第133話 焼きたてパンの夕食と、ハルミナで過ごす初めての夜
ハルミナの小さな休み家に、夕暮れの気配がゆっくりと近づいていた。
窓から差し込む光は午後の明るさを少しずつ失い、木製の床には、窓枠の影が長く伸びている。広場の方から聞こえていた人々の話し声も次第に落ち着き、代わりに、どこかの家で夕食の支度を始めたらしい食器の音や、薪を運ぶ軽い足音が風に乗って届いていた。
ルシルは窓辺に置いた椅子から立ち上がると、軽く肩を回した。草原を進んでいたときには、夕方になる前に安全な野営場所を探すことが当たり前だったが、今日はすでに屋根のある部屋と、馬車を停める場所が確保されている。
その違いは、思っていた以上に大きかった。
「……こうして夕方まで部屋でのんびりできるのって、なんだか久しぶりな気がするね」
ルシルが何気なく呟くと、机に向かって旅帳面を開いていたモモが顔を上げた。桃金色の髪が肩から滑り落ち、緑色の瞳が夕日に照らされて柔らかく輝く。
「うん! わたしもそう思ってた! 草原で過ごす夕方も好きだけど、今日はご飯を作る場所とか、風を避ける場所とか、いろいろ考えなくてもいいんだもんね」
「そうだね。でも、何も考えなくていいってわけじゃないかな。トルクとベルクの様子も見に行きたいし、明日のことも少し相談しておきたいから」
ルシルがそう答えると、モモは楽しそうに頷いた。
「じゃあ、夕ご飯の前に二頭のところへ行く? わたしも一緒に行きたいな。さっきは井戸の絵を描くのに夢中だったから、ちゃんとお礼を言ってない気がするんだ」
その言葉を聞いて、隣の椅子で休んでいたシモンが静かに目を開けた。
「お礼でしたら、すでに何度も伝えておられたと思いますが……。まあ、二頭にとっても、皆さんが顔を見せるのは悪いことではないでしょうね」
黒縁眼鏡の位置を整えながら、シモンは穏やかに微笑んだ。
彼は休み家へ到着してから、荷物の確認と必要な整理を終えたあと、珍しく長い時間を椅子で過ごしていた。完全に眠っていたわけではないようだが、いつものように周囲の様子を気にし続けることもなく、窓から流れ込む風に身を任せていたのである。
ルシルはそんなシモンの姿を見て、少し嬉しくなった。
「シモンも一緒に行く? もちろん、もう少し休んでいてもいいよ」
「いえ、私も参りましょう。夕食前に馬具の状態をもう一度見ておけば、夜は安心して休めますから」
「シモン君って、やっぱり真面目だよねえ」
モモが感心したように言うと、シモンは苦笑した。
「習慣のようなものです。ただ、今は以前ほど急いで確認しようとは思わなくなりました。必要なことを終えたら、皆さんと夕食を楽しむ時間もありますから」
その返事に、ルシルは思わずシモンを見つめた。
王城にいた頃の彼なら、休息よりも仕事を優先し、何か問題が起きていないかを絶えず確認していたかもしれない。もちろん、今も慎重で責任感が強いところは変わらないが、旅を続けるうちに、その慎重さの使い方が少しずつ変わってきたように思える。
(シモンも、この旅をちゃんと楽しんでくれているんだな)
ルシルは胸の奥に温かなものを感じながら、二人へ笑いかけた。
「じゃあ、三人で行こう。夕食までには戻ればいいし、今日は慌てなくて大丈夫だからね」
モモは旅帳面を丁寧に閉じ、机の端へ置いた。
「うん! トルクとベルク、今頃何してるかなあ」
「おそらく、落ち着いて休んでいるでしょう。昼間に十分な水を飲ませましたし、今は日差しも和らいでいますから」
シモンの説明を聞きながら、三人は部屋を出た。
廊下には、先ほどまでなかった温かな料理の匂いが漂い始めていた。
モモは歩きながら小さく鼻を動かし、すぐにルシルへ顔を向けた。
「……ねえ、ルシル君。これって、もしかして夕ご飯の匂いかな?」
「うん。野菜を煮込んでるような匂いがするね」
「それに、パンの匂いもまだ残ってる!」
嬉しそうなモモの声に、シモンが小さく笑った。
「夕食を楽しみにするのはよいことですが、まずは二頭の様子を見に行きましょう。戻ってきたときには、ちょうど準備が進んでいるかもしれません」
「はーい!」
モモは元気よく返事をすると、二人の歩調に合わせて廊下を進んだ。
◇
休み家の裏手へ出ると、昼間よりも涼しい風が三人を迎えた。
建物の影が地面へ長く伸び、馬車を停めた区画の周囲には、穏やかな夕方の空気が広がっている。屋根のある休息場所では、トルクとベルクが並んで立っており、近づいてくる足音に気づくと、二頭ともゆっくりと顔を上げた。
「トルクー! ベルクー! お待たせ!」
モモが少し離れたところから声をかけると、トルクは耳を立て、彼女の方へ鼻先を向けた。
ベルクも落ち着いた様子で首を動かし、三人が近づいてくるのを見守っている。
