第137話 丘へ続く轍と、引き返せる場所を残す旅
ハルミナの家並みが見えなくなっても、南へ伸びる道には、人の暮らしの名残がところどころに残っていた。草に半ば埋もれた轍の間から背の低い花が顔を出し、道端には畑で拾い集めたらしい小石が、崩れかけた列を作っている。ルシルは馬車の揺れを確かめながら手綱を緩やかに保ち、二頭の歩幅が乱れない速度で、低い丘へ向かっていた。
つい先ほど、道の脇に広がる草地で馬車を止め、引き返す際の目印を三人で確かめたばかりだ。低い木と大きめの石、その間にある比較的平らな地面を、モモが旅帳面へ簡単に描き留めている。道の先を調べて戻ってきたシモンも、そこなら今の馬車を慎重に回せる余地があると確認していた。
「まだ、あの木が見えるね。丘へ上がったら隠れちゃうのかな」
馬車の横から後ろを覗いたモモが、遠くの草地を指さした。白い外套の裾が風に揺れ、桃金色の髪が頬へかかると、彼女は片手でそれを押さえながら、目印の位置を確かめ直した。
「見えなくなっても、場所を覚えていれば大丈夫だと思う。でも、戻るときには同じ道でも違って見えるかもしれないね」
ルシルが答えると、隣に座るシモンは眼鏡の位置を直し、後方の地形と前方の轍を交互に見た。遠くから見える目印と、近くで道を選ぶための目印は必ずしも同じではないと、彼は静かに説明する。
「往路で目立った木も、帰りにはほかの木に隠れることがあります。曲がり角や道の傾きも合わせて覚えましょう。何より、戻れる場所を見つけたからといって、そこまで必ず進まなければならないわけではありません」
「うん。分かってるよ。今日は道を知るために出てきたんだもの」
モモは旅帳面を閉じ、今度は進行方向を見つめた。朝、共同窯で分けてもらった保存向きのパンは乾いた布に包まれ、車内の水容器から離した場所へしまってある。温かい食事を楽しんだハルミナの二日間がまだ身体に残っているせいか、風の冷たささえ、今日は少し新鮮だった。
道は丘へ近づくにつれて、わずかに右へ曲がり始めた。草地の向こうには小さな灌木が点在し、風が通るたびに葉の裏が白っぽく光る。トルクは耳を前へ向けて歩き、ベルクは落ち着いた足取りを崩さず、その隣で静かに蹄を運んでいた。
ルシルは馬車の片側が小さな窪みにかかったとき、車輪から伝わる重さに気づいて手綱を少し引いた。急に止めず、二頭の歩調が揃うのを待ってから速度を落とすと、車体は大きく傾くことなく窪みを抜けた。
「今のところ、車輪の沈み込みは強くありませんね。ただ、轍の外側には柔らかい土があるようです」
シモンは身を乗り出しすぎないよう注意しながら、道端の色の違いを見ていた。表面が乾いていても、その下まで硬いとは限らない。昨日まで雨が降らなかったという話だけで、知らない道の安全を決めるつもりはなかった。
「僕も少し気になった。次に広いところがあったら、止めて車輪を見よう」
「そうしましょう。丘の斜面に入る前に、足元を確認できる場所があれば助かります」
そのやり取りを聞いたモモは、すぐに景色を描き始めるのではなく、馬車の揺れに合わせて荷物が動いていないかを振り返った。旅帳面と水袋は所定の場所に収まり、パンの包みも崩れていない。自分が見つけられる小さな変化を一つずつ確かめることが、今は楽しかった。
しばらく進むと、道の左側に平たい石が二つ並ぶ場所があった。その向こうでは草が低く刈られたように見えたが、人が通った跡なのか、風や獣の動きによるものなのかは判然としない。ルシルは馬車を止め、シモンと目を合わせた。
「ここから先、少し傾斜が増えるみたいだね。僕は二頭を見ているから、道の状態を確かめてもらってもいい?」
「承知しました。遠くまでは行かず、この曲がりの先が見える範囲までにします」
