、南の丘へ向かう道を調べていてな。最近、あの辺りを通ったか?」
男性は少し考えた。
「南の丘か。手前の畑までは行ったが、丘を越えたわけじゃないな」
ルシルはすぐに頷いた。
「それでも、教えていただけることがあれば助かります。今日、僕たちは丘の肩まで馬車で進んだんですが、その先が狭くて引き返したんです」
男性は少し驚いたような顔をした。
「それなら、無理しなくて正解だったかもしれん。俺の荷車は小さいから、畑の脇を通れるが、旅の馬車だと話が違うからな」
シモンは慎重に尋ねた。
「最近、丘の向こう側まで荷車が通ったという話はありますか?」
「いや、俺は聞いてない。通った人がいないとは言えんが、少なくとも俺の知ってる範囲ではな」
シモンは頷き、その言葉を記録した。
モモも旅帳面へ『最近通った人の話は聞いていない』と書き添える。
男性は三人の様子を見て、少し笑った。
「ずいぶん真面目に調べてるんだな」
「はい。トルクとベルクっていう馬たちも一緒なので、無理をさせたくなくて」
モモが答えると、男性は納得したように頷いた。
「そりゃ大事だ。馬が動けなくなったら、旅人も困るからな」
ルシルは礼を述べ、さらに尋ねた。
「南へ行く別の道をご存じですか?」
男性は首を傾げた。
「畑へ入る細い道はいくつかあるが、遠くへ抜ける道として使えるかは知らんな。俺たちは畑へ行ければいいから、その先までは気にしてないんだ」
「そうですか。ありがとうございます」
ルシルは無理に聞き出そうとはせず、丁寧に頭を下げた。
男性も軽く手を振り、井戸の方へ向かった。
バルドは三人を見て、少し申し訳なさそうに笑った。
「大した話じゃなかったな」
「いえ、十分です」
シモンが答えた。
「少なくとも、畑へ向かう道と、南へ抜ける道を混同しない方がよいことは分かりました。それに、最近の通行状況について確かな情報がないことも確認できましたから」
バルドは感心したように頷いた。
「そう考えられるなら、旅は上手くいくだろうな」
ルシルは少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます。でも、まだまだ分からないことばかりです」
「分からんことを分からんと言えるなら、それで十分だ」
バルドはそう言って、井戸の桶を整え始めた。
三人は礼を述べ、広場を後にした。
◇
休み家へ戻る道すがら、モモは旅帳面を開いたまま歩いていた。
ルシルは転ばないよう声をかけ、彼女が足を止めてから頁を覗き込む。
「何を書いてるの?」
「今日聞いたことを、忘れないうちに書いてるの。南の丘を越えた人の話は聞けなかったけど、畑の道は遠くへ続いてるか分からないってことは大事だと思って」
「うん。僕もそう思う」
ルシルは頷いた。
シモンも隣から頁を見た。
「それから、古い石積みについては、まだ確認できていません。バルド殿が教えてくださった目印ですが、私たち自身は見ていないことを残しておきましょう」
「分かった!」
モモは丁寧に書き加えた。
休み家の屋根が見えてくる頃には、空が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
庭では、マリナが布を取り込んでいる。
三人が戻ると、彼女は手を止めて声をかけた。
「どうだった? 何か分かったかしら」
「少しだけです。でも、今すぐ南へ進むより、もう少し考えた方がよさそうだと思いました」
ルシルが答えると、マリナは頷いた。
「そうね。急ぐ旅じゃないなら、無理をする必要はないわ」
その言葉に、モモが嬉しそうに笑った。
「はい! わたしたち、急がない旅なんです!」
マリナは笑いながら、布を抱え直した。
「それなら、今夜はゆっくり休んでいきなさい。道のことは、明日また考えればいいわ」
三人は礼を述べ、部屋へ戻った。
◇
夕食までの時間、ルシルは窓際の椅子に座り、今日の出来事を振り返っていた。
朝、南へ向けて出発したときには、丘の向こうまで進めるかもしれないと思っていた。
けれど、実際には途中で引き返し、ハルミナへ戻ってきた。
それでも、不思議と失敗した気持ちはなかった。
むしろ、今日一日で知ったことは多い。
道の幅。
馬車を回せる場所。
丘の向こうの見通し。
村の人々が知っていることと、知らないこと。
そして、自分たちがどこまでなら無理をせず進めるのか。
ルシルは小さく息を吐き、窓の外へ目を向けた。
(急がなくてもいいんだ。僕たちは、誰かに決められた場所へ向かっているわけじゃないんだから)
その思いが胸の奥に広がると、自然と表情が緩んだ。
モモは旅帳面を閉じ、寝台の端に座っていた。
「ルシル君、明日はどうする?」
ルシルは少し考えた。
「まだ決めなくていいと思う。今日聞いた話を整理して、明日の朝、もう一度三人で相談しよう」
「うん。そうしよう!」
モモは嬉しそうに頷いた。
シモンも机から顔を上げた。
「私も賛成です。明日の天候や二頭の状態も確認してから判断しましょう。必要なら、もう一日ハルミナに滞在することも考えられます」
ルシルは頷いた。
「うん。焦らずに決めよう」
窓の外では、夕暮れの光が庭を柔らかく染めていた。
遠くから共同窯の煙が細く上がり、風に乗って焼いた穀物の香りが漂ってくる。
モモはその匂いに気づき、嬉しそうに顔を上げた。
「またパンの匂いがするね」
「本当だ。ハルミナに戻ってきたって感じがする」
ルシルが答えると、シモンも微笑んだ。
三人はしばらく、何も言わずに窓の外を眺めていた。
南へ続く道は、まだ遠くまで分かっていない。
次の集落も、水場も、古い石積みの場所も、確かなことは何一つ決まっていなかった。
それでも、三人の旅は止まっていない。
今日歩いた道も、引き返した判断も、村の人々から聞いた話も、すべてが次へ進むための大切な一歩になっていた。
ルシルは二人を見て、穏やかに笑った。
「明日も、いい一日にしようね」
モモは大きく頷き、シモンも静かに微笑んだ。
ハルミナの夕暮れは、今日も変わらず穏やかだった。
そして三人は、急がない旅の中で、また一つ大切なことを覚えていた。




