第135話 旅帳面に残すハルミナの一日と、南へ続く道を選ぶための約束
共同窯から休み家へ戻る道には、朝の賑わいが少しずつ落ち着き始めたハルミナの景色が広がっていた。
共同井戸の周囲では、最後の水桶を運び終えた女性たちが立ち話をしており、少し離れた畑では、腰を曲げて土を確かめる老人の姿が見える。家々の屋根から立ち上っていた朝の煙も薄くなり、代わりに日差しを受けた草の匂いが、緩やかな風に乗って道へ流れてきていた。
ルシルは歩きながら、手に持った小さな紙片へ目を落とした。
そこには、先ほどバルドから聞いた南の道について、忘れないうちに書き留めた簡単な覚え書きがある。草原を抜けた先にある低い丘、その手前の古い石積み、途中で分かれる畑道、そして水場として当てにしてはいけない雨水の窪地について、短い言葉で記してあった。
「ルシル君、さっきからそれ見てるね。そんなに難しい道なの?」
隣を歩いていたモモが、興味深そうに紙片を覗き込んだ。
「難しいというより、分からないことが残ってるんだ。バルドさんは親切に教えてくれたけど、次の集落までの距離は正確には知らないって言ってたでしょう?」
「うん。途中に古い石積みがあって、その先に丘があるんだよね。でも、そこから先ははっきりしないんだった」
モモは指折り数えるようにして、朝の説明を思い出した。
ルシルは頷き、紙片を折り畳んだ。
「だから、今日は出発しないことにしてよかったと思うんだ。トルクとベルクを休ませられるし、僕たちも必要なものを確認できる。せっかく水を補給できたんだから、次は同じように困らない準備をしたいよ」
その言葉を聞いて、少し後ろを歩いていたシモンが穏やかに微笑んだ。
「よいお考えだと思います。特に今回は、次の確実な補給地点が分かっていません。十分な備えがあれば、途中で急ぐ必要もなくなりますからね」
「でも、荷物を増やしすぎると馬車が重くなるんだよね?」
モモが尋ねると、シモンは頷いた。
「ええ。水は必要ですが、積めるだけ積めばよいというものでもありません。容器の容量と固定する場所、馬たちへの負担を考えて決める必要があります」
ルシルはその説明を聞きながら、昨夜までの旅を思い返した。
草原を進んでいたとき、残りの水を確認するたびに、三人の会話は自然と慎重になっていた。水がなくなることを心配しながら旅を続けるのは、楽しいものではない。だからといって、必要以上に重い荷物を積んで馬たちへ負担をかけるのも違う。
(……自由に旅をするって、好き勝手に進むことじゃないんだな)
自分たちで行き先を決めるからこそ、その判断には責任が伴う。
けれど、それを窮屈だとは思わなかった。
むしろ、仲間と相談しながら決められることが、ルシルには嬉しかった。
「じゃあ、戻ったら一度、荷物を全部確認しよう。食料も水も、何がどれくらい残っているのか、ちゃんと分かるようにしたいな」
「賛成です。今後も使える記録にしておけば、次の補給でも判断しやすくなります」
シモンの返事に、モモも元気よく頷いた。
「わたしも手伝う! それが終わったら、共同窯の絵を描いてもいい?」
「もちろん。むしろ、モモが今日見たものを忘れないうちに描いた方がいいと思うよ」
「やったあ! じゃあ、早く戻ろう!」
モモが嬉しそうに歩調を速めると、ルシルは笑いながらその後を追った。
シモンは二人の背中を見つめ、眼鏡の位置を軽く直した。
王城にいた頃なら、旅程も物資も、それぞれの担当者が細かく管理していたはずだ。
しかし今は違う。
三人で考え、三人で確かめ、三人で決める。
その不慣れさも含めて、シモンは少しずつ今の暮らしを気に入っていた。
◇
休み家へ戻ると、マリナは裏手の庭で洗濯物を干していた。
大きな籠から取り出した布を縄へ広げ、風に揺れないよう木製の留め具で固定している。三人の足音に気づくと、彼女は顔を上げ、柔らかな笑顔を見せた。
「あら、お帰りなさい。共同窯は見られた?」
「はい! エルナさんにもお会いできました!」
モモが嬉しそうに答えると、マリナは納得したように頷いた。
「それはよかったわ。あの人、パンのことになると熱心だから、いろいろ教えてくれたでしょう?」
「すごかったです! 窯の中へ生地を入れるところも見せてもらいました!」
「まあ、ちょうどいいところに行ったのね」
マリナは楽しそうに笑い、最後の布を縄へ掛けた。
ルシルはその作業が終わるのを待ってから、今日の午後について相談した。
「僕たち、午後は馬車の荷物を確認したいと思っているんです。裏手で少し作業しても大丈夫でしょうか?」
「もちろんよ。ほかの人の通り道を塞がなければ、好きに使ってちょうだい。ただ、馬たちの近くで荷物を広げるなら、驚かせないようにしてね」
