↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
136/172

第136話 ハルミナの朝に焼き上がるパンと、旅立つ前に確かめたいこと


 ハルミナの朝は、遠くで鳴く鶏の声と、窓の隙間から入り込む柔らかな風によって、ゆっくりと始まった。


 休み家の小さな部屋には、夜の間に冷えた空気がまだ残っていたが、東側の窓から差し込む光は、昨日よりも少しだけ明るく感じられた。ルシルが寝台の上で目を開けると、隣の寝台ではモモが毛布を肩まで引き上げて眠っており、反対側ではシモンがすでに身支度を始めていた。


「おはようございます、ルシル様。昨夜はよくお休みになれましたか?」


 シモンは声を抑えながら尋ね、窓辺に置いていた眼鏡を掛け直した。朝の光を受けた黒い髪はきちんと整えられていたが、いつものように急いで仕事へ向かう様子はなく、その動作にはどこか穏やかな余裕があった。


「おはよう、シモン。うん、ぐっすり眠れたよ。昨日は庭仕事もしたからかな。思っていたより身体が疲れてたみたい」


 ルシルは寝台から起き上がり、軽く肩を回した。腕には昨日、落ち葉を集めたときの疲れが少し残っていたものの、不快な痛みではなく、普段とは違うことをした翌朝の心地よい重さだった。


「慣れない作業でしたからね。私も少し腕が重く感じますが、旅を続けるうえでは、ああした仕事を経験しておくのも悪くないと思いました」


「シモンがそう言うなんて、なんだか嬉しいな。王城にいた頃だったら、庭の落ち葉を集めようなんて、僕たち二人とも考えなかったかもしれないね」


 ルシルが笑うと、シモンも小さく微笑んだ。


「少なくとも、私がルシル様に熊手をお渡しすることはなかったでしょうね。庭園の管理には担当の者がおりましたし、そもそも私自身、あれほど丁寧に落ち葉を集めた経験はありませんでしたから」


 その返答には懐かしさが混じっていたが、後悔や寂しさは感じられなかった。ルシルはそれに気づき、窓の向こうへ視線を移しながら、静かに口元を緩めた。


(王城での暮らしを思い出しても、前みたいに遠く感じるだけじゃなくなったな。あそこにいた時間も僕たちの一部だけど、今は今の暮らしがちゃんとあるんだ)


 そのとき、隣の寝台から毛布の擦れる音が聞こえた。


「……パン……」


 眠たげな声に、ルシルとシモンが同時に振り向く。


 モモは目を閉じたまま、何かを探すように片手を毛布の外へ伸ばしていた。やがて指先が何もつかめないことに気づいたらしく、不満そうに眉を寄せる。


「……もうちょっと……焼いて……」


 ルシルは思わず口元を押さえたが、笑い声を完全には隠せなかった。


「モモ、起きて。パンはまだ焼いてもらってるところだと思うよ」


「……え?」


 モモはゆっくり目を開き、しばらく天井を見つめていた。やがて自分が休み家の寝台にいることを理解すると、毛布の端を握ったまま勢いよく身体を起こした。


「ルシル君! パンは!?」


「おはよう、モモ。まずは挨拶からじゃないかな」


「あっ、おはよう! それで、パンは!?」


 今度こそルシルは笑ってしまい、シモンも眼鏡の奥で目を細めた。


「モモ嬢、エルナさんとは今朝改めて相談するお約束です。まだ購入できると決まったわけではありませんよ」


 その説明を聞いたモモは、ようやく昨日の話を思い出したらしい。頬を少し赤くしながら寝癖のついた髪へ手を伸ばし、照れくさそうに笑った。


「そうだったね。なんだか夢の中で、すっごく大きなパンを焼いてた気がするんだ。わたしが食べようとしたら、窯からまだ出しちゃ駄目って言われちゃって」


「夢の中でも、ちゃんと焼き上がりを待たされてたんだね」


「うん。でも、すごくいい匂いだったの!」


 モモが残念そうに肩を落とすと、ルシルは寝台から立ち上がり、窓を少し開けた。


 朝の冷たい空気が部屋へ流れ込み、庭の草と湿った土の匂いを運んでくる。どこかの家ではすでに朝食の支度が始まっているらしく、かすかな煙が屋根の向こうへ立ち上っていた。


「じゃあ、その夢の続きを見に行こうか。まずは朝の支度をして、トルクとベルクの様子を確かめてからね」


 モモは毛布を畳みながら、嬉しそうに頷いた。


「うん! 今日もいい朝になりそう!」


 その言葉を聞いたシモンは、机に置かれた昨日の物資記録へ目を向けた。


 紙には三人で確認した食料と水の状態が書き込まれている。昨日のうちに乾燥野菜を買い足したため、出発に向けた準備は一歩進んだものの、次の確実な補給地点が分からないという問題は残っていた。


 シモンは紙を折り畳み、手元の荷物へしまった。


(今日出発するかどうかは、まだ決めるべきではありませんね。必要なことを確かめてから判断する。それが、今の私たちに合った旅の進め方なのでしょう)


 以前なら、出発時刻を先に定め、その予定に合わせて支度を整えることを当然としていた。


 しかし今は、三人で朝を迎え、馬たちの様子を見て、必要なものを確かめるところから一日が始まる。その違いを、シモンは不思議と心地よく感じていた。


     ◇


 身支度を終えた三人が部屋を出ると、休み家の廊下には朝食の香りが漂っていた。


 台所の方から食器の触れ合う音が聞こえ、奥の扉が開くたびに、温めた野菜と焼いた穀物の匂いが流れてくる。ルシルたちが食堂へ顔を出すと、マリナが小さな鍋を火から下ろしているところだった。


