第134話 ハルミナの朝に見つけた小さな寄り道と、旅人を迎える共同窯の温もり
ハルミナで迎える初めての朝は、馬車の車輪が軋む音ではなく、遠くから聞こえてくる鶏の鳴き声と、窓の外を通り過ぎる人々の足音から始まった。
ルシルが目を開けると、木製の窓枠から柔らかな朝日が差し込んでいた。昨夜は薄暗くてよく見えなかった庭の草花が、朝露をまとって小さく輝いている。どこかの家で火を起こしているのだろうか、窓の隙間からは、冷たい朝の空気に混じって微かな薪の匂いが流れ込んできた。
しばらく天井を眺めていたルシルは、寝台の上でゆっくり身体を起こした。
(……そうか。今日は野営じゃないんだ)
旅の途中で朝を迎えるときは、まず天候と馬たちの様子を確かめ、火を使える場所かどうかを考えながら朝食の準備をすることが多い。ところが今日は、休み家のしっかりした屋根の下にいて、朝食もマリナにお願いしてある。
そのことを思い出した途端、肩の力が自然と抜けた。
「……おはよう、ハルミナ」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、ルシルは窓の外へ目を向けた。
集落の朝は、すでに動き始めている。
低い木柵の向こうを、籠を抱えた女性が歩いていった。少し遅れて、農具を肩に担いだ男性が同じ道を通り、遠くから聞こえた挨拶に片手を上げて応えている。
その様子を眺めていると、背後から寝具の擦れる音がした。
「……んん……。あれ……?」
振り返ると、窓際の寝台でモモが上半身を起こしていた。
桃金色の髪は寝癖で少し跳ねており、緑色の瞳はまだ半分ほどしか開いていない。彼女はしばらく部屋を見回してから、ルシルの姿を見つけた。
「……ルシル君、おはよう……」
「おはよう、モモ。よく眠れた?」
「うん……。すっごく……」
モモはそこまで答えたところで、大きなあくびをした。
その様子があまりにも気持ちよさそうだったので、ルシルは思わず笑ってしまった。
「まだ眠そうだね。もう少し寝ててもいいんだよ?」
「だいじょうぶ……。だって、朝ご飯があるんだもん……」
眠気の残る声でそう答えたモモは、掛け布を整えながらもう一度あくびをした。
そのやり取りを聞いていたのか、部屋の隅で休んでいたシモンも身体を起こした。
「おはようございます、ルシル様、モモ嬢。お二人とも、よくお休みになれたようですね」
黒髪を軽く整えながら挨拶するシモンは、すでにかなり目が覚めているようだった。
「おはよう、シモン。うん、久しぶりに寝台でゆっくり眠れた気がするよ。シモンはどう?」
「私も十分に休めました。夜間に気になる物音もありませんでしたし、落ち着いた環境でしたね」
そう答えるシモンの表情には、いつもより幾分柔らかな余裕があった。
ルシルはそれを見て、安心したように微笑んだ。
「よかった。今日はすぐに出発する予定じゃないし、朝食の前にトルクとベルクのところへ行ってみようか」
モモはその言葉を聞くと、ようやく眠気が薄れたらしい。
「行く! 昨日はちゃんと休めたかなあ。トルク、朝からお腹空かせてそうだよね」
「トルクはいつも食べることを楽しみにしていますからね。ただ、給餌の状態は管理していただいていますし、勝手に余分なものを与えないようにしましょう」
シモンが念のために付け加えると、モモは元気よく頷いた。
「分かってるよ! わたし、ちゃんと守るもん!」
ルシルは二人の会話を聞きながら、寝台から立ち上がった。
旅の朝は、今日も穏やかに始まった。
◇
身支度を整えて廊下へ出ると、休み家の奥から食器の触れ合う音が聞こえてきた。
マリナはすでに朝食の準備を始めているらしく、建物の中には温かな穀物の香りが漂っていた。昨夜の野菜の煮込みとは違い、今朝は何かをゆっくり炊いているような、素朴で優しい匂いがする。
モモは足を止め、思わず鼻を動かした。
「……朝からいい匂いがするねえ」
ルシルは笑いながら頷いた。
「うん。でも、先に二頭の様子を見てこよう。戻った頃にはちょうど朝食になってるかもしれないし」
「はーい!」
三人が裏手へ出ると、朝露を含んだ冷たい空気が頬に触れた。