「ありがとうございます。気をつけます」
シモンも丁寧に礼を述べた。
「それから、もし差し支えなければ、こちらで購入できる保存食についても伺いたいのですが」
マリナは少し考え、籠を抱え直した。
「干した野菜や穀物なら、分けてくれる家があると思うわ。でも、たくさん余っているわけではないから、必要な量を先に決めた方がいいわね。お昼を食べてからでも相談できるわよ」
ルシルは頷いた。
「分かりました。先に手持ちを確認してから、改めて相談します」
「ええ。それがいいと思うわ」
マリナは三人を見回し、少しだけ声を和らげた。
「それにしても、あなたたちは本当に楽しそうに旅をしているのね。昨日は疲れているように見えたけれど、今日は顔色もいいわ」
突然そう言われ、ルシルは少し照れくさくなった。
「そう見えますか?」
「ええ。道を急いでいる旅人は、食事をしていても次の予定ばかり気にしていることがあるの。でも、あなたたちは今いる場所のことも、ちゃんと見ようとしているでしょう?」
ルシルは答える前に、隣の二人へ目を向けた。
モモは嬉しそうに笑っており、シモンも穏やかな表情を浮かべている。
「……そうですね。僕たちは、旅そのものを楽しみたいんです」
ルシルがそう答えると、マリナは満足そうに微笑んだ。
「それなら、ハルミナでもいい思い出を作っていってね」
その言葉は、朝の日差しのように温かかった。
◇
裏手の馬車置き場へ移動すると、トルクが真っ先に三人へ顔を向けた。
朝に様子を見たばかりだというのに、栗毛の馬は再び首を伸ばし、ルシルの手元を確かめるように鼻先を動かしている。
「トルク、また何かもらえると思ってる?」
ルシルが笑いながら尋ねると、トルクは答える代わりに鼻を鳴らした。
その隣で、ベルクは落ち着いた様子で敷き草を踏み直している。
「今日はお休みの日だから、ゆっくりしててね」
モモが二頭へ声をかけると、シモンは馬車の後部へ回り、荷物を固定している留め具を確認した。
「まず、馬車の中にあるものから整理しましょう。水の容器は昨日の補給後に蓋を閉めていますが、念のため漏れがないかも確かめたいですね」
「うん。僕は後ろの荷物を降ろすよ。モモは記録をお願いできる?」
「任せて!」
モモは鞄から旅帳面を取り出しかけたものの、すぐに手を止めた。
「あ、でも、絵を描くところと荷物の記録が混ざっちゃうかな?」
シモンは少し考えてから答えた。
「旅帳面には今日の出来事を残して、物資の記録は別の紙にしましょう。出発後も何度か書き直すことになるでしょうから、その方が扱いやすいと思います」
「なるほど! じゃあ、紙を一枚もらってくるね!」
モモが休み家へ戻ろうとすると、ルシルが声をかけた。
「馬車の書き物道具のところに、使ってない紙があったと思うよ」
「あっ、そうだった!」
モモは笑いながら向きを変え、馬車の中へ入っていった。
ルシルはその背中を見送り、シモンと一緒に荷物を降ろし始めた。
まず取り出したのは、飲み水を入れるための容器だった。
昨日、ハルミナの共同井戸で補給した水は、蓋をしっかり閉めた状態で保管してある。三人は容器の外側を確かめ、底や継ぎ目に湿り気がないことを確認した。
「漏れてはいないみたいだね」
「ええ。ですが、出発前にも同じ確認をしましょう。移動中の振動で緩むことがありますから」
シモンはそう言いながら、容器を元の位置へ戻す前に、固定する紐の状態を調べた。
ルシルは隣に置かれた別の荷物へ目を向けた。
保存用のパン、乾燥させた食材、調理に使う小さな道具、替えの布、それから旅の途中で必要になる細かな品々。
どれも特別な宝物というわけではないが、三人の暮らしを支えてくれているものばかりだった。
「こうして並べると、思ってたよりいろいろあるね」
「旅の期間が長くなれば、自然と必要なものも増えますからね。ただし、使っていないものまで積み続けると、いずれ整理が難しくなります」
シモンは荷物を一つずつ確認しながら、静かに続けた。
「大切なのは、何を持っているか把握できることです。必要なときに見つからなければ、持っている意味が薄れてしまいますから」
ルシルは頷いた。
「確かに。僕、前に探し物をして、結局モモに見つけてもらったことがあったし」
「ありましたね」
シモンが微笑むと、ルシルは少しだけ苦笑した。
そのとき、紙と筆記具を持ったモモが戻ってきた。
「お待たせ! 何から書けばいい?」
「まずは食料かな。今日と明日の分だけじゃなくて、南へ進んでから何日くらい持つかも考えたいんだ」