シモンは足元を確かめて降りると、まず車輪の周囲を見た。泥が厚く付着している様子はなく、車軸や留め具にも目立つ異常はない。さらに道の中央へ歩き、杖の代わりに拾った細い落ち枝で土の表面を軽く押し、足を置く場所を選びながら進んだ。
モモは馬車の横で待ち、ルシルと一緒にトルクとベルクへ声をかけた。二頭は停止に戸惑うこともなく、鼻先を低くして風の匂いを確かめている。トルクが道端の草へ口を伸ばしかけたので、ルシルは手綱を整えながら、今は食べ歩きをしないよう優しく呼び戻した。
「トルク、休憩のときにしようね。道の途中で好きなだけ食べ始めたら、いつまでたっても丘に着かないよ」
「でも、トルクにしてみたら、丘へ着くことより草の方が大事なのかもしれないね」
モモが笑うと、ルシルも肩を揺らした。旅の目的を決めるのは自分たちでも、一緒に歩く二頭には二頭の都合がある。その当たり前のことを、彼はトルクの素直な仕草から何度も教わっていた。
やがてシモンが戻り、丘へ向かう曲がりの手前までは通れそうだと報告した。ただし、石の並ぶ場所から先は道が少し狭くなり、馬車を回すなら今いる場所の方がよいという。
「先へ行くと、しばらく両側の草が深くなります。車輪が通る部分は残っていますが、引き返す判断を遅らせるべきではありません。ここを次の確認地点として覚えておきましょう」
「ありがとう。じゃあ、まずは曲がりまで進んで、そこから先を見よう」
ルシルは二頭の首筋を順に撫でてから、馬車へ戻った。モモは石の位置と道の曲がり方を旅帳面に書き込み、最後に『ここでは馬車を回せそう』と小さく添えた。ただし、その言葉の前に『今日見た限り』と加えることも忘れなかった。
◇
丘の斜面へ差しかかると、馬車の車輪が刻む音が少し変わった。平らな道では柔らかく響いていた音に、小石を踏む乾いた響きが混じり、二頭の背中にも緩やかな上り坂を進む力が伝わっている。ルシルは無理に速度を保とうとせず、トルクとベルクが自然に歩ける速さまで落とした。
左手には背の低い草が広がり、ところどころに黄色い花が群れていた。右手の斜面には灌木が多く、枝の間から小鳥が飛び立つと、モモが驚いたように顔を上げる。鳥は馬車を避けて高く舞い、丘の向こうへ姿を消した。
「今の鳥、羽の先が白かったね。ハルミナの広場で見た子たちとは違うのかな」
「どうだろう。僕には見分けがつかなかったけど、モモはよく見てたね」
ルシルは前方から目を離さずに答えた。モモは少し考えてから、見えた特徴だけを旅帳面へ書き留め、種類については空欄のままにした。
「分からないままでも、覚えておけるもんね。あとで誰かに聞けるかもしれないし、聞けなくても、あの白い羽を見たことは本当だから」
「ええ。見たことと、そこから考えたことを分けておけば、あとで読み返したときにも役に立ちます」
シモンはそう答えながら、上り坂の先へ注意を戻した。彼の口調にはいつもの慎重さがあったが、モモの観察を仕事の記録としてだけでなく、旅の楽しみとして受け止める柔らかさもあった。
斜面の途中で風が強くなり、馬車の窓辺に結んだ青い風魚の布が小さく跳ねた。ルシルはその動きを横目に見て、青波の海辺で聞いた波音を思い出す。ここには海の匂いも潮風もないのに、布一枚が揺れるだけで、離れてきた場所の景色が鮮やかに蘇った。
(旅の荷物って、食べ物や道具だけじゃないんだな。何かを見たときに思い出せるものも、ちゃんと一緒に運んでる)
そんなことを考えているうちに、道の傾斜が少し緩やかになった。前方には丘の肩に当たる場所があり、そこから先の地形はまだ見通せない。シモンはルシルへ合図を送り、馬車を道の中央で一度止めてもらった。
「ここから先は、上った向こう側が見えません。馬車を動かす前に、私が少しだけ歩いて確かめます」