馬車を停めた区画には、昨夜と変わらずトルクとベルクが休んでいる。二頭の足元には乾いた敷き草が広げられ、餌を入れる場所もきれいに整えられていた。
ルシルたちの姿に気づくと、栗毛のトルクが真っ先に顔を上げた。
「おはよう、トルク。元気そうだね」
ルシルが近づいて声をかけると、トルクは鼻を鳴らし、柵越しに首を伸ばしてきた。
その仕草に、モモが嬉しそうに笑った。
「ほら! やっぱりルシル君が来たの、分かったんだよ!」
「そうかな。じゃあ、今日はご飯を持ってないけど、怒らないでくれるといいな」
ルシルはそう言いながら、トルクの額を優しく撫でた。
トルクはしばらく大人しくしていたが、やがてルシルの手元を確かめるように鼻先を動かした。
「……やっぱり食べ物を探してる気もするね」
「もう、ルシル君ってば!」
モモは笑いながら、隣のベルクへ声をかけた。
「ベルクもおはよう! よく眠れた?」
灰色のベルクは落ち着いた様子で首を動かし、モモの方へ鼻先を向けた。
その穏やかな反応に、モモは安心したように微笑んだ。
一方、シモンは二頭の脚元を順番に確認していた。
蹄の周囲に目立った異常はなく、馬具を外して休ませたことで、身体にも余計な負担はかかっていないようだった。
「二頭とも問題なさそうですね。昨日の補給で水も確保できていますし、今朝の飲水については休息場所の管理をしている方へ確認しておきましょう」
ルシルは頷いた。
「そうだね。馬たちのことは、ちゃんと相談しておきたいな」
ハルミナへ到着するまで、三人は水の残量を気にしながら草原を進んできた。
だからこそ、昨日、共同井戸で必要な水を補給できたことは大きな安心につながっている。
ただし、水を確保できたからといって、今後の旅で気を配らなくてよくなるわけではない。
次にどこで補給できるのか。
そこまでの道は、馬車で安全に進めるのか。
休息場所はあるのか。
そうしたことを、出発前に確認しておく必要があった。
「……今日、バルドさんにお会いできたら、南の道のことを聞いてみよう」
ルシルがそう言うと、シモンも頷いた。
「ええ。ただ、相手のご都合もありますから、まずは朝食をいただき、そのあとで伺うのがよいでしょう」
モモは二頭を眺めながら、少し考えた。
「じゃあ、今日はハルミナのことをもう少し知る日になるかもしれないんだね」
「そうだね。急いで出発しなくてもいいなら、そういう一日も楽しそうだ」
ルシルは朝日に照らされた集落の屋根を見つめた。
草原を走る馬車の旅も好きだ。
けれど、知らない場所で暮らす人々の話を聞き、その土地の生活に少し触れる時間も、旅の大切な一部なのだと思う。
三人はトルクとベルクに声をかけ、休み家へ戻った。
◇
朝食の部屋では、マリナが木製の器を机へ並べているところだった。
「あら、おはよう。ちょうどよかったわ。もう少しで朝食ができるところよ」
「おはようございます、マリナさん!」
モモが元気よく挨拶すると、マリナは楽しそうに笑った。
「よく眠れたみたいね。昨日は長旅のあとだったから、疲れていたでしょう?」
「はい! でも、寝台がすっごく気持ちよくて、朝までぐっすりでした!」
「それならよかったわ。さあ、席についてちょうだい」
三人が窓際の机へ腰を下ろすと、マリナは温かな麦粥を運んできた。
柔らかく煮込まれた麦の中には、小さく刻まれた野菜が混ぜられている。昨夜の煮込みよりも優しい味つけらしく、湯気とともに穀物の香りが立ち上っていた。
その隣には、薄く切ったパンと、小皿に盛られた塩漬けの野菜が添えられている。
「今朝は簡単なものだけれど、身体が温まると思うわ」
マリナがそう言うと、モモは目を輝かせた。
「わあ……! 朝から温かいご飯って、幸せですね!」
ルシルも嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。いただきます」
木製の匙で麦粥をすくい、ゆっくり口へ運ぶ。
熱すぎない温度に冷まされた麦は柔らかく、噛むと穏やかな甘みが広がった。野菜の香りも優しく、空腹だった身体へじんわりと温かさが染み込んでいく。