ルシルが説明すると、モモは頷き、荷物の横に置いた小さな箱を机代わりにして紙を広げた。
三人は食料を種類ごとに分け、残量を確認していった。
保存用のパンはまだあるが、長く旅を続けるには心許ない。
乾燥させた食材は比較的日持ちするものの、それだけでは食事が単調になる。以前手に入れた乾燥豆も残っていたが、調理には水と火を使える場所が必要だった。
「この豆、まだ使ってないんだね」
モモが袋を持ち上げると、ルシルは頷いた。
「うん。途中で煮込める場所があったら使おうと思ってたけど、なかなか機会がなかったんだ」
「火を使えない野営地が続きましたからね。無理に調理するより、適した場所まで持ち越す方が安全です」
シモンの説明に、モモは納得したように頷いた。
「じゃあ、次にちゃんと火を使える場所があったら、豆のスープにできるかも!」
「そうだね。ほかの野菜もあれば、もっとおいしくなりそうだ」
ルシルがそう言うと、モモは期待に満ちた笑顔を見せた。
「いいねえ! 旅先で作る温かいスープ!」
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「そのためにも、今ある食材を無駄にしないようにしましょう」
食料の確認を終えると、次は馬具や修理用の道具を調べた。
予備の留め具や紐は揃っており、今すぐ交換が必要なものは見当たらない。馬車の車輪にも目立った異常はなく、昨日までの移動で緩んだ箇所がないか、シモンとルシルが順番に確かめていった。
モモは二人の作業を眺めながら、紙へ必要なことを書き加えた。
「えっと……水の容器は確認済み。食料は追加した方がいい。馬具は今のところ大丈夫……」
そこで筆を止め、少し考え込む。
「ねえ、シモン君。こういう記録って、毎日書いた方がいいのかな?」
「毎日すべてを書き直す必要はありませんよ。ただ、食料や水を大きく使ったとき、補給したとき、道具に異常が見つかったときには、記録しておくと役立つでしょう」
「そっか。じゃあ、何か変わったときに書くんだね」
「ええ。それなら負担も少なく、続けやすいと思います」
モモは嬉しそうに頷いた。
「分かった! わたし、ちゃんと続けられるようにする!」
ルシルはその言葉を聞き、微笑んだ。
モモは旅先で見つけた美しいものを絵に残すのが好きだ。
けれど、こうして実用的な記録にも興味を持ち始めている。
それは彼女にとって、旅を楽しむだけでなく、旅を支えることにも喜びを見つけ始めた証のように思えた。
◇
荷物の確認が一段落した頃には、太陽がかなり高く昇っていた。
裏庭の草は朝露が乾き、馬車の車体には明るい日差しが当たっている。トルクとベルクは落ち着いた様子で休んでおり、近くを通りかかった休み家の手伝いの男性が、二頭の様子を確かめていた。
ルシルはその男性へ声をかけ、今日の飲水と飼葉について相談した。
男性は二頭の状態を見ながら、いつもの世話の時間と量について説明してくれた。ルシルたちはその内容を確認し、休み家で預かってもらっている間も、必要な費用をきちんと支払うことにした。
「ありがとうございます。僕たち、明日出発するかどうかはまだ決めていないんですが、今日は一日休ませるつもりです」
「それなら、夕方にも様子を見ておくといい。二頭とも落ち着いているし、今のところ心配はいらなさそうだ」
男性はそう答え、飼葉を置いた場所を整えてから戻っていった。
ルシルは二頭へ近づき、ベルクの首を優しく撫でた。
「今日はいっぱい休んでね。明日からまた歩いてもらうかもしれないから」
ベルクは静かに鼻を鳴らし、ルシルの手へ首を寄せた。
その隣で、トルクは相変わらず食べ物の方へ関心を向けている。
「トルクも元気そうだね」
モモが笑いながら声をかけると、ルシルも微笑んだ。
「うん。でも、元気だからって無理をさせないようにしないとね」
シモンは二頭の姿を見つめ、静かに頷いた。
「ええ。旅の速さを決めるのは、私たちだけではありませんから」
その言葉に、ルシルは少しだけ目を細めた。
トルクとベルクは、ただ馬車を引いてくれる存在ではない。
旅を一緒に続けてきた、大切な仲間だった。
◇
昼食は休み家でいただくことになった。
マリナが用意してくれたのは、薄く切ったパンと野菜の煮込み、それから少量の塩漬け肉だった。朝食とは違う香りの料理が机へ並ぶと、モモは嬉しそうに顔を輝かせた。
「わあ! 今日もおいしそう!」
マリナは笑いながら器を置いた。
「朝から歩き回っていたんでしょう? しっかり食べてちょうだい」
「ありがとうございます!」
三人は礼を述べ、温かな昼食をいただいた。
食事の途中、ルシルは午前中に確認した物資についてマリナへ相談した。