「お願い。僕はここで待ってるね」
ルシルは手綱を保ったまま、二頭の呼吸が落ち着いているかを確かめた。坂の途中で長く止まるのは望ましくないため、シモンも無理に時間をかけず、見通しの利く位置まで歩いてすぐに戻るつもりだった。
モモは風に髪を押さえながら、シモンの背中を見送った。黒い外套が草の色に紛れかけると、彼女はルシルへ少し声を落として話しかけた。
「シモン君、前より楽しそうに道を調べてる気がするね。もちろん、真面目なのは変わらないけど」
「僕もそう思う。前は僕たちを守るために何でも先に決めようとしてたけど、今は一緒に確かめて、一緒に決めようとしてくれる」
ルシルはシモンの姿を目で追いながら答えた。彼が王城で仕えてくれていた頃の献身を忘れたわけではないが、今は『仕える人』というより『同じ道を選ぶ仲間』として隣にいる時間が増えている。
「わたし、そういうシモン君も好きだな。あっ、もちろん前から好きだけど、今は休むのも上手になってきたっていうか」
「うん。本人に言ったら、きっと少し困った顔をするだろうね」
二人が笑い合ったところへ、シモンが戻ってきた。何か話していたのかと不思議そうに尋ねられ、モモは首を横に振りながらも、笑顔を隠しきれなかった。
「道の話じゃないから、あとで教えるね。それより、向こう側はどうだった?」
「丘の肩を越えると、少し下りになります。道は続いていますが、右側の草が高く、車輪の通れる幅をここから判断するのは難しいですね。先ほどの石の場所まで戻ることも含め、ここで一度相談したいと思います」
シモンの報告を聞き、ルシルは丘の向こうへ目を向けた。まだ見ぬ景色がすぐそこにあると思うと胸が弾むが、見えない道へ馬車を進めることとは別の話だ。
「もう少しだけ歩いて見に行くことはできるかな。馬車はここに置いたまま、二頭を落ち着かせておけるならだけど」
「坂の途中ですから、ここへ長く留めるのは避けたいところです。少し手前にあった平らな場所まで戻し、そこから徒歩で確認する方が安全でしょう」
「そうだね。見たい気持ちが先に出ちゃった。まずは馬車を落ち着けられるところへ戻そう」
ルシルは素直に頷き、二頭を急がせないよう注意しながら、先ほど通った緩やかな部分まで慎重に戻した。狭い坂の上で無理に向きを変えることはせず、シモンが確認した範囲を使って少しずつ後退し、十分な幅のある場所で向きを整える。モモは周囲の石や枝に車体が近づいていないかを見て、必要なときだけ声をかけた。
平らな場所へ落ち着いてから、三人は二頭に短い休憩を与えた。ルシルが水の扱いを確認すると、シモンは持参した水をむやみに減らさないことと、馬たちの状態を見ながら必要な分を与えることの両方が大切だと答えた。二頭が呼吸を整えている間、モモは草地の縁に立ち、丘の向こうから流れてくる風の音に耳を澄ませていた。
◇
結局、丘の向こうを徒歩で確かめに行くのはシモン一人とし、ルシルとモモは馬車と二頭のそばに残ることになった。離れすぎないこと、見通しが悪くなる場所へ入らないこと、短い時間で戻ることを確認すると、シモンは荷物を最小限に整えて歩き始めた。
ルシルは彼の姿が見える間、時折声をかけて位置を確かめた。モモも無理に追いかけず、馬車の陰から丘の草を眺めている。シモンが慎重に足元を選んでいるのを見ると、彼女もこの道を進むためには何が必要なのか、少しずつ想像できるようになった。
「ねえ、ルシル君。もし今日はここまでって決めたら、わたしたち、ハルミナに戻るのかな」
「その可能性が高いと思う。まだ日が高いし、戻る道も確認してあるからね。ここで無理に野営する理由はないし、ハルミナなら水も休める場所もある」
「そっか。朝は旅立つって決めたけど、帰ってくるのも変じゃないんだね」