「……おいしい」
ルシルが呟くと、マリナは満足そうに微笑んだ。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。朝は胃に負担の少ないものがいいでしょう?」
「はい。旅の途中だと、朝から温かいものを用意するのが難しい日もありますから」
その言葉を聞き、マリナは静かに頷いた。
「そうでしょうね。特に草原では、風が強い日もあるもの。火を使えない場所だってあるでしょうし」
シモンは匙を置き、丁寧に答えた。
「おっしゃるとおりです。乾いた草が広がっている場所では、火を使わない判断も必要になります。ですから、こうして安全な場所で温かい食事をいただけるのは、本当にありがたいことです」
モモも大きく頷いた。
「そうなんです! 昨日の夕ご飯もおいしかったけど、朝ご飯もすっごくおいしいです!」
マリナは笑いながら、三人の器を見た。
「足りなかったら言ってちょうだい。まだ少し残っているから」
「ありがとうございます!」
モモは嬉しそうに返事をし、再び麦粥を口へ運んだ。
ルシルはその様子を眺めながら、昨日の夜に話したことを思い出した。
モモは旅先で出会う人々との会話を楽しみにしている。
シモンも、以前より肩の力を抜いて旅を過ごせるようになってきた。
そして自分もまた、知らない土地で迎える朝を、こんなにも穏やかな気持ちで楽しんでいる。
(……王城を離れた頃には、こんな朝があるなんて想像してなかったな)
ルシルは匙を持つ手を一度止め、窓の外へ目を向けた。
朝日を受けた庭の葉が揺れ、その向こうでは、小さな鳥が地面を跳ねている。
特別なことが起きているわけではない。
それでも、この静かな時間がとても大切に思えた。
◇
朝食を終えたあと、ルシルたちはマリナへ礼を述べ、今日の予定について相談した。
「実は、南へ続く道について、もう少し詳しく確認したいと思っているんです。バルドさんにお会いできる場所は分かりますか?」
ルシルが尋ねると、マリナは少し考えた。
「バルドなら、朝は共同井戸の近くにいることが多いわ。水を汲みに来る人たちの手伝いをしたり、周りの道具を見たりしているから」
「そうなんですね。ありがとうございます」
「でも、今日は畑の方へ行く予定があったはずだから、いなかったら昼前に戻るのを待つといいわ」
シモンは頷いた。
「承知しました。急ぎの用事ではありませんので、ご都合のよい時間にお話を伺えればと思います」
マリナは微笑んだ。
「そうね。それから、昨日のパンを焼いた家の人にお礼を言いたいって話していたでしょう?」
モモはすぐに顔を上げた。
「はい! もしお会いできたら、直接お礼を言いたいです!」
「それなら、共同窯の方へ行ってみるといいわ。今日は朝から窯を使う日だから、何人か集まっていると思うの」
モモの表情が一気に明るくなった。
「本当ですか!? わあ、見てみたい!」
ルシルも興味を覚えた。
「共同窯って、昨日お話しされていた、何軒かの家で使っている窯ですよね」
「ええ。広場から少し東へ行ったところにあるの。石と土で作った大きな窯でね、パンだけじゃなく、日によっては保存用の焼き菓子を作ることもあるわ」
シモンは静かに頷いた。
「なるほど。火を使う設備を共同で管理しているのですね」
「そうよ。勝手に使うと危ないから、使う日は順番を決めているの。見学するなら、必ず作業している人に声をかけてね」
「もちろんです」
ルシルは丁寧に答えた。
モモも大きく頷いた。
「はい! お仕事の邪魔にならないようにします!」
マリナは満足そうに微笑んだ。
「それなら大丈夫でしょう。もし場所が分からなかったら、広場で誰かに聞けば教えてくれるわ」
三人は改めて礼を述べ、出かける準備を始めた。
その途中で、ルシルはふと思い出したようにマリナへ振り返った。
「そうだ、もう一つお願いがあります。もし部屋が空いているなら、今夜も泊めていただけませんか?」
マリナは少し驚いたあと、すぐに微笑んだ。
「もちろんよ。今のところほかのお客さんもいないし、同じ部屋を使ってもらって大丈夫」