「保存用のパンと、日持ちする野菜を少し買い足したいと思っています。どなたか、分けていただける方をご存じありませんか?」
マリナは匙を置き、少し考えた。
「パンなら、共同窯を使っている家に相談できると思うわ。ただ、今日はすでに焼くものが決まっているはずだから、明日の朝に受け取れるかどうか聞いてみるのがいいわね」
「なるほど。今日すぐに買えるとは限らないんですね」
「ええ。ここは大きな町じゃないから、店に行けば何でも揃うわけではないの。みんな自分の家で使う分を考えて作っているから、余裕があるときに分け合うことが多いわ」
ルシルは頷いた。
王都や大きな町では、店へ行けば必要な品を選べることが多かった。
しかし、小さな集落では事情が違う。
誰かが手間をかけて作ったものを、生活に支障のない範囲で分けてもらう。
そのことを忘れてはいけないのだと思った。
「分かりました。無理をお願いするつもりはありません。もし余裕があるようなら、相談してみます」
マリナは安心したように微笑んだ。
「そうしてちょうだい。それから、干した野菜なら、私のところにも少しあるわ。夕方に残りを確認して、分けられる量があれば教えるわね」
「ありがとうございます。助かります」
シモンも丁寧に頭を下げた。
「お支払いについても、適正な額でお願いできればと思います」
「ええ。そこはちゃんと相談しましょう」
マリナは穏やかに答えた。
そのやり取りを聞いていたモモが、少し考えてから口を開いた。
「マリナさん、わたしたち、何かお手伝いできることはありませんか?」
突然の申し出に、マリナは目を丸くした。
「お手伝い?」
「はい! 昨日からお世話になってるし、もし簡単なお仕事があれば、少しでもお役に立てたらいいなって」
モモは真剣な表情で続けた。
「もちろん、できないことを無理にやるつもりはないです。でも、何かあったら教えてください!」
マリナはしばらく彼女を見つめていたが、やがて優しく微笑んだ。
「ありがとう。でも、お客さんに無理をさせるわけにはいかないわ」
モモは少し残念そうに眉を下げた。
「そっかあ……」
「ただ、そうね。午後に庭の乾いた葉を集めるつもりだったの。もし本当に時間があるなら、少しだけ手伝ってもらおうかしら」
その言葉を聞いた途端、モモの表情が明るくなった。
「はい! 喜んで!」
ルシルも笑顔で頷いた。
「僕も手伝います。三人なら、すぐ終わると思いますよ」
シモンも穏やかに続けた。
「私もご一緒しましょう。道具の使い方だけ教えていただければ、問題ありません」
マリナは三人を見回し、少し困ったように笑った。
「本当に、変わった旅人さんたちね」
その言葉には呆れた様子よりも、温かな親しみが込められていた。
◇
午後の庭には、穏やかな風が吹いていた。
休み家の裏手には低い木々が何本か植えられており、その下には乾いた葉や細い枝が落ちている。マリナは普段、時間のあるときにそれらを集め、庭の端へまとめているらしかった。
ルシルたちは渡された道具を使い、木の根元から少しずつ葉を集め始めた。
モモは最初こそ勢いよく動いていたが、細い枝を一緒に引っかけてしまい、思ったように葉をまとめられずにいた。
「あれれ……。これ、意外と難しいね」
ルシルが隣を見ると、モモは小さな熊手を持ったまま、集めた葉をもう一度散らしてしまっていた。
「少しずつ集めた方がいいんじゃないかな。ほら、こんなふうに」
ルシルは自分の熊手で葉を手前へ寄せ、まとまったところで横へ移した。
モモはその動きを真剣に見つめ、すぐに真似をした。
「あっ、できた! なるほど、欲張っていっぱい集めようとしちゃ駄目なんだね!」
「うん。僕もそんなに慣れてるわけじゃないけど、少しずつならできそうだよ」
二人が笑い合っていると、少し離れた場所で作業していたシモンが顔を上げた。
「お二人とも、木の根元は無理に掻かないようにしてください。根を傷つけてしまうかもしれませんから」
「はーい!」
モモは元気よく返事をし、今度は慎重に熊手を動かした。
ルシルはその様子を見ながら、自分の手元へ視線を戻した。
落ち葉を集めるという作業は、特別な技術を必要とするものではない。
けれど、実際にやってみると、道具の角度や力加減によって結果が変わる。
王城にいた頃は、庭がいつも整えられていることを当たり前のように受け止めていた。
今なら、その景色の裏側に多くの人の仕事があったことを、少しだけ理解できる気がした。
(……僕は、知らなかったことが本当に多いんだな)
その思いは、後悔とは少し違っていた。
知らなかったことを、これから知っていける。
そのことが嬉しかった。