ルシルは二頭の前へ立つと、まず身体の様子を確かめた。昼間に馬具を外した際には目立った擦れや傷はなかったが、休息中の姿勢や脚の状態も確認しておきたい。
「よし、二頭とも元気そうだね。トルク、今日はここでゆっくり休めるよ」
トルクはルシルの手へ鼻先を寄せ、何かを確かめるように軽く匂いを嗅いだ。
「ふふっ、トルクって、ルシル君のことが本当に好きだよね」
モモが笑うと、ルシルは少し照れくさそうに頬を掻いた。
「そうだったら嬉しいな。でも、たぶん僕が何か食べ物を持ってないか、確かめてるんじゃないかな」
「えーっ、そんなことないよ! きっと、ルシル君が来てくれて嬉しいんだよ!」
モモはそう言いながらトルクの首筋へ手を伸ばし、優しく撫でた。
トルクは嫌がる様子もなく、穏やかに立っている。
その隣では、シモンがベルクの脚元と敷き草の状態を確認していた。
「こちらも問題なさそうですね。休息場所の地面は乾いていますし、敷き草も極端に湿っているところはありません。夜の間に雨が降らなければ、落ち着いて過ごせるでしょう」
ルシルは空へ目を向けた。
建物の屋根越しに見える空には薄い雲が流れているものの、今すぐ雨が降り出しそうな様子はない。夕日の色が雲の縁を淡く染め、風も昼間より穏やかになっていた。
「今日はいい天気のまま終わりそうだね」
「ええ。ただ、夜間の天候が変わらないとは限りませんから、馬車の窓と荷物の覆いは確認しておきましょう」
「分かった。僕も手伝うよ」
ルシルとシモンは馬車へ向かい、荷物の固定と覆いの状態を確かめた。
これまでの旅で、馬車は三人にとって単なる移動手段ではなく、休息の場所であり、大切な荷物を守る場所にもなっていた。今夜は休み家の部屋で眠るとしても、馬車の中には旅を続けるために必要なものが残されている。
窓辺には、青波で手に入れた青い風魚の布が揺れていた。
モモはその布を見つけると、懐かしそうに目を細めた。
「あっ、風魚の布だ。こうして見ると、なんだか青波のことを思い出すね」
ルシルも窓辺へ視線を向けた。
「そうだね。あの町も楽しかったなあ。海の匂いがして、草原とは全然違う風が吹いてたよね」
「うん! それに、海を見たときの景色も忘れられないなあ」
モモは嬉しそうに笑ったあと、少しだけ静かな表情になった。
「……旅をしてると、好きな場所がどんどん増えていくね」
ルシルはその言葉に頷いた。
「うん。ひとつの場所を離れるのは少し寂しいけど、その先でまた好きな場所が見つかるんだよね」
シモンは二人の会話を聞きながら、馬車の留め具を確かめていた。
王城を離れた直後には、ルシルが旅先で何を見つけるのか、彼自身にも分からなかったはずだ。
それでも、今のルシルは知らない土地へ進むことを恐れるよりも、その土地で何に出会えるかを楽しみにしている。
シモンはその変化を嬉しく思う一方で、自分自身もまた、以前とは違う気持ちで旅を続けていることに気づいていた。
(ルシル様がお望みになった自由は、ただ王城を離れることだけではなかったのでしょう。こうして、ご自分の目で世界を見て、その中から大切なものを選んでいくことなのかもしれませんね)
彼は静かに息を吐き、最後の留め具を確認した。
「ルシル様、こちらは問題ありません。今夜は馬車を動かす予定もありませんし、これで十分でしょう」
「ありがとう、シモン。じゃあ、そろそろ戻ろうか」
モモは二頭の方へ振り返った。
「トルク、ベルク、また明日の朝に来るからね! 今日はいっぱい休んでね!」
トルクは耳を動かし、ベルクもゆっくりと頭を下げた。
三人は二頭の様子を最後にもう一度確かめ、休み家へ戻ることにした。
◇
建物へ戻ると、廊下の奥からマリナの声が聞こえてきた。
「あら、ちょうどよかったわ。そろそろ夕食の準備ができるところよ」
マリナは両手で大きな木製の盆を持っており、その上には布をかけた籠が置かれていた。
モモは籠へ目を向けた瞬間、嬉しそうに表情を輝かせた。
「もしかして、それって……!」
マリナは楽しそうに笑った。
「ええ、パンよ。隣の家から分けてもらってきたの。焼き上がってから少し時間は経っているけれど、まだ温かいわ」
「わあ……!」
モモは思わず両手を胸元で合わせた。
布の隙間からは、こんがりと焼けた丸いパンが見えている。
表面には薄い焼き色がつき、ふっくらと膨らんだ形から、柔らかな香りが漂っていた。
ルシルもその匂いを感じ、自然と笑みを浮かべた。
「本当にいい匂いですね。ありがとうございます」
「お礼なら、焼いてくれた人に言ってあげて。私は運んできただけだから」
マリナはそう答えながら、三人を食事用の部屋へ案内した。