「あら、おはよう。今日は三人とも早いのね」


「おはようございます、マリナさん。昨日はありがとうございました」


 ルシルが挨拶すると、マリナは笑顔で頷いた。


「こちらこそ、庭を手伝ってもらって助かったわ。今朝も冷えたでしょう? 朝食はもう少しで用意できるから、先に馬たちを見てきてもいいわよ」


「ありがとうございます。ちょうどそうしようと思っていました」


 シモンが答えると、マリナは窓の外へ目を向けた。


「今朝は風が弱いみたいね。夜の間に雨も降らなかったし、畑へ向かう人たちもいつもどおり出ているわ」


「それなら、道も少しは歩きやすいでしょうか?」


 ルシルが尋ねると、マリナはすぐに断言せず、少し考えてから答えた。


「集落の近くなら、昨日と大きく変わらないと思うわ。ただ、南の丘の先は私も最近行っていないから、そこまでは分からないの。バルドから聞いた話も、全部が今の道の様子とは限らないでしょうしね」


「そうですよね。ありがとうございます。実際に見ながら判断することにします」


 ルシルがそう言うと、マリナは安心したように微笑んだ。


「ええ。それがいいわ。旅人さんが急いでいると、こちらも心配になることがあるのよ」


 モモはその言葉に頷きながら、台所の鍋をちらりと見た。


「マリナさん、今朝のご飯もおいしそうですね。いい匂いがするから、お腹が空いてきちゃいました」


「ふふ、もう少し待ってちょうだい。昨日の野菜を使った温かい煮込みよ」


「やったあ! じゃあ、馬たちに挨拶して戻ってきます!」


 モモが元気よく答えると、マリナは楽しそうに笑った。


 三人は裏手の庭へ回り、馬車を置いている場所へ向かった。


 建物の陰には夜の冷たさが残っていたが、東側の空はすでに明るく、庭の端に植えられた木々の葉には細かな露が光っていた。昨日集めた落ち葉は籠へまとめられており、地面がきれいに見えるだけで、庭全体が少し広くなったように感じられる。


「わあ、昨日のところ、ちゃんときれいになってるね!」


 モモが嬉しそうに声を上げると、ルシルも頷いた。


「こうして朝に見ると、頑張ったのが分かるね。昨日は作業に夢中だったけど、けっこう広いところを片づけたんだなあ」


 シモンは庭を見渡し、少し照れくさそうに微笑んだ。


「マリナさんのお役に立てたなら何よりです。もっとも、作業の途中でモモ嬢が集めた葉を散らしてしまったときは、少々驚きましたが」


「シモン君、それはもう忘れてよ! 最後はちゃんとできたでしょう?」


「ええ。最後は私より上手に集めていらっしゃいました」


 穏やかな声でそう返され、モモは一瞬言葉に詰まったあと、嬉しそうに笑った。


 馬車の近くでは、トルクが三人の足音に気づいて首を上げていた。


 栗毛の身体には朝の光が当たり、昨夜までの疲れを感じさせないほど落ち着いた様子で立っている。隣のベルクも耳を動かしてこちらを見ていたが、トルクほど積極的に首を伸ばすことはなく、静かに三人を迎えた。


「おはよう、トルク。ベルクもおはよう」


 ルシルが声をかけると、トルクはすぐに鼻先を近づけてきた。


 手の中に食べ物がないことを確かめるような仕草に、モモが小さく吹き出す。


「トルクって、本当に食べることが好きだよね。さっきのわたしみたい」


「モモ嬢、ご自身でおっしゃるのですね」


 シモンの控えめな指摘に、ルシルは笑いながらトルクの首を撫でた。


「でも、食欲があるのはいいことだよ。もちろん、それだけで元気だって決めつけちゃいけないけどね」


 シモンは頷き、二頭の脚元や身体の様子を順番に確かめた。


 昨夜のうちに休み家の手伝いの男性が世話をしてくれていたため、二頭の周囲は整えられている。朝の飼葉については、まだすべて食べ終わったわけではなかったが、どちらも落ち着いており、歩く様子にも目立った異常は見られなかった。


 ルシルはベルクの首へ手を添え、静かに声をかけた。


「昨日は一日ゆっくりできたかな。もし今日出発することになったら、またお願いするね」


 ベルクは小さく鼻を鳴らし、ルシルの手に首を寄せた。


 その様子を見たモモは、二頭の間へ無理に入り込まないよう少し離れた位置に立ち、優しく微笑んだ。


「わたしたちばっかり楽しくても駄目だもんね。トルクとベルクにも、ちゃんと気持ちよく旅してほしいな」


 シモンは二頭を見比べながら答えた。


「そうですね。馬たちが疲れているときに先へ進んでも、結果として時間がかかってしまいます。今朝の様子は良好ですが、出発前には飼葉を食べ終えているか、水を十分に飲めているかも確認しましょう」


「うん。じゃあ、まず僕たちも朝ご飯を食べよう」


 ルシルがそう言うと、モモは待っていましたとばかりに頷いた。


「賛成! 今度こそ本物の朝ご飯だね!」


     ◇


 朝食の席には、温かな野菜の煮込みと、薄く切ったパンが並んでいた。


 窓際の席へ腰を下ろすと、外からは畑へ向かう人々の足音が聞こえてくる。休み家の前を通り過ぎる荷車の車輪が小さく軋み、遠くで交わされる挨拶の声が、静かな食堂へ時折届いていた。


 ルシルは匙で煮込みをすくい、ゆっくりと口へ運んだ。


 柔らかく煮えた野菜には穏やかな甘みがあり、朝の冷えた身体を内側から温めてくれる。昨日の昼食や夕食にも野菜の料理が出ていたが、使う食材や煮込み方が少しずつ違っているため、食べ飽きることはなかった。