しばらく作業を続けると、庭の一角に落ちていた葉はきれいに集まった。
マリナが用意してくれた大きな籠へ葉を移し、細い枝を別にまとめる。最後に道具を元の場所へ戻すと、三人はようやく一息ついた。
「ふう……。思ってたより身体を動かしたね」
ルシルが額の汗を拭うと、モモも笑いながら頷いた。
「うん! でも、なんか楽しかった!」
シモンは袖口についた葉を払い、穏やかに微笑んだ。
「作業の成果が目に見えるというのは、気持ちのよいものですね」
そこへマリナが水の入った器を持って現れた。
「三人とも、ありがとう。こんなにきれいになるなんて思わなかったわ」
ルシルは笑顔で答えた。
「いえ、僕たちも楽しかったです」
「本当に助かったわ。さあ、少し休んでちょうだい」
マリナが差し出した水を受け取り、三人は庭の端にある長椅子へ腰を下ろした。
身体を動かしたあとの水は、驚くほどおいしかった。
モモは器を両手で持ち、満足そうに息をついた。
「……ああ、おいしい。お仕事のあとって、水までおいしく感じるね」
ルシルは笑いながら頷いた。
「うん。なんだか、いつもより喉に染みる気がする」
シモンは二人の会話を聞き、静かに微笑んだ。
その表情には、王城で執務をしていた頃とは違う、穏やかな充実感が浮かんでいた。
◇
休憩を終えたあと、モモは旅帳面を持って広場へ向かうことにした。
ルシルとシモンも一緒だったが、今度は急いで歩く必要はない。三人は道端の草花や家々の様子を眺めながら、ゆっくりと集落の中心へ向かった。
広場へ着くと、朝の人混みはすっかり落ち着いていた。
共同井戸の近くには数人の住民がいるだけで、広場の端にある木陰は静かな休憩場所になっている。
モモは周囲を見回し、井戸と家々の屋根が見える場所を選んだ。
「ここなら、朝の景色を思い出しながら描けそう!」
ルシルは隣の石へ腰を下ろし、微笑んだ。
「いい場所だね。風も気持ちいいし」
シモンも少し離れた場所に座り、午前中にまとめた物資の記録を取り出した。
「私はこちらを整理しておきます。必要なものが決まれば、夕方までにマリナさんへ相談できますから」
モモは頷き、旅帳面を開いた。
白い頁には、これまで訪れた場所の景色が少しずつ残されている。
海辺の村で見た空。
草原に沈む夕日。
馬車の窓から眺めた雲。
旅の途中で出会った、小さな風景の数々。
モモはその頁をゆっくりめくり、まだ何も描かれていないところで手を止めた。
「……今日は、何から描こうかな」
ルシルは隣から旅帳面を覗き込んだ。
「共同窯はどう? エルナさんが、煙突の曲がってるところも描いてほしいって言ってたでしょう?」
「あっ、そうだった! じゃあ、まず窯からにしようかな」
モモは筆記具を持ち、目を閉じて午前中の景色を思い出した。
石と土で作られた大きな窯。
積まれた薪。
作業台の上に並んだ籠。
長い柄の道具を使いながら、慣れた手つきでパンを焼いていた人々。
そして、少しだけ曲がった煙突。
モモはゆっくりと線を引き始めた。
最初は窯の大きな形から描き、その周囲へ作業台や薪の束を加えていく。細かな部分になると何度か筆を止め、記憶を確かめるように空を見上げた。
ルシルは邪魔をしないよう、しばらく黙って見守っていた。
やがて、モモが少し困ったように眉を寄せた。
「……うーん。煙突の曲がり方、こんな感じだったかなあ」
ルシルは絵を見つめ、少し考えた。
「もう少し、上の方だけ曲がってた気がするよ。下はほとんど真っすぐだったんじゃないかな」
「そっか。じゃあ、ここを直して……」
モモは慎重に線を描き直した。
しばらくすると、旅帳面の中にハルミナの共同窯が姿を現した。
実際の窯とまったく同じではない。
けれど、そこにはモモが感じた温かさや、作業場で見た人々の動きが、不思議と残されているように思えた。
「……できた!」
モモは嬉しそうに旅帳面を持ち上げた。
ルシルはその絵を見て、自然と笑顔になった。
「すごいね、モモ。ちゃんと共同窯だって分かるよ」
「本当!?」
「うん。それに、煙突の形もいい感じだと思う」
シモンも手元の紙から顔を上げ、絵へ目を向けた。
「よく特徴を捉えていますね。実際に見たときの様子が思い出されます」
モモは嬉しそうに頬を緩めた。
「えへへ……。ありがとう!」
そして、絵の下へ小さく文字を書き加えた。
ハルミナの共同窯。
旅帳面に、新しい思い出が一つ増えた。
◇
そのあと、モモは広場の景色も描き始めた。
共同井戸を中心に、周囲の家々と木陰を配置し、朝に水桶を持って集まっていた人々の姿を思い出しながら、少しずつ線を加えていく。