休み家の奥にあるその部屋には、長い木製の机が二つ並び、壁際には食器棚が置かれている。窓の外には小さな庭が見え、夕暮れの光が木々の葉を淡く照らしていた。
部屋の中にはすでに温かな煮込みの匂いが広がっていた。
「こちらの席を使ってちょうだい。今夜は他のお客さんがいないから、ゆっくり食べてもらって大丈夫よ」
マリナはそう言って、窓際の机を示した。
三人が席につくと、彼女は奥から大きな鍋を運んできた。
鍋の中には、根菜と葉野菜を煮込んだ温かな料理が入っている。透き通った汁の中には小さく切られた野菜が浮かび、湯気とともに優しい香りが立ち上っていた。
モモはその様子を見て、思わず身を乗り出した。
「わあ……! すっごくおいしそう!」
マリナは笑いながら、三人の器へ煮込みをよそった。
「たいしたものじゃないのよ。ここで採れた野菜を煮ただけだから。でも、今日は少し冷えるかもしれないし、温かいものを食べた方がいいでしょう?」
「はい! 温かいご飯、すっごく嬉しいです!」
モモが元気よく答えると、マリナは満足そうに頷いた。
続いて、布をかけた籠が机の中央へ置かれた。
マリナが布を外すと、丸いパンがいくつも並んでいるのが見えた。
焼き色はひとつひとつ少しずつ違い、表面に細かなひびが入っているものもあった。
その素朴な形が、かえって食欲をそそる。
「今日はこのパンを分けてもらえたの。少しずつ大きさが違うけれど、味は同じよ」
ルシルは籠を見つめながら、感心したように言った。
「ひとつひとつ手で形を整えているんですね」
「そうよ。生地をこねるのも、丸めるのも手作業だからね。大きな街の店みたいに形が揃っているわけじゃないけれど、焼きたてはおいしいのよ」
モモは嬉しそうに頷いた。
「形が違うのも、なんだかかわいいです!」
マリナはその言葉を聞き、柔らかく笑った。
「ありがとう。では、冷めないうちに召し上がれ」
三人は揃って礼を述べ、夕食をいただくことにした。
ルシルはまず、パンをひとつ手に取った。
まだほんのりと温かく、指先へ柔らかな感触が伝わってくる。
両手でゆっくり割ると、表面の薄い皮が小さく音を立て、中から白い生地が現れた。
ふわりと立ち上る香りに、ルシルは思わず目を細めた。
「……いい匂いだね」
モモもパンを割り、嬉しそうに頷いた。
「うん! なんだか、食べる前から幸せになっちゃう!」
ルシルは小さくちぎったパンを口へ運んだ。
表面には軽い歯ごたえがあり、中は柔らかく、噛むほどに穀物の甘みが広がっていく。特別な香辛料や贅沢な材料が使われているわけではないが、焼きたてならではの香ばしさが、その素朴な味を引き立てていた。
「おいしい……!」
思わず漏れた声に、モモが嬉しそうに笑った。
「ねっ! おいしいよね!」
彼女もパンを口に運び、幸せそうに頬を緩めている。
シモンは二人の様子を見ながら、自分のパンを小さく割った。
「確かに、よい焼き上がりですね。表面は香ばしいですが、中は柔らかい。煮込みにも合いそうです」
そう言って、彼はパンを少しだけ煮込みの汁へ浸した。
柔らかな生地が温かな汁を吸い、口に運ぶと野菜の旨みが広がる。
シモンは静かに頷いた。
「……これは、よい組み合わせですね」
モモはその言葉を聞き、すぐに真似をした。
「えっ、そうなの? じゃあ、わたしもやってみる!」
彼女はパンを小さくちぎり、煮込みの汁へそっと浸した。
そして、口へ運んだ瞬間、目を丸くした。
「んんっ! おいしい!」
ルシルは思わず笑ってしまった。
「モモ、本当に嬉しそうだね」
「だって、おいしいんだもん! ルシル君もやってみて!」
「うん。僕も試してみようかな」
ルシルもパンを煮込みへ浸し、口に運んだ。
野菜の甘みが生地へ染み込み、パンだけで食べたときとは違う味わいになる。
「本当だ。こっちもおいしいね」
モモは満足そうに頷いた。
「でしょー!」
三人の楽しそうな様子を見ていたマリナは、少し離れた場所で食器を整えながら、穏やかに微笑んでいた。
旅人が温かな食事を喜んでくれることは、彼女にとっても嬉しいことだった。
ハルミナは大きな街道宿場ではない。
立ち寄る旅人の数も多くはなく、休み家が毎晩賑わうわけではない。
それでも、こうして遠くから来た人々が食事を楽しみ、安心した顔で過ごしている姿を見ると、建物を手入れし続けてきてよかったと思える。
マリナは静かに盆を片づけながら、三人の会話へ耳を傾けていた。
◇
夕食が進むにつれ、窓の外は少しずつ薄暗くなっていった。
モモは煮込みを味わいながら、ふと思い出したようにマリナへ声をかけた。
「あの、マリナさん。今日のパンって、何人くらいで焼いたんですか?」
マリナは手を止め、少し考えた。
「今日は三軒の家が一緒に窯を使っていたはずよ。生地はそれぞれの家で用意して、焼くときに持ち寄ったの」