「おいしいですね、マリナさん。朝から温かいものをいただけると、身体が落ち着きます」


 シモンが礼を述べると、マリナは台所から顔を出した。


「そう言ってもらえると嬉しいわ。旅の途中は冷たい食事になることも多いでしょうから、ここにいる間くらいは温かいものを食べていってね」


「はい! すごく幸せです!」


 モモは満面の笑みで答えたが、口へ運ぼうとしていたパンを一度皿へ戻した。


「そういえば、エルナさんのところへ行くなら、あんまり遅くならない方がいいよね?」


 ルシルは窓の外を見てから頷いた。


「うん。でも、慌てて食べる必要はないよ。昨日は朝に来てほしいって言ってたし、食べ終わってから向かえば大丈夫だと思う」


「それもそうだね。パンを買いに行くために、今食べてるパンを急いで食べるのも変だもん」


 モモが真面目な顔で言うと、シモンは匙を持ったまま小さく笑った。


「確かに、そのように考えると少々不思議ですね。ただ、先方にも朝の仕事がありますから、こちらの都合だけで時間を決めないようにしましょう」


 ルシルは頷き、食事を続けた。


 朝食の途中、マリナが食堂へ戻ってきたところで、ルシルは今後の宿泊についても相談した。


「マリナさん、もし今日出発することになったら、部屋と馬車置き場はいつ頃まで使わせてもらえますか?」


「今日の朝の分までお支払いはいただいているから、荷物をまとめる時間くらいは気にしなくていいわ。ただ、次に泊まる人が来るかもしれないから、お昼を過ぎても使いたいなら、先に相談してちょうだい」


「分かりました。出発するかどうか決めたら、すぐにお伝えします」


 マリナは頷いたあと、少しだけ心配そうな表情を浮かべた。


「南へ行くなら、日が高いうちに集落を出た方がいいでしょうね。でも、今日中に次の村へ着こうなんて考えない方がいいわ。どれくらいかかるか、私にも分からないもの」


 ルシルはその言葉を慎重に受け止めた。


「はい。途中で安全に休める場所が見つからなければ、無理に進まず戻ることも考えています」


「それなら安心ね。旅慣れている人でも、知らない道では思いどおりにいかないことがあるから」


 マリナはそう言って、空になった器を下げるために台所へ戻った。


 ルシルは残ったパンを口へ運びながら、窓の外へ視線を向けた。


 集落の道には朝の光が広がっている。


 昨日はあの道を歩きながら、ハルミナの暮らしを眺めていた。今日は同じ道を通って共同窯へ向かい、もしかすると、そのあとには南へ続く街道を進むことになるかもしれない。


(昨日と同じ朝の景色なのに、今日は少し違って見えるな。出発するかもしれないと思うだけで、見慣れ始めた場所が急に大切になるんだ)


 ルシルは胸の奥に生まれた小さな名残惜しさを感じながらも、目の前の食事を最後までゆっくり味わった。


     ◇


 共同窯へ向かう道には、朝の仕事を始めた人々の姿があった。


 畑へ向かう男性が肩に道具を担いで歩き、井戸の近くでは女性が桶を持って順番を待っている。広場の端には小さな籠を抱えた子どもが立っており、近くの家から出てきた母親らしい女性に声をかけられると、慌ててその後を追っていった。


 モモはその様子を眺めながら、鞄の中の旅帳面へ手を添えた。


「昨日描いた広場、朝になるとまた違う感じだね。人が歩いてるだけで、景色が変わるんだなあ」


「そうだね。昨日は井戸の周りを中心に見てたけど、今日は畑へ向かう人が多いみたい」


 ルシルが答えると、シモンは広場の向こうへ目を向けた。


「この時間帯は、それぞれの仕事へ向かう頃なのでしょう。集落の規模は小さくても、暮らしの流れはしっかりあるのですね」


 モモは頷き、歩く速度を少し緩めた。


「旅帳面に描くとき、建物だけじゃなくて、こういう朝の雰囲気も残せたらいいな。帰ってから見返したときに、どんな声が聞こえてたかまで思い出せそうだもん」


「いいね。僕も、モモの絵を見て昨日のことを思い出すのが楽しみだよ」


 ルシルの言葉に、モモは嬉しそうに微笑んだ。


 共同窯へ近づくと、昨日よりもはっきりと焼きたてのパンの香りが漂ってきた。


 窯の前には薪の燃え残りを整理している男性がおり、少し離れた作業台では女性たちが籠を並べている。石と土で作られた窯の周囲には朝の熱気が残り、煙突から上がる薄い煙が、風に押されてゆっくりと東へ流れていた。


「あっ、エルナさん!」


 モモが声をかけると、作業台の向こうにいたエルナが顔を上げた。


「あら、旅人さんたち。ちゃんと来てくれたのね」


 エルナは手元の布を畳み、三人へ歩み寄った。額にはうっすら汗が浮かんでいたが、その表情には朝の仕事を終えた人らしい満足感があった。


「おはようございます。昨日はありがとうございました」


 ルシルが丁寧に挨拶すると、エルナは笑顔で頷いた。


「おはよう。昨日頼まれたパンのことだけど、少しなら分けられそうよ。ほかの家の分を先に取り分けてからになるけれど、それでよければ見ていってちょうだい」


「もちろんです。ありがとうございます」


 モモは嬉しそうに目を輝かせたが、すぐに作業台の方へ視線を向けた。


 そこには形の違うパンがいくつか並べられていた。丸みのあるものもあれば、細長く焼かれたものもあり、表面の焼き色や大きさが少しずつ異なっている。


「わあ……! 昨日見た生地が、こんなふうに焼き上がるんですね!」


「そうよ。昨日あなたたちが見た分も、今朝焼いた分もあるわ。ただし、旅へ持っていくなら、柔らかいパンよりも少し水分を飛ばして焼いたものの方が扱いやすいでしょうね」


 エルナはそう説明しながら、布を敷いた籠から小ぶりのパンを一つ取り上げた。


 表面はしっかり焼かれており、指先で軽く触れると硬さが伝わってくる。見た目は素朴だったが、香ばしい匂いが強く、モモは思わず鼻を近づけそうになって、慌てて姿勢を戻した。


「これは日持ちするんですか?」


 ルシルが尋ねると、エルナは頷いた。


「焼きたての柔らかいものよりはね。でも、いつまでも大丈夫というわけじゃないわ。湿気を避けて、変な匂いや傷みが出ていないか確かめながら食べてちょうだい」


 シモンはその説明を聞き、真剣な表情で尋ねた。


「馬車の中で保管する予定なのですが、布で包んだうえで乾いた場所へ置く方法で問題ありませんか?」


「ええ。ただ、熱がこもる場所や水の容器のすぐそばは避けた方がいいわね。濡れたら台無しになるから」


「承知しました。保管場所にも気をつけます」


 エルナは三人の反応を見て、少し安心したように微笑んだ。


「旅の食べ物を大切に扱ってくれるなら、作る方としても嬉しいわ」


 その言葉に、ルシルは静かに頷いた。


 昨日、共同窯で作業を見せてもらったとき、パンが焼き上がるまでには多くの手間がかかることを知った。薪を用意し、窯の熱を整え、生地の状態を見ながら焼く時間を調節する。