ルシルはその隣で、バルドから聞いた南の道について整理していた。
朝の地面に描かれた簡単な道筋を思い出し、紙へ街道と丘の位置を書き込む。
途中で分かれる畑道については、行き先が分からないことを明記した。
古い石積みは目印になるが、その由来は不明。
雨水の窪地は存在するらしいが、飲用できるとは限らない。
次の集落までの距離は、現時点では不明。
ルシルは最後の一行を書いたところで、少しだけ筆を止めた。
「……シモン、やっぱり次の集落までの距離が分からないのは気になるね」
シモンは隣へ移動し、紙を覗き込んだ。
「そうですね。ただ、今の段階で無理に答えを出すことはできません。重要なのは、分からないことを分からないまま記録しておくことです」
「分からないまま、でいいの?」
ルシルが尋ねると、シモンは穏やかに頷いた。
「ええ。知らないことを知っているつもりで判断する方が危険ですから。バルドさんが最近は南へ遠出していないとおっしゃったことも、重要な情報です」
ルシルはその説明を聞き、紙へ視線を戻した。
確かに、誰かから聞いた話を、そのまま確かな事実として扱ってしまうのは危険だ。
これまでの旅でも、古い道や水場について、実際に確かめるまで判断できなかったことが何度もあった。
「じゃあ、僕たちは確かなことだけを頼りにして、分からないところは慎重に進めばいいんだね」
「そのとおりです。必要なら途中で引き返す判断もできますし、天候や馬たちの状態によっては、予定を変更しても構いません」
ルシルは頷いた。
「うん。僕たちの旅なんだから、無理して進む必要はないもんね」
シモンはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。
「ええ。急いで到着しなければならない目的地があるわけではありませんから」
そのとき、絵を描いていたモモが顔を上げた。
「ねえ、ルシル君、シモン君。わたし、一つお願いしてもいい?」
二人が振り向くと、モモは旅帳面を膝の上へ置き、少し真剣な表情を浮かべていた。
「次の道でも、きれいな景色があったら、ちゃんと止まって見たいなって思うの。もちろん、危ない場所とか、馬たちが疲れてるときは駄目だけど……」
モモはそこで一度言葉を切り、二人の反応を確かめた。
「でも、せっかく自由な旅なんだから、急いで通り過ぎるだけじゃなくて、いろんなものを見たいんだ」
ルシルはその言葉を聞き、ゆっくりと微笑んだ。
「もちろんだよ、モモ。僕も同じ気持ちだから」
シモンも穏やかに頷いた。
「安全に停車できる場所であれば、私も異存ありません。景色を楽しむ時間を含めて、旅程を考えましょう」
モモの表情がぱっと明るくなった。
「本当!? ありがとう!」
ルシルは笑いながら続けた。
「それに、僕だって見たいものがたくさんあるんだ。南の丘の向こうには、どんな景色が広がってるんだろうね」
「きっと、また違う草原があるかもしれないし、小さな森もあるかもしれないよ!」
モモは楽しそうに想像を膨らませた。
シモンは二人の会話を聞きながら、静かに目を細めた。
かつての自分なら、旅程を守ることを最優先に考えていたかもしれない。
しかし今は、予定を変えることも、立ち止まることも、旅の楽しさの一部だと思える。
その変化に気づくと、胸の奥に小さな温かさが広がった。
◇
午後の光が少し傾き始めた頃、三人は休み家へ戻った。
庭ではマリナが干した野菜を入れた籠を確認しており、ルシルたちの姿に気づくと手を振った。
「ちょうどよかったわ。さっき話していた保存食だけど、少しなら分けられそうよ」
ルシルは嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます。僕たちも必要な量を確認してきました」
マリナは頷き、籠の中身を見せてくれた。
そこには薄く切って乾燥させた野菜が入っており、種類ごとに小さな袋へ分けられている。
「これなら、煮込みに使えるわ。水で戻せば柔らかくなるし、保存もしやすいの」
モモは興味深そうに袋を覗き込んだ。
「わあ、いいですね! スープにも使えそう!」
「ええ。ただ、乾燥させてあるから、そのまま食べるものじゃないわよ」
「はい! ちゃんと煮込みます!」
ルシルはシモンと相談し、必要な量だけを分けてもらうことにした。
マリナが示した代金を確認し、支払いを済ませる。
受け取った袋は口をしっかり閉め、湿気が入らないようにして馬車へ積むことにした。
「ありがとうございます。これで食事の幅が少し広がりそうです」
ルシルが礼を述べると、マリナは微笑んだ。
「よかったわ。あとはパンね。エルナに相談するなら、夕方のうちに行ってみるといいかもしれないわ」