「ありがとうございます。今日一日はハルミナで過ごして、明日のことは夕方までに考えたいと思います」
「分かったわ。ゆっくりしていってちょうだい」
モモは嬉しそうにルシルを見た。
「やったあ! 今日はハルミナを楽しめる日だね!」
ルシルは頷いた。
「うん。ただし、見て回るだけじゃなくて、必要なこともちゃんと確認しようね」
「もちろん!」
シモンは二人のやり取りを聞きながら、穏やかに微笑んだ。
こうして三人は、ハルミナでもう一日過ごすことに決めた。
◇
休み家を出ると、朝の広場は昨日とは違う賑わいを見せていた。
共同井戸の周囲には水桶を持った人々が集まり、順番を待ちながら言葉を交わしている。少し離れた場所では、荷車へ野菜の籠を積み込む男性がいて、近くの子どもがその様子を興味深そうに眺めていた。
ルシルたちは人々の邪魔にならないよう、広場の端を歩いた。
「昨日は夕方だったから、こんなに人がいるところは見なかったね」
ルシルが言うと、モモは楽しそうに頷いた。
「うん! 朝になると、みんなお仕事してるんだね。なんだか、集落が起きてきたって感じ!」
シモンは井戸の周囲へ目を向けた。
「共同の設備がある場所は、自然と人が集まるのでしょう。水を汲むだけでなく、必要な情報を交換する場所にもなっているのかもしれませんね」
そのとき、井戸の近くで桶を運んでいた年配の男性が、三人の姿に気づいて顔を上げた。
「おや、昨日の旅人さんたちじゃないか」
声の主はバルドだった。
昨日と同じように落ち着いた表情を浮かべているが、今朝は袖を少し捲り、作業をしやすい格好をしている。
「おはようございます、バルドさん!」
ルシルが挨拶すると、バルドは笑って頷いた。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「はい。おかげさまで、ゆっくり休めました」
「そりゃよかった。馬たちも落ち着いているかね?」
「はい。今朝、様子を見てきましたが、二頭とも元気そうでした」
バルドは満足そうに頷いた。
「それなら安心だ。長い道を歩いてきた馬は、人が思っている以上に疲れていることもあるからな」
ルシルはその言葉を真剣に受け止めた。
「そうですね。今日はもう一日ここで休むことにしたので、二頭にもゆっくりしてもらおうと思います」
「ほう、そうか。それはいい判断かもしれん。ハルミナは大きな場所じゃないが、急いで通り過ぎる必要もないからな」
バルドはそう言いながら、井戸のそばへ桶を置いた。
シモンは相手の作業が一区切りついたのを確認してから、丁寧に声をかけた。
「お忙しいところ申し訳ありません。もし少しお時間がありましたら、南へ続く道について伺いたいことがあるのですが」
バルドは三人を見回し、穏やかに頷いた。
「構わんよ。ただ、ここでは人の出入りが多いからな。あちらの木陰へ行こうか」
彼が示したのは、井戸から少し離れた場所にある一本の木だった。
根元には平たい石が置かれ、休憩に使われているらしい。
三人はバルドに続き、木陰へ移動した。
◇
木の下には、朝の涼しい風が流れていた。
バルドは平たい石へ腰を下ろし、ルシルたちへ向き直った。
「それで、南の道についてだったな。どのあたりが知りたいんだい?」
ルシルは少し考えてから答えた。
「まず、馬車で通れる道が続いているのかを知りたいです。それと、次に人が暮らしている場所まで、どれくらいかかるのかも分かれば助かります」
バルドは頷き、地面へ落ちていた細い枝を拾った。
そして、足元の土へ簡単な線を引き始めた。
「ここがハルミナだとすると、南の道はしばらく草原を通って、それから低い丘の間へ入る。大きな分かれ道はないが、途中に畑へ向かう細い道が何本かあるんだ」
枝先が土の上を滑り、一本の太い線から細い線が分かれていく。
モモは興味深そうに身を乗り出した。
「わあ、分かりやすい!」
バルドは小さく笑った。
「そんなに立派な地図じゃないさ。だが、初めて通るなら、少しは役に立つだろう」
シモンは描かれた線を見つめながら尋ねた。
「その細い道は、馬車で進めるのでしょうか?」