 ただ店先に並んでいるものを買うだけでは、気づけなかったことだった。


「昨日、皆さんのお仕事を見せてもらって、パンを作るのがどれだけ大変か少し分かりました。だから、分けていただけるだけでもありがたいです」


 ルシルがそう言うと、エルナは一瞬目を丸くした。


 やがて、彼女は少し照れくさそうに笑った。


「そんな大げさなものじゃないわよ。私たちは毎日やっていることだもの。でも、そう言ってもらえるのは悪くないわね」


 エルナは作業台へ戻り、ほかの家へ渡す分を確認したあと、三人へ分けられるパンを並べてくれた。


 量は決して多くなかったが、昨日確認した手持ちの保存食に加えるには十分ありがたいものだった。シモンが状態と数量を確かめ、ルシルはエルナの示した代金を支払った。


「ありがとうございます。大切にいただきます」


「ええ。旅の途中でお腹が空いたら、ハルミナのパンを思い出してちょうだい」


 モモは包んでもらったパンを嬉しそうに見つめ、顔を上げた。


「絶対に忘れません! それに、昨日描いた共同窯の絵もあるから、パンを食べるたびにエルナさんのことを思い出せそうです!」


「あら、もう描いてくれたの?」


 エルナが驚いたように尋ねると、モモは少し照れながら鞄へ手を伸ばした。


「はい。上手に描けたかは分からないんですけど、よかったら見てもらえますか?」


「もちろん。ぜひ見せてちょうだい」


 モモは旅帳面を開き、昨日描いた共同窯の頁を差し出した。


 エルナは作業台の端で手を拭いてから、慎重に絵を覗き込んだ。


 しばらく何も言わずに眺めていた彼女は、やがて小さく笑い、煙突の部分を指さした。


「ふふ、本当に曲がってるところまで描いてくれたのね」


「はい! エルナさんがそこも描いてほしいって言ってたので!」


「ありがとう。あの煙突、昔から少し曲がっているのよ。直そうという話も出たんだけど、今のところ使うのに困っていないから、そのままになっているの」


 エルナは懐かしそうに煙突を見上げた。


「毎日見ていると気にならないものだけど、こうして絵になると、うちの窯らしい形をしているんだなって思うわ」


 モモはその言葉を聞き、旅帳面を胸元へ引き寄せた。


「そう言ってもらえて嬉しいです。わたし、旅先で見たものを、ちゃんと覚えておきたいんです」


「いいことね。いつかまたここを通ることがあったら、今度は違う季節の窯も描いてみてちょうだい」


 その申し出に、モモは嬉しそうに頷いた。


「はい! そのときは、またよろしくお願いします!」


 ルシルは二人のやり取りを見守りながら、手元のパンの包みへ視線を落とした。


 ハルミナを離れたあとも、このパンを食べるたびに、窯の熱やエルナの笑顔を思い出すのだろう。そう考えると、旅の荷物が少し増えたこと以上に、心の中へ新しい思い出が加わったように感じられた。


     ◇


 共同窯をあとにした三人は、広場の端にある木陰で一度足を止めた。


 購入したパンはシモンが持っており、ルシルは昨日の物資記録へ追加する内容を確認していた。モモは旅帳面を鞄へしまいながら、まだ残っている焼きたての香りを惜しむように、共同窯の方へ何度か振り返っている。


「モモ、そんなに気になるなら、帰る前にもう一度見てきてもいいんだよ?」


 ルシルが笑いながら言うと、モモは首を横に振った。


「ううん、大丈夫! もうちゃんと見たし、エルナさんにも絵を見てもらえたから。それに、今度はトルクとベルクのことも考えないとね」


 その答えに、ルシルは少し驚いた。


 以前のモモなら、もう少し共同窯の前にいたいと言い出しても不思議ではなかった。もちろん今でも好奇心は旺盛だが、旅の仲間たちの都合を考え、自分から気持ちを切り替えられるようになっている。


「そっか。ありがとう、モモ」


「えっ、何が?」


「ううん。なんでもないよ」


 ルシルが微笑むと、モモは不思議そうに首を傾げた。


 シモンはそのやり取りを見ながら、穏やかな表情を浮かべていた。


「では、休み家へ戻る前に、バルドさんへもう一度お話を伺ってもよろしいでしょうか。昨日の道の説明について、一点だけ確認しておきたいことがあります」


「もちろん。何か気になることがあった?」


 ルシルが尋ねると、シモンは昨日の覚え書きを取り出した。


「古い石積みと、その先にある畑道の分岐についてです。私たちは南へ続く道を進むつもりですが、石積みを過ぎたあとの道幅や、馬車が向きを変えられる場所があるかどうかは、まだ確認できていません」