「へえ……! じゃあ、みんなで順番に焼いたんですね!」
「そうね。窯の火加減を見ながら、焼き上がったものを取り出して、次の生地を入れていくの。慣れていないと難しいけれど、長く使っている人たちは上手なのよ」
ルシルは興味深そうに耳を傾けた。
「同じ窯を使っても、家によってパンの味は違うんですか?」
「ええ、少しずつ違うわよ。粉の配合や生地のこね方、発酵させる時間なんかも家によって違うからね。今日のパンは、隣の家のものだけれど、別の日にはもっと硬いパンを焼く家もあるわ」
モモは感心したように頷いた。
「同じ窯でも、いろんなパンができるんだ……。なんだか面白いですね!」
シモンはその説明を聞きながら、静かに口を開いた。
「共同の設備を使う場合、火の管理も大切でしょうね。窯の温度が安定していなければ、焼き上がりにも影響が出るはずです」
マリナは頷いた。
「そうなのよ。だから、窯を使う日は朝から準備することも多いわ。薪の状態を見たり、窯の中を掃除したりね。焼く時間だけじゃなく、その前後にも仕事があるの」
ルシルはパンを見つめた。
今、自分たちが何気なく食べているものにも、多くの人の手間がかかっている。
粉を用意し、生地をこね、窯を温め、焼き上がりを見守る。
その一つひとつが積み重なって、ようやくこの温かなパンになるのだ。
(王城にいた頃は、食卓に料理が並ぶことを当たり前だと思っていた。でも、こうして話を聞くと、当たり前なんてことは何もないんだな)
ルシルは静かにパンを口へ運んだ。
味そのものは先ほどと変わらない。
けれど、作ってくれた人々の姿を想像すると、不思議と一口がより大切に感じられた。
「……マリナさん、もしよければ、パンを焼いてくださった方にもお礼を伝えていただけますか?」
ルシルがそう言うと、マリナは少し驚いた表情を浮かべた。
「もちろんよ。でも、どうして?」
「とてもおいしかったですし、こうして旅の途中で温かいものを食べられるのが、本当にありがたくて。僕たちが直接お会いできなくても、感謝していることだけは伝えたいんです」
マリナはしばらくルシルを見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「……分かったわ。きっと喜ぶと思う。あの人たちも、自分たちのパンをそんなふうに食べてもらえたら嬉しいでしょうから」
モモも大きく頷いた。
「わたしからも、ありがとうございましたって伝えてください!」
シモンも丁寧に頭を下げた。
「私からもお願いいたします。大変おいしくいただいております」
マリナは嬉しそうに笑った。
「ええ、ちゃんと伝えておくわね」
その言葉を聞き、三人は再び夕食へ向き合った。
窓の外では、夕日が屋根の向こうへ沈みかけている。
部屋の中には温かな料理の香りが残り、木製の食器が触れ合う小さな音が響いていた。
旅先で過ごす夕食は、決して豪華ではない。
けれど、三人にとっては、忘れたくない時間になりつつあった。
◇
食事を終えたあと、ルシルたちはマリナと一緒に食器を片づけた。
マリナは最初、客に手伝わせるわけにはいかないと遠慮していたが、モモが「できることは一緒にやりたいです!」と笑顔で言うと、最後には簡単な作業だけ任せてくれた。
ルシルは食器を運び、モモは机を拭き、シモンは使った椅子を整えた。
それぞれの作業はほんの短い時間で終わったが、マリナは三人へ何度も礼を述べた。
「本当に助かったわ。ありがとうね」
モモは嬉しそうに笑った。
「こちらこそ、ごちそうさまでした! すっごくおいしかったです!」
ルシルも頷いた。
「温かい夕食をいただけて、今日は本当に助かりました」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。明日の朝食も必要なら用意できるけれど、どうする?」
その問いに、ルシルはシモンと顔を見合わせた。
明日の出発時刻はまだ決めていない。
ハルミナでどれくらい休むかについても、夕食後に相談するつもりだった。
「ありがとうございます。少し相談してから、お返事してもいいですか?」
「もちろんよ。今夜のうちに教えてもらえれば大丈夫だから」
マリナはそう答え、三人を廊下まで見送った。
部屋へ戻る途中、モモは満足そうにお腹へ手を当てた。
「はあ……。おいしかったあ。焼きたてパンも、野菜の煮込みも、どっちも最高だったね」
ルシルは笑いながら頷いた。
「うん。特にパンは、あの香りがよかったね」
「そうなの! わたし、旅帳面にパンの絵も描きたいなあ。でも、もう食べちゃったから、ちゃんと形を覚えてるかな?」
シモンは少し考えた。