「荷車が通るものもあるが、畑の中へ入る道は幅が狭い。旅人なら、基本的には太い街道を進んだ方がいい。途中で草に隠れて見えにくいところもあるから、轍だけを頼りにしすぎないことだな」
ルシルは頷いた。
これまでの道中でも、草に埋もれた古い車輪の跡や、行き先の分からない脇道を見かけている。
道らしいものがあるからといって、必ずしも安全に進めるとは限らないことは、三人とも身をもって理解していた。
「分かりました。街道から外れないようにします」
バルドは頷き、今度は南へ伸びる線の途中に小さな丸を描いた。
「それから、このあたりに古い石積みがある。道の脇に低く積まれているだけだから、遠くからは見えにくいかもしれんが、そこを過ぎれば丘の入口が近い」
モモはその印を見つめた。
「石積み……。何かの目印なんですか?」
「昔からあるものだが、何のために積まれたのかは、わしも詳しく知らん。道を使う者が目印にしているだけだよ」
ルシルはその説明を聞き、頷いた。
古いものには、必ずしも今の人々が知っている理由が残っているわけではない。
それでも、道を歩く人にとって役立つなら、十分に意味のあるものなのだろう。
「ありがとうございます。見つけたら、道の確認に使わせてもらいます」
バルドは枝を動かし、さらに南へ線を伸ばした。
「その先の丘を越えると、また開けた場所に出る。ただ、そこから次の集落までの距離は、わしも正確には言えん。最近は南へ遠出していないからな」
シモンは真剣に頷いた。
「承知しました。距離が不確かなまま進むことを前提に、十分な水と食料を持っていく必要がありますね」
「そういうことだ。丘の手前には雨が溜まる窪地もあるが、飲み水として使えるとは限らん。馬に飲ませるにしても、状態を確かめずに頼るのは避けた方がいい」
その言葉に、ルシルは静かに頷いた。
「はい。途中の水たまりを当てにしないようにします」
バルドは満足そうに頷いた。
「それがいい。昨日、井戸で水を補給したんだろう? 出発前に容器の状態を確かめて、必要ならもう一度相談するといい」
モモは真剣な表情で頷いた。
「分かりました! トルクとベルクにも、ちゃんと水を飲んでもらわなきゃいけないですもんね」
バルドは柔らかく笑った。
「そうだな。馬たちが元気なら、旅も楽しく続けられる」
ルシルは地面に描かれた簡単な道筋を見つめた。
南へ進めば、また知らない景色が待っている。
けれど、そこへ向かうためには、今いる場所で準備を整えることが大切なのだ。
急がず、確かめながら進む。
それは、三人が旅の中で少しずつ身につけてきた歩き方だった。
◇
道についての話が一区切りつくと、モモが思い出したように顔を上げた。
「あっ、そうだ! バルドさん、共同窯ってどこにあるか分かりますか?」
バルドは少し驚いたように瞬きをした。
「共同窯? ああ、もちろん分かるとも。どうしたんだい?」
「昨日、休み家で焼きたてのパンをいただいたんです! それがすっごくおいしくて、焼いてくださった人にお礼を言いたくて!」
モモが嬉しそうに説明すると、バルドは声を立てて笑った。
「ははは、そういうことか。それなら、ちょうどいいかもしれんな。今日は窯を使う日だから、何人か集まっているはずだ」
ルシルも笑顔で頷いた。
「マリナさんからも、広場の東側にあると教えていただきました」
「そうだ。あの道を進んで、低い石垣のある家を過ぎたところに小さな広場がある。窯はその奥だよ。煙が上がっていれば、すぐ分かるだろう」
シモンは丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。作業の邪魔にならないよう、気をつけて伺います」
バルドは頷き、立ち上がった。
「気にすることはないさ。もちろん、窯の近くでは勝手に触らんことだが、見学したいと言えば、嫌な顔はされんと思うよ」
ルシルは改めて礼を述べた。
「道のことも、共同窯のことも、ありがとうございました」
「なに、旅人に道を教えるくらい、たいしたことじゃない。安全に進んでくれれば、それで十分だ」