 ルシルは紙を覗き込み、ゆっくりと頷いた。


「確かに。途中で引き返そうと思っても、馬車を回せなかったら困るね」


「ええ。もちろん、バルドさんがご存じとは限りませんが、確認しておく価値はあると思います」


 モモも真剣な表情になった。


「じゃあ、聞いてみよう。分からなかったら、分からないってことを覚えておけばいいんだよね」


「そのとおりです」


 シモンが微笑むと、三人は共同井戸の脇にある小さな作業場へ向かった。


 作業場の前では、バルドが井戸に使う道具を点検していた。


 灰色の混じった短い髪を朝の風に揺らしながら、彼は縄の一部を指先で確かめている。三人の姿に気づくと、作業を中断して顔を上げた。


「おう、旅人さんたちか。昨日はよく休めたか?」


「はい。おかげさまで、ゆっくり休めました」


 ルシルが答えると、バルドは満足そうに頷いた。


「そいつはよかった。マリナのところなら、馬たちも落ち着いて休めただろう」


「ええ。二頭とも今朝は元気そうでした」


 シモンはそう答えてから、南の道について改めて尋ねたいことがあると説明した。


 バルドは手にしていた縄を作業台へ置き、少し考えるように顎へ手を当てた。


「石積みの先か……。あの辺りは、昔は荷車も通っていたはずだ。ただ、今も同じ幅があるかと言われると、俺には分からんな」


「そうですか。では、馬車が向きを変えられる場所についても、確かな情報はありませんか?」


 シモンが尋ねると、バルドは申し訳なさそうに首を横へ振った。


「すまんな。俺が最後にあの先まで行ったのは、もうしばらく前だ。畑道の近くに少し広い場所があったような気はするが、今も使えるとは言い切れん」


 ルシルは頷き、紙へ短く書き加えた。


「ありがとうございます。古い情報でも、分からないところが分かるだけで助かります」


「そう言ってもらえるとありがたいが、無理はするなよ。馬車なら、歩いている人間より道の状態に気をつけなきゃならん」


 バルドは少し真剣な表情になり、続けた。


「それと、昨日話した雨水の窪地だが、あれは水場として数えない方がいい。雨のあとなら水が残ることもあるが、飲めるかどうかは別の話だからな」


「はい。そこは当てにしないつもりです」


 ルシルが答えると、バルドは安心したように頷いた。


 そのとき、井戸へ水を汲みに来た女性が二人、作業場の前を通りかかった。


 バルドは彼女たちへ軽く挨拶を返し、井戸の方を指さして順番を案内する。女性たちは三人の旅人へも会釈をしてから、慣れた様子で桶を置き、水を汲む準備を始めた。


 ルシルはその光景を眺め、昨日初めて井戸を訪れたときのことを思い出した。


 あのときは、残り少なくなった水を補給することで頭がいっぱいだった。


 けれど今は、同じ井戸が集落の暮らしの中で使われている様子を、落ち着いて見ることができる。


(僕たちにとっては旅の途中で立ち寄った水場だけど、ここに住む人たちにとっては毎日使う大切な場所なんだよな)


 ルシルはバルドへ向き直り、丁寧に頭を下げた。


「昨日は水を分けていただいて、本当にありがとうございました。おかげで安心して休むことができました」


「きちんと決まりを守って使ってくれたんだ。礼を言われるほどのことじゃないさ」


 バルドは少し照れたように笑い、作業台の縄へ手を伸ばした。


「もし今日出発するなら、道中気をつけてな。ここへ戻ってくることになっても、遠慮する必要はないぞ」


「ありがとうございます。そのときは、またきちんとお願いに来ます」


 三人は改めて礼を述べ、作業場をあとにした。


     ◇


 休み家へ戻る道では、南から吹く風が少しだけ強くなっていた。


 木々の葉が擦れ合い、道端の草が同じ方向へ揺れている。空には薄い雲が流れていたが、太陽を隠すほどではなく、集落の家々には明るい光が降り注いでいた。


 ルシルは歩きながら、バルドから聞いた情報を整理した。


 南へ続く道には、確かに昔から使われていた区間がある。


 しかし、馬車が今も問題なく通れるかどうかは分からない。途中で道が狭くなっている可能性もあり、引き返すための場所が確保できるとは限らなかった。


「……どうしようか」


 ルシルが小さく呟くと、隣のモモが顔を上げた。


「出発するかどうか、迷ってる?」


「うん。パンも買えたし、トルクとベルクも元気そうだから、進めそうな気はするんだ。でも、南の道について分からないことが多いからね」


 ルシルは紙を折り畳み、少し考えてから続けた。


「僕は旅を続けたい。でも、進みたいって気持ちだけで決めるのは違うと思うんだ」


 モモはしばらく黙って歩いていたが、やがて柔らかく微笑んだ。


「わたしも南の景色を見たいよ。でも、今日出発しなくても、明日には見られるかもしれないし、もっと先になるかもしれない。それなら、ちゃんと考えてから決めたいな」


 シモンは二人の言葉を聞き、静かに頷いた。


「私も同じ考えです。ただ、今の情報だけで出発を見送るべきだとまでは思っていません。道が不明だからこそ、最初から無理をしない範囲を決めて進むという方法もあります」


「無理をしない範囲?」


 ルシルが尋ねると、シモンは道の先へ目を向けた。


「例えば、最初から次の集落へ到着することを目標にしないのです。安全に進めるところまで進み、道幅や地面の状態を確認しながら、引き返せる場所を失わないようにする。もし馬車を進めるのが難しいと判断したら、その時点で戻ることを選びます」