「そうですね。無理のない範囲でお願いできるか、聞いてみます」
三人は再び共同窯の方へ向かうことにした。
ただし、午前中とは違い、今度は買い物の相談である。
モモは少しだけ緊張した様子で、ルシルへ顔を向けた。
「ねえ、ルシル君。もしパンを分けてもらえなかったら、どうする?」
「そのときは、今ある食料でやりくりするよ。無理をお願いするわけにはいかないしね」
ルシルがそう答えると、モモは安心したように頷いた。
「うん、そうだよね。エルナさんたちにも、自分たちの暮らしがあるもんね」
シモンは二人の会話を聞き、静かに微笑んだ。
「その考え方でよいと思います。旅先での補給は、相手の事情を尊重することが大切ですから」
三人は夕方の道を歩き、共同窯へ向かった。
◇
共同窯では、午前中の作業がすでに終わっていた。
窯の周囲にはまだ温かさが残っているものの、朝ほどの熱気はない。作業台の上には空になった籠が重ねられ、薪の束もきれいに整理されていた。
エルナは道具を片づけているところだった。
「あら、また来てくれたのね」
三人の姿に気づくと、彼女は笑顔を見せた。
「はい。今日は二度もお邪魔してすみません」
ルシルが丁寧に頭を下げると、エルナは首を横に振った。
「気にしないで。何か用事があったの?」
「実は、明日以降の旅に備えて、保存しやすいパンを少し買い足したいと思っているんです。もし余裕があれば、分けていただけないかと思いまして」
エルナは少し考え、窯の方へ目を向けた。
「なるほどね。明日の朝なら、日持ちするように焼いたパンを少し用意できるかもしれないわ。ただ、ほかの家の分もあるから、たくさんは難しいけれど」
ルシルはすぐに頷いた。
「少しで十分です。無理のない量でお願いできれば助かります」
エルナは三人を見回し、微笑んだ。
「それなら、明日の朝にまた来てちょうだい。焼き上がりを見てから、分けられる量を決めましょう」
「ありがとうございます!」
モモが嬉しそうに頭を下げると、エルナは楽しそうに笑った。
「そんなに喜んでもらえるなら、張り合いがあるわね」
シモンは丁寧に続けた。
「代金についても、受け取る際に確認させてください。ご負担にならない範囲でお願いいたします」
「ええ、分かったわ」
エルナは頷いた。
ルシルはほっとしたように息をついた。
まだパンを受け取ったわけではない。
それでも、明日の朝に相談できるという約束ができたことは、旅の準備を進めるうえで大きな助けになった。
「本当にありがとうございます。では、明日の朝にまた伺います」
「ええ。気をつけて帰ってね」
三人は礼を述べ、共同窯をあとにした。
◇
夕方のハルミナは、朝とはまた違う表情を見せていた。
畑から戻ってきた人々が道を歩き、家々の窓からは温かな明かりが漏れ始めている。遠くでは子どもたちの声が聞こえ、その向こうから、夕食の準備をしているらしい香りが漂ってきた。
ルシルはその景色を眺めながら、静かに微笑んだ。
「……なんだか、いい一日だったね」
モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! 共同窯も見られたし、絵も描けたし、マリナさんのお手伝いもできた!」
「物資の確認も進みましたし、南の道についても整理できました。予定していたことは、かなり片づきましたね」
シモンも穏やかに答えた。
ルシルは二人の顔を見て、少し考えた。
「じゃあ、明日の朝にパンのことを確認して、それから出発するかどうか決めようか」
モモは頷いた。
「うん! トルクとベルクの様子も見てからだね!」
「ええ。天候と道の状態も確認しましょう」
シモンの言葉に、ルシルは微笑んだ。
旅を続けるために必要なことは、まだいくつもある。
けれど、それを一つずつ確かめていけばいい。
急ぐ必要はない。
誰かに命じられて進む旅でもない。
自分たちで選び、自分たちの足で進んでいく旅なのだから。
◇
休み家へ戻ると、マリナが夕食の準備を進めていた。
三人は裏手でトルクとベルクの様子を確認し、飼葉と水が適切に用意されていることを確かめてから、建物の中へ戻った。
夕食には、温かな野菜の煮込みとパンが並んだ。
モモは嬉しそうに匙を持ち、今日一日の出来事をマリナへ話した。
共同窯でエルナに会ったこと。
旅帳面へ窯の絵を描いたこと。
広場の景色を残したこと。
そして、南へ続く道についてバルドから話を聞いたこと。
マリナはその一つひとつに耳を傾け、ときおり楽しそうに笑った。
「本当に、今日はハルミナを満喫したのね」
「はい! すっごく楽しかったです!」