バルドはそう言って、井戸の方へ戻っていった。
三人はその背中を見送り、広場の東側へ向かうことにした。
◇
共同窯へ続く道は、広場の賑わいから少し離れた場所にあった。
両側には低い木柵が続き、その向こうには小さな畑や、洗濯物を干すための縄が見える。家々の間を抜ける風には、土と草の匂いが混じり、時折、どこかから子どもの笑い声が聞こえてきた。
モモは歩きながら、周囲の景色を楽しそうに眺めていた。
「ねえ、ルシル君。ここの家って、屋根の形が少しずつ違うんだね」
ルシルも目を向けた。
「本当だ。あっちは少し傾きが大きいし、こっちは屋根の端が長く伸びてる」
「雨が降ったときに、壁へ水が当たりにくいようにしている家もあるのかもしれませんね」
シモンがそう説明すると、モモは感心したように頷いた。
「へえ……。同じ集落でも、いろんな工夫があるんだね」
ルシルは周囲の家々を見つめながら、静かに微笑んだ。
王城にいた頃、建物は完成した姿として目に入ることが多かった。
けれど、こうして歩いていると、屋根の形や窓の位置、家の前に置かれた道具のひとつひとつに、そこで暮らす人々の工夫が感じられる。
それは、華やかな装飾とは違う美しさだった。
やがて、道の先に薄い煙が見えてきた。
煙は低い建物の向こうからゆっくりと立ち上り、朝の空へ溶け込んでいる。
同時に、風に乗って香ばしい匂いが漂ってきた。
モモは足を止め、目を輝かせた。
「……あっ! パンの匂い!」
ルシルも思わず笑った。
「本当だ。もう焼いてるのかな?」
「まだ窯を温めているところかもしれませんね。まずは近づいて、作業している方へ声をかけましょう」
三人は歩調を落とし、煙の上がる方へ進んだ。
石垣の向こうには、開けた小さな作業場があった。
中央には石と土で作られた大きな窯があり、その周囲には薪を積んだ場所と、作業用の長い机が置かれている。
窯の前では二人の女性と一人の男性が作業をしていた。
一人は長い柄の道具で窯の中を確かめ、もう一人は布をかけた籠を机へ並べている。男性は薪の束を運び、邪魔にならない場所へ積み直していた。
モモは少し離れたところで立ち止まった。
「……わあ。思ってたより大きいね」
ルシルも頷いた。
「うん。何軒もの家で使うなら、これくらい必要なのかもしれないね」
そのとき、机のそばにいた女性が三人の姿に気づいた。
「あら、旅の人かしら?」
女性は手を止め、こちらへ顔を向けた。
ルシルは一歩前へ出て、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます。突然お邪魔してすみません。昨日、休み家でこちらの窯で焼かれたパンをいただいたんです。それがとてもおいしかったので、お礼をお伝えしたくて伺いました」
女性は少し驚いたように目を丸くした。
「まあ、そうなの? 昨日のパンなら、うちで焼いたものかもしれないわね」
モモは嬉しそうに顔を上げた。
「本当ですか!? 丸くて、表面が少しこんがりしてて、中がふわふわのパンでした!」
女性は楽しそうに笑った。
「それなら、たぶんうちのパンね。昨日はマリナさんのところへ何個か分けたから」
モモは両手を胸元で合わせた。
「やっぱり! すっごくおいしかったです! ありがとうございました!」
女性は少し照れくさそうに笑った。
「そんなに喜んでもらえるなんて、嬉しいわ。毎日焼いているような普通のパンなのよ?」
ルシルは首を横に振った。
「僕たちにとっては、久しぶりの温かいパンだったんです。草原を進んでいる間は保存食が中心だったので、本当に嬉しくて」
その説明を聞くと、女性は納得したように頷いた。
「そうだったのね。長旅なら、温かいものが恋しくなるでしょう」
シモンも丁寧に頭を下げた。
「おかげさまで、昨夜はよい食事をいただけました。心より感謝しております」
女性は三人を見回し、柔らかく微笑んだ。
「こちらこそ、わざわざお礼を言いに来てくれてありがとう。私はエルナよ。今日は別の家のパンを焼く手伝いをしているところなの」
ルシルはその名を覚えながら、改めて挨拶した。
「僕はルシルです。こちらがモモで、こちらがシモンです」