 ルシルはその説明を聞き、ゆっくりと頷いた。


「なるほど。目的地へ着くことじゃなくて、道の様子を確かめながら進むんだね」


「ええ。ただし、引き返せる場所があるうちに判断しなければなりません。道が狭くなってからでは遅い場合もありますから」


 モモは真剣な表情でシモンを見た。


「じゃあ、わたしも道の端をよく見るね。馬車の車輪が落ちそうなところとか、草で隠れてる穴とか」


「ありがとうございます、モモ嬢。ただ、確認のために危険な場所へ近づく必要はありません。私が先行して調べる場合も、馬車から離れすぎないようにします」


 ルシルは二人のやり取りを聞きながら、少しずつ考えをまとめていった。


 南へ進むことと、安全を確かめることは、必ずしも反対の選択ではない。


 無理に進まないと決めておけば、途中で引き返すことも旅の失敗にはならない。


 ただ、その判断をするためには、今の馬車の状態と荷物をもう一度確認する必要があった。


「じゃあ、休み家に戻ったら、最後の確認をしよう。そこで問題がなければ、今日のうちに少し進むことも考えたいな」


 ルシルがそう提案すると、モモは笑顔で頷いた。


「うん! でも、もし今日は休むことになっても、わたしは大丈夫だよ」


 シモンも穏やかに微笑んだ。


「私も異存ありません。まずは、判断に必要なことを一つずつ確かめましょう」


     ◇


 休み家の裏手へ戻ると、トルクとベルクは朝の飼葉をほぼ食べ終えていた。


 世話をしてくれている男性が二頭の様子を見ており、ルシルたちに気づくと軽く手を上げた。


「お帰り。二頭ともよく食べてるよ。水も飲んだし、今朝は落ち着いてる」


「ありがとうございます。今日は出発するかもしれないので、最後に馬具と馬車を確認したいんです」


 ルシルがそう説明すると、男性は頷いた。


「それなら、今のうちに見ておくといい。車輪の周りは昨夜のうちに乾いているし、馬車を動かすなら邪魔になるものは片づけておくよ」


「助かります。よろしくお願いします」


 シモンが礼を述べ、三人は馬車の周囲へ移動した。


 昨日のうちに荷物を整理していたため、車内は比較的整っている。ルシルは購入したパンの包みを乾いた場所へ置き、モモは乾燥野菜の袋がほかの荷物に押し潰されないよう、収納位置を確かめた。


 シモンは水の容器を固定している紐を一度緩め、蓋と外側を確認してから結び直した。


「水の量は昨日補給した分を基準に、今朝使った分も考えておきましょう。馬たちの飲水については、出発前にもう一度世話の方へ確認します」


「うん。もし途中で水を使うことになっても、次の補給地点が分かるまでは慎重にしないとね」


 ルシルは頷きながら、車内の荷物を見渡した。


 保存用のパン、乾燥野菜、まだ調理していない乾燥豆、調理道具、替えの布、馬具の予備品。どれも旅の途中で必要になるものだが、無造作に積めば車内で動いてしまう。


 モモは昨日の記録を取り出し、購入したパンの分を追加した。


「これで食料は少し増えたね。昨日より安心できるけど、ずっと持つわけじゃないから、使う順番も考えた方がいいのかな?」


 シモンは頷いた。


「そうですね。傷みやすいものから使い、保存に向いたものは必要に応じて残すのがよいでしょう。ただし、状態を確認せずに長く置いておくことも避けなければなりません」


「分かった。じゃあ、エルナさんのパンも、食べる前にちゃんと確かめるね」


 モモは真面目な表情で紙へ書き加えた。


 その様子を見ていたルシルは、少し笑いながら尋ねた。


「モモ、昨日からすごく記録係らしくなってきたね」


「えへへ。だって、わたしもちゃんと旅の役に立ちたいもん。絵を描くのも楽しいけど、こういうこともできたら嬉しいなって」


 モモは筆記具を置き、少しだけ照れたように続けた。


「今まで、ルシル君とシモン君に任せちゃうことも多かったでしょう? だから、できることは少しずつ増やしていきたいんだ」


 ルシルはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「ありがとう、モモ。でも、僕たちは誰か一人が全部できるようにならなくてもいいと思うよ。得意なことを分け合って、困ったら助け合えばいいんだから」


 モモは一瞬目を丸くしたあと、嬉しそうに微笑んだ。


「うん。そうだね。じゃあ、わたしは絵と記録を頑張って、ルシル君は馬車を運転して、シモン君は……」


 そこで言葉を止め、シモンへ視線を向ける。


「シモン君、何でもできちゃうから、担当が多すぎない?」


 突然の指摘に、シモンは少し困ったように笑った。


「何でもできるわけではありませんよ。料理についてはお二人から学ぶこともありますし、旅先の楽しみ方については、むしろ私の方が教えていただいています」


「そうかなあ?」


「ええ。昨日、共同窯の絵を描いているモモ嬢を見て、同じ場所でも人によって見つけるものが違うのだと感じましたから」


 モモはその言葉を聞き、嬉しそうに頬を緩めた。


 ルシルも笑顔で頷きながら、荷物の固定を終えた。


 馬車の車輪と車体を確認したあと、三人は二頭の馬具も改めて点検した。擦れや緩みがないかを確かめ、必要な部分を整えてから、トルクとベルクが無理なく動ける状態であることを確認する。


 最後にシモンが車体の横へ回り、全体を見渡した。


「今のところ、出発を妨げるような問題は見当たりません。荷物も昨日より整理できていますし、二頭の状態も良好です」


 ルシルはほっとしたように息をついた。


「じゃあ、あとは僕たちがどうするか決めるだけだね」


 その言葉を聞いたモモは、少しだけ真剣な表情になった。


「……ルシル君は、どうしたい?」


 ルシルはすぐには答えなかった。


 目の前には、二頭の馬と、これまで一緒に旅をしてきた馬車がある。車体の横には、青波で手に入れた青い風魚の布が窓辺から少し覗いており、風を受けて静かに揺れていた。


 その小さな布を見ると、海辺の町で過ごした日々が思い出される。


 旅の始まりから今まで、三人は多くの場所を訪れてきた。


 急いで通り過ぎたくないと思った景色もあれば、思いがけず長く滞在した場所もある。予定していなかった出会いが、その日の一番大切な思い出になったこともあった。


(僕は、南へ進んでみたい。でも、それは今日中に遠くへ行きたいってことじゃない。知らない道の先に何があるのか、自分の目で確かめたいんだ)


 ルシルはゆっくり顔を上げた。


「僕は、今日少し進んでみたいと思ってる。でも、次の集落まで行こうとは考えてないよ。安全に進めるところまで進んで、道の様子を確かめたい」


 モモはその言葉を聞き、少し考えてから頷いた。


「わたしも賛成。もし途中でいい景色があったら見たいし、道が危なそうなら戻ってきてもいいと思う」


 シモンは二人の顔を順番に見つめた。


「私も、その方針であれば賛成です。ただし、一つ条件を付けてもよろしいでしょうか」


「もちろん。何かな?」


 ルシルが尋ねると、シモンは南の方角へ目を向けた。


「引き返すかどうかの判断を、日が傾いてからにしないことです。道が不明な以上、帰る時間を残しておかなければなりません。進むことよりも、戻れる状態を維持することを優先したいと思います」


 ルシルは頷いた。


「分かった。じゃあ、今日は無理に遠くまで行かず、道の状態を確かめることを目的にしよう。安全に休める場所が見つかったとしても、その場で相談して決める。勝手に先へ進まない」