モモは言葉を確かめるように繰り返した。旅というものは、出発したら前へ進み続けるものだと、どこかで思い込んでいたのかもしれない。けれど、戻ってこられる場所があることは、自由を失うことではなく、むしろ選べる道が増えることなのだ。
「僕も最初は、出発した日に戻るのは少し格好悪いかなって思ったよ。でも、道を確かめるために来たんだから、分かったことを持ち帰れば、それで今日の目的は果たせるんだよね」
「うん。それに、エルナさんのパンもあるし、マリナさんにもまた会えるかもしれないし……って、わたし、戻る理由が食べ物ばっかりになってない?」
モモが自分で気づいて頬を膨らませると、ルシルは笑いながら首を振った。食べ物を楽しみにできるのも旅の大切な部分だし、戻る判断をする理由とは別に、戻ったときの楽しみがあってもよいと思った。
「大丈夫。僕だって、マリナさんの温かいご飯をまた食べられるなら嬉しいよ。でも、今日戻ると決めるなら、それは道のことを考えた結果にしよう」
「うん。そうする!」
ほどなくしてシモンが戻ってきた。丘の肩から先へ続く道を、見える範囲だけ確かめてきたらしい。彼は額の汗を拭い、二人へ落ち着いた声で報告を始めた。
「向こう側は、思っていたよりも早く道幅が狭くなっています。人が歩く分には通れますが、馬車の場合は右の草地へ車輪が寄りやすいでしょう。草の下がどの程度固いかも分かりません」
「古い石積みは見えた?」
ルシルが尋ねると、シモンは首を横へ振った。
「いいえ。私が確かめた範囲では見つかりませんでした。もっと先にあるのか、別の道筋にあるのかも、現段階では判断できません」
モモは旅帳面を開き、シモンが見た道の特徴を記した。石積みは『見つからず』と書き、『存在しない』とは書かなかった。目にした範囲が限られていることを、三人とも理解していたからだ。
「じゃあ、馬車では進まない方がいいかな」
ルシルが尋ねると、シモンは即答せず、二頭と車輪の位置を確認してから頷いた。
「少なくとも、今の情報で丘を越えるのは勧めません。草の下を詳しく調べることもできますが、時間がかかりますし、その先まで安全だと分かるわけではありませんから」
ルシルは深く息を吸い、丘の向こうへ最後に視線を向けた。あそこにはまだ知らない景色がある。けれど、今日見られなかったからといって、その景色が消えてしまうわけではなかった。
「分かった。今日はここで引き返そう。二人とも、それでいい?」
モモは少しだけ名残惜しそうに丘を見上げたあと、明るく頷いた。シモンも、慎重な判断をしてくれたことへの安堵を表情に滲ませながら、賛成を伝えた。
「うん。わたし、今日は知らない道を少し歩けたし、鳥も見られたし、ちゃんと楽しかったよ。丘の向こうは、またいつか見られるといいね」
「ありがとうございます、ルシル様。戻ると決めたなら、帰路にも同じだけ注意を払いましょう。上りで問題のなかった場所が、下りでは違う負担になることもあります」
「もちろん。今日は帰るところまでが旅だからね」
ルシルはそう答え、二頭の首を撫でた。トルクは休憩が終わる気配に耳を動かし、ベルクは静かに身体の向きを整える。二頭の落ち着いた様子を見て、ルシルの胸に残っていた小さな未練も、ゆっくりと形を変えていった。
◇
帰り道では、行きに見た草原が少し違う表情をしていた。丘へ向かうときは目の前の傾斜ばかり気にしていたが、今は遠くにハルミナの方角へ続く低地が見え、風に揺れる草の向こうに、淡い屋根の色が小さく浮かんでいる。モモはその景色を見て、思わず声を弾ませた。
「わあ、こっちから見ると、集落があんなふうに見えるんだね。行きには全然気づかなかった!」
「道が同じでも、見る向きが違うと景色も変わるんだね。戻るのも、悪くないな」