モモが元気よく答えると、マリナは微笑んだ。
「それならよかったわ。小さな集落だから、何もないと思われることもあるのよ」
ルシルは首を横に振った。
「そんなことありません。僕たちにとっては、知らないことがたくさんありました」
その言葉に、マリナは少し驚いたように目を丸くした。
「そう?」
「はい。共同窯の使い方も、みんなで井戸を管理していることも、実際に見なければ分からなかったことですから」
ルシルは穏やかに続けた。
「それに、ここで暮らしている人たちのお話を聞けたのが嬉しかったです」
マリナはしばらく彼を見つめていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「……そう言ってもらえると、私も嬉しいわ」
食卓には、穏やかな沈黙が流れた。
窓の外では、夕暮れの空が少しずつ深い青へ変わっていく。
ルシルは温かな煮込みを口へ運びながら、この時間を静かに味わった。
◇
夕食を終えたあと、三人は部屋へ戻り、明日の予定を最後にもう一度確認した。
モモは旅帳面を膝の上へ広げ、今日描いた共同窯の絵を眺めている。
シモンは物資の記録を整理し、ルシルは窓際で外の様子を確かめていた。
夜のハルミナには、昼間とは違う静けさが広がっている。
遠くから聞こえる人々の声も少なくなり、家々の明かりが一つずつ消えていく。
「……ねえ、二人とも」
ルシルが声をかけると、モモとシモンが顔を上げた。
「今日、僕は改めて思ったんだ。こうして知らない場所に泊まって、その土地の人たちと話す時間って、すごく大切なんだなって」
モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! わたしもそう思う。だって、今日ここに来なかったら、エルナさんにも会えなかったし、共同窯の絵も描けなかったもん」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「ええ。旅の価値は、進んだ距離だけでは決まりませんからね」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「うん。だから、これからも急がずに進みたい。もちろん、安全のことはちゃんと考えるけど……それでも、見たいものを見て、会いたい人に会って、行きたい場所へ行く旅を続けたいんだ」
モモは旅帳面を閉じ、まっすぐにルシルを見た。
「わたしも一緒だよ、ルシル君。まだまだ描きたい景色がいっぱいあるし、食べたいものもいっぱいあるもん!」
最後の言葉に、ルシルは思わず笑ってしまった。
「モモらしいね」
「えへへ。でも、本当だよ?」
シモンも小さく笑い、眼鏡の位置を直した。
「私も、お二人と旅を続けたいと思っています。まだ知らない場所が、たくさんありますから」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
ルシルは二人を見つめ、胸の奥へ温かなものが広がっていくのを感じた。
(……僕は、本当にいい仲間に恵まれたな)
王位も、王城での暮らしも、今はもう遠い。
けれど、その代わりに手に入れたものがある。
気兼ねなく笑い合える仲間。
自分たちで決める明日。
そして、まだ見ぬ景色へ続く道。
ルシルは窓の外へ目を向けた。
夜空には、いくつもの星が輝き始めている。
明日、三人はハルミナを出発するかもしれない。
あるいは、もう少しここで過ごすことになるかもしれない。
どちらを選んでも、それは自分たちで決めた道になる。
「……じゃあ、明日もよろしくね、モモ、シモン」
ルシルが微笑むと、モモは元気よく頷いた。
「もちろん! 明日も楽しい一日にしようね!」
シモンも穏やかに頭を下げた。
「ええ。こちらこそ、よろしくお願いいたします、ルシル様」
三人は顔を見合わせ、自然と笑い合った。
ハルミナで過ごした二日目の夜は、穏やかに更けていく。
共同窯の温もりも、広場の賑わいも、庭で過ごした午後の時間も、すべてが今日という一日の思い出になった。
モモの旅帳面には、新しい景色が残されている。
馬車には、明日以降の旅に備えた荷物が整えられている。
そして三人の心には、南へ続く道への期待が静かに膨らんでいた。
ルシルは窓を閉め、柔らかな寝台へ腰を下ろした。
明日の朝には、また新しい一日が始まる。
けれど今夜は、まだ先のことを考えすぎる必要はない。
ハルミナの静かな夜に包まれながら、三人はそれぞれの寝台へ入り、ゆっくりと休むことにした。
窓の外では、夜風が庭の葉を優しく揺らしていた。
気ままな旅は、今日も確かに続いている。