 モモも真剣な表情で頷いた。


「うん。三人で決めるんだね」


 シモンは穏やかに微笑んだ。


「ええ。それなら、私も安心してご一緒できます」


 こうして三人は、ハルミナを出発する方針を決めた。


 ただし、それは南の道を一気に進むという意味ではない。


 今日の目的は、知らない道へ慎重に足を踏み出し、必要なら戻ることも含めて、自分たちで旅の進み方を選ぶことだった。


     ◇


 出発を決めた三人は、休み家の中へ戻ってマリナへ報告した。


 マリナはちょうど食堂の片づけを終えたところで、三人の話を聞くと、少し驚いたように目を丸くした。


「今日出ることにしたのね。もう一日くらい休んでいくのかと思っていたわ」


「僕たちも少し迷ったんです。でも、馬たちの状態もよさそうですし、道の様子を確かめながら進んでみようと思います」


 ルシルが説明すると、マリナは静かに頷いた。


「そう。ちゃんと考えて決めたなら、それが一番ね」


 彼女は少し考えてから、穏やかな声で続けた。


「でも、道が悪かったら戻ってきていいのよ。部屋が空いていれば、また泊まってもらえるし、空いていなくても休める場所を相談するくらいはできるから」


「ありがとうございます。そのときは、またお願いに来ます」


 シモンが丁寧に礼を述べると、マリナは微笑んだ。


「ええ。無理をしないでね」


 ルシルたちは部屋へ戻り、最後の荷物をまとめた。


 寝台の毛布を整え、使わせてもらった場所に忘れ物がないか確認する。モモは机の下まで覗き込み、シモンは窓辺に置いた小物を一つずつ確かめた。


「忘れ物、なさそうだね」


 ルシルが部屋を見渡すと、モモは旅帳面を抱えて頷いた。


「うん。ちゃんと全部持ったよ。昨日描いた絵も、もちろん忘れてない!」


「それを忘れたら、モモ嬢が一番悲しまれるでしょうね」


 シモンの言葉に、モモは笑いながら頷いた。


「絶対に悲しい! だから、ちゃんと鞄の中にしまったよ」


 三人は部屋をあとにし、マリナへ鍵を返した。


 宿泊と馬たちの世話に関する支払いを確認し、未精算の分がないことを確かめてから、改めて礼を述べる。


 マリナは三人を見回し、少し名残惜しそうに微笑んだ。


「短い間だったけれど、楽しかったわ。あなたたちがいると、休み家がいつもより賑やかだったもの」


 モモはその言葉を聞き、嬉しそうに笑った。


「わたしたちも、すっごく楽しかったです! マリナさんのお料理もおいしかったし、庭のお手伝いもできたし、いい思い出がいっぱいできました!」


「ふふ、そう言ってもらえるなら嬉しいわ」


 ルシルは一歩前へ出て、丁寧に頭を下げた。


「本当にお世話になりました。ここでゆっくり休めたおかげで、また旅を続けられそうです」


 マリナは穏やかな表情で頷いた。


「気をつけてね。三人とも、そして馬たちも」


「はい。ありがとうございます」


 休み家の外へ出ると、午前の光が広場の方から差し込んでいた。


 トルクとベルクはすでに出発の準備を整えられており、世話をしてくれた男性が最後の確認をしているところだった。ルシルはその男性にも礼を述べ、二頭の状態について改めて話を聞いた。


「二頭とも問題なさそうだよ。道が悪いところでは無理をさせないようにな」


「はい。気をつけます。本当にありがとうございました」


 ルシルはトルクの首を撫で、続いてベルクにも声をかけた。


「じゃあ、また一緒に行こうか。今日はゆっくり進むからね」


 トルクは鼻を鳴らし、ベルクは静かに耳を動かした。


 モモは馬車へ乗り込む前に、休み家をもう一度振り返った。


 建物の前にはマリナが立っており、三人へ手を振っている。その後ろには昨日落ち葉を集めた庭の一部が見え、朝の光を受けた木々の葉が穏やかに揺れていた。


「……また来たいね、ここ」


 モモが小さく言うと、ルシルは頷いた。


「うん。いつかまた、この道を通ることがあったらね」


 シモンも穏やかに微笑んだ。


「そのときには、今日とは違う景色が見られるかもしれませんね」


 モモはその言葉を聞き、嬉しそうに笑った。


「そっか。季節が変わったら、共同窯の周りも違って見えるかもしれないもんね」


 三人はマリナへ最後の挨拶をし、馬車をゆっくり動かし始めた。


     ◇


 ハルミナの広場を抜ける道は、昨日歩いたときよりも少し広く感じられた。


 馬車の車輪が土の上を転がる音に合わせて、トルクとベルクの蹄が穏やかなリズムを刻む。道端では畑仕事をしていた人が顔を上げ、旅人たちの姿に気づくと軽く手を振ってくれた。


 ルシルは手綱を握りながら、笑顔で会釈を返した。


 モモは馬車の横から外を眺め、見覚えのある家や畑を見つけるたびに、小さく声を上げている。


「あっ、あそこ、昨日通ったところだね。洗濯物が干してあった家!」


「そうだね。最初に井戸の場所を教えてもらったところだ」


 ルシルが答えると、モモは懐かしそうに微笑んだ。


「まだそんなに時間が経ってないのに、もう懐かしい感じがするなあ」


 シモンは道の先を確認しながら、穏やかに答えた。


「それだけ、ハルミナでの時間が印象に残ったのでしょう。短い滞在でも、多くのことを経験しましたからね」


 ルシルは頷いた。


 初めて集落へ入ったときは、水を補給できるかどうかが一番の心配だった。


 それが今では、井戸の管理をしているバルドの顔も、休み家のマリナの笑顔も、共同窯で働くエルナの姿も思い浮かべることができる。


 見知らぬ場所だったハルミナは、三人にとって、また訪れたいと思える場所へ変わっていた。


 集落の南側へ向かうと、家々の数が少しずつ減っていった。


 畑の間を通る道は緩やかに曲がり、その先には低い草地が広がっている。遠くにはなだらかな丘の輪郭が見え、空の青さを背景に、柔らかな緑色の線を描いていた。


 シモンは馬車の前方へ目を向け、道幅を確認した。


「ルシル様、この先からは集落の道を離れることになります。少し速度を落としていただけますか?」


「うん。トルク、ベルク、ゆっくり行こう」


 ルシルは手綱を穏やかに操り、二頭の歩調を落とした。


 道の両側には草が伸びているものの、中央には車輪の跡が残っている。すぐに通れなくなるような状態ではなかったが、轍の深さは場所によって異なり、雨が降ったあとにはぬかるみそうな部分も見えた。