「完全に同じ形を描く必要はないと思いますよ。印象に残ったところを記録するのであれば、丸い形と焼き色、それから香りについて言葉で書き添えておくのもよいでしょう」
モモは目を輝かせた。
「そっか! 匂いは絵に描けないけど、言葉なら残せるもんね!」
ルシルも感心したように頷いた。
「いいね。あとで見返したとき、どんな匂いだったか思い出せそうだ」
モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、忘れないうちに書いておこう!」
三人は部屋へ戻り、窓辺の机を囲んだ。
外はすっかり夕暮れの色に染まり、遠くの家々では小さな灯りがともり始めている。
モモは旅帳面を開き、今日描いた井戸の絵の隣へ、小さな丸いパンを描き始めた。
ルシルはその様子を眺めながら、椅子へ腰を下ろした。
シモンは机の端に置いた旅の記録を手元へ引き寄せ、必要な確認を始めている。
しばらくは、筆記具が紙を擦る音だけが静かに響いていた。
やがてルシルが口を開いた。
「ねえ、二人とも。明日はどうしようか」
モモは顔を上げた。
「明日?」
「うん。ハルミナには今日着いたばかりだし、せっかく泊まれる場所もあるから、すぐに出発するかどうかは相談して決めたいなって」
シモンは記録から顔を上げた。
「そうですね。水の補給はできましたが、次の目的地までの距離や道の状態については、まだ十分な情報がありません。出発前に確認できることは確認しておいた方がよいでしょう」
モモは少し考えた。
「じゃあ、明日の朝にバルドさんへ聞いてみる? 今日もいろいろ教えてくれたし、道のことも知ってそうだよね」
「うん。それもいいと思う。ただ、バルドさんがお仕事をしているなら、邪魔にならないようにしたいね」
ルシルがそう答えると、シモンも頷いた。
「ええ。必要なことを簡潔に伺う程度なら、問題ないかもしれません。もちろん、分からないことは分からないままにしておく必要がありますが」
モモは頷いた。
「うん! でも、もし明日もここに泊まれるなら、もう少し集落を見てみたいな。今日、井戸と休み家の周りしか見てないし、畑の方も気になるんだ」
ルシルはその言葉を聞き、少し考えた。
確かに、ハルミナへ到着してから、まだそれほど時間は経っていない。
共同井戸で水を補給し、休み家を見つけ、夕食をいただいた。
それだけでも十分に充実した一日だったが、集落の暮らしについて知りたいことはまだ多い。
「僕も、もう少し見てみたいな。もちろん、畑に勝手に入るわけにはいかないけど、道から見える景色だけでも楽しそうだよね」
モモは嬉しそうに頷いた。
「そうそう! それに、今日のパンを焼いた人にも、もし会えたら直接お礼を言いたいな」
シモンは二人の様子を見ながら、穏やかに微笑んだ。
「それでしたら、明日は出発を急がず、午前中に必要な情報を集めてから判断するのもよいかもしれません。馬たちの休息にもなりますし、旅の予定に無理が生じるわけでもありませんから」
ルシルは頷いた。
「うん。じゃあ、明日の朝は慌てずに起きて、朝食をいただいてから考えようか」
モモは嬉しそうに笑った。
「賛成!」
シモンも頷いた。
「私も異存ありません。では、マリナさんへ朝食をお願いしておきましょう」
ルシルは立ち上がり、部屋の扉へ向かった。
「じゃあ、僕が伝えてくるよ。二人は休んでて」
モモは手を振った。
「お願いしまーす!」
ルシルは笑顔で頷き、廊下へ出た。
◇
廊下の灯りは、夕食前よりも少し暗くなっていた。
壁に取り付けられた小さな灯りが床を柔らかく照らし、建物全体には夜の静けさが広がり始めている。
ルシルは足音を立てすぎないように歩き、受付のある部屋へ向かった。
マリナは机の上で帳面を整理していたが、ルシルの姿に気づくと顔を上げた。
「あら、どうしたの?」
「すみません。明日の朝食を、三人分お願いしたいと思って」
マリナは微笑んだ。
「分かったわ。朝は簡単なものになるけれど、それでよければ用意するわね」
「ありがとうございます。それと、明日の予定はまだ決めていないんですが、もしもう一晩泊まりたくなった場合、部屋は空いていますか?」
マリナは少し考え、帳面へ目を向けた。
「今のところ、明日の予約は入っていないわ。ただ、急に旅人が来ることもあるから、確実とは言えないけれどね」
「そうですよね。分かりました。もし泊まることになったら、早めに相談します」
「ええ。それで大丈夫よ」
マリナは頷き、それから少しだけ声を和らげた。
「……それにしても、あなたたちは本当に楽しそうに旅をしているのね」
ルシルは少し驚いて顔を上げた。
「そう見えますか?」
「ええ。夕食のときも、三人でよく笑っていたでしょう? 長旅をしている人の中には、疲れて言葉も少なくなってしまう人もいるからね」