ルシルは微笑みながら、車輪の通る位置を慎重に選んだ。緩い下りでは速度が出やすいため、二頭を急かさず、馬車が押す力にも注意して進む。シモンは時折降りて道の端を確認し、確認が済むと再び乗り込んだ。
行きに覚えた平たい石の並ぶ場所が見えてくると、モモは旅帳面の頁を開いた。石の向きと道の曲がり方が、書き留めた図と合っていることを確かめる。少し前までただの目印だったものが、自分たちで戻るための確かな手掛かりになっていることが嬉しかった。
「ここ、ちゃんと分かったよ。わたしの絵、役に立った!」
「ええ。特に、曲がりの手前に石が二つあると書いてくださったのが助かりました。道の反対側からでも見つけやすかったですね」
シモンが褒めると、モモは照れたように笑った。ルシルも二人の会話を聞きながら、帰り道を選ぶことが三人の共同作業になっているのを感じていた。
さらに進むと、最初に確認した低い木と大きな石のある草地が見えてきた。朝にはそこを『引き返せる場所』として記録したが、今は実際に戻ってきたことで、その意味が少し変わっている。三人は短い休憩を取り、トルクとベルクの状態を改めて確かめた。
モモは水袋を手にしながら、乾いたパンの包みへ目を向けた。昼食にはまだ少し早いが、丘の斜面を歩いたシモンも含め、三人とも朝より腹が空いている。ルシルは残りの道の長さと二頭の様子を考え、ここで短く休んでからハルミナへ戻ることにした。
「せっかくだから、エルナさんのパンを少し食べてみようか。全部じゃなくて、今日の分だけね」
「いいの!? わたし、帰ってから食べるつもりだったけど、ここで食べるのも楽しそう!」
モモは嬉しそうに顔を上げたが、シモンが包みを開くのを待った。乾いた布の中から現れたパンは、朝より表面が落ち着いた色になっていたものの、香ばしい匂いをまだ残している。
シモンは手を清潔にしてから食べる分だけ取り分け、残りを丁寧に包み直した。硬めに焼かれた生地を少しずつ噛むと、穀物の素朴な甘さが口に広がる。モモは急いで飲み込まず、しっかり噛んでから満足そうに息をついた。
「おいしい……! 共同窯の前で食べたら、きっと焼きたての匂いがもっとするんだろうけど、ここで食べると草の匂いも一緒だね」
「パンの味は同じでも、食べる場所で印象が変わるんだね。僕は、この景色も一緒に覚えておきたいな」
ルシルが答えると、シモンは少し笑った。
「私は、帰る場所が決まっているときの食事は、思っていた以上に落ち着くものだと感じています。昔なら、予定を変更して戻ることに、もっと抵抗があったかもしれません」
モモはパンを持った手を止め、シモンを見た。彼が自分からそんな話をすることは、以前なら珍しかった。
「今は、戻るのもちゃんと選べるようになったんだね」
「ええ。ルシル様とモモ嬢のおかげで、予定どおりに進むことだけが良い旅ではないと、少しずつ分かってきました」
シモンの言葉を聞いたルシルは、照れくさくなって視線を落とした。自分は自由に旅をしたくて王位を手放したが、その自由を誰かへ押しつけたくはなかった。二人がそれぞれの歩幅で旅を楽しめているのなら、それが何より嬉しかった。
「僕だって、二人がいてくれるから安心して迷えるんだよ。一人だったら、進みたい気持ちだけで無理をしたかもしれないし、逆に怖くてどこにも行けなかったかもしれない」
「ふふ、じゃあ三人でちょうどいいんだね。トルクとベルクもいるから、本当は五人かな?」
モモの言葉に、ルシルは笑顔で頷いた。シモンも二頭へ目を向け、彼らの働きがあってこそ続けられる旅なのだと、改めて感じていた。
休憩を終えると、三人は包みや道具をきちんと片づけた。草地に食べかすを残さないよう確かめ、馬たちの世話をしてから再び出発する。低い木と大きな石は、今度は背後へ遠ざかっていった。