「よろしくお願いします!」
モモが元気よく頭を下げると、エルナは楽しそうに笑った。
「ええ、よろしくね。せっかくだから、少し見ていく? 危ない場所には近づかないでくれれば、構わないわよ」
モモは目を輝かせた。
「いいんですか!?」
「もちろん。ただし、窯の前は熱いから、ここから先へは勝手に入らないでね」
「はい!」
三人はエルナの案内に従い、作業場の端から共同窯を見学することになった。
◇
共同窯の近くは、外の道よりもずっと暖かかった。
窯の入口からは熱気が流れ出し、石の表面にもじんわりと温かさが伝わっている。作業をしている人々は慣れた様子で道具を扱っているが、その動きには無駄がなく、火の状態を細かく確かめながら作業を進めていた。
モモはその様子を真剣に見つめていた。
「……すごい。あんなに長い道具を使うんだね」
エルナは頷いた。
「窯の奥まで手を入れるわけにはいかないからね。長い柄の道具で、薪の位置を変えたり、焼き上がったパンを取り出したりするのよ」
ルシルは窯の入口を眺めた。
「中の温度は、どうやって分かるんですか?」
エルナは少し考えた。
「火の勢いや、窯の壁の様子を見るの。長く使っている人は、窯の中を見ただけで、だいたいの状態が分かるのよ。もちろん、失敗することもあるけれどね」
モモは感心したように頷いた。
「経験が大事なんですね!」
「そうね。私はまだ、母ほど上手にはできないわ。特に、焼くものによって火加減を変えるのが難しくて」
エルナは少し照れくさそうに笑った。
その言葉を聞き、ルシルは不思議な親しみを覚えた。
どんな仕事にも、長い時間をかけて身につける技術がある。
それは、剣や魔法の訓練だけではない。
パンを焼くことにも、道具を扱うことにも、人々の暮らしを支える確かな技術があるのだ。
「……僕たち、昨日は本当に何も考えずにおいしいって言ってましたけど、こんなに手間がかかっていたんですね」
ルシルがそう言うと、エルナは優しく微笑んだ。
「でも、それでいいのよ。食べる人が難しいことを考えずに、おいしいって言ってくれるのが、一番嬉しいもの」
モモはその言葉を聞き、少しだけ目を丸くした。
そして、ゆっくりと笑顔になった。
「……そっか。じゃあ、昨日いっぱいおいしいって言ってよかった!」
エルナは声を立てて笑った。
「ええ、本当によかったわ」
そのとき、窯の前で作業していた男性が、長い柄の道具を持ち上げた。
「エルナ、そろそろ次の生地を入れられそうだ」
「分かったわ!」
エルナは返事をすると、三人へ向き直った。
「ごめんなさいね。少し作業に戻るわ。見ていても構わないけれど、ここから動かないでね」
「はい。ありがとうございます」
ルシルが答えると、エルナは机の方へ戻っていった。
三人は邪魔にならない位置から、作業を見守った。
布をかけた籠から生地が取り出され、手早く形を整えられていく。
丸い生地は長い柄の平たい道具へ乗せられ、窯の中へ慎重に運ばれた。
作業は一見簡単そうに見えるが、実際には生地の形を崩さないようにする細かな動きが必要なのだろう。
モモは息を呑むように見つめていた。
「……すごいね。あんなふうに、きれいに入れられるんだ」
シモンも静かに頷いた。
「長い道具を使いながら、正確な位置へ運んでいますね。力だけでなく、道具の扱い方を熟知しているのでしょう」
ルシルは窯の奥へ消えていく生地を見つめた。
昨日食べたパンも、こうして焼かれたのだ。
そのことを実際に目で見ると、ただおいしかったという記憶が、少し違った形へ変わっていく気がした。
◇
作業をしばらく見学したあと、三人はエルナへ改めて礼を述べた。
「今日は見せていただいて、ありがとうございました。とても勉強になりました」
ルシルがそう言うと、エルナは微笑んだ。
「こちらこそ、楽しんでもらえたなら嬉しいわ。旅の途中で、またパンを食べることがあったら、今日のことを思い出してね」
モモは大きく頷いた。
「もちろんです! わたし、今日の共同窯も旅帳面に描きます!」
「まあ、絵を描くの?」
「はい! 旅先で見たものを、少しずつ描いてるんです!」