マリナは穏やかに微笑んだ。
「もちろん、疲れているのが悪いわけじゃないのよ。ただ、あなたたちは大変な道を進んできたはずなのに、食事の時間を本当に楽しんでいたから、少し印象に残ったの」
ルシルはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
確かに、旅は楽しいことばかりではない。
道が悪い日もある。
天候を気にしなければならない日もある。
水や食料の残量を確認し、馬たちの体調に注意しながら進む必要もある。
それでも、ルシルは今の旅を心から楽しんでいた。
「……大変なこともあります。でも、モモとシモンが一緒にいてくれるので、毎日が楽しいんです」
ルシルは少し照れくさそうに笑った。
「一人だったら気づかなかったことも、二人と一緒なら見つけられる気がして。今日のパンだって、モモが匂いに気づいてくれなかったら、あんなに楽しみにできなかったかもしれません」
マリナは静かに頷いた。
「そう。いい仲間なのね」
「はい。僕にとって、とても大切な二人です」
その言葉は、自然と口から出ていた。
ルシル自身、特別なことを言ったつもりはなかった。
けれど、マリナは少しだけ目を細め、柔らかく微笑んだ。
「それなら、これからも大切にしなさいね。旅先で出会う景色も素敵だけれど、一緒に見てくれる人がいることは、もっと素敵なことだから」
ルシルはその言葉を胸に受け止めた。
「……はい。ありがとうございます」
マリナは頷き、再び帳面へ目を落とした。
「さあ、もう夜になるわ。明日はゆっくり朝食を食べて、元気に一日を始めてちょうだい」
「はい。おやすみなさい、マリナさん」
「おやすみなさい」
ルシルは丁寧に頭を下げ、部屋へ戻った。
◇
部屋へ戻ると、モモはまだ旅帳面へ何かを書き込んでいた。
シモンは椅子に腰を下ろし、窓の外を眺めている。
ルシルが扉を閉めると、モモが顔を上げた。
「お帰り、ルシル君! 朝ご飯、お願いできた?」
「うん。三人分、用意してもらえることになったよ」
「やったあ!」
モモは嬉しそうに笑った。
シモンも頷いた。
「ありがとうございます。では、明日は朝食をいただいてから、今後の道について相談しましょう」
「そうだね。それと、もう一晩泊まれるかもしれないって。まだ決まってないけど、明日の予約は今のところないそうだよ」
モモは目を輝かせた。
「本当!? じゃあ、明日もハルミナを楽しめるかもしれないんだね!」
「うん。でも、まだ決めなくていいと思う。明日の朝になってから、三人で相談しよう」
モモは頷いた。
「分かった!」
ルシルは椅子へ腰を下ろし、モモの旅帳面へ目を向けた。
「ところで、何を書いてたの?」
モモは嬉しそうに帳面を持ち上げた。
「今日のパンのこと! 見て見て!」
開かれた頁には、小さな丸いパンが三つ描かれていた。
ひとつは表面に細かなひびがあり、もうひとつは少し平たい形をしている。三つ目は割った断面が描かれており、中の柔らかな生地を表現しようとした線が重ねられていた。
その横には、モモらしい丸みのある文字で、短い感想が書かれている。
『焼きたてのパンは、あったかくて、香ばしくて、幸せな匂いがした。野菜の煮込みにつけると、もっとおいしかった!』
ルシルは思わず笑顔になった。
「いいね。これを見たら、今日の夕食のことをすぐに思い出せそうだ」
モモは嬉しそうに頷いた。
「でしょ! それにね、パンの横に小さな湯気も描いてみたんだ。匂いは描けないけど、あったかかった感じは残したくて」
シモンも帳面へ目を向けた。
「なるほど。確かに、温かさが伝わってきますね。実際の形を細かく再現するだけでなく、そのとき感じたことを表すのも、絵の楽しさなのでしょう」
モモは少し照れくさそうに笑った。
「えへへ。そう言ってもらえると嬉しいな」
ルシルはその頁を眺めながら、ふと思った。
もし自分がこの旅の思い出を残すなら、どんな方法を選ぶだろう。
モモのように絵を描くのも素敵だ。
シモンのように、必要なことを正確に記録するのも大切だ。
けれど、自分には絵を描く技術も、細かな記録を続ける習慣もまだ十分にはない。
それでも、何かを残してみたいという気持ちはあった。
(……僕も、何か書いてみようかな。旅の途中で感じたことを、少しずつでも)
ルシルはその考えを胸に、モモへ声をかけた。
「ねえ、モモ。僕も、旅のことを何か書いてみようかな」
モモは驚いたように目を丸くした。
「えっ、ルシル君も旅帳面を作るの!?」
「うん。まだ決めたわけじゃないけど、今日みたいなことを忘れないように、少しずつ書いてみるのもいいかなって」
モモは嬉しそうに身を乗り出した。