◇
ハルミナの畑が見え始めた頃には、太陽が朝よりも高く上がっていた。道を歩く人の数は減り、畑では腰を曲げて作業する姿がちらほら見える。集落へ近づくにつれて、風に混じる匂いも草原の乾いた香りから、土と家々の煙の匂いへ変わっていった。
ルシルは最後の曲がり角で馬車をゆっくり進め、見覚えのある家の前を通った。モモは朝と同じ洗濯物が風に揺れているのを見つけ、思わず笑みをこぼす。
「本当に戻ってきたね。朝はここを通ったとき、もっと遠くまで行く気がしてたのに」
「でも、今日の道のことは前より分かったよ。丘の肩までは行けることと、その先は馬車だと慎重に考えた方がいいこと。次に進むなら、別の情報が必要だね」
ルシルが答えると、シモンは頷いた。
「今のところ、丘を越える道を使うと決める必要はありません。ハルミナへ戻ってから、ほかの道があるか、馬車で通った人がいるかを尋ねてみましょう。ただし、確かな話が得られなければ、ここで滞在を延ばすことも考えるべきです」
休み家の裏手へ馬車を回すと、世話をしてくれた男性がこちらに気づき、少し驚いた顔をした。ルシルは馬車を安全な場所へ止め、朝のうちに出発したものの、道を確かめて戻ってきたことを説明した。
「なるほど、丘の向こうが狭かったか。あの辺りは最近、大きな荷車が通ったって話をあまり聞かないからな」
男性はそう言って二頭の様子を見たが、詳しい道の状態までは知らないと付け加えた。ルシルは無理に情報を引き出そうとせず、戻ってきたばかりのトルクとベルクを休ませたいと頼んだ。
「もちろん、空きがあるかマリナに聞いてからになるが、ここで少し待っていていいよ。馬たちはまず落ち着かせよう」
「ありがとうございます。部屋のことも含めて、すぐに相談してきます」
シモンが答え、ルシルは二頭を男性に任せる前に、鞍具や身体の状態を一緒に確認した。目立った擦れや不調はなく、二頭とも落ち着いている。モモはベルクの首を優しく撫で、帰ってこられたことを小さな声で伝えた。
休み家の玄関では、マリナが洗った布を畳んでいた。三人の姿を見ると、彼女は目を丸くしたあと、すぐに表情を和らげた。
「あら、もう戻ったの? 何かあったのかしら」
「大きな問題が起きたわけではないんです。丘の先の道が馬車には狭そうだったので、無理をせず戻ってきました」
ルシルが説明すると、マリナは布を置き、ほっとしたように息をついた。
「そうだったのね。けがもなく戻ってこられたなら何よりよ。朝に言ったでしょう、道が悪ければ戻ってきていいって」
「はい。その言葉があったから、帰ることも自然に考えられました。ありがとうございます」
マリナは少し照れくさそうに笑い、空いている部屋を確認してくれた。朝まで使っていた部屋はまだ次の客が入っておらず、改めて宿泊を申し込めるという。ルシルたちは一晩分の宿泊と馬たちの世話について条件を聞き、三人で相談してからお願いすることにした。
「ただいま、マリナさん!」
モモが嬉しそうに挨拶すると、マリナは声を上げて笑った。
「お帰りなさい。朝送り出したばかりなのに、なんだか長旅から戻ってきたみたいね」
「わたしたちにとっては、ちゃんと冒険だったんです。丘のところまで行って、白い羽の鳥も見て、それから戻る場所を探して……」
モモは勢いよく話し始めたが、途中で自分でも可笑しくなったらしく、少し笑いながら言葉を整えた。マリナは急かさず耳を傾け、ルシルが道の狭さを説明すると、真剣な顔で頷いた。
「それなら、今日は休んでいきなさい。午後に人が集まる時間があれば、南の道を最近通った人がいないか聞いてみてもいいわ。ただし、誰かが知っているとは限らないから、期待しすぎないでね」
「ありがとうございます。僕たちも、今日分かったことを整理してから考えます」