 シモンはしばらく様子を見てから、ルシルへ声をかけた。


「ここまでは問題なさそうですね。ただ、先の方はまだ分かりません。必要になれば私が降りて確認しますので、無理に進めないでください」


「分かった。少しでも気になるところがあったら止まるよ」


 モモは馬車の横から道端を見つめ、草の間に小さな白い花が咲いているのを見つけた。


「あっ、かわいい花! あんなところにも咲いてるんだね」


 ルシルは一瞬だけ視線を向けたが、すぐに前方へ戻した。


「本当だ。あとで安全に止まれる場所があったら、ゆっくり見ようか」


「うん! 今はちゃんと道を見てないとね」


 モモは頷き、旅帳面を取り出す代わりに、花の咲いていた場所を覚えておくことにした。


 馬車はゆっくりと南へ進んでいった。


     ◇


 ハルミナの最後の畑が見えなくなり始めた頃、道の脇に少し広い草地が現れた。


 地面には古い車輪の跡が薄く残っていたが、草の生え方を見る限り、頻繁に荷車が止まっている場所ではなさそうだった。シモンは周囲を見渡し、ルシルへ一度馬車を止めるよう伝えた。


「ここで少し確認しましょう。今のところ道幅には余裕がありますが、この先は丘へ向かって緩やかに上っています」


「うん。ちょうどいい場所だね」


 ルシルは二頭を落ち着かせながら馬車を止め、シモンが降りるのを待った。


 モモも外へ出ようとしたが、シモンは先に周囲を確かめ、足元に危険がないことを確認してから声をかけた。


「モモ嬢、こちら側なら問題なさそうです。ただ、道の端は草が深いので、あまり奥へ入らないようにしてください」


「分かった。ありがとう、シモン君」


 モモは慎重に馬車を降り、草地へ足を下ろした。


 風は集落の中よりも少し強く、髪の先が頬へ触れる。遠くでは小鳥が鳴いており、草原の向こうに見える丘は、朝の光を受けて穏やかな色に染まっていた。


「……きれいだね」


 モモが呟くと、ルシルも馬車から降り、隣へ並んだ。


「うん。ハルミナから少し離れただけなのに、景色がずいぶん変わったね」


 モモは嬉しそうに頷いたが、すぐに道の先へ目を向けた。


「でも、ここから先はまだ分からないんだよね」


「そうだね。だから、少しずつ確かめながら進もう」


 ルシルはそう答え、シモンの方を振り返った。


 シモンは道の端を歩き、車輪が通る部分の地面を確かめていた。草の下に隠れた石や深い窪みがないかを見ながら、馬車を回せるだけの幅があるかどうかも慎重に確認している。


 しばらくして戻ってきたシモンは、二人へ状況を説明した。


「ここなら、馬車の向きを変える余地があります。地面も今のところ安定していますから、引き返す場合の目印として覚えておくとよいでしょう」


「分かった。じゃあ、この場所を覚えておこう」


 ルシルは周囲を見渡し、道の脇に立つ低い木と、少し離れた場所にある大きめの石を確認した。


 モモも旅帳面を開き、簡単な線で位置関係を書き留めた。


「ここは、帰るときの目印にもなるんだね」


「ええ。ただし、道の状態は時間や天候によって変わりますから、戻る際にも同じように確認する必要があります」


 シモンの言葉に、二人は頷いた。


 ルシルは再び南の丘へ目を向けた。


 まだ古い石積みは見えていない。


 バルドが教えてくれた道筋のうち、実際に確かめられたのは、集落からここまでの区間だけだった。


 それでも、知らなかった道が少しずつ自分たちの経験へ変わっていくことに、ルシルは確かな喜びを感じていた。


(急いで先へ行かなくてもいい。こうして一つずつ確かめながら進むことも、僕たちらしい旅なんだ)


 その思いを胸に、ルシルは二人へ笑顔を向けた。


「じゃあ、もう少しだけ進んでみようか。もちろん、無理はしないで」


 モモは嬉しそうに頷き、旅帳面を閉じた。


「うん! 次はどんな景色が見えるかな?」


 シモンも穏やかに微笑み、馬車へ戻る前にもう一度道の先を確認した。


「それでは、引き続き慎重に参りましょう。少しでも状況が変われば、すぐに相談いたします」


 三人はそれぞれの位置へ戻り、トルクとベルクに声をかけた。


 馬車が再び動き始めると、車輪の音が草原の静けさの中へ穏やかに響いた。


 ハルミナで過ごした時間は、すでに三人の大切な思い出になっている。


 けれど、その思い出を置き去りにするのではなく、胸に抱えたまま次の景色へ進んでいく。


 ルシルは手綱を握り、ゆっくりと南の道を見つめた。


 丘の向こうに何があるのかは、まだ分からない。


 次の集落がどれほど遠いのかも、確かなことは知らない。


 それでも、三人には相談できる仲間がいて、旅を支えてくれる二頭の馬がいる。進むことも、立ち止まることも、引き返すことも、自分たちで選べるのだ。


 風が草原を渡り、馬車の窓辺に結ばれた青い風魚の布を優しく揺らした。


 その小さな揺れを横目に、ルシルは穏やかに微笑んだ。


 南へ続く道の先には、まだ知らない景色が広がっている。


 そして三人の気ままな旅は、ハルミナで得た温かな思い出とともに、ゆっくりと新しい一歩を踏み出していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。