「いいと思う! 絶対楽しいよ! ルシル君が何を見て、何を思ったのか、あとで読んでみたいな!」
ルシルは少し照れくさそうに笑った。
「そんなに立派なことは書けないと思うよ。でも、僕が見た景色と、モモが描いた景色が少し違っていたら、それも面白そうだね」
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「よい考えだと思います。旅の記録は、必ずしも同じ形式である必要はありません。ルシル様がご自身の言葉で残されるのであれば、それはモモ嬢の絵とも、私の記録とも違うものになるでしょう」
モモは嬉しそうに頷いた。
「そうそう! 三人で同じ場所を見ても、覚えてることってちょっとずつ違うもんね!」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「うん。じゃあ、今度、書くための帳面を探してみようかな」
モモは嬉しそうに笑った。
「楽しみが増えたね!」
ルシルも笑顔で頷いた。
その夜、彼がすぐに新しい帳面を手に入れるわけではない。
けれど、自分の旅を自分の言葉で残してみたいという小さな願いが、胸の中に生まれていた。
◇
夜が深まるにつれ、休み家の中は静かになっていった。
マリナが廊下の灯りを小さくしたらしく、扉の下から差し込む光も淡くなっている。窓の外では虫の声が聞こえ、時折、集落のどこかで戸を閉めるような音が響いた。
三人は寝る準備を整えた。
広い部屋には寝台が二つあり、予備の寝具も用意されている。
モモは窓際の寝台を使い、ルシルはもう一方の寝台を使うことになった。シモンは予備の寝具を選んだが、ルシルが何度か交代を申し出ると、困ったように笑った。
「ルシル様、お気遣いはありがたいのですが、私はこの寝具で十分です。床もきれいですし、長旅ではもっと簡素な場所で休むこともありましたから」
「でも、せっかく寝台があるんだし、僕が予備の寝具を使ってもいいんだよ?」
「それでしたら、明日の夜にまた同じ部屋を使うことになった際、改めて相談しましょう。今夜はこのままで問題ありません」
シモンの穏やかな返事に、ルシルは少し考えたあと頷いた。
「分かった。でも、無理はしないでね」
「承知しております」
モモは二人のやり取りを見ながら、くすりと笑った。
「なんだか、二人とも相手に寝台を譲ろうとしてるね」
ルシルは少し照れくさそうに笑った。
「だって、シモンにもちゃんと休んでほしいから」
「それは私も同じですよ、ルシル様」
シモンが穏やかに答えると、モモは嬉しそうに頷いた。
「うんうん! みんながちゃんと休めるのが一番だよね!」
三人は顔を見合わせ、自然と笑った。
やがて、部屋の灯りを小さくすると、窓の外の夜空が少しだけ見えやすくなった。
ハルミナの家々にはまだいくつか灯りがともっているが、草原の野営地とは違い、人の暮らしがすぐ近くにある。
ルシルは寝台へ腰を下ろし、窓の外を眺めた。
遠くには低い屋根が並び、その向こうには暗い草原が広がっているはずだった。
昼間に歩いた広場も、今は静かな夜の中に包まれている。
「……ねえ、二人とも」
ルシルが小さく声をかけると、モモが寝台の上で顔を向けた。
「なあに、ルシル君?」
「今日、ハルミナに来られてよかったね」
モモは柔らかく微笑んだ。
「うん。わたしもそう思う」
シモンも静かに頷いた。
「ええ。水を補給できたことも、休息場所を確保できたことも、大きな収穫でした。それに、集落の方々が親切に接してくださったことも、ありがたいことですね」
ルシルは頷いた。
「うん。バルドさんも、マリナさんも、みんな優しかった。僕たちは今日初めて来たのに、こんなに温かく迎えてもらえるなんて、思ってなかったよ」
モモは少し考えたあと、静かに口を開いた。
「……わたしね、旅を始めてから、知らない人に話しかけるのが前よりずっと楽しくなった気がするんだ」
ルシルは彼女へ目を向けた。
「そうなの?」
「うん。もちろん、誰にでもすぐ仲良くなれるわけじゃないし、気をつけなきゃいけないこともあると思う。でも、今日みたいに、知らない場所で親切にしてもらえると、もっといろんな人に会ってみたくなるの」
モモは窓の外へ視線を向けた。
「聖女って呼ばれてた頃は、わたしのことを最初から知ってる人が多かったでしょう? でも、今はそうじゃないから、普通に旅人として話せるんだよね。それが、なんだか嬉しいんだ」
その言葉を聞き、ルシルは静かに頷いた。
モモがどんな気持ちで聖女としての日々を過ごしていたのか、すべてを理解できるわけではない。
けれど、誰かに決められた立場から離れ、自分自身として人と出会う喜びなら、ルシルにも少し分かる気がした。