ルシルは礼を述べ、部屋へ戻る前に一度、広場の方へ目を向けた。井戸のそばには朝と同じように人が集まり、桶の触れ合う音が聞こえている。ハルミナの一日は、旅人が出発して戻ってくる間も、変わらず流れていた。
◇
昼を過ぎて少し落ち着いた頃、三人は休み家の部屋で旅帳面を広げた。窓から入る光は朝よりも強く、机の上に描かれた丘の線を明るく照らしている。モモは行きと帰りで見え方の違った目印を並べ、ルシルはその横へ、実際に馬車で進めた範囲を書き添えた。
「ここが最初に休んだ草地で、こっちが石の二つ並んだところ。丘の肩までは行けたけど、その先はシモン君が歩いて確かめたんだよね」
「ええ。馬車が通れると確認したわけではありません。そこは線を変えておいた方が、あとで見返したときに分かりやすいでしょう」
シモンの提案を受け、モモは馬車で通った道を実線、徒歩で見た先の道を細い点線で描いた。さらに、古い石積みについては『まだ見ていない』と余白に書き、バルドから聞いた話だけで場所を決めないようにした。
ルシルは完成した頁を見つめ、少し感心したように笑った。
「これなら、次に道を考えるときも役に立つね。モモの絵って、思い出を残すだけじゃなくて、僕たちを助けてくれるんだな」
「えへへ。わたしも今日、そう思った。かわいい花を描くのも好きだけど、こういう地図みたいなのも楽しいね」
モモは嬉しそうに頁を撫でたあと、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、今日分からなかったことは、まだいっぱいあるね。石積みも見てないし、次の水場も分からないし、ほかの道があるかどうかも知らない」
「そうだね。だから、明日すぐ出発すると決めるのはやめよう。まずは今日のうちに聞けることを聞いて、夕方にもう一度相談しようか」
ルシルが言うと、シモンも賛成した。
「はい。今の情報だけなら、無理に南へ進むより、確かな道を探す方がよいと思います。ただ、別の道が見つかるかどうかも分かりませんから、急いで結論を出す必要はありません」
窓の外では、庭の木々が風に揺れていた。昨日三人で落ち葉を集めた場所には、新しい葉が数枚落ちている。モモはそれを見つけて小さく笑い、庭仕事には終わりがないのかもしれないと呟いた。
「でも、昨日きれいにしたことが無駄になったわけじゃないよね。今日の道も同じかな。戻ってきたけど、行ったことは無駄じゃなかった」
ルシルはモモの言葉に頷いた。シモンも、机の上の記録へ目を向けながら、穏やかに微笑んだ。
「ええ。分からなかったことを、分からないまま正しく残せたのです。それも、旅を続けるためには大切な成果だと思います」
ルシルは窓を少し開け、庭から流れてくる風を部屋へ入れた。共同窯の方角からは、かすかに焼いた穀物の匂いが漂っている。朝には別れを告げたはずの集落で、また同じ匂いを感じられることが、不思議と嬉しかった。
(進むことだけが自由じゃない。戻ることも、待つことも、自分たちで決められるなら、それはちゃんと僕たちの旅なんだ)
ルシルはそう思いながら、旅帳面の端へ小さく書き加えた。『今日は丘の向こうまで行かなかった。でも、戻ってこられる道を一つ覚えた』と。
モモがその文字を覗き込み、満足そうに笑った。シモンは机の上の道具を整え、午後に確認したいことを別の紙へ書き出し始める。三人の前にはまだ南へ続く道があり、その先に何が待つのかは分からないままだった。
それでも、ハルミナの休み家に戻ったこの昼下がり、誰も旅が止まってしまったとは感じていなかった。窓辺の青い風魚の布が揺れ、庭ではトルクとベルクが穏やかに休んでいる。次にどちらへ進むかを決める時間さえ、今の三人には、かけがえのない旅の一部になっていた。