モモは嬉しそうに答えた。
エルナは感心したように頷いた。
「素敵ね。だったら、窯の形もよく見ていって。煙突のところが少し曲がっているでしょう? 昔、修理したときに、ああいう形になったのよ」
モモはすぐに窯の上へ目を向けた。
確かに、煙突の上部は真っすぐではなく、わずかに片側へ曲がっている。
「本当だ! 言われなかったら気づかなかったかも!」
エルナは楽しそうに笑った。
「そういうところも描いてもらえたら、うちの窯らしくなるわね」
モモは嬉しそうに頷いた。
「はい! ありがとうございます!」
ルシルはそのやり取りを眺めながら、静かに微笑んだ。
モモの旅帳面には、これまでいろいろな景色が描かれてきた。
海も、草原も、夕焼けも、星空も。
そして今日、新しく共同窯が加わる。
それは、旅の中で出会った人々の暮らしを残す頁になるのだろう。
三人はエルナへ別れの挨拶をし、共同窯をあとにした。
◇
広場へ戻る道を歩きながら、モモは興奮した様子で話し続けていた。
「ねえ、ルシル君! あの窯、すごかったね! あんなに大きいのに、みんなで上手に使ってて、しかもパンがいっぱい焼けるんだよ!」
ルシルは笑いながら頷いた。
「うん。僕も初めて近くで見たよ。エルナさんたち、すごく慣れてたね」
「そうなの! それに、煙突がちょっと曲がってるのもかわいかった!」
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「モモ嬢の絵に、また新しい題材が増えましたね」
モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! でも、今日はまだ描きたいものがあるんだ。井戸の周りの朝の様子も、昨日とは全然違ってたし!」
ルシルは少し考えた。
「じゃあ、午後は広場の近くで少し休みながら描いてみる? 僕も、今日聞いた道のことを整理しておきたいし」
シモンは頷いた。
「それがよいでしょう。バルドさんから伺った情報を、記憶が新しいうちに確認しておけば、出発するときにも役立ちます」
モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、午後はお絵描きと旅の相談だね!」
ルシルは頷いた。
「うん。せっかくもう一日泊まることにしたんだから、無理せず過ごそう」
三人は広場へ戻り、休み家へ向かって歩き始めた。
朝の賑わいは少し落ち着き、共同井戸の周囲には先ほどより人が少なくなっている。
それでも、集落のあちこちでは人々が働き、暮らしの音が続いていた。
ルシルはその景色を眺めながら、静かに思った。
(……旅って、遠くへ進むことだけじゃないんだな)
知らない場所で立ち止まり、そこで暮らす人々の話を聞く。
自分たちが食べたパンが、どんなふうに作られているのかを知る。
次に進む道について、慎重に考える。
そうした時間もまた、旅を豊かにしてくれるのだろう。
ルシルは隣を歩くモモとシモンへ目を向けた。
二人は楽しそうに会話を続けている。
その姿を見ていると、胸の奥へ穏やかな温かさが広がっていった。
ハルミナで過ごす二日目は、まだ始まったばかりだった。
午後には、旅帳面を開く時間もあるだろう。
明日以降の道について、もう少し詳しく相談する必要もある。
それでも、今はこの朝の空気を楽しみながら、三人でゆっくり歩いていたかった。
ルシルは柔らかな日差しの中で微笑み、二人へ声をかけた。
「ねえ、戻ったら少しお茶でも飲もうか。今日は時間があるし、ゆっくりできるよ」
モモは嬉しそうに顔を上げた。
「賛成! それに、今日見た窯の話も、もっとしたいな!」
シモンも穏やかに頷いた。
「ええ。必要な確認を終えたら、午後はゆっくり過ごしましょう」
三人は顔を見合わせ、自然と笑った。
ハルミナの小さな道には、朝の光が穏やかに降り注いでいる。
遠くからは、共同窯の煙が細く空へ伸びていた。
その煙を背に、ルシルたちは休み家へ向かって歩いていく。
今日もまた、三人だけの気ままな旅が、静かに続いていた。