「……僕も同じかもしれない」
ルシルはゆっくりと言葉を選んだ。
「王子だった頃は、僕が誰なのかを知ってる人がほとんどだった。でも、今は違う。僕がどんな人間なのか、話してみないと分からない人たちばかりなんだ」
モモは静かに耳を傾けていた。
「最初は少し不思議だったけど、今はそれが楽しいよ。僕が何を言って、何をして、どんなふうに人と接するかで、少しずつ関係ができていくんだなって」
シモンはその言葉を聞き、静かに目を細めた。
王城にいた頃のルシルは、王子という立場ゆえに、多くの人から敬意を向けられていた。
しかし、その敬意が必ずしも彼自身へ向けられたものとは限らなかったことも、シモンは知っている。
今のルシルは、旅人として初めて会った人々へ礼を述べ、必要なことを尋ね、相手の話へ耳を傾けている。
その姿は、王子としての役割を離れたからこそ、より自然に見えることがあった。
「……ルシル様」
シモンが静かに声をかけると、ルシルは顔を向けた。
「うん?」
「私は、今の旅を続けられていることを、とても嬉しく思っております」
その言葉に、ルシルは少し驚いた表情を浮かべた。
シモンは穏やかに続けた。
「もちろん、道中には苦労もあります。危険を避けるために慎重な判断が必要なこともありますし、思いどおりに進めない日もあります。それでも、こうして皆さんと一緒に一日を終えられることは、私にとって大切な時間になっています」
ルシルはしばらくシモンを見つめていた。
それから、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「……ありがとう、シモン」
その声には、心からの感謝が込められていた。
「僕も、シモンが一緒に来てくれて本当によかったと思ってる。モモもね」
モモは嬉しそうに頷いた。
「もちろん! わたしも、二人と一緒でよかった!」
三人の間に、柔らかな沈黙が流れた。
窓の外では虫の声が続き、夜風が木々の葉を揺らしている。
誰かが無理に言葉を重ねる必要はなかった。
同じ場所で、同じ一日を過ごし、こうして穏やかな夜を迎えられたこと。
それだけで、十分だった。
◇
やがて、モモが小さなあくびをした。
本人は慌てて口元を押さえたが、ルシルにはしっかり見えていた。
「モモ、眠くなってきた?」
モモは少し恥ずかしそうに笑った。
「えへへ……。うん。おいしいご飯を食べて、いっぱいお話ししたら、なんだか眠くなっちゃった」
「それなら、今日はもう休もうか。明日は急いで出発するわけじゃないしね」
ルシルがそう言うと、シモンも頷いた。
「ええ。明日の予定は朝食後に相談すれば十分でしょう。今夜はしっかり休むことを優先しましょう」
モモは嬉しそうに頷き、寝具へ身体を横たえた。
窓際の寝台は柔らかすぎず、長旅で疲れた身体を静かに受け止めてくれる。
モモは掛け布を胸元まで引き上げると、満足そうに息を吐いた。
「……ふかふかだあ」
ルシルはその様子を見て、思わず笑った。
「よかったね」
「うん! でも、馬車の寝床も好きだからね!」
「分かってるよ」
ルシルが笑いながら答えると、モモも楽しそうに笑った。
シモンは灯りをさらに小さくし、部屋の中が暗くなりすぎない程度に調整した。
窓の外には星がいくつか見え始めている。
草原で見上げる夜空ほど広くはないが、家々の屋根の向こうに輝く星も、どこか温かく感じられた。
ルシルは寝台へ横になり、静かに目を閉じた。
今日一日の出来事が、ゆっくりと思い返される。
ハルミナへ続く道。
木柵と畑。
共同井戸で水を補給したときの安心感。
バルドの親切な言葉。
マリナが案内してくれた小さな部屋。
そして、焼きたてのパンと温かな煮込み。
どれも、特別に大きな事件ではない。
けれど、ルシルにとっては、旅を続けてきたからこそ出会えた大切な出来事だった。
(……明日も、こんなふうに楽しいことが見つかるといいな)
そう思いながら、ルシルは静かに息を吐いた。
隣の寝台では、モモがすでに眠りかけている。
シモンも寝具へ身体を横たえ、穏やかな表情で目を閉じていた。
部屋の中には、三人の静かな呼吸だけが残っている。
やがて、ルシルの意識も少しずつ眠りへ沈んでいった。
ハルミナの夜は、穏やかに更けていく。
小さな休み家の窓には、柔らかな月明かりが差し込んでいた。
その光の下で、王位を手放した元王子と、自由な旅を選んだ元聖女と、二人を支える賢者は、今日も無事に一日を終えた。
明日、どんな景色が待っているのかは、まだ誰にも分からない。
それでも、三人は急ぐことなく、自分たちの歩幅で旅を続けていく。
今夜はただ、ハルミナの静かな夜に身を委ねながら、温かな眠りの中でゆっくりと休んでいた。




